浅間日記

2005年12月30日(金) ニュース

秋田の温泉で亡くなった家族。
新聞を見て、目を疑った。
親しくはないが、ちょっとした知人である。

TVのニュースに、あなた方家族が
何故そんなに慌しく取り上げられているのですか?
と、信じられない気持ちのままでいる。

考えてみれば、生きて元気でいて当たり前と思い込んでいる付き合いの、なんと多いことか。

ため息ばかりの一日である。

2004年12月30日(木) 年の終りに日記考



2005年12月29日(木) 資本と消費の適正規模

大型店の郊外出店を禁止する都市計画法の改正。
国土交通省から15日発表された。

郊外で20ha以上の大規模開発を認めている規定の廃止と、
工場跡地への大型商業施設の出店を原則禁止が改正の柱である。
田舎の国道沿いによくある、ジャスコとかイトーヨーカドーのような大型店は、
もう作れませんよということだ。



いまさらか、というのが感想。
大店立地法のお陰で随分儲かっただろうし、ネット通販も普及してきたから、
そろそろ店じまいしてくれ、という意図か。

都心なら、どの街にも小さく元気に存在する商店街というのがあるけれど、
地方ではこれが、大型店という奴でほぼ完全に駆逐された。

それだけではない。
あの醜悪な大型店は、地方の生活文化をすっかり駄目にした感がある。
消費の形も、就労の形も、その土地にないひどいものを持ち込んだ。

もっとも、今では大型店と同等かそれ以上に、
コンビニエンスストアの存在が、やぼったい消費文化を地方に垂れ流している。



あの雪の日に訪れた飯田の街にはコンビニエンスストアが一軒もみあたらず、それで私はいくらか不便をしたのだけれど、
それよりも、大きな資本の看板がないこの街全体の雰囲気に、なんだか本当にほっとしたんである。

2004年12月29日(水) 感知



2005年12月28日(水) 他人の夢中

仕事納めの挨拶。年末の準備。

Hは年末年始の山行のことで頭がいっぱいで、既に存在感が薄い。
私には絶対に真似できない無防備さで、他のことは一切頭から排除して、
いそいそと道具を整えたり文献をあさったりしている。
文字通り、夢中である。

もうこれは病気だから仕方がない。
そういうHは、ここにいないものとしてあきらめる術を、
私も随分身につけた。

2004年12月28日(火) 自然災害とカレンダー



2005年12月27日(火)

ここ数日寒いのがつらいと思っていたら、
こないだは氷点下8度だったよと言われた。

数値化は大事だ。
そうかそれじゃ仕方ないな、と思うことができる。

そもそも寒いのは、冬だから仕方ないのだ。それだけのことだ。



2005年12月24日(土) 大工よ、屋根の梁を高く上げよ

明日つくるケーキの算段で家族会議。
構造は私が、意匠はHとAが担当である。

使う卵の数をこっそり1つ減らそうかね、と私が言うと、
そんなものは専門家が見れば一目瞭然だぜ、と、Hがニヤリとして言う。



土台や柱というものは、何事においても大切だ。
だから、言葉として色々な場面に生きている。


耐震強度偽装事件の騒動は、
マンションの土台と柱の問題それ自体もさることながら、
他者に仕事をしてもらうことへの感謝、そして契約に対する信用という、
社会の土台や柱がぐらついたこと、そのことが深刻だと思う。

2004年12月24日(金) 冬の祝祭日



2005年12月23日(金) パレオパラドキシア

仕事を終えて、やれやれと、雪の中、箱庭の街を一巡り。
昨日のことである。

街のはずれに「美術博物館」なる不思議な名称の施設。
かねてより学芸員のレベルの高さについてA君から噂を聴いていた場所で、
ついに訪れることができたと言うわけである。

