無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年04月26日(火) 安達祐実は30代を演じる夢を見るのか?/『原作完全版 魔法使いサリー』(横山光輝)

 兵庫県尼崎市のJR福知山線快速電車の脱線事故の続報。
 午後10時までに確認された死者はついに76人、負傷者も456人に上っているが、まだ十数人の乗客が1両目に閉じ込められており、生存反応はなく、さらに死者数は増える見込みだという。その中には事故の鍵を握る高見隆二郎運転士も含まれているが、救助員が声をかけても全く応答がないということである。
 今日になって判明した事実だが、この運転士、事故直前に手前の伊丹駅で停止位置を約「40メートル」オーバーランし、いったんバックして停車していたのを、車掌と口裏を合わせて「8メートル」と虚偽報告していた。ところがこれが妙な話なのだが、オーバーランの距離が10メートル前後でも40メートルでも、社内処分の重さは変わらないそうなのである。だとすれば、なぜ虚偽の報告を行う必要があったのか、そこにこの運転士の「精神的な弱さ」を感じないではいられない。運転士暦はまだほんの11ヶ月で、2000年4月の入社以来、五年間に計三回、訓告などの処分を受けていて、その中には車掌時代に「目がうつろだ」と乗客から指摘を受けた、なんてのまである。事故の原因が運転士にあるのかないのか、そこは未だに不明なのだが、いずれにせよ、そんなやつを運転士にしちゃったこと自体、ダメだろうによ。
 でもこれでまた一つ分かったことだけど、やはりJRも「常識」なんて通用しない世界なのである。つかよー、「常識」が残っている会社なんてさー、いったい日本のどこにあるというんだろうね。
 事故原因の「憶測」については、昨日にも増して情報が錯綜している。JR西日本が昨日は堂々と拡大写真で紹介していた「置き石」の痕跡らしい「粉砕痕」、今日の現場検証では、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会が「現場でブレーキ痕や石の粉砕痕を確認できなかった」と発表して、双方の意見は完全に食い違ってしまった。JR西日本は早速その「先走り」を反省して、正式な調査結果が出るまでは余計な情報公開はしないことを言わざるを得なくなった。
 どっちにしろ「置き石」だけでは脱線する可能性は低いとのことなので、JR西日本の態度は「先走り」とか「勇み足」というよりは、全くの「責任転嫁」を図ろうとしたものだと解釈されても仕方がなく、事故はますます「人災」の様相を色濃くしてきている。やりきれない。


