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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年09月03日(土) 復活のまつもと泉/DVD『クモ男の復讐』

 映画『ノロイ』があまりにも面白かったので(冗談が嫌いな方にはお勧めしませんが)、関連サイトをあっちこっち回ってみる。
 映画本編は登場人物もみんな「実在」ということになっているので、字幕に出てくるスタッフ名もカメラマンの「宮島なんたら」と構成監督の「小林雅文」だけである。松本まりかや高樹マリア、アンガールズ、飯島愛、荒俣宏、ダンカンといった実在人物のあいまに堂々と架空の「矢野加奈(超能力少女)」とか「堀光男(霊能力者)」という名前を紛れ込ませているから、スタッフもなかなか性質(たち)が悪い(笑)。
 もちろん、野暮なやからはいくらでもいて、「この人は○○○○という名前の役者さんだよ」と「真実」をバラしてしまっているのだが、言われてみゃ、あの映画に出てたあの人だったなあと納得はするのだが、あえて詮索するほどのことはあるまい。
 洋画の場合、役者やスタッフの名前は権利上、明記されなければならなくなっているから、「ノロイ」のような「イタズラ」はしにくい状況にあるが(この二十年ほどでラストのタイトルロールがやたら長くなっているのはそのためである)、日本はそのあたりのことがまだ曖昧なままなのだろう、まだもうしばらくは「小林雅文」は「小林雅文」のままでいられそうである。それでもいつかは削除されなければなるまいから、「小林雅文公式ホームページ」などのサイトを見ておくのは今しかチャンスはない。
 小林雅文の日記などは2002年から2004年まで、三年分がアップされているのだが、一日一日の日記の分量はそれほど多くはなく、飛び飛びの更新なので読み通すのにそんなに困難はない。単に日々の出来事を書いているだけではなくて、「怪奇実話作家」としての小林雅文のスタンスなどもコラム的に書かれてある。
 「『分からない』イコール『あると信じる』ではない。『分からない』から『あるかどうか知りたい』のだ」なんて記述もあるが、「小林雅文」を客観的かつ冷静な人物として仕立てようという判断が見て取れる。事件の取材者が霊能とか呪いなんてものを盲信するようなキャラクターであったら、物語が薄っぺらになってしまう。全編アンガールズにレポーターはさせられないってことだね(笑)。霊能の全くない一般人として設定したのも成功の要因だったなと思える。
 テレビの『超能力捜査官』特番に対する批判などもなかなかのものだ。「行方不明の人物の消息を複数の超能力者が透視して、『すでに死んでいる』『まだ生きている』などと公の場で発言してしまうことだ。(中略)生死に関する透視結果を公の場で、とくにご家族に対しては知らせるべきではないだろう」なんて「常識的な判断」をしているあたり、「小林雅文」が上っ面のキャラではなくてまさしくその「人柄」までもが設定されていることに舌を巻く。これは即ち演劇における「裏の履歴書」というやつだ。「小林」の役者さん、こんなのまで読まされて役作りさせられたんだろうなあ。
 川口浩が生涯「あの探検はヤラセだった」と口にしなかったように(インタビューで突っ込まれても「私は信念を持って探検しています」と言い張っていた)、小林雅文もまた、映画公開がすむまではその正体を一応は隠し続けるのだろう。役者さんやスタッフが納得してくれるのなら、このまま隠し続けてもいいと思うが。昨日の私の日記にも書いた通り、こういうオアソビは分かってるやつには分かっているのだから、わざわざスタッフの方からネタバラシされるのは野暮というものなのである。
 日記の中で面白かったのは、現実の事件とリンクしている記述で、映画中でも紹介されていた、「新宿ロフトプラスワン」での「怪奇実話ナイト」、2003年の11月26日に行われたという設定になっていて、なんと日記にはロフトプラスワンのホームページにリンクまでされているのだが、実際にそこに行ってみると、当日行われていた本当のイベントは、『さかもと聖保presentsダイエットライブ!!』である(笑)。まあ、痩せる思いをする(するだけで実際には痩せない)っていう点で共通点はあるのかな。
 全く、なかなか実力のあるライターさんが作られているのだなあと感心することだ。もしかしたら白石監督自らの手になるものかもしれない。確かに、新聞も週刊誌も読まずテレビも見ず、世間の一般的なニュースに関心がなくて、ネットだけで情報を仕入れているような人間なら、このホームページとかをざっと見て、「小林さんって、今行方不明になってるんだ! 心配だなあ」なんて騙されてしまうこともありえるかも。いや、かもじゃなくて、現実にやたらいるのがなんて言ったらいいのかなんだけれど。


