無責任賛歌
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| 2005年08月25日(木) |
トラノアナ潜入記/舞台『弟の戦争 GULF(ガルフ)』 |
朝からしげは風邪気味、私も下痢気味で二人揃ってダウンである。 しげは「子ども文化コミュニティー」の裏方アルバイトをする予定だったのだが、急遽断りの電話を入れて休んだ。 そのまま休んでいたかったのだが、舞台のチケットを買っているのでそうもいかない。 鴉丸嬢を迎えに行って、天神に向かう。
もともと今日の芝居は細川嬢を誘っていたのだが、都合が悪くなったので、チケットを鴉丸嬢に譲ったのだ。最初は鴉丸嬢、「お金が払えないから、ほかの人に譲っていいよ」と断ったらしい。そうしたら細川嬢、「お金要らないから黙って受け取れ!」と怒ったのだそうな。 鴉丸嬢は「怒られちゃったあ」と笑っていたが、これは細川嬢の「いいお芝居はちゃんと見て、自分のマンガの参考にしなさい」という気持ちの表れだろう。こういう衷心は遠慮せずにちゃんと受け止めるもんだよ、鴉丸さん(受け止めてないわけではないだろうが)。
芝居が始まるまで、少し時間があったので、鴉丸嬢が「まだ行ったことがない」という「とらのあな」を覗くことにする。知らない人はいないと思うが、ここは闇のプロレスラーの養成所である。うそ。 鴉丸嬢のような、アチラ方面に濃い方が「とらのあな」に足を踏み入れたことがないというのはちょっとフシギではあったのだが、つい最近まで、天神に出店があることを知らなかったのだそうな。ネット販売ではもう完売してしまっている同人誌を探したいというので、こちらも付きあうことにする。 実は私も何度かしげに「入ってみないか?」と誘っていたのだが、何しろ表が実にいかがわしいから、怖くて入ろうとしなかったのである。 「だって外から中が見えないんだもん」 「あれは、中にいる人を安心させるために見えなくしてるの!」 鴉丸嬢にそう説得されて、ようやくしげも禁断の地に足を踏み入れることになったのであった。 まあ、入ってみれば普通のエロな同人誌ショップである(笑)。 BLコーナーにいかにもな腐女子がタムロしているほかは、中にいるのは見るからに電車男ファッションなオタクの群れである。ところが鴉丸嬢はエロなら何でもオールマイティーだから、密集している電車男たちの間にもスイスイ平気で入っていくのである。 そうなると、電車男たちにとっては、自分の妄想の世界に浸っている最中に、いきなりナマのエルメスが出現したようなもので、ヒビッて引くこと引くこと。うーん、やっぱり修行の足りないやつらが多いんだなあ。鴉丸嬢、目的のブツを発見したようで、欣喜雀躍。早速、会員カードも作っていた。 しげが「あんたもこういうの買うの?」と聞いてきたので、「お前と会う前は結構買ってたよ。あさりよしとおさんのとか、毛羽毛現さんのとか、プロの人のだけだけど」と答える。しげはなんだかフクザツな表情をしているが、つまりは私がここにいる電車男君たちと同類であることに対して、違和感を感じているのであろう。ったって、私は紛うことなきオタクですがな。 探し回ってみると、今は亡き(死んでないけど)安永航一郎さんの「沖縄体液軍人会」の同人誌が2冊あったので、両方とも購入する。さすが地元だ、揃いがイイわ。 安永さんは出版社とトラブル起こしまくって、『超感覚ANALマン』も『火星人刑事』も続きが出ない状況になっているので、新作はもう同人誌でしか読めない。度胸のある出版者が安永さんを引き取ってくれると嬉しいんだけどなあ。太田出版あたりがドンと一発やってくれないもんかね。 安永本が入手できたおかげで、しげはウキウキである。ついさっきまで「入りきらん(=入れない)」と言っていたのが、「また今度来よう」に変わってしまった。また鴉丸嬢と予定が合えば出向くことになるだろう。
福岡市民会館で、劇団うりんこによる舞台『弟の戦争 GULF(ガルフ)』。 原作はロバート・ウェストールの児童文学、脚本・演出は鐘下辰男氏。 いやもう、何というか感無量、押し付けがましく説教臭い「反戦」作品ばかり作っている映画人、演劇人は、鐘下さんの爪の垢でも煎じて飲めと言いたくなるくらいの傑作だった。
主人公のトムには、子供のころ、「フィギス」という名の想像上の友達を作って遊んでいた。彼が三歳のときに、弟・アンディーが生まれる。ところがトムは、弟のことを「フィギス」と呼び、自分の前では常に「フィギス」として振る舞うように強要する。 アンディーは優しい子で、兄のトムの言うことは何でも聞いた。しかしそのうち、トムはアンディーに奇妙な能力が備わっていることに気付く。精神感応。彼には人の心を読み取り、遠く離れた外国の人々と交信することさえできたのだ。見たこともない呪術師の名前を言い当てる。飢えた難民の子どもの写真を見て「助けてやって」と叫ぶ。建築家の父も、市会議員の母親も、そんなアンディーを少しばかり持て余し気味であったが、トムはアンディーがだんだんと「深み」にはまっていくのを面白がって見ていた。 しかし、そうしているうちにトムが15歳、アンディーが12歳になったとき、弟は「あちら側」に行ったきりになってしまった。彼はアラビア語しか話さなくなった。自分の名は「ラティーフ」だと言った。そして、彼は戦場の塹壕の中にいた。現実世界でも、海の向こうで戦争は始まっていた……。