 先ごろ黒田アーサーとの破局が伝えられた女優の安達祐実。
 いや、そっちのニュースはどうでもいいのだが、ここしばらくドラマや映画のいい役に恵まれてないなあと心配していたところが(私が心配したところでどうなるものではないという突っ込みは置いといて)、9月2、3日放送のフジテレビ系スペシャルドラマ『積木くずし 真相』に主演することになったとか。
 ニュースで初めて知ったのだが、昭和58年に放送された高部知子主演版の前作『積木くずし』は、ドラマ史上最高視聴率45.3%を記録していたんだそうな。まあ、やたら再放送やりまくるなあと思っちゃいたが、45%ぽっちが最高視聴率になるんかね? 昭和30年代には50%以上稼いでたドラマがもっとあったような気がするけど。
今回、タイトルに『真相』と加わっている通り、ドラマは「家族の再生」を謳ってハッピーエンドで終わった前作とは異なり、原作者の穂積隆信氏が昨年発表した『由香里の死 そして愛 積木くずし終章』をもとにして、『積木くずし』がベストセラーになってしまったために起きた悲劇、印税をめぐる夫婦のいさかいや離婚、娘の再びの非行など、主人公たちの“その後”を描くことになるとか。著書に書かれているとおり、ヒロインのモデルとなった長女の由香里さんは、一昨年、心不全のために亡くなっている。拒食症が高じた末の死だったそうだが、この人くらい「幸薄い人生」という言葉が思い浮かんでしまう人もそうはいない。芸能界活動を試みた時期もあったようだが、光が当たったことは殆どなかったように思う。ごく普通の幸せを掴むチャンスは何度となくあったと思われるのに、運命の歯車は最後まで狂いっぱなしだったということなのだろうか。
 それはさておき(まだ本題ではなかったのである)、驚いちゃったのは、今度のドラマ化が「前作『積木くずし』も含んだ上でのドラマ化」だったことだ。つまり現在23歳の安達祐美は、穂積由香里さんの「13歳から亡くなる35歳までを演じる」ことになるのである。
 普通、こういう場合は「十歳も年下の役を演じるには無理があるだろう」と考えるほうが先に立つもんだろう。年を上に見せるのはメイク一つで何とかなるが、年下に見せるのはかなり難しいからだ。舞台なら私も八十歳の杉村春子や森光子が十代の少女を演じるのを見てきたが、これは舞台が「見立て」の芸術だから成立することだ。基本的に現実と近接している映画ではなかなかそういう例はない。たまにあるものは目も当てられないものが殆どである。某映画で40代の岩下志麻のセーラー服を見たときには石を投げてやりたくなった。
 しかし、安達祐実の場合、心配なのは全くの逆で、「どんなに老けメイクしても35歳の役は無理なんじゃないか」ということなのである。毀誉褒貶激しいが、私は安達祐実という女優の演技力は、決して『家なき子』や『ガラスの仮面』程度で計れるものではないと思っている。いや、それなりに上手い子だと思ってはいたが、特にそう感じたのは、『いつ見ても波瀾万丈』や、黒田アーサーとの熱愛報道で追いかけられていたときの「普段の顔」の時の「演技」が素晴らしかったからで、ああ、こういう“演技をすることに屈託のない子”は、育てりゃ確実に伸びる、と思ったのである。
 正直、あの童顔と身長の低さが幅広い役を演じるのにはネックになっているが、逆にそれを武器にして、必ずしも主役にこだわらずにちょっと変わった役を演じさせれば、かなりハマるものもあろうかと思うのである。
 『積木くずし』のヒロインも、『家なき子』の延長線上に含まれる役どころで、安達祐実なら楽に演じられるだろうと思う。しかし、ヒネた見方をすれば、ああいう不良少女の役は、そこそこの役者なら誰でも演じられるのだ。別に蒼井優でも石原さとみでも市川由衣でも上戸彩でも上野樹里でも香椎由宇でも加藤夏季でも栗山千明でも酒井彩名でも沢尻エリカでも鈴木杏でも長澤まさみでも平山あやでも深田恭子でも藤谷文子でも前田愛でも本仮屋ユイカでも桃井はるこ(笑)でも構わない。あびる優なら旬だ。この「別に安達祐実がやらなくても」感が強いのが、今の安達祐実の弱点だと思う。
 それに言っちゃなんだが、この手の「実録非行少女」ものは製作者の意図はいざ知らず、受け手は殆ど興味本位、少女の常軌を逸した暴力なんて対岸の火事で、「まあ、なんてひどい親ざんしょ、うちの子はあんなふうに育たなくて、よい子に育ってくれて、嬉しいわ。これも私の教育のたまものよねえ。おほほほほ」と自己正当化の材料にしているに過ぎない。そして本当に家庭崩壊してしまっている家は、「あの程度で不幸ぶるな」と見向きもしないだろう。所詮は他人の家の出来事なのである。そんな企画のドラマにいくら出たってキャリアになろうとは思われない。かと言って、朝の連ドラとか大河ドラマとか火サスとか土ワイとかミニシリーズとかにチョイ役で出たって、すぐに忘れられる。ここはやはり自分の役に合った「映画」にドンと出てほしいのだけれど、いかんせん、今のひ弱な映画界では、いったん色の付いた役者をもう一度洗いなおすだけの底力がないのである(だから新人が出ては消えを繰り返しているのである。上戸彩もいつまで持つか)。必然、安達祐実はどうでもいいような無駄な仕事ばかりこなすハメに陥っているのだ。もったいないったらありゃしない。私ゃ安達祐実は「タンスにゴン」の沢口靖子みたいな三のセンを狙っていったほうが一番いいと思ってるんだけど、誰かプロデューサーに進言してくれないか。いや、ムリだろうけど。


 夜、8時ごろ、父から電話がある。
 ちょうど寝入りばなだったので、ムニャムニャしながら受話器を取ったが、向こうは息せき切ったように慌ててこう言った。
 「今晩、11時に地震が起きるげな。知っとうや?」
 「はあ?」
 アクビが混じっていたので、「ふぁあ?」みたいな返事になったが、ともかくイカレた話である。どういうことか、父に問いただしてみたところ、昨日から今日にかけて、店に来るお客さん、みんながみんな「今日か明日、震度七強の地震がある」と口にしているというのである。
 「お前の職場では誰も何も言っとらんや?」
 「さあ、知らんなあ。もしかしたら喋りよったかもしれんけど、僕はいちいち人のうわさに聞き耳とか立てんもんね。大体、うわさの出所はどこね。インターネットとかやないと?」
 「知らん。ばってん、地震雲が出たて言うけん」
 「あ、だったら、それデマ。昔から『地震雲』とか言われよるばってん、全部迷信やもん」
 「でも姉ちゃんは今日、明日、一時的に『疎開する』て言いようぞ」
 「……ばか?」
 しばらく押し問答したが、私が呆れている気配が伝わったのか、父はまだ何となく不承知な口ぶりで電話を切った。「デマに踊らされるな」ってのは、普通、親が子に言うものであろう。予言とか占いとか、オカルトの類は一切信じなかった父が、いったいどうしてしまったものか、これも年を取ったということなのか、そう思うと何だかまた寂しくなる。
 ただ、ここで注が必要になるのだが、父の場合は高齢なせいでこのデマにも何がしかの不安を感じて電話をかけてきたものであろうが、このウワサをまことしやかに右から左へと流している福岡人の大半は、この状況を“かなり”楽しんでいる、ということである。福岡人・博多人気質を知らないヒョーロンカなんかは、多分、地震に対する不安がウワサを呼んでいるのだろうと分析すると思うが、それは福岡人の大馬鹿度を見誤っている。博多人にだってデリケートな部分はあるのだが、こと、“お祭り方面”に関しては、それはまるで発揮されないのである。
 以前も書いたとおり、一般常識から判断するなら信じがたいほどに、福岡人の大半は被災してなお「命が助かったんなら、これも楽しかったイベント」と前向きに考えちゃっているのだ。嘘ではない。私は「今度はどんくらい(震度)のが来るやろか」「死なんどきゃいいと」という台詞を何人もの人間から腐るほど聞いた。もちろん本当に家をなくした人たちはとてもそんな悠長なことを言う気にはならないだろうが、「地震が何か!」と息巻いてる単細胞も結構多いのだ。デマでもいいから地震を待望する気分がウワサに火をつけているのである。
 あまり言いたかないことだが、いつぞや、作家の栗本薫が、北朝鮮の拉致被害者に関して「滅多にない経験ができて羨ましい」と言った件に関して、世情は「不謹慎な」と激怒したのに対して、世間がどうして栗本薫に腹を立てるのか分からん、という態度を示した福岡人を何人か知っている。ことほどさように、福岡人の「ハレ」を好む気質は、世間の常識と乖離しているのである。まあ、それがいい面に働く面もありはするんだけどねえ。
 私はと言えば博多人には珍しいくらい繊細な神経の持ち主であるので、すっかり不眠症に陥っている。いや、ホントに人からデリケートって言われること多いんだわ。他県人から見ればそうは見えないだろうが、判断基準が全然違うんで。


