無責任賛歌
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| 2003年08月28日(木) |
謎の暗号?(^_^;)/DVD『アパートの鍵貸します』/映画『英雄 HERO』 |
おっと、昨日の『トリビアの泉』の感想、書き忘れてたな。毎週必ず見てる番組って今んとこアレくらいだし、欠かさず書いとこうと思ってたんだが、書きはじめると必ず長くなるんである。 原哲夫がふかわりょうの従兄弟だったとは初耳。もちろん両人にインタビューに行ってるのだが、ふかわりょうが子供の頃どれだけ『北斗の拳』のファンだったかをトウトウと語ってる(長すぎてカット)のに比べて、原哲夫が「まあ、そうですね」と「何を言えばいいのか」顔でヒトコトしか口にしないのが笑えた。実はふかわりょうが赤ちゃんの頃に会ったきりで、面識は殆どないそうである。親戚に有名人がいるったって、そんなもんだよなあ、と思わせるあたりがウマイ。ふかわりょうだって有名人なのにねえ。 しかし、殆どのネタをつまんないと扱き下ろしてるのに(実際、昨日のほかのネタはそれほどでもない)、こういうサベツ的なギャグにだけ受けるというのも、全く業の深いことなのである。
昨晩、私のパソコンにたったヒトコトだけしげから「ごめんね」のメッセージがあり、キョトンとする。 しげがこういうワケの分からぬ書き込みをするのは今に始まったことではないのだが、送られた方はもうどう反応してよいのやら困惑するばかりだ。 ところがしげに言わせれば、「なぜ分からないのか分からない」ということになるのである。私は更に「なぜ分からないのか分からないとなぜ言うのか分からない」と返さねばならないからもう何が何だかである。 「ごめんね」ってどういうことだろう、まさか「さよなら」ってことか。昨日、藤臣さんのマンガ読んでたもんだから、妄想がどんどん膨らんでいくのである。 今朝になって、「あれどういう意味?」としげに聞いたら、「ああ、冷蔵庫のアンタの弁当、勝手に食べちゃったから」。 ……だったらそう書いとけえ!
病院でこないだの診察の結果を確認。摂生したつもりだったけれど、ヘモグロビンA1Cの値は11と最悪。これが下げないことにはなあ。 「ストレス溜まってませんか?」と主治医に聞かれるが、「さあ」としか答えられない。まあ、仕事上、あまり顔を合わせたくない人もいるこたいるからなあ、「ない」とは答えられないが、かと言ってそれが指の痺れに直結してるかどうかは判断がつかないのである。
帰宅して、溜まってるDVDを少しでも見て片付けようと、随分前に買ったビリー・ワイルダーボックスの中から『アパートの鍵貸します』を見る。 これも最初に見たのはいったいいつだったか。多分テレビの吹き替えでだから、完全版ではないだろう。となれば今回の鑑賞が実質上の初見。映画ファンのフリをしていても、この程度のものである。 もっとも、テレビ放映版と比べてどこがどうカットされてるかなんてのはもうよくわからない。同じボックスの中で、吹き替え版を同時収録しているのは『お熱いのがお好き』だけで、これには吹き替えは付いていないのである。 映画はもう下手な解説はしたくない傑作。昔はシャーリー・マクレーンがイマイチかわいくないとか思ってたんだけど、そんなことはないな。ツンとして見えてもちゃんと初めからジャック・レモンへの行為は持っている。愛人生活に振り回されてて、自分の心がレモンに癒されていることにきがつくのに時間が掛かっているだけなのだ。 しげに「見たことある?」と聞いてみたら、「ある」という。しげはコメディ好きではあるけれど、この『アパート』はやや毛色が違う。一応最後はハッピーエンドではあるが、全体的にはサラリーマンの出世主義を背景に、オトナのすれ違う恋心を苦くて渋〜いムードで描いている。しげもよくこんなの見ていたな、と思ったら、昔、『小堺一機のアパートの鍵貸します』ってのが放映されてて、その流れで見てみたのだそうな。私ゃその『小堺一機』の存在の方を知らなかった。しげにそう言ったら、目を吊り上げて、 「なん、俺がウソついてると思っとうと?」と絡んで来る。 「別にそんなこと言うとらんやん」 しげはいつもこんなふうにすぐに被害者意識全開で突っかかってくるのだから、なにげないコトバもかけにくくなってしまうのである。一緒に見よう、と誘ったが、「いや」とニベもない。一緒に見てるとすぐに私が寝ちまうからだそうだ。でも今日は寝ずに最後まで見たんだがなあ。
仕事帰りにはしょっちゅう寄ってるが、しげとは久しぶりの「バーミヤン」で夕食。特別メニューの酢豚がしげの眼に入った途端、しげ思わず「ハッ!」と声を上げる。食欲がこれだけ態度に出る人間も珍しいよな。もちろん、注文したのはそれ。 そのあと、ワーナーマイカル福岡東で、映画『英雄 HERO』。 秦の始皇帝の暗殺未遂事件を題材にしてはいるが、お話自体は完全なフィクションで、登場人物も全くの架空。
秦王(チェン・ダオミン)のもとにやってきた一人の男、無名(ジェット・リー)。彼は一本の槍と二本の剣を献上し、秦王を付け狙っていた三人の暗殺者を討ち果たしたことを告げる。その功績により、無名は秦王の側、10歩まで近づくことを許される。 秦王はいかにして三人の暗殺者を倒したのかを無名に尋ねる。 「一人目の刺客、長空(ドニー・イェン)は果し合いにて」 無名は静かに答えるが、秦王はその静かさにかえって疑問を抱く。「残りの二人はどうやって討ったのか」 無名は更に答える。 「残剣(トニー・レオン)は侍女の如月(チャン・ツィイー)との関係に嫉妬した飛雪(マギー・チャン)に殺されました。飛雪はそのために動揺し、何なく私に討たれました」と。 秦王はその言葉を聞いて静かに怒る。 「長空はお前ごときに討たれる男ではない。残剣も飛雪も、愛欲に溺れて自らを失うものたちではない」 無名は答えない。 「お前はウソをついている。お前は何者だ?」 おもむろに無名は口を開く。彼が語り始めた第三の物語とは……。
