無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年09月17日(水) そう言や久しぶりのカラオケだったな/『雑多なアルファベット』(エドワード・ゴーリー)

 昨日はテレビニュースをリアルタイムで見ていた、例の爆発事故、昨日に続いて詳細がニュースで流れる。
 犯人は軽急便の委託業者の別府昇容疑者(52)。
 容疑者が、刃物・洋弓銃を手にして、名古屋市東区のビル4階の運送会社事務所に押し入ったのは、昨日の午前10時すぎ。台車の上にポリタンク2個を乗せて、うち1個をけり倒して、床一面にガソリンを撒いて、「7、8、9月分の給料25万円をすぐ払え」と要求、支店長を含む8人を人質に立てこもった。
 県警は捜査員をドア越しに配置し、犯人の説得を試みた。しかし犯人は7人を解放後、ガソリンに火をつけた。捜査員が突入しようとした瞬間、爆発が起きた。
 犯人及び最後の人質だった支店長、そして捜査員の一人の計3人が死亡。近くにいた24人が重軽傷を負った。

 ガソリンを撒いただけで爆発なんて起こるんかいな、と化学的知識の全くない私はぼんやりテレビを見ていたのだが、気化したガソリンが密閉された空間に充満していたところに一気に火がつき、唯一開いていた小さな窓目掛けて吹き出したものだという。へぇ。
 犯人は自殺を試みたのではないかということだが、そんな爆発の知識があったとも思いにくい。金が目的だったのだから、火に紛れて逃げようとか、その程度のことしか考えてなかったんじゃなかろうか。
 事件そのものについての感想は特になし。巻き添えくらった支店長さんとお巡りさんがホントにお気の毒ってことくらい。


 突然しげが「カラオケに行く!」と言い出す。なんかストレスが溜まってたらしい。
 「何のストレスが溜まってるんだよ」と聞いたら、眉間にシワ寄せて(もっともしげの眉間にはしょっちゅうシワが寄ってるのだが)「アンタ」と言われる。
 「オレがオマエに何のストレス与えてんだよ。逆だろ」
 「いんにゃ、アンタもオレに与えてるね」
 「オレがオマエになんか与えてるとしても、オマエがオレに与えてるストレスのほうがずっと大きいね」
 「五十歩百歩じゃん」
 「五十歩百歩ならたいしたことないけど、千歩一歩なら大きな差だね」
 「そうやってすぐ自分を美化するし」
 「『美化』ってそういうときに使う言葉とちがうぞ!」
 なんか思い出して書くだにコドモの会話である。これで40と30の夫婦だからなあ。


 「シダックス」の会員券、私はどこかにやっちゃってるので、しげので入る。しげはバイト先の同僚の人たちとも時々出かけてるらしいので、あちこちのカラオケ券を持っているらしい。しょっちゅう「今度はどこそこのカラオケ屋に行こう」と誘われるのだが、そのたびごとに店の名前が違う。カラオケ屋荒らしでもやってるのかこいつは。
 新番のアニソン・特ソン、いくつか歌えるのがあるかどうか探してみたが、番組自体は見ているのに、主題歌が思い出せないというものが多い。『ナージャ』はキィが合わないから仕方がないとしても(そもそも歌おうと考えること自体がなあ)『ガオレンジャー』も『555』も『ガッシュベル』も全然覚えてない。20代のころまでは、斜め見してたアニメだって2、3回聞くだけで殆ど覚えていたのに、40の坂を越えた時点でもうアウトなんである。
 しげは外人にでもなりたいのか洋モノばかりを歌う。私もむりやりデュエットで『The Phantom of the Opera』を歌わされるが、舞台で一回、カラオケで一回しか聞いてない歌を何で歌えるものか。それでもしげの方は音程を外しつつもなんとか歌っている。「よく知ってんな、こんな曲」と聞いたら、しげ、「オレも一回しか聞いたことないよ」と言う(舞台は私しか見に行ってないのだ)。オモテに出たがらないクセにこういう隠れたところではやたらチャレンジャーなのだな。
 日頃は歌いつけてない歌を歌おうとアニソンを探しているうちに、いくつかの事実を発見。耳には馴染んでてもちろんソラで歌えるのだけれども、私は『オタスケマン』の歌を一度も歌ったことがなかった。なんかこういうのほかにもある気がするなあ。


 エドワード・ゴーリー(柴田元幸訳)『雑多なアルファベット“The Eclectic Abecedarium”』(河出書房新社・1050円)。
 今回随分版型が小さいなあと思ったら、原書と同じ体裁にしたからだそうな。ほぼ文庫版サイズで、絵本のコーナーに置いていたら、他の書に混じって見つからない可能性が大。ご購入の際にはお気をつけを。
 柴田氏の解説によれば、原タイトルの“The Eclectic Abecedarium”は「折衷的なアルファベット・ブック」という意味になるそうな。「エイビーシーデアリアム」とはラテン語起源の語で、あまり使われることのない物々しい響きのする言葉だとか。ムリヤリ日本語で雰囲気を出そうとしたら「寄せ集めのイロハ読本」てな感じになるのだろうか。日本でも種種雑多な「いろはがるた」があるから、あちらでのそういうお遊びものだと思って頂いて、基本認識は間違ってはいまい。もちろん作者が「あの」ゴーリーなだけに、一筋縄ではいかない。なんか意味ありげな、皮肉っぽいような短詩(?)もあるし、単にナンセンスなだけのもあって、種々雑多。でも残酷さはゴーリーにしては少ないので、これなら女の子や子供へのプレゼント用にいいかも。訳者の柴田氏はあとがきで「それでフラレても責任持ちません」と書いてるが(^o^)。

 柴田氏の訳については、これまでの訳もぎこちなく感じられて不満足ではあったが、今回は文句を付けるのはやや憚られる。なんたって、こういう言葉遊びの本で、英語の韻を日本語に引き写すのはほぼ不可能に近いからである。かつて北原白秋は、『まざあ・ぐうす』で果敢にそれに挑戦して敗れ去った(「とっぴょくりんのとん吉」なんて訳されてもなあ)。和田誠氏が『オフオフマザーグース』で偉業と評していいほどの成功を収めたのは稀有の出来事なのである。
 英語や中国語と違って、日本語は韻を踏むこと自体に難しいところがある。五味太郎の『さる・るるる』のように「る」だけを共通させるとか、その程度のことしかできないので、これは如何ともしがたい。
 内容は短いので、以下にそれを示してみる。