 物寂しくなって、ふと、東京のグータロウ君に電話をかける。
 一応、6月に上京する予定の日を伝える用件もあったのだが、内実は「電話の向こうの親父の背中が小さく感じられた」からだ。地震のデマの話を伝えると、グータロウ君も笑っていた。
 「暢気だねえ」
 「博多人は遊んでるよ。地震の不安なんて全然ない」
 理解しようったって、理解のしようもなかろうが、世の中には不思議なことは確かにあるのだ。関口君。
話題はついでに『名探偵コナン 水平線上の陰謀<ストラテジー>』や、『クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶブリブリ 3分ポッキリ大進撃』に移って、二人で憤懣をぶつけ合う。まあ、『コナン』の出来は毎年のことだから初めから期待しちゃいなかったのだが、『クレしん』はそのレベルダウンの程度が激しすぎたので、少しばかり口吻がきつくなる。
 「アイデアはいいのだが、それがドラマに昇華されてない」
 「台詞が取ってつけたようで説得力がない」
 「どうしてあそこで××××って展開にならないんだよ!」
 考えてみたら、これまでの十二作、多少の出来不出来はあっても全て秀作・佳作・傑作ぞろいだったというのが奇跡だったのである。監督代われとまでは言わないから、世間の不評も考えて、ムトウユージ監督には来年は「映画」を作ってもらいたい。観客は「紙芝居」が見たいわけじゃないのだ。


 手塚治虫原作『ブラック・ジャックマガジン』(秋田書店)。
 17人のマンガ家さんに『ブラック・ジャック』を描かせるという試み。まあ、秋田書店でしかこの企画を立てられないのは分かるけれど、小学館の『PLUTO』を見ているだけに、秋田が抱えるマンガ家さんの「層の薄さ」が、そのままマンガの出来に反映していて、読んでていささか辛い。
 リメイクがオリジナルを越えるためには、そこに何か新しい視点を持つ必然性が生じるのだが、なんかどのマンガ家さんも「物まね大行進」の域を超えてなくて、到底オリジナルの感動を伝える作品として昇華されていないのである。マンガ家として旬は過ぎてしまっている永井豪、青池保子両御大の作品はもう「悲惨」以外の何物でもない。誰も永井豪の絵柄で描かれたサファイアなんか見たいと思っちゃいないだろうし、ブラック・ジャックに少佐や伯爵と競演してほしいとも望んではいないと思う。サービスと独りよがりを混同してないか。『魔王神ガロン』のときも思ったことだが、こういうのはもう、珍品としての価値しか見出せない。
 それでもこの企画が途絶えもせずに続いているのは、やはり秋田書店だからだろう。集英社でジャンプのマンガ家さんに描かせてたら、アンケート最下位続きであっという間に企画そのものが暗礁に乗り上げるに違いない。それでも尾田栄一郎や小畑健、秋本治、許斐剛、和月伸宏、冨樫義博といった人たちが手塚マンガを原作に描いたら……と夢想したほうがよっぽど面白く思えるのは、それだけ秋田書店のマンガ誌が凋落してるってことなんである。『少年チャンピオン』購読者には悪いが、『がきデカ』連載当事の『チャンピオン』の勢いったら、もう現在の比じゃなかったんだからねえ。
 それにしても、水島新司が描いてないのは、さすがにこれは……と判断されたのかどうか。私ゃ秋田で『ブラック・ジャック』を本気で描かせるのなら、水島さんに如く人はいないと思うんだが。