二転、三転するストーリーが黒澤明の『羅生門』を彷彿とさせるが、雰囲気は小林正樹の『切腹』に近い。 ストーリーは重厚だが、チャン・イーモウお得意の原色を多用した映像は美しく、見応えは充分。けれども、最近の中国・香港映画では定番になってしまったワイヤーアクション、カッコイイことはカッコイイのだけれど、こういう歴史モノだとかえってその部分だけ荒唐無稽に見えてしまうのは失敗じゃなかろうか。これが完全なファンタジーだったりしたら気にもならないのだけれども。 特に始皇帝自身が飛んだり撥ねたりするのは、「しねーよ」と突っ込みたくなった。日本で言えば、徳川家康が真田十勇士とチャンバラやるようなもんじゃないかと思うんだが、それとも始皇帝は自身も剣の達人だったんだろうかね? そこんとこを百歩譲っても、特撮に頼らない殺陣を見せてほしかったとは思うんである。
2001年08月28日(火) クリエイターの条件/映画『ハムナプトラ2 黄金のピラミッド』ほか 2000年08月28日(月) 完治には1週間以上かかりそうです/ドラマ『百年の物語』ほか
| 2003年08月27日(水) |
つらいことばかりでもないと思うけど/『江戸川乱歩全集第10巻 大暗室』(江戸川乱歩)/『人生とはなんだ 旅と恋編』(藤臣柊子) |
今日でまた仕事をひと区切りにして、明日から4連休である。 有休使ってだから誰に恥じることもないのだが、芝居に行くためだと思うとちょっと心が痛むのである(^_^;)。休日に行きたかったけど、しげと時間の都合が合わなかったんだよ。 でも休んでるのは私だけではなくてほかにも結構いたので、「仕事をヒトに任せて自分だけ遊んだりして」という罪悪感はちょっと晴れるのであった。でも、ウチの職場、こんなに人が休んで大丈夫なのか?
午前中で今日の分の仕事が全部片付いたので、午後は若い子何人かと駄弁る。というつもりだったのだが、なぜか流れがマジメな話になる。最近いろんな事件が多いねえってとこから、死刑制度の是非にまで。 回りを気にせずに喋ってるから、言葉は相当過激になっちゃってるのだが、殆どの子の意見は「犯した罪は償うべき」というマットウなもの。ここでその言葉の過激さを云々するのは木を見て森を見ず、と言ったところだろう。 ただまあ、意見が一本化しちゃうと何かアンチテーゼを投げこんじゃいたくなるのが私の悪いクセで、「もしも冤罪だったら?」とか、「情状酌量も一切廃止したほうがいいのかな?」とか突っ込むと、途端にみんな沈黙する。根性ねえなあ(~_~;)。 でも実際の私は死刑廃止には反対で(^o^)、死刑制度には立派な犯罪抑止力があると思っている。冤罪の可能性ったって、例えば宅間守のケースなんかそんな可能性は探しようもない。情状酌量については事件の性質によっては必要だとは思うが、安易に連発されてる印象はぬぐえない。実質無罪って場合も多いからなあ。けどまあ、そういうモロモロのことを何も考えずにただ「死刑にしてしまえ」という言質が横行してしまう状況はやはり空恐ろしい。 なんかねー、「攻撃しても心が痛まない」相手を見つけたらここぞとばかりに責めたてるようなイヤラシサっつーかね、みんな日頃からそんなに鬱屈が溜まってるの? と言いたい気がしてくるのである。溜まってんだろうなあ。
江戸川乱歩『江戸川乱歩全集第10巻 大暗室』(光文社文庫/920円)。 『怪人二十面相』との合本。乱歩作品は大方のものは大学の頃くらいまででほぼ全作を読んでいると思うが、全集発刊を機に、ちょっと全作読み返してみようと思ったのである。というのも、これまで刊行された全集、文庫の類はいずれも削除、改訂が施されたものが殆どで、初出の表現が随分カットされている。それはこの日記でも折りに触れ、語ってきたことだ。時代に合わせた改訂とは言え、作品は本来その時代の空気を共有しているものである。少年探偵団の創立者・羽柴壮二くんは学習院初等科に通っていなければならぬし、明智小五郎は満州国政府の依頼を受けて新京に出張中でなければならぬのである(念のために言っておくが、私は作品の持つ普遍性を否定したいわけではない)。 それにしても、この「満州国の事件」、どんな事件だったのかなあ。 『大暗室』は細部を随分忘れていたので、初めて読むような新鮮さがあった。初読のときには中村警部も登場し、文中に明智の名前まで出ているのに、明智が登場しないのはどうしてだと思っていたけれど、多分、最初は登場させる腹案もあったけれど、正義の使徒・有明友之助と悪の権化・大曾根龍次の一騎撃ちに明智の登場は不協和音にしかならないと判断したのかもしれない。 意外にこの作品の映像化は少ないが、『大暗室』の描写が『パノラマ島綺譚』とイメージがダブるからだろう。東京の地下帝国、というイメージは結構好きなんだけどな。
