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わたしたちは、どこから来て、どこへゆくのか?
その問をつきつめてゆくと、 科学と霊性が融合し、 東と西も融合し、 個が全体を変えることが叶う。
わたしたちは、従来の精神医学や心理学で 体系化されてきた影(病)の部分だけでなく、 崇高なほどの光をもあわせもつ存在である。 わたしたちの完成形は、「トランス・パーソナル=超個人」 という状態であり、そのような超個人が増えることによって 社会も変化する。
それは、どのような存在なのか? 超個人となるには、どんな条件や訓練が必要なのか?
この新しい統合的な心理学が生まれ、洗練されたのは、 アメリカの西海岸。60年代のドラッグカルチャーとの関わりも深く、 今でもそれがマイナスイメージとなっているらしい。 本書の2/3は、この学説が生まれ、体系化されるまでの 心理学の流れを、先達を例にあげて紹介している。 第一世代のマズロー、フランクル、アサジョーリを経て、 第二・第三世代のウィルバー、グロフに至る道である。 トランスパーソナルというつながりを意識して 彼らのたどった道を読めたことは、 文字どおり、鼓動が早まる体験だった。
グロフ(著者によると、「チェコの森から出てきたクマさん」のような人)は、 当初、LSDによる臨床やセラピーを行っていたが、 やがて呼吸法によって同じ効果を得る方法を発見する。 本書後半では、グロフの方法による、カリフォルニアでの トランスパーソナル心理学セミナーの詳細な報告も 開示されている。 巻末には日本とトランスパーソナルをめぐる耳の痛い現状も。
人間が部分の寄せ集めではなく、 ましてや意識と無意識だけの存在でもないと、 これまでの経験から思っているという方にとっては、 必読の書といえるだろう。 (マーズ)
『トランスパーソナル心理学』 著者:岡野守也 / 出版社:青土社
この本は、とても可愛くて微笑ましい絵本です。
犬のリサがニューヨークのおじさんの所に遊びに行く。 おじさんと一緒に、ニューヨークの名所めぐり。 そのリサが一番行きたかった所が、 世界貿易センタービル。 おみやげを買っているうちに、 迷子になってしまい、リサの小さな冒険が始まる。
「リサ・シリーズ」として、 刊行されている絵本の中の一冊。 気取りのないラフな絵、大胆な色やタッチは 見ていて楽しい。
けれど。 今は、この本を開いた人はきっと、 せつなくなってしまうだろう。 無邪気なリサが一番行きたかった世界貿易センタービル。 迷子になりながらも、うきうきわくわくと、 家族へのおみやげを買ったり、 ビルの中で素敵なものを発見したり。
かつては、たくさんの幸せが。 たくさんの「リサ」たちのわくわくした思いが。 失われた命だけでなく、 その彼ら・彼女らを愛していた人の人生そのものが。 誰もが、おおよそ心ある人間なら誰もが、 信じられないと、 いまだに、起きたことが信じられないような、 昨年の9月11日の事件で、 すべてが奪い、もぎ取られてしまった。
この本を読んでいると、 その理不尽な現実をどうしても思い浮かべてしまうから、 この本、本来の温かさや優しさと悲しみが混ざり合い、 とてもせつなくて、ふさいでしまう。
この本を買ったのは、 世界貿易センタービルが失われてから。 失われた「現実」を忘れたくなくて、 小さなリサの夢と憧れがいっぱい詰まった 世界貿易センタービルが描かれている、 この本を選び、買いました。 過酷な現実からいえば、 「きれい」なセンチメンタリズムに 過ぎないかもしれないけれど。
私にとっては、ただの絵本ではなく、 20世紀を記した大切な一冊でもあるのです。(シィアル)
※リサとガスパールの本
リサとガスパールのであい
リサのおうち
リサのいもうと
リサとガスパールのはくぶつかん
ガスパールびょういんへいく
リサのこわいゆめ
おうちにあるものどんなもの(リサとガスパールのことばえほん )
のりもののりものどんなもの(リサとガスパールのことばえほん )
リサとガスパールのローラーブレード
リサニューヨークへいく
リサひこうきにのる
リサとガスパールのクリスマス
『リサ ニューヨークへ行く』著者:アン・グッドマン / 絵:ゲオルグ・ハレンスレーベン / 出版社:ブロンズ新社
2001年09月27日(木) 『ぬいぐるみの小さな小さなわんこたち・まめぐるみ』
2000年09月27日(水) 『私のスタイルを探して』
ファージョンの短編を集めた『ムギと王さま』に 収録されている短いお話。 そしてこれも、私をとりこにする 「おもちゃ文学」のひとつ。
『ムギと王さま』は夢図書本館にも収蔵されているが、 個別の作品については触れてないので、 やはり、おもちゃ(人形をも含めて)ものの 愛好者を自任する私としては、この作品を忘れるわけには いかないのだった…といいたいが、忘れていて、 『子どもの本の森へ』を読んでいて思い出した。
友達の女の子と別れ別れになるお人形は、 「サン・フェアリー・アン」 (フランス語のサ・ネ・フェ・リアン:それだけのこと! という意味から転じたイギリスの俗語) と呼ばれている。
ふしぎな、なつかしい美しさに満ちたことば。 魔法のつばさを持った、妖精のような。 おまじないのように、その名を呼びつづける女の子。 いつか、いつかきっと、その名がしあわせを 運んでくるのだから。