 マンガ、横山光輝『原作完全版 魔法使いサリー』(講談社)。
 虫プロから発行されてた一巻本は昔読んでいたので、原作が意外と短いことや(作者が多忙で途中で打ち切ったのである)、よっちゃん、スミレちゃんのキャラデザインがアニメとかなり違うこと(よっちゃんはかなり美人。スミレちゃんもヘアスタイルがまるで違う)、トンチンカンは一話しか登場せず(アニメに登場したのが先で、原作がそれに合わせたため)、ポロンちゃんは全く登場しない(原作がアニメより先に終了したため)など、異動を取り上げていくとキリがない。
 だからこそ原作を楽しむ余地があるわけで、これまで二度もアニメ化されている横山光輝一方の代表作であるにもかかわらず、原作が完全な形で発行されてこなかったというのは、何か事情があったのだろうか。今時の速いテンポのマンガと違って、のんびりした印象のマンガなので、売れない、と判断されたのかもしれないが。
 今回初収録の『魔術師ジョー』と『さよならサリー』の二話が、なぜ以前の単行本ではカットされたのか、そのあたりの事情も定かではない。ページ合わせのためだとしても、他の短編と合わせて一巻にする手もあるし、この二話が選ばれた基準も今はもう分からない。
 推測でモノを言うしかないが、『魔術師ジョー』はアル中になった往年の名マジシャンを、サリーが“魔法を殆ど使わずに”治す話であり、サリーはホントにジョーを一室に閉じ込めるのである。当事の少女マンガの中で考えれば結構ハードな展開で、単行本化が敬遠されたのはこのあたりの事情があるのではなかろうか。アニメでもポロンが実は人間の捨て子だったエピソードなど、かなりハードな話は多かったから、気にすることはないと思うのだが。
 初めて読んだ「最終回」、台風で死んだ少女を助けるためにパパに頼み込んで交換条件を出され、サリーは「悪魔の国(原作では「魔法の国」ではない)」に帰る。よっちゃん、スミレちゃんへの挨拶もなく、いささか寂しい。アニメ版では魔法使いであることがバレたサリーとよっちゃんスミレちゃんとの間で悲しい別れが長々と演出されていたが、原作はあっさりしたものである。というか、第一話の密度に比べると、いささか手を抜いている感がすることは否定できない。『サリー』がアニメ化されていなかったら原作はまだまだ続いていた可能性は高く、もしそうだったらもっと叙情たっぷりな最終回が見られたかもしれないという気がどうしてもしてしまって、原作とアニメのコラボレーションがもう一つうまくいっていなかったのだなあと残念に思うのである。

2004年04月26日(月) まあ比較的平穏だった一日。理由は明白(~_~;)。
2003年04月26日(土) メモ日記/口にチャックな夜。
2002年04月26日(金) アッパレ再び/『学園戦記ムリョウ』7巻(完結/佐藤竜雄・滝沢ひろゆき)ほか……“NEW”!
2001年04月26日(木) イシャはどこだ!/映画『黒蜥蜴』(1962年・大映)ほか


2005年04月25日(月) 多分、世界はいやになるくらい狭い/『アガペ』2巻(鹿島潤・石黒正数)

