無責任賛歌
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| 2005年08月07日(日) |
日本人の「常識」/映画『妖怪大戦争』 |
『仮面ライダー響鬼』第二十六之巻 「刻まれる日々」。 26話でちょうど折り返し。もっとももう八月に入っちゃってるから、52話放映できるかどうかは分からない。最終回とか一時間スペシャルにしてくれるとか、そういうサービスがあるといいんだけどね。 ちょこちょこといろんな設定が明らかにされてはいるが、「夏の魔化魍」ってのもかなりいい加減。つか、「黒い謎の男から作られる大きな魔化魍と、白い謎の男から作られる人間と同じ大きさの魔化魍の2種類があって、等身大の魔化魍は夏になると出てくるため、『夏の魔化魍』と呼ばれている」なんて、無駄な設定、作りすぎ。まあドラマは相変わらずまったりしてるけど、まったりしすぎていて、果たしてきちんと終われるのかどうか心配になってきた。つか、終わんなくてもいいのか。なんかいつどこで終わってもおかしくないくらい日常ドラマになっていて、今や特撮版『渡る世間は鬼ばかり』になってる感じだ。まあ下敷きは『寅さん』だけどね。 今回、下條アトムがお休みだったけれど、単に役者の都合なのか、これもドラマ上の何かの伏線なのか。この人も役に立ってんだか立ってないんだか全然分からないね。
ノルマを果たすようにキャナルシティで映画をハシゴ。 一本目は『妖怪大戦争』。 水木しげる・荒俣宏・京極夏彦・宮部みゆきの四人共同のプロデュースだけれど、印象としては、「京極色」画より強く出ている感じがする。ともかく妖怪ファンの妖怪ファンによる妖怪ファンのための映画で、次から次へと繰り出されて来る妖怪を見ているだけで楽しい。最初は人間が妖怪を顔出しで演じるということで不安もあったのだが(昔の大映版では「油すまし」や「ぬらりひょん」はかぶりものをしていた)、竹中直人がCGでドデカ頭にさせられていて、ちゃんと油すましに見えたのには大笑い。あれは最後までデカアタマで通してほしかった。 必ずしも伝承にある妖怪ばかりではなくて、京極さん命名の「新しい」妖怪も多数で、どれが創作された妖怪か探すのも一興だろう。私は大満足であったし、会場満杯の親子連れも大笑い、これはなかなか評判がいいんじゃないかと思っていたのだが、帰宅してネットの反応を見てみると、必ずしもそうでもなかったので、ちょっと驚いてしまった。しかもその中身がかなり「混乱」しているのである。
映画の何に惹かれどこを見るかというのはもちろん自由である。物語に惹かれるも、キャストに惹かれるも当人の自由であるし、どんな感想を抱いたって自由だ。 ただそれは「基本的には」ということであって、その映画を見るにはそれなりの「素養」が必要になることは常識であって、映画によっては「素養」に欠けた人間の感想や批評は、無意味などころか映画の価値を不当に貶めることにもなりかねない。 外国映画で、キリスト教的世界観が分からなければ何のことやら見当もつかない映画はたくさんあるが、そんなことに一向に無頓着に感想を述べて頓珍漢なことを書き散らしているプロと称する批評家は腐るほどいるのである。 けれども、外国映画のことを日本人が分からない、というのなら仕方のない面はある。けれども、日本人が日本人としての「素養」を知らないということになれば、これはかなりゆゆしき事態ではないかと思う。
映画に関して賛否両論が巻き起こるのは当然のことだが、『妖怪大戦争』のネットなどでの感想、「否」を唱える人の意見がどうにも「的外れ度」が高いのである。どれだけ混乱しているかというのは、この映画について、「所詮は子供向け」「オトナのお友達しか楽しめない」と正反対の反応があることからも分かる。この映画を「子供が見るか大人が見るか」という視点で見ること自体、「的外れ」なんだが、批評の言葉が少ないというか、映画を見るキャパが狭い連中には、その程度の常識的な見方もできないのである。つか、なんでそんなやつらばっかり映画を見に来てるんだよ。 確かに映画のセオリー、ドラマツルギーを考えた場合、あえて定石を外している展開は随所にある。しかしそれはこの物語の目的が、映画としての辻褄を合わせることよりも、妖怪という「習俗」をいかに映像に定着させるかという点にあるからで、その前提を理解せずに批評をしても、それはやはり単に難癖をつけることにしかならないのである。 妖怪の中にも「戦争」をするやつらはいるが、それは狸とか河童とか、数の多いやつらだけのことだ。「落剥した神々たち」は下手をすると人間に「祟る」ことすら忘れてしまっている例が多い。「油すまし」などはどんな妖怪だか分からず、伝承の中ではただそこにいるだけである。 代表的な反論か「妖怪が戦わないので拍子抜け」というものだが、作中で「妖怪は憎まない、戦わない」存在であるということが言明されているのだから、戦うわけにはいかないのは当然なのである。「四の五の言わずに戦え」と怒り狂ってた人もいるが、何を阿呆なことを言っているのかと理解に苦しむ。よっぽど戦争が好きなのであろう。
代表的な反論として、「PREMIERE」誌の次の批評を参照してみよう。
>「妖怪大戦争」三池崇史監督以下、豪華なプロデュースチームが放つ自信作だが… > 妖怪というマイナーな存在を広く一般に知らしめたのは、言うまでもなく水木しげるの一連の著作とアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」である。