サン・フェアリー・アンは、 たったひとり、ずうっと眠っていた─暗い池のなかで。 陶器の顔を泥にうずめて、太陽を見ることもなく。 そう、『親子ネズミの冒険』(ラッセル・ホーバン)でも 映画『A・I』でも、 人形たちはそうして待ったのだ。 待つことにかけて、彼らの忍耐力は生まれつきである。
両親をなくしたみなしごのキャシーは、 ついに、母から受けついだ愛らしい人形を取り戻し、 その結果、さらに大切なものを得る。
みずから動くことのできない人形たちは、 ずっと家のなかにいても、人間たちに呼びかけているだろうか。 「わたしを忘れちゃったの?」と 首をかしげながら。 (マーズ)
『ムギと王さま』 著者:エリナー・ファージョン / 訳:石井桃子 / 出版社:岩波書店
2001年09月26日(水) 『星の海のミッキー』
2000年09月26日(火) 『柿の種』
詩人の長田弘さんと、臨床心理学者河合隼雄さんの 児童文学をめぐる対談集。
児童文学、絵本、子どもと大人をめぐる社会について、 ふたりの「ねっからの子どもの本好き」が語るのを 読んでいると、こちらも大きくうなずいたり、 そういうこともあるのだ、とうなったり。
この本のなかで、意識的にかどうかはわからないが、 ひとり宮澤賢治だけが「天才」と呼ばれている。 ことあるごとに言っているが、これまで読んだ日本語のなかで、 私が感性として「天才」を感じられるのは、彼ひとりである。
しかし、他の多くの文学者や詩人は、天才ではなくても、 幼いころから身に付けてきた独自の世界を見る眼を通じて、 私たちに、「ほんとうのこと」を教えてくれる。 枝の葉をゆするかすかな風のように、 私たちの存在を付け根から揺らせる力。
そういうものが、絵本や児童文学と呼ばれる 「小さなウソ」からもっとも遠い世界にはある。
長田さんのひらめくような思考には、 ときどきうっとりさせられた。 対談相手の河合さんにしても、そうだったのではないか。
もっとも、長田さんは本当に量を読んでいるのだが、 量からだけでは測れないエッセンスを、 ワンダーな視点でおしげなくさらしてくれる。 読みながら、「ああ、だから私たちは救われる」と、 網に残ったものが持つような安心感を覚えていた。
当然ながら本書は、読むことで人生が変わる 「とうてい忘れられない」名作の、わかりやすい 推薦書としても、貴重な対談である。 (マーズ)
『子どもの本の森へ』 著者:河合隼雄・長田弘 / 出版社:岩波書店
2001年09月25日(火) ☆古本を買う
2000年09月25日(月) 『小さな生活』
伝説的耽美派作家の館に集う五人の女達。 四年前の彼女の死は本当に自殺だったのか。 気のおけない女性達だけの親しい集まりは 各々が隠し持っていた秘密や疑惑をさらけ出す 緊迫した告発の場に変わってゆく。
恩田陸さん御得意の舞台劇的サスペンス、 全員が故人と遠縁であるか同居人であるのに よくある金銭等をめぐる愛憎劇とちょっと違うのは、 これまた全員がなんらかのモノ書きであるか編集者であり、 各々が書き手としての才能と読み手としての能力を備えた 自立した女性であるためです。
死してなお五人の女性を翻弄する華麗な大女流作家の存在感は、 恩田さんの軽やかなタッチではまだもうひとつ重みが出ませんが、 恩田さんがいつも夢見ている「いつか書かれる大きな物語」が ペンを手にした姿のようです。 大作家をそれぞれの思いで仰ぎ見る後輩達はみんな恩田さんの分身。 重苦しい告発の場で、あるいは酒のさかなに楽しげに、 各々「作家の業」を語ります。
緊張に満ちた場面とくだけて楽しい場面が交互にきて、 お茶やお酒のおともにおすすめの一冊。 でも夜更けに読むと恐ろしい事に。 おなかがすいて必ずなにか夜食を食べたくなる(怖)。
これはそのままで舞台劇になるよね、と思っていたら 芸達者の女優さん六人の映画がもうすぐ公開だそうです。 キャストに鈴木京香さんの名があるのを見て、 クールでゴージャスな静子さんにぴったり、と思ったものの、 歳が足りないし、原田美枝子さんがいるからこちらが静子さんか。 キャストのトップだから京香さんはナチュラルでシャープな絵里子さんかも。 華麗な大作家は浅丘ルリ子さんかな、なるほどー、などと キャストをあてはめるのも楽しいですが、 このメンバーならストーリーを知らないで 映画を先に見るのもいいかもしれない。 普段なら原作を先に読む事をお薦めするんですけどね。(ナルシア)
『木曜組曲』 著者:恩田陸 / 出版社:徳間文庫
2001年09月24日(月) 『ハロウィーンの魔法』
2000年09月24日(日) 『公主帰還』
サブタイトルは、「一児童図書館員のあゆんだ道」。 著者は、英国人のアイリーン・コルウェルさん。 ロンドンのユニバーシティ・カレッジに初めてできた 2年間の図書館学を、奨学金を得て学んだ。 卒業後は、曲折を経て、 ロンドン北部のヘンドン図書館に 児童図書館を新設するという大任を果たし、 その分野の草分けとなった人である。
この翻訳を手がけている石井桃子さんとの 交流もあるそうだ。 それにしても、他の世界でもそうだけれど、 児童図書館の世界でも、本書の内容はいまだに新鮮に読める。 といって、私は図書館員でもなんでもないが。
コルウェルさん(載っている写真を見ると、どうしても 知人のように「さん」づけで呼んでしまいたくなる)は、 子どものころから、本を読むことと、子どもと遊ぶのが 好きだったから、その両方ができる仕事をしたいと、 ずっと願っていたのだという。