誰も居ない静かな館内で受付スタッフから丁寧な説明を受けた後、
誰も居ない自然史のコーナーへ。
館内には、タイスの瞑想曲が静かに品よく流れている。

タイスの瞑想曲を聴きながら、誰もいない博物館の中で
150万年前のオオカミ類の骨や、180万年前のゾウの骨をみる。
生まれて初めてだし、多分最後になるだろう。

「…従って、150万年前のこれら○○も、この地で未来に発見される可能性がでてきたわけです」

150万年前のことについて、未来に託す。
これを書いた人にとって過去とは、未来とは一体どんなものなのだろう。
未来というのは、本気で願えば何でも託すことができるものだ。



2005年12月22日(木) 一陽来復

冬至の前に1月や2月のような寒さになることが、
これほどつらいとは思わなかった。
暗くて寒く、そして次の日はもっと暗くて寒い。

けれどもやっと、これで終わりなのだ。
冷酷無比な規則性は、一転して希望と救いに変化する。

この先どんなことが起きようと、
太陽の光は確実に力を取り戻していく。
もう大丈夫だ。それだけで充分だ。

2004年12月22日(水) 戦場跡地



2005年12月21日(水) composer

坂本龍一のピアノを聴きにいく。まつもと市民芸術館。

小澤征爾氏の牙城ともいえるこの街の、
小澤征爾氏の肝入で建設したこのホールでの演奏は、
聴衆のレベルの高さ−そんなものはこの街にないように思うけれど−
も意識するだろうし、さぞややりにくかったことだろう。



作曲家の演奏は作曲家のものである。これには誰にも文句が言えない。
アントニオ・カルロス・ジョビンだって
「音痴で何が悪い、それがボサノバだ」と歌にして、
本当にそれはそういうことになってしまった。全世界で。

坂本龍一という人の音楽は、
彼自身が彼自身のものとして添い遂げるべきものと、
別のプレイヤーによる解釈や演奏技術に託すべきものと、
ふさわしい場所へむかうべきではないか、というのが感想。

特に後のほうについては、何よりも彼自身がそういう枠組みを曲の中に与えているように思う。
いつの日か現れる「坂本弾き」を想定し、
時代の中で、何度も解釈され演奏されることを想定している。



ジョビンのボサノバも、ジョアンジルベルトに歌われることで、本当の命が吹き込まれたのだ。
そして、だからといってジョビンの歌に魅力がないというわけではない。

2004年12月21日(火) 船を出そう



2005年12月20日(火) 書き入れ時の貧しさ

「静かな日常」とは程遠い毎日の中で、
日記でもどうでもよい内容ばかりが続く訳である。

こういう時は、愚にもつかない考えなど書かずに、
起きた時間と寝た時間、食事の内容、一日の行動、家族の様子、体温血圧、
みたいなことを記録しておいたほうが、先々によほど有益かもしれない。

という訳で、時事社会はおろか、
自分の生活にさえ考えを及ぼすことができない。

2004年12月20日(月) 放心



2005年12月19日(月)

都内某所で打ち合わせ。

用件をすませ、慌しく家路をたどる。
週刊誌やら文芸誌はもう今年の総括をやっている。
10大ニュースとか鬼籍に入った人とかキーワードなんかが紙面を飾っている。

まだちょっと自分はそんな状況にない。

2004年12月19日(日) 



2005年12月17日(土) 興行考

「見せるために作ってるんじゃないよ、作ってるところを見せているんだよ」
こう言われたのは、群馬県新治村の「匠の里」なる観光施設で、
わら細工だか何か忘れたが、伝統工芸品の店先。
もう10年も前だけれど、面白いことを言うものだと記憶していた。



見せるために作るのか、作るところを見せるのか。

音楽で飯を食うというのは幸せなんだろうか、と常々思っていた。
それが市場にのった新しいジャンルであればあるほど、そう思う。

録音技術は、世界中の人が優れた音楽を聴く機会を与えはしたけれど、
それと同時に、音楽から質量を奪ってしまった。
レコードやCDみたいに物として存在しているうちはまだよかった。
今や、ついに、あんな小さなポッドに納まってしまい、姿かたちさえなくなった。