基本的な素養がないと言うのはこのことで、冒頭のこの文章で「はあ?」である。「妖怪がマイナー」って、こいつの出身地には妖怪の伝承は全くなかったのか? 「腹を出して寝てると“雷様”にへそを取られる」とか「川で遊んでると“河童”に尻こだまを抜かれる」とか。確かに地方ごとに妖怪の伝承はあって、その地域でしか聞いたことのない妖怪というものはあるけれども、全国区的に「有名な妖怪」はいくらでもある。「鍋島の化け猫騒動」が何度映画になったと思ってる? 「なまはげ」は東北だけにしか知られてないか? 福岡などは河童伝承には事欠かず、私も子供のころに近所の「河童おじさん」から延々と河童の話を聞かされたことがあるぞ。 文学の世界でだって、江戸期以降、妖怪・怪異の類はいくらでも扱われている。小泉八雲の、泉鏡花の妖怪譚はマイナーなのか? 柳田国男の『遠野物語』や『妖怪談義』の存在を知らないのか? 「口裂け女」や「人面犬」や「トイレの花子さん」など、今も妖怪は生まれ続けているのに、こいつはそういうのを全て「マイナー」と言い切るつもりなのだろうか。 水木しげるさん自身だって、妖怪の話を初めて知ったのは「のんのんばあ」から聞いたのだと自伝等の著書に何度も書いていることである。『鬼太郎』以前から各地に妖怪伝説はあったのだ。 けれども、ネットを散見するとこのライター氏と同様の馬鹿意見がやたら幅を利かせているのだ。妖怪はどうのこうのと余計なウンチク垂れるな、なんて意見もあるが、これはウンチクではなくて、「素養」の問題なのである。もし皆さんの中で、「だって『鬼太郎』読むまで妖怪なんて知らなかったもん」と仰る方がおられるのならば、妖怪もいない悲しい環境に育ってきたのだなあと同情を申し上げる。そういう話をしてくれるじいちゃんばあちゃんがただの一人も身近にいなかった孤独な人だってことだから。 けれどそういう人間にはもともと「妖怪」を語るための素養が備わってはいないのだということを自覚していただきたいものだ。
> いや、1960年代に大映が放った妖怪三部作も忘れちゃならない。三池崇史監督がメガホンを執ったこの久々の本格的な妖怪映画は、大映版を下敷きにしつつ、水木しげる、荒俣宏、京極夏彦、宮部みゆきという豪華な顔ぶれがプロデュース・チームを組んで原案に参加したという期待の1本。が、その仕上がりは“微妙”なものと言わざるをえない。 > 最新デジタル・テクノロジーではなく、あえてチープなアナログ感漂う着ぐるみ&特殊メイクを前面に押し出して妖怪を映像化した選択は悪くない。ひょんなことからひ弱ないじめられっ子から妖怪界の救世主、麒麟送子(きりんそうし)に祭り上げられる人気子役、神木隆之介もはまり役で、特大サイズの剣をふるっての大奮闘を披露。妖怪に出くわすたびに愛くるしいびっくり顔を浮かべ、女妖怪、川姫のむっちりとした太股に悩殺される彼の熱演を眺めているだけでも楽しい。 > しかし神木君を取り囲む妖怪たちがはしゃぎすぎで、“大戦争”が繰り広げられるはずのクライマックスはさながらほろ酔い気分の妖怪たちの大宴会といった風情になってしまい、緊張感は皆無。せっかく神木君扮する主人公タダシが捨て身で勇者へと成長を遂げたというのに、彼の活躍とは関係のないところで悪がずっこけるというオチにも拍子抜け。愉快なエンターテインメントではあるが、締めるべきところは締めてほしかった。
ここまでトンチンカンだともう笑うしかない。 そもそも妖怪たちには加藤保憲(豊川悦史)と戦う意志も力もないということにこのライター氏は全然、気がついていない。一緒に戦おうと仲間に呼びかけても、ほとんどみんな臆病風に吹かれて逃げて行ってしまう(このあたりのシチュエーションは『鬼太郎』版『妖怪大戦争』へのオマージュ)。だいたい呼びかけ人になっている猩猩(近藤正臣)、川姫(高橋真唯)、川太郎(阿部サダヲ)の三人(匹?)が、自分たちで戦う気などサラサラなくて、だからこそ稲生家の子孫であるタダシ(神木隆之介)に「麒麟送子」の役目を押し付けているのである。 その「麒麟送子」が結局は役立たずなのも、彼が所詮は憎しみや恨みに支配されてしまう「人間」に過ぎないからで、「捨て身で勇者へと成長を遂げた」りなどしてはいない。加藤保憲が「人間の憎悪」を糧にして東京の破壊を試みようとしている以上、タダシは最初から最後までカトウに利されるだけの存在でしかないのである。 人間の努力を鼻で笑い飛ばすように「彼の活躍とは関係のないところで悪がずっこける」からこそ面白いのである。最終的に加藤を倒すのが人間・佐田(宮迫博之)と妖怪・小豆洗い(岡村隆史)の“最も無力な”コメディアンコンビだという点にこの映画の人を食った(いかにも妖怪らしい)「粋さ」がある。それを感じることができないというのは、これもやはり「素養」がないからなのである。 「締めるべきところは締めてほしかった」なんて、ちゃんと締めてますがな。「小豆」の伏線もちゃんとじいちゃん(菅原文太。ボケ演技はこの人にしては名演技)が張ってくれてるし、だからこれは伝承や習俗に拠ってる映画だから、妖怪映画として最も適切な終わり方をしているのである。ウソをついて「大人」になったタダシに妖怪たちの姿が見えなくなるってのも、ちゃんと「座敷わらし」の伝承を受け継いでいるのである。