無責任賛歌
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| 2003年09月07日(日) |
「時代劇の復興」というのはこういうのを指すのだ/映画『座頭市』ほか |
マンガ『ナニワ金融道』の作者で、エッセイストに転向していた青木雄二さんが、5日、肺がんのため死去。享年58。 もちろん若すぎる死ではあるのだが、あまり長生きしそうにないイメージもありはした。とか言うと、おまえは青木雄二を読んでるのかと突っ込まれそうだが、『ナニワ金融道』だけはパラパラとではあるが読んでいるのである。何しろ“しげが”全巻買っているのだ(女房の趣味感覚は未だに私には掴みきれない)。 これまで日記に感想を買いてこなかったのは、正直、マンガ自体、そんなに面白いとも思わなかったからなんだけれども、かと言ってじっくり読みこんでいたというわけでもないので、特に何かを語る必要性を感じなかったのである。 絵が下手だというのは誰が見ても同じ感想を抱くだろうし、けれどもその下手な絵にこそ魅力があるというのも、わかりはする。下手だからこそ「表現力」はあるのだ。 ただ、このあたりのことはマンガを読みなれてない人には説明がひどく難しい。なにしろ青木雄二自身が「絵が下手」と言われることに立腹していたそうだから、マンガのことなど何もわかっていないのである。何もわかっていない人が面白いマンガを描いてしまうというのも決して現実にありえないことではないので、まずそこから説明しなければならないし、その事実を踏まえた上でも、私はやはりあのマンガの押しつけがましさが性に合わなかくて評価しがたいと思っていたのだから、そこんとこを詳しく説明し始めたら、もうマンガ論一冊書く覚悟をしなければならなくなるのである。 しかも「評価はしない」が、やっぱり「惜しい人をなくした」とは思うのである。マンガの歴史を記述しようと思う者ならば、青木雄二を避けて通ることは絶対にできないが、その作品の孤高なありようを見るとき、その立ち位置をどこに求めればいいのか、少なからず迷ってしまうと思うのである。
第60回ベネチア国際映画祭が昨6日に閉幕、コンペティション部門に出品されていた北野武監督の『座頭市』が監督賞を受賞した。 1952年の溝口健二監督『西鶴一代女』(これももう、見たことないって人多いんだろうなあ)以来、実に51年ぶりの快挙であるが、黒澤・小津・溝口以来、日本人監督で世界的な巨匠は生まれていないという風評はほぼ払拭されたと言っていいだろう。神格化する必要はないし、それなりの批判はして然るべきとは思うが、ミヤザキ・キタノの二人の名が日本映画を代表している事実は認めないと、ただの意固地としか思われまい。オタクでこの二人を嫌ってる人多いけどね。 受賞日が故黒澤明監督の命日だったってのが出来過ぎの感があるが、そうした「偶然」も宣伝にひと役買ってくれると嬉しい。ともかくこれまでのたけし映画、あまりにも人に見られてないのだ。 その話をしげにするとビックリされる。 「たけしの映画って、そんなにヒットしてないと?」 「してないよ。最高で九億かそこらだろう。評価は高いけど売れないって本人も愚痴ってたんだから。ヒットしてるとでも思ってたの?」 「大ヒットとかでなくてもそれなりに人は入ってると思ってた」 「たけしのファンと映画ファンは重なってないから。テレビでたけちゃんマン面白がって見てた奴が『その男、凶暴につき』見に行くと思う?」 まあ、今の日本の映画ファンの大半は『タイタニック』や『アルマゲドン』程度に涙する浅薄なメンタリティしか持ってないから、『HANABI』の無言劇などには堪えられるはずもない。今度の『座頭市』は基本的にエンタテインメントだろうから(もちろんこれまでのたけし映画だって決してゲージツ映画ではなかったのだが)、入門編としては手頃だろう。 「権威」ってものがないと、評価を与えない、自分の目でものを見る力を持てない有象無象がやたらいっぱいいるのはうるさくてかなわないのだが、これでようやくたけし映画を語れる状況が生まれてきたと言えるだろう。 ただ、ここで昔ながらのたけしファンにヒトコト注意しときたいのは、一般のたけし映画ファンがある一定の層を作るまでは、『座頭市』について「本当のたけしはこの程度のもんじゃない」とか言い出さない方がいいよ、ということかな(^o^)。何の謂かはわかるね。
夕べもよしひと嬢がお泊まりであったが、公演直前で朝の十時から夜の十時まで12時間ぶっ通しの練習、おかげでうちに来るなりヘロヘロである。シティボーイズの公演『パパ・センプリチータ』を見せてたのだが、2時間見切れず、途中でダウンしてしまった。 で、今日も朝から練習である。 こちらは呑気に今朝も『アバレンジャー』から『鉄腕アトム』までアニメ、特撮三昧なのだから、テメエだけ楽しやがってとか思われてるかもしれんが、脚本家は書くもの書いたらあとの仕事はないものなんで、恨まれてもどうにもしようがないのである。
アニメ『鉄腕アトム』第22話「さよならプリンセス」。 アトム版『ローマの休日』ですね。リノを主役にしたのは、カーヤの相手役がアトムだったら、また人間とロボットは愛し合えるのかという難解なテーマを扱わなきゃならなくなるからかな。アニメはここんとこ、どんどんウス味になってく感じだけれども、言い換えれば、原作の描写がどれだけ濃密だったかってことだよな。ロボットの妻と結婚して暗殺される金三角とか、子供向けアニメにしにくいんだろうけど、それやらなきゃアトムじゃないんだし。
護衛の目を眩ませて、メトロシティに逃げこんだマユ−ラ王国の姫カーヤ(サファイヤっぽいけど髪形がちょっと違う)。彼女は、マユーラ王国の王位継承者の証しである「トゥーロンの徴(しるし)」を狙っているゼド(多宝丸)たちに追われていた。リノ、そしてアトムたちは、彼女をひょんなことから匿うことになり、自由な時間を過ごしたい彼女のために、変装をさせて町を案内することにする。けれどゼドたちの魔の手はすぐそこに迫っていた。