Alms(施し)乞われた施し ためらうな。
Bird(鳥)歌は聞こえど 姿は見えず。
Clumbs(パン屑)親指で拾え パン屑。
Door(ドア)ドア閉めるなら うしろ見てから。
Eye(目)地に人あり 空に目あり。
Fan(扇)扇舞うには 元気が肝腎。
Glass(硝子)硝子の向こうで 過ぎ行く人生。
Hail(雹)雹取る秘訣 常備のバケツ。
Indian Ink(墨汁)赤子泣くとも 墨汁飲むな。
Jam(ジャム)無闇に食わすな 犬にジャム。
Kelp(昆布)昆布選るなら 寄りあって。
Library Paste(澱粉糊)嘗めたらあかん 澱粉糊。
Mouse(鼠)家あれば 鼠あり。
No(ノー)つれない一言 悲しみの元。
Oar(櫂)櫂を持たずに 岸去るな。
Pill(薬)病んだら早急 薬を請求。
Queue(行列)行列は 手仕事の機と心得よ。
Rope(縄)もつれた縄は うっちゃるな。
Sun(陽)一日が済み 陽を拝む。
Toad(蝦蟇)人も歩けば 蝦蟇に当たる。
Urn(甕)触らぬ甕に たたりなし。
Vine(蔓)絡まる蔓に 御用心。
Well(井戸)地獄の道も 井戸から。
X(X)Xの字は 苛つく字。
Yarn(欠伸)欠伸するたび 三文の損。
Zinc(亜鉛)台所流し 亜鉛製。

 例えば、“A”の原文は“Betray no qualms/When asked for Alms.”。
 「施しを求められたら、心のまま迷わずに表せ」という意味だから、訳としては正しいのだけれど、“qualms(不安・良心の呵責)”と“Alms(施し物)”との韻を踏んだ調子はどうにも表せない。
 「施し」あるいは「おめぐみ」という単語は見出し語だし、イラストにも描かれているから、外すわけにはいかない。更にABCに合わせようと思うなら、出だしは「あいうえお」の「あ」とか「いろは」の「い」で始めなきゃならない。で、どこかで必ず韻を踏まねばならないと来たもんだ(-_-;)。
 そういう条件を考え合わせると、相当の意訳、超訳をせねばならない。
 試みに私が捻り出したのは「愛のおめぐみ あなたの御心」ってやつだが、まあゴーリーの雰囲気はやっぱり消えている。付いてるイラストが、汚いホームレス(つか毛むくじゃらのバケモノにしか見えん)に仕方なく何かをあげてる人の絵だから、皮肉っぽさは出たかと思うが。
 ついでだから「あいうえお」に合わせて全部以下のとおり訳してみた。言語と内容がかなり離れているものもあるが、ゴーリーの絵と合わせると何となく「そう見える」ようにしてみたつもりだが、もちろん柴田氏の訳よりこちらのほうがいいと言うつもりはない。ご覧の通り相当以上に苦しいものばかりだ(これだけで半日かけた)。アルファベットとあいうえおの数が合わないのがそもそも苦しいんだけど。

あ 愛のおめぐみ あなたの御心。
い いずこに鳥よ 今鳴いたかしら? 
う 失せ物パン屑 うろたえ探せ。
え えらい扉だ えいっと閉めろ。
お お目々があるから お空を見上げて。
か 勝手に踊れば 傾く扇子。  
き きれいな硝子に 厳しい人生。
く 雲間に舞う雹 食えやしないね。
け ケチでも墨汁 決して呑むな。
こ 子犬にジャムは 困りもの。
さ 探しておくれよ 浚った昆布。
し 渋い味だよ 湿った糊は。
す 隅々探せば 住んでる鼠。
せ 責めるだけなら せつないばかり。
そ その櫂なくしちゃ そこから落ちる。
た 助かりたいから たくさん薬。 
ち ちまちま並んで 小さな仕事。
つ 綱だか縄だか つまらぬ絡み。
て 諦観しみじみ 天を巡る陽。
と トノサマガエルは トンデモガエル。
な なぜ甕壊すか 中身も知らず。 
に 逃げろや逃げろ 逃がすな蔓よ。
ぬ ぬばたま地獄へ 濡れ井戸続く。
ね 練り歩く×(バツ)を ねめつける。
の のんびり欠伸 呑気な人生。
は ハウスの台所流し 映えるは亜鉛。

 原文も併記すりゃいいんだけど、もうそこまでは疲れちゃうんで本書にあたってみてください。「こんな風に訳したほうが面白いぞ」というご意見がありましたらどうぞご遠慮なく。
 ついでだから、「いろは」でやりたい人はやってみてください。私ゃもう、とてもやれません(-_-;)。

2002年09月17日(火) 放生会の掘り出し物/『博多の心』(朝日新聞福岡総局)/『魁!! クロマティ高校』5巻(野中英次)
2001年09月17日(月) 祝日には旗を。私は出さんが/『クラダルマ』1・2巻(柴田昌弘)ほか
2000年09月17日(日) クウガと絶叫としゃぶしゃぶと/『少年探偵虹北恭助の冒険』(はやみねかおる)ほか


2003年09月16日(火) 狂熱の一夜/映画『南の島に雪が降る』/『C級さらりーまん講座 付和雷同編』(山科けいすけ)