あれを否定するのなら、『となりのトトロ』も否定しなさい(別の意味で私は否定するが)。 ……そう言えば、ぬらりひょん(忌野清志郎)がタダシに向かって「お前、靴が破れたからって捨ててるだろう!」と説教するシーンを見て、「靴が破れたら捨ててもいいじゃないか! 理不尽だ!」と怒りの意見を書いてた人がいたが、これがその理不尽さを狙った「ギャグ」だって気付いてないんだなあ。昔から「化け草履」とか、古くなったモノがこういう「付喪神」になるって感覚はこれも常識的な習俗としてあって、別に「もったいない」という感覚とは関係がないのである。モノは理不尽にも妖怪になるものだって素養がないからギャグの一つも分からなくなっちゃうのだよ。 まあ、タイトルに『妖怪大戦争』とあるから、すっかり騙されてしまうのだろうが、「ほろ酔い気分の妖怪たちの大宴会」になってしまうのもわざと「看板に偽りあり」をやってるんで、「妖怪大戦争」のセリフが、「そこに紛れ込んだだけで状況が何も分かってない」佐田の口から出ているという点に着目すべきなのである。妖怪とか鬼とか、よく山ん中で宴会やってるわなあ。そこに紛れ込んじゃった人間がいかに脱出するかって民話とか、たくさんあるよなあ。昔話の『こぶ取りじいさん』とか落語の『田能久』とかの素養もないのかよ。……って、どうしてこうも「俺たちの世代までだったらすぐにピンと来る素養」がこんなにも失われてしまってるのだ? 確かに、ある程度の知識がないと「これはどういうこと?」と疑問符の浮かぶ説明不足の描写はある。なぜ妖怪と対決する役目がタダシに振られたのか。タダシの名字が「稲生」であることと、最後に山ン本五郎左衛門(荒俣宏)と神野悪五郎(京極夏彦)が登場することに気付けば、彼が『稲生物怪録』の稲生平太郎の子孫なのだなと分かって、それは疑問にもならないのであるが。でもさすがにこれは地元の三次に住んでる人たちでも知ってる人はあまり多くはない伝承だろうから、気づけと言っても難しいかもしれない。 加藤と川姫、安倍晴明(長澤俊矢)の間に何があったのかも一切説明はされない。だいたい、陰陽師の格好こそしているけれども、加藤の後ろに立ってたのが晴明だとはパンフを見なけりゃ分かるこっちゃない(ワンカットの出演なら、野村萬斎に来てもらえばよかったのに)。川姫が「ヒトガタ」だったことを考えれば、晴明に式として使われ捨てられ、そこに加藤が付けこんだのだろうと見当はつくが。私が驚いたのは、「将門以前」に加藤が存在していたことで、つまり加藤の正体は千年の地霊だということなのだろう。ともかく関東に人がはびこってること自体が気に入らないのだな。 このあたりは確かに描写として不親切ではあるが、何となく察することができればいい程度のことで、本筋を辿る邪魔にはならないし、腹を立てなきゃならんことはないのである。私が「これはどうかな」と思ったのは川姫の扱い方くらいで、「憎しみを持つのは人間だけ」のセリフを「絶叫」させちゃちょっと妖怪らしくない。あそこは「所詮タダシもただの人間」と、加藤だけでなくタダシもまた糾弾する(自分で麒麟送子にしておきながらヒドイ話である)シーンなのだから、もっと静かに演じてほしかったところだ。 三池崇史の映画もかなり見てきたが、その演出は、総じて「雑」なので、ディテールに関しては不満が残ることが多い。意外に海外での評判はよいようであるが、去年の『IZO』とか、ドラマなんてないに等しかったけど、一種のトリップ・ムービーとして見られているのだろうか。『妖怪大戦争』も海外展開が考えられているようであるが、日本文化がマトモに継承されていない日本よりは海外の方がかえって作品を深読みしてくれて好評を得るかもしれない。もしそうなれば、またしても「日本人は自らの文化すら知らない」と失笑を買うことになりかねない。世の親御さん、この映画見てお子さんから「これどういうこと?」と聞かれたら、ちゃんと説明してあげてね。説明できたらの話だけど。 余談だが、主役(実はそうじゃないけど)の神木隆之介君、『インストール』では上戸彩のチチ触ったり、今度は高橋真唯のフトモモ触ったりイイ思いばかりしているが、学校で友達に苛められたりしてないだろうか。心配である。
続けて『亡国のイージス』も見たのだが、規定分量をオーバーするので、これは明日の日記で。 ここまでやたら書かなくてもいいと言われそうだが、まだこれでもかなり内容を省略しているのである。映画の見所も見えないのに批判するやつが多くてホント困るよね。
2004年08月07日(土) キャナルシティの『ブルース・ブラザース・ショー』3……多分4まである(^_^;) 2003年08月07日(木) さよならロドリゲス/『クロノアイズ グランサー』2巻(長谷川裕一)/『謎解き少年少女世界の名作』(長山靖生) 2002年08月07日(水) コギャルかく語りき/DVD『久里洋二作品集』/『ヒカルの碁』18巻(ほったゆみ・小畑健)ほか 2001年08月07日(火) 代打日記 2000年08月07日(月) 胃袋には限界があるのだ/『江戸幻想文学史』(高田衛)
| 2005年08月06日(土) |
60年間の原爆/舞台『おじいちゃんの夏』 |