本来、圧倒的な存在感をもって人間の生を表現するはずの音楽は、
有機的な側面のかけらもない、情報の一つになってしまったんである。

音楽興行で聴衆が求めるものは、情報として何べんも耳にした記号の再生確認にすぎず、
ミュージシャンは音楽再生装置としての役割を果たさねばならない。
録音した時の演奏どおりに、忠実に。
グレン・グールドや岡村靖幸が引きこもるのも、もっともな話なんである。

そんなことはゴメンだと市場に背を向けて音楽活動を続けることも可能だが、
皮肉なことに、背を向けている人の音楽がよい音楽という訳ではない。

まあ、王様や貴族がお好みの音楽を嫌々作って演奏する時代もあったのだから、
芸術家というのは、どの時代であっても時代なりの葛藤や困難を抱え、
それでも上手にタフに折り合っていかなければならないのだろう。

ただ私は、本当に自分の人生の糧になる優れた音楽というのは、
聞かせるために演奏されたものなどではなく、
その人がその人として全身全霊で自分の音楽を愛し、表現するところにしか現れないと思う。

来週出かける坂本龍一のピアノコンサートは、そういう点で楽しみなんである。

2004年12月17日(金) 童話再び・駄文



2005年12月16日(金) 音楽の意味

村上春樹「意味がなければスイングはない」読了。

音楽について感じたことを文章で表したい、という彼の心の琴線にふれたアーティストは、
シダー・ウォルトン
ブライアン・ウィルソン
シューベルト
スタン・ゲッツ
ブルース・スプリングスティーン
ゼルキンとルービンシュタイン
ウィントン・マルサリス
スガシカオ
フランシス・プーランク
ウディー・ガスリー

である。もう自分の一部のようにその音楽をよく知っている人もいれば、
全然知らないアーティストや名前だけはかろうじて、という人もいる。
そしてこの本は、その音楽を知っていて読むほうが、間違いなく断然味わい深い。

後書きを読む。
この、「ステレオサウンド」に掲載されたシリーズは、
ジャンルを問わず優れた本物の音楽を、優れた本物の音楽として成り立たせている「何か」について、
自分の言葉で、自分の能力の許す限り追い詰めてみたかった、という
村上氏の挑戦であり、実験であるそうだ。

世の中のあらかたの出来事は
−どこをどう切り取るかは自分のお好みとして−
自分の言葉でその本質を表現できる作家である−少なくとも私はそう思っているのだが−村上春樹氏が
「挑戦」というのだから、音楽を文章で表現するということは、
相当に、適度な困難性をもった魅力ある作業であるということがわかる。

2004年12月16日(木) 狼もいる、母親ヤギもいる



2005年12月15日(木) 南へ北へ

ああもう明日に間に合わない、という状況が手を変え品を変え、波のように続く。
よくもこれだけ抱え込んだものだとさすがに自分でもあきれる。

昼から再びミニチュアの街へと、高速道路をとばす。

この街は大伊那谷の入り口で、精巧にできた箱庭みたいな街なんである。

段丘やら平坦部やら地形の変換点的要素が多くて、
木曽谷の入り口である桔梗ヶ原みたいに、私好みの場所である。

気候も文化も言葉も太平洋側のもので、善光寺平あたりとは何もかも違う。

所用の後、再び伊那谷を北上す。
どうも疲労を感知するリミッターが壊れているようだから気をつけなければ、と思いながら、
どこをどう走っているのか朦朧としているうちに、帰宅。

2004年12月15日(水) 追って狂気の沙汰を待て



2005年12月14日(水)

帰宅。

雪である。Aが元気だったのでよかった。




2005年12月13日(火) おおきにの国

終日、大阪某所。

大阪弁に囲まれて終日過ごす。
決してワンストップで終わらない会話の不思議である。
何故そんなに親しげにするのだという不思議である。



日本語は日本という国家より古い、という話を読んだのは何処だったか。

言語の中にはその土地の風土に根付いたコミュニケーションのプロトコルが隠されている。
そして大阪弁で交わす会話の場合、親しみのあるコミュニケーションを
暗黙のうちに許しあう何かが潜んでいる。
だから関東の人間が時々おかしな関西弁を口にするのは、
親しいコミュニケーションをとりたいというサインなんである。