 人の縁(えにし)はどこでどう繋がっているか分からぬ、とは、これまでの人生でも多々実感したことであったが、新しい職場で気が合った同僚の女性(とりあえずAさんと呼んでおく)、なんとホモオタさんの大学の一年後輩であった。
 「ホモオタちゃんは(と、Aさんは先輩である彼を「ちゃん」付けで呼ぶのである)、大学生のころは髪が長くてスマートだったんですよ。性格はあの通りの性格でしたが」
とのこと。現在のホモオタ氏は言っちゃ何だが外見は「ハゲた赤豚」である。性格の歪みが体型にも現れちゃったんじゃないかな。
 当然、ホモオタさんの数々の「行状」についてもAさんは先刻ご承知で、私以外に「被害」にあった方々ともお知り合いだったのだが、私が「部屋に誘われたんで行ってみたらセーラー服姿のホモオタさんに襲われかけたんですよ」という話をしたら、さすがにホモオタさんがバイセクシャルだということまでは知らなかったらしく、目を丸くなされていた。
 「私が知ってるホモオタさんの好きな人は女性でしたが。Sさんという方の奥さんで」
 「Sさんの奥さんも知ってますよ。私の家内の知り合いでしたから。その方に相手にされなくて、私に乗り換えたんです」
 「……好みの幅の広い人なんですねえ」
 いや実際、そのSさんの奥さんというのは昔から評判の美人で、密かに懸想している男性は数知れず、その「後釜」が私だというのはちょっと気の毒だったのである(まあ当時は私も一応は20代でしたが)。
 実を言うと、当時ホモオタさんは、私と家内が接近するのも様々な形で妨害しようとした形跡がある。直接的には私に家内の悪口を言いまくり、「あんな女にいつまでもかかずらわっていると、あなたが不幸になりますよ」とまで言ってのけていた。確かにしげは昔からろくでもないあほんだらではあったが、私への一途な思いは嘘偽りのないものであったから、それを無碍にないがしろにする気はなかった。
 だから、たとえ一見「親切や忠告のつもりで」しげの批判をされても、それは私にとってはおためごかしかいわれのない中傷にしか聞こえないし、そういうモノイイに対しては私が猛烈に反発する人間であることくらい、私を見ていれば気がつきそうなものである。障碍が多いほど恋は燃え上がるという「ロミオとジュリエット効果」みたいなもんですかね。ところが、ホモオタさんにはそのあたりの初歩的な人間の機微すら一向に理解できなかったようなのだ。恐らくそのころにはもう妄想が果てしなくエスカレートしていて、自制できない状態にまで陥っていたのであろう。
 ほかにも当時、ホモオタさんが、私と家内に関するとてもここには書けないような胸糞が悪くなるようなデマを流していたことも、後に誘導尋問で引っ掛けてホモオタさん自身から聞き出した。なんとしてでも私としげの間を裂きたかったのだろうが、結果は全く反対に作用したわけである。だからもともと実る関係ではないのだから、早々に諦めてくれりゃ自分が傷つかずにすんだだろうにねえ。
 ホモオタさん、中傷ハガキの件でも分かるとおり、法に触れるギリギリの線を綱渡りする嫌がらせを実行できるあたり、決してただの馬鹿ではない。しかし、策略家ではあるがそれが実を結んでいないという点ではやはり間が抜けているのである。それはやはり、ホモオタさんが自我肥大を起こして自己を天才と錯覚してしまっているために、結局、人間の心理などは探れば探るほどフクザツカイキであって、いくら読もうとしたって読み切れるものではないという事実に未だに気づいていないからだろうと思う。
 「こうすれば人はこう動く」「人は簡単に洗脳できる」「他人を洗脳できる自分は天才なのだ」「だから他人はみな自分にひれ伏さねばならない」
 一度、そう思い込んでしまったら、他人が自分の思うようにならないと、それは自分がごく普通の人間であって、他人に対してたいした影響力は持ち得ないというあたりまえの事実を受け入れることができなくなる。結果、一種のヒステリー状態を経てその人は他人に対して常に攻撃的になり、人を敵か味方かだけでしか判断できなくなり、自分の不遇は常に他人の陰謀のせいだと思い込むようになり、果ては自分にはこの世ならぬものの姿が見える、自分は神の使徒だ、宇宙意志と交信でき、天変地異だって起こせる、自分に逆らうと地獄に落とすぞ、とまで言い放つようになる。ホモオタさんはそこまで行ってしまった。ホモオタさんに脅され続けて、ついに神経を病んだ女性がいることも私は知っている。
 今日、Aさんから聞いた話によると、ホモオタさんが一時期「研修」の名目で現場を離れていたのは、そういう「被害者」の方の身内の一人が、「告訴してやる!」と激怒して当時のホモオタさんの職場にねじ込み、それを聞きつけた本社が慌てて取った措置だったのだそうだ。
 本社の幹部ども、私にはやたら「告訴したらどうか」と打電しておきながら、実際にキレた人が出てきたら急に及び腰になって、こういう「穏便な」処分でコトを済ませてしまおうとしたのである。ということは、やはり本社はホモオタさんを完全に解雇する気はなかった、と判断せざるを得ない。精神に異常を来たしているという程度のことでは、解雇できないと言うか、既知外相手の厳しい処分は自分たちの身にも被害が及ぶ危険性があると判断して「逃げた」のだ(以前、馬鹿正直にそう口にした支社長もいたから、これは確実である)。
 全く、厄介なのはホモオタさんよりもこういう自己保身に走る本社のほうかもしれない。いっそのことホモオタさんの本名も、本社の名前も暴露してしまいたくなるが、内部告発して不当解雇かそこまでいかなくても減俸処分食らって、これから先、何年も本社と裁判で係争していくとか、そこまでのエネルギーは私にはないし、ホモオタさんが未だに私にちょっかいかけてくるのは、そういうぐちゃぐちゃした事態を召喚したいという思惑もあるのだろうと思われる。「毒を食らわば皿まで」と言うか、「死なばもろとも」と言うか、「窮鼠猫を噛む」と言うか、ホモオタさん、もう精神的にギリギリのところまで追いつめられちゃってるんじゃないかなあ。
 本社の幹部連中も私やほかの被害者にババ引かせたいと考えて事態を放置している糞狸の群れである。その掌の上でいいように転がされたかないから、こっちも命令通りに動いているように見せかけながら実は全く動いていないのだが、その間、ホモオタさんもそれなりに責任のある立場にい続けているわけで、被害者はどんどん拡大されているのである。
 ホモオタさんの話題、これからも尽きることはなさそうであるが、カタストロフが来たときゃ、本社はどう責任取るんだろうかね。それ以前にさっさと定年退職しちまおうって腹か。くそったれめ。


