無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年09月09日(金) 自分で書いてても鬱陶しいわ/『宗像教授異考録』第一集(星野之宣)

 さて、ppのメンバーを震撼させているかあるいは無視されているか(つか、無視するよな)のカトウ君のプログでの私とカトウ君のバトルであるが、もうどんどん泥仕合と化して来ている。そうなんなきゃいいがなあと思いつつ、なったらなったでしゃあねえやなと覚悟を決めて、始めたものの、ワケも分かってない第三者まで参入してきて、どこまで続くか、見当も付かない感じだ。
 それでも私はカトウ君のことを身内だと思って接してきたし、だからこそ個人攻撃じゃないかと言われようが一切、容赦をしなかった。本気で相手と意見を戦わせようとすれば、その人格にまで立ち入ることを避けられるものではない。私はこれまでにも、しげにも、よしひと嬢にも、鴉丸嬢にも、余計なことばかり口にしてきている。彼女たちがそれで腹を立てたことも何度もあると思うが、かといって、私が思っていることを黙っていれば、カンのいい彼女たちのことだから(しげ除く)、私が何か言いたげだけれども、それを口にせずに何か鬱積した思いを抱いていることをすぐに察知してしまうことだろう。そのほうがよっぽど気持ちが悪いし、彼女たちに対して不誠実である。だから、嫌われることを覚悟でモノを言っている。好かれたいとか、あなたのためを思ってなんておためごかしではない。
 もちろん、カトウ君に対しても、彼が怒って絶縁状を突きつけて来たとしても、私は蕭然としてそれを受け入れる覚悟でいたのである。たかがテレビ番組くらいのことで、ではあるが、人間、どんな些細なことで諍いが起こるかは分からない。私は、自分の書く文章、一字一句について、どんな批判を受ける覚悟もしているのだ。それなのに、カトウ君にはいったい自分の言動にどれだけの覚悟があるのか甚だ心許ない。へらへらして姑息な逃げをすぐに打つが、それがどれだけ相手に対して失礼か。私がカトウ君を一人前の大人として(以前から幼稚な言動はやたら多かったが、会話するためには、大人として遇するのが礼儀である)会話していたのが馬鹿みたいである。こっちの日記でもちらちらと感想を書いてはいても、主にカトウ君のブログにコメントを付け続けたのは、最終的な裁量権をカトウ君に預けるためだったのに。
 今日になって、カトウ君から、「リンクを外してくれ」と言ってきた。そこまでは、「ああ来たか」だったのだが、その次が呆れた。「でもプライベートではお付き合いを続けたいと思います」。
 なんじゃそりゃあ?! お前は俺に対して腹を立てたんじゃなかったのか? 俺の言うことに納得がいかないんじゃなかったのか? 何だその中途半端な覚悟のなさは!
 カトウ君が「リンクを外す」と言った理由は、私がある腐女子さんのサイトのURLを、「君のイタさって、ここんとこのサイト並だよ?」ということを示すために貼ったからである。これが彼の正義感に反応したわけだが、言うに事欠いて、「絶対に自分は間違ってない」である。
 余談になるが、私はホモオタさんの件で、法務局を訪ねたことがある。そのとき、インターネットの差別書き込みなどの問題について、様々なレクチャーを受けた。そのときに担当官の方から念を押されたことは、たとえどんなに差別的と見られるような書き込みがあっても、簡単に削除などができるものではない、ということである。法務局が削除要請をするものには厳密な基準があり、検討に検討を重ねた上で、ようやく管理人に対して要請が行われる。それとても、「強制力」はないのだ。名誉毀損によって訴えられる例は、ごく少数なのである。これがどういうことなのかはご理解いただけるだろう、何よりも最大限に保障されなければならないのは、「表現の自由」なのである。私もこれまで、しょっちゅうこの日記のリンクをあっちこっちに貼られて晒されたりしているが、たとえそこでどんなに批判的に扱われても、これも「引用」の範囲内で許されていることであるから、腹を立てたことなどはない。どんなシロウトの日記だろうと、表に晒した以上は、批判の対象になることは避けられない。それがいやなら、とっととネットから去るしかなかろう。法的にも何の問題もないし、削除も含めて書き込みをどう扱うかの裁量もカトウ君に任せている。それでカトウ君に何の正義があるというのか。リンク貼りに何か異常なものを感じているのは、カトウ君の常識の方が異常なのである。