無責任賛歌
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2004年09月23日(木) |
クレーマーになんかなりたかないが。/『暗号名はBF』3巻 |
昨日、朝食用にとサンドイッチを買っていたのだが、冷蔵庫の中に置いてない。 買い物を冷蔵庫に仕舞ったのはしげなので、いったいどこに片付けたのか聞いてみたのだが、「ちゃんと冷蔵庫に入れた」と言うばかりである。 「だってあったもん!」としげは力説するのだが、事実、ないものはないのである。 こういうときは十中八九、しげの思いこみで、実際にはあのあほがどこかに置き忘れたとか、別のところに片付けたのを勘違いしているとか、そんなんなのである。 で、今日になって、しげがサンドイッチをどこに片付けていたかが判明した。「冷蔵庫」にではなく、うっかり「冷凍庫」の中に片付けていたのである。サンドイッチはカチンカチン。多分、無意識のうちにそこに突っ込んでしまい、そのまま自分では「冷蔵庫に入れた」と記憶を捏造していたのだろう。人にはこういう勘違いもたまにはあるものだが、しげの場合はしょっちゅうなので、これが実に困るのである。
で、今日は実はもう一つやらかしてくれたのだった。 こないだの大掃除以来、DVD『ケロロ軍曹』の1巻がどこかに行ってしまっていた。まあ、かなりな量の本の山の中で暮らしているから、アレがどこに行ったコレがどこに行ったというのはしょっちゅうなのだが、『ケロロ』の場合は、私が「確かにここに置いといたのになあ」と思っていた場所になく、どこかに雲隠れしてしまっていたのである。 これもまたしげの仕業かもしれないと疑いながら、一応、自分が置き忘れた可能性のあるところは全て探してみた。私だって、何かあったときいつでもしげに責任を負わせているわけではなく、自分自身にも疑いの目を向けているのである。それでもどうしても見つからないので、しげに「『ケロロ軍曹』、どこかに片付けてないか?」と聞いてみたが、「見たこともないよ。緑のカバー?」の返事。 これで、逆に「しげが犯人だな」と見当がついた。「自分では扱わない」と言っていながら「緑」というイメージだけはちゃんとある。しげの貧弱な想像力で「緑のカバー」なんて言葉が出てくるはずがない。やはりどこかに片付けといて、その行為自体忘れてしまっているのだが、色のイメージだけは残っているのである。 しげが山積にしていた本の山を探してみると、やはりそこにあった。DVDは上に乗せられた本の重みで今にも潰れそうである。慌てて上の本を床に降ろして、DVDを取り出した。幸い、損傷はなかったようだが放置しといたらそのうち割れてしまっていたろう。これだからしげの言葉は信用できないのである。 そういうわけで、しけが積み上げてた山を居間の床に広げたので、また部屋は床面積が狭くなってしまいました。……ウチの中が整理できる日はいつ来るのでしょう(T∇T)。
午前中は買い物、「レッドキャベツ」で水を汲んだあと、博多駅の紀伊國屋へ。 ここのDVD売り場でずっと『カレイドスター』のDVDを買っていたのだが、単品シリーズとボックスと、中身がダブっているのに二重に買ってしまっていたので、単品の方を返品に行ったのである。 なんでそんな勘違いをしたのかというと、『カレイドスター』は、通常版とボックス仕様になっているものと、2種類に分かれていたのだが、まさかそのボックスまで単品シリーズと総集編版との二種類に分かれてるとは気がつかなかったのである。 ややこしいのでまとめると、『カレイドスター』は、 「1、単品シリーズ通常版」 「2、単品シリーズ付録つきボックス仕様」 「3、総集編ボックスシリーズ」 の、3種類が出ていたことになる。この2と3の外見上の区別がつかなかったのだ。だって、単品の方にはいちいち「Stage1」「Stage2」とか、番号が振ってあるのだが、総集編ボックスの方にはオモテに「幻の大技BOX」とか「私の夢になってよBOX」「やってやれないことはないBOX」って書いてあるだけで、「Stage○○」という通し番号が書いてなかったのである。だから店も私も、これは別モノなのかと勘違いして、中身にダブリがあることに気がつかなかったのだ。 実はもっとややこしいのは、『カレイドスター』のDVDシリーズがこの3種類に分かれたのは2クール目の放送分からで、1クール目の時には「1と2」しかなかったのだね。そりゃいきなり途中から「3」が増えりゃあ、気がつかずに「2と3」をうっかり買っちゃうやつも出るって。だからメーカーもよう、途中でDVDの出し方の形式、変えるのやめてくれよう。せめてボックスに「Stage5から8まで収録」とか記載しとくべきだったんじゃないのか。そうしとけば勘違いしなくてすんだのに。今回一番責任があるのはポニーキャニオンだと思う。 売り場の店員さん、初めは受け取りを拒否していたのだが、予約して取り寄せていたのは店のほうで、私が棚から間違えて取ってきたわけではない。私のミスで間違えて買ってしまったのなら、まだ諦めもするが、ダブリがないと勘違いして売りつけたのは店の方である。こりゃ、店の方に責任があるだろうと、ゲンブツ見せて談判したら、ようやく納得して引き取ってもらえた。 こういうことしてると、またしげから「このクレーマーめ」と言われてしまうのだが、BOXの方はちゃんと全部買ってるわけだし、難癖つけてタダにしろとか言ってるチンピラとは違うのである。 ……しかし思うけどよ、『イノセンス』とかもそうだけど、こんなふうに何種類もDVD出すってのどうかと思うな。せいぜい通常版と特別版の2種類で充分なんじゃないのか。
