2008年06月14日(土)  高校生だった三人が母になって

関西空港から東京へ帰る前に、高校時代の友人テルちゃんの家を訪ねる。わたしが留学して一年留年した後の学年の同級生で、同じクラスになったことはなかったけれど、体操部で一緒だった。『アテンションプリーズ スペシャル』放送の案内をメールしたとき、「今度大阪帰ってくるとき教えてね」と返信があり、「じゃあ6月に帰るから、そのときに会おう」となったのだった。体育祭の応援団で意気投合したユミちゃんにも声をかけ、5年前の高校卒業15周年の学年同窓会ぶりの再会となった。

テルちゃん、ユミちゃん、わたしを結びつけたのは、「おいしいもの好き」という共通点。応援団関係で仲良くなった食いしんぼの男の子四人を合わせた男女七人で、「グルメの会」というそのものずばりなネーミングの食べ歩き仲間を結成して、地元堺やちょっと足を伸ばしてミナミ(難波)のおいしいものを食べ歩いた。男の子も含めて全員が1リットルパフェを平らげられるほどの甘いもの好きでもあった。和菓子処の『かん袋』でしか食べられない「くるみ餅」のかき氷を食べに自転車を走らせたり、今はなくなってしまったレストラン『菊一堂』のコース料理を学校帰りに制服姿で食べたり、一年の半分ほどをイタリア旅行に費やす夫妻の手づくりピザの店を訪ねたり、『自由軒』のカレーの後に法善寺横町の『夫婦善哉』という「織田作之助」コースを楽しんだり。お小遣いの少ない高校生にしては、贅沢なことをしていた。7人のうち誰が抜けたのだったか、2チームに分かれて高校生クイズの予選に挑戦して、第一問で敗れたのもいい思い出。夏の暑い日に文化祭の演劇で使った衣装で仮装し、わたしは紫のロングドレスを着ていた。ユミちゃんとは3年のときに同じクラスになったのだけど、クラスでの出来事よりも、どこで何を食べたということばかり思い出してしまう。食べ物の記憶って、強い。

5年前の同窓会の前に3人が集まったのはユミちゃんの結婚式で、わたしは『ぱこだて人』の脚本の授賞式を終えて函館の映画祭から向かった。99年のことだから、9年前になる。同窓会は人がいっぱいだったし、結婚式は主役を独り占めできなかったし、3人でじっくりと話すのは、思い出せないぐらい久しぶりのことなのだった。5年会わないうちに、テルちゃんは二児の母になり、ユミちゃんとわたしも一児の母になり、第二世代の4人の娘が加わっての3人娘ミニ同窓会となった。3人集まると気分は高校生の頃に戻ってしまうのだけど、目の前には子どもたちがいて、なんだか不思議。思い出話と子育て話が混じり合い、ブランクはあっという間に埋まって、先週も会ってたような気持ちになる。

3人ともあいかわらずおいしいものが好きで、甘いものも大好きで、食べるとますますおしゃべりになるところも変わってない。テルちゃんのいとこがやっているという近所のパン屋さんのフィナンシェを夢中で頬張り、「このお店、今度連れて行って!」と話す。昨年末に建てたばかりという自慢の新居をくまなく案内してもらい、北欧インテリアが好きという共通点も見つかって、「わたしたちって、やっぱり気が合うんだ!」と再発見。離れていても、会えばあっという間にあの頃に戻れる同級生がいる幸せを味わい、娘たちもそんな友だちに恵まれるといいな、娘たち同士もいい友だちになれるといいなと思った。

2007年06月14日(木)  『坊ちゃん』衝撃の結末
2002年06月14日(金)  タクシー


2008年06月13日(金)  マタニティオレンジ299 おもちゃ電車→たま駅長→いちご電車


数週間前、「いちご電車」というタイトルの浮かれたメールが届いた。ご近所仲間で鉄道ファンのT氏がはるばる和歌山に出かけ、いちご尽くしの電車に乗っている実況を四十代とは思えない無邪気さで送ってきてくれたのだった。さらに一時間後には「おもちゃ電車」というメールが画像つきで届いた。「いちご電車」「おもちゃ電車」はJR和歌山駅から延びている和歌山電鉄貴志川線という私鉄ローカル線の車両で、終点の貴志駅にはニュースですっかりなじみになった猫の「たま駅長」がいるというではないか。たま駅長のことは気になっていて、わが娘・たまと会わせたいと思っていた。ちょうど関西行きを控えていたので、T氏からのメールが後押しとなって「わたしも行こう!」と決めたのだった。