 休日出勤の代休で、今日と明日は休みである。
 夕べのチャット中に、阪神が18年ぶりに優勝。
 野球にホントに興味がなくなってるので、今、阪神にどんな選手がいるのかも知らない。まあまたアホな連中が道頓堀に飛び込むんだろう、くらいに思っていたら、今朝のテレビニュースでその数5300人とか。こりゃあちょっと多いなんてもんじゃないね。既にただのヒステリー状態だ。脳内の発酵具合は、関東大震災の朝鮮人虐殺の時とおんなじ。自分が何をやっているのかを認識することが完全にできなくなっているのだね。本人はワザとバカやってる程度の意識しか持っちゃいないんだろうけれど、一人の行為が誰かの「犯罪」に繋がる可能性が「極めて高い」行為なんだからなあ。警察からも、いや、アンタらが好きだと称する阪神チームからも「飛びこみは止めてくれ」と勧告されてて、あえてやってんだから反論の余地はねーよ。
 それともガキみたいに言うか? 「聞いてませんでした」って。
 こういう時期の大阪には行きたくない、と言うか、阪神ファンがどこにいるかわからないから、街中自体に行きたくないと思う。巻き添え食らって何かの被害に会う危険が全くないとは言いきれないんだから。今、ノボせ上がってる連中は、自分たちを危険人物(ただのバカとか既知外ではない)と見てる人間も結構いるってことを少しは自覚して、ちょっとアタマを冷やしてほしい。マジで。
 いち野球チームの優勝に留まらず、阪神V経済効果は全国規模で6355億円に昇る、というUFJ総合研究所の試算もあるようだが、この手の数字が当たったかどうか検証されたって話は聞かないから、まあ怪しいもんである。景気のいい話だけ聞かされて、実際の効果はそこそこで、企業努力自体を忘れで産業がジリ貧になるとこだって出ると思うけどね。
 よく分からんのだけど、UFJ総研は、主要なファン層である10代半ばから50代半ばの人口の約2割、約1500万人が阪神ファンと想定して試算したそうだけど、そんなにファンがいるのか? いや、前のサッカーのワールドカップの時だって、別にサッカーファンでもなさそうな人もいっぱい熱狂してたみたいだから、にわか阪神ファンってのも増えてるだろうとは思うけれど、それにしても甘く見積もってんじゃないかという気はどうしてもしてしまう。
 飲食費や関連グッズ、優勝セールなどの1848億円の直接需要に、関連産業の活発化による波及効果も計算に入れてるとのことだけれど、「波及」って、どこにどう波及するんだか。
 結構優勝してるのに、全然経営状況が改善されず、毎年身売り話の出るダイエーホークスを見てると、所詮野球チームの優勝に過ぎないし、何かが変わるってわけでもないんじゃない? って気がしてくるんだけれどもねえ。
 一応、18年ぶりの優勝って「怨念」がみんなにあるみたいだから、少しは効果が上がるのかもしれないけれど、そんな気色の悪いモノに頼らないとどうにも経済が上向かない状況だってんなら、やっぱり気分的には憂鬱を感じてしまうのである。

 まあこういう阪神ファンを敵に回すような発言をすること自体、マジで危険なのだろうね。念のためにホントに何のゴマカシもなく言っとくけど、私は巨人ファンでもないよ。熱狂するのはいいけど、どこかに冷静な自分を持ってないと人の命に関わることだってあるって言いたいだけなんだからね。
 でもこの程度の発言も、HNじゃあるけれど、やっぱ匿名でなきゃモノが言えないのである。この国に渦巻いてる情念の凄まじさってのは、ホントに恐ろしいよなあ。


 朝、CS日本映画専門チャンネルで映画『南の島に雪が降る』を見る。ちょうどしげも起きてきたので、一緒に見る形に。名のみ知れど、これも機会がなくて見逃していた一本だった。勝手に白黒映画だと思い込んでいたが海の青と木々の緑も鮮やかな総天然色映画。
 古くは『人情紙風船』から、代表作『七人の侍』や『大番』シリーズで活躍した名優、加東大介が、敗戦の色濃い中、従軍地のマノクワリで兵隊の慰問のために劇団を結成して芝居公演を打った実話をもとに書かれたドキュメンタリーを、自身の主演で映像化したもの。
 監督は一時期『パレットナイフの殺人』『蝶々失踪事件』ほか、ミステリの佳作を多数作った久松静児。時代ものから文芸ものまで手がける職人監督である。脚本は『若大将』シリーズの笠原良三。東宝としては手堅い人を加東さんのために用意してくれたというところか。
 解説がなぎら健壱さんなのだけれど、凄いキャストが揃ってると語る通り、当時の東宝映画の名優、喜劇人が勢ぞろいという雰囲気である。
 伴淳三郎・有島一郎・西村晃・渥美清・桂小金治・森繁久彌・三木のり平・フランキー堺・小林桂樹といった人たちがそれぞれに「一芸」を披露してくれるのだから、これが面白くならないわけがない。
 ところが、なぎらさんは「フランキーさんのピアノのシーンは長すぎて映画を壊してる」と言い切っちゃうんだから手厳しい。それ言ったらマルクス兄弟映画のチコの一本指ピアノも、ハーポのハープシーンもムダって言われそうなんだけど。
 個人的に嬉しいのは有島一郎の篠崎曹長が披露してくれる博多にわか。にわか面付けていきなり演じ始めるけど、何の説明もないあたり、昔は博多にわかも全国区的な知名度を持ってたんだろうなあ。今はねえ、博多の人でも、若い人になるとナマの博多にわかは見たことないって言う人、増えてるんだよね。
 知ってる人は多いと思うが、この篠崎曹長のモデル、小林よしのりのお爺ちゃんである。『戦争論』のどれだったかにそのエピソードが載ってたんで、興味ある人は探して読んでみてみることをオススメする。思想がどうのじゃなくて一エピソードして面白いんでね。有島一郎に自分を演じてもらえて、ご本人もきっと嬉しかっただろうな。
 しげがラスト近くで風呂に入って、結末は見なかった。なんだもったいない、と思っていたら、上がってきて、「ねえ、みんな死んだ?」と聞いてきた。
 「死んでるわけないやん! 加東さん、戦後まで生きてたろ!?」
 「じゃあ、何人生き残ったと?」
 「3千人生き残ってるよ!」
 どうも戦時中、島にいた人は全員玉砕したとか思ってたようなのである。やっぱ「知識として」戦争のことはもっと詳しく、学校で教えたほうがいいよなあ。


 昼どきは、ずっとビル爆発のニュース見てたけど、細かい情報は明日にならないとわかんないだろうから感想は明日の日記に。
 しかし休日だけでなく、平日にこうしてリアルタイムでニュース見られる生活ができる人はうらやましいよなあ。