自分のちっぽけな正義感が、もっと大きな、「人間の表現の自由」を犯していることに気付いていない。私に非があるとすれば、せいぜい「下品なことをした」程度であるが、彼がここを先途と「これだけは自分が間違っていない」と主張するのは、他に自分がすがれる論理を持たないからであるし、その行為は私以上に下品である。根拠のないプライドだけは高いので、潔く振る舞えず、やたら噛みついてくるのだが、そんなことをすればするほどカトウ君の異常さは目立つことになる。もし私のこの論理がおかしいというのなら、「法的に何の問題もない」という点を覆してみせなさい。と言うか、してみせろ。それが、「正義」を振りかざしたカトウ君の義務だ。「法の話なんかしてません」とか、また逃げを打たずに。
 私とカトウ君のバトルが、個人攻撃に移ってしまうのは、彼が一見、作品のことについて語っているように見えて、その実、「この作品を好きな自分を理解してほしい」オーラを発することになっているからである。彼が「主観」「主観」と口にするのはこのためで、結局、彼には自分の思い込みしかない。そりゃ、「人の話を聞けよ」と言いたくもなる。
 彼は「ネット上での考えには相違があるので、リンクを外したい」というが、この論理も意味不明である。私の掲示板に来られる方で、ネット上のルールについて、私と意見を異にする人はいくらでもいるが、そのことで掲示板に書き込むことを禁止したり、相互リンクを外したりする理由にはならない。そんなことをすれば、日本人の大半を閉め出さねばならなくなる。先ほども述べた通り、法に抵触しない以上、「誰もがレスを付けることのできる」ブログや掲示板への意見は、最大限尊重されなければならないからだ。それこそ、『響鬼』のブログの管理人が、批判書き込みも一切削除しないように。ヒステリーを起こしている管理人の運営するサイトでは、たいした批判文でもない書き込みでも、管理人の逆鱗に触れただけで削除の嵐になってしまう。カトウ君はその「危険領域」に片足を突っ込んでしまっているのだ。
つかねー、「絶対に俺は間違ってない」なんてモノイイ、マトモな人間は絶対に言わないよ。これもどうせカトウ君は「そんなつもりでは言ってない」とか卑怯なことを言い出すかもしれないから、だったら「この件だけは自分にも何がしかの根拠はあると思っています」と言い直せ、と言っておこう(そういうつもりで言っているのだと好意的に解釈してである)。それでもって、もっと明確な、主観ではない根拠を示せればいいのだけれど、結局彼は何も示さないもんな。
 この手の初歩的な言葉遣いもままならなくて、言ってることが前と後とで矛盾しまくっているから、言葉をそのままに受け取っていいのか、裏に何か別の意味があるのか、判別がつかず、どこにどうコメントを付ければいいのか、分からないのである。
 文章が下手なら下手で、どんなに努力しても自分の意志が伝わらないこともあるのだということは覚悟して、いちいち弁解しないくらいの潔さがあればいいものの、口では「自業自得です」などと言いつつ、余計な一言をいつも付け加えて、事態をまた紛糾させてしまう。そこが卑劣だ。「自分は意見の押し付けなどしていない」などという主張が、全くの「ウソ」であると理解できないのであれば(だから「主観」という言葉を使えば、そうなるんだよ)、リンク外しでもなんでもすればよい。ただ、ここまで一見柔らかな口調で、内実ただの押し付けをやらかした以上は、それを要求することは私に対して「縁を切ります」と主張しているのと同じ意味だと解釈する。これも「そんなつもりはない」などと逃げるな。「そう受け取られるよ」と言っているのに、あえてそれを行いたいというのであれば、実質的に絶縁宣言をしているのと同じことだ。全く、こうまで「こんな風に取られる言動を取るな」と言ってるのにそれを取り続けるやつも珍しい。
 まあ、「言葉の不自由なやつを苛めたってしようがないじゃん」とお諌めたい方もいらっしゃるかもしれないが(カトウ君相手だとそれも少ないかもしれないが)、これまでカトウ君が私に対して堂々とモノを言わずに陰口ばかり叩きまくっていたことは知っているので、そんなやつが「正義」を振りかざしてきたので、「ふざけるな、何様のつもりだ」とカマしてやっているのである。さあ、カトウ君がどう出るか、人に責任を押し付けずに、自分の意志で「あなたとは付き合えません」と言えるのであれば、少しは見直してやれるのだが。
 どうせまた、あっちこっちにメールしまくって愚痴だの陰口だの叩きまくることしかできんだろうな。


