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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年10月15日(土) 温泉だ♪温泉だ♪/『ウルトラマンマックス』第16話/『野ブタ。をプロデュース』produce1

 『みのもんたのサタデーずばッと』に森喜朗前首相が出演、今後の政局について語ってたんだけど、例の小泉チルドレンの杉村大蔵議員のことに触れて「自民党結党50周年の年にね、50年心血注いで一緒にやってきた議員さんたちとね、ああいうのが一緒にされちゃうってのはどうかとね」とかなんとか言っている。50年やろうが1年生だろうが、杉村さんと当の「失言首相」森さんとの間に人間的な格差があまりあるようには感じられないのは私だけだろうか。
 みのもんたの「まさか35番目で当選するとは思ってなかったんでしょ?」という質問に「そりゃそうですよ」と即答するんだから全く真っ正直な人である。
 「一般から候補を公募するってことはいいことだと思うんですよ。けどね、私も経験あるけどね、レポートだけ見て面接もしないで採用したらしいんですよ。解散選挙ってなって、とてもそんな暇なかったんだから」
 えーっと、それって自ら「いい加減な選び方してた」ってこと告白してるだけで、何の言い訳にもなってないんですけど。馬鹿が馬鹿を候補に選んてだという、実に平仄が合ってる話で、杉村議員に対して「こんなのを議員にしちゃっていいのか」とか言ってる連中は、自分もかつて(そして今でも)そう言われたことをすっかり忘れてしまっているのだろう。
 小泉さんがまだその手の失言をしてないのは、なんだかんだ言っても、あの人が一番、大衆意識を読むのに長けてるって人なんだろうね。いいことなのか悪いことなのかは知らんけどさ。


 『ウルトラマンマックス』第16話「わたしはだあれ?」(宇宙化猫タマ・ミケ・クロ登場)。
 先週に引き続き、NAKA雅MURA脚本・三池崇史監督作品。
 これがまた、ギャグ編と見せかけながら、最後はきちんとヒーローもののツボを抑えた演出で、さわやかな感動を残してくれる傑作になっていたのでオドロキ。
 タイトルが前作同様、『ウルトラセブン』から取られていて、「あなたはだあれ?」(フック星人登場)のモジリになっているから、やはり旧作へのオマージュとしての思いが託されているのだろう。『セブン』は小林昭二が「見知らぬ人」になって「あなたはだあれ?」と言われてしまう話だったが、今回は登場人物が全員「わたしはだあれ? ここはどこ?」となってしまう話(笑)。

 宇宙から飛来した三個の隕石。その直後から、人々の記憶力が激しく低下するようになった。団地の主婦は、今、自分が何をしようとしていたのかを忘れ、キャスターは原稿の漢字が読めなくなり、犬は「お手」も「待て」も分からなくなり、九官鳥は言葉を忘れた。
 加速度的に記憶喪失が蔓延する中、三体の怪獣が出現する。宇宙化け猫のタマ・ミケ・クロであった。一連の事件は怪獣が有機生命の記憶を乱す波動を撒き散らしているためであった。
 DASHは戦闘機ダッシュバードで出動しようとしたが、途端に操縦の仕方を忘れてしまう。コバはミサイルを乱発して基地を破壊し、隊長もスイッチを押し間違えて戦闘機でくるくる回っている。トミオカ長官とヨシナガ教授もなぜか出撃して、くるくる回って笑っている。アンドロイドのエリー以外は、みんな役立たずだ。
 あろうことかカイトまで変身の仕方を忘れて、ウルトラマンマックスに変身できない……。

 前回、東京を破壊しつくしたのに対して、今回は一種の精神攻撃。
 みんなが次々に記憶をなくしていく冒頭は、殆ど特撮を使わず、破壊がないにもかかわらず、短いカットをテンポよく繋いで侵略のイメージを明確に伝える描写力は実に見事。
 一斉にみんなが記憶を無くしてしまうなんてアイデアはよくあるじゃないかとかいう批判もあるかもしれないけれど、要は「見せ方」なんでね。九官鳥だけがなんで人形なんだと思っていたら、これがちゃんとオチに効いてくるのも上手かった(笑)。
 三体の化け猫怪獣の名前がタマ・ミケ・クロというのも人を食っていて楽しい。毎回、怪獣のネーミングはDASHがやってるんだろうが、多分、記憶力が減退していたので、いい加減な感覚で付けたのだろう(笑)。

