仏頂面の主人公(ウィル・フェレル)が突っ立っている新聞広告にはあまり心惹かれなかったのだけど、何人か「面白かった」と言う人がいて、『主人公は僕だった』を観た。原題は『Stranger than Fiction』、直訳すると「事実は小説より奇なり」。平凡で面白みのない毎日の繰り返しを生きている男・ハロルドの耳に、自分の行動を描写する女の声が聞こえるようになる。小説を読み上げるようなその声の主はスランプの小説家であり、彼女が七転八倒しながら書いている新作の主人公がハロルドであると明かされていくのだけれど、『主人公は僕だった』という邦題が先に結果を明かしているので、驚きは半減する。
実在する人物と小説の登場人物がシンクロするという設定は奇想天外なようでいて、あっても不思議ではない気もする。「小説家は創造者ではなく、すでにある物語の発見者」といったことを小川洋子さんがインタビューで語っていたけれど、小説家が創造する以上の物語が現実には存在する。ハロルドの人生を小説がなぞっているようにも、小説に書かれた通りにハロルドの人生が進行しているようにも中盤までは見えていたけれど、ハロルドの人生に小説が先回りし、主人公の死という未来を告げられたところから、ハロルドの人生は一変する。小説の筋書きを軌道修正して自分の人生の筋書きを変えようと悪戦苦闘するのだが、時間をつぶすように生きていた主人公が、命のカウントダウンが見えた途端に残された時間を惜しむように生きるようになるさまは、先日観た『生きる』に通じるものがある。そういえば、ハロルドが恋をするパン屋のアン(マギー・ギレンホール)と『生きる』で小田切ミキさんが演じたヒロインは、美人というより茶目っ気のあるぽっちゃり顔(ふくれっ面がチャーミング)といい、言いたいことをはっきり言う威勢のよさといい、よく似ている。ハロルドを敵視していたパン屋娘が手作りのクッキーに気持ちを託して距離を近づけていく展開がとても微笑ましくて、わたし好み。ラブストーリーとしても楽しめる映画だった。
「事実は小説より奇なり」といえば、最近読んだ『数学的にありえない』()は、「確率的にありえないことが、偶然の連鎖によって現実となる」ことをエンターテイメントに仕立てていたが、下巻の最後にあった著者あとがきにも、ドラマがあった。著者はこの本がデビュー作だったのだが、「小説の執筆はこれまでにぼくがやったどんなことよりも共同作業が必要だった。さまざまな段階で、つねに誰かが手を貸してくれた。以下に挙げたどの一人が欠けていても、本書が出版にこぎつけることはなかっただろう」という書き出しに続けて、彼の最初の原稿を面白がってくれた人、出版エージェントにつなげてくれた人、出版を決めてくれた人、改訂を手伝ってくれた人、心の支えになってくれた人、おいしいものを食べさせてくれた人などへの感謝の言葉が続く。一冊の本が生まれる過程もまた偶然の積み重ねの結果なのだ、としみじみ思い、この本が生まれたドラマの末端に読者のわたしもいるのだ、とうれしくなり、その事実の不思議が小説本編より面白かった。
そもそも今自分がここに生きているという事実が奇なりで、少し前に読んだ『きいろいゾウ』(西加奈子)に「男の人と女の人が愛し合って、生まれた男の人と女の人がまた愛し合って、そういうことが延々と繰り返された逆三角形の頂点に自分がいる」「その三角形の中の一人でも欠けていたら、自分は存在しなかった」といったことが書かれてあり、ほんとにそうだ、と膝を打った。映画の邦題に話はもどるけれど、『主人公は僕だった』って、人生の主人公は自分だったと気づく、という意味もこめられているのだろうか。だとしたら深い。
2005年06月13日(月) 『猟奇的な彼女』と『ペイ・フォワード』
2004年06月13日(日) 映画『ヒバクシャ 世界の終わりに』