 夜、よしひと嬢から電話。
 しげの今度の泊まりについての打ち合わせであるが、肝心のしげが、明日のハカセとの結婚式に備えて、早寝してしまっていたので、後日、本人から連絡させるようにすると話す。
 カトウ君との一件についても少し話すが、「(カトウ君を)心配してる?」と聞いたら、「いや別に」とニベもない。「『このバーカ』と伝えといてください」と言うので、日記に書くことも承諾を貰ってこうして書く。これがまあ、カトウ君のこれまでの「蓄積」の結論なのである。

 と思っていたらまたカトウ君からメール。
 「縁を切りたきゃ切っていいですよ」。
 ……しばし呆然。
 世の中には何言っても通じないやつはいるものだし、通じないだろうなとは思っていたけれども、なんかこんなに「典型的」だと、カトウ君に考える力があるのかどうかすら疑わしくなってくるな。怒涛のように「あほ」と返事のメールを送ったが、心の底から反省して冷静になろうと努力しているカトウ君のことだから、きっとご笑納いただけることだろう(笑)。

 と言ってるすきに、今度は下村嬢から直接電話。今晩は千客万来である。やっぱりカトウ君の件で、心配して電話をくれたのであった。
 いろいろあって下村嬢も疎遠になっているけれども、彼女は私がいかに悪辣な人間かを知っているから、カトウ君のことを心配しているのである。「だって、彼は乙女だから」。言葉は柔らかいが、まあ、アレだってことだね(笑)。
 しかし、そんな比喩をされるとまるで私がいたいけな少女を拉致蹂躙して入るみたいである。カトウ君の外見は乙女とは程遠いんだけどなあ。
 「なんとかならないんですか?」
 「どうなるかねえ。別にどうなったって構わないとみんな思ってると思うけど」
 「……カトウさんがかわいそうになってきました」
 心配されてるけれども諦めもされているわけで、心配するだけ無駄な労力を使うことになるとは衆目の一致するところであろう。

 で、これで終わりかと思ったら、またメール。
 ああ、今度はハカセからだった! 何かホッとしてしまったが、昨日の日記を読んで、「ご祝儀少なくてもいいですよ。生活大事にしてください」という心遣いだったのである。まあ、こうなることは分かっていたのだが、昨日も書いた通り、恥曝しを覚悟して日記を書いているので、ゲルピンを隠しておくことなどできないのである。
 ハカセハカセ、今んとこ、ガスは止められてないからまだ大丈夫です(笑)。


 マンガ、星野之宣『宗像教授異考録』第一集(小学館)。
 いったん連載終了した作品が再開されることは決して珍しいことではないが、『サルまん』の「パート2ものは当たらない」法則は、本作に関しては杞憂だろう。星野ファンの(もしかしたら、高橋英樹ファンもいるかな)ほとんどが、民俗学の泰斗、歴史上の様々な謎について「異説」を唱え続ける宗像伝奇(むなかた・ただくす)の再登場を待ち望んでいたのである。
前作『宗像教授伝奇考』では、当初、宗像教授が伝説の巨人に遭遇するなど、SF色が濃かったものが、後半になればなるほど、かなり本気で歴史の謎に踏み込んで行くことになり、ミステリーとしての特色を強めていくことになる。今回も、遮光器土偶、山本勘助、聖徳太子、インド原始仏教の謎が、宗像教授のフィールドワークによって解かれていく。しかし、やはり本作のベースはSFであって、ミステリーであれば読者が憤然とするだろう宗像教授の「幻視」によって、解答が提示されることも多い。
 しかし、その解決の瞬間 ―― ネタバラシになることを避けるなら、ある人物が遮光器土偶を手にして呟く言葉 ―― のシーンを見たときに、たとえそれが「幻視」であろうと、それが土偶の真実であったに違いないと感じさせる説得力がある。もちろんそれは、星野さんの画力、構成力があればこそだ。
今巻では、『神南火』の主人公、忌部神奈も登場し、宗像と推理バトルを繰り広げる。ファンサービスとして嬉しい趣向であるが、バトルの題材となった聖徳太子の謎が、ほかのエピソードに比べてややインパクトに欠けるのが残念であった。

2004年09月09日(木) ホモでオタクな“あの”ストーカー
2003年09月09日(火) で、『CASSHERN』に樋口可南子はホログラフィーで出るのか?/『鉄腕バーディ』2巻(ゆうきまさみ)
2001年09月09日(日) 見え透いたウソにすがるココロは/DVD『ウルトラマンティガ THE FINAL ODESSEY』
2000年09月09日(土) なんでこんなにバカなのか


2005年09月08日(木) なーいないない金がない/『鉄人28号 皇帝の紋章』3巻(横山光輝・長谷川裕一/完結)

 タイトルは『ないない音頭』(by熊倉一雄)から。全く、こんな名曲がいつまで経ってもカラオケに入らないとは、世のオタクはちゃんとリクエストしているのだろうか。
 しげの日記にも書いている通り、今月はかなり財政がピンチなのである。
 もちろん、アソビにばかりカネを使っているからそうなるので、言い訳なんかできないし、同情されることではない。
 でも、我々とて一応モノは考えているので、本を買うにしても映画を見るにしても、ある程度は計算していて、予算オーバーにはならないように気をつけていたのである。見たい映画も涙を飲んでテレビ放送を待つようにして、今月はかなり控えている。
 だから、しげが「金がない」というのがどうにも解せなかった。まだ充分余裕があるはずだったので、「どうしてだ?」と問いただしてみた。
 「車検があるの忘れてたんで、それで予定が狂ったんよ」
 「日ごろから人に無駄遣いするなとか言ってるくせに、なんだよ、それは」
 「じゃ、あんたは金あると?」
 「ないよ」
 「なんで?!」
 「定期が今月で切れるの忘れてた。昨日買ったから、もう金がない」
 「あんたも無計画やん!」   
 まあ、バカ夫婦ここにありである。この日記は我々の恥もセキララに書くと決めているので、ご紹介した次第であるが、恥曝しはまだこれでは終わらない。
 しげがおもむろにこう言った。
 「ねえ……」
 「なんだ?」
 「ハカセの結婚式のご祝儀、減らさない?」
 ……ごめん、ハカセ。フクロが薄いけど、お祝いより自分たちの生活の方が大事だ。  


