会ったことはないけれど、人生に大きな影響を与えてくれた人がいる。レーガン元大統領もその一人。中曾根元首相とのロン・ヤス時代に「日本とアメリカの若い世代が交流を深めれば、両国の絆はもっと強まるのでは」という会話がきっかけで、日米政府による高校生交換留学プログラムが実現した。全米50州から2人ずつが日本に夏期留学し、日本の47都道府県から1人ずつが1年間の米国留学をするという制度で、5年ぐらい続いたと思う。わたしはその第3期生だった。高校の廊下の掲示板に埋もれていた募集ポスターをたまたま見つけて応募し、留学の機会を得た。
幼なじみたちによると、留学する前と後でわたしはずいぶん変わったらしい。いちばんの変化は「積極性」のようで、「昔は人の後からついてくるタイプだった」と言われる。アメリカは、待っていては何も始まらない国だった。自分から行動しなければチャンスをつかめない、存在を認めてもらえない。逆に言うと、自分次第でどんどん面白くなる国だった。英語を身につけ、広告と美術と演劇の楽しさに目覚めたこともその後の進路を定めたけれど、何よりの収穫は、「世界は自分で広げるもの」と教えられたことだった。
レーガン・ライブラリー(Ronald Reagan Presidential Library)は、わたしがホームステイしたカリフォルニア州・Simi Valley市にある。たしか1991年の設立で、その年のクリスマスに里帰りしたときにホストファミリーと訪れた。「彼のやり方にはいろいろ思うところはあるが、Masakoを寄越してくれたことは感謝している」とホストファーザーは言った。わたしにとってのレーガン氏も、冷戦終結に心血を注いだ米大統領というよりは、夢をかなえてくれた足ながおじさんのような存在だった。
あの1年間がなければ、『公募ガイド』片手にコンクールに応募することもなく、コピーライターになることも脚本家になることもなかっただろう。日米合作映画の話が舞い込むこともなかっただろう交換留学プログラムはレーガン元大統領が遺した多くの功績の小さな小さなひとつだけれど、貴重なチャンスを得た当時の高校生たちは、それぞれの形で、元大統領が蒔いた種に根を張り、彼が育てようとした「草の根親善大使」になっている。わたしも、自分の作品を通して、国境を越えた心のつながり(日本とアメリカだけじゃなくて)を作っていきたい。元大統領の訃報を聞きながら、そんなことを思う。
2002年06月06日(木) 同窓会の縁