無責任賛歌
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
| 2005年04月04日(月) |
たらいまわしの私/『DEATH NOTE(デスノート)』6巻(大場つぐみ・小畑健) |
新しい職場であるが、これがやたらだだっ広い。昨年度までの職場と比べると、多分三倍はある。それくらい広いとなると、どういう現象が起きるかというと、社員の誰かに内部のことについて聞いても、「よく知りません」という返事が返ってくるのである。 いやまあ、新しくあれやこれやとやんなきゃならない仕事が増えたものだから、どこの部署に行けばいいかと、人づてに聞いていったのだが、これがサッパリ要領を得ないのだ。 「ああ、それなら○○課の○○さんに聞いてください」 「それは私よりも○○課の○○さんのほうが分かると思いますよ」 「いや、私はよく分かりませんねえ。○○課の○○さんなら分かりますよ。ええもう絶対」 「いや、私にそんなこと聞かれても」 ……どないせえっちゅうねん。 郊外の支社だというのに、前の職場よりも○○課だの○○課だの、十も二十も部署が分かれてるせいでこんなことが起きるのだが、まるで黒澤明の『生きる』の冒頭シーンそのまんまである。……ってよう、社内にいる人間が苦しめられるシステムって、いったいどうなってんだ。なんだか今度の職場もいろいろ苦労しそうではある。
博多駅でしげと待ち合わせ、新しく定期券を購入。転勤で何かと物入りになってしまったので、実は私の小遣いはもうない。映画にも行けないが、それどころか定期券も買えそうになかったのでしげから借金したのだ。情けない話であるが、もともとはしげが仕事を辞めて実入りが減っちまったので、そのしわ寄せが一番大きい。 何にせよ、予定外の出費でオロオロしている状態なので、セールスとか宗教とか、私に金目当てで近づいたりしないように。無い袖も襟も裾もスカートも振れんわ。こないだからひっきりなしに「マンション買いませんか?」なんて電話がかかってくるんだけど、私の職業までちゃんと知ってるし、個人情報流してるのはどこのどいつだ。
食事は博多駅の「吉野家」で、二人とも牛焼肉丼。 安上がりだし、誘ったのは私なのだが、「そんなに吉野家が好きか」と言われてちょっと怒る。しげが肉好きなのはビョーキだから仕方がない面はあるのだけれど、「高い肉の店」ばかりに行きたがるのは、経済的なかなり苦しいのである。「ウエスト」だろうが「牛角」だろうが、チェーン店でも焼肉屋は結構高くつく。二人で3000円、4000円は普通だ。その点、牛丼屋なら牛皿とかを余計に頼んでも2000円以内ですむ。 今日もしげは「選べるのが牛丼しかないのがイヤ」なんて糞贅沢なことをほざいていたが、「吉野家」には豚丼だって鶏丼だってあるのだ。しげの脳内では「牛丼屋=しみったれた貧乏人が食いに行くところ」という牛丼屋好きが聞いたら激昂しかねない図式が出来上がっていて、いくら違うといっても聞き入れようとしない。いかにもうらぶれたサラリーマンとかオタクっぽい学生とか薄汚れたジャンパー着たガテン風のおっちゃんとか、居酒屋に行けよお前、みたいな下賎の民が集う場所だと思い込んでいて、それで食わず嫌いになっているだけなのである。でもなあ、そんなふうに偏見の目で見ているお前自身がなあ、紛うことなき「貧乏人」の一員なんだよ。 いい加減で現実を認識しろよってことで無理やり牛丼屋に連れて行ったのだが、私の肉を分けてやったらやっぱりがっつくように汁も残さず食い尽くしたのである。庶民の口には充分美味いぞ吉野家の牛焼肉丼。 ついでに言うが、ファーストフードの店だって、我々貧乏人は、本当は「モスバーガー」とかに寄っちゃダメなのである。「ロッテリア」でギリギリ、「マクドナルド」の「チーズバーガー」で充分贅沢。そういう感覚でいてもらわないとなあ。