たまと父イマセンとともに阪和線紀州路快速で終点和歌山へ向かい、T氏のアドバイス通り一日乗車券(650円)を買って乗り込んだのは、おもちゃ電車(愛称OMODEN)。おもちゃが並ぶ棚にはアンパンマン! たまは早速駆け寄り、興味しんしん。木のつり革も積み木みたいで愛らしい。


10台あるガチャガチャは本物。たまはお金を入れずにハンドルをガチャガチャ。


床は木で、座席にはチェックの座布団。あたたかみがあって、絵本に出てくる子ども部屋みたい。ねずみ(MOUSE)、うさぎ(RABBIT)、犬(DOG)の形の背もたれには、さりげなく「M」「R」「D」とイニシャルがあしらわれている。「おもちゃ電車」という名前からデパートの屋上のようなにぎにぎしさを想像したのだけど、甘くなりすぎない大人っぽいテイストに感心。中吊りなどの印刷物のデザインも洒落ていて、アイデアだけでなくクリエイティブのセンスも光っている。

終点の貴志駅で降りると、駅長帽をかぶったたま駅長がお出迎え。駅長室には、もう2匹の猫がいて、こちらは「助役」とのこと。人間の駅員はおらず、猫のみという無人・有猫駅。たま駅長、帽子が重いのか、すぐに落としてしまうのだけど、帽子がないとただの猫になってしまう。うちのたまとの対面は、お互い関心なさそうで、そっぽを向いたツーショットしか撮れなかった。

駅舎にはつばめの巣があり、親鳥がかいがいしく子どもたちに餌を運ぶ姿が乗客を和ませていたのだが、その巣の真下で、父はいつの間にか買ってきたたこ焼きを一人で頬張っていた。ほんと、この人の頭の中は食べることでいっぱいで、ある意味1才児のたま以上に子どもっぽい。

帰りは普通車両で大山遊園駅まで行き、下車して散歩。本当は交通公園まで行きたかったのだけど、たまが両替機で遊びたがり、百円玉を二枚両替したところで「他の人の分がなくなるからやめようね」と言った途端に床に転がって泣き出したので、手前で降りた。池をのぞむ広々した公園(これが遊園?)があり、そこのすべり台で遊ぶうちに機嫌は直った。


大山遊園からでいちご電車を待ち受け、乗り込む。保育園でいちご組のたまは、「ご!」を連発しながら車両のあちこちに配されたいちごを指差し、おもちゃ電車以上に興奮。


座席と座布団は、どこか懐かしさを感じさせるいちご柄生地。小さなテーブルもあり、地元の高校生がお昼ごはんを頬張っていた。「何もないのが魅力です」とT氏は語っていたけれど、窓の外ののどかな風景がかわいい電車とよく合っていた。乗り物の形の色とりどりの遊具がひしめく交通公園で下車してたまを遊ばせたかったけれど、「和歌山まで行ってお昼食べよう」と父が言うので、終点和歌山まで乗り続けるうちに、たまは眠りに落ちた。

2007年06月13日(水)  「事実は小説より奇なり」な映画『主人公は僕だった』
2005年06月13日(月)  『猟奇的な彼女』と『ペイ・フォワード』
2004年06月13日(日)  映画『ヒバクシャ 世界の終わりに』