夜、WOWOWで、舞台『浪人街』の中継を途中まで見る。 殺陣を使った時代劇は舞台には向かない。「真剣勝負」というのはリアルでなければ成立しないものだが、どうしたって舞台での立ち回りは「段取り」や「様式」が優先せざるをえない。ナマの俳優を目の当たりにしていても、実は役者と観客の間には映像以上の距離がある。別役実が「中景の芸術」と呼ぶのはその点だ。近景でも遠景でもなく、その中間の距離、ということである。 舞台上の殺陣は、「観客の広く暖かい心」が必要以上に働かなければ、成立はしないのである。歌舞伎ならばこれが「約束事」として既に成立しているから観客は納得して舞台を見ている。そこでこの『浪人街』も、随所に歌舞伎的様式を取り入れ、「非リアル」な世界を作りあげることでその殺陣の不自然さを緩和しているのだが、もともとこの『浪人街』の原作自体、侍の現実を描こうとしたものであったので、その結果、内容と表現形式が乖離してしまっている。つまんなくはないけどなあ、なんか違和感を覚えちゃうんだよなあ。 でもこの感想は途中までの印象によるものなので、続きは録画しといた後半を見たあとで。
マンガ、田中保左奈『暗号名(コードネーム)はBF(ベビーフェイス)』3巻。 連載自体は『サンデー』本誌で打ち切られてしまっているので、あと1巻で完結だろう。師匠の椎名高志さんも、HPの日記で「我々大きいお友達にとって少年誌はもうあまり居心地のいい場所ではないのかも」と慨嘆しておられたのだが、実際、強力なライバルとの知恵比べを見ていても、うまく展開していけば、これは「サンデーの『デスノート』」になる可能性だって秘めていたと思うのである。ここで切られるのはあまりにも無残だ。
で、田中さんのお師匠さんの椎名さんであるが、『てれびくん』12月号から『ウルトラマンネクサス』のコミカライズを連載するとか。 うわあ、なんかすげえ嬉しいような、不安なような(~_~;)。だって「あの『GS美神』の椎名さん」が『ウルトラマン』をやるんだよ?! 高田雄三の『ウルトラマン・ザ・ファースト』よりよっぽど期待しちゃうじゃないか! それがどうして『特撮エース』でなくて『てれびくん』なんだよ! 椎名さんなら、毎回たっぷり100ページくらいあげて、堂々たる正統派特撮コミックを描いてほしいじゃないか! 低学年誌だと充分ページももらえないんだろうし、果たして単行本になるほど溜まるのかって心配すらある。ああ、来月から『てれびくん』まで買わないといけなくなるのかなあ。 今度新発売の『美神』のDVDには、『美神』の新作マンガもフロクで付いて来るそうだ。ああ、これもまた私に「買え」という啓示なのであろうか(T∇T)。
ハリウッドでのリメイク実写化進行中の大友克洋原作の『AKIRA』であるが、やや暗礁に乗り上げつつあるようである。 フランスでのインタビューに大友克洋監督が答えて、脚本の初稿を読んだこと、その出来に満足していないこと、大幅なリライトを要求したことを告白しているが、まあ、オオトモ脚本の出来の悪さは、これまでの『AKIRA』『スプリガン』『メトロポリス』『スチームボーイ』等々の諸作で充分証明されているから、かえって改悪されてってんじゃないか、という気がする。だいたい大友克洋はマンガ、アニメーションとしてのビジュアルこそ評価されてはいるものの、ストーリーに関してマトモに誉められたことって滅多にないんである。それを「実写映画化」することにどういう意味があるのか、私にはようわからん。誰か期待してる人、いるのか。 逆に一時期製作が断念されたと伝えられていた『ブレイド2』『ヘルボーイ』のギレルモ・デル・トロ監督による『童夢』の実写映画化については、大友監督、「いくつかの懸案事項があってなかなか話が進まなかったが、問題点がクリアできたので、ゴーサインを出した」と語ったようである。早ければデル・トロ監督、『ヘルボーイ2』の前に『童夢』製作に入るかもしれない。……けどこれも、マンガ以上のインパクトをCGを駆使したところで表現できるものかどうか疑問なんである。……「そうだよ、ぼくだよ」のセリフは英語だと「It’s Me!」とかになるんかなあ。英語版のマンガ持ってる人、そのへん知ってる?
だんだんスパムメール報告となりつつある日記だけれど、今日来たのはこんなの。
> 差出人: 夢子 > 題名: 夢子です、昨日はありがとうね♪ > 昨日お店きてくれた時は、仕事を忘れて久しぶりに楽しめたよ〜何か三上さんとは相性がよさそうだね♪まだ一回しか会った事ないのにねっ^^最近本当に相性いい男の人と出会ってないから・・・ > それでね今度プライベートでデートしたいなぁ。お店以外で会うのは内緒だからね^^三上さん、今月の最後のおこずかいはたいて来てくれたんだよね、会う時はお財布持ってこなくていいからっ!だって本当気持ちよかったんだもん♪私物の勝負下着で行くから夢子のえっちなお願いいっぱい聞いてね > ^^お店休んで早く会いたいよ・・・いつ夢子と会えますか?