マンガ、大場つぐみ原作、小畑健漫画『DEATH NOTE(デスノート)』6巻(集英社)。 こないだ鯨銃一郎の『新・世界の七不思議』を読んでいたら、何の説明もなく「デスノートに名前書くぞ」という台詞が出てきて驚いたが、ミステリマニアの世界でも、本作は「基礎教養」として認知されているのだ。 けれど、最近の5、6巻あたりは、メインストーリーに絡み損ねている第三のキラまで出してくるし、露骨に「場つなぎ」の印象がして、以前ほどのテンションは維持できなくなっている。厳密に数えちゃいないが、今巻は月(ライト)の登場シーンがかなり少なくなってるんじゃないか。第三のキラの正体も、はっきり言って「面白くない」。RPGなら中ボスですらない、「咬ませ犬」のようなキャラでしかない。なんだこれは、これじゃあ今までの「ジャンプシステム」で作られた十把一絡げのマンガと代わらないじゃないか。どうしちゃったんだガモウひろし(ホントにそうなのか?) ……と思わせておいて、も一つどんでん返しがあれば面白いのだけれど、連載のほうはなるべく読まないようにしているので、この先どうなるか詳しくは知らないのよ。休載中なのは知ってるんだけど、つまり「煮詰まっちゃった」ってことなのかなあ。だとしたら無理やり連載続けさせてきたジャンプがまた一つ「被害者」を作り出したってことになるのかもしれない。切に復活を望む。
マンガ、細野不二彦『ダブル・フェイス』6巻(小学館)。 『ギャラリーフェイク』のほうは完結だそうだから、これからはこの『ダブル・フェイス』と『闇の乱破』が細野さんのメインの仕事ということになるのか。……ちょっと小粒ってかんじだけど。本当は細野さんにはSFを描いてほしいんだけど、あまりマニアックなものが受け入れられにくい今のマンガ界の状況を考えると、ちょっと難しいかな。 本作も昼間は街金のしがない営業員・春居筆美(最近になってやっとこの名前が「ハリー・フーディーニ」のモジリだと気がついた)が、実は闇の奇術師・Dr.WHOOという「ダブル・フェイス(カードマジックに使う両面とも数字のカードのことでもある)」のアイデアは奇抜だけれど、骨子は『必殺』だから、話もキャラクターもそんなにバラエティに富んだものは作れない。 まあそれを言い出せば『ギャラリーフェイク』だって基本は『ブラック・ジャック』なわけで、とうにマンネリの極地だったのだけれど、ネタの豊富さでマンネリをマンネリと感じさせないだけの技術を細野さんは持っているのである。だから決してつまらなくはないのだけれど、そろそろ受付嬢の小泉“世界一だまされやすい女”じゅんちゃんにDr.WHOOの秘密に気づかせてもいいのではないかな。そこで物語が終わるようなら、もうこのマンガは永遠にマンネリの極北を目指すしかなくなってしまうし。 細野さんは絵に癖があるから(だからアニメ化には向かない)、それだけじゃファンはつきにくい。ドラマ自体は基本中の基本を押さえていかないと、ヒットはおぼつかないってことはわかるのだけれど、やっぱりもっと「濃い」ものを、と願っちゃうのはワガママかなあ。
マンガ、青山剛昌原作、太田勝・窪田一裕まんが『名探偵コナン 特別編』24巻(小学館)。 映画公開が近いけど、今度は初日には見に行きません。お金ないから(泣笑)。それにさすがにもうしげも付き合ってくれそうにないし。 ああ、『特別編』のほうは本編ほどには腹は立ててません。もともと小学生向けに描かれてるんだから、トリックがチャチなのに目くじらなんか立てるほうが変。少年探偵団の話が多いから、微笑ましいくらいですよ。 収録タイトルは「魅惑のファッションショー」「サーキットのA」「透明ケースに隠された真実」「魔の携帯メール」「宝石に秘められた奇術(マジック)」の五作。この中では「魅惑のファッショショー」がまあ見られる程度。事件が始まる前に、蘭の「無意識の」台詞でさりげなく伏線を張っているあたりはちょっと味がある。メイントリックはバレバレだけど。「サーキっトのA」、相変わらず暗号ネタは子供向けでも駄作。「透明ケース」はなんとタイトルでトリックと犯人をバラしている。いくら読者が小学生だからって、こんなに“親切”にしないといけないのかと疑問。「携帯」も同様でタイトルで中身バレバレ。単に小学生の知能を低く低く見積もってるんじゃないかという気さえしてくる。「宝石」は怪盗キッド登場編。キッドが特別編に出てくるのは初めてだっけ? ともかく無理して出演させてる感じがあって、トリックも一番ばかばかしい。でもこんなものなんだろうなあ。 巻末のCMページを見ると、ついに小説版まで出るそうな。書き手の「谷豊」って、青山さんのアシストしてた人じゃなかったっけ? わざわざ小説版を出さなきゃならないわけがよくわかんないんだけれども、全国の学校図書館にでも置いてもらおうというハラでもあるのかねえ(タメイキ)。