 各地に甚大な被害をもたらした台風14号、ようやくオホーツク海へ抜けて温帯低気圧に変わった。現段階での死者は20人、行方不明者は7人。自然災害だから諦めなきゃならない面があるにしろ、「事前に来ることが分かっている」のに、どうしていつもいつも犠牲者が出てしまうのか、どうにも歯がゆく、納得ができない。
 特にやりきれないのは、山口県岩国市の山陽自動車道の「のり面」が崩れた事故だ。新聞写真を見てその規模の大きさに驚いたのだが、長さ50メートル、幅15メートル以上にわたる盛り土で建設された高速道路ののり面が、上り線の路面ごと崩れ落ちたのである。この事故で、崖の下にあった家ごと三人が生き埋めになり、二人が遺体で発見された。開通後13年を経て、盛り土も充分安定していたのに、この始末である。耐震建築などもそうだが、どんなに人間が知恵を振り絞って自然に対抗する手段を考えても、それ以上の強大なパワーを持った自然が押し寄せてくれば、ひとたまりもないのである。
 日本の台風よりもはるかに被害甚大なアメリカのハリケーン「カトリーナ」であるが、こちらのニュースはいっこうに私の心に染みてこない。対岸の火事だからと言えばそれまでなのだが、救援の遅れやら略奪やら被害者の見殺しやらの殺伐としたニュースを立て続けに聞いていると、同情よりも先に「結局、あの国はそういう国である」と、国そのものに対する反感の方が先に立ってしまうのである。老人ホームの人たちを見殺しにして係員が全員逃げたって、そりゃなんだよ。ここまで無慈悲な事件はさすがに日本じゃ起こらないと思う(思いたい)。
 日本の治安だって、アメリカ並になってるじゃないかという意見もあるようだが、まだまだそこまでのことはないし、これからだってあそこまで悪くはなるまいと考えるのは楽観的に過ぎるだろうか。


 グータロウ君が、またヒビキ30話について、日記で絡んできた。
 あっ、この野郎、個人攻撃に走りやがったな。そうだよオレは「何様」だよ(笑)。
 って威張るつもりはないんだけれど、再々反論する意味はなくなっちゃったようなので、これだけ言って終わりにしとこう。「脚本の話しかしてないのに」っていうけどさあ、こっちは「脚本の話だけするんじゃねえ。それが、見方が『狭い』ってことなんだよ」って言ってるんだから、そこで「俺たちはあえて狭い見方をしてるんだ!」なんて卑屈に威張るんじゃねーやな。イタいオタクを演じられるってことは、即ち自分がイタいオタクだからだ。
 もともと、「ありゃヘンな脚本だったよなあ」って意見じゃ一致してるんだから、絡んでくる必要なんてないのに、勝手に私が「井上脚本を擁護している」なんて思いこんだ時点で大勘違いなんである。だから、「困ったなあ」と書いたのに、全く、鈍感もここまで来ると罪である。
 カトウ君はカトウ君で、自分の主張は全部「主観」と逃げを打って(これがどれだけ人を馬鹿にしてるかってことに気が付いてるのか?)、しかも「けんちんさんがあまりにも『井上氏の響鬼以外の活動』を引き合いに出してくるからです」とかデタラメ書きやがるし。そりゃ先にカトウ君がやったことだってーの。「響鬼以外の活動」を想定してなきゃ、どうして「井上脚本だめだ」と口にできるかね? 自分の言葉が何を意味してるかまるで理解しちゃいない。「リンク貼るな」なんて妙な正義感まで発揮するし、「何かにハマることでモノが見えなくなっている」典型だ。
 カトウ君が私にぶつけてきた言葉は、全部カトウ君自身に帰せられるものであって、結局カトウ君は「自分はこんなにイタイやつ」だってことを告白しているに等しい。彼が名指ししている「けいちんさん」というのは私のことではなくて、彼の妄想の中にだけいる存在しない私なのである。全く、鏡に向かって文句ぶつけてどうするかね。
 カトウ君のおしゃべりを聞いていると、「ああ、この子はずっとこうやって一人相撲ばかり取ってきたんだなあ」とそぞろ寂しい気分にさせられてしまうが、まあ、オタクが辿る道はだいたいこうしたものなのである。
 グータロウ君も、カトウ君も、一応『響鬼』を愛しちゃいるんだろうけれども、押し付けがましい愛は(押しつけてないと口にするのが一番押し付けがましいのである)大きなお世話でしかなく、相手からは鬱陶しく感じられるだけであろう。まあ、番組は番組で、ファン同士の諍いなどどこ吹く風とばかりに超然とそこにあるばかりだろうがね。