そういう発想は、単純なようで複雑な選択だ。 好きなものひとつだけなら、作家になろうと思うかもしれないし、 保母さんや小学校の先生になったかもしれない。 でも、両方を兼ね備えた仕事となると、 まだ他の人がほとんど手をつけていないけれど、 子どもたちにとって必要不可欠な仕事となるのだから。
彼女は、今は日本でもかなり盛んになっている 児童図書館でのストーリー・テリングを広めることに 熱意をもって取り組んだ。 本書のなかでもこころ構えや技術的なことに言及している。 そして、それまで島のように孤立していた 世界中の児童図書館の職員どうしの交流も進めた功績は大きい。
これもまた偶然というか’計らい’なのだけれど、 彼女はこうも言っている。 語り聞かせるお話を覚えるときは、一言一句を覚えて再現する 必要は普通ないのだが、
「くり返しのあるお話、また特に書き方に特長のあるお話 ──イギリスの場合では、『キップリングのなぜなぜ物語』とか、 ルーマー・ゴッデンの『ねずみ女房』など──は、その ことばどおりおぼえなければなりません。」(本文より引用)と。
(※『ねずみ女房』はつい最近とりあげた本である)
それにしても、同じ国・同じ時代とはいえ、 エリナー・ファージョンの前で、 その作品を読み聞かせ、どこをどうけずったか わからないと作家に感嘆されるとは。 本文のなかでは終始謙虚で、背の低いことにコンプレックスさえ 感じているらしい彼女の底力が、 そういう場面からも涌き出ている。 シェイクスピアが今生きていれば、同じことを コルウェルさんはやってのけただろう。 ただし、一言もけずらずに。 (マーズ)
『子どもと本の世界に生きて』 著者:/ E・コルウェル / 訳:石井桃子 / 出版社:こぐま社
2001年09月20日(木) 『魔女ジェニファとわたし』
2000年09月20日(水) 『「我輩は猫である」殺人事件』
灯火親しむ季節となりました。 みなさんのお宅の灯火はどんな具合でしょう? この頃はゆっくりくつろぐリビングルームなどでは 天井から部屋中を隈無く照らす白い光の蛍光灯よりも、 部屋の低い位置に置いたオレンジ色の光の白熱灯や 柔らかい間接照明が主流になってきていますね。 ゆらゆら揺れるキャンドルの炎もお忘れなく。
日本文化は光の生み出す陰影の中に美の本質がある。 西洋文明の利便性に圧倒されないがしろにされつつある 日本の生活の美を鋭いセンスで見い出した『陰翳礼讃』は、 日本建築や和風インテリアが再評価され人気になってる昨今 インテリアデザイナー達の必読図書の一つといえるでしょう。
煌々と頭上から照らすMホテルのロビーはNGで 間接照明のTホテルはまだまし、という感想や、 和室に調和するデザインの電燈や暖房器具探しに 苦心しているくだりなど今どきのインテリア本みたいですが、 文豪谷崎潤一郎先生による昭和10年のエッセイです。
日本美の本質の追求なんて言うと 近代文明批判のように思われるかもしれませんが、 都会っ子で耽美趣味の先生は便利で快適な文明生活を 昔の不便に戻す気なんかは全然ありません。 西洋と東洋の美の発展の仕方の違いを分かった上で、 無理なく心地よい、美しい、と感じる生活を探すべし。
漆器は暗い部屋で見てこそ美しいというくだりには はったと膝を打ってしまいました。 そうか、私は蒔絵がどうもけばけばしくて苦手で、 気に入った漆器がなかなかないな、と探し回っていたのですが、 いくら高価な漆器でもデパートの蛍光灯の下じゃ美しく感じないわけだ。 あれは闇の中で仄かな灯を受けて、闇に溶けた漆の地肌に金蒔絵が 時折ぴかりぴかりと光るところに美を見い出すのですね。 こんど実家の納戸の薄暗い中で蒔絵の塗り物を見てきます (で、気に入ったらふんだくってくる)。
日本の陰翳が培った、闇の中でこそ美しい建築、調度、食物に女人。 厚い闇の帳に覆われた平安の女性は、美しい衣服と 手や項の白さ以外は目に見えないから、中身は問われません。 個性はなくとも「女」という共通イメージ相手に充分恋はできる。 そんなもんか?と現代人は疑問に思うのですが、 日が違っても「月」という共通の美的イメージがあるのと 同じようなもの、といわれるとなんとなく納得。
もちろん現代人の谷崎先生には衣服の中身が重要なので、 明るい光に照らされて美しい西洋美人の体型を羨んでます。 和洋の混じり具合では昭和初期の都会とそれほどの差を感じない、 というよりは当時の雰囲気あるモダン生活を 目指しているとも言える今の私達の生活ですが、 80年の間には当時と較べてちょっと進化した部分もある。 たとえば、谷崎先生にノリカちゃんをお目にかけたかった(笑)。(ナルシア)
『陰翳礼讃』 著者:谷崎潤一郎 / 出版社:中公文庫
2001年09月19日(水) 『散りしかたみに』
2000年09月19日(火) 『薔薇のほお』
先日買ったan・an(No.1330)の特集が「誰でもできる簡単手作りBOOK」でした。
「簡単手作りBOOK」といっても、an・anなので、手作りを楽しむための ミニカタログという感じ。ごくごく簡単に、手作りを楽しむためのヒントが ちりばめられています。
実践的とはいえないけれど、眺めているだけで楽しい。 カタログ的なので、そんなに簡単にできるかどうか、 あるいはうまくいくのかどうか、わかりませんが、 結構な数の作り方やレシピが載っています。 目につくおもしろいものをあげてみると。
緑茶とリンゴの化粧水
バスソルト
ナッツのハチミツ漬け
さぬき風手打ちうどん
手作り本
ざる豆腐
いわしのみりん干し
オリジナルチャーム
ブリキのオブジェ e.t.c.