 先週だったか、某掲示板に福岡関連の書き込みがあって、なんか間違ってること書いてるなあ、と思ったのだが、今度は「天神は福岡だ」とかなんとか、適当なことが書かれている。しかも同じ人だから、この人は本当に福岡・博多のことを何も知らないらしい。
 いや、それだけなら間違いとは言えないのだ。地域的に那珂川の西側に「今の」天神地区があって、間には「福博出会い橋」なんてのまでがかかってるから。ただ、その人が「あんなとこ(天神)と博多を一緒にするな」と博多の人間が思ってる、と書いてるところが大間違いなのである。
 前にも書いたが、もともと「福岡」という地域は博多にはなかったのである。黒田氏が居城を構えた時に地名を移殖した(実を言うと、その時点では博多の海岸線はもっと南にあって、今の天神地区はほほ全部が海だった。従って、厳密に言えば天神は福岡でも博多でもない)。「博多湾」という言い方からして、全体が博多だった、ということに気づいてもよさそうなものなのだが。「博多」の語源の一つに、「羽形」=「鳥が羽を広げている形」という説もある(俗説だけど)。つまり今の福岡地区も含めて、もともとは全部が、「博多」であったわけ。
 「天神」はもちろん、太宰府天満宮の菅原道真を祭神としているので、「福岡」よりも歴史は古い。道真公が一時、今泉に立ち寄って、それから大宰府に移られたので、そこに「水鏡天満宮」(つまりそこが当時の海岸線だったのである)を建てたのがその始まり。もともと博多の神様なのだから、「あんなとこ」なんて博多んもんが思うはずがない。
 問題なのはそこからで、ここでまた黒田氏が出てくるのだが、福岡城を築いた時に、その鬼門である現在の位置に天満宮を移した。つまりは、「神様は福岡の武士だけ守ってくれりゃいいんで、博多の人間はどうとでもなれ」という措置なんである。武士の、博多の町人に対する差別意識が、こういうところに表れていたということだね。それでも博多の人間の天神さまに対する信仰が変わるわけではないから、「天神は博多」という言い方も間違いとは言えないのである。
 というわけだから、福岡にだって、もともとの博多の人間はいる。単純に地域だけで分けられるものでもない。博多の人間が嫌うのは、おエライさんに媚びへつらって、「福岡」人の意識で「博多」を差別的に見るやつらなんである。
 こないだはくだくだしく説明したくないからと、こういう細かいところまでは書かなかったけど、その土地のことをよく知りもしないのに知ったかぶって、博多の人間が差別的な意識を持ってるかのように真逆のデタラメを書くってのはどういう心理なのか。どうもこの人、単純にモノを知らないだけではなくて、底意地の悪さというか、下劣な悪意すら持って博多のことを見てるんじゃないかという気もしてくる。少なくとも、他人を見下したいという傲慢な気持ちがなけりゃ、こういうことは書けない。
 無知なこと自体は恥でもなんでもない。しかし「無知のままでいい」と開き直ったり、無知を指摘されることを逆恨みするような態度は、ただ醜いだけではなかろうか。

 その人がここを読んでる可能性もあるので、ハッキリ書いときましょう。
 あなたの行動に対して怒ってもいないし、見下してもいないし、何か反省を求めたいとか思ってるわけでもないです。もし私がそう思っているとお考えでしたら、それはただの妄想です。
 もちろんあなたが、今後もデタラメを書き散らしても、あなたにとっては自分の感覚がデタラメだとは思ってないんでしょうから、別に構いはしませんし、訂正を求めもしません。「真実」は人の数ほどあります。あなたの言うことを信じる人間がいても、それはそれで仕方がありません。ですから、そちらの掲示板に訂正の書き込みをするようなマネもしません。
 ただ、あなたの言葉を真実と思わない人間も、圧倒的多数でいます。私の言は私だけの思いこみではありません。それは博多の歴史を少しでも調べてみれば分かることです。かと言って、調べろなんて押しつけもしませんし、それを「正しい」と強弁する気持ちもありません。
 私はここで勝手に「分析」と「訂正」をしてるだけなんで、こちらに悪意がないことはご理解いただけると思います。


 マンガ、山科けいすけ『C級さらりーまん講座 付和雷同編』(小学館/ビッグコミックススペシャル・872円)。
 この本自体はもう何ヶ月も前に出てて、買ってたんだけど、しげが本棚の奥に隠してたんで見つけるのに手間取った。だからどこにでも本を持ってくなよって。
 6巻を最後に巻数が書かれなくなったのでわかりにくいのだが、これが8巻。旧巻を増刷するのを避けてるのか、すぐ絶版にできるための措置なのか、ファンとしてはちょっと嬉しくないことではある。どこにも旧巻の案内が載ってないんだものな。
 連載作品を全部収録してなくて、セレクトしてるとは思うのだけれど、そのおかげで内容は濃くなっている。ただ、新キャラの男山課長、顔がゴツイから周囲から男らしく思われてるけど実は小心者っての、『黒イせぇるすまん』の「たのもしい顔」のネタとかぶってるよなあ。いや、「顔のわりに小心」っての、ほかのマンガにもよく出てくる設定だから、今更パクリだとは思わないけれど、「サラリーマンもの」でそれやっちゃうととどうしても類似性が気になるんで。喪黒福造に「ドーン!」ってやってもらったらどうだとか思っちゃうんだよね。
 ビルにガソリン撒こうとする左遷された平社員のマンガがあったけど、まあ何というシンクロニシティ(^_^;)。

2001年09月16日(日) オタクの輪ッ!……古い(^_^;)/『(週)少年アカツカ/おまわりさんを追いかけろ!号』(赤塚不二夫)ほか
2000年09月16日(土) 電波とスケルトンと二人乗りと/アニメ『バットマン マスク・オブ・ファンタズム』


2003年09月15日(月) 西手新九郎は「心の遊び」に留めておこうね/『アレクサンドロス 〜世界帝国への夢〜』(安彦良和)

 ここ数日で訃報が伝えられた外国の有名人、ジョン・リッター(俳優。『ノース』など見たことある映画も何本かあるみたいだけど記憶にない)ジョニー・キャッシュ(カントリー歌手。『刑事コロンボ/白鳥の歌』の犯人、トニー・ブラウン役も演じていた)、ジュールズ・エンゲル(アニメ作家。『ローンレンジャー』が代表作)、ジャック・スマイト(映画監督。『動く標的』など)と、イニシャルが全員J。よくある偶然ではあろうが、「次にまたJの人が?」とつい思ってしまうのが心のさもしいことである。
 昔、「アメリカの大統領は、当選年が20年置きの者は事故にあうか暗殺されて任期を全うできない」というジンクス(つか俗説)があって(リンカーンは1860年、ケネディは1960年の当選)、それを初めて聞いた時には、素直に「そういう『呪い』ってあるんだなあ」とか思っていた。恥ずかしいことに、1980年にレーガンが当選した時も、「ああ、この人、途中で事故か暗殺にあっちゃうんだ」、とか半ば信じていたのである。レーガンは暗殺未遂にこそあったが(この犯人もこの俗説を信じてたのではないかな)、無事任期を終了した。そこでようやく「ただの偶然」という言葉が私の脳に浮かんできたのであるが、世間でのこの「運命の偶然」を信じたがる傾向は、「暗殺“未遂”も可」という方向にスライドしてきているようである(~ー~;)。これなら2000年当選のブッシュさんも、任期満了できても、例の9.11を挙げて「暗殺未遂」と強弁できるわけだ。人の命を弄びたがる心理というのは、不謹慎の謗りをかわすかのごとく、こういう「軽い」形で現れるものなのだね。
 こういう「偶然」をいろいろ挙げていったら、「トリビア」がまたひとつできそうではあるな。もっとも限りなく「でっちあげ」に近いトリビアではあるが。