 かつて『少年ジャンプ』に『きまぐれオレンジ★ロード』を連載していたまつもと泉さん、そのあとも何度か小さな連載はあったものの、プッツリと音沙汰がなくなってしまっていて、すっかり「消えたマンガ家」になってしまっていた。
 実はまつもとさんは「脳脊髄液減少症」という難病に罹っていて、六年間の闘病生活を続けられていたのである。この病気は、「脳と脊髄の周囲を循環している脳脊髄液が漏れて脳の位置が下がり、頭痛やめまいなどの症状が出る」病気で、治療法は「患者本人の血液を注射し、血液凝固で髄液が漏れた場所をふさぐ」という、聞いただけでイタくなるようなことをしなければならないとのことだ。
 まつもとさんは今もまだ治療中だが、体調は半分程度、回復したとのこと。これを受けて、新連載マンガも来年スタートを目指し、さらには自身の闘病生活もマンガにして出版する準備を進めているそうだ。あまり世間に知られていない病気であるために(まつもとさん自身も、自分の病気が何なのか分からずに40回以上も転院している)、原因が分からないままに長年苦しんでいる患者が世界中に大勢いるはずだという。まつもとさんは、「失意のまま死んでいった人もいるだろう。漫画の力でこの病気のことを伝えたい」と製作意図を語っている。
 マンガ家が連載を休載したとき、「作者病気のため」と断りが出るものの殆どが「ただの原稿落とし」で、本当に病気だったわけではない、というのは常識のようになっている。しかし、現実に本当に病気で描けなくなってしまっている人も多いと思う。何と言ってもマンガ家は過酷な職業だ。体力気力、ともになければやっていけるものではない。しかし、若いうちならばともかく、年を取ってくれば当然、それまでのムリが体に影響を与えていくようになる。まつもとさんの場合も、医者の話によれば「強い力で指圧を受けたことや、不眠不休による過労が続いたことで一気に悪化したのでは」ということだ。
 いったん、戦列を離脱したマンガ家に対する出版社の扱いは冷たいことが多い。まつもとさんがこうして復活の目途が立ったというのは、これまで描かれてきたマンガに本当に魅力があったこと、そして、流行に流されずに復活を待ち望んでいたファンがいたからこそだと思う。
 『きまぐれオレンジ★ロード』をお読みになった方ならばお分かりだろうが、第一巻と最終巻とでは絵柄が全く別人のものと言っていいほどに違う。連載中に作画技術が向上することによって絵柄が変化することはよくあることだが、ここまでの上達ぶりはちょっと普通ではない。まつもとさんがどれだけ「努力家」であったかが、絵柄から伺える。正直な話、『オレンジ★ロード』は、当初の超能力ドタバタものが次第にラブコメから深刻な三角関係ドラマに移行していったのが読んでいて辛かったのであるが(当時は私もまだまだ青春野郎だったしなあ)、それだけまつもとさん自身が人間としての心の深みを増していったのだと言える。
 病気を克服したまつもとさんがどんなマンガを描かれるのか、楽しみにしたい。


 夜、テレビで『積木くずし 真相』の後編。
 昨日の前編は見損ねたけど、後編だけ見ても筋は充分に分かるんで問題なし。
うちの日記、昨日から「積木くずし」とか「穂積由香里」とかのキーワードで検索してくるお客さんがかなりいたんだけど、たいして情報があるわけじゃないのにマメな人もいるものである。
 安達祐美は予想通り十代でも充分通じたが三十代は全然ムリであった。親子であることを強調するために館ひろしを必要以上に老けさせているように見えたが、ちょっとした表情が穂積隆信さんに似て見えて、ああ、この役者さん、こんなにいい味を出せる人だったんだなあと、『あぶ刑事』の印象しかなかった私は自分の見る目の無さを恥じた。
 ただドラマはもう脚本も演出も凡百のテレビ同様、過剰に過ぎていて、朋美(由香里さんは劇中ではそういう名前になっている)の死ぬ間際に「神様、もう少し時間を……」なんて陳腐なセリフを言わせるのはどうかと思う。朋美が残した手紙を読んで、信悟が海の中に駆けて行って泣き崩れるというのはもうお笑いでしかない。手紙濡れるぞ、波で(ってもう濡れてた。娘を最後まで大事にしない親である)。
 実話の映像化は本当に難しいけどね、ここまでわざとらしく演出しなきゃ視聴者には登場人物たちの悲しみが分からないと製作者たちが思ってるのであれば、かなり客を舐めた話である。もっとも、舐められても仕方がないくらい鈍感な客が増えたってこともあるんだろうけれども。