 役者さんたちのボケ演技はもう抱腹絶倒ものである。完全に記憶が消失してしまうのではなくて、中途半端に消えるので「何かをしようとしてそれが喉まで出かかってるんだけれども思い出せないもどかしさ」が笑いを誘う。
 たとえば、カイトがマックスパークをどこに装着しようか迷って(それでマックスに変身しなきゃならないということは覚えているのである)、頭に付けたり、胸に付けたり、足の裏にまでくっつけようとしたりするのだ。いくらなんでもそりゃありえねーって(笑)。
 ようやく「偶然」変身できたあとも、どうやってマクシウムカノンを発すればいいか分からず、変なポーズばかり取りまくる。「命!」をやってみせたのには、「お前は『命』のポーズだけは忘れんのか!」と、画面に向かって突っ込みたくなった(笑)。
 しかもこの「中途半端さ」が実は後半の伏線になっていたのだから脚本の上手さをこれは賞賛しなければならないだろう。
 旧ウルトラファンには、トミオカ長官が「カレーライスを食ってる最中に呼び出される」ギャグに思わずニヤリとすると思う。
 これも若い人には説明が必要になるのだが、『ウルトラマン』第34話「空の贈り物」(スカイドン登場)で、ハヤタがやっぱりカレー食ってる最中に出動して、ベータカプセルと間違えてスプーンを挙げてしまうというギャグがあるのだ。
 今回、黒部進さんはスプーンと間違えてカレー皿の方を挙げてしまう(笑)。当時、こういう「ギャグ編」を撮ったことについて、監督を担当した実相寺昭雄氏は、脚本家の金城哲夫氏から文句を言われたそうだが、『ウルトラQ』のころからたまにある実相寺監督や中川晴之助監督のこういうギャグ編を、視聴者の子供たちは楽しみにしていたのである。
 つまり今回は「こんなウルトラもあっていいじゃない」っていう三池監督のメッセージでもあったわけだね。シリーズものってのは回を重ねるたびにどうしても動脈硬化を起こしてしまうものだから、こういうぶっ飛んだ異色エピソードがあった方がよいのである。

 みんながイカレていく中、何とかマトモだったのはミズキで、完全にボケと化したヒジカタ隊長に突っ込みを入れるのだが、だからと言って役に立つわけではない。
 唯一便りになるのが、アンドロイドのエリー。ミケたちの波動は、当然キカイであるエリーには効果がない。エリーは何とか事態を好転させようと孤軍奮闘を強いられるのだが、逆にそのおかげで今話は、彼女が最も魅力的に描かれたエピソードになった。
 感情のないキャラクターに少しずつ感情が芽生えていく様子を描くのは定番であるが、これまでのエピソードではそれを効果的に描いていたとは言えなかった。
 それが今回は、表情こそは鉄面皮の無表情なままだが、隊員たちのテイタラクに「もう戻ってこないでください」と諦観し、「ええかげんにせいや」と激怒し(誰が関西弁をインプットしたんやねん。「こんなこともあろうかと」、自分でデータ収集してたんかな)、マックスに「守りたい仲間のことだけを思い出して」と、一番大切な「心」を訴える。
 これだけの「感情」を積み重ねているから、最後の「涙」と、「笑顔」が生きるのだ(この笑顔をさりげなくしか見せないのもイイよねえ)。何だか今回で一気に満島ひかりのファンになっちゃったぞ(笑)。
 もっともオタクにはM男君も多いから、「クール・ビューティーにヒドいこと言われたい」という歪んだファンを狙った演出なのかもしれない(笑)。いや、よしながふみの『フラワー・オブ・ハウス』にもそんなキャラが出てきてたもので。

 「中途半端な記憶喪失」という設定であるからこそ、マックスが「仲間を守る心」を思い出しても決して不自然ではない。ご都合主義にだって、その「都合」を納得させられるだけの基本設定は必要なのだ。
 マックスが「新必殺技」を編み出したのも、ほかの技を思い出せずにやってのけた、やけのやんぱちの「火事場の馬鹿力」のようなものだし、一回こっきりで忘れちゃうというのも平仄が合っている。何よりその清々しさ、潔さがヒーローらしくていい。
 最近の辛気臭いアニメや特撮ドラマにありがちな本当の正義はどっちにあるかとかいう余計なゴタクは必要ねえ、そんなものを考えるのは大人になってからでいいじゃないか、今、子供たちが考えなきゃならないことは、「仲間のために勇気を奮い起こす」その一つだけでいい。まるで、三池監督はそう言っているようである。しかもそれは決して子供に媚びた童心主義の産物ではないのだ。
 三池監督作品がこの二作で終わるのは惜しい。ぜひとも後半シリーズでの再登板を期待したい。つーかほかの脚本家に監督、予算がねーのかもしれないけど、それでもこれくらいのものは作れよな。