それでは信州の言葉は何が潜んでいるのかというと、
それは多分、「議論」ではないだろうか。
とにかく信州人というのは議論好きなんである。

もっと他の言語、英語やフランス語、スペイン語、中国語はそれぞれどんなものか。
そして、失われてしまった少数民族の言語についても思う。
そこには言葉とともに失われてしまった概念や文化が必ずあって、
その中には少なからず、現代の消費文化にさらされた私達が決して持つことのできない自然と人との関わりに関する要素があるはずで、私はそれを知りたいなと思う。

2004年12月13日(月) 王様の手料理



2005年12月12日(月)

気がかりなAを残して、大阪へ。

途中所用で寄った町から長距離バスに乗る。
小さくて古いバスターミナルの周りには、
小さくて古い土産屋や小さくて古い飯屋が立ち並んでいる。
ミニチュアみたいな街である。

小さいがどれも色々な設えが施された丁寧な建物で、
間取りも高さも、これだけあれば充分という相応の規模に納まっている。

客あしらいの上手い食堂の女将にお茶を出されつつ、手早く昼食をとる。
今年は寒さが早いから干し柿が美味いよとかなんとか、地元の話題。
お客さん大阪まで行くんじゃ大変だ、と、気遣いされる。

ヒューマンスケールの街で一息ついて、大都会へ。

2004年12月12日(日) 高尾山



2005年12月11日(日) 女の子は大人より賢い

少女が塾講師である大学生に刺されて命を落としたというニュース。

ここのところの児童をねらった犯行とは動機が少し違う、
というのが私の感想。

過去にも犯罪まがいの行動や暴力沙汰を起こしている男だった。
大人社会が甘い処分をして、何となく社会の枠組みに存在させ続けた。

この女の子だけが、大学生のインチキで卑怯な生き様を見抜いていたのだ。
正面からNoを言い渡し、自分とのかかわりをもつことを拒否した。
そうして、可哀相に、卑怯な暴力の犠牲者となってしまった。



女の子は大人より賢い。
トルストイだってそう言っている。

そして、女の子は大人より弱い。
トルストイは言ってないけれど、誰にだってわかることだ。

賢さをねたんで大人の力でねじ伏せるのは、自分に自信がない証拠なのだ。
賢い人もいる、愚鈍な人もいる、善良な人もいれば悪い人もいる。
その中で自分が存在する意義を考えるのが、大人の生き方のはずだ。



2005年12月09日(金)

何度も何度も私に守秘義務を課し、さらに何度もためらい言葉を探した末のAの告白は、
ここ数日再開した外での生活が、やはり自分にはつらいというもの。

「驚くことに、今日も昨日もその前も、ずっとお腹が痛かったんだよ」なんて風に言う。
そして、苦しそうな息づかいをしたまま眠ってしまった。

親としてはまず本当に健康上の問題がないのかを確認して、
次に生活を変える舵取りをしなくてはならないのだろう。

こういう場面では、私とHも、誰かのアドバイスや助けを借りるという、
あまり経験のないことに取り組む必要があるのかもしれない。

2004年12月09日(木) 宮崎監督のゲルニカ



2005年12月08日(木) 社長を出せ

トラブルが起きそうな仕事について、
どうにも動きの悪い担当を飛ばし、トップに相談する。
問題点と課題、対策とこちらのキャパについて伝える。
小さい火種でも早めに消火することが、1人仕事では大切だ。



Aはどうも担任にひどく怯えているのらしい、という話を園長に相談する。
いくつかの事例を報告し、どうすればよい方向に向うのか相談する。
どうぞ、Aは口は達者だが本質は小さな子どもであることを忘れないでほしい、とお願いする。


こういうオーバーヘッドなやり方は、まったく本意ではないし、
飛び越した人との関係が悪化する覚悟がないといけない。
何かのルール違反かマナー違反をした気分で、自分も疲弊する。