 DVD『クモ男の復讐』。
 『クリーチャーズ・フィーチャーズ』(怪物映画)シリーズの一本として、以前ボックス発売されていたものがバラで販売されることになったので、しげが大ファンなダン・エイクロイドが出演している一本を購入。
 原タイトルが「Earth vs. the Spider」(地球対蜘蛛)といやに大げさだけれども、これはこの映画が1958年の同タイトルの映画『吸血原子蜘蛛』のリメイクだから。更に言えば、その二年前の1956年に公開されたUFO映画『世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す』の原タイトルが「Earth vs. The Flying Saucers」なので、この映画のヒットに便乗するかのように「タイトルだけはスケールを大きくした」ことが見え見えの、なんともオサムイ映画である。……と思ったら、これ、映画じゃなくてテレフィーチャーなんだね。『クリーチャーズ・フィーチャーズ』の他の作品のタイトルがまた、『人食い人魚伝説』『怪奇異星物体』『獣人繁殖』『魔界覇王』とB級テイスト溢れるものばかりで、まあ最初からマトモな映画を期待しちゃいけないのである。
 2001年製作、という時期を考えれば、サム・ライミ版『スパイダーマン』の便乗企画であることは明白であるのだが、『ターミネーター』や『ジュラシック・パーク』の特撮を担当したスタン・ウィンストンが製作にも絡んでいるから、往年のB級特撮映画を自分の手でリニューアルしてみたかったということもあるんだろう。何しろオリジナル版の「巨大蜘蛛」は、実際の蜘蛛を拡大撮影したものを合成しただけである。今回は、特殊メイク、アニマトロニクスを駆使して、実に気色の悪い「蜘蛛男」を造形してみせている。背中からバリッと服を破って生えてくる三本ずつ対の足(あれ? 元の手足と合わせると10本足になっちゃうぞ?)が生えてくるところなんか、うねうねとなかなかの迫力で、蜘蛛嫌いのよしひとさんが見たら卒倒するだろうと思われるほどのリアルさだ。
 臆病者でアメコミオタクの警備員クェンティン(デヴォン・ガマーソール)が、スーパーヒーローになろうとして、自分が警備していた研究所で開発していたスーパー蜘蛛のエキスを自らの腕に注入したところ、ただの人喰い蜘蛛に変身してしまい退治されてしまうという、なんかもう、本家『スパイダーマン』をからかったような内容だけれども、「ホラー映画」「クリーチャー映画」の系列としては、この結末は正しい。
 けれども、いくら自分の臆病さに我慢がならなくなったからと言って(そのために同僚を強盗に殺されてしまっている)、クェンティンがいきなり蜘蛛のエキスを腕に注入するってのもムチャな話だし(つか、殺人現場に監視も置かねえで警察は何やってるんだか)、自分が蜘蛛に変わっていくのに病院にも行かずに部屋に閉じこもりっきりってのも理解しがたい。もちろん、ドラマとしては蜘蛛に変わってくれなきゃ困るわけで、治療なんてさせられないわけだが、もう少し何とかならないもんだつたかなあというのがB級のB級たるゆえんであろうか。
 それよりも、事件を負う刑事グリロ(ダン・エイクロイド)とその妻(テレサ・ラッセル)、その浮気相手の警官(クリストファー・カズンズ)との三角関係が描かれるのが、本筋とは何の関係もなく、ドラマの邪魔にしかなっていなくて、これが一応、この映画のタイトルロール上の「主役」である「ダン・エイクロイドの出番を作る」ためだけに作られた設定だというのがバレバレで、もちっと脚本を考えろよ、と言いたくなる。臆病者のクモ男を、妻に裏切られた臆病者の刑事が追う、という図式にしたかったんだろうけれども、たいして効果がないんだよねえ。
 しみじみと思うことは、『マリリンとアインシュタイン』でむちゃくちゃ美しかったテレサ・ラッセルが、もうこんなに老けてしまったという悲しい事実である(っつっても、もう二十年経っちゃって50の坂に届こうかって歳になってるんだが)。酔っ払ってばかりの演技で、こんな役でわざわざテレサ・ラッセルを使わなくてもいいだろうと、悪態の一つもついてやりたくなる。フィルモグラフィーを見てもろくな映画に出てないし、役柄に恵まれないと女優さんは老けるのも早いのかねえ。

2004年09月03日(金) 悲しい知らせ
2003年09月03日(水) 不明を恥じるハナシ/『ビートのディシプリン』SIDE2(上遠野浩平)
2001年09月03日(月) 変わるわよ♪ ……何がだよ/アニメ『こみっくパーティー』第1話ほか
2000年09月03日(日) 警察も役所/『ら抜きの殺意』(永井愛)ほか