圧倒されたのはまず舞台装置である。 演劇の成否は、まず舞台美術が単なる置物ではなく「演劇」を志向しているかどうかに懸かっていると言ってもいいが、これは最上の舞台と言ってもいい。 建築中のビルの鉄骨、これが中央を取り巻く壁のように組み立てられ、移動し、あるときはこれが家に、あるときは病院に、あるときは戦場に見立てられる。 工事の騒音は戦場の爆音にシンクロし、ラグビーの試合は戦場の戦いに見立てられる。しかしそれはただの見立てではない。科学が兵器を作りだし、闘争心が諍いを生んだ事実を象徴する演劇的寓意である。 演出の鐘下さんの主張はこうである。「知識としての戦争を理解するためのドラマではなく、経験として戦争を実感していくドラマ」、それを作り出すこと。そのためには、舞台上に二つの「機能」を持ったものを配置することが必要だった。 一つはもちろん、アンディーでありフィギスでありラティーフである「弟」である。 トムのいる世界は平和なこの国である。戦争の陰はどこにも見えない。テレビからは始終戦争の映像が流れてくるが(実際に舞台には無数のテレビが置かれている)、スイッチを消せば、戦争は目の前から消えてなくなる。戦争はいつだって他人事で、対岸の火事で、よその国で誰が何人死のうと関係なんかない。そうほざいて仮に誰かの叱責を買ったとしても、少しも痛痒を感じはしない。我々は、もう長いこと、戦争を自覚せずにすむ世界に住んでいるのだ。 「戦争をなくしてくれよ!」と糾弾された母は、文字通りテレビのスイッチを切るという行動に出る。そしてこうも言うのだ。「私たちに何ができるって言うの?」。 まさしくその通りだ。誰にも戦争を止めることなどできない。政治家にも、学者にも、軍人にも、もちろん庶民にも。我々が戦争を知らずに来られたのは、そして、海の向こうの人たちが戦争に巻き込まれてしまったのは、ただ生まれた国が違っていたという「運」の問題でしかないのだ。 怖いのはこれからだ。目の前の弟が、現実に戦争を体験していても、誰も彼を救うことはできない。彼は、精神感応という能力を持ってしまったばかりに(そしてそれをおもちゃにした兄のせいで)、現実の戦争を体験することになってしまった。けれども、もしその能力が「兄である自分の方に発動していたら」? もっと端的に言えば、アンディーの存在は、もし、自分が「あの国に生まれていたら?」という問いかけを観客一人一人に問いかけているのである。知恵も、勇気も、努力も、何の役にも立たない。人間の営為が全て否定される世界に生まれるも生まれないも、それは全て「運」なのである。こんな「不公平」があるだろうか? そしてもう一つの戦争を実感するための「機能」、それが檻のような鉄骨の装置である。 平和な世界では戦争はファンタジーでしかない。しかしそのファンタジーが容易に現実の戦争に反転し、シンクロすることを、この装置は見事に表現している。ここでも「運」の問題が浮上してくる。工事現場のドリルを握る手が、運が悪ければ戦場で銃を持つ腕に変わっていたかもしれないのだ。ラグビーボールを握る手が、手榴弾を握る手になっていたかもしれないのだ。しかし、もしもそうなっていたとしても、私たちにはその運命を帰る力などないのだ。こんな「不公平」があるだろうか?
そして、この戦争の悲惨を回避する唯一の手段を、この物語は極めて冷静に示してくれる。キレイゴトだけの反戦映画『ハウル何たら』のように、電話一本で終わるようなアホな解決方法ではない。極めて実効性の高い、現実的な解答である。 それは狂うことである。 それ以外に方法があるか? それ以外に戦場にいても戦わず、敵を殺さずにいる方法があるか? 自らが死ぬのでなければ、戦争の残虐、戦争の悲惨から脱出する方法はないのだ。運命に逆らう方法はそれしかないのだ。世界が既に狂っているのだから、我々個人は更に狂うことでしか、正常にはなれないのだ。 「あれから何が変わったか。弟は変わらない。弟はずっとあのままだ。変わったのは僕たちだ。父はラグビーを止めた。母は仕事を辞めた。そして僕は……」。 しかし、現実の我々は、今のこの「ファンタジーとしての平和」にいつまでもしがみついているだろう。スポーツという擬似戦争に狂喜し、政治という擬似社会を構築する方法論に期待し、実はそれが「ファンタジーとしての戦争」を夢見る行為であることに気付きもせずに日々を過ごすことだろう。 だから政治とスポーツを嬉々として語るような既知外連中は鬱陶しいんである。
芝居を見終わったあと、鐘下辰男さんとの懇談会などもあったのだが、そこまで鴉丸嬢を付き合わせるのは申し訳なかったので、そそくさと会場を後にする。 鴉丸嬢、「事前に何も筋とか知らなかったから、面白かった」との感想。 確かに、映画にしろ演劇にしろ、先入観がない方が虚心坦懐に作品を見ることができるし、楽しいに違いないのだが、これだけたくさんのモノが溢れている状況では、完全に情報をシャットアウトもできない。ちょっとした粗筋とか、そういうものを参考にして、「この映画を見よう」とか選択の基準にするしか仕方がないのである。まあ、事前情報を仕入れていても、それに振り回されない冷静さを培うことが大切だろうなと思うのである。 事前情報がなさ過ぎるのも良し悪しだというのは、時には大きな勘違いをしてしまうこともあるからだ。 鴉丸嬢、「途中まで、外国の話じゃなくて日本の話だと思ってた」と言ってたが、貰ったパンフの表紙くらいは見ておこうよ。作者、外国人だぞ。それに、冒頭からトムとかアンディーとか、名前が出てたんだがなあ。それとも鴉丸嬢のご近所には「トム山田」とか「アンディー吉田」とか、そんな人の方が多いのだろうか。