まあこういう話は“演出で”ヒロインをいかに魅力的に見せるかってとこに命がかかってるんだけど、ちょっと普通の女の子として描き過ぎてないか。定番の話をやるならやるで押さえとかなきゃならない展開ってものがあるんだが(たとえば王女が市井に混じることで起きるカルチャーギャップな騒動とか)、なんか「筋をなぞってるだけ」って話が多すぎるんだよな。もうすぐ青騎士も登場するらしいってのに、こう腑抜けたエピソードが続くと、期待度がどんどん下がって来るんだけどなあ。 カーヤの侍従ドンパは、パッと見たらヒゲオヤジに見えるんだけど、ヒゲが曲がってるからブタモ・マケルなのかも。せめてキャラデザインくらいは中途半端なものにしてほしくないよなあ。
『笑っていいとも増刊号』に、小松政夫さんが出演、タモリといきなり「材木屋」のコントを披露してくれてたのを偶然見る。こういうのがあるから「サンデーモーニング」なんか見ちゃいられないのである。 あとはまたひたすら日記書き。
で、受賞記念と言うわけではないが、ワーナーマイカル福岡東で映画『座頭市』。しげはこの機を逃すとまたしばらく映画を見る時間がなくなっちゃうので、練習終わってくたびれてるからだをムリヤリ映画館まで運ぶ。私にはそれはもうムリだ。夜、映画を見ようと思ったら、前日からたっぷり睡眠を取っておかないととても持たないのである。
さて、この映画の魅力をどう語ればいいものやら。これまでの北野武映画の最高傑作と呼ぶ人も多いとは思う(まあ私も何本か見てない北野作品もありますが、だいたい同じ評価)。 けど素直に「面白かった」と語るのに抵抗があるのも事実。これまでの北野作品を見てきた人ならご理解頂けると思うが、北野監督には、映画、ドラマのセオリーをわざと外す癖がある。それはつまり手塚治虫のヒョウタンツギみたいなもんで、北野監督の「照れ」なのだが、時代劇のようにセオリーがガッチガチに固まってる分野でそれやると、多分昔ながらの時代劇ファンで「なんじゃこら?」って反応する人もいると思うんだよね。 一例を挙げれば、座頭市の「金髪ほかの設定」なんかがそうだ。勝新太郎の座頭市にとらわれない映画を作るためには、これくらい思い切った手を使う必要があるが、旧来のファンが「噴飯もの」と怒ってもおかしくはない。 金髪なら、眠狂四郎もそうだったじゃないか、と言い出す方もおられようが、あれには転びバテレンの息子、という設定がある。座頭市には本来、そんな設定は施しようがない。意外と知られてないが、原作の『座頭市物語』は、作者の子母沢寛が土地の人から聞いた実話をもとにして書いた小説なので、座頭市は実在人物なのである。アナタ、坂本竜馬が実は紅毛碧眼だった、とかいう小説を書いたら歴史家からフザケンナって言われちゃうでしょう。 けれども、やたらハシゴ外されてるにも関わらず、この映画、決してつまんなくなってはいないのだ。ただ映してるだけに見えて、画面の持つ緊張感がただごとではないのはいつものたけし映画になってるんである。
街道で一人、休んでいる金髪頭の座頭、市(ビートたけし)。近づいてきたヤクザは、子供に頼んで市の仕込杖をそっと奪う。市が丸腰になったと思い、刀を振りかざすヤクザたちだったが……。 この冒頭のシーンで、もういきなり北野監督の「外し」が入る。 市に襲いかかろうとしたヤクザの一人の抜き放った刀が、勢い余って隣にいた仲間を斬ってしまうのだ。 私も時代劇を結構な数、見てきたつもりではあったが、こんなシーンを撮った監督をこれまでに見たことがない。第一、映画の流れを阻害するにも等しいこんなカットを挿入したら、普通は大バカの烙印を押される。 けど、不思議なもので、このうっかり斬ってうっかり斬られたこの二人のワンカットが実にリアルでかつおかしいのだ。「流れが壊れているのに惹きつけられる」。 北野武の映画を楽しめるか楽しめないか、観客は実はこの時点で「試されて」いるのである。こういう例を挙げていったらキリがないし、中にはネタバレに引っかかるものもあるので、ワケの分らないキャラだの、コマギレの編集だの、どんでん返しだの、あとの細かい「外し」は実際に映画館で見て、確かめていただきたい。 監督の「照れ」を感じることができればこの映画、とても「かわいらしく」見られるはずである。
その日、三組の旅人が、同じ宿場に入った。 一人は座頭市。 二組目は服部源之助(浅野忠信)と妻おしの(夏川結衣)。某藩の師範代であったが午前試合である浪人に打ちのめされ、脱藩してその男を追っている。 三組目は旅芸者のおきぬ(大家由祐子)、おせい(橘大五郎)の姉妹。二人は、幼いころに自分たちの親を殺した盗賊に復讐するため、その行方を探し求めていた。 そしてその宿場町は、ヤクザの銀蔵(岸部一徳)と分限家の扇屋(石倉三郎)に仕切られていたのだった。
筋の紹介はごく一部に留めておきたい。ビートたけしは浅草時代に習い覚えた殺陣に工夫を加え、迫力のある映像を作りあげることに成功している。いやもう、痛そうな絵ですわ。σ(TεT;) 遊び人新吉(ガダルカナル・タカ)の飄逸な味わいや、野菜屋のおうめ(大楠道代)のキモの座りっぷりもいい。 CMでも目立っていた「ゲタタップ」だが、これを違和感なく構成した妙も見事だった。
『座頭市』、文句なく私のフェバリット時代劇に入っちゃったのだが、ついでだから、時代劇ベストテンも選んでみよう。もっともテンではとても収まり切れなくて、ベスト20になっちゃったけれど。 これでもとても絞り切れていないことは、『七人の侍』や一連の『忠臣蔵』や、『鞍馬天狗』『旗本退屈男』『遠山の金さん』『銭形平次』『宮本武蔵』といったシリーズものが軒並み落ちていることからもご想像頂きたい。 とても順位は付けられぬので、今回ばかりは時代順である。いちいちコメント付けてたらまた字数オーバーするのは目に見えているので省略、内容知りたい人は自分で調べてちょ。