2005年09月02日(金) 負けるな小林雅文!/映画『ノロイ』

 たまに行われる「日本人の宗教観」に関する意識調査、先月初旬に読売新聞が行った結果が、今朝発表になった。
 別におかしな結果が出たわけではなく、「何か宗教を信じているか」との質問に対し、「信じている」が23%、「信じていない」は75%。「宗教は大切であると思うか」という問いには、「大切」が35%、「そうは思わない」60%。つまりは「日本人の四人のうち三人は宗教を信じていない」という結果が出たことになる。
 養老孟司さんは、盆や正月の習慣が消えていないことを挙げて、「日本人に宗教観がないわけではない」と説明されてはいるが、少なくとも欧米の考える宗教とは全く性質を異にしていることは間違いのないところだろう。よく「国際社会において、無宗教であると表明することは神をも恐れぬ危険人物と見なされる」と問題視されることから、仕方なく「Shintoist」「Buddhist」と名乗れと言われてはいるが、現実に純粋な神道家や仏教徒など、日本人には殆どいない。神道も仏教も、我々にとっては「箸と茶碗で飯を食う」のと同等の、ただの「習俗」だからである。
 習俗が宗教だとは言えないのは絶対性を持たないからである。キリスト教徒が神を冒涜すれば、これはもう、悪魔の所業であって、「天罰」が下されることを覚悟せねばならない事態である。仮に「そんなことあるもんか」と思っていても、一抹の不安は残る。それが「宗教心」というものだ。しかし、宗教が習俗化した場合、そのような神の絶対性は殆ど有形無実のものとなる。「腹出して寝てるとカミナリ様がヘソ持ってっちゃうぞ」と言われても、本気でヘソを取られると思っている日本人は誰もいない。けれどもやはり親から子へ、子から孫へとその言い伝えだけは受け継がれていくのである。これが「習俗」というものだ。だから、霊魂なんて存在しないと思っていても墓参りができるのである。
 日本人には習俗はあっても宗教観はない。これは国際社会にあってはとても理解しがたいことだろう。仏教徒だとかウソをついて見せたところで、そんなのはすぐに化けの皮が剥がれる。「日本人であること自体が神を冒涜している」のである。だから、日本人がどうあがいたところで、真の意味で国際化することなんてありえない。世界が「宗教を持つこと自体が罪悪である」と認識しない限りは。
 そんなことは不可能だって? それはそうだ。けれど、それがやれなきゃ、日本はいずれ「悪魔の国」の烙印を押されかねないのだ。そしてそのためには日本人がもう一つ、克服しなければならない課題がある。
 調査では、「神や仏にすがりたいと思ったことがある」人が54%に達していて、「ない」の44%を上回っている。宗教を「信じていない」人の中でも、「すがりたい」人のパーセンテージは47%だった。神様なんていないことを知っているから、自分の力ではどうにもならないような事態に直面したときに、かえって「神様がいたなら」と思ってしまう。これは、日本人の心がいかに脆弱であるかということを如実に示している。
 日本人は弱い。そりゃもう、世界で一番軟弱な民族だと言い切ってもいいくらいだ。日本人の美徳として、謙虚さとか、奥ゆかしさとかが称えられることは多いけれども、そういうのは実は「宗教」という精神的な支柱が欠落しているために起きる「臆病さ」でしかない。苦しいときに頼まれてしまうその「神」とは、実は西洋の絶対的な存在ではなくて、ただの習俗としての神でしかないのだ。
 だから、日本人は本気で「強く」なろうとするのなら、たとえどんなに苦しい目にあっても、「神頼みだけはしない」くらいの精神力を持たなきゃならないのである。 ……ムリかな、やっぱ。

 
 しばらく書くことはないかなと思ってた、高校野球の不祥事の問題。
 今度はお膝元の福岡ですよ(涙)。
 甲子園代表の常連で、今年の夏も出場した柳川高校の野球部員二年生が、一年生部員に対して練習態度が悪いとの理由で、箒の柄で殴ったりしてけがを負わせたとのこと。高野連は柳川校の対外試合を禁止する臨時措置を決め、この結果、来春の選抜大会につながる秋季福岡大会には出場できなくなった。
 事件が起きたのが先月の末、数回に渡ってだと言うから、高野連の通達はまたまた無視された形になる。もう断定しちゃって構わないと思うが、野球やってるやつなんて頭ノーテンパーの猿ばっかなんじゃないか(昔、そんなこと言ってた野球選手がいたなあ)。
 ちょっと世間の注目を浴びてチヤホヤされただけのことで、自分たちがやってることがたかか高校の部活動に過ぎないという事実を忘れてしまい、何をやったって構わない立場にいると思いあがってしまっているのである。でなきゃ、こいつら、「喉元過ぎる」のがあまりにも早すぎるだろう。暴力振るっても「バレるわきゃない」くらいに舐めてたんではないか。記事には出ていないが、被害者に脅しをかけてた可能性だってある。そのメンタリティは殆ど「犯罪者」に近い。
 これだけ事件が続発しても、まだ野球部員たちに対して同情的な意見を述べたがる能天気な連中は多いだろうが、これが「一部の不心得者」の仕業などではないということに、いい加減で気付いたらどうなんだろうね。教育効果のない部活動なんか存続させる意味がどこにある。だから一回、甲子園大会を中止させるくらいの大鉈を振るわなきゃ、この陰湿な体質は絶対に治らないって。
 こうなるともう、野球ファンでも高校野球ファンでもない外野としては、「次はどこの学校の不祥事が発覚するかな」って陰険な見方をしたくなるね。それでまた野球トバクができたりしてな。
 そこのピュアなお方、もしあなたがまだ「健全な青春の汗と涙」なんてものを高校球児に見出そうとしてるんだったら、それって全くの幻想なんですからね。あいつら有名になって女とヤルことしか考えてないやつが大半なんだから。


 夕方、父の店に出向いて、姉にしげの髪を摘んでもらう。
 もうかなり伸びてきていて、いかにも鬱陶しそうだったし、ハカセの結婚式にも出なければならないから、「バッサリ切ってもらったらと言ったのだが、父も姉も「結婚式に短い髪じゃいかん」と言うのである。どういう理屈だかよく分からないのだが、結局、前髪、後ろ髪を切りそろえる程度にしておいた。それでも少しは明るい雰囲気になる。