 日本映画専門チャンネルで録画しておいた映画『ピーマン80』を見る。
 『8時だョ!全員集合』のプロデューサー、故・居作昌果の監督作で、劇場版『エースをねらえ!』の併映(つか添え物)作品だったんだけど、当時はなぜだか長編アニメに実写作品を組み合わせる形式が多かった。興行側がアニメだけじゃ売れないと見てたんだろうねえ。でも、集客力のない実写作品を付けたって、かえって足を引っ張ることにしかならないというのは、たとえば『ルパン三世カリオストロの城』に『Mr.BOO!インベーダー作戦』を付けるなんてデタラメな例のほか、枚挙に暇がない。
 実際、ずうとるびの新井くんと谷隼人の怪盗モノというコンセプトは名ばかりで、ともかくドリフレベルのしょーもないギャグがだらだらと流れるばかりで、劇場でこれを見せられたら拷問でしかない。こんな珍品はその「つまらなさ」をかえって楽しむという被虐的な精神が必要になるであろう(笑)。まあなんだね、バラエティのギャグをそのまま映画に乗せてもつまんないということがわかってないんだね。一応、新井くんも頑張ってはいるのだけれど、手にパンを持って銃のように構えて「パンパンパン!」とか、ピンクレディーに「借金返して!」と迫られて、逃げるついでにブラジャーを掏ってくるとか、美女に見とれてプールに落ちるとか、ビア樽のフタを取ったら勢いよく噴出してビアホールがビールまみれになるとか、「吉野家の牛丼はいつまでも八十年なの?」とか、ここまでつまんないギャグを百連発くらいした例は、後は『金田一耕介の冒険』くらいしか私は知らない(笑)。もちろん私はこういうのが大好きである。
 多彩なチョイ役ゲストは監督の人脈だろうけれど、『クイズダービー』関連の人が多かったのはちょっとした発見。竹下景子、はらたいら、篠沢教授、楳図かずおといった解答者は当然のことながら、脚本家で声優の故・井上瑤さんが顔出し出演していたのにはビックリ。昔見た時にはちっとも気がつかなかった。超珍品でビデオ化も全くされてないしテレビ放送も殆どなかったから、これを見逃したら二度と見られないだろう。まあ、普通の映画ファンはこんなの見なくてもいいもんなんだけど。
 しげは途中まで見て飽きてしまいました(笑)。


 そうこうしているうちに時間が迫ってきたので、父を店まで迎えに行く。
 父は仕事を早上がり、六時ちょっと過ぎに二日市に向かう。いつもは三十分ちょっとで着く距離なのだけれど、渋滞に引っかかって、目的地の「大観荘」までたどり着くのに、結局まる一時間かかった。特に大野城あたりでやたら信号に引っかかってしまうのには往生した。しげが「一時間半かかるよ」と嘆いていたのも案外、間違いではなかったようだ。
 でもほぼ一本道をナビされなきゃ辿りつく自信がないというのはやっぱりよくわからない。
 仲居さんに部屋まで案内されて食事は七時半だと告げられる。父は「酒飲んだらあとは眠くなるから」と、先に展望風呂に入りに行く。私としげは浴衣に着替える。
 記念に写真など撮るが、最近めつきり太ったしげが浴衣を着ると、まるっきり相撲取りである。
 料理がじきに運ばれてきたので、父を呼びに行こうとしたら、烏の行水で上がってきた。全くせっかちなことである。
 料理はそれほど高くない宿泊料のわりにはなかなか豪勢。

 先付  酒煎り松茸・菊菜・水菜・菊花和え
 椀   清汁仕立・甘海老巻・松葉独活・青梗菜・柚子
 作り  刺身盛り合わせ・土佐醤油
 八寸  青唐ちりめん山椒和え・尾倉紅葉和え・鮭生寿司・酒盗玉子・銀杏松葉刺し・公孫樹丸十
 煮物  紅葉鯛吉野煮・大根・人参・キャベツ・煮豆
 蒸し物 栗蒸しおこわ・しめじ・紅葉麩・三つ葉・銀餡
 洋皿  牛モモの蒸し焼・山芋・秋豆・人参・くるみ・大根卸しのソース
 揚げ物 帆立と舞茸俵揚げ・稲穂・アスパラ・味噌だれ
 酢の物 蟹・穴子金紙巻・蕪あちゃら漬・黄味噌
 お食事 白御飯・香の物
 デザート フルーツとケーキ盛り合わせ

 「八寸」というのが何だかよく分からなかったのだが、「本来は容器の名で、八寸(約24cm)四方の器のことで、懐石料理で2〜3品の料理を盛った酒の肴を指す」だそうである。
 料理に舌鼓を打ったあと展望風呂へ。と言っても外が見えるわけではなくて、風呂の窓の向こうに山水が設えてあるのである。何と私以外にはお客さんが誰もいない。もう8時を過ぎていて時間が遅かったせいがあるのかもしれないが、温泉宿に客がいないというのはちょっと信じられない風景である。ゆったりできたのはいいのだが、お湯がいくら出しても出てこない。体を洗うのはあきらめて浸かるだけにする。