「夢子ちゃん」ですか。いかにもいかにもな源氏名ですねえ。鬼太郎のお友達とは関係あるのかな? 句読点の使い方はあったりなかったりでデタラメ、文章も稚拙、「おこずかい」という仮名遣いも間違っている。こういう詐欺メールの文章、やたらヘタクソなのが多くて、書き手の知性が低く見えるのが特徴的なのだが、本当に教養がないのか、それともわざと馬鹿のフリして受け手の優越感をくすぐろうという腹なのか、どっちかね? まあ、十中八九、前者だろうけど(^o^)。 一応、はっきりと「間違いメール」を偽装していて、「三上さん」とちゃんと相手に呼びかけてるところがミソではある。「私は三上さんじゃありませんよ」と返信してもらうことを期待しているのだね(本当に「三上さん」に送られてて、しかも前日に「お店」で遊んでたら面白いよなあ)。 名前の呼びかけがないメールより、こちらのほうがウッカリさんの返信率は高かろう。私は返信する気はサラサラないが、当然、既に「間違って送っちゃいました。ごめんなさい。せっかくですからあなたともお付き合いできませんか?」みたいな返事が準備されているのであろう。そのときにはもう名前の呼びかけはなくなってるのだろうな。 一つ、この手のメールの作り手さんに言っときますけど、アノ手のオミセのレディがプライベートでお客さんと会うのは基本的にご法度、滅多にあるこっちゃございません。仮にメールを送られた人がふるいつきたくなるようなイロオトコだったとしても、そういう人はかえって騙されません。そういう人こそ、「一回会っただけでそこまで関係が進展する可能性は万分の一もない」ということを知悉しているからです。 多少の地方差はありましょうが、アノ手のお仕事って、不況なこのごろでもひと月一所懸命働きゃ、軽く海外旅行の一つだってできる程度のまとまったおカネが入るショーバイなんですよ? リスク犯してまで、一人の男に入れ揚げたりするもんじゃありませんてば。 だから本気で騙すつもりなら、もちょっと、リアリティってものを考えましょうよ。……って屑相手に何をレクチャーしてやってんだろうかね、私ゃ。
2003年09月23日(火) お盛んな大阪/映画『總篇 佐々木小次郎』/『Q.E.D. 証明終了』16巻(加藤元浩)/『魁!! クロマティ高校』7巻(野中英次)ほか 2002年09月23日(月) なんだかいろいろ/『一番湯のカナタ』1巻(椎名高志)/DVD『ハレのちグゥ デラックス』第2巻/舞台『天神薪能』ほか 2001年09月23日(日) 行間を読んでね/映画『ラッシュアワー2』&『ファイナルファンタジー』 2000年09月23日(土) 昼寝とDVD三昧の一日/映画『スリーピー・ホロウ』ほか
2004年09月22日(水) |
イノセンスな情景/『のだめカンタービレ』10巻 |
こないだの練習以来、しげが「ショック」を受けている。 日記で、「夜通し、カトウ君と芝居やゲームや恋愛話を熱く語っていた」と書いたのだが、実際には私は寝ていたので、ホントはどんな会話をしたかまでは知らないのである。どうせそんな話しかしちゃいないだろう、とあてずっぽうで書いたのだが、あとで聞いてみると、ホントに芝居とゲームと恋愛の話しかしなかったとか。寝ろよ(~_~;)。 その「恋愛話」の中でまあ、御互いの恋愛観やらを語り合ったそうなのだが、そこでカトウ君、しげのことを「しげさんのことは人としてはともかく、恋愛対象としてはキライです」と言ったというのである。 そりゃ、傍若無人、無知蒙昧、狷介孤高なしげのことを恋愛対象として見る人間がこの世にあろうとは思えない(人としても評価はしがたい)。ごく当たり前の感想なので、今更いったい何がショックなのかと聞いてみたのだが、「別に自分からコクる気もない相手にいきなり『キライ』って言われるんだもん」とフクレているのである。 なんか、島本和彦の『炎の転校生』で、戦闘フォーが滝沢昇に「ぼくには好きな人がいるんだあ!」と言われて「別に好きでもなかったのにショックだわ」とか言ってたの思い出したな(^o^)。 戦闘フォーの場合はカワイイ子ばっかなので、ショックを受けるのも順当と思えるが、しげの場合は「鏡を見ろ」である。いや、面相だけの問題ではなく、性根の問題である。「恋愛感情」ってのは、相手に対して「憧憬」と「独占欲」が同レベルで存在していないと成立しないものであるが、しげのどこにも憧れるような部分はないし(あれだけ自分に無責任に生きられる点は羨ましいと思うが)、アレを独占して何か特することがあるのか。見返りもないのにわざわざ重い荷物を背負いこむ馬鹿はいない。嫌われるのがごく普通の人間の反応であろう。 それに、恋愛感情なんてのは、本来、人と人とを結び付ける要素としては、殆どその効力を発揮しないものである。世の中には恋愛原理主義者が腐るほどいるが、全然その本質に気付かずに離合集散というか、惚れた切れたを繰り返しているのは全くご苦労なことである。