マンガ、藤臣柊子『人生とはなんだ 旅と恋編』(双葉文庫・550円)。 「旅編」は「美味いモンばかり食ってんなー、うらやましー」ってな気分になるので飛ばし読み。 「恋編」は余裕があるので(^o^)じっくり読む。 藤臣さんのオトモダチ? たちの恋愛ばなしがなかなか壮絶で、女房に暴力の限りを尽くされて離婚したのに、また同じ女性と再婚した話とか……。まあ常識的に考えれば「なんでやねん」ということになるのだろうが、男と女の仲ほど常識の通用しないものはない。藤臣さん自身もご本人のココロの病気がもとで、ご主人(知ってる人は知ってるが、本書では名前を明かしてないので、ここには書きません)とお別れになっているのだが、この文庫に収録されてるのは殆どが結婚前、新婚の時期のものなので、読んでて痛々しい。「いいことばっかなんて絶対ないけどふたり暮らしは幸せだよ」って、多分、離婚した今も藤臣さんのこの考え方って変わってはいないのだ。なんかなー、こういう不可効力で離婚したカップルってのは本人同士に責がないだけに慰めようがないしねー。いや、別に私ゃ慰める立場になんぞないのだが。 男と女は、男と女ってだけでトラブルのタネを抱えてるようなものである。更に二人を結ぶカラダとココロは、時間とともに必ず変質する。身もフタもない言い方だが、カラダはお互いジイさんバアさんになるし、ココロは段々磨耗して、相手に飽きて来る。藤臣さんは「だから努力が大切」と語るが、人間、努力ほど嫌いなものはないんだよね(^_^;)。つか、恋人時代にたいていその努力のためのエネルギーは使い果たしているのだ。そうなるとあとには「夫が○○をしてくれない」「妻が○○をしてくれない」という不満が積もるばかりということになる。離婚はもう目の前だ。 こないだよしひと嬢とも話してたんだが、「結婚すれば疲れる」ことを前提としてない夫婦ってあまりにも多過ぎるんじゃないか。つか、甘く見てる。「ダメになったら離婚すればいーやー」と最初から軽く考えてとりあえずくっついてみたってんなら離婚したって構わないだろうが、一章添い遂げようって考えてんなら、もちっとそのために何をしなきゃならんかってことを考えなきゃならんのじゃないか。 ウチの場合に話を移すが、とりあえず10年ちょっと、我々夫婦の仲が持ってきたのは、僥倖の部分が大きいと思う。お互いの不満に対して腹を立て続けるには私はあまりに体力がないし、しげには記憶力がないのだ。マイナスとマイナスが掛け合わさってプラスになってるってのは、実に平仄が合ってるなあ(^_^;)。 もちろん、我々夫婦の形が正しいあり方だなんて主張するつもりは毛頭ない。念を押すが、夫婦の形にスタンダードなどはないのである。恋愛論の類の本は多いけれど、「あの夫婦に比べてウチはどうして」なんて思わない方がいいと思うよ。
2001年08月27日(月) ノンマルトの後裔/映画『ウルトラマンコスモス ファーストコンタクト』ほか 2000年08月27日(日) 自動車とはケンカしないように
| 2003年08月26日(火) |
サヨナラの季節/『のだめカンタービレ』3〜6巻(二ノ宮知子)/『ホントの話』(呉智英) |
『ニュースステーション』の久米宏キャスターが、来年3月いっぱいで番組を降板することが正式に発表された。久米さん本人は「疲れというより衰え」と降板理由を語っていたが、若い若いと思ってた久米さんも来年60歳なのである。下手に『ぴったしカンカン』のころから知ってると時間の感覚がなくなっちまうな。 最初に久米さんがNステのキャスターになった時には「似あわねえなあ」とか感じたものだったけれども、いつの間にか一番キャスターらしいキャスターになっちゃってたのはいつの間にかこちらのほうが意識改革されたせいだろうか。もの静かで重々しく、といった従来のニュースキャスターのイメージを2ステア分くらい「軽く」しちゃった印象なのだけれども、今や久米さん程度の「重さ」がスタンダードになってしまっているのである。筑紫哲也じゃ華が無くって仕方がない。 久米さんの後任が古館伊知郎、というのもその「軽さ」路線の継承だろう。プロレスの実況中継をしてたころの古館さんがNステのキャスターになることなど誰が想像していたろう。これはまたニュースが結局はワイドショー的興味本意なものとしてしか世間に受け取られなくなってしまっている現実を象徴しているのだけれど、あまりテレビに踊らされ続けのもなあ、とちょっと眉に唾つけて見る習慣も忘れてちゃいかんよねえとも思うのである。
ここんとこ糖尿病が悪化して、手足が痺れて来たことばかり日記に書いてたものだから、各方面に心配ばかりかけてしまっている。 ヨナさんには、ありがたくも掲示板で「ヒジキにキンピラ、わかめ、山芋なんかが糖分吸収を防ぎますよ」などとご教示頂いたので、早速仕事の帰りにコンビにに立ち寄ってみたのだが、セブンイレブンもローソンも、そういう惣菜をほとんど置いていない。あるのは白菜やキュウリの漬物とかキムチばかりである。トロロうどん、トロロそばはカップ麺で売っていたのでそれだけ買ったが、あとは休日にスーパーにでも行かねばムリのようだ。 あまり自分の病状を事細かに書いちゃうのも同情を誘おうとしているようで心苦しいのであるが、日記書くときに「自分に都合の悪いことを隠すことはしないようにしよう」と決めて書き始めたので、やっぱり書くしかないのである。極端な話、私が浮気したり犯罪犯したりしても、それはそれでちゃんと事実は書こうとまで考えているのであるが、こればっかりはそういう事態に陥ってみないとホントに書くかどうかわからんな(^o^)。