 しげが、「グータロウさんとケンカするの?」とハラハラしているが、おたがい四十を越してそんな体力気力はとうに尽きてるんで、このへんで「もういいよ」に流れるよ。それでも何かしらシコリが残るんじゃないかと心配しているようなのだが、たかがテレビ番組のことでそんなことになるほど私はバカではない。向こうはどうか知らんが(笑)。
 我々はもう、大切なこともそうでないことも、たいていのことは一晩寝れば忘れるようにできているので、しげの心配は杞憂だろう。老人力じゃないが、過去のことに拘らなくなるってことを、年取ることのプラス面だと考えるようにしよう。それってつまりは自然にオタクではなくなってしまうってことだがね。


 マンガ、横山光輝原作・長谷川裕一漫画『鉄人28号 皇帝の紋章』3巻(完結/講談社)。
 発売されて随分時間が経ってるんだけれども、ようやく入手。ネット注文もできない品切れ状態だったんだけれども、手に入れてみれば初版だよ、これ。売れ残ってたわけじゃなくて、いったん返本されたのがまた書店注文で取り寄せられたようだから、売れてるんだか売れてないんだかよく分からないのである。部数あまり出してないことは間違いないな。くそ。
 ギャロン、ギルバート、ケリー、そして最後の敵はやっぱりロビー。紋章を巡る戦い自体は第九話でいったん終わり、フランケン博士は劇的な(本当に劇的な!)退場を見せ、博士の「遺産」はアリスに受け継がれる。しかしそれは物語の終わりではない。
 アリスが背負わされた「運命」の決着、そして“意志を持つロボット”ロビーの語る「ロボット戦争」の真実。エピソードが連続していた前巻までと違って、やや散発的な印象になってしまったが、これぞ「正しいロボットマンガ」という印象は揺るがない。
 『鉄人28号』の物語が、今、なぜ語られなければならないか、その答えは、今は亡き金田博士の言葉に集約されている。

 〉「戦争が終わったって、それで全部が終わりじゃないじゃろう? 人間は、その先だってずっと生きていく。その時、こいつ(鉄人)の力は役に立つじゃろう。だからわしが造っとるのは“でっかい人”なんじゃよ。人間なら、その手に銃を持つこともあるじゃろう。だが、それを鍬や鋤に持ち替えることも……。花を持つことだってできる。こいつに今、何かを持たせちゃいかんよ」

 なんか「魂の言葉」を聞かされたって気になるなあ。この思想が、現代の、様々なロボット開発に繋がっているのだと言えるね。私ゃ「癒し系ロボット」なんて何なんだよって感想を持ってはいたんだが、そうだよな、「全ての科学技術は容易に戦争に結びつく」という思想を否定するんであれば、「犬型ロボット」だって許せちゃうのである。
 もちろん、マンガは思想を語る道具じゃない。しかし、マンガから思想は自然に表れる。ロボットマンガは純粋にエンタテインメントであることが私にとっては理想なのだが、物語を支える思想が右だの左だのといった狭苦しいものでなくて、ただひたすら人類の未来を信じるものであるなら、物語は決して破綻しないのだ。
 同じようなコンセプトで始められていながら、少年探偵どころか辛気臭いとっちゃん坊やになり下がった正太郎が愚痴を言うばかりの今川泰宏監督アニメ版は、横山光輝の名前を冠するに値しない糞アニメであった。横山さんの衣鉢を継ぐ『鉄人』は、ここにある。

 しかし、個人的に一番のツボだったのは、敷島博士と大塚署長の次の会話だったりする。

 〉敷島「正太郎は私の娘のマキと結婚させるのだ!」
 〉大塚「あんた娘いないでしょうがっ!」
 〉敷島「え? あれ? でも正太郎くんは将来有名なロボット学者と結婚するって決まってるから」
 〉大塚「何 混乱しとるんですか?! あんたは?」

 『鉄人』アニメ化の歴史がいかに黒歴史であったかを象徴するような会話だね(笑)。

2004年09月08日(水) 入院顛末4・絶食したのに太るフシギ
2003年09月08日(月) ボンちゃんって呼び名も懐かしい/ドラマ『血脈』/『×××HOLIC』1巻(CLAMP)
2001年09月08日(土) 半年分の食い散らし/『あなたの身近な「困った人たち」の精神分析』(小此木啓吾)ほか
2000年09月08日(金) 這えば立て、立てば歩めの夫心/『ビーストテイル』(坂田靖子)ほか


2005年09月07日(水) 無責任賛歌事始/『エマ』6巻(森薫)