一生、ユメを見てたい気持ちも分からんではないが、ユメの中にしかいないというのもちょっとどうだろうか。 しげにもこの「ユメ」見る部分は多分にあって、だからこそ「ショック」も受けたのだろうけれど、これまで自分の中に「憧れられる」ものとか、「独占したくなる」ものを作りあげ磨いていく努力をなんか一つでもしてきたのか、と言いたい。人として女として自分を磨くことも全くしていないのに、惚れられるだけのことはありたいと望むというのは、世間一般では「おこがましい」と評されることなのである。 私の場合、なんでしげとくっついてるかっていうと、何度も書いたことではあるが、恋愛感情とかではなくて、これが「縁」だからだ。抽象的でよく分からん、ということであれば、しげといることが「人生の仕事」だと認識しているのだ、ということでご理解いたただきたい。いやさ、「仕事」じゃなきゃ、普通、あんな人間の屑と一緒にゃいませんて。こういうことを言うと、しげは「愛がないの!?」って怒るのだが、ない袖は振れない。それがイヤなら初めから私と違って「マイ、ハニー!」とか言って毎日抱きしめてくれるような恋愛至上主義者を相手にすればよいのである。私のような冷血漢と結婚した時点で、甘い生活を期待するのはやめてもらわなきゃ。
昨日に引き続き、トンガリさんは休み。うわあ、ホントに五連休にしやがったなあ。出勤してんの、平均したら週に三日くらいじゃないのか。どうしてそんなに休めるんだか、それこそトンガリさんの口癖じゃないが、「分かりません」。仕事はどんどん滞ってきているのだが、こうなったらもうトコトン出てこないでほしいなあ。中途半端に出てこられたら、またしたくもない口論をしなきゃならなくなるし。 同僚とトンガリさんのことを話していたのだが、「結局、これって上司の『管理不行届き』じゃないのか」と憤慨される。そりゃまあ当然の怒りなのだけれども、おエライさんたちが実情を知っていて何の対処もしないというのは別に今に始まったことではない。例のホモオタさんだって、閑職に回されているとは言え、クビになっているわけではないのだ。他にも不祥事を起こした人間はいくらでもいるが、かなりこりゃ問題なんじゃないのか、と思われるケースであっても、さしたるお咎めナシ、という場合も多い。 おエライさんたちは、ともかく外面と言うか、世間体を取り繕うことばかりを優先するので、ヘタに問題のある者をクビにしてしまえば、そもそもそういう困ったちゃんたちを雇った自分たちの責任問題になってくるのである。それを避けたいがために「ことは穏便に」という方向に行くのだろうが、問題を放置しといて、それが危機的状況になった場合、どうしたらいいかってことまでは考えようとしないのだ。……だからその問題の収集に東奔西走させられてるのが我々したっぱなんだってばよ。全く、すげ替えたいクビはほかにもあることである。
ひと月くらい歯医者に行きそびれていたが、そろそろ何とかならんかと仕事帰りに寄ってみる。前にしてたツメモノを詰めて、また新しく詰め替えて終わりなのだが、そのあとどうするかはやっぱり説明なし。この先延々と詰め替えだけをしていくのかなあ。差し歯とかなんかする予定はないのだろうか。いつも治療が終わって、先生はすぐに引っ込んでしまうので、そのあたりのことを聞くタイミングを逃がしてしまうのである。
今日読んだ本、山田風太郎忍法帖短編全集4『くノ一死ににゆく』。 山田風太郎の描く女忍者はみな切なげである。忍者に与えられた使命は常に苛酷なものだが、それがくの一の場合は、男以上に失うもの、犠牲にしなければならないものが大きいからだろう。さらに哀れを誘うのは、くの一が命を賭して使命を果たしたからと言って、それで何かが報われたかと言えば、何もないことである。作者は最後の最後で意地の悪い「冗談」を仕掛けたりもする。さながらこの世界自体が壮大な「冗談」であるかのように。
読んだマンガ、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』10巻。 パリ編のスタートだけれど、のだめはやっぱりのだめ。留学したのにアニフェス行ってどーするかね(しかしフランスのオタクって「サザエさん」のコスプレとかするんだろうか〔p.117〕)。これまでライバルらしいライバルがいなかった千秋の前に現れたモテモテ男(死語)のジャン。物語としては、これで一応、盛り上がってきちゃいるんだけど、本当のライバルは小心者なんだか大物なんだかよく分らない片平さんではなかろうか(^o^)。
天樹征丸原作、さとうふみや漫画『探偵学園Q』17巻。 さとうさんの絵、最近とみにナヨッとしてきてないかな。リュウはともかく、キュウまで絵によっては女の子に見えるぞ。トリックのチャチさはもう今更。付録に立体視カードなんかつけるのも全然意味がない。つか、カード付けてる時点で、この作者、自分からトリックをバラしてるじゃん(いくらチャチとは言え)。じゃあ、読者だってミステリーのマナーを破って、トリックを言いふらしちゃってもいいのか?