 「現実」と書いて「気が滅入る」と読みたくなる今日この頃であるが、またも悲惨なニュースが夕刊の大見出しに。「脱線」と聞くとすぐに「トリオ」と続けたくなるのは我々の世代の悲しい性(さが)であるが、ここまで大規模な脱線だとシャレにならないのである。NHKは、放送予定だった『きよしとこの夜』に列車の歌を取り上げるコーナーがあるため放送延期だそうな。また、BSフジは『きかんしゃトーマス』の4話分に、列車の脱線シーンがあるため、これも差し替えとか。相変わらずの「考えすぎ」だが(私ゃ地震直後に映画で『日本沈没』見たって放送局に文句付けたりゃしないぞ)、まあ、どうでもいいことにまで文句付けて自分の立ち位置確認しないと不安な人って、世間に腐るほどいるからねえ。
 今日、午前9時20分ごろ、兵庫県尼崎市のJR福知山線の、塚口〜尼崎駅間で、宝塚発・同志社前行きの快速電車(7両)が、速度オーバーで右カーブを曲がりきれず、前5両が脱線して、1、2両目が線路東側にあるマンション「エフュージョン尼崎」(9階建て、47室)北側の立体駐車場をなぎ倒したうえ、マンション1階に激突し、折れ曲がった。
 電車には乗客約580人が乗っていたが、夜までに乗客のうち計57人の死亡を確認、負傷者は440人に上っているという。57+440=497なら、残りの80人ほどは無事だったのかというとそうではなくて、夜になっても、 1、2両目に多数の乗客が閉じ込められたまま、救助活動が続けられているのである。
 事故そのものの痛ましさはもう、言葉にしようもないのだが、やっぱり気に食わないのは、マスコミの報道のはしゃぎっぷりである。
 既に「平成に入って最悪の鉄道事故」との報道がなされているが、台風や地震の規模の話とは違うのである。「脱線」の原因は、考えるまでもなく十中八九「人災」なのだから、事故が起きた事実だけで「最悪」なのは説明しなくたって分かる。屋上屋を重ねるように悲惨さを強調するのはただの「悪趣味」だ。
 その「人災」についての情報も、事故が起きた直後からどんどん流されている。
 曰く、「福知山線のATSは、旧国鉄時代の装置をJR西日本が独自に改良した『ATS―SW』と呼ばれる最も古いタイプで、運転士が赤信号を見落としたり、車止めに衝突しそうになった際しか、自動的にブレーキがかからず、カーブなどでの速度超過は防げない」とか、「事故を起こした高見隆二郎運転士(23)は、見習い期間を含め、過去に3度、オーバーラン等で訓告や厳重注意処分を受けていて、技術内容の点検や適性検査、心理テストなどを受講し、再び復帰していた」とか。
 もしかしたらそういったことどもが事故の重要な原因であったのかもしれないが、ここまで早く断定的な報道がなされると、マスコミは本当に正確な情報を伝えているのだろうか、という疑念が沸いてくる。つまり、「ほかに原因がある場合」の可能性が見落とされてしまうのである。
 ごく常識的に考えれば(悲しいことに私の常識がいつもいつも世間の常識と重なるわけではない場合も多いのだが)、事故の原因は、負傷者の救出の後、現場検証や生存者の証言などを聴取した後でなければ、簡単に結論は出せないはずである。すなわち、事故直後の現段階で、たとえどんなに信憑性、説得力のあるような原因が提示されたからと言っても、それは決して「憶測」の域を出るものではない。情報は常に早けりゃいいと言うものではないのだ。
 しかしマスコミがしばしば「情報の正確さ」よりも「早さ」のほうを優先しがちなのは、「内容」よりも「スクープ」性にこそ価値観を置いており、世間もまたそれを求めていて、だからこそテレビは高視聴率を取ることができて、新聞は売り上げを増すと信じられているからである。でも「高視聴率」ったって、人気ドラマだって今時ゃせいぜい20%行くか行かないか、「スクープ」ったって、ニュースはどこの局でも報道内容は同じじゃないか。80%以上が見てるわけでもない「スクープ」にそこまで価値を置くっていうのはマスコミがやはり強迫観念に捉われてしまっているとしか言えないのではないか。
 マスコミの現状は、言ってみれば、既知外の群れが「報道」という美名の下で「他人の不幸」を喜んでいる状況にほかならないわけで、テレビ新聞雑誌全て「東スポ」化していると言ってもよかろう。そりゃ、一誌や二誌が「東スポ」なら別に文句もないのだが、全部が全部荘なら、飽き飽きするってもんである。事故直後にコメントを発表する「識者」とやらも、ちったあ今喋るべきことかどうか判断しろよ。沢木耕太郎は「私が事件のコメントを全て断るのは、『分からない』からだ」とはっきり言い切ってるぞ。