マンガ、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』3〜6巻(講談社/講談社コミックスキス・410円)。 よしひと嬢オススメのクラシックラブコメだが、しげも「6巻までしか出てないの?」と結構ハマっちゃった様子。実際、読んでて気分がこんなにハレヤカになるマンガも近頃滅多にない。月9の連ドラにでもしたくなるくらいドラマチックでメリハリの利いたお間抜けマンガなのである(いや、誉めてんのよ、これ)。どこがどう魅力なのかってのはぜひ現物に当たって頂きたいが、お馬鹿で不器用なキャラクターたちと、意外にシリアスな(失礼)展開との緩急の妙が読ませてくれるのである。 音楽の才能はとびきりなのにそれをうまく行かせずに鬱屈もしてて、融通の利かないマジメ一徹だった千秋が、Sオケの破天荒な演奏に音楽の楽しさを思い出したり(バイオリンを縦に振り上げて一斉に弾くなんてパフォーマンスもどこかの楽団でやってそうだなあ。前見た九響のコンサートじゃコントラバス回してたし)、のだめにセクハラしまくるただのスケベ親父の呑んだくれにしか見えなかった世界的な指揮者、シュトレーゼマンが千秋をちゃんと自分の弟子として認めていたり。 もちろんヒロイン「のだめ」ちゃんの不思議少女(と言ってももうハタチになっちゃったんだろうけど)ぶりっつーか大迷惑ぶりが暴走しまくってるからこそここまでドラマが盛りあがってることも忘れちゃいけない。Sオケの再公演じゃ、マングースの着ぐるみ着てピアニカで「ラプソディー・イン・ブルー」吹いてるんである。それだけふざけていながら(と言っても本人は天然なので大マジメ)、千秋のピアノ演奏を聞いて無性に「ピアノ弾きたい!」と音楽に目覚めるあたりの展開も感動ものである。でもいくら興奮したからって、妙齢の女性が「ムキャー」なんて叫ぶのはどういうものかな(^_^;)。もちろんのだめのことだから千秋に曲を合わせてもらったらすぐ安心して食欲遊び欲に戻っちゃうんだが(^o^)。 でも一つだけ難を言えば、クラシックにゃ詳しくないから、いろんな曲が演奏されてもそれがどんなんだかシロウトにはピンと来ないことである。作者の二ノ宮さんはラフマニノフを2ヶ月も聞きながらマンガ描いてたそうだけど、ラフマニノフったって、私が思い浮かべられるのは、マリリン・モンローの『七年目の浮気』くらいのものなのである。私の知識ってホントに映画とアニメからしか得てないな(^_^;)。
呉智英『ホントの話 誰も知らなかった現代社会学<全十八講>』(小学館文庫・560円)。 ニッポンは自由の国なのかどうかということをマジメに考え出すとなかなか微妙な問題がある。まあアレやコレやとタブーがあることは事実なんだけれども、それを全く活字にできないかというとそうでもなくて、かと言って圧力が公的私的にないかというとそうでもなくて、要するにどっちなんだと頭を抱えてしまうことがいっぱいあって、なにかモノを言おうと思えばひと苦労もふた苦労もさせられてしまう。 「人権と民主主義について」「ナショナリズムについて」「民族差別について」「現代人の愛について」「教育とマスコミについて」。 呉さんが立てた項目の内容は、どれも日常的に会話され論議されていて、そこにはタブーなど存在しないように見える。 けれど、例えば第十一講での呉さんと趙宏偉氏との特別対談『「支那」か「中国」か』一つを取ってみても、こういうお互いの意見の論拠を示してキチンと論議した例がどれほどあったかと言えば、甚だ心許ない状況だったのではないか。 「日本でももっと議論がなされるようになればいい」とは、呉さんならずとも、折りに触れかなり多数の人々が主張している意見ではあるが、さて、現実にはせっかく行われた論議とやらもたいていはお互いの主張をぶつけ合うだけでモノワカレに終わってしまっている。『朝生』が一度でも結論とやらを出せたことがあったか(^_^;)。 「和をもって尊しとなす」の精神は現代日本にもしっかりと生き残っているが、つまりは「論理」などでは人心をまとめることなどできない、呉さんはいやがるかもしれないが、意見の対立があれば「理屈抜きで」一方が一方に合わせるという形でその場を収めてきたのが日本人の取って来た選択であった、ということなのである。 もちろんそれで全てが解決するわけではない。いつまでも飽きもせず片方が片方に合わせることを続けていれば、当然ストレスは溜まるし、そこに「ほころび」も生まれてくる。そのほころびが修復できないところまで来れば、お互いの感情は爆発してしまう。まあ個人同士のトラブルならばモノワカレになったところで大勢に影響はないが、これが国家単位の問題になったり、「世論」を巻きこむような事態になれば、コトは単純に傍観ばかりもしていられなくなる。気がつかないうちにとんでもない「流れ」の中に巻き込まれて逃げ出せなくなってしまうような状況も起きてこよう。日本人は自分たちの方がよりストレスを感じているように思っているかもしれないが、それは中国人の方だって変わりはない。 本来、そうならないために「論議」をしなければならないのだが、如何せん、日本人は論議を放棄してきた歴史が長過ぎた。おかげで「何のための論議か」ということを確認しつつ話を進めることすらできない。呉さんも苦労する道を歩いているなあ、という印象である。 私が、呉さんの意見に賛同を示しつつも、中国を「支那」と呼ばずに「中国」と呼称するのも、現代の中国の要求する正式な国名が「中華人民共和国」であることが紛れもない事実であり、それをあえて「支那」と呼ぶことで両国の関係をあえて破壊しようとする姿勢を取る意図を感じないからである。繰り返すが、これは「個人レベル」の話ではないのだ(これが「わが国内での」差別語の問題になるとまた話が違ってくる。かつて差別語でも何でもなかったものが、いつの間にか「ナニモノかによって」指定されていったことについては、「断りもなくテメエの勝手なリクツを押しつけてんじゃねえ」と文句を言うのは当然のことだ。「侵略」を受けているのは差別語とされた言葉を全く差別的な意図なくして使っている我々の方なのである)。 呉さんの「『支那』は支那を呼ぶ歴史的な名称」で「差別的な意図はない」という主張もわかる。「日支事変」を「日中戦争」と後代に言い換える愚も指摘すべきだろう。ただ、現代、中国を呼ぶ呼称に困るのであれば、「チャイナ」でよいのではないか。「過去に日本はチャイナを『支那』と呼んでいた」という文脈で「支那」という言葉を使うのであれば、中国人も呼称の改正を要求したりはしないと思うのだか。