昨日買ったDVD『イノセンス』リミテッドエディションを見る。 特典映像の押井守×鈴木敏夫対談は、相変わらずの押井節が聞けて(ちゃんと宮崎駿へのワルクチも満載♪)、ヘタすりゃ本編よりも楽しかったりする。 押井監督の映画について、よく「人間の情感が存在していない」という批判がされることがある。それこそ「アンチ押井派」は金科玉条のようにこれを繰り返すのだけれども、もともと「そんなものを描くつもりはない」ことを今回の対談でも監督は強調している。「そんな人間の感情とか、一部のものではなくて人間の存在全体を描こうとなぜしないのか」と監督は憤慨しているのである。でも、なぜったってねえ、そりゃ大半の人間が、自己の「感情」を肯定することによって「癒されたい」と思っているからでしょうよ。感情に流されるの、みんな好きだからねえ。 それは実は「愚か」であることと同義語なんだけれども、これは「愚かでなければ生きていくのがツライ」という判断に基づく「世間知」でもあるのである。だって「アタマがいい」ということは無理解も忘却も責任回避もヒキコモリも人生に希望を持つことすら許されないということなのであるから。 逃げ場のない人生、希望のない人生を送りたいなどと誰が思うだろう。「アタマのいい生き方」というのは、実は「絶望」を前提として、「存在が存在していることの意味など、この宇宙のどこにも存在していないことを明確に自覚して生きる」ということなのだ。しかし、仮にそんな生き方を選べば、神ならぬ人ごときが導き出せる解答は結局「絶望」に落ちついてしまう。たとえ愚かと言われようが、この世にある者で「生きたい」という感情に忠実であらざる者は滅多にいない。生きるためには愚かでなければならないというのは、そういうことなのだ。宮崎駿の『もののけ姫』が「生きろ」をコピーとし、「馬鹿には勝てん」のセリフで締めくくられるのは、つまるところは「希望を持つこと=馬鹿であること=生きること」であることを喝破しているのである。 人はいつまでもユメを見ていたいと思う。『セカチュー』みたいに古色蒼然とした「お涙頂戴」映画が未だにヒットを飛ばすというのも、『華氏911』のように「キミにも正義が行える」と甘い錯覚を与えてくれる映画にトロンとしてしまうのも、みんな、現実の絶望と向き合うことから目を逸らしていたいからである。冷静に考えてみればよろしい。この世界に、気休め以上の希望がいったいどこにあるだろうか? 押井監督が「現代人は肉体を失っている。結局人間には『言葉』しかない。肉体だと思っているものだって『言葉』によって規定されたものに過ぎない。その、言葉に規定される以前の、本来の『人間』を回復するためには、肉体に対置する存在としての『人形』をそこに置く必要がある」という、これまでに何度となく述べている『イノセンス』製作の動機を語っているのは、言ってみれば「絶望」を前提として、それでも人間が存在することに意味を求め得るのかという、殆ど解答の出しようがない命題を自身に課しているのと同義であろう。 けれど結局、言葉にだって意味はない。意味があるように見えるものがそこに存在しているだけだ。押井監督がやろうとしていることは、すべからく徒労に終わることが運命づけられている、ドン・キホーテ的行動なのである。だからこそ、『イノセンス』は極めていとおしい映画になっているのであるが。 カンヌ映画祭で無冠に終わった押井監督が、「『映画が好き』と語る人々は“過去”の映画を見ているだけだ」と語ったのを「負け惜しみ」と取る人もいるだろう。けれど実際、受賞した『華氏911』には、新しいものなど何もなかった。あれを評価している人々が、ドキュメンタリーという看板にうまいこと騙されて、単に自分に心地よい幻想に浸りたがっていただけだということに気付くことはあるのだろうか。
2003年09月22日(月) 記録の魅力/『ロケットマン』6巻(加藤元浩) 2002年09月22日(日) 変なビデオは買いません/映画『仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』ほか 2001年09月22日(土) 気がついたら食ってばかり/映画『カウボーイビバップ 天国の扉』 2000年09月22日(金) 徳間ラッパ逝く……/ドラマ『ケイゾクFANTOM 特別編』ほか
2004年09月21日(火) |
マーシーって愛称もなんか好きになれなかったが/DVD『Re:キューティーハニー』天の巻 |
三連休が明けて、まだややからだの調子が戻らない状態で出勤。 こないだ相当な口論をしたので、トンガリさんはどんな顔して仕事しているやらと覗いてみたらまたまた欠勤だった。てことは四連休か。明日も休めばその次の日も休みだから一気に六連休、さらに二日休んだら十連休まで行っちゃうけど、いっそのことそのまま出て来なけりゃいいのになあ。そうすりゃさすがにおエライさんたちも、「代わりの人を」って判断してくれるだろうから。
明日は父の69歳の誕生日なので、プレゼントを買いに仕事帰りにしげと博多駅に。 プレゼントの選択はしげに任せて、私は紀伊國屋を回って、仕事関係の資料を探す。まあついでにDVDやら本やらも買ったけれど。 DVDは、予約していた『イノセンス』のリミテッドエディション2、『鉄人28号』3巻、『Re:キューティハニー』1巻。他にもほしいものはたんとあるのだが、今月はお出かけの予定が多いので、泣く泣く諦めたものも多い。ああ、ビリー・ワイルダーボックス、冬のボーナスが出るまで売り切れてませんように(T.T)。 しげ、最初はお風呂用品を何か買うと言っていたのだが、適当な品がなかったとかで、ダヤンの携帯ストラップとボーチを買ったとか。70歳目前のジジイが付けるものとも思えんが。
