2007年06月05日(火)  『風の絨毯』の中田金太さん逝く

朝早く、映画『風の絨緞』のプロデューサー・益田祐美子さんから電話があった。この人の電話の第一声はいつも「今井さん、元気?」で、それにわたしは「元気よ。益田さんは?」と応じる。すると、「元気、元気」と帰ってくるのが合言葉のようになっているのだけれど、今朝は「元気じゃない」と沈んだ声の変化球を返してきて、「金太さん、亡くなっちゃったの」と続けた。『風の絨毯』で三國連太郎さんが演じた、「平成の祭屋台」の制作に情熱を注ぐ高山の名士、中田金太さんが一日に逝去されたという。わたしは一瞬絶句して、「ああ、とうとう」と答えた。ついに、その日が来てしまったか、と。具合が良くないという話は聞いていた。わたしが執筆協力した金太さんの一代記『わしゃ、世界の金太! 平成の大成功者と五人の父』の出版記念パーティに、金太さんが入院先の病院から外出する形で現れたのは昨年9月。わたしは出席が叶わなかったのだけれど、自身が主役のパーティという気の張りがようやくのことで体を支えているようだった、と居合わせた人から聞いた。小柄だけれど顔色がよくバイタリティにあふれた金太さんがしぼんでしまった姿を想像して、わたしも胸をふさがれた。それから8か月余り。結局、公式の場に金太さんが姿を見せたのは、出版記念パーティが最後になったという。

岐阜新聞の記事「祭り屋台新造に情熱注ぐ 中田金太さん死去」に益田さんのコメントが紹介されているが、『風の絨毯』の実現にあたり、金太さんは節目節目で力を授けてくれた。そもそも同郷である金太さんの出会いから、絨緞屋だった益田さんがインスピレーションを得て「故郷の祭屋台にペルシャ絨緞をかけたら面白い」というところから物語が膨らんだ。劇中に登場する祭屋台の貸し出し、金太さんが運営するまつりの森でのロケ、さらには製作資金……。金太さんの粋な旦那魂が、『風の絨緞』を世に送り出す大きな追い風となったが、金太さんの存在は精神的にもスタッフや作品を支えてくれた。同時多発テロでロケが延期になり、製作が頓挫しかけたとき、「人間は誰でもつまづく時があるが、それは恥ずかしいことではない。つまづいた時、起き上がれないことが恥ずかしいこと」という言葉が益田さんを奮い立たせ、結果的には中東情勢が落ち着くまでの時間を無駄に捨てるのではなく、作品をより良くするための熟成期間にあてることができた。

わたしは2002年3月の『風の絨緞』高山ロケの際に金太さんに紹介されたけれど、たくさんの人が行き交う現場のあわただしさのなかで、あまりゆっくり話すことはできなかった。その後、金太さんと秀子夫人が上京される折に益田さんにくっついて食事をご一緒する機会に何度か恵まれ、高山の成功者となるまでの道のりの一部を聞かせていただいたりもした。丁稚奉公をたらい回しにされた苦労話をするときも、三本ボウリング工事したら三本とも温泉を掘り当てた幸運話をするときも、同じようににこにこと話され、聞いているほうも、山の話と同じくらい谷の話に引き込まれた。金太さんの生い立ちのおすそ分けをいただいた体験が、『わしゃ、世界の金太!』の執筆協力で活きた。

生きることは出会った人の心に種を蒔くことに似ている、とわたしは思う。金太さんの人生は、祭屋台をはじめ大きな花を生前から咲かせていたけれど、わたしには、「このお寿司、おいしいから食べなさい」と買ってきてくれた折詰や、「金太さんが今井さんによろしくって言ってたよ」という益田さんからの伝言といった、ささやかだけれどやさしい香りのする花を遺してくれた。益田さんとやりとりしながら金太本の原稿を準備していたとき、金太さんが「益田さんと今井さんを伊豆の温泉に招待したい」と申し出てくれたことがあった。まだわたしが会社勤めしていた頃で、残念ながら都合がつかず、「お気持ちだけいただきます。また、いつの日か」とお返事した。それから二年、いつの日かのお楽しみの温泉旅行は叶わない夢となった。金太さんが亡くなる前の数年間、短いながらも忘れがたいつながりを持てたことに感謝したい。

2006年9月29日 金太本、ついに出版。

2005年06月05日(日)  2人×2組の恋の映画『クローサー』
2004年06月05日(土)  『ジェニファ 涙石の恋』初日
2002年06月05日(水)  シンクロ週間

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