『ウルトラマンマックス』第六話「爆撃、5秒前!」(装甲怪獣レッドキング 両棲怪獣サラマドン 飛膜怪獣パラグラー 電脳珍獣ピグモン登場)。 二話連続、前回の続きで完結編だけれども、まあ予定調和でこんなもんかって終わり方だった。「歩く爆弾」レッドキングの扱い方は旧ウルトラマンと同じように見えるけれども、旧作が水爆を飲み込んでたって設定だったのに対して、今回は島そのものが爆薬で、その岩を飲み込んでいるって設定に変わっている。なんで岩なんか食ってたんだレッドキング。 水爆なんてツマラヌものを作っちまった人間の浅知恵に対する批判が今回なくなってしまったのは残念で、なるべくメッセージ性を排して純粋エンタテインメントに徹しようというつもりなのかもしれないが、話もその分、薄く軽くなっちゃってるのはなんだかなあである。もっともこの薄さは『ティガ』以降の平成ウルトラマンシリーズに全て共通している要素なんで、今更文句言ったって「色」が変わることはありえまい。でもこの「薄さ」に慣らされちゃってる若いファンが増えてしまって、前作『ネクサス』に過剰なまでの反感を抱いてしまったのはやはりウルトラシリーズにとっては不幸であったと思う。話の広がりと言うか、新しい試みができないような状況を作っちゃってるからね。シリーズというものはこうしてだんだんとマンネリ化し、逼塞していくものなのである。
広島の原爆投下から60年。 戦争体験者は、それも終戦時に成年に達していて、あの戦争がどういう戦争であったのかを実体験を元に語れる世代はもう80歳以上になっている。 「風化を許すな」というスローガンはもう何十年も声高に叫ばれてはいるが、けれども実際にその風化を食い止めるための実効力のある試みがどれだけなされていたのだろうかと思う。 「原爆投下は戦争終結のために必要だった」と考えているアメリカ人は人口の八割に上る。未曾有の犯罪を自己正当化して傲然と構えている連中がそれだけいるのである。これは、日本人がアメリカに対して実質上、「反戦のための働きかけを何もしてこなかった」ことの結果ではないのか。自分たちが間違っているという可能性を少しも考えない連中に、ただ「核捨ててよ」と言ったって聞き入れるわけがない。もっと強権的に、たとえ敗戦国民であろうとも、「人間として」、「非戦闘員を大量虐殺する方法に正当性などない」という主張を、アメリカの政府に、マスコミに、教育機関に働きかけることをどうして日本人は怠ってきたのだろうか。 確かに、毎年毎年、8月6日に、9日に、15日に、広島や長崎は世界に向けて不戦のメッセージを発しているが、どこで誰がそれを受け止めているのだろう。あんなものはただの風物詩にしかなってはいない。 反戦を訴えながら、現実には日本は日米の協調路線を戦後60年に渡って継続させてきているのだ。政治的なレベルでは日本がアメリカに「核廃絶」を「本気で」訴えたことなど一度もない。現実に核も戦争も許容している歴史に協力していながら「反戦」を題目のように唱えたところで、誰がそれを信じるというのだろう。これでは日本の国内でも戦争の記憶が劣化していくのも当たり前である。 広島の小学生たちの四割は、60年前の戦争のことも原爆投下のことも知らないという。原爆慰霊碑の「過ちは繰り返しませんから」の「過ち」という言葉に反感を抱いてキズをつけようとした馬鹿も現れている(慰霊碑のあり方に不満があろうが、それを暴力的に破壊しようとする行為が許されるはずがない)。これは「風化」などというヤワい言葉で表される現象ではない。 日本人はこの60年、積極的にあの戦争を忘れようとしてきたのだ。8月が来るたびに戦争が「過去のもの」であることを確認し、その実態を思い返すことを拒否してきたのである。 そういう事実を無視して、広島は、長崎は、まだ十年一日のごとく「戦争は人が死ぬからダメだ」の単純かつ表面をなぞっただけの空虚な言葉を発し続けるつもりなのだろうか。たとえ日本が日米安保を破棄できなくても、広島と長崎だけは反米の姿勢を貫かなければならなかったのではないか。家族を、同胞を、愛する人々を虐殺された無念と怨念を、アメリカにぶつける必要があったのではないか。広島と長崎の声は、我々日本人にも届いてはいない。原爆は60年間、まだ投下され続けているのである。そして未来も。
実は今日はマンガ家の西原理恵子さんのサイン会が福岡で行われていたのだが、ほかに予定が先に入ってしまっていたので行けない(涙)。 北九州のリバーウォークまで、舞台『おじいちゃんの夏』を見に行くのである。 今回は、細川嬢とお友達のK嬢ともご一緒なので、一時半に九産大前駅で待ち合わせる。ところがしげが寝坊するわ、駅に着いたら着いたで、無茶苦茶激しい雷雨に見舞われるわで、大変な目に遭った。直径二センチはある雹がダダダダダと降っていて、駅から外に出られなくなってしまったのである。 少しばかり小降りになったところで、K嬢の運転する車に慌てて移動したが、それでもちょっとばかり濡れた。席を少し湿らせてしまって申し訳ないことであった。ところがこの雨が北九州に向かって走り出した途端、キレイサッパリ上がってしまったのだから、なんだか空にからかわれたような気分である。 リバーウォークには道を二、三回間違えながら到着。細川嬢もK嬢も現地には二、三回、行ったことがあるそうだが、そのたびに道を間違えているそうである。やっぱり女脳というのは「地図が読めない」ものなのだろうかと考えたが、これは女性差別じゃないよね。
会場は北九州芸術劇場の小劇場。中や大は入ったことがあるが、小は初めてだろうか。大きさが違うだけかと思ったら、椅子が折りたたみ式の簡易なもの。中や大に比べると、ちょっと「造りが甘い」感じである。 『おじいちゃんの夏』は今回が再演で、作・演出はもちろんG2さん。初演は見ていないので比較はできないが、ストーリーは同じでもキャストに若干移動があるようだ。