ふと、懐かしくなって書棚の奥から中学生の頃に買った 手作りを楽しむ本をあれこれ引っ張り出してみました。 手作りのぬくもりや雑貨を好きになるきっかけ、一番の原点になった本が、 『ロマンチック・ライフをつくる。』(著・佐藤憲吉)でした。
佐藤憲吉さん。 それは、故ペーター佐藤さんの本。 とにかく古い本であり、ペーター 佐藤さん自身30歳ちょっと、若い頃に書き下ろした本なので、 今読むと笑ってしまうようなアイデアもあります。 けれど、実用一点張りでない、ペーター佐藤さんの夢溢れるアイデアは、 今でも生き生きとしています。 毎日を楽しむためのおしゃれのアイデア、暮らしの工夫に ペーター佐藤さんのファンタジックなイラストがたくさん添えられています。
大学生の頃に買った『季節の手作りノート』(著・桐原春子)は 地に足のついた、美しい暮らしのための本です。 四季それぞれの自然を楽しみ、さらに季節の美しさを 手作りの品々に生かしています。 私たちを取り囲む身近な自然からの贈り物がいっぱいの本です。
『玲子さんのアイデアマーケット』(著・西村玲子)は、 『ロマンチック・ライフ』と『季節の手作りノート』の中間のような本。 夢と実用性のバランスがいい感じ。 やってみようと思えば、やれそうなんだけど、読んでいるだけで ハッピーという感じの本です。
今、暮らしを楽しむ本、家事や家計を工夫する本、 収納・整理術の本などがたくさん出ていますが、 その先駆けのような本でもあります。 雑貨を楽しみながら、片づけを工夫する。 シンプルな贅沢のススメ。
手作りを楽しむというのは、自分の暮らしに手を入れること。 手芸を楽しむとか、料理を楽しむというだけでなく、 結局は、忙しさに流される毎日の中で、立ち止まり、 自分の暮らしを自分の手に取り戻す、その第一歩なのだと思います。
毎日の生活に愛情をもつこと。
当たり前のことだけれど、すぐに忘れてしまいます。 これらの本は、自分の暮らしを 楽しむためのきっかけとなる本なのです。(シィアル)
an・an / 誰でもできる簡単手作りBOOK(No.1330)
『ロマンチック・ライフをつくる。』 著者:佐藤憲吉 / 出版社:主婦と生活社
『季節の手作りノート』 著者:桐原春子 / 出版社:じゃこめてい出版
『玲子さんのアイデアマーケット』 著者:西村玲子 / 出版社:立風書房
2001年09月18日(火) 『メイおばちゃんの庭』
2000年09月18日(月) 『お風呂の愉しみ』
仲間のねずみたちと一見同じでありながら、 どこか根本的にちがっているねずみの奥さんが主人公。 毎日、他のねずみと同じように暮らしているのに、 彼女の内側には秘密があるのだ。
囚われの鳩にすら、とどかない高さに、 この小さなねずみの魂は、飛翔できた。
たとえ見てしまっても到底わからない世界、 普通では見ることも知ることもできない世界を、 ふと、かすかに感じとる感性。
そういうものをもって生きるということは、 幸せでもあり、厄介のタネでもあり。 ゴッデンも、その、時に重くなったり羽根が生えたりする 荷物を背負っていたのだろう。
ねずみを通して人間を描いたゴッデンの寓話は、 そこはかとなく胸にしみてゆく。 ちいさなネズミでなくても、 人の子であってすらも、星は遠く、理解を超えたもの。 私たちに世界のなにがわかっているだろう。 毎日、食べて眠ることだけでも大変なのに。 本を読む時間がじゅうぶんにあったとしても、 永遠をかいま見る瞬間が時折にあったとしても、 その、属する世界に私たちは暮らすのだ。
淡々と語られる物語の終わりに、 やっと現れる永遠の輪。 今そこにあるもの、与えられたものの大切さを、 人よりすぐれた感受性よりも愛おしむ よろこびが、満たされない思いを埋めてゆく。 (マーズ)
『ねずみ女房』 著者:ルーマー・ゴッデン / 絵:W・P・デュボア / 訳:石井桃子 / 出版社:福音館
2001年09月17日(月) 『イラストレイテッド・ファンタジー・ブック・ガイド』
2000年09月17日(日) 『警告』
先日『竜馬がゆく』に書かれていなかった部分や 続きのような部分が『燃えよ剣』に出て来ているのを発見、 と書きましたが、『燃えよ剣』の最終部分にさしかかると、 こちらにも書かれていない部分がある事に気がつきました。
重い話を明るく彩ってくれた朗らかな青年剣士、 沖田総司が短い生を終える場面で、 「あんな事があったなあ、こんな事もあったなあ」と回想するのですが、 ちょ、ちょっとまて総司。 「こんな事」って、この小説の中には出てこなかったよ。 それも有名な史実などではなくて、総司個人の小さなエピソードらしい。 司馬先生、その話また「別の本」に書いたんですね。
これはどこにあるかすぐ察しがつきます、 長編『燃えよ剣』連載直前に雑誌に掲載していた短編集、 『新選組血風録』の中にあるのでしょうきっと。
『新選組血風録』は、京都の治安維持部隊として その激烈さを怖れられた新選組最盛期に起きた 数々の事件が取りあげられています。
それにしても、こういった戦闘集団の物語では 「敵」と戦った事件が語られるのが普通なのに、 「血風録」の事件はその殆どが「隊士」が「隊士」を斬る、 いわば隊内粛正の物語ばかり。 どうにも尋常の世界ではない。
外側の世界秩序が崩壊しつつある時代、 閉ざされた集団内の特殊ルールに従って命のやりとりをする 何れもそれぞれにやむなき理由を抱えた男達の死闘が続きます。
しかしながら毎回主人公と視点の変わる『新選組血風録』は 陰鬱な土方の視点を通して滅びへまっしぐらに突き進む 長編『燃えよ剣』に較べて、悲壮感はそれほど強くありません。 新選組的には「華」の時代ですからね。 互いの「理」を理解して「情」を抑え、 「うーん、まあ、しょうがないですね」と刀を抜き合う。 哀れながらもそこはかとないおかしみと美学がある。
司馬遼太郎というビッグ・ネームは後の壮大な歴史長編で見せる 個人の動きを高みから俯瞰して時代を見通す優れた洞察から、 「司馬史観」と呼ばれる歴史観ばかりが高く評価されますが、 こういった初期短編を読むと別の意味であらためて舌を巻いてしまいます。 今さらなんですが司馬さん。歴史は別にしたってすっごく小説が上手い。