1.『雄呂血』(阪東妻三郎主演/二川文太郎監督/阪東妻三郎プロ=マキノプロ=1925) 2.『右門一番手柄 南蛮幽霊』(嵐寛寿郎主演/橋本松男監督/東亜キネマ=1929) 3.『丹下左膳余話 百万両の壺』(大河内伝次郎主演/山中貞雄監督/日活=1935) 4.『赤西蠣太』(片岡千恵蔵主演/伊丹万作監督/千恵蔵プロ=日活=1936) 5.『人情紙風船』(河原崎長十郎主演/山中貞雄監督/P.C.L.=東宝=1937) 6.『蛇姫様』(長谷川一夫主演/衣笠貞之助監督/東宝=1940) 7.『虎の尾を踏む男達』(大河内伝次郎主演/黒澤明監督/東宝=1952<製作は1945>) 8.『雨月物語』(森雅之主演/溝口健二監督/大映=1953) 9.『血槍富士』(片岡千恵蔵/内田吐夢監督/東映=1955) 10.『東海道四谷怪談』(天知茂主演/中川信夫監督/新東宝=1959) 11.『座頭市物語』(勝新太郎主演/三隅研次監督/大映=1962) 12.『切腹』(仲代達矢主演/小林正樹監督/松竹=1962) 13.『十三人の刺客』(片岡千恵蔵主演/工藤栄一監督/東映=1963) 14.『眠狂四郎勝負』(市川雷蔵主演/三隅研次監督/大映=1964) 15.『十兵衛暗殺剣』(近衛十四郎主演/倉田準二監督/東映=1964) 16.『五辧の椿』(岩下志麻主演/野村芳太郎監督/松竹=1964) 17.『怪談』(中村賀津雄ほか主演/小林正樹監督/文芸プロダクション=にんじんくらぶ=東宝=1965) 18.『大菩薩峠』(仲代達矢主演/岡本喜八監督/宝塚映画=東宝=1966) 19.『御法度』(ビートたけし主演/大島渚監督/松竹=角川書店=IMAGICA=BS朝日=衛星劇場=1999) 20.『座頭市』(ビートたけし主演/北野武監督/バンダイビュジュアル=TOKYO FM=電通=テレビ朝日=齋藤エンターテインメント=オフィス北野=松竹=2003)
番外『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』(矢島晶子主演/原恵一監督/シンエイ動画=ASATSU−DK=テレビ朝日=東宝=2002)
2001年09月07日(金) 夢の終わり/映画『王は踊る』ほか 2000年09月07日(木) 涙のリクエスト/『冷たい密室と博士たち』(森博嗣)ほか
| 2003年09月06日(土) |
学校が守っているものは何か/『死神探偵と幽霊学園』第1巻(斎藤岬) |
終日、日記書き。書いても書いても追いつかないのはなぜだろう(-_-;)。いつも5、6行ですませようと思って書き始めるのだが、全然それで終わんないね。記憶を頼りに書くのはえらくしんどいので、そろそろちゃちゃっと片付けたいのだが、書き出すと止まらないってのも一種のビョーキかね。ただの自慰行為かもしれんが。
今年4月23日、埼玉県所沢市のデリバリーヘルス(行ったことないのでどんなとこだかよく知りません)で働いていた高校3年生の少女を買春して逮捕されていた東京都立の高校教師、中谷芳典容疑者(43)のトンデモな授業内容が公開され、呆れた声が広がっている。 体育教師である中谷容疑者は、授業は体育や保健体育を受け持っていたそうだが、卒業生の話によれば、「テスト直前の保健体育の授業で、『男子は女性器の絵を、女子は男性器の絵を書く問題を出す。配点が高いぞ』と予告し、本当にテストに出した」とのこと。 断面図に名称を書かせる問題なば私も見たことはあるけれども、リアルに書かせたって機能を理解してるかどうか、判別はできんよなあ。テストとしては不適当……ってそういう問題じゃないか。 その先生、試験のあとで特に「上手い絵」を皆に回して褒めたそうだが、女子の中には嫌な顔をして、気分を悪くしていた子もいたとか。 ほかにも柔道の授業で、男同士で身体をすり合わせて踊るランバダを踊らせて通知表の点をつけたとか、なんだかもう話にならん感じだけれども、これまで一度も「生徒や父母からの苦情はなかった」んだと。 これがまずもって信じられない。現代の教育のありように対して、疑問や不満を持っている人は多いと思う。文部科学省の教育方針は猫の目のように変わりまくるが、これ即ち、世間の批判に右往左往しているということでもある。ゆとり教育がどうの、学力低下がどうの、と学校に対する批判の声はやたら喧しいのに、こんなどこからどう見ても問題のある教師が何の苦情もなく放置されたままだったというのを信じろと? 苦情はあったが握りつぶした。 憶測だが、十中八九、それに間違いないと思うな。現実に法に引っかかる事件を犯さない限り、多少トンデモなことをやってのけても、世間体を気にする学校はそんな教師を守りつづけるのである。学校に届けても埒があかないなら警察に行ったらと思うかもしれないが、警察と学校がツルンでたらそれもムリだろうね。結局、自分の子供が教師にどう扱われようと、ひたすら堪えるしかない。そんなとこに子供を預けなきゃなんない親もいい面の皮である。 「この門をくぐりし者、全ての希望を捨てよ」(ダンテ『神曲』地獄編、第三歌)。 これを全国の学校に掲げるようにしたらどうか。
アニメ『クレヨンしんちゃん』、見逃すことが多いんだけど今日はちゃんと見る。「四郎さんSOSだゾ/台風が来るゾ/武蔵野剣太 竜子の一途な恋」。 台風の巻は、大型台風の接近に、家が壊れたりしないかと心配した野原一家が強風対策をする様子を怪獣映画か戦争映画か、といった、テロップの多用で見せる。オトナなおトモダチだけが喜びそうなネタじゃないかって気もしないでもないが、ノリがよくて笑える。しかしこのアニメもレベルがよく落ちないよなあ。