ある夏の嵐の夜、「ハハキトク」の電報に、山田家のお父さん・育雄(廣川三憲)とお母さん・政子(佐藤真弓)は慌てて実家に飛んで帰ってきた。ところが二人の前に現れたのはまるで元気なおばあちゃん・鈴(武藤晃子)。びっくりしながらもホッとする二人だったが、そこへおじいちゃん・惣一郎(小須田康人)が顔を出し、「たった今、鈴は亡くなったよ」と言う。じゃあ、今ここにいるおばあちゃんは? おばあちゃんは暢気に「あら、私、死んじゃったんだねえ」と微笑む。そしておばあちゃんの幽霊は、最後におじいちゃんに謎の言葉を残して消え去る。「あれをお願いしますよ、あゆみに」。 おじいちゃんには「あれ」が何だか分からない。それどころか、ショックでおじいちゃんの頭はボケ始めてしまった。そして、3年の月日が経った。 おじいちゃんの世話をするために。山田一家は実家に引っ越してきていた。おじいちゃんはもう、家族の顔もまるで分からなくなっているが、いつものんびりとマイペースで、そんな姿に、孫のあゆみ(武藤晃子・二役)は、何か癒されるものを感じていた。 ところが夏休みを目前にして、山田家にとんでもない事態が遅いかかって来る。お父さんが会社をリストラされ、お母さんがサラ金で一千万円もの借金を作っていたのだ。 借金の取りたてに山田家にねじ込んできた目黒組のヤクザ・太宰正臣(及川直紀)に向かって、お母さんはこともあろうに「あゆみが出場するクイズ番組で優勝して、一千万円を手に入れる」と見得を切ってしまう。けれどその番組「クイズ・ペアでミリオネア」は、家族ペアであることが出場条件。お母さんはクイズなんて全然ダメ、お父さんは舞台度胸がない。いったいどうすれば? しかも、同じ番組に、あゆみのクラスメートで目黒組組長の娘・もみじ(小沢真珠)も出演が決まっていた。子分の桜田しじみ(高木珠里)を従えて親分気取りのもみじは、何かというとあゆみにライバル意識を持って突っかかってくる。今回も太宰をパートナーに、優勝を狙っていたのだ。なんとかトラブルを回避したいあゆみだったが、担任の高崎先生(粟田麗)はちょっと天然が入っていてあまり頼りにならない。 結局、あゆみのパートナーになれるのはおじいちゃんしかいない。友達の坂本健太(小野ゆたか)に協力してもらって、クイズの特訓に明け暮れるが、おじいちゃんは普通の会話もままならなくなっていて、前途は多難。しかし、そこに思いも寄らない「奇跡」が起こったのだった……。
一言でまとめちゃうと、G2版『アルジャーノンに花束を』って印象。ちょっとネタをバラしちゃったかな。 ファミリー演劇も、人情喜劇も初めてで勝手が違ったのかもしれないけれど、果たして「演劇」として作らなければならない物語だったのか、むしろ映画にした方が面白かったのではないかという疑問が残る。 小須田康人がメイクで老人に扮しているわけだが、これは本当に60代くらいの役者が演じた方がボケの面白さは表現できるだろうし、子供たちだって本当の子供が演じた方がいい。女の子はまだそうでもないが、サカケンを子供に見立てろというのは、ちょっと無理がありすぎる。子供向けの芝居というのはよりリアルを追求しないと逆にそっぽを向かれてしまいかねないということに、G2さんは気付いていないのだろうか。 「小学六年生」のもみじが、オトナの女性に変装しておじいちゃんを誘惑する、という設定も、演じているのが色気ムンムンの小沢真珠だから、元に戻っただけである。“これではギャグにならない”。現に、ここで会場の子供たちはほとんど笑っていなかった。「だってオトナじゃん」って感じるばかりで、シラケてしまうのである。小学六年生なら本当に大人っぽい女の子もいるから、実際にそういう子を探し出してきて演じさせた方が、「えっ、この子が小学生なの!?」って驚きを共感できるわけで、そっちの方が面白いに決まっているのだ。役者がいくつかの役を演じ分けているのもこの芝居の場合はいただけない。 小須田さん以下、役者の皆さんは決して下手ではないし、熱演もされているのだが、申し訳ない言い方になるが努力が空回りしている。これはもともと「企画のミス」なのである。 児童演劇がその観客対象である子供たちからかえってそっぽを向かれてしまうのは、大人には通じる「見立て」が子供には通じにくいのだということを充分に理解していない点に原因があることが多い。子役をそんなに抱えられないという物理的な事情もあるのだろうが、こういう点に気を配っている児童劇団って、実は少ないんだよね。児童劇、ファミリー劇について言えば、原則として「大人は大人の役しかやれない」のである。「大人が何を子供のフリしてるんだ」って思わせちゃダメだってことを認識しないと、結局児童劇は他の演劇から一等低いものとしてしか扱われないのである。