2001年08月26日(日) アノ娘にもツバがついていたのね/DVD『2001年宇宙の旅 スペシャルエディションBOX』 2000年08月26日(土) 森の木陰でドンジャラ補遺/『金髪の草原』(大島弓子)
| 2003年08月25日(月) |
世代の違いってことじゃないと思うけど/『ASTRO BOY 鉄腕アトム』1巻(手塚治虫原作・姫川明) |
ここ数日、急に暑くなってきたけれど、何となくいかにも夏らしい楽しげなニュースがポツポツと。
昨24日、神奈川県秦野市のマンションに独り暮らししていた84歳の老女を、77歳になる老女の義妹が、アイスピックで10ヶ所以上刺して殺して逮捕。 77歳が84歳を。なんかこないだも似たような事件があったけど、最近のトシヨリはなんて元気なんだろうね。ムダな元気って気もするが。なんかね、イマドキの無気力な若者がすっかり霞んじゃう勢いだね。でもこのまま若いモンが負けちゃってていいものなのか。少しは巻き返しを考えなきゃいけないんじゃないのか。頑張れ若者。って何を煽ってんだか(~_~;)。 でもねえ、どうしても何をそんなに焦ってたのかって思っちゃうよねえ。無理して殺さんでも、早晩ポックリいくだろう(おいおい)。よっぽど、あと数年が待てないくらい憎んでたのか、被害者が二百歳くらいまで生きそうな超元気な婆さんで、自分が死ぬ前に何とかせねば、とかなんとか考えてたのか。 でも動機はまだよくわかんないみたいだね。犯人の婆さん、以前から周囲の人たちに「あいつ(被害者)が家をダメにする。殺してやる」とか公言してたっていうけど、別に一緒に住んでたわけじゃないみたいだし、何を言いたいのかよくわからない。婆さん、都営住宅に住んでいながら、近くの公園などに野宿することもしょっちゅうだったっていうから、ただ単にイッちゃってただけなのかも。熱帯夜だったからなあ。 ……だったらさっさと医者に連れてきゃよかったんじゃないのかなあ。それをしなかったってことは、周囲の親戚とか、触らぬ神に何とやらで、傍観を決めこんでたんじゃないのかね。自分たちに累が及ぶくらいなら、誰か一人に犠牲になってもらって、さっさと逮捕されてほしいと願ってたのかも。勝手な憶測ではあるけれど、実際に「そういう人」って多いでしょ。
もう一つ、同じく昨24日、東京都庁45階の第1本庁舎南展望室で、埼玉県在住のサラリーマン(27)が、突然隠し持っていた「文化包丁」を自分ののどに突き付けて座り込みを始めた。男は約1時間後、警察の説得に応じて銃刀法違反の現行犯で逮捕されたけれど、取調べに対して「インターネットのチャットで知り合ったヤクザの男の悪口を言ったのがバレて命を狙われている」「自分はカッとなると見境いがなくなる性格だ」などと供述しているという。見学客約60人は現場から避難してみな無事だった。 これも状況がよくわかんないけど、その「ヤクザ」に本名とか住所とか教えたんですかね、この人。知り合ってプライバシーをすっかり知られたあとでヤクザだってわかった可能性もあるし、相手の身内に名うてのハッカーがいて調べられたってことも考えられなくはないけれど、まあ十中八九、ただの妄想ちゃいますかね。だって素直に警察に保護を求めりゃいいじゃないの。警察がアテにならないと思ったら夜逃げすりゃいいんだし。逮捕されるよりゃずっとマシだろう。 つかもう、次の「自分はカッとなると云々」でもうこりゃ「ここんとこ暑い日が続いてたからなあ」としか思えませんがな。 みなさん、クーラー病の心配もあるかも知れませんが、イッちゃうよりはずっとマシだと思いますからあまり外を出歩かないでじっとしてましょうね。
仕事帰りに先日まで夏コミに出かけていたZUBATさんと博多駅で待ち合わせ、開田裕治さんとこの同人誌『特撮が来た!6』を受け取る。夏コミ行けなかったんで、それだけ頼んどいたのである。 それからミスドでしばらく駄弁って、夏コミの様子やら何やら。 「眼を悪くしなけりゃ行きたかったんですけどねえ」 「行かなくて正解でしたよ、三日間ずっと雨だなんて初めてです」 実を言うと、どうやら私や妻に関して唐沢俊一さんあたりにとんでもないデマを飛ばしてる人たちがいたようなので、そのへん誤解がないかどうか、お伺いもしてみたかったのである。ZUBATさん、災難ですねと言いながらも、販売中はお忙しいからお話はできないですよ、と仰る。それもそうか。でもまあ誤解はいつか必ず解けるものと楽観的な考え方をしているので、特に慌ててはいない。 そのあたりから、今時の同人作家やネットの話など。 「(プロになれるくらい)才能のある人たちが、狭い世界に閉じこもってるのはどうしてなんですかねえ」 「そりゃ居心地がいいからですよ」 ZUBATさんはご自身もずっとコミケに参加していらっしゃるので、私の同人作家たちに対する批判的な言質に対しては自然と擁護する形になる。それはもちろん構わないのだが、私の判断に対して「そうではない」と否定するのではなくて、「その通りだけれども、それでいいじゃないですか」という言い方をされるのが何だかしっくり来ない。プロアマを問わず、表現をする者は自分の作品を読んでもらいたいと思うものではないのだろうか。 「仲間内の小さなコミュニティで読んでもらえればそれで充分じゃないですか。広く読まれて批判なんかされたくないですよ。だいたい自分の好きなマンガを貶されたってだけで怒り出す人間ばかりなんですから」 昔、『もののけ姫』についてある女の子と話をしていて、「アシタカって、呪いは完全に解けてないよね。結局死んじゃうんだな」と言ったら、彼女が「私のアシタカの悪口言わないで!」