 父を誘って、志免の「ウエスト」で焼肉。父のマンションの近所だけれど、父は今まで入ったことがなかったそうだ。適当に注文したら、なぜか注文した倍くらいの量の肉が並べられて驚く。ウェイターさんが入力ミスしたんだろうと思うが、今更戻せとも言いにくいので、ひたすら三人で食べる。糖尿二人に肝機能障害一人で焼肉食いまくるというのも困った図式なのだが、たまにはこういうことがあるのもしようがない。


 夜、ダイヤモンドシティのワーナーマイカル福岡ルクルで映画『ノロイ』。
 この「ノロイ」という発音を私はつい「“ノ”ロイ」と「ノ」にアクセントを付けて発音してしまうのだが、これはもちろん『ガンバの冒険』に出てくる大イタチ「ノロイ」の影響である。カタカナで書かれちゃうととどうしてもねえ。チケットを買う窓口では気をつけて「ノ“ロイ”」と言ったのだが、そしたら受付のねーちゃんが「『“ノ”ロイ』ですね」と返事をしたので驚いた。別にこの子が『ガンバ』のファンだとは思えないのだが。
 公開劇場数が少ないので、興行収入の上位に食い込んではきていないのだが、低予算映画としては、充分ヒットしているらしい。事前情報をあまり仕入れずに見に行ったのだが、『六番目の小夜子』の松本まりかが本人役で出演(つかほぼ主演)していたので驚いた。声が鼻声で癖があるけど、使いようによっては伸びると思っていたので、ちゃんと活躍してたのが嬉しい。

 物語は「怪奇実話作家の小林雅文」が謎の失踪を遂げ、残されたビデオテープに衝撃的な映像が残されていたという仕立てになっている。要するに『ブレアウィッチ・プロジェクト』の線なのだが、お話の中心に「小林雅文」という何ともバイタリティー溢れる、そしていささか向こう見ずというよりはかなり抜けたキャラクターを設定したおかげで、全編爆笑に継ぐ爆笑の「川口浩探検隊」風のトンデモ番組に仕上がっていた。
 もちろん、「小林」も最初の取材はまだまだおとなしめである。とある主婦からの「隣の家からいないはずの赤ん坊の泣き声が聞こえる」という投書で、「小林」は件の家を訪ねるのだが、その家に住む女・石井潤子は、「なんでそんな言い方ができるんだよ!」と意味不明なことをわめき散らすばかりである。このときは「小林」はあっさりと引き下がるのだが、この時のビデオテープに、奇妙なノイズが収録されていたことから、「小林」は不屈の闘志を持って事件の解明に取り組んで行くことになるのだ。石井潤子はこの直後にいずこかへ引っ越し、なんと取材した主婦と娘さんが事故で亡くなってしまうのだが、普通のレポーターならこの時点で怖がって取材を諦めるところだ。ところが我らが「小林雅文」は決してくじけない。
 全く事件とは関係ないと思われた超能力少女が透視した奇妙な顔の映像、心霊番組に出演した「霊能力者」の呟いた謎の言葉、アンガールズと松本まりかが心霊スポットを取材したときに映っていた白い子供のような影。一つ一つの現象が絡み合って、大きな幹を作り上げていく様子を「小林雅文」は臆することなく追っていく。「小林」の行くところ、呪殺されたとしか思えない死体が山積みされていくが、「小林」はあたかも“自分にだけは呪いがかからないと確信しているかのように”取材を続けていく。不法侵入も平気の平左、向かうところ敵なしである。いったいその自信はどこからくるんだ「小林」! つか、取材する前に警察にちゃんと通報しろ! お前は名探偵コナンか!
 「危険から守るため」と称して松本まりかを自宅にかくまったりしてるが、プロダクションとマネージャーがよくそんなこと許したものだ。まさか黙って匿った? もしそうなら「小林」が誘拐犯である。
「小林」はようやく全ての謎を解く「禍具魂(かぐたば)」という言葉にたどり着いて、かつてダムの底に沈んだ「下鹿毛村」で行われていたという「鬼祭(きまつり)」の存在を知る。そしてその祭りで最後に巫女を務めていたのが石井潤子だったのだ……。
 「小林」(及びカメラマン)の何が立派かと言って、たとえどんなに自分に危険が迫ったときであっても、決してビデオカメラから手を放さないことである。おかげで決定的瞬間の映像がどれだけ撮れたことか。超能力少女がポルターガイスト現象を起こしたときなんか、よくぞその瞬間に居合わせたものだと、その運のよさには拍手を送ってあげたいほどだ。ついうっかり、カメラを落としてしまったときでさえ、カメラは「絶好の角度で」「絶妙の位置に」落ちて、やはり決定的な瞬間を撮り逃さない。
 きっと「かぐたば」さんは自分を撮ってくれる人が現れるのをずっと待っていたのであろう。だから最後まで「記録者」である「小林」は殺されることがないのだ。……私を見て! 私を撮って! ってなもんですかね。おちゃめさんね、カグタバっちって。