2008年06月12日(木)  中田金太さんの置き土産『玉虫厨子』と対面

映画を見るとロケ地を訪れたくなる。千三百年前の飛鳥の時代に造られた法隆寺の国宝「玉虫厨子」に平成の職人たちが挑むドキュメンタリー映画『蘇る玉虫厨子〜時空を超えた技の継承〜』(>>>2008年03月27日(木)の日記)に酔ったわたしとアサミちゃんは、「実物の玉虫厨子を見ねば!」となった。中田金太さんが私財を投じて平成職人に腕をふるわせて再現された「玉虫厨子」と、さらに遊び心を加えた「平成版・玉虫厨子」が6月いっぱいまで法隆寺の秘宝展で公開されているという。再現版は法隆寺に奉納されたのだけど、平成版は秘宝展が終わると高山のまつりミュージアムで展示されることになっている。二台を並べて見られるのは最初で最後のチャンスかもしれない。先週アサミちゃんはダンナさんとともに奈良を訪ね、「見て来たよ〜。良かったぁ」と伝えてきた。ちょうど大阪に帰省する機会を得たわたしも今日、奈良へ向かった。

JRの法隆寺駅から法隆寺まで歩いて20分。拝観券売り場を求めて広い境内をさ迷い、秘宝展が行われている秘宝殿へ直接行けば良いと教えられ、たどり着くまでにさらに10分。駆け足での鑑賞となり、飛鳥時代版の本家(こちらも並べて展示されているのを期待していたら、本堂に置かれているとのこと)を拝む時間はなかったけれど、金太さんの置き土産二台に対面することができた。

ちょうど小学校の遠足の団体と鉢合わせ、「これやこれ! 玉虫!」と担任らしき女の先生が興奮した声で指差すと、「どれどれ?」と元気のいい小学生がガラスケースの前に集まってきた。これがこないだやってた玉虫のん?」と先生に聞いている。授業で取り上げたのだろうか。映画に出ていた金太さんや職人の話も紹介されたのだろうか。再現版よりも色鮮やかな平成版に人気は集中し、「これ、玉虫の羽なん?」「すげー」「すごすぎ」と心からの感嘆の声が上がる。この光景、金太さんに見せたかった。「造るより遺すことのほうが難しい」と話していた金太さん。あなたが遺してくれたものは、平成の子どもたちに、この国の美しく力強い財産をしっかり伝えていますよ。

玉虫厨子と背中合わせに置かれているのは釈迦如来像。「仏さん、皿乗ってんで」「食べられるん?」「かもな」と子どもたち。玉虫厨子の蒔絵の原案になったお釈迦様の絵を前にした女の子は、「虎のこどもがおなか空かせてて、身投げして食べさせたってんて」「私やったらせえへんなあ」などと話している。 近頃の子どもたちはゲームばっかりして感動したり感激したりする力が弱っているのではと心配していたのだけど、展示物を見て感じたことを口にする子どもたちの言葉は生き生きとしていて、好もしかった。

NHK奈良の「万葉ラブストーリー募集」が縁で、子ども時代に親しんだ奈良にまた足を運ぶ機会ができたのだけど、京都とはまた違った古都の魅力があって、小旅行気分を楽しんでいる。奈良公園には鹿がわがもの顔で歩いていて、『鹿男あおによし』を思い出した。明日香村も訪ねたいし、古い町並みが残っているという「今井町」も気になる。

近鉄奈良近くの商店街を歩いていて、奈良遷都キャラクターの「まんとくん」「せんとくん」が並んでいるシャッターを発見。公式キャラの「せんとくん」が発表された後に自主提案の形で開発され、ネット投票で選ばれたのが「まんとくん」という経緯を新聞記事で読んだばかり。強烈キャラの兄と愛されキャラの弟という感じであまりにキャラが違うので、こんな風に並んで「どっちが好き?」と話題を提供するのもいいかもしれない。

2007年06月12日(火)  想像力という酵母が働くとき
2005年06月12日(日)  惜しい映画『フォーガットン』


2008年06月11日(水)  大学ノート80冊分の日記

関西での仕事のため、娘を連れて大阪へ。実家に帰ったら、やりたいことがあった。子どもの頃に書いた小説を発掘して、パソコンに打ち込もうという計画。そのノートを求めて「雅子」と書かれた段ボールを開けたら、大学ノートがどっさり出て来た。小学校から高校時代にかけて書きまくった日記と交換日記。数えてみると、80冊を超えている。