マンガ、斎藤岬『死神探偵シリーズ2 死神探偵と幽霊学園』第1巻(幻冬舎/バーズコミックス・567円)。 「死神」と仇名される探偵・鹿神考(ししがみ・こう)の活躍を描くシリーズ第2弾。と言いつつ、中身は続編ではなく彼の学生時代に時間を遡っての前日譚になっている。でもまだ高校生だってのに、もうたくさん掻事件に関わってるんだな鹿神。最初の事件は小学生のときってか。それもいつか描かれる時が来るのだろうか。 今回の事件自体は、廃墟となった旧校舎にまつわる「呪い」と、実際に起きた殺人事件、というものだけれども、前巻同様、キャラの魅力で読ませる。ミステリの探偵というものは、たいていは性格破綻者で、明智小五郎にしろ金田一耕助にしろ、事件が起これば自分の脳髄を発揮できる絶好の機会とばかりに嬉々として振舞うものだが、もうずっと「死神」扱いされている鹿神は、できるだけ事件にかかわるまいとする。この「及び腰の探偵」という設定が物語の節目節目でユーモアを醸し出す効果を上げていて、殺伐とした物語の重さを少なからず緩和している。 ユーモアという点で言えば、鹿神の恋人(このころは未満)の金子みちるの天然ぶりとかもなかなか楽しいのだが、いくら覆面かぶってるからって、間近にいる自分の父親に気付かないというのは将来が不安にならないのかね、鹿神クン(^o^)。 事件のオカルト性と言い、キャラクター造形には都筑道夫の物部太郎シリーズが影響を与えているんじゃないかと思われるが、鹿神はあそこまでものぐさではない。みちるを庇おうとする男気もちゃんと見せている。女性には特に受けやすい作品ではないかな。
2001年09月06日(木) 裸という名の虚構/『アイドルが脱いだ理由(わけ)』(宝泉薫)ほか 2000年09月06日(水) 妖怪っぽい〜妖怪っぽい〜♪/『ブロックルハースト・グロープの謎の屋敷』(シルヴィア・ウォー)
| 2003年09月05日(金) |
土の下には虫くらいいます/映画『からっ風野郎』/『地震列島』 |
秋からのテレビアニメ新番、『魁! クロマティ高校』のスタッフ・キャストが発表されたけれど、これがまたムダに豪華っつーかなんつーか(^_^;)。 あのパトレイバーのエヴァの攻殻の、Production I.Gが製作ってだけでもビックリしてたのに、監督に決まったのが『アキハバラ電脳組』『だぁ!だぁ!だぁ!』『ななか6/17』の桜井弘明さんである。はてさてこりゃいったい、どんなものになるんでしょうかね〜。 だいたい『クロマティ』くらいアニメに不向きな題材もないと思うんである。ロボットの変形もなけりゃ(メカ沢がいるじゃん! なんて無粋な突っ込みはナシね)、萌え美少女だって出て来ない(前田のママが……やめようね)。イマドキのアニメファンの趣味嗜好に堂々とそっぽを向いてるんである。マンガ原作読んでりゃ分かると思うが「動き」だって殆どないに等しい。 どちらかというと桜井さんが今まで監督してきた作品は、その「変形と美少女」系だったから、アニメとして魅せる要素のつかみにくいこの原作を、いったいどう料理するつもりなのか、気になるのであるが、もしかしたら「こういうの」を待ち望んでいたのかもしれない。ともかく「これまでにない作品を作る」ことに果敢に挑戦してきたI.Gなんだから、期待はしていいと思うのである。もっとも単なる資金稼ぎのために作るって可能性もなきにしもあらずなんだけど。儲かってはいない感じだからなあ(^_^;)。 キャストは、神山高志に『サイボーグ009』『金色のガッシュベル!!』の櫻井孝宏。あとは省略するけど、メカ沢新一に若本規夫・内藤玲・かないみかと3人もキャスティングされてるのはどういうわけだ。原作でも声が時々変わってたりしてたっけ。
昨4日、午前8時半ごろ、青森県弘前市の雑木林でアケビ採りをしていた熊沢慶三さん(68)の前に、突然、クマの親子が出現。母グマは熊沢さん目掛けて突進してきたが、熊沢さんは転んだ拍子に偶然巴投げをかけた格好になり、クマはそのまま坂下に転落、小熊ともども逃げて行ったとのこと。熊沢さんはがっしりした体格から仲間内では「クマ」の愛称で呼ばれていて、「クマさんがクマを投げ飛ばした」と大評判だとか。 なんかこういうニュースを聞くと、どうして『ウィークエンダー』は終わってしまったんだと思うよなあ。桂朝丸(現ざこば)さんに「〜なわけだ」と早口で報告してもらってたらさぞ面白かったろうにねえ。 このクマさん、柔道の経験はないけれど、クマ狩りの経験はあって、恐怖感はなかったらしい。インタビューで、「奥さんは気が気でなかったでしょ」の質問に、「2人暮らししてるけど、全然。帰宅して『クマと戦った』と言ったら、心配どころか思いっきり笑ってました」と答えてるけど、この奥さんも豪傑だよなあ。一歩間違えれば死んでたってのに、旦那さんを信じてたのか呑気なだけなのか。 政治だの経済だのってニュースより、こういう日常の中のちょっとした非日常(クマに遭遇するのはちょっとしたじゃすまないことではあろうが)な出来事の方が興味を引くのは、どんなに我々の生活に密接に関係してくるものであっても所詮は遠くの出来事でしかない政治よりも、身近な非日常の方が現実を照射する力があるからである。 「今の政治は狂っとるねえ」と愚痴ってはいてもどこがどう狂ってるのか、適切に説明できる庶民はそうはいない。それにいくら愚痴ったところで、何がどう変わるものでもない。言葉はただちに彼方へと雲散霧消するしかない。 けれど、こういう庶民の絡んだ三面記事というものは、家庭でも立派な話のタネとなり、引いては生きる活力ともなりうる。 「人間、どこでどんな目に合うかわからんなあ。クマに合っちゃう人もいるんだものなあ」 「でもアンタはクマに合ってもビビって逃げて、追いつかれて食われちゃうよね、きっと」 「そうはならないよ。抵抗した方がクマは逃げるんだってことわかったし、まあ何でも逃げてばかりじゃダメってことだな」。 トリビアの効能もこういう点にあるんだろうな。