 もちろんこの「映画」は、ドキュメンタリータッチを装ってはいるが、全てフィクションである。
 当然そのことを知った上で、「らしさ」と「わざとらしさ」の「あわい」を楽しむためのもので、パンフレットにも書いてあったことだが、「モンドフィルム」の流れにあるものである。
 スタッフは実に凝り性で、「小林雅文」が実在していてもう何年も前から活動していたかのようにホームページを立ち上げ、架空の出版社まで存在しているかのように見せかけている。もちろん、内容をよく読めば「これはフェイクですよ」という印はちゃんと示されているので、そこに突っ込む楽しみがちゃんと提供されている。
 映画本編も、たとえ事前情報を全く知らない人が見ても三分でこれは「本物らしく見せかけたフィクション」であることがちゃんと分かるように仕立てられている。ドキュメンタリーならモザイクかけるはずのところに一切そういうのがないもんな。だからこれは決して「ホラー映画」などではなくて、「ホラー映画仕立てのお笑い番組」なのである。

 だからまあ、私は、まさかこの映画を見て、「このお話は本当にあったことなのかどうか?」なんて迷って怖がる手合いが存在しようとは思いもよらなかったのだ。
 ところが帰宅して、カトウ君の日記に『ノロイ』について書いてたのを読んでみて、「これはウソんこですからね!」と力説していたので、あれれ? と首を捻ってしまった。カトウ君は「ネタバレ」になることを気にしていたようだが、『ノロイ』がヤラセ番組であることはネタバレでもなんでもなくて、観客の常識である。どこの世界に「川口浩探検隊」が本当だと信じているやつがおるか。オアソビなんだから、監督や出演者や製作会社が宣伝上、嘘ですよと言えないのは当然のことである。これは映像を見ながら「がんばれ小林雅文! 負けるな小林雅文!」とエールを送りながら見る映画なのである。

 「小林雅文が〜廃墟に入る〜♪
 飴で作った蜘蛛の巣や〜、おもちゃの鳩の死骸だらけの〜、廃墟に入る〜♪
 廃墟の中には〜、首吊り死体がある〜♪
 どう見ても重心が〜、肩の方にズレている〜、首吊り死体がある〜♪
 死体の向こうには〜、誘拐された子供たちがいる〜、何ヶ月も風呂に入っていなくて〜、飯もろくに食ってないはずなのに〜、妙にツヤツヤとしてメイクまでしている子供がいる〜♪
 行け〜行け〜、コバヤシマサフミ、行け〜行け〜、コバヤシマサフミ、行け〜行け〜、コバヤシマサフミ、どんと、行けー♪」

 もしかしたら、世間には、この程度のオアソビも理解できない連中が意外と多いのか? と不安になった。
 でもってネットを調べてみたら、さすがに完全に信じ込んだ例はそうそう見当たらなかったが、「半信半疑さん」は結構いらっしゃる。「半疑」だってするこたないだろう、アンガールズも「オクラ映像を勝手に使われた」とかわざとらしく騒いでいるけれども、それも「仕込み」だよ、とネットを散策しながらそんな意見にぶち当たるたびに突っ込み入れながらタメイキをつくハメになってしまった。
 中には、ウソだと分かったあとで、「こんな人を騙すような映画の売り方をするなんて許せない」なんてマジメに怒ってらっしゃる方もかなりいらっしゃる。だから「本当らしく」見せかけてはいるけれども「ちゃんと嘘だ」と分かるように仕立ててるんだから、これは「騙し」でも何でもないの。本気で騙されるやつの読解力があまりにも足りないだけの話だ。だいたいこれが実話の取材だったら、こんな事件がほかでニュースになっていないことの方がおかしいだろう。
 そんなこんなで、この映画の「Yahoo」掲示板での評判はかなり悪いのだが、やっぱり「映画の見方も分からない」手合いがもう世間にはうじゃうじゃいるってことなんである。文化の継承ってのはこんなにも難しいことだったんだなあと再度タメイキ。

 『ノロイ』のパンフレットを見て知ったのだが、諸星大二郎の『妖怪ハンター』シリーズの一編、『生命の木』が、『キダン(奇談)』と題して映画化とか。またもやマンガの実写映像化であるが、一番期待しちゃうのはこれになりそうだなあ。原作、ムチャクチャ好きだし。
 稗田礼二郎は前作『妖怪ハンター ヒルコ』の沢田研二に代わって、阿部寛とか。また『トリック』演技をされてもちょっと困るが、できればスタイルは原作通りにしてほしいね。
 映画化に合わせて諸星さんがまた原作シリーズを再開してくれると嬉しいな。そのときはきっと「稗田先生って阿部寛に似てるわね」という台詞が出てくるのであろう。
 キャッチフレーズはぜひ「おらといっしょにぱらいそさ行くだ!」にしてほしい(笑)

2004年09月02日(木) 孤独な狂気の果てには
2003年09月02日(火) 頼むから朝だけは送ってくれ/映画『大学の若大将』/『ハレグゥ』1巻&『アストロベリー』1巻(金田一蓮十郎)ほか
2001年09月02日(日) 風が痛いから?/『新天地無用! 魎皇鬼』1巻(奥田ひとし)ほか
2000年09月02日(土) 山本正之・あ・ごーごー