 しげとよしひと嬢、今朝は6時半に朝帰り。打ち上げからそのままカラオケに雪崩れこんで朝まで歌っていたのである。そこまでの体力は私にはもうない。大台とか言ってるが二人とも全然若いよ。
 今日仕事があることを考えれば、打ち上げに行かなかったのは正解だったろう。


 本日は休日出勤、アキレス腱を切った上司も「今日は用事のあった人も多いだろうにねえ」と愚痴をこぼすが、台風のせいでの出勤振替だから仕方がない。
 それより困っちゃうのが、今日がしげの誕生日だということだ。祝日が誕生日というのは、学生のころには友達から忘れられてしまうという弊害があるが、家庭を持てば一緒にゆっくり過ごせるというメリットの方が大きい。入籍を大晦日にしたのも、まさかこんな日にまで出勤を強要する会社もそうはなかろうと考えたのだが、現実は全く違っていたので、全く日本人のワーカホリックもここに極まってるなと感じたものだった。
 よっぽど仕事を休もうかと思ったが、そうもいかない。事情を上司に話すと「家庭の危機ですねえ」と言われた。いやマジでな(-_-;)。しかも仕事が長引いて、早く帰宅できるはずが結局残業。七時過ぎに帰ってみると、しげはよしひと嬢を送って出かけていた。全くのすれ違いの誕生日である。このままだと今年の年末もいったいどうなることやら。


 マンガ、安彦良和・NHK「文明の道」プロジェクト『COMIC Version NHKスペシャル文明の道1 アレクサンドロス 〜世界帝国への夢〜』(NHK出版・1680円)。
 安彦さんの『ジャンヌ』『イエス』に続く歴史ファンタジーの第3弾。もっとも『ナムジ』や『蚤の王』なんかも含めたらもっと数は増えるから、もうこのシリーズは『ガンダム』で語られることの多い安彦さんの、もう一方のライフワークと言っていいだろう。
 もとになったNHKの番組の方は見てないのだけれど、ドキュメンタリーとは言え、後世の人間の「解釈」が入る以上、歴史は所詮「物語」である。まるのままの虚構だとまで断言する気はないが、こうして「マンガ化」された「歴史」を見ていると、真実とか事実とか人間は本当は必要としていないのだなあ、とつくづく思う。
 以前、故池田満寿夫が「写楽」の正体を歌舞伎役者・中村此蔵だと推理した時に、故吉行淳之介が「真実がどうあろうと、私の『写楽』はこれで決まり」と断言したが、「歴史認識」とかたいそうなことを言う人は多いが、結局はそういうものである。その点、歴史を物語として綴ろうとしている『戦争論』の小林よしのりの基本姿勢には賛成している。ただその内容には賛同していない。そこで語られている「物語」が杜撰で面白くないからだ(『戦争論』は全シリーズ読んだけど、感想を書かないのはそういうワケ)。
 アレクサンドロスと言うかアレキサンダーと言うか歴山と言うかイスカンダル(^o^)については、以前、なんだかなあ、な、角川アニメがありましたが、その伝で行けば実像とどんなに違っていても、安彦さんの描く彼は実に「面白い」。
 たった1巻であるために、最大の敵であるペルシャ王ダレイオス三世との対決のドラマがいささか薄く感じられるキライはあるが、夢多き少年が疑心暗鬼に躍らせられ、かつての忠臣を粛清していく暴君と化していく過程は、安彦さんの「王もまた人間」という視点がハッキリしていて、安彦さんの「歴史家」としての思想基盤もここにあるのだろうと察せられる。
 それを象徴しているのが、やはりその粛清の対象者となった従軍歴史家、カッリステネスであろう。安彦さんはこの人物に随分思い入れがあるようで、そのキャラクターデザインもどこか安彦さんの自画像に似ている。
 哲学者アリストテレスの甥にして、アレクサンドロスにとってのホメロス(もちろん『イリアス』『オデュッセイア』の作者ですね)たらんとするカッリステネスは、堂々と「見てきたようなウソを書く」と断言し、アレクサンドロスを美化した「歴史」を書き、「アレクサンドロスの名声は後世にボクの書いた歴史として伝えられるはずサ」と嘯く。しかしその彼が、途中でアレクサンドロスの歴史を書くことをやめてしまうのだ。 
 物語は常にそれを支えるテーマたる「思想」を必要とする。わかりやすいのは日本軍における「大東亜共栄圏」であろう。あれを単純に「幻想」と呼ぶのは簡単であるが、適切なことではない。そう断定してしまえば、人間の思考は全て「幻想」にすぎないとしか言えなくなる。アレクサンドロスの「東征」には、初め「蛮族ペルシャの侵略を打倒するギリシャの聖なる戦い」という「思想」があった。しかし、エクバタナの地をダレイオスが逃亡し、コリントス同盟が解散されても、アレクサンドロスは執拗なペルシャへの「報復」を続けた。そしてその時点でカッリステネスは「歴史」を書くことを止めたのである。
 ダレイオスをついに倒したアレクサンドロスは、その後継者としての地位を喧伝するためにペルシャ式の礼拝を自分に行うよう、家臣たちに求めた。それを唯一拒絶したのがカッリステネスである。既にそのとき、忠臣たちの粛清は始まっており、自らもまた処刑されることを彼は覚悟していただろう。アレクサンドロスはペルシャ式儀礼を行うことを廃止したが、カッリステネスは「王暗殺計画」の嫌疑をかけられ、逮捕され、行軍の最中に衰弱死する。
 彼は最後に、この物語のもう一人の語り手、後のトラキア王リュシマコスにこう語る。「アレクサンドロス。思っていたよりも不可解な男だったが、所詮人間だ。あれもいずれ死ぬ。だが歴史を作った。それは間違いない。すべて書き残すつもりだったが手に余った。残念だ」。
 このセリフはもちろん、安彦さんの「創作」だろう。そういう思想でカッリステネスがアレクサンドロスの歴史を描いていたとは限らない。しかし、「所詮人間」と言うその脆弱さ、「歴史を作った」「手に余る」ほどの強靭さと壮大さ、その二律背反した性質こそが、人の持つ「謎」の本質であり、だから我々は人と歴史とに「夢」を抱いて行けるのだろう。
 安彦さんの思想自体には充分に「真実」と「普遍性」があると思う。虚構と真実とは決して相反するものではなく、人間の、歴史の、表裏一体となったアニメーションうちわの両面のようなものだ。死者は常に「神」に祭り上げられる。しかしカッリステネスの跡を継いでアレクサンドロスの偉業を語り継ぐリュシマコスもまた断言するのだ。
 「あの人は決して神ではなかった。人間だ! たとえ半分といえども神なんかではなかった! 欠点の多い、大酒呑みの、自惚れやで傷つきやすい、愛情が豊かで酷薄な、誇り高い、そして誰よりも勇敢な、マケドニア生まれのよい青年だった!」
 このセリフもまた安彦さんの創作だろう。しかし、これが虚構であるか真実であるかはどうでもいいのだ。安彦さんがどういうアレクサンドロスを語りたいのか、そしてそれを我々読者がどう受け取るのか。歴史ものを読むポイントは、実はそこにしかない。

