2007年07月12日(木) |
名物ドーナツ饅頭−選べない運命− |
ある山村集落の、旧道沿いの菓子屋に、 「名物ドーナツ饅頭」というものが売っている。
山間部の川や山に囲まれた場所で口にすれば、 何にも替えがたい特別な美味しさがある。 そういう種類の食べ物である。
その店の主がせっせと粉を練って揚げている。 10個入り1000円で、白餡と黒餡が入っている。
ただし、1袋、つまり10個のパッケージの中で、 白餡と黒餡を何個にするかは、客には決められない。
客には決められないというよりも、店の主でさえ白か黒かを識別できない。 餡を包んだ後は、白も黒も一緒くたにして揚げたり砂糖をまぶしたりしているからだ。
だから-理論的にいけば-10個のうち8個が黒餡のときもあるし、 10個のうち1個も黒餡がない場合もある。 もっとも、たいていの場合、白黒バランスはほどほどのところにおさまっている。
このシステムへ文句を言う客もいないようだし、 釣り客やハイカーなんかには結構売れていて、昼過ぎには売り切れる。 「黒か白か選べないんだってさ」と嬉しそうにいいながら、人にすすめている。
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不可知は、時には一種の快感となる。 どきどきわくわく、というやつである。
10個のドーナツのうち、大好きな黒餡が8個なら嬉しいし、 白餡が10個なら残念という、感情の起伏を楽しむことができる。
食品玩具に熱狂的な消費者がつくのも、同様の理由と思われる。
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そして、選べない−選ばなくてよい−ということは、人に安堵をよぶ。 「ドーナツの餡が黒か白かなどよきにはからえ」ということにしてしまえば、 黒と白の味の違いについて深く考える必要もないし、 黒が何個で白が何個という悩みから開放される。文句を言う人もいない。 おまけに店主も楽である。
自分の運命を決められないが、責任もとらなくてよい。 もう一切そのことを知らなくても考えなくてもよい、というのは、楽ちんなのである。
繰り返して書けば、 ドーナツの餡が白か黒かについて「選べない」ということは、 ひとつの加えられた制約であると同時に、ひとつの選択責任からの解放なんである。
2004年07月12日(月) 肌寒い空気
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