箱崎の「ゆめタウン」の中華な店で、三人で食事。 どうやって作ってるんだかよく分からないが、「黒いチャーハン」があったので注文してみる。見た目は本当に黒かったが、味は普通のチャーハン。別に外れではなかったからいいんだけれども、ものすごい味を想像していたので、美味いのに拍子抜けであった。
食事をしながら、例の天神にできた「メイドカフェ」の話を鴉丸さんにしてみる。「バイト募集してるみたいだけど、やってみたい?」(もちろん冗談で聞いてみたので、其ノ他君、怒らないでね)。 年齢制限は18歳から25歳までだよ、と言うと、「年がギリギリだから」と首を横に振った。隣からしげが「若く見えるから大丈夫」と茶々を入れる。 「高校のころは年上に見られてたんだけどね。最近は『大学生?』とか言われるよお」 「いいなあ、私なんか最近全然、歳を聞かれない。メイドは無理かな?」 確かにしげは見た目年齢不肖なところがあるが、20代に見られたいというのはいくら何でもおこがましいというものであろう。 「メイドカフェは女性が入っても『ご主人様』と言ってくれるのだろうか?」と鴉丸嬢は気にしていたが、男性専科とは謳ってなかったように思うから、大丈夫なのではなかろうか。もっとも、本当に入る気があるかどうかは疑問だけれども。
東京のグータロウ君からしげと私の携帯にメールが来ていたので見てみると、先日お送りした「こどもびいる」が届いたとの知らせだった。 「こどもびいる」の正体は、昔からある「ガラナ」とか「アップルタイザー」ってやつなのだが、コップに注ぐと黄金色で泡が立ち、ビールのように見える。 そこに着目した福岡の「下町屋」という店が、数年前にラベルを貼り替えて売り出したら、これが爆発的にヒットした。福岡では、レストランのメニューに入れているところもあるが、去年あたりからはデパートなどでギフト用に売られているものも見かけるようになっている。そこから全国区に人気が広がっていったものらしい。 『はなまるマーケット』や『やじうまプラス』でも紹介されたというので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれない。東京でも何軒か、売ってる店があるようなのだが、グータロウ君のうちの近所ではまだあまり見かけないようなので、話のタネにお送りしてみることにしたのである。 取り扱い店に頼んだのは日曜日だったから、ちょっと届くのが遅れた感じだが、台風の影響か何かだろうか。随分喜んでいただけたようで、みんなで飲んでいる写真まで添付している。しげのとこに送ってきた写真はお子さんがビンをラッパ飲みしてる姿で、ちょいと行儀は悪いけれども「こんなに大人ぶってるよー」ということか(笑)。これがきっかけになって、うっかりホンモノのビールに興味を持ったりたしないでほしいものだが。 「こどもびいる」を一番楽しめるのはやはり小学生のお子さんがいる家庭だろうなあと思っていたのはドンピシャだったようで、嬉しいことである。。 ネットでも注文できるようなので、ご興味のある方は、「こどもびいる」で検索してみてください。 鴉丸嬢をお宅に送り届けて、帰宅は11時。 ちょっと遅かったが、しげが「こどもびいる」の反応が聞きたいと言うので、東京のグータロウ君のうちに電話を掛ける。 口調で受けていただいた様子が分かって、こちらも嬉しい。 お子さんが「ラッパ飲み」していたのは、ちゃんとコップに注いで飲んだ後、ふざけて空ビンを口にしただけなので、躾が行き届いていないわけではないよ、とのこと。猿股失敬。あとはお子さんがたが学校で「こないだビール飲んだよ」とか誤解されるようなことを言わないように気をつけてもらえばよいかと思う。 でもってまた劇団の話、芝居の話などを少々。 今日の芝居、鴉丸嬢も面白がっていた話をすると、「マンガの参考になればいいねえ」との言葉。グータロウ君も鴉丸嬢がプロを目指しているのは知っているから、これは叱咤激励の言葉である。鴉丸さん、ホントにね、いろんな人から期待されてるんだからね、根性入れて頑張りなさいよ。 また長話になりそうな感じだったのだが、あちらの背後で何やら音がした。「ちょっとごめんね、今日はこれで」と挨拶もそこそこに電話を切ることになってしまった。どうやら緊急事態が起こった様子である。台風も東京を直撃のようだし、先日から彼の日記でも何度か書かれていたので、何が起こったのか、事態の中身は見当が付く。ヒトの不幸を喜ぶようで恐縮なのだが、先日、メールでも「『ふるやのもり』に取り憑かれてるのかい?」と書いて送っていたのである。でも「妖怪屋敷」に住むなんて滅多にできる経験ではないし。ほかにも「家鳴り」とか「吹っ消し婆あ」とか「網切り」とかいるんじゃないか(笑)。
蛇足ではあるが、「ふるやのもり」の昔話について、ご存知のない方へ、だいたいの筋を解説しよう(確か昔、テレビアニメ『日本むかしばなし』でも紹介されたことがあったと記憶している)。今回は特別に「博多弁バージョン」である(笑)。