 台風、午前二時ごろまで吹き荒れる。
 これだけ長い間九州に居座ったってのも、生まれてこの方、経験したことがないが、なんでもいつもは台風を東へ押し流す上空の偏西風が、今回はピタッと止んでいて、それでゆったりゆったりと進んでたってことのようだ。
おかげで、ずっとマンションの部屋に閉じ込められた格好になってしまったが、こうなると落ちつかないのがしげである。そもそも食料の買い置きをしていなかったので(しとけよと言ったのにまたしげがサボったのである)、食うものがない。それで、夜中にいきなり「買い物に行く」と言い出すのだ。外はもう、ビュンビュン風が吹いているし、看板の一つや二つは飛んでそうな気配である。とても外に出せる状況ではないのだが、放っとくとしげは嵐の中に喜んで飛び出していきかねないのである。なんでそんなことをしたがるのか理解の範疇外なのだが、『八月の狂詩曲』の婆ちゃんのように何か止むに止まれぬものに駆り立てられてしまうのだろう。要するにやっぱりイカレているのである。
 だもんで、しげが起きている間中、こっちもずっとしげを見張っているしかなかった。午前三時を過ぎてようやく寝てくれたが、外を覗くと、さっきまでの雨風がウソのようにピタッと止んでいる。これなら仮にしげが置きだして買い物に出かけても大丈夫かと、ようやく寝た。でも結局、今朝は二時間しか寝ていないのである。こんなことがしょっちゅうあったら、体力持たんぞ。もう今年は台風来んでくれ。


 またもやマンガの実写映画化であるが、今度は一色まことの『花田少年史』だって。
 うーん、あまり意外性がないと言うか、ごく普通に実写になりそうと言うか、ということは原作って、絵柄の面白さはあるけれど、アイデアやストーリーは漫画特有のものじゃなかったってことだな。人気のあったマンガだとは思うけれど、何かキャッチーなものに欠ける気がする。もっともそれは「オタク的には」ということで、世間一般へのアピール度は高いのかもしれない。
 主人公の花田一路は当然子役で、須賀健太君と言うそうだ。何か聞いたことある名前だなあと思ったら、『ゴジラ FINAL WARS』で泉谷しげるの孫を演じてたあの子だわ。一路にしてはちょっと線が弱くないかなあ……って、子役の品定めまでしなくてもいい気はするが。
 でも、母ちゃんが篠原涼子で、父ちゃんが西村雅彦って聞くと、どうにもマンガのイメージと違いすぎていて、ああ、やっぱりスタッフは「原作がマンガだ」ということを気にせず映画化するんだなあと思って、ちょっと寂しくなった。一昔前だったらああいうバイタリティー溢れる日本のお母ちゃんは、藤田弓子とか京塚昌子とか市原悦子とか清川虹子とか丹下キヨ子が演じてたようなキャラである。それを篠原涼子とはねえ。それともデ・ニーロばりに太らすのか。西村雅彦も全然キャラが弱すぎるけれども、スタッフは本気でこの映画をヒットさせようって考えてるのかどうか、よく分からないキャスティングである。
 ストーリーは、「オバケの見える能力を持ってしまった一路の前に、おまえの父ちゃんは人殺しで、自分が実の父だと言うオバケの沢井(北村一輝)が現れ、真実を求めて一路は冒険に出る」というものになるらしい。そんなエピソード、原作にあったっけ? とどうにも思い出せないのだが、これがオリジナル・ストーリーだとしたら、本当に原作の設定だけを借りた、「別物」として、割り切って見るしかない、と覚悟するしかなさそうである。
 製作サイドは「和製ハリー・ポッターを目指す」と息巻いてるみたいだけど、それ、作品が全然違うでしょ(苦笑)。


 何だか最近、映画の興行収入を気にすることが多くなっているけれども、これってやっぱり昨年あたりから「オタク仕様」な映画が増えてきたせいかな。それが必ずしもムーブメントとして定着している印象がないのは、残念なんだけれども。
 先週の一位はこれはもう、予想通りの『NANA』の快進撃なのだけれども、初日・2日目の成績だけで動員約39万6000人、興収5億3600万円と、『世界の中心で、愛をさけぶ』並の好スタートだそうな。『セカチュー』がカップル中心に幅広い層に受けていたのに比べて、『NANA』は殆どの客が女子中高生だから、狭いターゲットをよくぞ動員したものだと感心する。しかも彼女たちの殆どがオタクじゃないのだ! 私のような中年男は、子供映画を見に行くよりも足を運びにくい。劇場に一歩足を踏み入れた途端に女子中高生の冷たい視線に晒されるかと思うと……。私がM男くんだったらそれもまた甘美な味わいなのかもしれないが、やっぱそっちの特性は私にはないようだ(笑)。これなら三ヶ月から半年くらいは上映しそうだから、人けのないレイトショーで見に行くことにしよう。
さて、不安と期待の『仮面ライダーヒビキと7人の戦鬼』であるが、『室井慎次』に継いで3位の登場は素晴らしすぎる成績である。動員が23万8000人、興収2億7700万円で、昨年の『剣(ブレイド)』よりも二割増しの好スタート。これで二週目以降も客足が落ちなければ、最終的に12億円くらいのヒットにはなりそうだ。『ハガレン』と違って、オタクや腐女子以外にも親子連れの客を見込めるから、達成不可能な数字ではないと思う。それにそういうフツーの家族は、ネットで『響鬼』が叩かれてる状況なんか知らないだろうしな(笑)。
 それにしても『響鬼劇場版』公式サイトのコメント欄はまた大変なことになっている。「30話の乱」と言ってもいいんじゃないかってくらいに荒れまくってるが、「30話にあまりに腹が立ったから、映画は見ません」とか「もう子供に『響鬼』は見せません」とか「DVDは29話までしか買いません」とか、そんなことを表明してどうするの?という常軌を逸したコメントが続出している。こんな連中の肩を持とうってんだから(持つつもりはないんだろうが、結果的に賛同を示しているのと同じことになっちゃってるよう)、グータロウ君もカトウ君も全くわからんちんなことだが、まあ、「惚れたが因果」だから仕方ない。でも、オタクにはあまり熱くなったりムキになったりしないで、一歩引いてモノを見る視点も必要だよ、ホント。