交換日記は相手と二人がかりでノートを埋めるから半分で計算しなきゃと思いきや、「かわりばんこにノートを買い、買ったほうが書き終えたノートを引き取る」仕組みになっていた。ということは、これだけの分量のノートを自分の文字で埋めたことになる。しばしあっけに取られた後、一冊ずつ中身を確かめて、「日記」「交 のんのん」などと日付を添えてマジックで書きつつ分類する作業に取りかかった。懐かしさについページをめくってしまい、作業は止まってばかり。結局夜中までかかった。

今の中学生にはケータイという便利なものがあって、気になる子とはあっという間にメル友になっちゃうのだろうけれど、わたしが中学生の頃は、男女が交換日記をするというのは「つきあう」と同義語で事件だった。交換日記をはじめたカップルのノートを買いにいくのにクラスメートが集団でつきあったり、「彼氏が他の女の子と交換日記してる」ことが大問題になって揉めたり。微笑ましいというか歯がゆいというか、信じられないほどウブだった。「『スピード』でストレス発散」とあるスピードは、ヤバいクスリではなくトランプだし、友人がわたしのファッションを見て褒めた言葉は「ナウい」だし、中学卒業のときに髪を切った美容院の名前は『チャーミング』。十年ひと昔というけれど、四半世紀以上前だと日記もすでに古典。

自分では忘れていたこともたくさん出て来た。PL学園で活躍していたナマの桑田選手と清原選手を目当てに甲子園まで行ったこと。嘉門達夫の番組にハガキ書いていたこと。金沢嘉一さんという作家に手紙を書いて返事をもらったこと。三年前に小中学校時代の同窓会をやったとき、「この子、亡くなったんだっけ」と同級生と話した子のことも日記には書かれていた。入退院を繰り返していた彼女は白血病で亡くなったのだった。友人たちと線香を上げに行ったけれど、家の人には会えなかった。その帰り道、「生きる期間に差があるなんて、おかしい」と話し、「私が死んだら、一時はワーッとないてほしいけど、いつまでもしずまないでほしい。いつも、私のことを思い出したり話したりして、ぜったいに忘れないでほしい」と日記に遺言していた。

日記を読み返すと、「変わってないなあ」と思う部分もあれば、「同じ自分が書いたのか」と驚く部分もある。小学校のときから「私は私」と主張し、「人生を面白くするのは自分次第」なんてことを言ってる。負けず嫌いなのも感動体質なのも変わっていない。へこんでいる友人を励ます言葉はやたら熱くて、「どんなクラスにいようと同じように好きにならないと。もどれない所にもどろうとするとよけいくるしいでしょ」「希望を信じたければ、現実を半分だけ信じとけばいい」などと芝居がかっている。

意志の強さは昔からだけど、今よりもずっと頑固で融通がきかなくて、あきれるほど正義感が強くて、毎日のように日記で怒っている。掃除をさぼる男子に怒り、点字ブロックが市役所の手前で切れていることに怒り、友人を嘘つき呼ばわりしたクラスメートに怒り……読んでいて疲れるほど怒っている。中学一年の最初の頃に担任の吉田恵子先生に日記を見せていたけれど、そのノートの角で頭をコツンとされた(たぶん先生は親しみを込めてふざけたのだと思う)ことに怒って、日記を見せるのをやめてしまった。

クラスの女子がみんな泣く場面では意地でも泣かないくせに、学習教材のセールスマンが置いていったアンケートをなくして平然としている妹と、それに対して「別にええやん」と言った母には涙の抗議。われながらついて行けない感情の起伏の持ち主だったくせに、自分のことを「さめた少女」と分析していたりして、昔のわたしは相当屈折していたのだろうか。

吉田先生が中学一年生の終わりにわたしに贈った言葉も出て来た。「今井はよい意味でかわってるよ。あまりお目にはかからないタイプですね。底抜けに明るくて活発ですごく大胆で、そのくせデリケートで傷つきやすかったり…。そして何よりも温かい心の持ち主で…。どんな大人になっていくのかとても楽しみです。教師になりませんか?」とある。