夜10時ごろ、また余震。今度は震度1くらいか。
2004年04月04日(日) 『レジェンズ』とリメイク版『犬神家の一族』と花見の夜と。 2003年04月04日(金) 遠い〜気球よ〜/『フライト・オブ・ワンダー』/『OO7/ダイ・アナザー・デイ』 2001年04月04日(水) ちかれた日〜(死語)/映画『宇宙怪獣ガメラ』ほか
| 2005年04月03日(日) |
一日が喜八だけで過ぎていく/映画『ああ爆弾』 |
『仮面ライダー響鬼』十之巻「並び立つ鬼」。 響鬼と威吹鬼、ダブルライダー活躍編で今回がどうやら物語の構成上、一区切りにあたるようだけれども、今一つ盛り上がりに欠ける印象。まあ一つは敵の魔化魍、これがここんとこ殆ど苦労もなしに倒されちゃってる「あっさり感」があるせいだろうね。 今回の魔化魍は「オトロシ」。前回「サイか?」と書いたけど、カメだった。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では神社の鳥居の上にいる妖怪として描かれているが、カメは鳥居の上には登らんだろうなあ。こないだの一反木綿は空飛ぶエイだったし、イメージのすりあわせが、ちーとばかし強引だよねえ。 つか、もうねー、「ジェット噴射」で空飛んだ時点で、テレビの前で誰もが「が、が、が○ら!」と叫んだであろうことは想像に難くない。往年の特撮ファンには「ウルトラマン対ジラース」を髣髴とさせる「ライダー対○めら」の夢の競演という趣向でしたね。いや、喜んだ人ってあんまりいないかもしれないけど(私もビミョー)。それから、あんなデカイのが空飛んでて、誰かに目撃される心配はないのかにゃん? いや、ダブルライダーも堂々と公道を変身したままで突っ走ってるけどさ。 それにしても「百年に一度現れる難敵」だの「謎の魔化魍現る」だの「我等の子は決して敗れはせぬ」だのと、かなりな接戦を期待させといて、最後はひっくり返ったら起き上がれないって、やっぱりただのカメじゃん! ということで拍子抜けなのであった。本家がめ○はその弱点、ちゃんと克服してたのに(そのためのジェット噴射!)。 響鬼が初めてバイクに乗ったけれども、「実は運転がヘタ」というのは「これは『仮面ライダー』ではありません」というスタッフの意志表示かな? いや、今更もうこれを『仮面ライダー』だと思って見ちゃいないけれどもよ。 一方、明日夢は万引き目撃事件で今回も落ち込み中。勢治郎から説教されたりひとみから慰められたり、なんだかずいぶん優しくされてるけれど、もうちょっと厳しくされてもいいんじゃないか。あきらじゃないけど、「なんでそこにいるんだ」って感じのオミソな印象がかなり強くなっているぞ。多分もうちょっとで物語にちゃんと絡んでくるだろうとは思うんだけれど。
『響鬼』を見てた時間帯以外は、日本映画専門チャンネルで「24時間まるごと岡本喜八」を立て続けに見る。 今月のラインナップは『独立愚連隊』『独立愚連隊西へ』『ダイナマイトどんどん』『ああ爆弾』『結婚のすべて』『肉弾』『日本のいちばん長い日』『EAST MEETS WEST』など。何かもう、至福の時間である。 どの映画も、これまで何度見返したか分からないくらい、好きで好きで好きでたまらないものばかりだが、いったん見始めるとやはりやめられないのであった。いや、こんなの全部感想書いてる余裕はとてもないのでご勘弁。 あえてこの名作群の中から一本だけを取り上げるなら、和製ミュージカルの傑作『ああ爆弾』。初めて見たのはもう二十年も前の大学時代だが、その斬新なアイデアに度肝を抜かれ、興奮のあまり口をぽかんと開けながら見ていたことを今でも思い出す(実はオールナイトで見ていたので睡魔に負けて少し落ちていたのだ)。 『幻の女』『黒衣の花嫁』のコーネル・ウールリッチ(ウィリアム・アイリッシュ)のミステリ短編『万年筆』に、岡本喜八はとんでもなく大胆な脚色を加えた。なんとこれを「ミュージカル」に仕立ててしまったのである。しかも、日本の伝統芸能である「能」VSアメリカ発祥の「ジャズ&ゴーゴー」の「対決ミュージカル」として。 伊藤雄之助演じるヤクザの親分が、自分の組を乗っ取った中谷一郎の代議士を万年筆に仕込んだ爆薬で殺そうとする。