元になる歴史的事件があるならば、誰が書いても 同じような話になるような気がするでしょう。 そこが筆力。それともやっぱり視点かな。 同じ事件を他の作家が書いても、こうはなかなか。 もっともこれは、情緒過多な表現が苦手な私の好みで、 もっと気分を出して引っ張って盛り上げて欲しい、という 情の濃い読者には別の作家の作風が合うのでしょうけれど。
毎回由あって斬られる男は違いますが(あたりまえだ)、 新選組首脳陣、鷹揚な隊長近藤勇、実質的マネージャーの副長土方歳三、 天使のように明るい沖田総司のキャラクターは それぞれ『燃えよ剣』にそのまま引き継がれています。 このおおらかなトップと合理的なサブ、の図はどこかで見たなと思っていたら ある話に一瞬「薩摩」が出てきて解けました。 スケールが段違いで、ほんのはしっこが見えただけで圧倒されますが、 人柄の西郷と頭脳の大久保、このコンビの図式ですね。 と言ったら、知人が「組織の理想はやっぱりそうでしょう」と言い出しました。
要するにそこの職場のトップが大久保・土方タイプで、 本人は優秀なんだけどあまりに細かくて陰湿で、下がやりきれないらしい。 包容力のあるボスが別に上にいれば今のトップも どんなにか力が発揮できるだろうに、当人も気の毒にという事。 「そうそう人材はいませんからねー」 「だから先を見越して、ボスの器と見た友人を がっちり確保しておいた大久保、土方はやっぱり頭がいい」
飲み屋でのおじさんの愚痴みたいになってきました。 それはそうと『新選組血風録』の中の一編が 昨年映画化(『御法度』監督:大島渚)されて、 謹厳な隊内部に動揺を引き起こす凄絶な美貌の剣士を 故・松田優作氏の忘れ形見が演じて評判になったのではなかったかな。 しかし千差万別の「斬られる理由」の中でこれだけ取り出すと、 印象がまるで違っているでしょうねえ。(ナルシア)
『新選組血風録』 著者:司馬遼太郎 / 出版社:角川文庫
もしこの短編集を10年前に読んでいたら、 きっと、一番ひかれたのは「雪むすめ」だろう。 幼い兄弟が雪の日につくった雪人形が、 北風によって命を得、北の白い宮殿の王女となる。 でも、自分を創ってくれた少年が忘れられなくて・・・
今、私がひかれるのは、 「鋳かけ屋の宝もの」や「幻のスパイス売り」である。 正直者は報われる、とでも言えばいいのか、 日々のまじめな労働が報われるお話。
スパイス売りのおばあさんの歌声は、 どこからただよってくるのだろう。
ナツメグに シナモン
ジンジャーに キャラウェイ
インディーズ諸国の スパイス
さあ 買いにおいで
作者のアトリーが、心にためこんで大切に慈しんで きたであろう英国やスコットランド、アイルランドの昔話が、 こんなふうに熟されて、オリジナルのお酒になる。 誰でも飲めて、誰でも楽しめるけれど、 同じ命をもったお話は、異文化の私たちには創れない。
そして、こういう物語を読むときの楽しみが、 訳注としてまとめられた巻末の付録である。 それが豊かであるほど、 異なる文化の宝を味わう楽しみもまた深まるように 思えるのだ。 読み流していたら気づかないような、言葉の裏にあるもの。 そのためには、翻訳者の奔走もまた必要なのだけれど。 (マーズ)
『西風のくれた鍵』 著者:アリソン・アトリー / 訳:石井桃子・中川季枝子 / 出版社:岩波少年文庫
「マッチは、マッチはいかがです?」 あわれっぽく物乞いのマネをする点子ちゃんは、 ベルリンに住む上流階級の「社長」の一人娘。
ケストナーの主人公エーミールと並んで有名な 点子ちゃん。この不思議な名前、ずっと気になっていた。 小学校のころ、エーミールは読んでいるけれど、 内容はすっかり忘れている。 点子ちゃんの方は、たぶん初めて。
ドイツ語の「点」という意味を女の子風にもじった名前なので、 「点子ちゃん」という訳は、ある意味とても正しい。 これは、生まれてからしばらく、とっても小さかったから ついたあだなで、本名はルイーゼというお嬢様風の名前だ。 そもそも、ケストナーの登場人物は、名を体で表す あだなのような名前が多いらしい。 まあ、この本を読む子どもたちにとっては、 ドイツの街に日本語みたいなの名前の子がいたって、 どうってことはないだろう。
いそがしい父母から養育係にまかされている点子ちゃんが 友達に選んだ子は、貧乏だけど母親思いの少年、アントン。 犬のピーフケ(これも面白い名前)と一緒に、 あやうい冒険の網をかいくぐりながら流されてゆく点子ちゃん。 話をすればとっても知恵がまわって、 ユニークで面白い点子ちゃんだけど、 大人の世界の裏表は、さすがにちょっと読みきれない。 深いところへ流されても、足がとどかないことに気づかない。 でも、病気のお母さんを抱えて苦労をしているアントン少年には、 そこらへんが見えてしまう。 だからこそ友達なんだろう。
アントン少年が点子ちゃんの前で、簡単な料理をする場面がある。 お手伝いさんのいる点子ちゃんは料理をしたことがないので、 なにがどうなっているか、さっぱりわからない。 でも、アントンは淡々と料理しながら、ちょっとしたコツを 点子ちゃんにも教えてあげる。
この場面を読んでいると、小学校のころのことを思い出す。 近所の幼なじみの女の子が、学校から帰って、 にわとりのエサをつくっているのを見たときのこと。 私はぜんぜん包丁がにぎれないのに、その子は、 ざくざくっと、菜切り包丁で菜っ葉を切って、 穀類とまぜ、手際よく緑色のエサをつくった。 それは彼女の仕事で、そういうお手伝いをもらってなかった私は、 かなりうらやましくなったのだった。
アントン少年には、ケストナー自身の幼い日々が 映し出されているようである。解説にもそう書かれているが、 この細やかな描写は、実際に体験したことがある世界からの 声を思わされる。
章のあいまには、ケストナー自身の言葉、 「立ち止まって考えたこと」が挿入されている。 あれこれと教育的な内容だけど、 ナチスが台頭していた時世を思えばやむないことで、 それだけ押し迫った思いがあったのだろう。 (マーズ)
『点子ちゃんとアントン』 著者:エーリヒ・ケストナー / 訳:池田香代子 / 出版社:岩波少年文庫
先日、旅先のホテルのベッドに寝転がって TVドラマ『明智小五郎 対 怪人二十面相』を見ました。 舞台となるお屋敷のセットがどれもなかなか豪奢で、 「気合い入ってるなT◯S!」と嬉しくなってしまいました。