物語自体は本当に「いい話」だと思うのである。 おじいちゃんはもうすぐ「逝って」しまう。それは冒頭のおばあちゃんの死からも予測されていたことだ。おじいちゃんの寿命が尽きるあと3年、わずか3年のうちに、あゆみに伝えておかなければならないことがある。 それは、目に見えて崩壊していく息子や孫たちの間に、「見えない絆」が実はあること、そのことに気がついてもらうことだ。おじいちゃんとおばあちゃんがお父さんやお母さんを愛し育て慈しんだように、どんなにだらしなく見えてもお父さんとお母さんがあゆみを愛しているのだということに気付いてもらうことだ。 家族の崩壊が如実に現れている現代に、この芝居が訴えているものの意義は大きい。そしてその「絆」は親から子へ、子から孫へと継承されるものであるから、どうしても「おじいちゃんの口から語られねばならない」のである。 そのことを考えれば、「年寄りのフリをした」あるいは「子供のフリをした」役者がこの芝居を演じることに欺瞞の匂いが漂ってしまうことにはどうしても避けることができないのである。
それから余談だけれども、作中、おじいちゃんが語るトリビアの一つに、「不良品のことを指してどうして『オシャカになる』と言うのか」ってことについて、説明がないままであったが、そもそもイマドキの小学生は「オシャカになる」なんて言葉は滅多に使わないだろうから、これも脚本としては不自然である。 これの語源については、知らない人はどうぞ自分で調べてください。
2004年08月06日(金) 女の子がいっぱい 2003年08月06日(水) 落ちていくのーねー♪/『ミステリー民俗学者八雲樹』5巻(金成陽三郎・山口譲司)/『クレヨンしんちゃん』36巻(臼井儀人) 2002年08月06日(火) プールサイドの妖精……誰が?/映画『パワーパフガールズ ムービー』ほか 2001年08月06日(月) 復活日記(笑)1・加筆もあるでよ/村上春樹『約束された場所で』ほか 2000年08月06日(日) まぬけ三態/『テレビ消灯時間2』(ナンシー関)
| 2005年08月05日(金) |
ああ、勘違い/『海野十三敗戦日記』(海野十三著・橋本哲男編) |
夜7時から、天神岩田屋本店(元の「Zサイド」)NTT夢天神ホールで、『Musical Mates Planning vol.3 ミュージカル コズミック・ダンス』を見る。 原作・脚本が堤亮二、原案・演出が井上ひさお、作曲は山口紗希栄・佐藤金之助・井上寿夫。詳しくは知らないのだが、みなさん地元の方だろうか。 この劇団の芝居を見に来るのは初めてだけれど、劇団名からも分かる通り、毎回オリジナルのミュージカルを上演しているらしい。出演者は総勢34名、うらやましいくらいの大所帯である。 物語はこんな感じ。 大洪水から数百年を経た世界。残された陸地をめぐって、人々は果てることのない争いを続けている。戦火から取り残された東の珊瑚礁の島に、郵便飛行機が誤射で打ち落とされ不時着する。その島は精霊たちの住む島であった。そこでパイロットは、妹に似た女性に出会う。懸命に修理を続けるパイロット。現実と架空が交錯する中、彼は自らの生き方を自問自答し始める……。 地方のオリジナル芝居が面白いということは滅多にないが(失礼)、これは設定と出だしにはなかなか見せるものがあった。しかし、いかんせん、登場人物が多すぎる。メインになるのはパイロットと妹、そしてその子供時代の幻想である二人の四人だが、そのドラマを縦糸に、島の住人たちや精霊たちのそれぞれのドラマが横糸のように描かれていくのであるが、残念ながらそれぞれのドラマが有機的に絡んでこない。ただひたすら大筋とは無関係なドラマが挿入されるばかりで、これが物語の幹を壊し、全体として散漫な印象に終始させてしまっている。 キャラクターを減らして、もっと主人公たちの心をかき乱すような存在として精霊たちを設定し、また洪水後の世界との関わりをもっと目に見える形で描いていれば、舞台にもっと緊迫感や詩情も生まれたはずである。どうしてこんな話があっちこっちにふらつく本を書いたのかなあと疑問に思ったが、つまりこれ、この劇団が役者をたくさん抱えてるせいなんだね。できるだけみんなにいい役を振ろうと思ったら、どうしても「そういう脚本」にするしかないのだ。けれど、脈絡のない話をブツ切りで見せられるほうはたまったものではないのである。 オリジナルの音楽でミュージカルを、という姿勢は高く評価したい。ただ、印象に残るほどの曲が少ないのと、やはり役者の力量にばらつきがあって、「聞ける」人と「聞けない」人の差が激しい。「使う」立場から行くと役者は簡単に切ることができないのだろうが、「見る」立場からだと「あいつとこいつは要らないなあ」とどうしても感じてしまう。人が少ないと、今度は「使えないやつも使わないといけない」事態になるので、それもまた悩ましいことではあるのだが。 それからこれは芝居の本筋とは関係ないのだが、気になって仕方がなかったことが一つある。舞台になっているのがどうやら未来の沖縄らしく、セリフに「ニライカナイ」とか「マナ」とか琉球語がしょっちゅう出てくるのだが、その中に「キムジン」あるいは「キムジナー」という単語があったのである。パンフを見ると精霊のことで、「樹夢人(キムジン)」という字を当てるとある。 これでズッコケてしまったのだが、沖縄の伝承にある精霊の名は、「キジムン」ないしは「キジムナー」である。樹の上の精という意味で、「キ」は「樹」、「ジ」は助詞で、「ムン」は「モノ」である。「ムナー」となるのは複数なので、すなわち「樹の者たち」である。 昔、水木しげるがこの妖怪を『日本妖怪図鑑』か何かの自著で紹介するときに、うっかり誤植して「キムジナー」にしてしまっていた。おかげで私もかなり長い間、「キムジナー」が正しいと思い込んでしまっていたのだが、後に発行された本ではちゃんと「キジムナー」に訂正されている。 