家のテレビで『生きる』を観たのは、中学生のときだっただろうか、高校生のときだっただろうか。「生きることと死ぬこと」を自分の問題として意識し始めた頃だったと思うから、中学生だったかもしれない。癌に侵された主人公の抱える焦燥に胸がひりひりしたことと、彼が公園のブランコで「命みじかし」と歌う場面の記憶は残っているけれど、細かい流れはよく覚えていなくい。シナリオの打ち合わせでも「黒澤の『生きる』みたいに」とよく引き合いに出されるので、あらためて見ておかなくてはと思っている矢先に、テアトル新宿の「黒澤明特集」でかかることを知った。
満席の客席には年配の方が目立ち、1952年の公開時にスクリーンで観てもう一度、という方もおられるのかもしれないと想像した。余命あとわずかと宣告されたとき、残りの時間をどう生きるか。それだけでも身につまされるスリルとサスペンスがあるのだけれど、その時間に起こる主人公の心境や行動の変化は、病のことを知らされない周囲の者にとってはまたサスペンスの対象になる。物語の中で主人公はできるだけ最後まで生かしておくものだけれど、主人公が去った後、葬式の場面で生前の主人公を振り返るという構成の大胆さに、さすがと脱帽。プロデューサーたちが言う「『生きる』みたいに」とは、こういうことだったのか、と思い至る。思っていることをうまく言葉にできない口下手な主人公に苛立ったヒロインが思わず放つ「ぽつりぽつり雨だれみたいにしゃべらないで」など、台詞もとても生きていて、テレビで見慣れない顔なので役者名よりも役名が頭に入るせいかもしれないけれど、役者が演じているのではなく登場人物が映画の中の時間を生きているように見えた。終映後、息を詰めて見守っていた客席から、感嘆のため息とともに拍手が起こった。「あらためて、いい作品だ」と称えるような拍手の響きに加わりながら、いくつもの才能が出会ってこの作品が生まれ、今日に遺されたことに感謝したくなった。
2002年06月04日(火) 回文ぐるぐる「サッカー勝つさ」
2000年06月04日(日) 10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)