ある嵐の夜、村外れの農家に、泥棒が忍び込んだ。そこには爺さんと婆さんが寝ていたが、寝物語にこんなことをお喋りしている。 「なあ爺さん、こげなえずか夜に泥棒の来よったら、どげんするとね」 「何ね婆さん、泥棒やら『ふるやのもり』に比べたら、なんちゃなかよ」 天井裏に潜んでいた泥棒は、泥棒よりも恐ろしい「ふるやのもり」とは何なのだろうと驚く。 そこに今度は狼がやってきて、爺さんと婆さんを食ってしまおうとする。 「なあ爺さん、こげなえずか夜に狼の来よったら、どげんするとね」 「何ね婆さん、狼やら『ふるやのもり』に比べたら、なんちゃなかよ」 土間に上がりこんでいた狼は、狼よりも恐ろしい「ふるやのもり」とはどんな化け物だと驚く。 嵐は激しくなり、稲光がピカッと光って、篠突く雨がザアッと音を立てて茅葺屋根に降り注いだ。 爺さんと婆さんは、「ああ、『ふるやのもり』が来よったばい!」と叫ぶ。 「ふるやのもり」がどこに来たのかと慌てた泥棒は、梁から狼の背中に落ちる。 「ふるやのもり」が襲ってきたのかと慌てた狼は、飛び上がって外に逃げ出す。 狼はしがみついた泥棒を振り払おうと嵐の中を必死に走るが、泥棒も振り落とされたら襲われると思って必死にしがみつく。一晩中走り回るうちに、泥棒もついに力尽きて狼から転げ落ち、狼もそのままフラフラとどこかへ行ってしまった。 次の日の朝、泥棒は仲間の泥棒たちにこう言った。 「よう聞いときい、あの農家にはうっかり近づいたらいかんばい。『ふるやのもり』っちゅうて、もうえらい化け物の出よるけんね」 次の日の朝、狼は仲間の狼たちにこう言った。 「よう聞いときい、あの農家にはうっかり近づいたらいかんばい。『ふるやのもり』っちゅうて、もうえらい化け物の出よるけんね」 そのころ爺さんと婆さんは、雨漏りですっかりびしょ濡れになった家中の畳を汗だくになって表に出していた。 「ああ、これやけん、『古家の漏り』はえずかとよ」
いくつか、結末が違うバージョンもあるようだが、基本形はこんな感じである。
2004年08月25日(水) 美人プラス1 2003年08月25日(月) 世代の違いってことじゃないと思うけど/『ASTRO BOY 鉄腕アトム』1巻(手塚治虫原作・姫川明) 2001年08月25日(土) 夢は宇宙/『なつのロケット』(あさりよしとお)ほか 2000年08月25日(金) 唐沢本の感想書けなかったけど面白いぞ/『垂里冴子のお見合いと推理』(山口雅也)ほか
| 2005年08月24日(水) |
再度、学校という腐れた体質について/『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』(武居俊樹) |
苫小牧高校野球部の不祥事の続報。 学校側の「隠蔽工作」が次々に明るみに。これはもう「温情判決」なんてしちゃったら、かえって毒だって事態になりつつあるけれども、高野連に届く投書や電話の六割は「部員は処罰しないで」という同情論だとか。 ホント、こういうアタマの悪いやつらが世間に横行していて(トバクに加担してる連中も多かろう)学校と球児を甘やかしてるから、不祥事はあとを絶たないんだよ(タメイキ)。 具体的には、教頭が被害者の部員に「三、四発殴られたくらいなら、出場停止などの処分にならずにすむ」なんて脅迫とも取れる発言をしていたとか。うわあ、マンガかドラマに出てくるような悪徳教頭。こういうやつらがマジで跳梁跋扈してるのが学校ってとこなんだね。 加害者の部長も、急に「十発くらいは殴ったかも」と前言を翻して殴った回数が増えた。これはもう、かなり殴る蹴るの暴行をしていたことは間違いのないことであろう。殴った数は、また二、三日したら増えるかもしれない。そもそもこいつは、明徳義塾の事件が起こって、高野連から暴力行為等の不祥事に関する注意が行われていたにもかかわらず、それを無視する形で体罰に走っていたのである。どう考えてもこれは高野連を「舐めて」かかっているし、「ちょっと指導が行きすぎた」程度のものではない。もしかしたら教頭あたりから「何かあってもうまくもみ消してやるから、好きにやっていいぞ」とか言われてたかも知れない。 こないだも書いたが、「部員の不祥事ではないから温情を」という主張は全くの見当外れなのである。高野連が旧態依然の「連帯責任主義」を取っていると思い込んでいる人も世間にはかなりいるようだが、これがまた全くの事実無根であって、「きちんと届出があれば」個人責任にとどめるケースの方が圧倒的に多いのである。今年も、山梨県大会中に選手の暴力行為が発覚した某校については、該当選手を外しただけで出場を認めている。 今回の件で問題にされているのは、あくまで高野連の注意すら無視し、事件の「隠蔽」が行われた、苫小牧学校の教育者にあるまじき教師連中の腐れた体質にあるのだ。高野連が事件を知ったのは22日午後に「週刊誌」の報道によってである。事件発生からは2週間が経っていた。更に苫小牧高校からの報告は翌23日の朝になる。「もはや隠し通せないと観念して」報告したことは明白だ。もしも事件が発生した時点で報告をしていれば、それこそ部員には何の落ち度もないのだから、「特にお咎めなし」になったはずなのに、なぜ隠蔽に走ったかと言われれば、「そういう学校だから」と言うしかない。 高野連の田名部和裕参事は「前代未聞の由々しき事態だ」とまで言い切っている。部員の不祥事だからたいした問題ではない、ではないのだ。苫小牧の正式な報告書を待って、審議委員会を招集し、優勝の扱いなど対応を協議することになったそうだが、今回の問題が、大会期間中の暴力行為であることに加え、はっきりと「明徳は部員、今回は部員ではない、ですむのか」という点にあることを表明している。 ネットでもこの問題を扱ったブログではすぐ「部員がかわいそう」論に流れているが、「そういう学校に入学したのが不運」なのである。こんなふうにチクリやリークで高校野球界の腐れた体質が暴露されてしまうのは、高校野球の沈滞に繋がるのではないかと危惧する向きもあるようであるが、そんな腐れた高校野球を温存することに何の意味があるのだろうか。膿はこの際どんどん出していった方が将来的には、高校野球のためになると思うのであるがどうだろうか。一時的な同情論など、本当に高校野球を愛しているのなら、軽々しく口にすべきではない。