 部屋に戻ると寝床が敷かれていて、父はもう高いびきだった。
 テレビで『野ブタ。をプロデュース』produce1を見る。
白岩玄原作の文藝賞受賞作の連続ドラマ化ということだけれど、小説の方は未読。作者がかなり若いこともあって、あまり誉められてはいないようだが、タイトルの付け方はなかなかのもんじゃなかろうか。
 ストーリーは、クラスの苛められっ子の転校生を見かねた男子二人が、何とか彼女を「プロデュース」することで勇気を持たせようってお話。と言っても、原作ではプロデュース対象の「野ブタ」の性別が男の子で、渾名どおりデブなのを、ドラマでは女の子に変更している。
 原作を読んでないのに言い切っちゃうのも何なんだが、この変更はドラマとしては正解ではないだろうか。ミもフタもない言い方であるが、ビジュアルとしてデブな男の子より、ちょっと暗めだけれども実は美少女をプロデュースする方が、視聴者も一緒になって応援のしがいがあるってものである。
 でも、正直、そんなに期待してなかった、というよりはアイドルを表に立てただけのキレイゴトなお話ではないかと思ってたんだが、必ずしもそう断定もできない雰囲気である。ギャグとシリアスのバランスがよくって、かなり「手応え」がいいのだ。ジェイコブズの「猿の手」(もちろん本物ではない)をモチーフに使っているアイデアも悪くない。
 主役の亀梨和也くんと山下智久くんはとりあえずソツなくやってる感じだけれども、意外にもすごくよかったのが信太ならぬ信子を演じた堀北真希ちゃんだった。
 『銭形舞』や『逆境ナイン』を見ていた時には、ちょっとこの子はアイドルとしても役者としても伸びていくのは苦しいかなと感じていたのだけれども、いじめられっ子たちに追いかけられ、追いつめられ、水をかけられ、突き飛ばされ、それでも助けも求められず、反抗もできず、ひたすら暗く、落ち込み、自虐の言葉を吐き続ける。
 しかし、その心が安穏なはずもなく、「猿の手」を手に入れれば、呪いの言葉を唱えることになる。いじめっ子の首謀格の女の子の死を願うのだ。彼女の目はいつも垂らした前髪に見え隠れしていて表情がよく分からない。その「暗さ」が苛められの原因にもなっている。しかしその陰の向こうの目は、恐らく、憎しみの光で妖しく輝いているのだろう。そううかがわせるほどに、彼女の呪いの声は恐ろしいのだ。
 しかし、彼女を支えようとする男の子二人の励ましに、やがて彼女は呪いを取り消してくれと「猿の手」に願うことになる。その時のうって変わった穏やかで優しい、慈愛の声。ああ、こんな振幅の激しい演技のできる子だったんだなあ、と思わず彼女に見入ってしまった。
 この「プロデュース」が成功するかどうかは分からない。ラストの「人間の悪意との戦い」を示唆するナレーションを聞くと、「まさかバッドエンドなの?」と気に掛かりはする。けれど、最近の新番組ドラマの中でも、第一回だけの比較だとこれに一番惹かれるものを感じるのだ。ともかくイチオシ。来週も真希ちゃんがあまり苛められないことを祈りながらチャンネルを合わせることになるだろう。
 あああ、録画仕掛けて来りゃよかった。


 たらふく食って眠気が来たのか、私もじきに寝る。
 ことにしたかったのだが、父としげのダブルイビキに挟まれて、なかなか寝付けなかったのであった。明日は早起きして九州国立博物館に行かねばならないというのに。

2002年10月15日(火) トンデモ傷つきブリッコの世界/ドラマ『鬼畜』/『辣韮の皮』2巻(阿部川キネコ)/『ななか6/17』8巻(八神健)
2001年10月15日(月) カチカチ山の……/ドラマ『着ながし奉行』
2000年10月15日(日) ステーキとモーレツとSFミステリと/『海底密室』(三雲岳斗)ほか


2005年10月14日(金) さよならカトウ君/NHKドラマ『慶次郎縁側日記2』第2回「正直者」

 さて、その後のカトウ君であるが、しげが「ブログ消してるけど、どうするの?」とメールを送ったにもかかわらず返事がない。こちらから連絡を入れても反応がないので、しようがなく、しげは其ノ他君経由で連絡を取ってもらうようにしたそうなのだが、やっぱり音沙汰はないようである。
 だもんで、劇団ホームページからもカトウ君のページは削除されてしまったし、よしひとさんもリンクを外してしまった。私ももうここまで来たらしょうがないかなと思ってリンクを削除した。これ以上、こちらがカトウ君のことを気にしているようなそぶりを見せると、彼はまたぞろ我田引水的妄想フィールドを展開して、「そんなに俺が必要か」なんてつけあがりかねないので、このへんでアプローチをするのもやめた方がよかろうと判断したのである。自分で決断できないやつを気にかけてやったところで、こちらの体力と気力が無駄に消費されるだけだ。
 劇団を辞めるなら辞めるで、もともとうちは「出入り自由」なのでそう言えばよいだけのことだ。こちらも別に引きとめるつもりはないのだが、多分「引き止められない」ことが本人にも分かっていて、そのことを自覚するのが辛いので、「なし崩し的にいなくなってしまおう」という姑息な手段に出たのだろう。「自分の意志で切る」ことができないので「切られた」とこちらに責任転嫁したいのである。マンガキャラみたいにヒレツだが、まあ、人生の参考にしてるのがマンガとアニメと特撮しかないやつだからしょうがないのかもしれない。
 何だかここまで情けないと、怒るよりも先に哀れになってくる。誰かに似てるよなあ、カトウ君って、と思ったら、『ちびまる子ちゃん』の「藤木君」にそっくりなんだと気がついた。自分の卑怯さに落ち込んですぐに永沢君に愚痴るのだが、それも無意識に同情を買うためのポーズだったりする。そういうところを永沢君に見透かされているのだが、周囲に「僕のことを構ってよ」オーラを発しているところまでそっくりである。
 まあ、藤木君タイプの人間には永沢君タイプの人間がトモダチとしてはちょうどよかろうから、そういうトモダチを探していただければよかろうかと思う。ただ、男ならばともかくも、世の中に永沢君タイプの女の子がいるかどうかは定かではないが。