今日は職場の草むしり。日当たりがいいのか、草の種の吹き溜まりにでもなってるのか、年に数回、総出で除草しないと、建物がマジで草に埋もれてしまうのである。まあ、OVAパトレイバーの第1話を思い出していただければイメージは掴めましょうか。 草を引き抜いてると、そこから当然、ミミズだってオケラだって出てくるのだが、まあ女の子が悲鳴を上げること上げること。ムカデやクモは特に「刺される刺される」と逃げ惑っている。ムカデはともかく、このあたりのクモが刺すかあ? 女の子の一人に「そんなに虫が嫌いかね」と聞いたら、「嫌いです!」と言って私をキッと睨んだ。いや何でそんな憎悪の目で私を見るか。私が虫をけしかけたわけじゃないぞ。 「蟋蟀とかはかわいいでしょ。ほら、コロコロ鳴いてるし」 「鳴いても虫です!」 まあ、そりゃそうだ。 「聞いてくださいよ、うちのおばあちゃんなんか、ゴキブリを足で踏んづけるんですよ!」 そう言われても昔の女性はみんなそんなもんなんだがなあ。おかしなもんだよねー、女性解放のフェミニズムがどうのって声が大になればなるほど、現実の女性はどんどん男に甘えて弱くなっていくんだから。 つか、今の女性、ホントに「土」から離れて暮らしてるんだね。汚いものは嫌いっていうの? それって誰にでもはっきりわかる偏見なんだけど、普通思っても口には出さないんだけど、そういう羞恥心も消え去っちゃったっていうのかね。 こういう女性ばかり見てたら、映画としては面白くないけれども、農村に嫁ぐ女性を描く『おもひでぽろぽろ』を作りたくなる高畑勲の気持ちもわからないではない、と思ってしまうのである。
CS日本映画専門チャンネルで増村保造監督・三島由紀夫主演の珍品『からっ風野郎』。 珍品とは言ったが、それは主演が三島由紀夫だからと言うだけのことで、映画自体はごく普通のヤクザ映画である。昔見たときには三島由紀夫の超大根演技に呆然としちゃったもんだが、水野晴郎を知ってからはこれでも随分マシに見えてしまうのだから長生きはするものである。 でもやっぱり酷いな、三島由紀夫。たとえて言えば、田中邦衛の口マネをする加山雄三なみに大根。増村保造にこってり絞られたとの話ではあるが、それでもこれが限界でしたか。だって「芝居してます」ってのがセリフからも仕草からも見え見えなのがねえ。どの映画評を見ても誉められてる例を見たことがないが、 唯一凄みを感じさせたのがラストで死ぬシーンの表情なんだけれど(まあこれはネタバレさせても構うまい。こんなバカキャラが最後まで生きてるなんてことありえないから)、まるで本人の未来を暗示してるようだね。そう言えば『人斬り』でも『憂国』でも死ぬ役でしたね、三島さん。
続けて『地震列島』。1980年製作のパニック映画だけれども、この時分にこの手の映画がやたら流行ってたのはなぜかってのを若い人に説明するのはなかなか難しい。 1970年代中盤くらいから始まっていた、プログラムピクチュア製作から大作路線へ転換していく映画界の流れと、洋画では『ポセイドン・アドベンチャー』『タワーリング・インフェルノ』、邦画では『日本沈没』に端を発したパニックもののヒットとが丁度あいまったから、くらいの分析しかできん。 90年代よりも70年代後半の方が、よっぽど世紀末的雰囲気は強かったのである。この流れの中で『ノストラダムスの大予言』のヒットもあったわけなのですね。 で、この『地震列島』、昔見た当初は、いい加減パニック映画にも飽き飽きしてたこともあって、ハッキリ言ってつまらなかった。 主役の勝野洋、これが前途有望たる地質学者だったんだけれども、政府の防災対策が全く立てられていないことに業を煮やして、「関東を襲う大地震が30日以内に起こる」と世間に公表してパニックを起こそうとしたトンデモないヤツ。これで地震が来なけりゃただの風紀紊乱の犯罪者じゃん、とか思ったものだったが、映画はもちろん都合よく地震が来てくれるので、よかったね勝野さん、といったところなんである。地震の予兆にしっかり「動物が騒ぐ」ネタも挿入されていて、ホントに地震学者が監修しとんのかいな、と首を捻ったものだったが、まあ地震予知なんて所詮その程度のレベルなんだろうね。 パニック映画定番の「大作感」もこのころにはすっかり薄れてきていて、キャスティングが相当苦しくなってきている。主役の勝野洋もそうだけれど、ヒロインが松尾佳代である。……いくらなんでもほかに誰かいなかったのかね。もう一人のヒロイン、多岐川裕美もこの手の映画にやたら出演していて食傷気味であった。確か思ったほどヒットしなかったのではないか。 あと、子役で松田洋治くんが出演。
2001年09月05日(水) 中華幻想/『仙人の壷』(南伸坊)ほか 2000年09月05日(火) 日向ぼっこしてるヒマに本が読みたい/ムック『アニメスタイル』2号ほか
| 2003年09月04日(木) |
また誤読する人はいるかもしれないが/『福岡口福案内 地元の美食家が自腹で調査』(口福倶楽部代表ヤマトモ) |