夜7時から、『愛のエプロン』に『仮面ライダー響鬼』の細川茂樹さんがゲスト出演。 「ヤマダ電器」でDVDを買っていたので、時間に十分ちょっと遅れたが、食事タイムには間に合った。今日のメニューは泥鰌の唐揚げに柳川鍋。料理人はデヴィ夫人、鈴木紗理奈、インリン、磯野貴理子、杉田かおる(久しぶりの出演で泣いてたけど、周りが結構白けてたのが印象的)。 まあ、あまり味の方がイマイチ期待できないメンバーだが、以外に鈴木紗理奈がいい出来。磯野貴理子も味は濃かったがまあ美味しい部類。ほかはもう、どうしようもなかった。 予想通りインリンの料理は殆ど「害毒」で、鍋に泥鰌と溶き卵を流してカツブシをまぶしただけなんだから、味の方は想像もしたくない。細川さん、口に含むなり、別部屋に駆け出して行った(もちろん吐き出すためである)。外はまッ黒こげだが、中が完全にナマで、噛んだ途端にホネが膨大に出てきて、口の中に刺さるそうである。おげえ。 笑ったのは、細川さんが吐き出すたびに画面に「本当は強いライダーの活躍をご覧ください」と『響鬼』の画面が流れること。伊集院光から「このライダー弱え!」と突っ込まれていたが、魔化魍には強くてもインリンの料理には勝てないのだな(笑)。魔化魍の出没する地域にインリンの料理を置いといたら、自然に駆除できるんじゃないか。 しかし細川さん、無精ひげが結構伸びてたけれど、『響鬼』の方で山篭りするシーンでも撮っているのだろうか。
武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』(文藝春秋)。 タイトルはなんだかふざけているように聞こえるだろうが、これは立派な「マンガ家・赤塚不二夫」の評伝である。今後、赤塚不二夫について何か文章が書かれることがあるとしても、その際には必ず本書が参考文献として巻末に載せられることになるだろう。それほどに本書は赤塚不二夫の本質を忠実に描いて粉飾するところがない。 長年の赤塚さんファンならば、作者の名前を聞いて、それが誰であるかを察することはできるだろう。「タケイ」と聞けば「少年サンデー」のデカバナタケイを、「イガラシ」と聞けば「少年マガジン」の「デガラシ」を思い出す。どちらも赤塚さん担当の編集者であるが、二人とも赤塚マンガにおける「マンガキャラクター」であった(ほかにも実在人物の赤塚キャラと言えば、男ドブスの水島新司・牛次郎とか、カメラ小僧の篠山紀信とかがいるが、彼らはホンモノとは全然似ていないキャラデザインである)。 赤塚不二夫のことを書ける人間はこの二人の編集者に如くはないが、五十嵐隆夫さんが『天才バカボン』一作の担当であったのに対し、武居さんは『おそ松くん』『天才バカボン(マガジンから一時的に移籍)』『モーレツア太郎』『レッツラゴン』と、そのギャグの「進化」を、身をもって語れる立場にあった。この事実は、本書を執筆するにおいて重要なファクターとなっている。すなわち本書は、一人のマンガ家の評伝としての意味だけでなく、そのマンガ家の精神史を描くことによって、日本ギャグ史を描くことにも繋がっているからである。 昭和40年前後のフジオ・プロが、赤塚さんを中心として、長谷邦夫、古谷三敏、横山孝雄、竹中健治、高井研一郎、北見健一(現・けんいち)、芳谷圭児、あだち勉らによるアイデア・作画の完全分業体制で作られていたことは当時から知られていたことである。 ストーリー及びギャグは赤塚、長谷、古谷、それに武居記者が加わって練り上げる。それを元にして、ネームは赤塚さん一人がこなし、下描き、ペン入れ、背景、仕上げを残りのスタッフに委ねるという作業過程である。 そのようなプロダクション制を取っていたためだろう、本書には次のような記述がある。「赤塚は、『赤塚不二夫』というペンネームは、自分一人のものではないと思っている。符合だと思っている。自分はその代表者だと思っている」と。しかしそれは私にとってはかなり意外なことであった。 確かにフジオ・プロがさいとう・プロに先駆けてそのような分業制を取っていることは私も昔から知ってはいたが、あの一時代を画したギャグ・ギャグ・ギャグを見せつけられていたせいで、作家性の強い人だと思い込んでいたのである。私は他のアシスタントは赤塚さんの影響下にあるお手伝い人程度にしか認識していなかったのだ。事実は全くの勘違いであった。 もちろん赤塚さん自身もキョーレツな個性の持ち主である。しかし更にキョーレツな人々が、まさに多士済々、赤塚さんの周りには群れ集っていた。何に驚いたかというと、『おそ松くん』に登場するキャラクターで、主役のおそ松たちを「食って」しまって後半の主役に躍り出た脇役たち、イヤミ、チビ太、ハタ坊、ダヨーン、デカパン、彼らはみんな古谷三敏のデザインだったのである。それじゃあ後半の『おそ松くん』は殆ど「古谷三敏とフジオ・プロ」名義でも構わないほどだ(逆に古谷さんの初期の『ダメおやじ』のストーリー、アイデア、ネームは全て赤塚さんが担当していた)。 しかも、その協力者たちが実力を付けていくと、赤塚さんは次々と独立させていく。となれば当然自分の作品のアイデアマンが減って行くわけだが、そんなことを赤塚さんは意に介さない。『レッツラゴン』の時にはもうアイデアは赤塚、武居の二人だけで担当している。そして、ネームも作らずにそのまま原稿を描いていくという殆ど「セッション」のようなスタイルでマンガを描いていくのだ。あの「ギャグの極北」のようなマンガが成立していたのは、先を考えずに連想だけで描いていっていたからだったのである。