ところが、この万年筆がひょんなことから次々と他人の手に渡り……という物語の骨子はサスペンススリラーだが、今やジリ貧の伊藤雄之助や子分の砂塚秀夫は「能」を舞い(ついでに言えば伊藤の妻役の越路吹雪は日蓮宗の「どんつく」がテーマソング)、上り調子の中谷一郎一派はハチャメチャなゴーゴーで踊りまくる。いやもうその様子といったら既知外沙汰だ。 ミュージカルが嫌いな人は、「何でいきなり歌いだしたりするの? 気が狂ってるみたいじゃん」と貶すが、蓋しその通り、岡本喜八はミュージカルをまさに「狂気」として演出しているのである。出てくる連中がみんなイカレてるんだから、イカレた連中がイカレた音楽に痺れるのは至極当然のことなのだ。『仮面ライダー響鬼』を見ている人は、この『ああ爆弾』を見れば、「ああ、あのミュージカルシーンはこれのマネだったのか!」と気がつくことだろう。そして『響鬼』のミュージカルシーンがなんであんなに「寒い」のか、いったい何が欠けていたのか、ということに気づくだろう。そう、ミュージカルは演者が狂ってないと面白くならないのである(特撮ファンには、有島“タコ社長”一郎と桜井“ゆりっぺ”浩子の掛け合いミュージカルのシーンがお楽しみだろう)。 結果、日本の狂気はアメリカの狂気に敗れる。しかし、奢る平家は久しからず、最後の最後に中谷一郎に待っていた運命も……。これから先は言わぬが花。
6時からMOND21で『平成極楽オタク談義』第一回「富野由悠季」の再放送。 岡田斗司夫さんの「富野由悠季を貶していいのは俺らだけだ!」発言に苦笑。もちろん作品を褒めちぎった上で、「富野さん本人を」笑っているのである。 7時半よりNHK総合で『名探偵ポワロとマーブル』(もうコメントはしません)、続けて『義経』。 いつまで経ってもタッキーが全然義経っぽくならないのはどうしたものか。どうにもならないだろうけど。それよりももっと気がかりなのは丹波哲郎の老け具合である。滑舌もままならないんだけど、大丈夫かなあ。
食事はしげが「カレー、カレー、カレー」とうるさかったので昼も夜も「ココイチ」。カラダが茶色くなりそうである(スパイスが効いてるから)。
2004年04月03日(土) 本物の外人さんって何%だろう。 2003年04月03日(木) 地元企業救済旅行(^o^)/葉加瀬太郎プロデュース「フォーシーズンズ・イン・ザ・スカイ」 2001年04月03日(火) ボクの地震、キミの地震/ドラマ『陰陽師』第一回ほか
| 2005年04月02日(土) |
ひとの住む街/『王道の狗』4巻(安彦良和/完結) |
昨日の余震で、玄海島の被災者の一時帰島が中止になった。 そうなるだろうなと予測はしていたが、今日はまた福岡にはかなりの量の雨が降っている。本震の後にも雨が降って、地滑りや崖崩れの起きた箇所が多々あったので、完全帰島がいつになるか、全く見えない状況になっているが、体育館での避難生活はもうかなり限界に来てるんじゃないか。 病院も余裕がないなら、それこそ民間のボランティアで、ビルのオフィスの一室を空けたり、入居者のないマンションの部屋を一時的に提供したりするとか、天神あたりならいくらでもそれができそうな気がするけれど、そんな気配もないよなあ。それも行政が指導しなけりゃ動けないのかね。あるいはタダでそんなこたあできないと思っているのかね。 天神・赤坂あたりでは、地震直後に一時避難した地区で、落書きや空き巣が横行したというけれど(避難させといて警備もしてなかった警察も糞タワケだが)、人間が住む環境自体が、あのあたりではかなり前から崩壊れているのである。再開発だの何だので、ビルを建て増ししたりデパートがぽこぽこ建ったりしたけれど、結局それは店同士の競争を生むばかりで、昔ながらの商店街のような横のつながりは失われてしまった。それはさらに西の西新・藤崎あたりの商店街の賑わいと比較すれば雲泥の差である。 人が住まなくなったから、天神では小学校が廃校にも追い込まれた。それでもかまわん、と「遊びの街」を推進してきたツケが、まさしく「いざ」というとき、こういう形で出てきてしまったように思えてならない。何年か前、「住みやすい街」のアンケートで福岡はかなり上位に位置していたが、悲しいことに、天神近辺についてはその名を返上しなきゃならないようである。 地震関連の話、そろそろやめようと思ってたのに、これだものなあ。うちもそろそろ部屋を片付けたいと思ってたのだが、まだ危なっかしくて手をつけられないのである。