ところが、もう30年も前の記述を鵜呑みにしたまま、未だに「キムジナー」が正しいと信じ込んでいる人が結構いるようなのである。恐らく、この芝居の作者も、昔、水木さんの本を読んで、勘違いしてしまっているのではなかろうか。わざと言葉を変えなきゃならない必然性がないからである。 しかしこの劇団の人たち、結構人数いるのに、一人も「キジムナー」のこと知らなかったのかなあ。映画『ホテル・ハイビスカス』でも名前が出てきてたし、ちょっとでも沖縄のことをかじってたら聞いたことくらいはあるだろうし、結構有名だと思ってたんだけど、沖縄はまだまだ遠いのかね。九州からでも。 今度の芝居に客演していただく予定の草生四葉さんが出演されているので、見に行ったのだが、正直な話、少しばかり期待外れであった。四葉さんご本人は可愛らしかったのだけれど。
芝居の帰り、駐車場から車を出すときに、手を繋いだカップルとすれ違った。 狭い路地なので、しげのヘタな運転ではちょっと引っ掛けてしまいそうな気配だったが、何とかすり抜けて表通りに出ることができた。 「人、撥ねるなよ。ここ狭いんだから」 「そうなんよ。いっつも撥ねそうになるっちゃ」 威張って言うこっちゃない。ふと「カップル」を見ていて、先週の『仮面ライダー響鬼』を思いだした。明日夢の母さん(水木薫)が「アベック」という言葉を使った途端、日菜佳(神戸みゆき)が「あ、アベック?」とむせるシーンである。 で、しげに振ってみた。 「知ってるか? 今はもう『アベック』って言葉は死語らしいぞ」 「え? そうなん?」 「もう『カップル』としか言わないんだろうな。外来語もどんどん英語化されてくよな」 「でも、『アベック』って言ったら、なんか『濃厚な男女関係』って感じがするやん」 「フランス語じゃ“avec”って英語の“with”なんだけどな。『一緒に』って意味しかないよ。“couple”だって、もともと恋人同士を表す言葉じゃないのに。どうして素直に“lovers”って言わないのかな」 「『ラバーズ』は言わんやろ」 「昔は言ってたよ。歌にもあるじゃん。『私〜の〜、ラバさ〜ん〜、酋長の〜、ムスメ〜♪』って」 ここで、しげがしばらく沈黙した。そして急に「ああ!」と叫んだ。 「どしたん?」 「『ラバさん』の『ラバ』って、“lover”の『ラバ』かあ!」 「……そうだけど……。お前、今までどういう意味だと思ってたんだよ」 「馬の『ラバ』」 「……確かに、子供のころならそう勘違いしてたってのも理解できるよ。でも、今の今まで、生まれてこの方30年以上、気が付かなかったってのはどういうこと?」 「意味通じるから」 「通じねーよ! 『私のラバさん』って、なんでラバに『さん』付けするんだよ。それにラバが『酋長の娘』って、ラバがどうして人間の娘になるんだよ!」 「いや、ラバはラバで、別に酋長の娘はいるんだよ」 「意味わかんねーよ!」
※ちなみに『酋長の娘』というのは、1920〜30年代にはやった流行歌である。 「私のラバさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人 赤道直下 マーシャル群島 椰子の木陰で テクテク踊る 踊れ踊れ どぶろく飲んで 明日はうれしい 首の祭り きのう浜で見た 酋長の娘 今日はバナナの 木陰で眠る 踊れ踊れ 踊らぬものに 誰がお嫁に ゆくものか」
日本が南進政策を取っていた時代だから、当時この歌もさぞや大衆の南への夢をかきたてたことだろうが、現代ではとても暢気に歌える歌ではなくなっている。歌そのものは暢気なんだがね。 そんな古い歌をどうして私が知っていたかというと、当然、母が歌っていて覚えたのである。けれど私より十以上若い(はずの)しげがどうして知っていたかはよく分からない。見かけは若いが、あれで戦前から生きてる可能性も捨てきれないのである。
それからしばらく、「意味を勘違いして覚えている歌はないか」という話でひとしきり。マンガ家の中田雅喜さんの娘さんが『花』の「げにいっこくもせんきんの」を「げに一刻堂千金」と勘違いした話とか。 恐らく、若い人の殆どは『仰げば尊し』とか意味も知らずに歌ってるだろうとか、『巨人の星』の「思い込んだら」を「重いコンダラ」だと勘違いしてたってのはヤラセっぽいとか(誰が最初に言い出したのだろう)。 でも私の場合、記憶を辿ってみても、そんなに面白い思い間違いをしていたという経験がないのである(聞き違えてもすぐに自分の間違いに気付くか、単に意味が分からないままでいるかのどちらかだ)。多分、分からないコトバがあったら、すぐに親とかに聞いていたからだろう。
マンガ、天樹征丸原作・さとうふみや漫画『探偵学園Q』21巻(講談社)。 ついにあと一巻で完結。最終エピソードとなる『棲龍館殺人事件』(「館モノ」だよ!)は今巻では終わらずに、次巻まで持ち越しである。作者としては質・量ともに力を込めて、華麗なるフィナーレを、という趣向なのであろう。 けれども作者の意図に反して、本作に対して世のミステリファンの大多数が「ふざけんな早く終われ」と目ん玉ひん剥いて怒り狂っていたであろうことは想像に難くない。ともかくパクリや稚拙なエピソードが多すぎたからね(あまりにツマラン話はアニメ化の際、修正されまでしてたものなあ)。 けれども私は、前作『金田一』ほどには嫌いではなかったのである。これは最初からあまりキッチリした本格ミステリは目指してなかったからね。 だから、わざとらしいくらいにリュウが犯人に仕立てられようとしていても、「密室」と並んで必然性を持たせることにかなり苦労する「見立て殺人」を持ち出してきても、あまりメクジラ立てずにすんなり読んでいるのである。 しかしまあ、面倒くさい見立て殺人を考えたもんだ。「龍生九子」? 「饕餮(とうてつ)」くらいは諸星大二郎の『孔子暗黒伝』で知ってたが、ほかのは全然知らなかった。「贔屓(ひいき)」って龍の名前だったのかよ。だったらこれが龍の名前からどうして「目をかけてやること」って意味になったのか、そこまで説明してくれたらよかったのに。まあ本筋とは関係ないんだろうけれど、ミステリに無意味なペダントリーは憑き物、ああいや、付き物だから。