武居さんは『レッツラゴン』の『伊豆の踊子』の中身をこう紹介している。 「馬鹿熊のベラマッチャが、学帽にマント姿で伊豆を旅していて、踊子に出会う(私注・当然ドブスである)。踊子に連れて行かれて、ベラマッチャは、旅館に泊まる。旅館の主が出てきて『学生さん』と呼びかける。ベラマッチャが『なんだね、ドストエフスキーくん!!』と答える。(中略)そこから一気に、狂気の世界に入っていく」 作中ではあとの展開が書かれていないが、言葉では説明のしようがないくらいに脈絡がない。ベラマッチャは最後にはついに夏目漱石になってしまうのである(ということは夏目房之介はベラマッチャの孫か)。
私が好きな『レッツラゴン』のエピソードはこんなのだ。 男ドブスの水島牛次郎は、ドブスのあまり、全ての存在から嫌われている。人からだけでなく、モノからも嫌われているのだ。寝ていると、布団から嫌われて朝目覚めると裸になっている。卓袱台を出そうとすると、卓袱台はヘタる。食事をしようとするとおかずは「さあ、殺せ!」と言って泣く。背広は着られてくれない。ベルトは締めてくれない。靴は履かれてくれない。ウンコはドブスの体内から出られて嬉しくてダンスを踊る。ところがそんなドブスを見ても、馬鹿熊のベラマッチャだけは、少しも嫌うそぶりを見せないのだ。けれどそれはドブスをぬか喜びさせるためのイジメだった。怒ったドブスはベラマッチャを殴り倒して自分以上のドブスにする。やっと二人は仲よくダンス。オチは赤塚さんのモノローグで、「この男ドブスは実在します」(注・確かに、水島新司と牛次郎のご面相はお世辞にも美男子とは言えない。けれど赤塚さんの描く似顔絵はホンモノの100倍もドブスである)。 この「水島新司・牛次郎ドブスネタ」は当時の赤塚漫画ではしつこいくらいに繰り返されていた。よく、水島新司と牛次郎が怒らなかったものだと思う。 文字では伝えにくいが、赤塚マンガのアナーキーさが少しはご理解いただけるだろうか。 そんな作り方をしていけば、作品が破綻していくのは目に見えている。『レッツラゴン』が赤塚さんのマンガの実質的な終点だった。それ以後の作品に見るべきものはない。それはずっと赤塚マンガを追いかけていた我々ファンにもハッキリと判った。そんな悲しい事実すら、武居さんは何一つ遠慮せずに冷徹に記していく。 赤塚さん一人で描いた『クソばばあ!』は面白くもおかしくもない駄作になった。創刊したマンガ雑誌『まんがNO.1』は長谷邦夫の個人誌と化し、潰れた。詐欺に引っかかり、ヤクザに追いかけられ、愛人を作り、最初の妻と離婚した。アル中になり、マンガも描けなくなり、アシスタントたちも全ていなくなった。まさに転落人生としか言いようがない。 ところが、それらの出来事を記す武居さんの筆致は、扇情的な暴露にも告発にもならず、またお涙頂戴の感動ドラマにもならない。そこにあるのは、まさに一つの「歴史」だ。司馬遼太郎の歴史小説である。これはとても恐ろしいことだと思う。しかし同時に、人間を描くとはまさにこういうことかとも思う。 作品作りのみならず、赤塚さんの私生活にも「密着」していた武居さんだからこそ書けたことだとは言え、この冷徹さは残酷に過ぎるほどに見える。しかし恐らく、武居さんのその残酷さも、赤塚さんとの二人三脚の中で培われてきたものなのだ。
赤塚さんが脳内出血で倒れ、昏睡状態となったのが平成十四年の四月。今もまだ赤塚さんは七十歳の誕生日を目前にして眠り続けている。 武居さんは今年刊行された赤塚不二夫傑作選の『レッツラゴン』の巻末ではその事実をぼかして書いているが、本書は評伝としての意味合いがあるので、あえてその事実を書いている。 もう赤塚さんの新作を読むことはかなわない。 その残酷な事実を書いてなお、武居さんはこう書いた。 「僕が赤塚のことを言うなら、こうかな、と思う。 『女好き、大酒を飲む子供、小心者、歩く幼稚園、泣き虫、マザコン、人情家、天才漫画家』 そして最後は『不死鳥』と結ぼう。 不死鳥だったら、立ち上がって、四文字言葉を叫んでみろよ!!」 だからこの評伝は、愛の物語なのだ。 胃の腑をえぐるほどの罵倒語で綴られた愛の物語なのだ。 読むべし。
本名・赤塚藤雄、昭和十年九月十四日、満洲熱河省生まれ。 私の父はその八日後に生まれている。母は同じく外地である台湾・台北にいた。トキワ荘の仲間たちがみなそうであるように、赤塚さんは私の両親と同時代人だ。個性的でバラバラに見える彼らに共通するキーワードはやはり「戦争」だろう。 しかし、手塚治虫も、石森章太郎も、藤子不二雄もみな「戦争」あるいは「反戦」マンガを描いていたのに、赤塚さんは殆どそんなマンガを描こうとしなかった。もちろん、そんな必要はなかったのである。赤塚さんのアナーキーでナンセンスなマンガの全てが、戦争を含む人間の下らん生き様を笑い飛ばしていたのだから。
2004年08月24日(火) 江角英明さん追悼 2003年08月24日(日) キッチュと言うか、トンデモなのかも/『爆龍戦隊アバレンジャー』第26話/DVD『キノの旅』2・3巻ほか 2001年08月24日(金) 祝! 退院!/映画『RED SHADOW 赤影』 2000年08月24日(木) たまには一人で映画を見る日もあるさ/映画『怪異談・生きてゐる小平次』ほか
| 2005年08月23日(火) |
オトナもコドモも/『彼氏彼女の事情』21巻(完結/津田雅美) |