放映前から評判になっていたキャスティングは、 どうしたって明智先生というより当り役の名探偵、 古畑さんにしか見えない田村正和氏はまあしかたがありませんが、 多くの人が意外と言った怪人二十面相役のビートたけし氏は 私は結構いけるのではないかと思っていたのでした。 だって、『怪人二十面相』のモデルって かなり『オペラ座の怪人』入っているでしょ。
江戸川乱歩の『少年探偵団』シリーズの敵役、 貴重な美術品や宝石ばかりを狙い、大胆不敵にも犯行予告をして 厳重な警備の中でも易々と獲物を盗み取る『怪人二十面相』は モーリス・ルブランの生み出した『怪盗ルパン』が モデルとなっているのは言うまでもありません。 というか、ルパンの物語を日本の少年向けに 翻案したのが怪人二十面相とも言えますね。
けれど美術品と美女に彩られ颯爽とした紳士ルパンと違って、 「怪人」二十面相は「怪盗」ではなく「怪人」と呼ばれます。 おどろおどろしい怪奇事件を見せつけて 人々を脅かして楽しむ二十面相は怪盗というよりも、 天才的な建築技術を駆使して人々を恐ろしいイリュージョンに巻き込む オペラ座の「怪人」の後継者なのです。 (それはそうと二十面相のイリュージョンって凄いんですよ、 銀座の空にUFOを飛ばして宇宙人来襲を信じさせたり、 自由自在に姿を現せる金属性のロボットが宝石を盗んだりとか、 小学生の私でも騙される訳なかろうと呆れた怪事件も数々)
『オペラ座の怪人』を自作でニューヨークに甦らせた フレデリック・フォーサイス (『マンハッタンの怪人』・10月に文庫化するそうです)に、 「ルルーの語る後半の荒唐無稽な部分は、唐突に登場する 『ペルシャ人』の作り話だ」と切って捨てられ、 ミュージカルで大幅にカットされた『オペラ座の怪人』 後半活劇部分は、確かに今日見ればなんとも大時代的です。 いきなり現れる探偵「ペルシャ人」と共に怪人の支配する オペラ座の地下世界に向かった青年貴族ラウルは、 拷問部屋に囚われ恐ろしく幻想的な仕掛けに苦しめられます。 しかしこの部分こそ、海外ミステリの紹介に粉骨砕身した乱歩が 昭和の東京に再現したかった部分だったのではないでしょうか。
今回のTVドラマ製作スタッフも、二十面相にルパンではなく オペラ座の怪人の面影を見たのでしょう。 ドラマでは「二十面相は人を傷つけない」という原作の 怪盗ルパン譲りのルールは無視されて、探偵の命を狙う展開となります。 そしてドラマの後半、二十面相のアジトにのりこんだ明智探偵は ペルシャ人さながらに「恐ろしい仕掛けの地下の拷問部屋」に 閉じ込められます。
更に、少年向けの小説に乱歩が描かなかった 「明智探偵と二十面相の過去の因縁」と 「二十面相が別人の顔ばかりを持つ理由」を、 今回TVドラマのスタッフは考え出しました。 怪人の苦悩と悲哀に心動かされた美女(宮沢りえさん)が ラストで滅びゆく二十面相と共に行く決意をする、 おお、まさに怪人の最期。 ですから煌々たる月光を浴びて博物館の大屋根に立ち 黒いマントを翻す怪人二十面相は、 怪盗ルパン型美男ではなく、容姿からいえば冴えない中年男の オペラ座の怪人にイメージの近いビートたけし氏が はまり役だったと思うのでした。(ナルシア)
『怪人二十面相』 著者:江戸川乱歩 / 出版社:ポプラ社
『オペラ座の怪人』 著者:ガストン・ルルー / 出版社:創元推理文庫
『マンハッタンの怪人』 著者:フレデリック・フォーサイス / 出版社:角川書店
副題は、『小夜の物語』。 感受性ゆたかな女の子、小夜を主人公にした短編集。 家族は、山あいの村で宝温泉を営む おばあさんとお父さん。 お母さんは、小夜が生まれてすぐ家を出た。 温泉には、小さいけれど宿もあって、春と秋にはいそがしい。 きょうだいのいない小夜は、いつもひとりで遊んでいる。 そんな暮らしのなかで、小夜と 森に住む不思議の住人たちとの 季節感ゆたかな交歓が、 しっとりと、抑えた叙情の筆で描かれている。
図書館で借りた本で、 本のなかに、子どもの忘れ物があった。 小夜が風になって奇妙な赤い服の小びとに 出会うページには、 『おもしろくて楽しいところ』というフセン。 鬼の子と一緒に山道を歩くページでは、 『ふしぎ』というフセン。 きっと夏休みの読書感想文を書いていたのだろう。 小夜ちゃんみたいな女の子、だったのかな。
第一話の「花豆の煮えるまで」は、 雨に退屈した小夜が、おばあさんが手づくりしている 名物の花豆が煮えあがるまで、お話をせがむ物語。 小夜のお母さんとお父さんの出会いと別れが、 山の不思議な話となって語られる。
読みながら、私のなかにも、 ふっくらと花豆が煮あがっていくようで、 湯気とも霧ともつかない白い蒸気につつまれた 山あいの宝温泉での暮らしが、自分の過去にも あったような思いがするのだった。 (マーズ)
『花豆の煮えるまで』 著者:安房直子 / 絵:味戸ケイコ / 出版社:偕成社
昨日は、『模倣犯』から受けた負の衝撃に打ちのめされていた。 しかし、小説の中では、ただ主犯ピースに打ちのめされるだけでなく、 その底のない悪意と闘う人々が互いに手を取りながら 必死に立ち向かっている。
ピースに翻弄されながらも、 かつて愛した者のために、これからもずっと愛し続ける者のために。 そして、自分の信念、私たちの信ずる人間として大切なもののために、 どんなに深く傷つけられても、本当のことを知りたいと、 事件を明らかにしたいと、犯人と対決する。
悲しみに打ちひしがれながらも、その弱さの中から、力を振り絞る。 孫娘を殺され、犯人に弄ばれながらも立ち上がり、 決して、屈することのない有馬義男の姿には胸が打たれる。 事件の第一発見者であると同時に、 自身も残虐な殺人事件の被害者である塚田慎一。 一家殺害事件の唯一の生存者である。 ただ一人生き残ってしまった者としての苦しみを抱えながら、 彼もまたピースが書き続ける悪意の物語に巻き込まれていく。
読後の気持ちは、前回の日記のようにとても重かった。 有馬義男や塚田慎一、彼らを取り巻く周囲の人々。 迷いとまどいながらも、闘い続ける彼らの姿や、 悲しみの淵から立ち上がろうとする塚田少年の姿は、 暗く思いこの小説の中での、大きな救いである。