2005年09月01日(木) シメキリギリギリ/映画『奥さまは魔女』

 今度の舞台の脚本、しげから言い渡されていたシメキリは昨日だったのだが、まだ殆ど進んでいない。調べものがかなりあって、あれこれ本ばかり読んでるんで進まないのだが、まあそんなのは言い訳である。
 「書き上がんないなら中止するよ!」のしげの怒声に、「一週間待って」と頭を下げる。毎度毎度、シメキリ過ぎなきゃエンジン掛からないのは自分でも困ったものだとは思うけれども、煮詰まったところから絞りカスのようにして出て来るアイデアほどいいものだったりするものなので、もうチョイ、忍耐して暖かく見つめておいていただきたいのである。


 「クールビズ」の浸透度が大企業の八割以上を占めたとか。
 うちの職場も一応は大企業と言えなくもないので、この夏ずっと、あっちこっちの壁に「9月30日まではノーネクタイ、ノースーツで」と貼り紙がしてあったのだが、何分これまでは全く逆に「必ずスーツにネクタイを」だったので、この180度の大転換にはみんないささかならず戸惑ったのである。私も言われて一週間くらいは切り替えていいものかどうか迷ってしまった。「罠ではないのか」とか、疑心暗鬼になってしまったのである(被害妄想みたいだが、騙し打ちや裏切りはうちの業界では日常茶飯事である)。
 その結果、職場内は、従来通りの夏でもスーツにネクタイでビシッとした人がいるかと思えば、開襟シャツにノーネクタイのラフな人までいるという、よく言えば各人の考え方が一目瞭然で個性的な、悪く言えば統一感のない状態になってしまった。たかが衣服のことなんだけれども、これで「派閥」関係が部外者にすら見えるようになったってのが大笑い。「ああ、ここんとこ、内紛が激しいんだな」ってバレちゃってるのね。
 まあ、私もすぐにネクタイを外せなかったのは、「即外し」の連中と同じ穴の狢だと思われるのがちょっとヤだったんである。かなり全体に広がってくれたおかげでこちらもようやく外せたんだけれども。
 でまあ、次の課題は、一応9月30日までノーネクタイでいいってことにはなってるんだけれども、その「どれくらい前の段階で」ネクタイに戻すか、そのタイミングなのである。
 あー、大企業ってこんなつまんねえことにも気を遣わなきゃなんねえから腹立つ。給料高くねえのに。


 しげの好きな役者さん、劇団ダンダンブエノを主宰されている近藤芳正さんが、NTTのフレッツ光・プレミアムのCMに出演している。「近藤芳正って誰?」と思われる方もいらっしゃるだろうが、長澤“小美人の片割れ(南ちゃんなんて言ってやるもんか)”まさみを相手に、光ブロードバンドの宣伝マンを演じている、ぺたっとした顔にちょんちょんちょんと目鼻がくっついた印象のあるあのオジサンである(歳は私より一つ上の43歳)。
 しげはこれまで、「好きな役者さんは?」と聞かれたときに「近藤芳正さんとか」と答えると決まって「誰それ?」と返されてしまっていた。『ウォーターボーイズ』や『世界の中心で、愛をさけぶ』とか超有名な映画にも出演していらっしゃるのだが、これがまた、「ほら、あの真鍋かおりの旦那さんを演じた」とか「『セカチュー』で先生役やってた」とか言って説明しても、見てる人ですら覚えてはいらっしゃらないのだ。一番出番が多い映画って言ったらやっぱり三谷幸喜の『ラヂオの時間』の鈴木京香の旦那さん役になるのかなあ。……なんか、気弱な旦那さんって役柄が多いね。
 でも、東京サンシャインボーイズに客演されていた時代から、誠実で善良な人間を演じたかと思えば、いい加減で人を煙に巻く傲慢な人間、ひがみ根性丸出しの卑屈な人間など、幅広い役をずっとこなされていた方で、読売演劇大賞を受賞した舞台版『笑の大学』では脚本家・椿一を演じ、三谷幸喜さんにとっては盟友と言ってよいほどなのだが、それでもまだまだ一般的な知名度は決して高くはない。
 このCMでブレイクするかどうかは分からないけれども、「ホラ、長澤まさみと一緒に出てる」と言えば少しは通りがよくなったかもしれない。三谷さんの新作映画『THE有頂天ホテル』にも当然出演するので、ご注目いただきたい。