先生は、わたしが日記を見せなくなったことをずっと気にかけていてくださった。つまらない意地を張った中学一年生の自分には、今とは違うプライドがあったのだろう。吉田先生に見せなくなった日記に、わたしは先生のことを「あのせんせー、わりとよくやすむなぁー。強がる人って案外よわいんだ。私も人のこといえないけど」と書いている。似た者同士だったのかもしれない。

肝心の小説も見つかった。鏡の国に迷い込む少女の話で、中学一年のときに書いたものだとわかった。わたしはそれが最初の小説だと思っていたのだけれど、それよりも前、小学時代に書いた小説らしいものもいくつか出て来た。それより驚いたのは、小学6年のときの交換日記に書いてあった『ブランコ』というラジオドラマ。ラジオで聞いて感動したストーリーを紹介しているのだけれど、台詞やト書きが再現されていて、ほぼ脚本の形になっている。

やっぱりこの80冊の延長線上にわたしはいるんだなあと感じた。

2007年06月11日(月)  茨木のり子さんの言葉の力
2005年06月11日(土)  東京大学奇術愛好会のマジックショー
2002年06月11日(火)  『風の絨毯』同窓会
2000年06月11日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2008年06月08日(日)  マタニティオレンジ298 「m」とフライング父の日

娘のたまが「m」を覚えた。わが家のあちこちに飾ってあるm&mコレクションを指差して「これ、なあに?」と聞くので、「mだよ」と教え、ついでに両手でハートを描くようにして頭のてっぺんで指先を合流させる仕草で「m」を表現すると、「エム!」と瞬時に会得。お猿さん風のポーズが何とも言えずおかしい。いつもは「もっぺん」とせがまれる側のわたしとダンナが「もういっぺんやって」を連発し、たまは「エム!」を繰り返した。

お猿さんといえば、午後から雨が上がって、遊びに来たダンナ父と近所の神社に出かけたら、ちょうど猿回しが来ていて、生のお猿さんを目の前で見たたまは大興奮だったという。「お猿さん何やってたの?」と聞くと、たまはおじぎを再現。短い足でガニ股気味のおじぎは猿感がよく出ていて、木戸銭を投げたくなる。「おじぎしかしてなかったの?」と聞くと、「ちょうど終わったとこだったんだ」とダンナ父。

ダンナ母も加わり、父の日祝いのケーキを分けた。じいじばあばの前でも、たまは「エム!」を披露。孫と過ごす時間が何よりのプレゼントだろう。ところが、後になって、父の日が一週間後であることに気づいた。ダンナ母は「今日父の日なの? うっかりして忘れてた」と言っていたのだけど、うっかりしていたのは、こちらのほうだった。ダンナに「今日が父の日じゃなかったって知ってた?」と聞くと、「君が言うからそうなのかなと思ったけど、どこにも出てないから、ひっそりやってるんだなあと思ってた」という返事。プレートを書いたケーキ屋さんからも突っ込みはなかった。来週祝えない事情があると思われたのだろうか。

お祝いのケーキをもうひとつ。友人のげっしー&いとう夫妻のところのちいたまちゃんが1才になり、同じ月生まれのお友だちと合同誕生会を開催。子どもたちの名前が並んだプレートがかわいい。「子どもたちはこの日のことを覚えてなくても、記念日を刻むことは親が前へ進むパワーをくれる」とげっしー。

2007年06月08日(金)  マタニティオレンジ128 モラルない親
2005年06月08日(水)  歩いた、遊んだ、愛知万博の12時間
2002年06月08日(土)  P地下
2000年06月08日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2008年06月07日(土)  高島屋ミヤケマイ個展『ココでないドコか』で乾杯

昨日の日記で同タイトルの作品集を紹介したミヤケマイ個展『ココでないドコか』目当てに新宿高島屋画廊へ。5時からのオープニングに間に合うように到着し、ミヤケマイに挨拶すると、乾杯の音頭をお願いされる。突然のことで何をしゃべろうかと迷ったけれど「今井ちゃんが寄稿してくれた作品集の宣伝をしてくれればいいから」と言われ、「作品集も作品展も人気が出ますように」といったことをつっかえつっかえ話し、「皆さん一人一人の心にある『ココでないドコか』を思い浮かべてグラスを掲げていただきたく思います」に続けて「乾杯」と締めた。

