浅間日記

2011年11月27日(日) ソルヴェイグの歌

Hは山へ。Aと小さいYと三人で簡単な朝食。

ラジオから、楽興の時のおなじみのメロディとともに、音楽の泉。
本日は、ペール・ギュントである。通しで鑑賞できるのは嬉しい。

婚礼の場面、朝と続き、ソルヴェイグの歌。
船で冒険の旅に出て行ったペール・ギュントの帰りを待ちわびるソルヴェイグの、おなじみの美しいせつない曲である。




「お母さん、お父さんがヒマラヤへ行っても、もうこんな気分にならないなあ」
煮たりんごをトーストの上へ丁寧に乗せているAに、問われるでもなく言う。
「何しろあなた達の世話やなんかで忙しいからね」



来年の夏のヒマラヤ遠征計画を、先日Hから打診された。
7000mの高所へ一度はあがってみたいんだ、と、。


いいじゃない!と力強く後押しする無邪気さは、遠い20代に置いてきた。

不在を寂しく思い、日夜どうしているかと案じながら帰りを待ち望む気分も、
独身時代、ないしは親になる前の時代に置いてきた。

行く、というのなら、そうですかと対応するのみである。

写真を見せながら熱心にプレゼンテーションに励むHの話をよそに、
頭の中は、もう約束してしまっている自分の仕事をどうやりくりするかの算段で一杯になっている。



ソルヴェイグの歌は続く。

蜂蜜でベタベタになったYの口元を拭いてやりながら、
美しい歌声に耳をすませる。

実務上のことで頭がいっぱいになるのは、親として生活を背負った結果だ。

Hのクライミングに対する姿勢に否定的になったり、無関心になったわけではない。もちろん無事な帰りを待たないわけではない。

心のどこかで、ソルヴェイグみたいな人が言う。



その心の動きを、黙って曲に耳を傾けているAに見透かされたような気がして、
アニトラの踊りもいいよねえ、などと取り繕うのだった。

2006年11月27日(月) 脳が脳を洗う



2011年11月13日(日) 感性のリトマス試験紙

爽やかな晩秋の休日。

なのに、締め切りに追われてPCに向かっている。

Hと子ども達は、朝食を終えた後、さっさと遊びに行ってしまった。

もちろん忙しい私に気を利かせてのことではあるから、
羨ましいなどと言ってはいけないのだが、やはり羨ましい。



傍らのFMラジオ放送を友として、黙々と作業をする。
ああジム・ジャームッシュの映画が見たいなあとぼんやり思う。

今年の夏に、彼の2003年の作品であるコーヒー&シガレッツを久しぶりに観た。
その時に私は、彼の作品をいいなと思うことができる自分に大いに安堵したのである。

彼の映画をまだ好きかどうか、ということは、私にとって
ずいぶん昔に発見し、そして大切にしてきたある種の感性が、
自分にまだ残っているかのリトマス試験紙みたいなものなのだ。

それは、言うなれば、親や兄弟とは関わりなく、
自己を「ただひとり」として確認し、自我が芽生えた頃の、若々しい感性だ。



そんな駄考をしていたことを忘れて仕事に集中していた時、
ふいにラジオから、トム・ウェイツの新曲が流れてきた。
ジムの映画と切り離せない音楽の世界が突然広がる。

かようにして神様は、休日出勤者に素敵なごほうびをくれるのである。

2007年11月13日(火) 土地に嫁ぐ
2006年11月13日(月) 煮えたぎる子どもたち



2011年11月04日(金) 海は誰のものか

深夜、というよりは早朝に近い時間帯に、
ラジオで、東京海洋大学名誉教授 水口憲哉さんのお話。

暗がりの中で耳を傾けているうち、どうもこれは、
寝静まった時間帯に放送する内容ではないような気がしてきた。

話の内容が、海の放射能汚染と海の生き物への影響、漁業への影響であったからである。



汚染水の排出行為を通じて、陸地での放射能汚染よりもはるかに深刻な汚染が、海洋で生じ、現在も進行している。

それは、汚染物質を陸地に残すと目立つからという動機だ、
と水口教授は批判する。




海の中の海水の様子というのは、まだ良くわかっていない。
そうした未知を残す中で、今回の膨大な汚染が発生した。
そうだから、我々専門家でもまったく予想もつかない事態が海の中で起きている可能性がある、と教授は指摘する。



原子力発電所からの汚染水の海への投棄に、そして原発そのものに反対してきた水口教授は、その他の同じ志をもった学識研究者の方々と同じく、このような事態になってしまったことに対して、非常な無力感を感じているそうである。

また、海の空間というものを、放射性廃棄物を含む陸地で発生した様々なゴミを捨てる場所であると言ってはばからない人達がいることに、静かな怒りを感じているようだ。



なんだか重たい話から朝が始まってしまった。
これは多分、覚えておかないといけないことだろうと思い、記す。

2009年11月04日(水) 経験の共有
2007年11月04日(日) 
2006年11月04日(土) 
2005年11月04日(金) スーパードライ
2004年11月04日(木) 大統領の選び方



2011年11月02日(水) スティーブ・ジョブズ以外の大多数

米アップル社の創業者である、スティーブ・ジョブズ氏の追悼が止まない。

全世界で、彼の偉業を称え、自分の言葉で語り、その変革に敬意を表する人がいることに、改めて驚く。

今朝も、朝刊には掲載された追悼記事、というよりも彼の業績を解説する記事が掲載され、「使いやすさに付加価値」と見出しがついている。



性能とデザインは双子の兄弟だ。

いかに高性能を備えていても、それが人の役に立つようにデザインされていなければ、片手落ちなのである。

それでは、その場合の「人」は、専門的な知識を有する人であればよいのか、
それとも、「誰でも」であるべきなのか。



ジョブズ氏が後者を選んだことは、誰でも知っている。
私が思いを巡らせるのは、「どうしてジョブズ氏以外はそう思わなかったのか」なのである。

マッキントッシュは、技術的にジョブズ氏でなければ発明できなかったのかといえば、それはそうではないんじゃないかと思う。

おそらく、そうしようと思いつかなかったのだ。
コンピュータというのは、専門家が難しい顔をして特別な操作をしなければ扱えないものであってほしいと、願ったのだ。

世界中の、1人ひとりの開発者が、自分の専門家としてのアイデンティティを支えるために、意図せずその性能を囲い込んだ。





デザインは思想である。あらゆるものについてまわる。スタイルといってもよいかもしれない。

そうだとすると、日本の政治全体にもう長いこと張り付いているデザイン乃至はスタイルというのは、
ジョブズ氏の生み出したマッキントッシュとは似ても似つかない、
私たち「誰でも」にとっては大そう使いにくく、不細工な感じがする。

なんか大そうな性能があるらしいが、よくわからない。
何をどうすれば、自分たちの役に立つのか、さっぱりわからない。
取扱い説明書があるにはあるが、うんざりするほど分厚い上に難解だ。
下手にいじれば、エラーといって文句を言われる。
その上、馬鹿に高価だ。

もしこれが製品だったら、誰も買わないんじゃないだろうか。
そうだから、投票率が下がるんである。

2010年11月02日(火) 
2007年11月02日(金) 
2006年11月02日(木) 因縁と落とし前
2005年11月02日(水) 記憶に残るもの、生きていくもの
2004年11月02日(火) 避難とは何か


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