といきなり叫んだことを思い出した。 「でもそういう小さなコミュニティがネットで繋がっている今の状況はいいことだと思うんですよ」 でもお互いを拒絶してるのなら、実質的には繋がってないってことだ。それのどこに意味があるというのか、どうにも理解に苦しむ。けれどそこで「もっと広い世界を見るべきではないか」なんて他人の家のドアをこじ開けるようなモノイイもしたくはないので、私のほうもただ首を捻るばかりである。 「同人誌にしろネットにしろ、みんな自分の意見を言いたいだけですよ。人の意見なんて最初から聞く気ないんです。山本弘さんの掲示板見てれば分かるでしょ? 『煽りに反応するな』ってパソコン通信のころから言われてるのに、全然変わってないんですから」 それは私も本当に不思議でしかたがなかったのだ。煽りとハッキリ分かる意見に対してどうして過剰反応する人間しかあそこにはいないのか。コトバが瞬時にやりとりされる普通の会話と違って、書き込みをするのには当然時間がかかる。その間に熟慮するということがどうしてできないのだろうか。 「ネットはそういうものです。藤原さんは志が高過ぎるんですよ」 そんなにたいそうなことを私は語ってるつもりは全くない。自分の言いたいことを言ったり書いたりすれば、批判される可能性があるのは当たり前だし、それは覚悟しなきゃなんないことだ。それは私にとっては高邁な思想でもなんでもなく、ただのコモンセンスとしての「常識」にすぎない。 この「志が高い」という言葉にどうしても違和感を感じてしまうのは、それではまるでZUBATさんが「馬鹿に馬鹿と言ったって怒るのは当たり前でしょう」と聞こえてしまうからである。それって、全然身内の擁護になっていない。 『トリビアの泉』を引き合いに出して、ZUBATさんはこうも言う。「うちの会社の若い子もあれ見てますけどね、知識を得ようとかそんなこと考えてないですよ。司会者の掛け合いがおもしろいから見てるだけです」。 ますます「みんな馬鹿だけどそれでいいじゃないですか」と言ってるようにしか聞こえない。いや、馬鹿であることは全然いけないことではないのだ。人間はみんな馬鹿なんだから。でも、だからこそ人は自分の無知を恥じ、モノをもっと知りたいと思うものではないのだろうか。「学生のころもっと勉強しておけばよかった」と語るオトナは多い。上から押しつけられ詰めこまれた勉強は苦痛でしかないが、いったん解放された人の好奇心は、自然、快楽を求めるがごとく貪欲に知を漁り始める。実際、私の周りの人間はそういう人たちの方が圧倒的に多いのである。そしてそういう人たちと会話している方が、偏狭な世界に引きこもってる人たちと語り合うより、ずっと楽しいと思うのだが。 ZUBATさんは、ネット上で私が人や作品を批判すること自体、「言葉がキツイですよ。相手は怒るのは当然じゃないですか。なんでそんなことを全世界に発信するんですか」と仰るのだが、批判と悪口の区別がついている人なら、私の言質が全然キツクなんてないことはおわかりだろうし、普通、この程度のことで怒ったりはしないものである。 いや、仮に口汚い悪口だって、怒る必要は全くないのだ。繰り返すが、ネットに何かを書くという行為は、自分が批判に晒されることを覚悟するということでもある。私ももちろんその覚悟で書いているし、岡田斗司夫さんも唐沢俊一さんも日頃からそう公言されているし、掲示板が荒らされる覚悟で運営を続けている山本弘さんもそうだろう。と言うか、そんなのはプロアマ問わず、モノを書く上での基本的な心構えなんであって、高い志でもなんでもない。実際、私はどんな悪口書かれても全く腹が立たないが、別にそれは私の人格が高潔だからではない。それが「常識」だからである。「そうでない人もいる、というのも事実でしょう」、と言われるかもしれないが、事実だろうが何だろうが、常識的な判断を非常識な方に摺り寄せる必要は、普通はない。 正直な話、批判されて怒るというのはただの傲慢ではないか。まさしく「おれの意見を聞け!」と思ってるだけで、回りに迷惑かけてるだけである。 冷静になって考えてみれば、ネットで作品の批判してる人間だって腐るほどいるのだ。ZUBATさん自身も映画を見て「あれは面白いつまらない」ということを全世界に発信している。それこそ「ネットはそういうもの」なのである。批判を笑い飛ばせる余裕もないのなら、ネットにモノを書くことって、苦痛にしかならんと思う。
例えばこれ読んでもZUBATさんは怒ったりするのだろうか。「これは書いちゃ誤解を生じるなあ」という部分はしっかり省略している。それを読み取って頂ければ、この文が悪口でもなんでもなく(批判ですらない)、単なる疑問だということはご理解頂けると思うのだが。 も一つ付け加えとけば、私的な付き合いでウソとか追従を私ゃ言いたかないんですよ。そんなもんで小さな幸せ守ったって自分が淋しいだけですから。 もちろん、記憶に従って書いているから、事実の誤認、意味の取り違えがあればいくら訂正を入れていただいても構わないのだけれども。
マンガ、手塚治虫原作・姫川明漫画『ASTRO BOY 鉄腕アトム』1巻(小学館/てんとう虫コミックススペシャル・510円)。 なんと、“アニメ版”『アトム』のコミカライズである。手塚治虫のマンガ原作がちゃんとあるのに、どうして? と怒ってる手塚ファンもいるんじゃないかな。でも、前の二度目のアニメ化のときも手塚治虫自身がアニメの設定に合わせたリメイク版『アトム』を描いているのである。もしも手塚さんが生きてたら、きっとまた今度のアニメに合わせたリメイクをしたに違いないのだ。要は中身が面白いかどうかで判断すりゃあいいこった。 けど、アニメ版よりずっと色っぽいぞこのアトム。マツゲなげーし、おメメキラキラだし、全体的にクネッとしてるし。いやまあ私はウランのほうがやっぱりいいけれども。 ストーリーもアニメと基本設定は同じでも、いろいろ変えているところが多い。アトラス死なねえし(つか、ハカイダーになっちゃってたね)、電光、破壊されて電子頭脳だけになっちゃうし。それでアニメより面白くなってるかっていうと、たいして、としか答えられないんだけど。 でもこういう珍品にはやっぱり眼を通しておきたくなるものなんですよ、はい。