夏映画の興行収入予測が概ね出揃ったようで、1位は『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』で、最終的に110億円前後になりそうだとか。もっともこれは『エピソード1 ファントム・メナス』を上回るのはちょっと難しそうだということで、完結編だというのに客の伸びがイマイチだったのは、やはり1、2、3、通した映画の出来がまあアレだったせいがあるんじゃないのかな。 ノベライズ版を読んで、毎回思うことだけれど、『スター・ウォーズ』シリーズは小説の方がよっぽど人物描写が濃密でキャラクター心理が深く心に迫ってくるように感じてしまう。要するに映画の方は役者の演技力が不足しているということなのである。もちろんそれを引き出せない監督の演出力の方により問題があることは論を待たない。悪役好きの私としては、なんでドゥークー伯爵やパルパティーン評議委員長をあんな単細胞な深みのないキャラクター(あれじゃせいぜい中ボスレベルだ)に演出してくれたかと歯噛みする思いだ。無駄アクションシーンも退屈さを増すばかりだし、全シリーズを通して見られた殺陣がダース・モールとCGヨーダだけってのはあまりにレベルが低すぎるんだが、もともと殺陣の良し悪しなんて分かるわきゃねえアメ公に期待する方が間違いってことかね。 2位は『宇宙戦争』だが、1位に拮抗するほどの成績ではなく、60億円程度になりそうだと言う。『NEWTYPE』の今月号で、ゆうきまさみが本作を絶賛していたのだが、世間の悪評紛々たる状況を見て「オレの目はフシアナなのか!?」と頭を抱えていた。まあフシアナなんではないですかね(笑)。いや、最後にあっさり火星人(とは全く明記されてないがあえてそう書く)が細菌でやられちゃうのが拍子抜け、という批評については「原作がそうなんだから」という反論もあるようだが、アレは驕り高ぶった人間に対する文明批評としての寓意なんだからね。それを現代に生かすための工夫ができていないと言うか、原作の精神を全く正反対に演出しちゃってると言うか、その点でやっぱりマトモな評価は下せないんである。 ハリウッドの馬鹿映画が1位、2位だってのはまあしゃあないことではある。もともとヒットする映画の最大要素は、馬鹿馬鹿しさにあるからね。ただ、もいっちょ突き抜けてない中途半端さが見ていてどうにもイラつくんだけどさ。 3位は定番『ポケモン』の40億円、もちろん例年成績は落ち続けているのだけれど、それでもこれだけ稼いでいるというのはさすがだ。なかなかしげが付き合ってくれないのでテレビで後追いで見ることしかできないけれども、そこそこな出来ではある。アニメファンも中高生になるとこういう児童アニメを馬鹿にするようになっちゃうけど、そういう姿勢がアニメファンを視野狭窄に陥らせてる一因なんだよね。 4位は『電車男』で、これは夏映画というよりは春からのロングラン映画。オタクの初恋っていう「特殊性」(笑)を除けば中身は他愛無い恋愛モノなんだけれど、それが35億円まで行っちゃうんだから、日本人の潜在的な「癒されたい」願望はそんなに根深いものになっちゃったのかといささか情けなくはなるね。 5位は『亡国のイージス』で25〜30億円見当とか。渋い男臭い役者ばかりで、ミーハー人気はあまり望めない映画なので、これは純粋に作品内容の力だろう。枝葉末節の揚げ足取りや、原作との単純比較に過ぎない的外れな批判はあるけれども、夏映画では一番普通のエンタテインメントだった。 6位は『マダガスカル』、『星になった少年』が20〜25億円あたり。相変わらず動物モノは強いってことかな。でも私がランディに会えるのはこの分だとテレビになりそうである。 しかしもう何十年も「大人が見る映画が少なくなった」と嘆かれて久しいけれども、確かにこのラインナップの中で「大人」が心惹かれそうな映画が『イージス』くらいしかないってのは、残念なことである。でまた若い連中の中には「『イージス』面白いよ」って勧めたって、「難しそうで分かんない」とか言いやがるやつがいるんだよな。「知識」がなくたって、「映画を見る力」が素養として備わってれば、映画は大人も子供も関係なく面白く見られるんだよ。Yahooの映画評とか見てると、「この映画は大人向け、これは子供向け」と選別してるやつほどガキだって状況があって、しかもそんな批評とも言えない感情の垂れ流しがもうすっかり蔓延してしまっている。 なんかもうね、日本人の映画鑑賞眼を底上げするためには、小中高校で週一回、必ず「映画の時間」とか設けて、国内外の名作映画を見せてくくらいのことをしなきゃならんのじゃないかと思うけれども、そういうことを考えるだけの度量がそもそも文部科学省にカケラもないってのが、一番の問題だと思うんだけれどもね。
「GTF グレータートウキョウフェスティバル」の映画部門として、8月12日〜18日まで開催されていた「トーキョーシネマショー」の最終日に、最も優れた日本語タイトルのつけられた作品を選ぶ「筑紫賞:ゴールデンタイトル・アワード」に、韓国映画の『箪笥』が選ばれたというニュース。 審査委員長の筑紫哲也は、「『海を飛ぶ夢』か『北の零年』にしようと思っていたが、若い学生に意見を聞いたところ、『箪笥』の評価が高かった。原題(「二人の姉妹の物語」)と全く異なる邦題のほうが、この作品の怖さが伝わる点を評価した」と選出理由を語っていたって言うんだけれど、筑紫さんはこの邦題が半村良の怪談小説『箪笥』から取られてるってことに気づいてないのかね? 配給会社は「いや、このタイトルはオリジナルでそんな短編なんて知らない」としらばっくれるかも知れないけれど、映画中、件の「箪笥」は重要アイテムの一つではあるけれども、映画全体のタイトルとしてふさわしいかどうかはちょっと疑問がある。だいたい怪談短編の傑作と言われ、白石加代子の『百物語』の演題の一つとしても語られている『箪笥』を知らないというのは不勉強と言われたって仕方がないのだ。 多分、配給会社の方は知っててこの邦題を付けたのだろうけれど、筑紫哲也は全く知らなかったのに違いない。つか、周囲に誰もそのことを指摘してやるスタッフがいなかったということか。筑紫さんにどれだけのブレーンが付いているのかよく知らないのだけれど、こんな初歩的なミスを犯しているようじゃ、たかが知れていると思うのである。 けど、タイトルはともかく、『箪笥』はよく出来た映画である。どこがよく出来ているかはネタバレになっちゃうので詳しくは言えないが、「ホラー」を期待して見ると全然違う映画なので、そこはちょっとご注意とだけ言っておこう。