 昨日、寝が足りなかったせいで、終日、軽い頭痛。
 朝方も少し寝過ごした。目は覚めていたけれども、体が動かせなかったのである。どうにか遅刻せずに出勤しはしたものの、今ひとつ調子が乗らない。
少しばかり頑張って一仕事片付けて、早引けする。迎えに来てくれるようにしげに連絡をつけたが、「早く帰れるの? わーい♪」なんて言って喜んでやがる。
 早く帰れるんじゃなくて、疲れて早く帰るの。そんでもってそりゃお前の夜泣きのせいなんだって。情緒不安定なヤツとくらしてるとこれだからなあ。


 NHKドラマ『慶次郎縁側日記2』第2回「正直者」。
 話はいきなり前回の一年後。皐月(安達祐実)はもう立派な森口家のご新造さんである(関係ないが、「新造」くらいちゃんと漢字変換してくれよ。「しんぞう」じゃないんだよ「しんぞ」だよ)。ところが夫の晃之助(比留間由哲)は、付け届けの類を一切受け取らず、正直、森口家の賄い方はかなり苦しい。皐月は慶次郎(高橋英樹)に何か仔細があるのではないかと相談する。
 当の晃之助は、賭場の使いっ走りでかっぱらいを繰り返す若者の直太(浅利陽介)を、まっとうな道に戻そうと説得していた。以前の直太はアサリの剥き身売りで、釣り銭を誤魔化さない正直者と評判だったのだ。なぜ直太は悪の道に転落したのか、そのきっかけは実は慶次郎にあった。
 今回も前回に引き続き、「仏の慶次郎」の「仏心」がかえって仇なす物語。と言っても、そもそも「馬鹿正直」な直太が、勝手に慶次郎のことを頼みに思って裏切られたと思い込んだだけの話だから、慶次郎に責任なんてありゃしないのだが、慶次郎だって「正直者」だからそこで悩んでしまう。全く、正直者だらけの世の中というものは始末に悪い。実際、だいたいにおいて「誰かのため」に何かをすることは殆ど裏目に出るものだ。それが分かっているのにあえて「正直者」であろうとするのは、失敗しても「正直だったんだからいいじゃない」って言い訳ができるから、その中に逃げ込んでいるだけではなかろうか。
 慶次郎は自分もまた「正直者」であることで悦に入っている。だからいつでも「偉そう」である。けれどもそんなものが「仮面」に過ぎないことは簡単に暴かれる。人を傷つけておいて、そのことに鈍感なのが正直者の正体なのだ。慶次郎は自分自身の「偽善」に悩むのだが、こういうときに「救いの手」が差し伸べられるのもまた「現実」というヤツで、全く、世の中は一筋縄ではいかない。
飯炊きの佐七(石橋蓮司)が「正直でいいじゃないですか。言葉にしたってことは、その時はそんな気持ちがあったってことなんだから」みたいなことを言うのがまさにその「救いの手」で、これでまた慶次郎は心が癒されて、またまた元の「正直者」に逆戻り、「正直の頭に神宿る」なんて言い出してしまう。もちろん、佐七は正直者でもなんでもなくて、本人の言どおり、「その時にはそんな気持ちで言った」に過ぎないので、そのあと、正直者の魚屋に駄賃をやった慶次郎に向かっては「賄いも苦しいのに」とたしなめることになるのである(笑)。
 正直者も悪党も、人間である限りはやはりどっちも厄介な存在でしかない。どちらが信用できるかとか言い出せばどっちも信用できないとしか言いようがない。いい加減で無責任かもしれないが、結果がどう転ぶかは誰にも分からないものだ。正直に行動するかあえて悪党になるか、その場限りの勘で動くしかないのだから、どっちが正しいのかなんて問われても答えようがない。
 このドラマの気持ち良さは、そんな善人・悪人も等価で「人間」として扱っている点だ。「深刻」という評判もあるようだが、深刻なのが現実ならばそれが「普通」ということである。それでもまあ人は生きていくのだ。前回、慶次郎に迫られグダグダになってしまった常蔵(若松武史)は、巡礼のたびに出た後もグダグダであった。何だかまた中島らもの歌を思い出してしまったが、どんなやつだって人間なんだから「いいんだぜ」なのである。