 伝えられるアレクサンドロスの臨終の言葉は、側近の「後継者は?」の問に答えた「クラティロス(最も強き者を)」である。この言葉が原因となり、ほぼ半世紀に渡る「ディアドコイ(後継者)戦争」が起こることになる。
 安彦さんの描くアレクサンドロスは、「夢が全てだった」と呟いて死ぬ。
 前者が真実で、後者がウソなのではない。どちらも「物語」なのだ。どちらの物語の方を我々がより面白いと感じるのか、「こんなのアレクサンドロスじゃない!」と憤る読者もいるだろうが、「物語」は常に虚実皮膜の境にあるという近松門左衛門の言葉を噛みしめてもらいたいと思う。

 そういやこのマンガ、あの「ゴルディアスの結び目」のエピソードも描いてないな(^o^)。

2001年09月15日(土) オタクなばーすでぃ/映画?『スペースカッタ2001』in「山口きらら博」ほか
2000年09月15日(金) ネパールとサウスパークとおだてブタと/『ブタもおだてりゃ木にのぼる』(笹川ひろし)ほか


2003年09月14日(日) タイトルを付ける元気もね〜や(;´_`;)。

 樋口真嗣監督の次回作が『終戦のローレライ』になるそうな。「モー娘。映画」で実写監督の実績があるとは言え、随分と大作を依頼されたなあという印象で、喜ばしいことである。
 もっとも原作の福井晴敏作品は未読で、どんな内容だかはよく知らないんだが。『亡国のイージス』も途中まで読んで放り出してるからなあ。さっさと日記の更新片付けて、溜まってる本や映画を見なきゃな。
 『ローレライ』の単行本の装丁をやってるのも実は樋口さんなのだが、デザインに凝り過ぎて大きなポカをやっちゃってるのが気になっている。背表紙のタイトル、普通は上の位置にあるのを奇を衒ってか一番下に三行分けにして書いてるんだけど、これ、図書館なんかだとラベルに隠れて見えなくなるんだよね。ラベルを貼る位置は規則で定められてるから、ズラして貼る訳にはいかない。
 まあ、自分が装丁した本が図書館に並ぶ可能性、ケロッと忘れてたんだろうなあ。こういうことしたの、樋口さんが初めてじゃなかったと思うから、出版社の編集者とかおエライさんとか先例を覚えてたら注意してあげときゃよかったのに。図書館によっては、「タイトルが分らないから」その上に「手書きで」タイトル書いたりすることがあるんだぞ。
 ちなみに私は古本屋で『世界ミステリ全集』及び『世界SF全集』を手に入れているのだが、これの背表紙には全部ワープロでタイトルと作家名のシールが“歪んで”貼られている。嗚呼(T∇T)。


 午前中は炎天下でお仕事、そのあとバスと地下鉄を乗り継いで天神のアクロスへ。一応名前だけ代表の自分の劇団の撮影班に駆り出されてるのである。

 演劇集団 P.P.Produceの公演もこれで五回目になるが(番外公演を入れれば六回目)、シロウトながら少しは進歩してるかというと、まあ、あまり進歩はしてないのである。
 劇団のみんな、回数を重ねるのは構いはしないんだけど、いったい何をやりたいんだかが全然見えてこない。いやね、実際、何だって構わないのよ。単純に「いろんな役柄になれるのが嬉しい」とか、「お客さんを笑わせたい」「泣かせたい」とかでもいいし、「スポットライト浴びたいの!」ってだけでもいい。私の好みではないが、ガッチガチの思想劇やって、メッセージを発したいってんでも構わないのだ。「オレたちが芝居やってるのはこのためだ!」ってのがなきゃあなあ。
 それがまあ、毎回面白いくらいに誰かが阿呆なトラブルを起こしてくれるんだよなあ。具体的なことは書けないけど、「何のためにここにいるんだ、芝居作る気ないなら出てけ」と怒鳴りたくなるような、こっちの胃がキリキリ痛むようなマネばかりさらしてくれるもんで、いい加減、こりゃこのまま付き合ってても自分のカラダが持ちゃしねえと思い切って、何回か前から、「やる気のないやつと組んだって仕方ねえ、もうオレは脚本でしか参加はしねえぞ」と宣言してケツをまくったのだ。
 いや、今回は「脚本も自分たちで作れよ」と、最初はそう言ったのである。ところが脚本書こうってやつが全然出て来ない。結局、依頼がこちらに来る。しかもやっぱり何がやりたいか、各人の意見がまとまらないまま、ネタだけがバラバラで提供された。しょうがないから、そのネタを全てぶちこんで、初稿だけは書いた。
 各メンバーの考えたネタを思い付くままに適当に繋げただけのシロモノで、まあ、そのまま舞台にかけられるものでは全然ない。無駄なセリフは多いわ、口調が変わっちまってる部分はあるわ、誰が誰のセリフなんだか、混乱して間違えている部分まである。何より話そのものに整合性がなく、ドラマツルギーを無視している。いつもはそこから推敲して、完成稿に仕上げていくのだが、今回は「あとは自分たちでなんとかせえ」と投げ渡した。少しは自分たちでアタマ使わないと、このままだとトンデモナイものになるぞ、ちゃんと使える脚本に仕立てなおせよと伝えて、手に余るようなら脚本差し戻せ、推敲するからとも言っておいた。
 私はそこで「期待」はしていたのだ。ここまで適当なモノを出しておけば、少しはみんなでアタマを捻ってなんとかするだろうと。
 一応、一度だけ手なおしは頼まれた。「意味がよく分らないから説明を加えてほしい」と。芝居は説明じゃない。それを加えたら更に台本が壊れるとは思ったが、それが総意ならば仕方がない。話をムリヤリ繋げてみれば、いくらなんでもかえってそれがジャマになることにみんな気が付くだろうと思ったのだ。ともかく「頼まれたこと以上の口出しはしない」と決めていたので、あとはみんなを信頼したのだ。
 ……まさか、まんまやるたあ思わなかった。
 なぜあのまま小屋にかけられると思ったのだ。舞台を撮影しながら、私は背中に5トンの重りが乗っかってるような気になってきた。
 脚本の解釈を間違えてるところがやたらあるのは仕方がない。脚本自体に乱れがあるのだから、まんまやれば解釈に乱れが出るのは当然だ。だけど、なぜキャラクターが「みな同じ」なのだ。なぜみんな同じセリフを喋り、同じ演技をするのだ。芝居をすることを「放棄」しなければそれはできないことだぞ。
 「期待」をしたことが間違っていたのだ。追いつめられれば、いくらなんでもみんな「出来る」と思っていたのはとんだ見込み違いだったのだ。
 今日聞いたが、頼まれた台本の手なおしも、みんなの「総意」などではなかったのである。誰かの言った意見を何の検証もせず、私にそのまま伝えただけだったのだ。その時点での演出は(今回のトラブルの最大のモノは、演出が3回変わったことだろう)、「何も考えていなかった」のである。
 お客さんのアンケートをあとで見たけど、あれでも誉めてくださった方のほうが多いのは不思議なくらいである。同情票なのだろうか。しかしあそこまでひどいものをお客さんに見せてしまった以上、いくら形だけの代表とは言え、責任を感じないではいられない。私の名前が「脚本」としてクレジットされている以上、出来あがったものに対するそれは、どうあろうと引き受けざるをえない。
 正直な話、私はもう彼らとの演劇作りに関わりたくはない。役者がどんなにヘタだって、私は怒りはしないのだ。私が大嫌いなのは、芝居を好きでもないくせに好きなフリをしている連中である。
 なあ、芝居で表現したいものなんて、ホントはないんだろう? 「自分」があるフリをしているだけだろう? もしあるというならそれを表現してみろよ。少なくとも私にはみんなが全く同じ顔にしか見えなかったぞ。