天野ミチヒロ『放送禁止映像大全』(三才ブックス)。 どこぞからの抗議やら自主規制などで、再放送、再上映やソフト化がされなくなっている映像作品をなんと全263作品も紹介した日本映像史の裏面史とでも言うべき本。その分量の多さには驚きもするし、資料の収集、調査にはかなり苦労をしたものと思われる。その努力には素直に敬意を表したいとは思うのだが、どうしても先行する安藤健二の『封印作品の謎』の後追い企画のようにしか見えないところが本作の弱点ではある。 確かに、これだけの作品量を『封印』はカバーはしていないが、各関係者への取材、インタビューを通じて、作品への抗議、告発の根拠のなさ、自主規制のいい加減さなどの熾烈な追求においては、『封印』の方が充実している。『放送禁止』の方はどうにも表面的な「なぞり」だけに終わっている感が強いのだ。 一つには、天野ミチヒロ氏の映像作品に対する素養が著しく低いことも関係しているだろう。つか、一般的な常識もあまり持ち合わせてはいない人のようで、記事のあちこちに間違い、勘違い、情報の偏りが見受けられる。取材不足というより、常識を知らないための誤謬がやたら多いのだ。 知識がオタク方面に偏っているだけならご愛嬌ですむのだが、『アパッチ野球軍』を紹介する項目で「アパッチ」という語句を「ネイティブアメリカンの蔑称」と記載していたのにはのけぞった。言うまでもなく、「アパッチ」というのはそのアメリカ原住民の一部族の名前であって蔑称でも何でもない。自主規制や用語規制の歪さを告発する本が、かえって差別的な誤解を広めるようなウソを書いてどうするのかね。 まあ、一応、封印作品の資料としては使えるけれども、どうしてその作品が処分を受けることになったのか、その事実関係の検証は不十分なものが大半である。斜め読みするだけであまり内容を信用し過ぎないほうが無難だと思われる。
マンガ、津田雅美『彼氏彼女の事情』21巻(完結/白泉社)。 長編マンガはやはり終わってみなければ具体的な評価はしにくいものだけれど、まあ実質的な物語は全巻までで終わっている。最終巻は後日談も含めてキャラクターの整理編、と言った印象。 正直な意見を言わせてもらえれば、有馬の心の闇の謎とやらをやたら長い間もったいぶって引いていたので、いったいどんなに悲惨な運命に弄ばれてきたのかと、ちょっとハラハラしながら読んでいたのだが、結末は「えっ? この程度のことでアンタ、自分のことを不幸って言うの? それ、人生舐めてない?」と言われても仕方がないくらいありふれたものであった。ジャリん子チエが聞いたら「不幸ぶってるんやないで、あほ」と一刀両断されてしまうだろう。 まあ、このマンガの珍しいところは、少女マンガにしては一切ヤンキーや不良が出てこないという点にあった。まあ、これまでのマンガがあまりにも不良を美化したものばかりだったので(ヒーローはバイク野郎でたいていはバンドをやってたりする)、そういうものに対するカウンターカルチャーとして機能していたとは思うが、だからと言って、登場人物が殆ど全て一流の才能の持ち主ばかりというのは設定に無理がありまくりである。多分作者はヤンキーマンガが嫌いでこんなムチャクチャな設定で押し通してきたのだろうけれど、作者自身の「優等生臭さ」(本当に優等生かどうかは知らない)がそのままマンガの「臭さ」にも直結してしまっていたのが、マンガがどんどんつまんなくなっていった原因であるように思う。 こういうとファンは怒るかも知れないけれど、登場人物を「天才」に設定したいんだったら、ちゃんと天才としての行動、実績をマンガの中で描かなきゃいけないわけね。口で言ってるだけでやることなすこと「凡人」だったら、ハッタリかますだけにしかならないの。有馬も雪野もごくフツーの人間なのになぜか「天才」ってことになってるのは作者が自分で「天才」を描けるだろうと思った自信の現れなんだろうけれども、SFとかファンタジーならともかく、基本的にリアルな学園ドラマでそれやっちゃうと、結果的に作者の「非才」を露呈することにしかならないのだね。現実に「天才」なんてそうそういるわきゃないのである。 これで完結だと言うのに、あとがき等でアニメ化のことについて作者が全く触れていないのも何かワケアリだね。よっぽど賛否両論の騒ぎが鬱陶しかったものか。これは続きのアニメ化はまずないな。
2004年08月23日(月) 第10回広島国際アニメーションフェスティバルグランプリ……『頭山』! 2003年08月23日(土) 恋から自由であるということ/映画『呪怨2』 2001年08月23日(木) What is Okyuto?/『新暗行御史』(尹仁完・梁恵一)ほか 2000年08月23日(水) 若いって、イタいことなのよん/『エノケンと呼ばれた男』(井崎博之)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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