2002年10月14日(月) 若本規夫賛江/映画『サイン』/『エドワード・ゴーリーの世界』(濱中利信編・柴田元幸・江國香織)
2001年10月14日(日) 新番紹介、大トリ!/アニメ『サイボーグ009』第1話「誕生」
2000年10月14日(土) 「野草」刈りと漂泊者と生ベルばらと/『あこがれの遠い土地』(トーベ・ヤンソン)ほか


2005年10月13日(木) 確執なのかなんなのか/ドラマ『熟年離婚』第一話

 朝方メールでグータロウ君とやり取り。
 またまた『神様ゲーム』についての激論だが、どうしてグータロウ君が自説に拘るのかと訝んでいたら、逆に彼から「どうしてそんなに自説に拘るんだよ」と言われてしまった。全く「どっちが」という話である。
 グータロウ君は「どう見ても鈴木君は神様だろう」と主張するのだが、昨日も書いた通り、「鈴木君を神様だと信じてしまった芳雄君の一人称で書かれた物語」なのだから、鈴気君が神様のように見えるのは当たり前なのである。どこぞの宗教の信者が「教祖様は御釈迦様の生まれ変わりでございます」と書いてるようなもので、これを真に受けるというのは常識的な判断力を失ってると言われても仕方があるまい。
 じゃあ、「鈴木君は神様ではない」と断じるのが正しい常識的な読み方かと言われると、もちろんそちらの方がより妥当性はあるのだが、それもまた決して合理的な見方ではない。何しろラストで芳雄君は完全に冷静な判断力を失っているのである。そんな状態ではあの出来事が現実かどうかも断定はできないだろう。だからあれをどう解釈するかについては「わからない」としか言いようがないのだ。
京極さんではないが、UFOやら幽霊やら、それらの殆どは錯覚だったり妄想だったり、合理的に説明できるものばかりだが、だからと言って「そんなものは『絶対に』いない」と完全否定できるものでもない。それを「見た」と人が信じる以上、それが外的なものか内的なものかは分からないが「何かがあった」ことは事実なのである。
 自然科学的な判断と、合理主義的なものの見方とは、必ずしも一致するとは限らない。「神様なんているわけないじゃないか」と言い切ることは簡単だが、「人間」が「心」を持った存在である以上、その心の隙間に「カミサマ」が入り込んでくることを完全に止めることは不可能だ。この世はありとあらゆる「悲惨」で成り立っている。不幸が、災厄が、裏切りと迫害が、孤独が、運命が、人を苛むとき、どんなに理性的な人間であろうと心に揺らぎを覚えない人間はいないだろう。近しい人が亡くなろうとする時、信仰を持たぬ人でも神に祈りはしないだろうか? それくらい、人の心は弱くて優しい。
 『神様ゲーム』は、そんな「揺らぎ」を初めて覚えた少年の物語である。グータロウ君だって、かつて芳雄君と同じような孤独と悲しみを経験したことはあるはずだ。にもかかわらず、芳雄君の心に思いを馳せるまでには至らなかったというのは、「鈴木君は神様である」という芳雄君の判断をそのままに鵜呑みにして、一歩引いて彼がどのような心理の過程を辿ったかを見損なってしまったからだろう。ミステリファンが陥りやすい落とし穴であるが、謎の「解釈」に拘るあまり、その背景にある人間の心理にまでは思い至らないのである。端的に言ってしまえば、傲慢が心を支配してしまっているために思いやりの心をなくしてしまっているのだと言っていい。
 「ミステリとしてどうか」なんて疑問もグータロウ君は呈していたのだが、これについては江戸川乱歩の『陰獣』が「結末が曖昧」と批判されたことに対して、中島河太郎が「論理的な結末は一旦付けられている」と反論したことを想起してもらえれば、決して『神様ゲーム』もアンフェアだと非難することはできないだろう。事件の解明は一度、合理的になされている。あの衝撃の結末は、芳雄君が自己喪失してしまったあとの出来事なのだ。にもかかわらず、その結末を基準に、過去の事件の解釈まで曲げようというのは、我田引水に過ぎる。
 もちろん、芳雄君の悲しみを理解した上で、「あの出来事の意味は、本当はどういうことだったのだろう」と想像することは読者の自由である。しかしそこに「真実」や「絶対」はない。鈴木君を神様だと見る場合でもその逆でも、それなりの解釈は成り立つし、またどちらの解釈にも否定的な事実が付随して謎を更に深めることになる。グータロウ君はネット上の「解釈」をいろいろあさったようだが、そんなものは全て推理マニアの自己陶酔の粋を出るものではない。いくら読んだところで、何の意味もないのである。まだしげのように、「よく分からなかった」で考えるのをやめてしまった方がマシというものだ。
 『エヴァ』騒動の時には私もさんざんホモオタさんから「解釈」を執拗に語られたものだったが、最近のグータロウ君はそのイメージに重なってしまうのである。「語られていないもの」については「真実は読者の数」だけあるということなのだから、「解釈」に「遊ぶ」ならばともかくも、「それはおかしい」とか言い出して自説に固執するのは困った「信者」でしかない。私は、どうせならグータロウ君には「いや、鈴木君は実はハウルで(性格悪いしいろんな姿を取れるそうだし)、ラストのアレはカルシファーの仕業なんだよ」くらいのことを言ってくれることを期待していたのだが(これでも辻褄は合うぞ)、そんな心の余裕も彼はなくしてしまっている。本当にいったいどうしちゃったのだろうか。未だに『響鬼』30話ショックが尾を引いているのだろうか。
 再度、繰り返すが、「鈴木君が神様だったのかどうか」という点に固執していては、あの小説の本質を見失う。芳雄君は過去の私たちである。私たちが大人の現実を垣間見、ある時はそこで反抗し、ある時は傷つき、ある時は勇気を奮い起こし、ある時は逃げ出したように、芳雄君は「冒険」を繰り広げた。そこに『神様ゲーム』がジュブナイルとして書かれる意義があったとも言えよう。今まさに「傷ついている」子供たちにとっては、芳雄君は自らの分身として映るはずだ。彼の末路に共感を覚えるか反発を覚えるか、その反応は極端だろうが、それはまさしく芳雄君が読者の鏡として機能しているからである。
 私は別に、『神様ゲーム』を世の親たちに対して「ぜひ子供に読ませろ」なんて言うつもりはない。前にも書いた通り、子供は読みたいものは勝手に読む。その理屈が分かっているはずのグータロウ君が、あえて「子供に読ませたくない」というのはあまりにも傲慢だし、「読書」は何のため誰のためにあるものなのか、その意味自体を見失っている。読書は読む当人のためだけにあるものだし、その意味も当人にしか考えられないことなのだ。
 親として、毒のある物語を読ませたくないと感じる気持ちは分からないでもないのだが、それを言い出したら毒だらけのSFやミステリーはみんな読ませちゃいかんだろう。じゃあ彼は何を子供に読ませたいのだろうか。それって子供を純粋培養するために「ディズニー映画だけを子供に見せていたい」と言ってるのと同じだってことに気が付かないのだろうか。せいぜい「うちの子にはまだ早いな」って言うんならまだ理解できるのだが、「必要ない」と言うに至っては、もう彼自身が「カミサマ」になっちゃってるにようにしか見えないのである。
 グータロウ君がなんでまたそんな思考停止状態に陥ったのか、定かではないのだが、やっぱりネットを漁ったのがよくないんじゃないかな。言葉だけが浮遊しているネットってのは、情報伝達の方法としては非常に単純化されてるために、受け取る側はその送り手の他の要素を鑑みて客観的に判断することができにくい。そこに自然と「洗脳」効果が生まれてるんだよね。
 だからまあ、ネットなんてのは顔見知りのブログ見るくらいに留めといた方が無難なんじゃないか。とか何とか言ってたら、話が横に逸れてきたんでこのへんでやめとこう。