個人批判だと勘違いされても困るので、「某ホームページの某掲示板」と書いておくが、そこを覗いてみたら、なんかちょっと首を傾げたくなるような書きこみを見つけた。 曰く、「博多の人間は福岡の人間をコバカにしている」。 他地方の人にはそもそも関心外というか、何のことやら見当もつかないだろうが、福岡市は那珂川を境にして、東を博多、西を福岡と昔から分けて呼んでいる。もともと黒田氏が福岡に城を構えた際に、自国の「福岡」の地名を移殖したのが始まりである。それ以来、博多は商人、職人たちの町人の街となり、福岡は城下町、武士の街となった。廃藩置県後もその気風は受け継がれ、「博多っ子」とか「博多んもん」と矜持を持って言った場合には、福岡の人間は指さないのが普通である。 あまりくだくだしい説明は避けるが、長い歴史の中で身分によって差別されてきたのは、博多の方なのである。市名を福岡市にするか博多市にするかで投票が行われ、一票差で福岡市と決定し、博多人が涙したことは地元では有名な話である。その代わり、国鉄が開通したときには駅名は博多駅とすることが定められた。区画整理で「博多区」が誕生したときには昔ながらの博多っ子の喜びはいかばかりであったか。これは単に地域の対立という謂いではなく、「差別撤廃」の凱歌であったのである。 そういう歴史的知識があるなら、博多人が福岡人をコバカにすることなど有り得ないことは容易に想像がつこう。博多人には商人としての、職人としての誇りがあり、それが権力に対する「反骨」という気風をも生んでいるのだが、恐らく書きこみをした人は他地方の人で、博多人の矜持を尊大と勘違いしたものではなかろうか。 まあ私もそうだが、博多の人間はお偉いさんに媚びる人間は大嫌いである。社会的なオトナの事情で、上の者の命令に従わねばならないこともありはするだろうが、心まで売り渡しているわけではないのだ。以上、「なんで博多の人はあんなに自分の土地に拘りを持ってるのかなあ」という疑問のある方のために説明しました。こういうのいちいち解説するのも博多人にとってはホントのとこ、恥ずかしいんだけどね。
CSアニマックスで9月1日から『ハイスクール!奇面組』が再放送されてるんだけど、コッソリ録画しているのをしげに見つかってしまった。 「なんでそんなん録るん!?」と怒ってたけど、しげ、このマンガは好きだったはずなんだがなあ。 いや、このマンガが原作もアニメも、そんなに面白いものではないということも承知してはいるのである。初期のものは特に、「個性を大事にしよう」とか日教組的スローガンを前面に押し出した長ゼリフがやたら多くて、ギャグマンガじゃないんかいこれは、と、いささか閉口しながら見ていたところがある。 原作者の新沢基栄さんのそういったリクツっぽさは、ともすれば描かれるギャグそのものを無効化してしまう危うさをも内包していたのだが、にもかかわらず『奇面組』シリーズが今なお命脈を保っていられるのは、やはりあの「名前のダジャレ」に負うところが大きいと思う。上手いものもありはするが、たいていはムリヤリ作ったヒドイ出来のものばかりだ。けれどそこまでのものになると、その酷さにかえって笑ってしまうのである。 主役の「一堂零」などはシャレとしては珠玉の出来であろう(もっとも、今はなき劇団「青い鳥」の共同ペンネーム「一堂令」のほうが先ではあるが)。でもインパクトの強さでいけば、「冷越豪」のほうが圧倒的にもの凄い。「レッツゴー」のシャレなら、普通は「烈津豪」とかしそうなものだろう、どうせそんな名字あってたまるかと突っ込まれる点では同じなんだから。でも、一瞬何のシャレだかわかんないこのデタラメさ。「これ何のシャレ?」というのが当時はよく話題になっていたものだ。 それと私は、『奇面組』のアニメを全話見ているわけではないので、原作には登場するけれども、アニメではカットされたキャラがどれくらいいるものか、確認してみたいのである。もちろんその逆に、アニメオリジナルのキャラがいるものかどうかも気になっていた。今パッと思い出せるものはと言えば、五重塔対決のエピソード(映画にもなった)が、30分枠に合わせて三重塔に階数が減らされたために、怒裸権榎道と爺面七重吾がカットされていたのとか。まあ若木市猿をリーダーにしたのは正解だったとは思うが、やはり奇面組との五対五のキャラ対決を見たかったとも思うのである。 「婦組」はアニメに登場したのかなあ。総勢10人で、当時のアイドルの名前をモジッていたのだけれど、これは映像にはできなかったかもしれない。懐かしがりやの人のために、10人の名前を列記しとこう。「子役締ひろ」「斎藤つか」「吉和原かしえ」「小河合なお」「松茂問代」「小今日泉子」「菜中森明」「堀地えみ」「知田原代」「雪中路まみ」。記憶だけで書いてるんで字は間違ってるかもしれない(^o^)。松田聖子を入れずに中島みゆきを持ってくる当たりが新沢さんの「拘り」だったのかも。
口福倶楽部代表ヤマトモ『福岡口福案内 地元の美食家が自腹で調査』(南々社・1260円)。 博多駅の紀伊國屋書店にやたら平積みしてあるんだ、この本。 オビに「福岡初の個人による飲食点評価ガイド」とある通り、作者のヤマトモさん(お医者さんらしい)が自分の足で食べ歩いた店の味を五つ星で評価したもの。 日本料理、フランス料理、イタリア料理、中国料理、餃子、各国料理、カレー、寿司、ふぐ料理、天ぷら、うなぎ、鍋料理、居酒屋、定食、家庭料理、焼肉料理、洋食、とんかつ、ステーキ、もつ鍋、ホルモン料理、お好み焼き、そば、うどん、ラーメン、中華そば、ちゃんぽん、ワインバー、バー、喫茶、ケーキ、甘味、屋台と、福岡の名店2500軒を回って、267軒を厳選(九州各県26軒と全国71軒の名店も掲載とあるけど出張のときに食べたのかな)している。 とは言っても、これを全てヤマトモさんが調査したのではなく、ミニコミ誌の会員やWebの仲間の協力をも仰いだもののようである。それにしても滅法界な努力をされたものだ。 「伝統の味」というものを否定はしないが、味覚は結局個人の感性であるから、作者たちの評価を絶対的に正しいものとは思わない。けれど、この本の方針は、<自腹・覆面・本音で採点>ということである。グルメ本の提灯記事なんぞに比べれば、ずっと参考になる。 