 ここんところ、また少しずつ「エンピツ」のアクセスランキングが上がってきていて、50位前後に位置している。毎日、300人近くの人が覗きにいらっしゃっている勘定だ。もっとも、最近は「積木くずし」関連の検索で来られる人が何十人もいらっしゃるから、実質しょっちゅう来られている方は、100人くらいのものであろう。「友達100人できちゃった」ってとこだろうか(笑)。でもそろそろパソコンの向こうのお客さんの顔が「見えなく」なってきてはいるのだ。
 五年前の日記を読み返したりしていると、「今日は20人もお客さんがいらっしゃった」とか書いている。私にイメージできるのはこの程度の人数で、まあそれくらいなら、こんなシロウトが好き勝手書いてるだけのサイトを覗いてやろうなんて奇特な人もあろうなと納得できなくもないのである。
 時々、更新が遅れたときに、見知らぬ方から激励のメールが届いたりして、勇気付けられたりすることがある。私自身は書いてる内容に対してどんな批判や反論をされても構わないと思っているのだが、思いもよらず、賛同を示されるとかえって恐縮してしまう。
 いったい私の書く文章の内容にどれだけ説得力があるのだろうか? 自分ではできるだけ客観的かつ冷静に努めているつもりではあるのだが、世間サマを見渡してみれば、「私は冷静です」と言ってる人間が本当に冷静だったタメシがない。鏡に映さない限り、自分自身の姿が一番見えない、というのはどんな知恵者と言われる人であってもその通りである。いや、「知恵者」なんてものは存在しない。当たり前の話であるが、人間はラプラスの悪魔にはなれないのだ。全ての人間は等しく愚か者である。この事実を認識できずに「全てを見通し真実を語れる」などと公言すれば、それはただの傲慢でしかない。
 しかし、たとえいかに自分の知識が浅薄で、判断力も洞察力もなかろうと、ない知恵を絞り、その時々でモノを考え行動していくのも自分しかありえない。人は「愚かでしかありえないから」、自分が言ったこと、行ったことで誰かを傷つけ、怒らせ、泣かせてしまうことから逃げられはしないのだ。だからまあ、「無責任賛歌」という日記タイトルの由来ということになるのであるが、これは「責任放棄して好き勝手やる」という意味ではなく、人間が等しく愚かであるならば、そもそも「責任を取る」なんてことはできない、という現実を冷徹に見つめよう、ということである。
 ほんの些細な言葉が、人を傷つけ、死に至らしめることすら世の中にはある。しかし、その責任を誰に帰属させられるだろうか。ある総理の「黙殺する」の一言が何十万の人間を殺すきっかけになったことがあった。しかし、それを「総理の責任」と追及することができるか。そのときの総理が誰であっても、その時点ではそう言わざるを得なかったのではないか。責任の取れない一言である。しかしもしその総理が「責任」を感じていたとしたら、世間の轟々たる非難をただ一身に受け止めひたすら耐えるしかなかったであろう。
 人間は等しく、自らの言動については「無責任」を「覚悟」するしかないのである。しかし世間は、責任の所在を「自分以外の誰かかどこか」に求めることに汲々としている。自分には責任感があると堂々と標榜している。そのほうが楽だからだ。自らの愚かさに目をつぶっていられるからだ。他人を見下して悦に入っていられるからだ。そんなウソツキの卑劣漢は、そこにも、あそこにもいる。
 だから、私の「自らの愚かさを自覚し、無責任を覚悟する」などという意見は少数意見でしかないと思う。だから、この日記の賛同者が百人も二百人もいる、ということがどうにも実感できない。自分をもっと見つめたい、なんて考えている人間に出会うことなど、現実には極めて稀だからだ。ネットの向こうにはそれだけの覚悟をしている人たちがそんなにたくさんいるということなのだろうか? 
 もちろん常連の方がみな「覚悟している人たち」であると断定することはできない。私は日ごろから日記の中で、「覚悟のないやつ」は徹底的に揶揄し罵倒しこき下ろしている。生半可な気持ちで読んでいたら、そいつらは、「これはオレのことを馬鹿にしているのか」と確実に不快になることだろう。私はそんなやつらを燻し出すためにあえてフレーミングを行っている。だからいったんは「楽しく読ませていただいています」というメールをくれた人でも、次第にキツい口調のメールをくれるようになり、疎遠になってしまうことはよくある。
 だからまあ、お客さんはどんどん減って行って仕方がないと、そのことも「覚悟」しているのに、現実にはこの五年間で、少しずつ、少しずつ、増えて行っている。いったいどういう気持ちで私の文章を読んでいるのだろう? 
 私は特にオタクや腐女子を罵倒している。もちろん、彼ら彼女らが「自分を見ようとしない」人種の最たるものだからだ。そして私が彼らを非難できるのも、紛れもなく私自身の中に、私が非難する「オタクのダークサイド」が確実に存在しているからである。
 「批判」が単純に「他人を馬鹿にし、見下す」行為だと勘違いしている人間は多い。しかし、ある言動が「愚か」であるかどうかを判断するためには、「そういう愚かさ」が自分の中にも存在していないとできることではないのだ。人が誰かを非難するのは、すべからくそこに「自分自身」を見ているのである。まあ、親が子の失敗を叱る時に、「同じ失敗を自分も過去にやらかしている」のと同じ理屈だ。
 ハッキリ言っちゃえば、私は自分自身も含めて、全人類が大馬鹿野郎のコンコンチキであると「平等かつ公平に」決め付けているので、私の罵倒から逃れられる人間はいないのである。だからまあ、私の文章を読んで、少しも不快にもならず怒りもせず、という人が常連さんの中にいらっしゃるとすれば、それはもう天使のような心の広いお方か、超鈍感か、はたまた罵倒されて喜ぶMさんのいずれかではないかとしか私には思えないのだが、あなたは、どのタイプでいらっしゃいますか?