2001年08月25日(土) 夢は宇宙/『なつのロケット』(あさりよしとお)ほか 2000年08月25日(金) 唐沢本の感想書けなかったけど面白いぞ/『垂里冴子のお見合いと推理』(山口雅也)ほか
| 2003年08月24日(日) |
キッチュと言うか、トンデモなのかも/『爆龍戦隊アバレンジャー』第26話/DVD『キノの旅』2・3巻ほか |
『爆龍戦隊アバレンジャー』第26話「釣りバカアバレ日誌、どもども」。 いつもは『アバレンジャー』、『555』、『ナージャ』あたりの感想は書くの省略してるけど、今日のばかりは書かずばなるまい(^o^)。
舞と凌駕がテレビアニメ『釣りバカ日誌』を見ているところに、トリノイド「ツリバカツオリーブ」が現れたという知らせが。 トリノイドは街の人々を釣竿で釣り上げてはオリーブの実に変えていた。しかも『釣りバカ日誌』のハマちゃんの息子・鯉太郎も釣り上げられてしまったのだ! 凌駕たちは、テレビの中のハマちゃんから「鯉太郎を助け出して!」と頼まれる(声はもちろん山寺宏一)。爆竜チェンジしてトリノイドに立ち向かうアバレンジャーたちだったが、釣り上げた人々をオリーブに変えて詰め込んだ瓶を楯にしているので攻撃ができない。 その様子をテレビの中から見ていたハマちゃんは(わざわざテレビを現場まで持ってきているのである)ガマンできずにテレビの中から飛び出して、「おまえなんか、釣りバカの風上にも置けないっス! 釣りってのはこうやるんでぃっ!」と一本釣りでオリーブの瓶を釣り上げた。思わず「何でもアリだな!」と感嘆する4人。逃げるトリノイドをスーパーダイノボンバーで倒して(あとはいつもの展開なので省略)オリーブの実に変えられていた人々は元の姿に戻り、鯉太郎もパパとヒシと抱き合うのであった。そしてハマちゃんは、凌駕たちと釣りに行くことを約束して、再びテレビの中へ戻っていった。 幸人が「どうしてテレビから出てこられたんだ?」とつぶやくと、凌駕と舞ちゃんはニッコリ笑って「それはハマちゃんのダイノガッツが奇跡を起こしたからさ!」 それを聞いて「なーんだ、そうかあ!」とみんなも納得したのだった。するのか(^_^;)。
アニメと実写の合成を行った一番古い例が何だったかは忘れたけれど、真っ先に思いつくのは『錨(いかり)を上げて』のジーン・ケリー&トムとジェリーのダンス。ありゃあ楽しかった。 世界観が違うキャラを共演させるパターンってのは少なくないけど、小説でも映画でも、それやって成功した例って、実はそんなに多くない。『ルパン対ホームズ』だって、ホームズファンには腹立つ部分があるだろう。『マジンガーZ対デビルマン』は見たときなんじゃこりゃって思ったしなあ(この辺、例を挙げてくとキリがないので省略)。 ましてや「アニメ」と「実写」の共演となると、既に世界観どころか「表現」そのものが違うわけだから、リクツから言えばよっぽどヒドイ出来になってもおかしかないはずなのだ。ところが、これがおかしなもので、ここまで「違和感」があると、かえって面白くなっちゃう作品がやたら多いんだよねえ。『ロジャー・ラビット』のモノ凄さを思いだして頂きたい。『クールワールド』なんて珍品もあったね。 で、『アバレンジャー』と『釣りバカ日誌』である(『釣りバカ』のほうにも「アバレンジャー」が出演してたそうだが、こちらは私は未見。実写での登場ではなく声優として出演したとか)。もう世界観どころか、作品の質が違いすぎる。つまり八手三郎とやまさき十三の合作なわけだからなあ。これに匹敵できる合作と言えば、水島新司と里中満智子、吾妻ひでおと萩尾望都の合作くらいしかないのではないか(^o^)。まさに「何でもアリ」だね。普通、このコトバは、称賛、批判の双方に使えるが、この場合はただただ「驚嘆」だ。もう視聴者はテレビの前で大歓喜、大爆笑していたのではないか。 と言いつつ、私はと言えばニコリともせずにただ呆然としていただけだったのだが、ふと我に帰って思ったのは、「これ、『555』でやったら大激怒するファンしかいないだろうなあ」ということであった。考えてみたら、「戦隊シリーズ」はその濫觴たる『秘密戦隊ゴレンジャー』自体、何でもアリの色モノだった。ゴレンジャーで似たようなことをやっていたとしても、やはりファンは喝采を送ったことだろう。 『ゴジラ』の「シェー」に賛否両論があり、『ウルトラマン』の実相寺演出を嫌うファンもいることも考え合わせると、明らかにファンは同じ特撮作品、SF作品であっても、戦隊シリーズを「特殊なもの」として認識していることが分かる。 つまりさっきうっかり「世界観」と書いてしまったが、戦隊シリーズに「様式」や「設定」はあっても、実は「世界」はないのである。なんか今ごろこういうことに気付いたってのはお恥ずかしい限りなのだが、どんなにデタラメな物語が展開されていようと「ヒーローモノはみんなマットウ」という思いこみが私にはあって、それが私の眼にウロコを嵌め込んでいたのだな。浦沢義雄さんだって戦隊シリーズの脚本担当したことあるんだから、その時点で気付くべきだったよなあ。 もうこれからは「『○○レンジャー』とか『○○○マン』とか全部しょーもないダジャレじゃん、ヒーローの名前じゃないよ」なんて野暮なことは言いません。いや、色モノはダサダサであってこそカッコイイのだね。