 マンガ、鹿島潤原作・石黒正数作画『アガペ』2巻(メディアファクトリー)。
 1巻の表紙を見た段階では、「利他的で無償な愛(=アガペ)の持ち主」という設定の犯罪交渉人(ネゴシエーター)、一乗はるかの献身的な活躍を描く、というユメもキボーもあるミヤザキハヤオな展開になると思っていたのだが(だって絵柄も東映動画っぽかったんだもん)、なんかもう、とんでもない展開になってきました。
 交渉に失敗して死人を二人も出してしまったはるか、精神的ショックから失語症になったばかりか、仲間であり好意も抱いていた同僚、武市涼宇の存在も忘れてしまう。いや、単なる記憶喪失ではなく、武市の存在を脳に「書き込み」することすら出来なくなってしまうのだ。
 ……とまあ、ここまではもうこれまでマンガでも小説でも映画でもいくらでもある展開なのだけれど、はるかの愛が得られないと知った武市が、突然「自分が事件を起こせばはるかは交渉人として自分を愛するようになってくれる」と、「東京ドームにサリン撒くぞ」といきなり犯罪者になってしまったのには正直唖然。「八百屋お七かよ、お前は!」 (笑) 
 「神の愛」なんて、幻想でしかないものを、生身の人間の肉体に宿らせようとする作者たちの意欲はまあ、立派かなあと思わないでもないのだが、2巻でもう、手詰まりになりつつあるようである。はるか、全然「無償の愛」の体現者には見えなくなってるし。エゴイストじゃなきゃ「特定の人物の記憶だけを無くす」なんて都合のいい記憶喪失に陥るわきゃないでしょ。事件の「締めくくり」も、果たして武市を救ったことになったのかどうか。武市が更なる犯罪に走ったっておかしかないと思うが。
 けれどもし、作者たちが、「『アガペ』なんてない」という結論に持っていくことを目論んでいるのだとしたら、一応は物語としての整合性はあると言えるのだが、今更そんな分かりきった「事実」を結末に持ってこられたって、楽しくも何ともないのである。ここはやっぱり、はるかが「アガペ」を取り戻す展開に無理でも持っていかなきゃならんところなのだが、そういう手段、ちゃんと考え付いてるのかねえ。

2004年04月25日(日) おじょうさま、ごめんあそばせ。
2003年04月25日(金) メモ日記/シカゴな夜。
2002年04月25日(木) あの人にだけわかるナニの話(^^*) /DVD『エイリアン9 DVD対策BOX』……“NEW”!
2001年04月25日(水) おむすびころりん/『最終兵器彼女』4巻(高橋しん)ほか


2005年04月20日(水) まただ。(追加あり)

 ふざけんな馬鹿野郎、また震度5強だぞ。つい今しがた、またしげを山の中から掘り出したばかりだ。部屋の中はこないだよりも更にひどい惨状。私もしげもちょっとあちこちかすり傷は負ってるけど、今回も命は無事だ。外は雨の中、また救急車のサイレンが。電車は全線止まってるので仕事に行けるかどうかは分からんが、現況はこんなとこ。



 目は覚めていたのだ。
 「日本映画専門チャンネル」で、『亡霊怪猫屋敷』をみうらじゅんの解説目当てで録画予約していたのがちょうど6時に始まっていた。
 目は覚めていたけれども、朝風呂に入るのはいつも六時半ごろ。寝つきはいいが寝起きはよくないほうなので、布団の中で起きようか起きまいか、うだうだしていたところだった。
 午前6時11分。状況は一月前の本震のときと同じ、いや、それ以上だった。前回は落ちなかった棚の上のビデオが山崩れを起こし、スピーカーがテレビを直撃して転がり落ちた。慌てて飛び起き、落ちてくる本をよける。隣室でしげが悲鳴を上げたが、助けになど行けない。揺れが収まるのを祈るしかないのだ。
 居間の床が一月前と全く同じ惨状になった後、しげに「大丈夫か?」と声をかけた。
  「たふけて〜」と“猿轡をかまされたような“くぐもった声が聞こえる。崩れた本の山を掻き分けて隣室を覗くと、しげは一月前以上の本の山に埋もれて、何とか顔だけを覗かせていた。「出られんか?」と聞いたら、かろうじて左手を出して、「足が痛い。全然動かん」と言った。口の前にやはり本が落ちてきているので、声が聞こえにくかったのだ。
 「もう来るの分かったら何ですぐに逃げないかな」
 「分かったけど、起きなきゃって思った時にはもう雪崩れてきてるんだもん」
 どうやら愚痴を言う元気は残っていたようである。前回同様、しげを何とか掘り出したが、震度は確実に前回よりも大きかった。しげの部屋のテレビは棚から斜めに傾き転げかけていて、もう少しでしげを直撃するところだった。
 既視感。また外で救急車のサイレンがなっていたが、もちろんそれは錯覚ではなく、現実なのであった。

 震源はやはり福岡県西方沖だが、かなり湾岸に近い位置で起きたとのこと。博多区は前回の本震では震度5弱だったが、今回は震度5強。余震とは言え、実質は今回の方が本震のようなものである。ただ、津波警報が出されなかったことは前回よりも少しはマシだったと言えるかもしれない。