『ココでないドコか』を『ココにないドコか』と言ってしまった気もするし、「個展」と呼ぶべきところを作品展」と呼んでいた。「昔はミヤケマイで検索すると、わたしのサイトが上位にヒットしたけれど、今はたくさんの人がミヤケマイのことを書いていて、わたしのサイトが埋もれるようになり、人気が出たことを感じる」という話もした。ミヤケマイの反応は「ひととおり網羅してたよ」。

子どもの頃から「百貨店といえば高島屋」で、5才まで暮らした家は堺高島屋、高校生まで過ごした街は泉北高島屋のお膝元だった。高校時代は難波高島屋、大学時代は京都高島屋、就職して上京してからは玉川高島屋を贔屓にしてきたのだけど、高島屋でマイクを握る日が来るとは思っていなかった。皆さんの手にグラスがそろうまでの間にそんな話もしたら、乾杯の後に新宿高島屋の支店長さんが声をかけてくださり、名刺をいただいた。個展と作品集、二つの『ココでないドコか』がたくさんの人に届きますように。

肝心の個展はじっくり見る時間がなかったので後日出直すつもり。幸い期間はたっぷり。皆さんもぜひ。
ミヤケマイ個展「ココでないドコか」高島屋 2008
◆6月4日(水)〜6月17日(火)高島屋新宿店10階美術画廊
◆6月25日(水)〜7月1日(火)高島屋東京店6階美術画廊
◆7月9日(水)〜7月15日(火)高島屋京都店6階美術画廊
◆8月13日(水)〜8月19日(火)高島屋横浜店7階美術画廊

2007年06月07日(木)  誰かにしゃべりたくなる映画『しゃべれどもしゃべれども』
2005年06月07日(火)  友を訪ねて名古屋へ
2004年06月07日(月)  絨毯ひろげて岐阜県人会
2002年06月07日(金)  ドキドキの顔合わせ


2008年06月06日(金)  ミヤケマイ作品集『ココでないドコか』に寄稿

友人の絵師(イラストレーターというよりこっちの表現のほうがしっくりくる)ミヤケマイの作品集第2弾『ココでないドコか-forget me not-』が届く。最初の作品集は購入したのだけど、今回はコメントを寄せたので一冊贈呈してもらえることになった。わたしが以前ミヤケマイのサイトに寄せた文章を本人が気に入ってくれ、「ぜひ書いてぇ」と指名してくれたのだが、ご一緒させてもらえる機会はあるのかしらんと活躍を眩しく眺めていたミヤケマイの作品集にのっかれるなんてと一も二もなく引き受けた。レイアウトを手がけたのはミヤケマイとの共通の友人、名久井直子で、これまたうれしい顔合わせ。

わたしが寄せたコメント(タイトルは『マイルーム願望』)には英訳がつき、見開きで掲載。そうそうたる顔ぶれの寄稿者の中に作家の角田光代さんがいて、目次ではわたしの名前と並ぶ形になっているのがこれまたうれしい。角田さんの小説を映画化するという企画に関わって以来ファンになって、ミヤケマイが表紙を手がけた対談集『酔って言いたい夜もある』も自分がその場にいるみたいに楽しく読んだ。映画は残念ながら成立しなかったけれど、こんなところで遭遇できた。もちろん角田さんのコメントは真っ先に読んだ。ミヤケマイの作品をよく知る人が読めば、こんな例え方があったのかと新鮮に映り、まだ知らない人が読めば、知りたくてたまらなくなる。そんな力を持ったコメントに、さすがと唸った。