七時過ぎ、父の店へ行く。信号にいくつか引っかかって、5分で行ける距離が10分ほどかかってしまったが、父は店の前で待っていた。中にいてもよかろうに、トシ取るたびにせっかちになっているようである。プレゼントを渡して、夕食に誘う。あいにく目当ての店は駐車場が満杯で、仕方なく近所の焼肉屋へ回る。 父は牛刺しにビールに焼酎、私としげは焼き肉を適当に見繕う。誰もダイエットなんて考えてないんじゃないかってメニューだ。できるだけ肉はつままないで野菜ばっか食うようにはしたけど。 父、酔いが回るにつれてこないだの電話の件でまたまたクダを巻く。 内容は同じことの繰り返しで、父は幼馴染の友人に対して、「なんでしげさんの育ちが悪いとか、そんな理由でお前たちを別れさせようなんて言わないかんか。おれは差別するやつが一番好かん」と立腹しているのである。 当のしげは「育ちの悪いのは事実らしいんで」と苦笑しているが、酔っぱらった父はどうにも止まらない。「あの人も、子どものころ、人から差別されたことがあるったい。自分も差別されとって、なんで自分も他人ば差別するか? おれにはそれが分からん」と、どうにも腹の虫が収まらない、というふうである。 「自分が差別されとうから、他人ば差別するようになるんよ。仕返しみたいなもんやろ」 身もふたもない言い方だが、傷つけられた人間が痛みを知るが故に他人を傷つけないようになる、なんてのは理想、と言うよりはただの幻想である。たいていの人間は傷つけられればただの人間不信に陥る。そして時には“意図的に”他人を攻撃することすら厭わなくなる。で、殆どのオトナがそれまでの人生の中で一度も傷つけられなかったことなんてないから、他人を平気で攻撃し傷つけるようになるのである。それが現実だ。 だから、「自分は昔、傷つけられたことがあるから、他人を傷つけないようにしている」などと堂々と言ってのける人間は、ウソを平気でつくことのできる詐欺師か、そうでなければ無意識のうちに他人を傷つけまくっている最も迷惑な“善人”である。この「善人」が実に始末に悪くて、過去に「傷ついた」経験が、他人に対して何か説教できる資格を与えたかのように本人を錯覚させてしまっているのである。心が「自分は正しいことを言っているのだ」という確信に支えられているから、もう他人の言葉は全く届かない。具体例はあえて挙げないが、多いよな、こういう手合い。 まあ、父も実はその「手合い」とやらの一人なんで、脳天気に「差別された人間は他人に差別しなくなるものではないのか」なんて理想論を言ってしまえるわけなのだが。私だって差別は嫌いだが、差別をすることでしか人は自己の精神を安定させられない、ということも知っている。そこに例外はない。単純に「差別反対」なんて言えるものではないのだ。 まあ、父の憤懣も所詮は酔っぱらいのクダマキであるから、マトモに聞く必要はない。父とそのご友人、端から見てると今にも取っ組み合いのケンカでもし始めるんじゃないかってくらい、怒鳴りあったことも何度となくあるのだが、小学校時代からの腐れ縁なので、大ゲンカしたあともケロッとまた仲良くなってしまっているのである。お互いの欠点も知った上で好きなだけ言いあってるのだから、夫婦ゲンカみたいなものだ。犬も食わないもんに茶々入れたりするものではないわな。 父、食事を終えたころにはやたら機嫌がよくなっている。「今日はありがとうね」を繰り返して少しばかり千鳥足。父のマンションまで送るが、玄関で別れると廊下で蹴躓きそうなので、裏庭の近くまで車を寄せる。鍵を開けるのに少し手間取っていたようだが、なんとか部屋の中に入るのを確認して、その場を離れる。 父ももともと酒に強い方ではなかったが、年を取ってかなり弱くなってきたようだ。けれどどうせこのあとも飲みなおすのに決まっているのである。全く、糖尿はどうしたんだ。 帰り道、スーパーに寄って食材を買い込む。と言っても今、ウチでは「親子丼」がハヤリなので、買うものと言ったら鶏肉とか鶏肉とか鶏肉とか卵である。私自身ももう少しレパートリー、増やしたいのだけれども。
帰宅して、DVD『Re:キューティーハニー』天の巻を見る。 トワーニが解散ってことは、このアニメシリーズも3話で終わるのかなあ。いや、そりゃあまりにももったいないってくらいの快作。実写劇場版の3倍は面白い……と言い切っちゃったら四代目ハニーを熱演していたサトエリには悪いけれども、どうしたってアニメのキレのある動きとテンポには実写は敵わない。 特に1話の監督を務めた今石洋之監督は、止め絵にコマ落としを効果的に使ったマンガチックな演出で、いかにも“永井豪らしい”ギャグを連発してくれる。いやあ、万年係長が実は『廃人二十メンチョ』のイボ痔小五郎だったとは! 下半身ケツ丸出し(噴血もちゃんとあるでよ)の係長なんてセクハラじゃないのか(^_^;)。ということは、実写版の万年役の松尾スズキも実はイボ痔か(^o^)。 