でも、もういいのだ。結果オーライだ。



2005年12月07日(水)

初雪が残る木曽谷へ。道行にメンデルスゾーンの無言歌集。

所用を済ませた後に、小さな茶店に寄ると、
女主人が顔を見るなり久しぶりと言った。
夏の1日、気まぐれに訪れた客の顔を覚えていて、
人なつこく話しかけてくる。

中途で初老の男性が饅頭を買いに。
「饅頭4つね。お使い物だから簡単でいいよ。」
「はいはい。今日も寒いね。」
「寒いね。もうこれから四ヶ月は駄目だね」
「駄目って何さあ」
「年よりにゃここの冬はしんどいってことさ」
「駄目ってことないでしょう」
「どっか暖かいとこで暮らしたいね」
「またまた。」

暖かいストーブの前で、たわいもない女主人の話を聞く。
正月のあいさつができる頃にはまた来ておくれよと言われながら、店を出る。

再び、メンデルスゾーン。
世界には、こんなにも穏やかな喜びや安心が存在するというのに、
何故Aは、あんな混沌と不安の中にいなければならないのか。



2005年12月06日(火)

深く疲弊したAは家の中に居て、ずっと絵を描いている。
誰も人間が出てこない、花の絵ばかり描いているんである。

一昨日、昨日の分と増えていって、
家の中は壁に貼った花の絵で一杯になった。

2004年12月06日(月) 充実感は自分だけ



2005年12月04日(日) 土俵際

Aを連れて、図書館へ行く。
沢山の物語を聞かせる。
予定調和のディズニーではなく、無念な話や悲しい話、そして本当の希望の話を。
Aの、やりきれない現実世界に、物語の錘をつけることで、
ひょっとするとそれは、静かに心の底へ沈んでいくかもしれない。
そう思ったからだ。

Aを連れて、温水プールへ。
そこは市営の小さなプールで、子どもはほとんどいないし、
猛烈な勢いでバタフライをやったりする人もいない。

浮力に身体をあずけて、その感覚を楽しんでいる。
深く潜って、その遮断された世界の中にいる。
強張った身体と心がほどけてきたころに、
Aはやっといい顔で笑った。



他には何もできなくてもいいから、あなたを苦しみから守りたい、
という歌のようにできればいいのだが、
何しろ食っていくためには、Aを苦しみから守る他に色々やらねばならない。
かくしてAとの1日が収まった深夜、この数日でできなかった仕事を片付ける。

こんな大変な時に、今週はまた彼方此方出かけなければならないし、
何本かの仕事で大切な約束をしている。

全てを捨てて一緒に逃げようか、という、場違いな科白がうかぶ。

2004年12月04日(土) 売った覚えのないものを買い取られている話



2005年12月02日(金) Think Think Think

「lamplight」という意味の名を自分の子に授けたことについて、
今だけは少し、後悔している。

自分は一筋の光すら放たなくても、
光に囲まれて生きていく方法もあるだろうに、

この人は、誰かを照らすことはできたとしても、
自分の周りは闇ばかりで、誰からも光をもらうことができない。

そんな取り返しのつかない孤独な運命を背負わせてしまった気がするのは、
あんな小さな子どもに、「集団に馴染めず自分は一人ぼっちだ」と、
遠慮がちに小さな声で告白させてしまったからなんである。

そして、もう少し早く気付いてやればよかったという後悔とともに、
こういう試練は、将来この子に何度か訪れるだろうな、
と予感してしまうことが、またその思いを強くさせるのである。

どうすればいいかは考えるしかないし、考えれば何とかなるはずだ。
こういう時には、全身全霊で自分をだまして、タフにならなければいけない。



2005年12月01日(木)

今日から12月。

いくつかの心配ごとについて、Hと話し合う。
本当に腹を割って話をしなければならない局面に、この男は強い。
丁寧に、誠実に、そして理論的に自分の考えをテーブルにのせてくる。

こういう時、私はHの両親に、本当に感謝する。
人と真剣に向き合うということについて、その手本をHに示したのは、
間違いなく彼らなのだ。


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