知っている店もいくつか散見するのだが、なにしろウチの妻は「ファミレスとファーストフード」でしかモノを食おうとしないやつなので(高級料理店はカネがもったいないと行きたがらないし、居酒屋や定食屋の類は大嫌いである)、なかなか行く機会がない。 ラーメン屋は何とか知った店が載っていて、川端の「どさんこ」が四つ星だったのはうれしかった。福岡にも昔は札幌ラーメンの店がたくさんあったのだが、ブームが去ると同時にめっきり少なくなってしまった。ここはその数少ない名残の店なのだが、味噌に地元のものを二種合わせて使い、九州人好みの味(甘口)にしてある。もっとも、しげをここに連れて来ても、絶対に味噌ラーメンを注文しないのだけれど。 ラーメン屋では「一風堂」も四つ星だったけれど、それほどかなあ、と思ってよく見たら、これは大名本店のみの評価(支店は星2.5)。ここでしか食べられない「かさね味」というのが美味いらしい。「スープは中庸で脂も浮いていて、臭くはないが好みは分かれるところだろう。自家製麺は少し縮れ気味の中麺で。博多ラーメンにしてはやや太めだが、シコシコのコシと小麦の素材感がすばらしい」とある。ここまで書かれると食べに行きたくなりますね。 この本、福岡以外では売ってるのかなあ。売ってたとしてもそんなに部数は出てないようにも思うけど。興味のある方は、下記のサイトをご参照のこと。
http://hw001.gate01.com/yamatomo/
ついでに岩中祥史『博多学』も新潮文庫になりましたので、合わせてどうぞ(^o^)。
2001年09月04日(火) 虚構としての自分/『マンガと著作権 〜パロディと引用と同人誌と〜』(米沢嘉博監修) 2000年09月04日(月) また一つ悪いウワサが……?/『マンガ夜話vol.9 陰陽師・ガラスの仮面』
| 2003年09月03日(水) |
不明を恥じるハナシ/『ビートのディシプリン』SIDE2(上遠野浩平) |
今敏監督の『千年女優』、ドリームワークスの配給で、“Millennium Actress”と直訳のタイトルで9月12日から北米で公開される。 公開自体はインディーズのようだから、たくさんの人が見るというわけにはいかないようだけど、どんな反響があるか、ある意味、『千と千尋の神隠し』以上に気になっているのである。 なんでもアメリカのアニメ映画関係者の間では評価が非常に高く、『千と千尋の神隠し』に続いて、2年連続で日本アニメがアカデミー最優秀長編アニメ映画賞にノミネートされる可能性まで出てきたそうな。ライバルは『ファインディング・ニモ』ってことになるのかな。 アカデミー賞というのは多分に会員の政治的姿勢が反映する賞なので、「去年は日本アニメが取ったから、今年は自国のアニメにしよう」という動きが出ておかしくない程度のものである。そういう事情を知ってると、別にアカデミー賞取ったって嬉しくもないよなあ、とか思ってしまうのだが、世間一般のイメージというものはまるで逆である。 去年の『千と千尋』でも、「日本のアニメが世界に通用するようになった」と、ちょっとでもアニメの歴史をかじったことのある者にとってはひどくトンチンカンな批評が出たように、アカデミー賞が世界最高峰の賞であるかのように錯覚している人間は腐るほどいるのである。だからあれは基本的にアメリカ中心の賞で、ベネチアやカンヌみたいな国際映画祭じゃないでしょうが。何で「三大映画祭」なんて言い方するんかね。 でも「錯覚」だろうとなんだろうと、評判は評判である。とりあえず作品が売れ、多くの人に見られないことには、評価だって付いてはこないのだ。『クレヨンしんちゃん』がオタク以外に評価されるまでに、いったい何年を費やしたか。 『千年女優』を私は強く評価はしていないし、どこにどう欠点があるかは以前事細かに書いたこともあるのだが、それとても人が見ていないことには「ふーん」で終わってしまう。「アンタはここがこうイカンと書いたが、私はここがこうイイと思う」という批判だって、まずは作品を見てからでないと言えることではない。評判・実見のきっかけになるのなら、虚飾もまた可としなければなるまい。虚飾を暴くのは、見てもらってからでも遅くはない。 ああ、でも未見の人にこの映画を見てもらうことを考えれば、もちっと誉めときゃよかったかなあ、ともチラッと思う。でも誉めるときには徹底的に誉めないと興味を惹いてもらえないし、貶すときにも適当にどっちつかずの批判をしちゃうと、「つまんないなら見ないでいいか」と読む人に思われてしまいかねないのである。「ここまで貶すんならかえって興味が湧いたぞ」と思わせるくらいゲキレツに書いた方がいいんだが、どうもそこまで作品を突き放して貶したくはないなあ、という心理がどうしても働いてしまうのだ。 だから改めて書くけれど、『千年女優』は欠点だらけの作品で、それは決して瑕瑾とは言えない。でも、これは、日本映画がかつて取り上げたことのない題材を扱った作品であることに間違いはない。まずは見るべし。と、これだけは言っておこう。