当然、社員の寺田リンコと高橋真弓は、イボ痔の助手の手寅あけびと割目モモ美が演じているのだけれど、もともと原作『ハニー』(新作)に寺田リンコというキャラクターが登場しているし、高橋真弓はもちろん『けっこう仮面』のキャラクター、だけど真弓のビジュアルはなぜか女子アナに流用されていて、なんかすごくややこしいことになっているのである。ってそんな細かいこと、永井豪ファンじゃなきゃ分からんわ。いや、ちょっとだけ登場のキャラクターを挙げていけば、不動明や牧村美樹を初めとしてキリがない。快ケツ婦警さんまで出るとはいったい誰が想像したろうか。まさに豪ちゃんファン必見のアニメになってるんである。 極め付けは、なんとへんちんポコイダーとへんきんタマイダーの初のアニメ化! ゲスト出演とは言え、声もちゃんと付いているぞ! ポコイダーフリークのいしかわひでおくんにのだじゅん。ちゃんだ! そのあたりの事情は特典映像で確かめよう(^O^)。 実写版では見せ場のなかったゴールドクローもアニメ版ではちゃんと捲土重来、ハニーをギリギリまで追いつめてくれる(この「ギリギリ」ってのは当然“露出度”のことね)。実写版での「もう一歩」感がこのアニメ版でスッキリ解消された気分である。やっぱ実写版でもシタチチくらいまでは見せるべきだったんじゃないのかね。それがハニーなんだから。 それと、ハニーもいいけど、アニメ版ではつるぺたくーるびゅーてーな夏ちゃんがすんごくイイぞ! 原作から離れて女警部という設定にしたことは、実写版でも効果を上げていたことだけれども、天衣無縫なハニーとの対比で、お互いのキャラクターをよりいっそう魅力的に見せることに成功している。女はやっぱり強くてカッコよくなきゃイケナイのである。うん。
読んだマンガ、島本和彦『炎の転校生』(文庫版)7巻。 巻末にデビュー作『必殺の転校生』を分載したのは、「全巻買わないと最後まで読めませんよ」という卑怯なワザなのか、「稚拙過ぎて、とても一気読みはさせられない」という羞恥心ゆえなのか。成長した滝沢を描いた続編も収録されているけれど、尻切れトンボで終わってるので、まだこれが最終形ではないのかも。確かに続きを読みたい気もするけれど、冷静に考えればどうしたってデビュー当時の勢いは再現できないものである。1巻のころの描き足しも違和感あったし(島本さん自身、恥ずかしくなったのか、途中でやめてしまった)、やめといた方がいいよなあ。
さて、またまたアカラサマな有料サイトへの勧誘メール。
> 差出人: amaryllis@***.famille.ne.jp > 題名: チャリ盗まれたぁー!!? > もぅ最悪だよぉ〜o(>_<)o > 先週買ったばっかりなのにぃ!!! > チャリ2コもってたよね??1コかしてぇ〜o(>_<)o
こんな下品な口調のメールを送ってくるやつなんて、私の知り合いにはいません(~_~;)。しかも人の自転車を勝手に「チャリ」なんて呼んでやがるし、貸せとかくれとか気安いぞ。こんなヤツにものを貸したら二度と戻ってこないことは確実だ。 さらに言えば、自転車の数え方は「1台、2台」で、「個」じゃないぞ。何でも「個」で代用できるなんて考えてんじゃねえ、この無知蒙昧な大馬鹿野郎めが。若いもんどうしはこういう一般常識もない下品な会話してるのかもしれないが、私を非常識の世界に巻きこむな。 なんか、ニフティの迷惑メールフィルター、あまり役に立ってないよなあ。アドレスや題名に出てくるキーワードで分別してるんだろうけれど、ハッキリ「未承諾広告」ってタイトルにあるのに、すり抜けてくることもあるんだもんなあ、いったいどうなってんだよ。一応9割はカットできてはいるようだけどさ。 スパムメールは、結局、相手への呼びかけができないから、一発で勧誘メールってことがバレる。「間違いメール」のフリをするなら、かえってアキラでも、ユージローでもなんでもいいから呼びかけりゃいい。その方が「宛先、間違ってますよ」と返事を送る人の数はグッと増えるだろう。それをしないってことは、送り手は自分の手口が中途半端だってことにも気付いてないのである。ばーか。 こんな見え透いたメールなんて、いくら送ってもムダなんじゃないかって思うんだけれど、どういうわけだかこういう単純な手口にも簡単に引っかかってしまうピュアな方は、この広い世の中にはやっぱりたくさんいらっしゃるようなのである。なぜって、いつまで経ってもこの手のメールがなくなる気配がない。雑踏に石投げりゃ、必ず馬鹿に当たるってなもんである。新興宗教と同じで、引っかかるやつは心底馬鹿だから、騙すほうも罪悪感、感じないでいられるんだろうなあ。 こういうのを減らすことって、なかなかできるとは思えない。一回引っかかった人はそうそう引っかからなくなるだろうけれど、どうせまた新参者がネギ背負って来るから。地道な努力だけれど、できるだけ多くの人が、迷惑メールを極力目に触れるようにネット上に晒していって、ピュアな方々を「啓発」してかなきゃなんないんだろうね。 ネット上をあちこち検索してみると、迷惑メールをコレクションしているサイトもあったりする。「こういうのに気をつけましょうね」と注意を喚起してくれるのはいいことなのだけれども、中には「手口が巧妙になってきた」とか寸評してるところもあって、思わず「どこがや」と失笑して、そのあと落胆してしまう。最近のスパムメールは、手口はむしろどんどん形式化、定型化していて、稚拙になっていると言ってもいい。それを「巧妙」なんて誉めそやすから、この手のメールが一向に減らないのじゃないのかな。