 もう一度だけ、連中につきあってみようと思う。ただし、彼らに「期待」しているからではない。「見切り」を付けてもなお、「演劇」というものが成立するものなのかどうか、試してみるためだ。少なくとも彼らは「やる気はある」と口では言っているのだ。だとしたら、私がどんな罵詈雑言を浴びせようと、「逃げ」はしないはずである。

 本日の公演情報を以下に記しておく。

 『rainbow flyer』
  日時・2003年 9月14日(日)
   開場 13:30  開演 14:00
   開場 17:30  開演 18:00
  場所・アクロス福岡円形ホール
  料金・入場無料(完全カンパ制)

  キャスト
   荒巻和子………勘 よしひと
   門倉美佐子……桜 穂稀
   森奈奈絵………嶋田 悠
   祖父江達朗……ラクーンドッグ(エコロジーな缶詰ワールド)

  スタッフ   
   脚 本…………藤原敬之
   演 出…………円谷きざし・鈴邑郁人・鴉丸 誠
   舞台監督………鴉丸 誠
   照 明…………其ノ他大勢・加藤八十六
   音 響…………其ノ他大勢・桜雅 充
   道 具…………鴉丸 誠
   衣 装…………鴉丸 誠
   メイク…………鴉丸 誠
   制 作…………嶋田 悠
   チラシ…………勘 よしひと
  あと、お手伝い人が3人。一人はラクーンさんの、あと二人は鴉丸嬢のお友達である。


 みんなはそのまま打ち上げ宴会に雪崩れて行ったが、私は明日の仕事があるので一足先に帰宅。就寝。

2001年09月14日(金) カリメンしげ/『モーツァルトは子守唄を歌わない』1巻(森雅裕・有栖川るい)
2000年09月14日(木) 通院と残暑と誕生日プレゼントと/『世紀末アニメ熱論』(氷川竜介)ほか


2003年09月13日(土) 言論にはリスクが伴うということ/映画『羅生門』

 昨12日の朝、東京都江東区の東京港建材埠頭で、ルポライターの柏原蔵書(かしわばらくらがき/本名・染谷悟)さんが遺体となって発見された。本職はフリーカメラマンなのだが、東京・新宿の犯罪や風俗の実態を紹介した『歌舞伎町アンダーグラウンド』という著作もあり、最近は銃社会の取材を始めようともしていたとか。
 犯人が誰なのかはもちろんまだ調査中なのだが、著書の中に「本を書いたことで歌舞伎町を敵に回してしまったかもしれない」と記し、また、出版後は周囲に「命を狙われている」とも話していたというから、ウラのなんたらの報復措置だとも考えられる。
 いつぞやの『悪魔の詩』事件の時にも思ったことだけど、「表現の自由の保証」だのなんだと言いながら、その実、日本人の殆どがそんなものには関心がないんじゃないかと疑りたくなってんだよね、私ゃ。
 だってさあ、みんな普段はこの言葉を金科玉条みたいに口にしてるけどさあ(特に識者とやら)、それがなぜかって言うと、自分の意見を押しつけるための言い訳に使ってるだけなんだよねえ。それが証拠に、日頃この手の発言してるやつに限って、こういう事件が起こって何か言うかっていうと黙りこむんだよ。トバッチリがくるの、イヤなんかね。アンタラがまず真っ先に怒りを表明して然るべきなんでないの? と言いたいよ。
 そういう口の達者なヤツらって、いつも言い訳だけは用意してるんだよ。
 まだ捜査中の段階ではコメントできないとか(いつもは憶測だけでモノ言うことも多いくせにな)、今はまだ事情があって語るべき段階にないとか(で、あとで語ったってあまり聞かないなあ)、果ては「言論は無力だ」とか(なら最初から黙ってろ)。
 命が惜しいのは当然だろうから、沈黙するのが悪いとまでは言わない。けど、日頃は好き勝手放言しときながら、何かあったら逃げるってことは、そういう事態に自分が置かれるって可能性、考えてなかったってことだろ? 自分にだけは弾圧も攻撃も来ないと甘く見てたってことだよね? そこは突っ込まれたり批判されたりしても仕方ないんじゃないかね。
 私も見た本や映画の感想、こうして好き勝手書いて公開までしてるもんだから、たまに実作者の方から書いたことについて訂正や批判を求められることもある。そこで事実の誤認があれば訂正してるし、拠って立つ立場が違う場合はそれを説明もする。そういうことはないだろう、なんて高を括ってたりはしてない(よくこんなもんまで読んでるなあ、とは思うが)。たとえば『座頭市』について批判してる部分もあるけど、たけしが乱入してきたら謝る覚悟は持ってるぞ(謝るんじゃん)。
 世の「識者」のみなさん、この事件についてはもっと声を大にして真相究明を求めるキャンペーンくらい張ってもいいんじゃないのかね。なにかモノを言って狙われたら即アウト、なんてふざけた状況、許したいわけじゃないだろうに。それこそ自分たちの「死活問題」なんだから、いつも言ってる「法整備」だの何だの、主張すべきことは一杯あると思うんだけどね。