作品集は4日から新宿高島屋を皮切りに4つの高島屋をめぐる同タイトルのミヤケマイ個展にあわせて発売(税込み8888円)。もちろん個展会場でも買い求められる。さらに、付録つきもあって、こちらは16800円。2倍近くするだけあって、付録は豪華3点。『異界万華鏡』『困ったときの紙だのみ』(カードが運勢を決めてくれる代物らしい)『錦小風呂敷』といかにもミヤケマイらしいセンスの名前がついている。額入りのミヤケマイ作品にはなかなか手が出ないという人にも、おすすめ。こちらは今月下旬発売(ただいま予約受付中)とのことで、わたしもまだ実物を見ていないのだけど、作品展会場で見本が展示されるとのこと。

ミヤケマイ個展「ココでないドコか」高島屋 2008
◆6月4日(水)〜6月17日(火)高島屋新宿店10階美術画廊
◆6月25日(水)〜7月1日(火)高島屋東京店6階美術画廊
◆7月9日(水)〜7月15日(火)高島屋京都店6階美術画廊
◆8月13日(水)〜8月19日(火)高島屋横浜店7階美術画廊

2007年06月06日(水)  わたし好みだらけの『そのときは彼によろしく』
2005年06月06日(月)  ニューオーガニックレストラン『orto』
2004年06月06日(日)  レーガン元大統領、逝去。
2002年06月06日(木)  同窓会の縁


2008年06月05日(木)  マタニティオレンジ297 Macで『たまアルバム』作り 

この1週間、仕事の合間に悪戦苦闘していたのがMacのiphotoという機能を使った『たまアルバム』作り。デザインを選び、雛形に好きな写真とコメントをはめ込むだけの作業なのだけど、Macらしいスマートゆえに不親切な説明に試行錯誤を迫られた。先日、Macユーザーの先輩である友人のセピー君が鎌倉で一緒に過ごした一日をアルバムにして贈ってくれたのだけど、今さらながらこんな面倒なことをよくやってくれたなあと頭が下がる。自分の子どものためじゃなかったら、途中で投げ出すところだった。それでも何とか要領を覚え、ダンナに書かせた「たまへの手紙」も入れ込み、無事完成。あとは製本されて届くのを待つばかり。

実は、たまの一才の誕生日に手づくりのアルバムを贈る計画はあった。スクラップブックに初挑戦するという意気込みは時間が経つうちにしぼみ、手づくりはやっぱり無理だと諦めたものの代案はなく、Macに乗り換えたのを機会に「これなら簡単に作れるかも」と思ったものの、エンジンがかかるまでに1か月、製作に1週間。2週間ほどでアルバムが届く頃には、たまは1才10か月。10か月も遅れ、もはや「2才の誕生日に1才の誕生日プレゼントを贈る」状態だけど、結婚式の写真の整理がまだのわたしにしては、仕事が早い。かわいいわが子のことだから、優先順位が上がったのだ。

すんなり進まなかった分、つまずくたびに「わたし、いま、親らしいことしてるぞ」という気持ちになれた。自分のことで手一杯で、保育園の先生にもお医者さんにも「お母さん、しっかりしてください」としかられっぱなし。定刻に登園すると拍手され、毎度のように忘れ物をし、今朝なんかジーンズのファスナーを閉め忘れていた。鏡を見るのを忘れるので、たまがふざけて貼り付けたシール(「会議」と書いてあった)をおでこの真ん中につけたままだった日も。考え事をしながらスナップボタンを留めて、肉(皮膚)を挟んでしまったことは数知れず。それでも「ママ、きー!」(ママ大好き)と抱きついてくれる娘に、少しは母親らしいことをしなくては。

2007年06月05日(火)  『風の絨毯』の中田金太さん逝く
2005年06月05日(日)  2人×2組の恋の映画『クローサー』
2004年06月05日(土)  『ジェニファ 涙石の恋』初日
2002年06月05日(水)  シンクロ週間


2008年06月04日(水)  死ぬということへの悪あがき

幼なじみのお父さんが亡くなられた。幼なじみからの電話を自宅で受け、いつも通り話した直後に倒れ、あっという間のまさに突然過ぎる死だったという。最後に会ってから十年ではきかないから記憶の中のおじさんはずいぶん若く、なおのこと驚いて呆然となった。知らせてくれたのは母親で、いつもは当たり前だと思っている母の声がなんだかありがたく思えた。自分の両親は元気でまだまだ長生きしてくれそうだとすっかり油断しているけれど、年齢の分だけ不意打ちに遭う確率は高くなる。だけど心積もりはまだしたくない。