ただ、下巻の帯にあった「あまりに切ない結末」というのが、 私には分からなかった。 あまりにむごく、あまりに悲しい物語であった。 これ以上に胸が締め付けられるような、 さらに「切ない結末」が待っているのだと、 覚悟を決めてページをめくっていたので、 そういう意味では肩すかしで、「切ない」とはどういうことか、 ついつい、切なさの検証をしてしまった。 でもまあ、これは、主観の相違で、 「切ない」という言葉の受け取り方の違いだから仕方がない。
そんなことを思いながら、 「あまりに切ない結末」という言葉で真っ先に思い浮かぶのが、 『青の炎』(著者:貴志祐介)であった。 こちらも映画化が決定している。 映画化が決定して話題になっていたので、 まだまだ貸し出し中の『模倣犯』の代わりに 図書館で借りて読んだのだ。
高校生櫛森秀一は、家族を守るために殺人を決意する。 ある日突然現れ、家族を芯から怯えさせる酒びたりで ギャンブル狂の義父。離婚をし、彼から逃げ出したはずだが、 義父は家に住みついてしまう。母や妹を守るには、もう 彼を殺すしかない。 少年の怒りは青い炎となり、 心優しくも冷徹な殺人者へと追いつめていく。
これは切なかった。 ストーリーの流れから、物語の着地点は想像がつくのだが、 わかっていても、いや、行き着く果てが分かっているからこそ、 ほんとうに「あまりに切ない結末」であった。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」とか、 「どうして人を殺していいと思うのか?」とか、 そんな理屈っぽい思いは出てこない。 『模倣犯』のピースは彼の理性や理屈が殺人を起こす。 けれど、櫛森秀一の場合は、エモーションだ。 そこには、理性や理屈では割り切れない、 理性や理屈をいくら述べたところで、 解決することのできない、複雑で深く激しい、 感情の動きがある。
もっと他に解決のすべはあっただろうに。 確かにあっただろう。 けれど、櫛森秀一には、そのすべはなかったのだ。 家族を守るためには。 何とかしなければという、悲壮な決意。 その思いが、その強いエモーションが彼を殺人へと突き動かした。 家族のために一分のミスもないように、 冷静で計画的な殺人者に。 冷静と衝動。 愛情と憎しみ。 守るために破壊する。 相反する、矛盾する要素が彼をさいなみ、 あまりにも切ない結末へと、彼を導く。
『模倣犯』と『青の炎』 ミステリといっても、全くタイプが違うし、 作者のメッセージも異なる。 比べることもできないし、その必要もないけれど、 連鎖反応的に『青の炎』思い出し、 思いが両方の本を行ったり来たりしているうちに、 (とりとめないといえば、いつものようにとりとめないが) あれこれと考えが深まっていった。
久々に立ち止まって、 現在の世の中に生きているということに、 思いを巡らせた時間であった。(シィアル)
『模倣犯』(上・下) 著者:宮部みゆき/ 出版社:小学館 『青の炎』著者:貴志祐介 / 出版社:角川書店
先日、『タンタンの冒険』展へ行って、 高かった図録のかわりに、エルジェ自身がいちばん 好きだったという『タンタンチベットをゆく』を買ってきた。 絵本のような大きいサイズの、しっかりした薄い本。
有名なタンタン、キャラクターにはなじみが あるけれど、じつはちゃんとお話を読むのは これが初めてだったりする。 そもそも彼は、1929年に『プチ20世紀新聞』という 子ども向けの新聞に連載された漫画の主人公だった。 職業は世界をめぐる記者という設定だ。 著者のエルジェ(1907-1983)はベルギー生まれ。 新聞の編集長が本職で、幼いころから絵を描いていた。 タンタンのように世界を旅したのは、60代になってからという。
中国人の友人・チャン少年が飛行機事故に遭い 行方不明となったことを知ったタンタン。 お供の白犬スノーウィを連れ、 ついでにハドック船長(タンタンをほうっておけない元海の男。口悪し) まで一緒に、えいやっとネパールへと向う。 なんと、イエティ(ヒマラヤの雪男)も登場する冒険譚! 中国人のチャンは、『青い蓮』にも登場していて、 実在のエルジェの友人、留学生だったチャンがモデルだという。
タンタンの本は、コミックとはいっても、 けっこう読むのに時間がかかる。 ていねいな絵、日本の漫画よりも長いセリフ、 世界の大きさ。 特に今回は、ハドック船長の毒舌バラエティー日本語訳に 舌を巻いてしまう。
伝説のイエティってどんな生き物なんだろう? チャンは無事でいるのだろうか? 事故の現場、ヒマラヤへと登るタンタンたちを 待ち受けていたのは・・・
火星と木星のあいだの惑星には、 ベルギーの航空宇宙局によって エルジェという名前がつけられているそうだ。 ヒマラヤからは、肉眼でも見えたらすごいな。 (マーズ)
『タンタンチベットをゆく』 著者:エルジェ / 訳:川口恵子 / 書き文字:大川おさ武 / 出版社:福音館書店
「なぜ人を殺してはいけないのか?」という本がある。 「なぜ人を殺してはいけないのか?」と聞かれても、 そんなことは私や多くの人にとっては自明の理で、 むしろ「どうして人を殺していいと思うのか?」と問いたい。
けれど、「どうして人を殺していいと思うのか?」という問には、 答えはないような気がする。 いや、それぞれに答えはあるのだろうけど、 それは、この質問を発する私には理解のできない 理解どころか言語自体が違う、解読不能の答えだと思う。 あるいは、答え、理由自体がいらないのだ。 もちろん、そんなこと理解できない。
『模倣犯』を読み終わって、 そんなことをぐるぐると考えている。 上巻721P、下巻701Pの長編。 それを一気に読むほど、面白い小説だが、 しみじみと嫌な小説だ。 嫌なのは、小説ではなくて、本当は現実。 小説に書かれた連続殺人事件は、今や絵空事ではなく、 いつ起きてもおかしくないし、 程度の差はあれ、似たような事件はもう起きてるだろう。
上巻では、情け容赦ない連続殺人事件が描かれる。 筋書き通りに女性を殺害し、それを楽しむ犯人。 そして、犯人の死。
下巻では、犯罪に巻き込まれた人々の苦悩や さらに続く、犯人の底のない悪意。
上巻を読んでいた時、誰もいない階下から物音がした。 本を閉じ、ちょっと息を詰めて、じっとして気配を伺う。 もちろん、何も起こらない。 ただ、風で何かが落ちたのだろう。 よくあることでどうということはない。 わかっているけれど、ほんとうに、ぞっとした。