海野十三著・橋本哲男編『海野十三敗戦日記』(中公文庫)。 まさかこれが文庫化されようとは思いもよらなかった。本屋で見つけたときには、本気で目を疑った。おかげで、購入したものかどうか、一瞬、迷ってしまったほどである。 それだけ興奮してしまったのは、海野十三(うんの・じゅうざ)という名前に対する思い入れがかなり強いからである。どういうことかと説明し始めたら、もうこれは今日の日記が書ききれないので、もう無理に無理をして、箇条書きでまとめてしまおう。
・海野十三は、戦前・戦後にかけて活躍した探偵小説家、空想科学小説家である。「日本SF小説の父」と呼ばれる。星新一、小松左京、筒井康隆、手塚治虫、藤子・F・不二雄ほか、影響を受けた作家、マンガ家は数知れず。 ・数多くの少年小説、科学読物を著し、当時の少年少女たちに雄大な夢と科学的合理主義を啓蒙した。しかし同時に積極的に戦争協力し、戦意高揚小説も多数著していた。 ・敗戦後、自らの責任を感じ、自殺まで決意する。しかし「生命ある限り科学技術の普及と科学小説の振興に最後の努力を払う」ことを決意し、なお四年を生きた(病没)。それほどに清廉な人であった。 ・代表作に、『深夜の市長』『地球盗難』『火星兵団』『浮かぶ飛行島』『名探偵帆村荘六シリーズ』など。
本書はその海野十三の昭和19年『空襲都日記』と同20年『降伏日記』を併せ収録したものである。敗戦のナマの記録としての価値があるだけではない。海野十三が「清廉の人」であることも忘れてはならない。 日本が未曾有の危機に晒されているときに、国を愛する心があれば積極的に戦争協力することも当然ありうる。平和ボケした現代の視点でただやみくもに当時の日本人を十把一絡げに愚かであったと断定するのは決して正しい判断だとは言えない。海野十三は日本の戦略の杜撰さ、防衛力の貧弱さ、軍部の非合理な精神主義、そして敵国の科学技術の進歩も原子爆弾の存在も正確に理解していた。そんな状況を作家として少しでも打開しようとして、科学小説の執筆に打ち込んだ。 空襲の危険を警告した小説を書いたこともある。まさにそれは国民への衷心、愛国心ゆえであった。しかし精魂込めて書き上げた憂国の小説は、軍部の検閲で発行が停止されることになる。軍部の返事はこうであった。 「帝都上空に敵機が来ることなどありえない」。 これがただの精神主義=妄想であったことは歴史が証明している。あの時代、誰もが妄想に取りつかれていた。戦局が悲惨の一途を辿ろうとも、東京が大空襲を受けようとも、イタリアとドイツが降伏しようとも、日本人は根拠もなく自らの勝利を疑わなかった。 そんな能天気な人々を見ながらも、海野十三は絶望しなかったのだ。現実から目を背けず「世界の移り変わりを見る」ことを決意した。しかしその決意も「折れた」。 広島と、長崎の原爆で。 昭和20年の時点で、既に海野十三は、これが戦闘の名に値しない暴挙であることを激烈に非難している。この敗北が日本単独の敗北でなく、「世界の敗北」であり「科学の敗北」であることを喝破している。それでなお自らの責任を感じ、自決しようとまで考えたのだ。 あの戦争を無条件に信仰し美化する者も、また左翼イデオロギーに取り憑かれて貶める者も、等しくこの日記を読むがよい。たとえその時代に生きていても、妄想に取り付かれ何も見えてはいなかった者の日記と、海野十三のそれは一線を画するのである。 本当に歴史の闇から「蒙を啓く」者があるとすれば、それはやはり海野十三が示してくれた「科学的合理主義」の精神だと思う。我々が戦後60年で忘れてしまったものとは実はそれではないのか。 何だか最近はこの日記で「近頃の若い連中はモノを知らない」と嘆くことが多くて、劇団のみんなとかは「最近、鬱陶しさが増したなあ」と感じてるんじゃないかと思うけど、まあ性分なんでカンベンね。面と向かって説教するような野暮はしないから。
2004年08月05日(木) 尾篭なお話。 2003年08月05日(火) 仕事ひと区切り/『金魚屋古書店出納帳』1巻(芳崎せいむ)ほか 2002年08月05日(月) いのち棒に振って/『おせん』其之四(きくち正太)/『ワンピースブルー』(尾田栄一郎) 2001年08月05日(日) ちょっとさよなら/『シルバー仮面・アイアンキング・レッドバロン大全 宣弘社ヒーローの世界』ほか 2000年08月05日(土) しまった、翌日になっちゃった/『人喰いの滝』(有栖川有栖・麻々原絵里依)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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