 仕事帰りの私を駅まで迎えに来たしげが、とんでもないことを言い出した。
 「あさっての二日市温泉行きだけどさあ、調べてみたけどここからだと車で一時間半かかるみたいよ?」
 「何言ってんだよ、三十分かそこらで着くよ」
 「あんた、うちから行けるところはみんな三十分だと思ってない?」
 そんな馬鹿なことがあるわけないのだが、大野城まで二十分弱、大宰府まで三十分くらい、二日市はもう目と鼻の先だ。多少渋滞に引っかかったとしても、一時間はかかるまいというのが目算なのだが、出かけるのが夜だし、初めての道なので自信がないと言う。
 それなら午後六時の出発予定を少し繰り上げる必要があるかと思い、父に電話してみる。
 「しげが『二日市まで一時間かかる』って言いようっちゃけど」
 「そげな馬鹿なことがあるか。三十分」
 確かにそれが常識的な判断なのではあるが、常識が通用しないのがしげであるから、油断はならないのである。
 狙っていたわけではないが、相談も兼ねて、食事に誘われる。
 「空港の国際線に行く道の途中に、焼肉屋ができとろうが、そこへ行かんや」。
しげに「どうする?」と、“一応”聞いてみたが、「どう…」の段階で既にしげの目は爛々と光っていたのであった。

 父を店まで出迎えて、件の焼肉屋に向かう。
 車の中で、父が「あさっての温泉行きのことは姉ちゃんにはまだ言うとらんったい」と言うので驚く。
 「なんで?」
 「言いたくないと」
 そう簡単に言われてはミもフタもないが、頑固というよりは駄々っ子という感じだ。年を取ってきて、もういくらワガママを言っても構わない気分になっているような感じだ。
 「お前には言うとらんばってん、姉ちゃんとの間ではいろいろあっとうと。お前が聞いたら絶対怒るけん、言わんけどな」
 「なら聞かんよ」
 父は私の性格をからっきし理解していないので(親くらい子供に幻想を抱いている存在はあるまい)、そんな風に勝手に決めつけるのだが、多分、私は何を聞いても怒らないと思う。どうせ姉が私の悪口を言ってたとか、その程度のものだろう。内容も「ボケ老人(=父)を私に押し付けやがって」とか「本当は店を私に譲るのが惜しくなったんだろう」とか、見当がつく。けれど、あの頑固な親父のそばにずっといれば、それくらいの愚痴は出て当然だ。それなら聞いても聞かなくても、姉を恨みに思うことはない点では同じである。
 しかし、毎度毎度、会うたびに姉の悪口を聞かされて「店を辞める」と聞かされてもう一年くらい経つ気がするが、いっこうに仕事を辞める気配がない(辞めると言って廃業広告まで出したのに取りやめた)。腹を立てながらも、毎日姉と顔を着き合わせてやっぱり一緒に仕事をしているのである。短気な癖にのんびりしているので、私にもこういう父の優柔不断な性急さはなかなか理解しがたいのである。