毎日、テレビや新聞で、殺人事件が報じられる。 ほうぼうに通り魔が出没し、 凶悪な強盗殺人事件が頻出する。 出会い系サイトがらみで、 簡単に人が消え、殺されている。 「なぜ人を殺してはいけないのか?」と、 犯人たちは言うのかもしれない。 それでも私には、その答えではなく、 「どうして人を殺していいと思うのか?」という問いしかない。
『模倣犯』を読みながら、しみじみと、 「なぜ人を殺してはいけないのか?」 その質問に答えても、その答え、こちらの思いは 決して通じないのだろうなと、感じた。 少なくとも、『模倣犯』の主犯ピースには通じない。 どう考えたって、ピースを理解することはできないし、 彼は、ふつうじゃない。 だからといって、狂っているのでもない。 正常なのに、もちろん、ふつうじゃない。 人間として、「何か」が欠けている。
その「何か」が何か、私たちは考える。 心とか、情とか、人間性とか、いろんな言葉が頭をめぐる。 けれど、ピースを理解することはできない。 本の中のピースを理解したような気になっても、 生きた人間として、ピースのような人間がいたら、 人間として、理解できない。
だけど。 ピースのような人間は、現実にいる。 すぐそばに、いるのかもしれない。 いつやってくるかわからない。
その思いが、私を芯から怖がらせる。 そういう現実が一番怖い。
この長大な本を読み終えて行き着いた思いだ。(シィアル)
『模倣犯』(上・下) 著者:宮部みゆき / 出版社:小学館
初めて読んだナタリー・バビット。 図書館で借りてきた本だから、つい貸し出しの日付を 見てしまう。なんと、6年もこの宝石は読まれていない。 よくあることだけれど。
導入部分は、ミステリの名作めいた薫りを漂わせていて 一気にひきずりこまれてしまう。 児童文学として書かれているが、 生きるとはどういうことか、という永遠のテーマは、 純度を上げれば上げるだけ深まる。 そう、言葉と言葉のあいだに深い裂け目がのぞくから、 これはむしろ大きい人たちのために用意された宝石である。 バビットは、森で不死の家族にさらわれる少女ウィニーの目を通して、 自身の少女時代や、生きて変化しつづける世界を 呼び覚ましながら描いている。
アメリカのオハイオ州に生まれ育ったナタリー・バビットは、 イラストの仕事でも活躍している。 本書の表紙絵がバビットの作品かどうか 確認できなかったけれど、彼女のお母さんも風景画を描いていたという。
読んでいると、不可解な感覚におそわれつづけた。 アイルランドの妖精譚を連想する幻想的な設定でありながら、 秘密を知ったウィニーにとっては、現実そのものが冒険となる。 姿の見えない妖精が奏でるのは、生命として地球に生まれたことへの賛歌。 人間たちはただ、流れのままに、地球をめぐる水のごとく 生きて、そして死ぬ。
ストーリーを細かく書くのは控えるが、 ウィニーがタックの家族にさらわれるくだりや、 あらゆる言葉がささやく「思い出して」とでもいうような メッセージに、ふらふらっとしてしまったのだ。
この世界の真実を覆う、薄くてあやふやなヴェールが、 あたかも風のひと吹きで、揺らいでしまったかのように。 (マーズ)
『時をさまようタック』 著者:ナタリー・バビット / 訳:小野和子 / 出版社:評論社
今、数冊の本を並行して読んでいます。 もともと、並行読みは苦手だったのに、 あまりに、本がたくさん出版されすぎているので、 貧乏性の私は、気持ちが焦ってしまい、 一冊の本をじっくり読むことができなくなっているのです。 本の寿命が短くなっているので、 どうしても購入する本の量が増えてしまいます。
特にファンタジー系の本は、ブームが去ってしまえば
手に入れるのが困難になります。
だから、あとで、苦労して探すよりは、
とりあえず今、買っておこうと。
そして、部屋中に溢れている本の中で、
さらにますます焦ってしまうのです。
『ライラの冒険シリーズ』
『模倣犯』
『炎のゴブレット』
『九年目の魔法』
『比翼は翼のなごり』
とりあえず、今現在、読んでいる本です。
リンダ・ハワードの新刊『レディ・ヴィクトリア』
も控えています。
もともと本は好きだったのですが、年間を通じて、 こんなに根を詰めて本を読むことはありませんでした。 だんだん、外で遊ぶことも減ってきて、 自宅でもテレビやビデオを見ること、 読書以外の趣味を楽しむ時間が無くなってきています。 気がつくとどんどん、本に生活を浸食されている感じです。
正直言うと、本をずっと読み続けていることで、 自分自身が何かを想像する、夢想する、 新たに創造する、そんな隙が無くなってしまっています。 まるで、中毒のように、本が手放せなくなっていて。 楽しいけれど、苦しい。 もっと読みたいけれど、もう本を閉じてしまいたい。 複雑な思いです。
そして、読み終わった後、読んだ本を反芻して、 自分の奥深くに、大切なエッセンスをしまっておく、 そんなデリケートなやりとりが本との間にできなくなっている。 自転車で坂を下っている。 どんどんどんどん、加速度がついて、 足が空回りしているのに、それでも、 まだ、スピードをあげようとしている。 そんな風な、読書なのです。 次から次へと、ページをめくり続けるので、 「大切な本」だと思っていても、次の新しい本のために、 すぐに、上書きされて消えていく感じもします。
だから、たくさん本を読んでいても、 じっくり考え、感想をまとめることができなくなっています。 最近読んだ本を語る言葉が、乏しくなっているのです。 語りたい本はたくさんあっても、言葉が追いつかない。
たかが読書。 だから、立ち止まることは簡単なはずなのですが。 やはり、「何か」から取り残されるような焦りが つきまといます。
今、読んでいる本や、読むべき本、読みたい本、 それぞれ、整理し読み終わったら、 少し、本を閉じて、自分の中から聞こえてくる物語に 耳を澄ましてみたいと思っています。(シィアル)
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管理者:お天気猫や
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