 今度も携帯もメールもまるで通じない。真っ先に父の携帯、店に連絡を取ろうとしたが、前回同様、これがまるで繋がらない。自宅の固定電話は完全に断線していてウンともスンとも言わない。こうなったら直接現場に行くしかないと、車に乗って出かけることにする。どうせ電車は普通だろうから、父が無事ならしげに職場までそのまま送ってもらおうと考えていた。
 自分ではまあまあ冷静なつもりでいたが、実際にはかなり慌てていたらしい。
 「エレベーターは動くかどうか危険だから、歩いて降りよう」
 「うん」
 と会話した直後、私はエレベーターの下りのボタンを押していた(あとでこのエレベーターは業者の点検を受けていた。私たちが乗ったときには一応、動いたからよかったもののの、実際にはやはり調子が悪くなっていたらしい。確かにキイキイ軋む音がしていたし、もしかしたらうっかり閉じ込められていたかもしれないのである。あほだよホントに)。

 表通りは地震後30分で既に渋滞になっていたので、裏道を博多駅方面に走る。父の店に到着したのが7時半ごろ。幸い、父も姉も無事だった。けれど、マンションの屋上のタンクは倒れたかどうかしたと言う。博多区の被害はやはり前回よりもひどそうだった。

 本音を言うと部屋を片付けないと今晩寝る場所もないので、出勤なんぞはしたくなかったのだ。しかし今日はかなり重要な用件の出張もあって、おいそれと休むわけにはいかなかった。けれどもこの状況でどれくらいの社員が出勤しているものかと疑いつつも職場に駆けつけてみると、60人か80人くらいいる社員のうち、集合したのはわずかに10人ほど。当然、仕事になんぞなりゃしないのだが、それでもどうやって来たんだか、支社長は「昼までは仕事をします」と言って、、お茶を濁す程度の作業しか捗らないにもかかわらず、出勤してきた少数の社員をこき使ってくれたのである。人の情というものがないよ、今度の支社(まあ、ある支社のほうが少ないのだが)。

 出張は午後からだが、JRの復旧は全く目途が立たず。それは「予想の範囲内(笑)」なので、実はしげを会社に連れてきて、そのまま待たせていた。待合室で一人ぽつねんと5時間あまりほったらかしとくのは正直、胸が痛んだのだが、これはもう天災のなせる業であるし、緊急事態なのでどうにもしようがない。車の運転が出来ないと、こういうときに一番迷惑をかけてしまうのだが、これとても目が悪いのは生まれつきなので、誰を恨もうにも恨めないのである。

 帰宅は5時半、それから夜まではひたすら部屋の片付け。一時は疲れ果てて父のマンションに泊めてもらおうかとも考えたが、8時半ごろにはとりあえず横になれる程度の床は掘り出すことができた。正直、また山崩れを起こすことを考えると、ただ本を積み上げるだけでは怖いのだが、収納棚が限界に来ているので、ほかにどうにも手段の取りようがないのである。


 劇団の関係者との連絡は、夕方までにほほ取れて、全員、無事を確認した。
 確認が一番遅れたのは鴉丸嬢だが、昼夜逆転の生活をしている鴉丸嬢、地震の瞬間は爆睡していたそうである。鴉丸嬢、結構神経は細いほうだと思っていたのだが、あれで眠っていられたとというのは、もしかしたらかなり「大物」なのかもしれない。
 夜には義父も安否を問い合わせてくる。多分、十年くらいお会いしていないし、電話も恐らくは半年か一年ぶりだろう。もちろんしげのことを心配してかけてきたのだが、「代わりましょうか?」と言ったら「いや、いいよ」と断られた。この親子にもいろいろあって、普通に会話することができない。何とかならんものかとは思うのだが、何とかなったらなったで何ともならない事態にもなりそうで、なかなか問題は難しいのである。

 テレビを点けると、ニュース番組で地震の専門家とやらが、「余震は収まってくると思いますが、まだ震度4程度の地震が二、三ヶ月以内のうちに起こらないとも言えませんので、注意してください」なんてことを言っている。
 「注意しろ」って、注意したってどでかい地震が一発来たらどうしようもなかろうに、この人は何を能天気なこと言ってるのか、と腹立たしくなる。だいたいこんな台詞、シロウトでも言えるではないか。専門家を名乗るなら、せめて70%くらいの確率で地震を予知してほしいものだが、どうにも科学とやらはなまずよりも役立たず学問のようである。

 余震は今も続いている。


〔訂正〕
 烏丸嬢から、「地震の瞬間には起きてたよ」と訂正の連絡がありました。私からのメールを受け取ったのは地震後しばらくしてで、回線が混乱したせいで遅れたらしいのです(だから直接通話はダメでもメールなら大丈夫という報道は間違いなのである)。ちょうどそのときは「寝ていた」という意味だったんですね。
 「地震でも爆睡する女じゃないよー」ということなので、ここに慎んで訂正させていただきます。

2004年04月20日(火) 今日はぶっくたびれてるので短い。
2003年04月20日(日) メモ日記/壊れていく夜。
2002年04月20日(土) スゲーナ・スゴイデス!/『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』ほか
2001年04月20日(金) ただいま治療中/『クラッシャージョウ』(細野不二彦)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)