 
 毎月一日の映画の日なので、しげと待ち合わせてキャナルシティで映画『奥さまは魔女』。
 先にフードコートで軽くヤキソバを食って、福家書店で何冊か本を買ったあと、映画館に向かう。
 先週の興行収入が三位と言うから、そんなにヒットしてるんか、席は空いてるんかいな、とちょっと心配していたが、入場してみるとそこそこの入りで、混んでいるというほどでもなかった。たいていの客は『室井慎次』の方に行ってるんだろう。どっちもお客さんの評判はあまり芳しくないらしいが、『奥さま』の場合、リメイクものだってことで既にハンデがあるのである。多少は大目に見てやろうかって気分で見たおかげで、腹が立つとまでには至らなかったが、確かにもちっと工夫がほしかったな、という印象ではある。
 基本設定は「この手があったか!」と膝を打ちたくなるくらい、いいアイデアだと思うんである。普通に『奥様は魔女』をリメイクするんじゃなくて、「『奥様は魔女』をリメイクしようとしたら、ホンモノの魔女をキャスティングしちゃった!」という意外性。つまり、劇中劇のドラマと、そのバックステージが二重に楽しめるという、まあよくある手法ではあるんだが、「リメイクもので」これをやったってのはあまり例がない。
 それもサマンサ役がまた、シティボーイズの皆様方も憧れの(っつってもきたろうさんと斉木さんだが)演技派、ニコール・キッドマンだというのだから、ちょっとこれは期待したくもなるじゃないのよ。
 ところがねえ、これがなかなか面白い方向に転がっていかないんですよ。まず、主演のニコールにどうしても愛嬌が足りないのがドラマを今ひとつハジけさせてくれない。唯一無二のサマンサ、エリザベス・モンゴメリーと比べるのは気の毒ではあるのだが、ニコールがどんなに表情を豊かにしようとしても、「キョトンとした顔」「しかめっ面」「ツンとした顔」「慌てふためく顔」「ホッとした顔」、その一つ一つがエリザベスに比べて魅力に欠ける。
 いや、そもそもサマンサがそんな顔をするのは彼女の回りに様々なトラブルが生じるせいなのだが、今回、ニコール演じるイザベルは、ほとんどトラブルというほどのトラブルには見舞われない。たとえバックステージものだとしても、「トラブルのない『奥さまは魔女』」など、リメイクの価値があると言えるだろうか?
 イザベルの父、ナイジェルを演じるのはマイケル・ケインである。サマンサの父親、モリースが、人間との結婚に激怒してダーリンを散々な目に合わせたことを思い出せる往年のファンならば、このナイジェルが、イザベルを口説いたジャックに何らかの鉄槌を下すんじゃないかと期待するだろう。ところがナイジェル、エンドラ役のアイリス(シャーリー・マクレーン!)に惚れちゃってイザベルのことなんか気にもかけなくなってしまう。……何のために出てきたんだこのオヤジ、っつーか、役者の使い方間違ってるよ!
 ナイジェルの代わりとばかりに、オリジナル版でもボケた魔法で人気のあったクララおばさんがジャックに呪いをかけるのだが、これが効き過ぎて、ジャックがイザベルにぞっこんになっちゃうというのも、「クララおばさんにしては」地味な失敗である。どうしてジャックを犬にするかワニにするか皇帝ペンギンするかくらいのことをしなかったのかね。魔法の面白さがまるで伝わってこないのである。
 ジャック役のウィル・フェレルも熱演はしているのだが、もともと落ち目のスター役者という設定で、普段からハイテンションで過剰な行動を取っているから、魔法にかけられて急にロマンス野郎に変身したりしても、たいしてその落差の面白さが出ないのである。普段はマジメなサラリーマンが奇妙な行動を取ったりするからおかしいのに、ダーリン役の人間を元からエキセントリックなキャラに設定してどうする。監督も役者も、ギャグのコツってものがまるで理解できていないのだ。
 人物設定の分かりにくさも随所でドラマを停滞させてしまう。オリジナル『奥さまは魔女』はこの映画の中でもあくまでドラマだから、サマンサやダーリンは当然、架空の人物である。ところがクララおばさんやアーサーおじさん、隣のグラディスさんとかはこの映画の中でも実在人物なのだ! これはどう考えればいいんだろうかね?(多分、監督は何も考えていない)  
 も一つ文句を付けると、あまりに原語と違ってしまっている戸田奈津子の翻訳。シットコムを「テレビショー」と訳すのはあんまりだ。撮影中に、観客席が映し出されるから勘違いしたんだろうけれども、あれが「笑い屋さん」でサクラだってこと、彼女は知らないんだろうか? 単にボケてきただけかもって気もする。劇中で引き合いに出された『かわいい魔女ジニー』を「宇宙飛行士の出るやつ」なんてテキトーに訳してるのも何なんだか(ちゃんと「ジニー」と発音してるのに!)。ほかにも意味がよく分からない訳が目白押しで、この映画がつまんなく感じた最大の原因は字幕にあるかもしれない(吹替版はオリジナルを担当した北浜晴子、中村正諸氏がご出演とのこと。こっちを見ればよかったかなあ)。
 シャーリー・マクレーンが時々、オリジナル・エンドラを演じたアグネス・ムーアヘッドに似て見えるあたりがせめてものこの映画のよさだと言えるだろうか。

2004年09月01日(水) 『華氏911』余燼
2003年09月01日(月) 「じゃないですか」って言ってる人が多いじゃないですか/映画『用心棒』/『呪恩2』(清水崇・MEIMU)ほか
2001年09月01日(土) 加藤夏季補完計画(笑)/『スペオペ宙学』(永井豪)ほか
2000年09月01日(金) 食って寝るだけの毎日も今日まで/ドラマ『横溝正史シリーズ・本陣殺人事件』ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)