わたしは昔から死というものを受け入れるのが下手で、今自分を囲んでいるメンバーがそのまま年を重ねて持ち上がっても欠けることはない、と意地を張って信じているようなところがある。自分も含めて全員がいつかは舞台を降りる宿命にあることを認めるのが怖くて、そのことを想像するだけで息苦しくなって思考停止してしまう。四年前に亡くなった幼なじみのヨシカは、留学先のベルリンに行ったままだと錯覚しているようなところがある。お墓を訪ねても、やっぱり実感はわかなくて、何かの冗談のように思えてしまう。

夏目漱石の小説だったか、亡くなった師匠の元へ駆けつけた弟子たち一人一人の様子を綴った短編があった。師匠との思い出を語る者、早すぎる死を悔やむ者、感謝を述べる者……悲しみとある種の興奮に包まれたその部屋で、「自分もいつかは死ぬのか」と静かに怯えている男がいて、この気持ちわかる、と思った。その後で、「だけど、その人もやっぱり死んでしまったんだなあ」と怖くなった。読んだのは二十年以上前、高校生の頃だと記憶しているけれど、死ぬことへのじたばた具合はその頃から改善されていない。子ども向けの絵本の奥付にある著者紹介を見て、「これを書いた人は、今はもういないんだ」と淋しくなったりする。わたしの場合、自分が消えることを恐れる気持ちが、形になるものを残したいという衝動をかき立て、書くことに向かわせているようにも思う。あの短編の著者も、そういう人だったのかもしれない。

2007年06月04日(月)  黒澤明映画『生きる』
2002年06月04日(火)  回文ぐるぐる「サッカー勝つさ」
2000年06月04日(日)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)


2008年06月03日(火)  「夜は街より家にいたい」「予定はなるべく入れないで」という感覚

図書館の「今日返された本」コーナーで見つけた『40代のひとり暮らし』(岸本葉子)と目が合って、手に取った。「質感はだいじ」など、自分のこだわりについて綴った短いエッセイが40本ほど。子どもという同居人がふえて3人暮らしの身だけれど、あと2年で40代という同世代感からか、誰と暮らそうと自分の色に染めてしまう性格ゆえか、自分と重ねて読めるところが多かった。「愛のない(なくなった)人の分の家事労働ほど、負担に感じるものはない」なんて指摘にドキッとし、この負担が大きくなるとコンビ解消してひとり暮らしになるんだろうなあと想像する。とくに共感したのが、「夜は街より家にいたい」と「予定はなるべく入れないで」と題するエッセイ。20代の頃、一人で家で過ごす夜はもったいなく感じられたけれど、今は勝手知ったるわが家のくつろぎを贅沢だと思える。そして、20代はスケジュール帳を予定で埋めよう埋めようとしていたけれど、今はスケジュールの白い部分を守ろうとする。打ち合わせがなくなったとき、20代のわたしなら誰かを誘って穴を埋めたのだけれど、今は一人でゆっくりお茶を飲む時間ができたと考える。週の何日かは何にも予定がない日を確保しておきたいという著者の感覚に、わかるわかると膝を打ち、これが年を重ねて落ち着くってやつかしらと思った。余白を空しいと取るか、余裕と受け止めるか、やりたい放題を尽くして体力が落ちてきた三十代半ばあたりがその分岐点になるのだろうか。「でかけない度」と「予定あけとく度」が急に高まったのは、予測不能な幼子を抱えたせいかと思っていたけれど、40代突入の予兆的な変化だったのかもしれない。


2007年06月03日(日)  マタニティオレンジ127 0歳児時代は子どもより自分優先!?
2005年06月03日(金)  劇団浪漫狂『ピカレスクpp行進曲』
2003年06月03日(火)  海南鶏飯食堂(はいなんじーふぁんしょくどう)
2002年06月03日(月)  きる ふぇ ぼん
2000年06月03日(土)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)
1979年06月03日(日)  4年2組日記 先生の家

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