 マンガ、森薫『エマ』6巻(エンターブレイン)。
 第一巻のころは、ほのぼのメイドさんものかと思っていたのが、何かもうものすごい大河恋愛大ロマンになりそうな気配の第六巻だけれども、アニメはたった12話ではとてもそこまでは行かなかったようだ(DVDで買ってるから、まだ最終回までは見てないのである)。しかし、原作がまたある程度進んだら、再アニメ化してほしいね。もう話はどんどん凄いことになってるから。
 エレノアとの婚約を解消し、エマとの結婚を決意するウィリアム。しかし、エレノアの父・キャンベル子爵は、ウィリアムの父・リチャードからの手紙を読んで、「陰謀」を巡らし始める。エマは、ウィリアムの名前を騙った手紙におびき寄せられ、拉致されてアメリカ行きの船に乗せられようとする……。
 何かもうここまで来ると、少女マンガの三大ロマンは『ベルサイユのバラ』『キャンディ・キャンディ』、そして『エマ』だと言いたくなるくらいの怒涛の展開。
 前巻から登場のキャンベル子爵、貴族主義の塊のような人物で、本当はウイリアムのジョーンズ家のことも「成り上がり者」と嫌悪しているくせに、なぜか娘との結婚話は強硬に実現させようとしている。そのハラがまだいっこうに見えないので、いささか不気味である。こういう紳士然とした悪役、『三銃士』のリシュリュー卿かドラキュラ伯爵かってもので、私の好みにドンピシャなのだ。もう、『エマ』が実写化されるんだったら、ぜひクリストファー・リーに演じてもらいたいってくらいなもので(キャンベル子爵はそこまでトシヨリじゃないけど)。こいつは自分が貴族だから、何をやっても許されると思っている。裏でエマを誘拐させといて、サロンで「近頃何か変わったことでも?」と問われて、「ないですね。退屈なものです」と無表情で言い切るこの冷たさ! こいつ、本当に「退屈」してるんだよ! エマのことなんて、歯牙にもかけてやしないのだ。ああ、やなやつやなやつやなやつ。
 権謀術数はお手のモノってな子爵にかかっては、ウィリアム坊ちゃんなどはとても立ち打ちできそうにないのだが、ラストのリチャード父ちゃんとの怒涛のような(この形容詞がどうしても多くなっちゃうな)応酬に、ちょっと「イケるかな?」と思い直した。
 ヒーローは常に逆境に立ち向かう。そして、その逆境に打ち勝つことができるのなら、ウィリアムとエマは絶対に幸せにならなければならない。ヒーローとヒロインもそうなろうとしているし、読者もそれを望んでいるし、当然作者もハッピーエンドを目指して、そこに至るまではこれでもかこれでもかという困苦と愛憎の物語を展開させてくれることだろう。
 その三者がみな幸せになるのが「ロマン」というものの正体なのだ。二人は決してロミオとジュリエットにはならないのである。

2004年09月07日(火) 入院顛末3・徒労
2003年09月07日(日) 「時代劇の復興」というのはこういうのを指すのだ/映画『座頭市』ほか
2001年09月07日(金) 夢の終わり/映画『王は踊る』ほか
2000年09月07日(木) 涙のリクエスト/『冷たい密室と博士たち』(森博嗣)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)