 焼肉屋はかなり分かりにくい位置にあって車も停めにくかったが、回転して日も浅いので、今のところはなんとか繁盛している様子である。
 しかし、値段がバカ高かったのには恐れ入った。ファミリーセット、ロース、カルビ、豚バラ、ウィンナーに焼き野菜、四人前で7000円というのはちょっとねえ。いい肉使ってたのは食べてみて分かったから、ダメな店ではないのだけれど、庶民にはやはり「ウエスト」でちょうどいいと実感したことである。

 
 ドラマ『熟年離婚』第一話。
 アニメの新番組があまり見られない分、ドラマの新番組を漁って見ている感じの最近であるが、『ブラザー・ビート』とどっちを見るか迷って、こっちを選ぶ。まあ、渡哲也で選んだってことだね。
 離婚を切り出す奥さんは松坂慶子なのだけれども、平時子よりは役柄に合っているとは言え、渡哲也に相対するとやはり今ひとつ「軽い」気がしてならない。『義経』に引き続いての夫婦役だけれども、何かこの二人でやらなきゃならない事情でもあるのだろうか。
 台詞を字面だけで追っていると、こりゃもう、渡哲也の方が圧倒的に横暴なのである。家族のことを考えているつもりになって自分の価値観を押し付けているだけだし、息子の交際相手のことを「子持ちで離婚調停中の夫がいるじゃないか」と悪し様に言うのは、息子思いから口走ってしまったにしても、ちょっとひどすぎる。もうちょっと事情を聞いてあげたら、と家族がたしなめるのも当然である。イマドキ、ここまで時代錯誤な親父がいるもんなのかねえ。
 ところが渡哲也が毅然としてこれを言うと、これが全然ワガママに聞こえなくてねえ(笑)。軟弱に「事情をよく聞かせてみろ、お前が本気なら俺も真剣に考える」なんてモノワカリのいい親父なんかを渡哲也に演じてほしくはないのである。でもおかげで「アナタのそういうところについて行けないんです!」と泣きじゃくる松坂慶子の方がワガママに見えちゃうのは困ったもので。
 「夫婦は一生連れそうものだ」とは、今や「絶対」ではなくて「希望的観測」でしかあるまい。今まさに結婚しようという恋人同士であっても、「この人と一生一緒に暮らせるのか」と考え出したら一抹の不安は感じるのではなかろうか。「結婚」という形式、これが必ずしも「家族」を形成するための手法として最適のものとは言えなくなっている現在、「熟年離婚」という題材を単純に「家族の崩壊」として描くのであれば、これは陳腐なドラマに堕してしまうと思う。
 離婚をすることがまた一つの人間関係の形成に繋がるような物語になっていけばいいなあと勝手に予測を立てながら見始めたのだが、第一話ではまだどんな方向に向かって行くのかはよく分からない。変な言い方だが、渡哲也は近年、本当にいい役者になってきたと思っているので、ドラマが多少ワヤになっても、一応これは最後まで付き合って見てみようと思っているのである。


 しげ、夜中に「寝つけない」と言って、奇声を挙げたりドタバタしたり。「足が気持ち悪い」と言って何度も風呂場と部屋を往復する。おかげでこちらも眠れない。
「なんで気持ちが悪いん?」
「多分、珍しく肉食ったせいよ」
 そんな馬鹿なわけあるか。なかなか寝つけないしげにも困りものなのだが、寝たら寝たで、今度は夢遊病癖が出て、やっぱりトイレと寝床を行ったり来たりすることも多いので、やっぱり私は眠られないのである。
 朝がホントに辛いんだよ。頼むから早寝してくれ。特に、土・日の朝は『マックス』と『響鬼』を澄んだアタマで見たいんだよ。

2002年10月13日(日) 芸のためならって問題でもないんだけど/DVD『アベノ橋魔法☆商店街』3巻/アニメ『サイボーグ009完結編』
2001年10月13日(土) 封印/第三舞台『ファントム・ペイン』(鴻上尚史作)/アニメ『カスミン』第1話
2000年10月13日(金) 病気自慢と白髪三千丈と……ね、眠い/映画『レッド・ブロンクス』



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藤原敬之(ふじわら・けいし)