 朝、早起きしてしまったので、しげを誘ってガストで食事。
 最近ここのディスプレイで「二角どり」というゲームをするのが我々夫婦のマイブームである。1回50円で同じマークの麻雀パイをクリックしてめくって行く遊びなんだが、直接隣り合わせになってるか、空間で繋がってないとめくれないのである。
 朝もはよから画面を指でプイプイ押してる怪しい二人組というのも何なんだが、まあ、人に迷惑かけてるわけじゃなし。
 そのあと、合コンゲームをやって画面の中の女の子をナンパ。百円でやれる程度のゲームだからあっという間にキスまで行ってしまう。でもそれから先がない。ファミレスだからそれが限界だよなあ……ってそもそも恋愛シミュレーションゲームがあるだけでもヘンなんだが。
 

 いよいよ明日が公演本番なので、よしひと嬢、今日から二泊三日のお泊り。
 今度の脚本にはモチーフに黒澤明の『羅生門』を使っているのだが、よしひと嬢、未見とのことなので、本棚を猟ってビデオテープを引っ張り出す(DVDは山のどこかに沈んでて見つからなかった)。

 私も『羅生門』を初めて見たのは比較的遅かった。『七人の侍』も『用心棒』も『天国と地獄』も高校のころまでに見てはいたが、『羅生門』はテレビ放送を見逃すことも多く、初めて見たのは大学の終わりごろか、最初の職場に就職して間もないころだったと思う。それでももう20年近く昔のことだ。
 当時、天神の西通りに「キノ」という小さな名画座があって、そこで『ちゃんばらグラフイティー斬る!』『素浪人罷り通る』『羅生門』の三本立てで見たのが初見である。小さなスクリーンではあったが、スタンダードサイズのこの映画を見るには充分だった。三船敏郎の躍動、京マチ子の妖艶、それにも増して虚偽を語らねば脆弱な自己の心を守れぬ人間の愚かしさがかえって愛おしく思われた。
 それから何度この映画を見たか知れない。そのたびごとに新しい発見があるのだが、今、私の『羅生門』に対する評価は複雑なものになっている。それはやはり芥川龍之介の原作にない、黒澤明オリジナルの第四の結末に起因していることなのだが。
 この映画を広義のミステリーと解釈すれば、この結末に触れることはネタバレに属することなので喋りにくいのだが、少なくともそれまでの三人の語った相矛盾する物語、盗賊多襄丸が、真砂が、金沢武弘の霊が、なぜウソをつかねばならなかったのかをうまく説明している点では実によくできていると思う。
 ただ、「うまく説明ができている」からと言って、本当に彼らがそのような状況に立ち至ったためにウソをついたのだ、ということを証明することはできない。全ての被疑者がウソをついているなどという状況が非現実的である以上、納得のできる説明などは本来ありえないのである(たとえ現実にそのような状況がありえたとしても、信じがたい出来事であることには変わりがない)。
 芥川の原作はまさしく、「ありえない現実」をあえて具現化して見せたことによって、人間存在自体の虚構性を照射している点にその非凡さがあるのであり、これは本来、「寓話」の手法であって、映画に向く題材ではない。真相が分らないからこそ成立する物語に、第四の物語は本来蛇足なのである。
 もう一つ気になるのは、これが裁判劇というスタイルを取っているために、こんなに三人の証言が違っていたら、判決はどうなったのだろうと、そういうことが気になってしまうのである。これが第四の結末が示されていなければ、「これはまあ、寓話だから」ということでそんな瑣末なことは問題にしようとも思わなかったろうが、映画が一人一人の人物をリアルに追いかけてしまっているために、どうしてもそういった現実的な問題にまで注意が喚起されてしまうのである。
 じゃあ、『羅生門』はつまんない映画なのか、ベネチア映画祭グランプリは内実を伴わない形だけの賞に過ぎないのか、というと、そうではないから複雑なのである。

 『姿三四郎』も含めて、「わかりやすいエンタテインメント」も黒澤明は数多く作っているが、その本質的な部分においては、極めて観念的なものを持ってもいる。黒澤さんの場合、その思索部分についてまで「分りやすく」語ろうとするために、ともすれば映画が説教臭くなってしまうし、黒澤さん自身が「善の人」と錯覚されてしまいもする。
 『夢』の「水車のある村」なんか特にそんな感じでしたね。アンタ夢ん中でまで人に説教してんですかと。けれど、そういう「説教」の要素の少ない「日照り雨」や「桃畑」に比べて「水車のある村」がそんなに遜色のある作品かというと、決してそんなことはないのである。
 黒澤さんの説教は優しい。これを辛気臭いとか古臭いとか、煙たがったりするのはただの鈍感であろう。
 『羅生門』の最後、あの捨て子のエピソードで、杣売りの志村喬が口にする「俺のところには子供が六人居る。しかし、六人育てるも七人育てるも同じ苦労だ」は最後の最後で「ウソ」をついた杣売りが口にするからこそ説得力があるのだ。黒澤明を単純な善悪二元論の人と見るのは見方が甘い。
 そう言えばゆうきまさみの『パトレイバー』のラストでバドを引き取ったブレディ警部もこれと似たようなセリフ言ってましたね。『羅生門』のファンだったって裏設定があるのかな。

 よしひと嬢、『羅生門』を見終わって「おもしろかったです」とは仰っていたが、『用心棒』や『七人の侍』のようなカタルシスはない映画だからなあ。今度は『野良犬』を見せることにしよう。

2001年09月13日(木) コロニー落としの報復は/『ヘブン』『ヘブン2』(遠藤淑子)ほか
2000年09月13日(水) シゲオと誕生プレゼントと009と/『遊びをせんとや生まれけむ』(石ノ森章太郎)



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藤原敬之(ふじわら・けいし)