『トリビアの泉』第29回、ゲストには伊武雅刀と古手川祐子。これまでで一番華やかなゲストって気もするけど、まあこの番組ではたいした意味はない(^o^)。ああ、この人のツボはこれか、ってとこが分かる場合もあるけど、たいていは「あれ? そう言えばその人出てたよなあ?」という印象で終わることの方が多いし。 たとえば、伊武さんの場合、「中華料理の回転テーブルは目黒区生まれ」ってネタには「20へぇ」で、「『こめかみ』は米を噛んだとき動くから」には「10へぇ」だったけど、そこまで注意して見てる視聴者ってあまりいないんじゃないかな。こちらは、役者さんはこれくらい知ってるから今更なネタだよなあ、とか思って見てるんだけど、画面に映るのは一瞬だから、そもそも注意のしようもないのである(古手川祐子も9へぇ、タモリは5へぇで、共に一番低い。MEGUMIにビビる大木はやっぱり17へぇも押してやがる)。どっちかと言うと目立つのはいつもかぶってる帽子のほうで、「こないだドラマに出たとき、伊武さん、ハゲてたよなあ、あれ、ハゲ隠しのために剃ってるんだろうなあ」とかなんとかって関心の方が強いんじゃないか(^o^)。 今回、一番高い「90へぇ」を獲得したのは、「111111111×111111111=12345678987654321」というネタ。投稿者は12歳の女の子だけど、算数の参考書のコラムにでも載ってたものだろうか。数字遊びをしてるうちに自分で発見した可能性もあるなあ。私も昔やったから。 秋山仁さんをわざわざゲストに、計算させてるけど、まああの人ならこういうの大好きだろうなあ。途中、計算を間違えてたのももしかしてわざとだったりして。 オタクがすぐこの番組のネタを「濃い」「薄い」で判断するのはもうやめた方がいいと思ってるんだが(私は最初から薄いことはどうでもいいと繰り返し書いている)、そう思うのはこのネタなど、その判断基準ではどうにも図れないからなんだね。 純粋論理の産物である数学としての見地から考えれば、この数字もまたただの結果でしかない。そこには何の思想的、教養的な意味も付与されてはいない。にもかかわらず、この「並びの美しさ」がいかにも意味を持っているように、なぜか我々の脳は錯覚させられてしまうのである。 まあ、あれっすよ、ピラミッドの底辺だか高さだか、いろいろ掛けたり割ったりしたら円周率が出たとかなんとか、そういうのに「意味」を持たせたがる心理に共通してますかね。 これ即ち、我々人間が、シミュラクラを喜ぶ感性の持ち主であることを証明しているのである。その点で、このネタこそが「トリビア」の一番の特徴を象徴していると言えるんじゃないかな。
でも、ほかのネタは演出も含めて相変わらず低調。 「種」なんか、「日本中で一日に切られている髪の毛の量はどれくらいか?」ってよう、そんなん、いくらサンプル取ったって、計れるわけがないじゃん(正確に、ということではなく概算もムリである)。青山だけ調べたって、曜日や、地域によって、客量の差がこれだけ激しい業界もないんだよ。それを全く計算に入れてないんじゃ、ハナっから話にならないのである。床屋の息子が言ってるんだから、これは絶対だ(^o^)。 まあ、アホなことやってるなあ、で終わるだけなんだけど、こういうのは、本当にキチンと計算できた方が格段に面白いのに違いないのである。だって、本当に全国津々浦々、スタッフが歩き倒して調べたとしたら、「スゴイ!」とは思いませんか。そこまでやらないのならどんなに汗水垂らしても所詮はただの手抜きだし、「そんなんできるかあ!」と怒るんなら初めからやらなきゃいいのである。中途半端なのが一番みっともない。 種も最近はたいしたのがないし、視聴率高いわりにネタの提供者は少ないのかなあ。
チャットであやめさんが、「今回のネタも殆ど知ってた〜」とブー垂れておられたが、「動物園では逃げ出した動物の捕獲訓練を着ぐるみで行う」というネタ、どこで仕入れてたんだろう。VTRで流れてたの、何年か前の映像で、しかも全国どこででもしょっちゅうやってるわけではないって説明もあったのに(上野動物園と多摩動物園が一年置きにやってるそうである)。私ゃこのネタだけは今回初めて知ったんだがなあ、もしかしてあやめさん、見に行ったことあるのかな(^o^)。
上遠野浩平『ビートのディシプリン』SIDE2(メディアワークス/電撃文庫・645円)。 統和機構の合成人間ピート・ビートが受ける「ディシプリン(試練)」の第2章。今回は彼の封印された過去が回想形式で挿入され、現在の時間軸と交錯しながらストーリーが進められていく。 ビートがかつて、モ・マーダーと協力して救い出した金髪の少女、ザ・ミンサー。彼女にどんな運命が待ち受けているかは、ごく最初の段階で見当がつく。にもかかわらず、というよりだからこそ、ビートの「苛酷な試練」が、運命的なものであることが全編をおおうムードとして流れる効果を作り出している。 現在、ビートの抹殺を図ろうとするバーゲン・ワーゲンとの闘いは、「人間戦闘兵器」ダイアモンズのジィドの協力をもってしても苛酷を極めるが、なぜ彼がそこまで追いつめられなければならないのか、それは彼が失ってしまった記憶ゆえにであることを、我々読者は最後の最後で知ることになる。 こういう構成を取らせたらホントに上手いんだよ、上遠野さん。 でも気になるところが全くないわけでもない。第1巻で、確か、「ブギーポップは出さない」とか言ってなかったっけ。あくまで回想シーンでの出演だから整合性はちゃんとあるんだけど、ちょっとテコ入れかな? と思わないものでもない。「ウソつきだ!」とか言って怒るほどのことはないんだけど。 それよか、霧間凪まで登場させたことのほうがやりすぎだったんじゃないか、とやや疑問に思う。なんとなれば、この作品が『ブギーポップ』の「外伝」としての位置しか占めないのであれば、結局彼女も「通りすがり」以上の役割は果たせないことが予測されてしまうからだ。いかにも統和機構の尻尾をつかんだ、みたいな登場のさせ方しても、最後が尻すぼみになったんじゃしょうがないしね。さて、出したはいいものの……という展開にならないことを切に祈るよ。
2001年09月03日(月) 変わるわよ♪ ……何がだよ/アニメ『こみっくパーティー』第1話ほか 2000年09月03日(日) 警察も役所/『ら抜きの殺意』(永井愛)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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