「おいおい、またかよ」の田代まさしの逮捕。ネットをあちこち覗いてみても、話題にしてる人多いなあ。隠れ田代まさし“ファン”って、そんなにいたのか。芸人としてもお笑いタレントとしても三流で、私はとてもファンにはなれないのだけれども。でもこうして事件そのものに興味を持ってしまうってのは、やっぱり心のどこかで田代まさしに「惹かれる」ものを感じているのか? やだなあ。 20日夜、中野区新井の路上に乗用車を停めていたところを、警官から職務質問を受けた田代まさし、初めは「バタフライナイフの不法所持」が発覚しての、銃刀法違反の現行犯逮捕であった。 それが、同乗していた女性のリュックサックから覚醒剤約2グラムと大麻樹脂約4グラムが発見されたため、女も覚醒剤取締法違反容疑で逮捕、そこで田代容疑者が「自分のものだ」と証言したために、同じく覚醒剤取締法違反ほかの容疑で再逮捕された、という経緯である。 以前のスカート盗撮事件に続いて、覚醒剤所持もこれが二度目で執行猶予中だったから、もう実刑は免れまい。まあいかにも「懲りてない」感じだから、軽くても4、5年はくらいこんでたらいいんじゃないかと思うが、それでもちゃんと更生できるものかどうか。なんだか第2の清水健太郎になりそうだなあ。出所したらコンビ組んだらどうだ。一応「ケンちゃんとマーシー」だし。まあシミケンにバカ殿はできないだろうけど。 「一度クスリに手を染めた者は、そこから抜け出せることはない」と言うけれども、実際にはそこから更生した人もたくさんいる。芸能人で、好奇の目に晒されているから一般人に比べて更生しにくい、という説もあるが、これもちゃんと抜け出せた芸能人もいるからウソである。結局は田代まさし自身に全ての責はあるのであって、同情の余地はない。批判、嘲笑を受けても仕方がないのである。 お笑い芸人は、自分はお客さんを笑わせてるつもりでも、実は「笑われている」タイプと「嘲笑われている」タイプとに分かれている。田代容疑者は自分が後者であることに、いつまで経っても気付かなかったのだろう。
ニュースでは田代容疑者のことを「元タレントで会社員」と説明していたが、ということはもうタレント業から完全に引退してカタギになっていたのか。でもそれなら覚醒剤はどこからどう入手していたのか。やはりどこかでそのスジに“つながり”があったのか、それとも今の「会社」とやらがやっぱり“そのスジ”だったのか。執行猶予がつくためには、更生のための環境が整っていることが必要条件だから、後者の可能性は少ないのだけれども、どっちにしろ前の逮捕のときに裁判所をうまいことだまくらかした事実に違いはないのである。 いったん、人間としての評価が地に落ちているわけだから、そこから這い上がることが容易でないことは分かる。世間の白眼視に対して抗弁のしようがない状態で“どこかに”救いを求めたくなる気持ちも分かる。だが、人間の「更生」はそこで「救いを求めない」ことでしか得られるものではないのだ。そのことに人は往々にして気付かない。いや、そうだと理解している人もいないわけではないが、実践は極めて困難である。それを実行できるほどに人間の精神は“勤勉ではない”のである。それは人間の最大の“愚かさ”ではあるのだが、その愚かさがなければまた、人は自らの精神の重さに耐えられなくなる。従って、全ての人間は“堕落する人生”しか歩むことはできない。単にその人生という名のスロープを、ボーゲンでヨタヨタと降りて行くか、直滑降で一直線に滑り降りていくかの違いがあるだけだ。自分にとって「救い」と見えるものの正体は、実は目の前に広がるアイスバーンなのである。
田代容疑者が求めた「救い」が「クスリ」だったのか「女」だったのか、そこはどちらとも断定しがたい。本気で田代容疑者を「救おう」と思う人がいるなら、逆説的な言い回しにはなるが、一切の救いの手を差し伸べないことである。ほんの少しでも誰かが救いの言葉をかけようものなら、彼は自らの罪すらも「肯定されたもの」と無意識のうちにすり返るだろう。愚かな人間への救いの手はその愚かさを助長させる効果しかない。その結果がどうなるかは容易に想像がつくだろう。「再犯」とはそのようにして行われるものなのだ。 ……なんか、「救い」がどうのこうのって、結局私の意見としては、田代まさしに復帰してほしいのかほしくないのか、いったいどっちなんだ、と仰る方もおられるかもしれないが、別に人間一人の運命をどうこう言おうなんて大それたことは考えていない。どんな極悪非道の犯罪を起こそうと、もし「世間」がその存在を認知しようと動けば、その存在を否定することなど、誰にもできることではないのである。「禊」があるかどうかは時の運ってね。
2003年09月21日(日) 劇団の激談/『美女で野獣』3巻(イダタツヒコ)/『バジリスク 甲賀忍法帖』2巻(山田風太郎・せがわまさき) 2002年09月21日(土) 世界の王/『パラケルススの魔剣 アトランティスの遺産』(安田均・山本弘)/『パンゲアの娘 KUNIE』5巻(ゆうきまさみ) 2001年09月21日(金) 子供のころは本屋さんになりたかったのさ/『多重人格探偵サイコ』7巻(大塚英志・田島昭宇)ほか 2000年09月21日(木) 笑顔とブレゼントとオタアミと
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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