よしひと嬢、「つまんないけど続けて見てるから」と言って、『仮面ライダー555』が始まると同時に起き出して来る。夕べは遅くまでお喋りに付き合わせてしまったので、すごく眠そうである。いや、申し訳ない。 私は『555』はもう、真剣に見ちゃったら役者のアニメ演技が鼻について仕方がなくなるので、薄目で見る(^_^;)。 『明日のナージャ』、フラメンコのシーンの作画がやたらブツ切れで枚数をかけていないのがアリアリで興醒め。このへんが『プリンセスチュチュ』と比較して見劣りしちゃうとこなんだよなあ。『金色のガッシュベル!!』が始まるころにしげとよしひと嬢は練習へ。 私は今日は一日、日記を書きながらゆっくり本とDVD三昧である。24時間テレビなんざ、見てられるか(^o^)。
アニメ『鉄腕アトム』第20話「永遠の少年」。 うーん、すごく面白くなるネタをあっさりまとめちゃったって印象だなあ。 「アトムが『ピーターパン』の人形劇を見て、大人にならないロボットである自分とピーターパンとを重ね合わせる」って展開から、「天馬博士に捨てられた自分」をチラッとでも思い出したりするのかなあと期待したんだけど、特にそっ地の方向には向かわなかったし。 メトロシティで、子供達が次々と行方不明になる事件が起きる。アトムは、いなくなったタマオたちを探すうちに、同じように友達を探している車椅子の少年、トミー(トリトン!)に出会う。子供達がみんな『ピーターパン』を観た後に行方不明になったことに気付いた二人は、子供たちは紙芝居の話と同じように、ネバーネバーランドに連れて行かれたのだと考える。そして二人は天空に浮かぶ巨大な帆船を発見するのだが、フック船長に扮したその船の持ち主は、慈善事業家として有名なダーリング氏であった……。 ダーリング氏はちょっとジュラルミン大公に似てるのだが髪形が違うから別人なんだろうな。アトムとトリトンの共演というのは嬉しいのだが、「大人になりたくない」ダーリング氏と、「大人になりたい」子供達を単純な二項対立で描いてるのはどうにも物足りない。ラストでの子供たちの「大人になりたい!」の大合唱が、大人になりたくてもなりきれない「半分大人、半分子供」を、ダメ人間呼ばわりしてるようにも聞こえてしまう。全オタクを敵に回すつもりか小中和哉(^_^;)。 実際、「大人になることが正しい」なんて言いきっちゃうと、アトム自体が置いてきぼりを食らっちゃうじゃないか。原作の『盗まれたアトム』では「アトムは子供のままでいい」とはっきり言い切ってるのに。 小中監督がアトムの悲しみを描きたいと思ってるんだったら、アトムはダーリング氏にもっと優しくしないといけないと思うがなあ。
DVD『キノの旅』2・3巻。 1巻は3話収録だったけど、2巻からは2話ずつ。てことは全6巻か。1巻4800円だから、結構ボッてる気がするが。でも2巻のカバー絵はすげえ「凶悪」である。アンタ、「女の子のキノ」が、赤いリボンの、頬染めにっこりぃの、胸に手を当てぇの、スカートふぅわりの、一本足の爪先立ちぃのですがな(〃∇〃)。これだけ見た人は『キノの旅』ってアニメが、「そんなアニメ」だと錯覚しちゃうんじゃなかろうか(^o^)。念のため言っときますが、これはすげぇシビアな「寓話集」です。 WOWOW放映時に見損ねていた『大人の国』、作画がちょっと弱かったのが残念。前田愛の「少女声」が聞けるせっかくの回だったんだけど。 「本物のキノ」の声は井上和彦。もう私みたいにトシヨリは、ベテランさんがゲストで出てるだけで安心しちゃいますね。 で、ふと気になってエルメスの声の相ヶ瀬龍史って誰だろうと調べてみると、『天才テレビくん』に出てた子役だったんだね。てっきり大人が声を作ってるのかと思ってたけど、まだ16歳なんである。19歳の前田愛とのコンビネーションを考えて、若い子を使ったのかな。 二人のレギュラーの「新人声優」をゲストのベテランが鍛えていくって形になっているわけだ。作品の出来だけでなく、そういう「新人育成」にまで心配りをしているところもいい作り方だと思う。
DVD『羊のうた』第二章。 アニメになるとどうしても冬目景の淡い柔かな描線は濃く固くなってしまうのが残念。しかしやっぱり第一章同様、バンクが多すぎるのが鬱陶しいなあ。演出効果あまりないと思うんだが。
CSアニマックスで8時から『ルパン三世 トワイライト☆ジェミニの秘密』。 もともとのアニメ『ルパン三世』の企画立ち上げ者である杉井ギサブロー監督によるアニメスペシャル。今日は杉井フェアだなあ。 これ、ルパンがあだち充顔なってしまってるので、ファンの間ではあまり評判はよろしくないようである。確かに作画が甘いのが気になる出来だけど、スペシャルの中では比較的出来はいい方だと思うけどな。ヒロインが立ってるほうだと思うし。白いジャケットでノーネクタイのルパンっての、原作のカバーでも出てきたことあるからそれがちょっと嬉しかったりもするんである。
ほかにもいろいろ本読んだりしたけど、書いてたらいつまで経っても終わらないので省略。全く、書きたいことが多い日ほど、書く時間がなくなっちゃうというのはツライものである(´。`;)。
2001年08月24日(金) 祝! 退院!/映画『RED SHADOW 赤影』 2000年08月24日(木) たまには一人で映画を見る日もあるさ/映画『怪異談・生きてゐる小平次』ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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