しげの体調、ようやく回復の兆し。 てゆーかあ、ビョーキ? ってゆーより、ヤクチューだったのね、しげのやつ。 病院から睡眠薬を貰ってるんだけどー、なかなか眠れないからっていうんでー、一週間分貰ってるのを一気に三日か四日くらいで飲んじゃってたのねー。ばかだから。なのでー、あとの三日か四日くらいはー、薬がなくって眠れないし気分が悪いしって状態だったわけー。昨日薬もらった途端に具合悪いの治っちゃったってゆーからあ、薬くらいちゃんと自分で調整して飲めよって話―? てゆーかあ、病院に行ってんのにかえってカラダ悪くしてるんじゃ意味ねーじゃんねえ? ……気分がよくなったのか、今日は四六時中眠りこけてんだけど、いつもより「寝ぼけ度」が激しい。朝起きたら枕元にパックの飲み物があったとかで、私に「持ってきてくれたん?」と聞くのだが、私はそんな親切なまねはしていない。つか、寝てるしげのところに飲み物を持っていったりしたら、寝相の悪いしげのこと、布団の上に飲み物をぶちまかしかねない。しげが、自分で持ってきて飲んでいながら、そのことをきれいさっぱり忘れているのである。「確かにストローの挿し方がオレのやり方だけど……」と首をひねっているが、それが紛れもない証拠だ。 昨日の余震のときもそうだったが、確実に覚醒してるんじゃないかと思えるほどにテキパキと喋ったり出歩いたりしていても、実はやっぱり寝ぼけていて、翌日になると記憶から完全に消去されているなんてことがやたら多いのだ。夢遊病の気は前からあったが、薬を服用するようになってからそれが激しくなってきているのである。 だいたい「眠れないー、眠れないー」とぶつくさ言いながら、実際にはいったん寝たら半日以上寝てるんだから(たまにトイレに起きるがそのことも全然覚えていない)、単に寝付きが悪いだけの話なのである。「自分は寝付きが悪い」と自己暗示をかけてるせいで眠れなくなっているし、眠ったら眠ったで半覚醒状態に陥っているのは、見てりゃ分かることだ。 だからこそ、そういう「思い込み」を何とかするために薬に頼ったのだけど、そこでも「薬を飲んでも効かない」と思い込むから効かなくなるのである。何しろ薬を飲んだ後、「眠いのに眠れない」と言って無理して起きていようとするのだ。……あのなあ、眠いってことは寝ようと思えば眠れるってことなんだよ。つまりは「眠ろうって意志がない」ってことじゃないか。バカか。 最近、しげの言動がおかしかったのはヤク切れのせいだったのである。笑い話にもならんが、しげが「何か変なこと言ってるなあ」というのはこれまでにもしょっちゅうあったことなので、それに振り回されたりしないように関係者各位におかれましてはご留意いただきたいと思います。全く、これではいつまで経っても改善の余地がない。もともと脳のどこかがイカレているのだとしたら、どういう手立てを取りゃいいんだろうか。
昼間、雨の中を「レッドキャベツ」まで買い物と水汲みに。 そのあと、「すき家」に回って食事。 友人から「奥さんに肉ばかり食わせるな」と忠告されているのだが、しげはもう「肉中毒」でもあるので、しばらく食べていないと、やっぱり精神のバランスを崩してしまう。私には野菜スープとかを作ってくれるのだが、自分では食べようとしない。野菜を食っても食った気にならないらしく、結局こっそりとコンビニ弁当を買って来て食っている。そのあとゴミを片付けないからしげの部屋はゴミの山で埋まることになる。これじゃ健康にいいわきゃない。自然、イライラして八つ当たりばかりするようになるのだが、これも元はと言えば心のビョーキである。自業自得ではあるが、自分を苛めるほうに苛めるほうに追い込んでいながらきょとんとしているのだから、バカというよりはマゾなのかもしれない。……ああ、だからいくら叱っても生活を改められないのかも。 私は豚丼に牛皿、しげはミニ牛丼と牛皿を頼むが、もちろんしげがこれで足りるわけもなく、私の牛皿をじっと見つめているので半分ほど分けてやる。だったら最初から大盛りを頼めばいいのに相変わらず見栄だけは張るのである。だから野菜も食えってば。
安彦良和『王道の狗』4巻(白泉社/完結)。 完全版、加筆付での最終巻の再リリースであるが、今回、本編以上に話題を呼んでいるのが安彦さんの「あとがき」である。 この『王道の狗』の前作『虹色のトロツキー』が、NHKの『BSアニメ夜話』で取り上げられたとき、安彦さんはたまたまその番組の後半を見ていた。そこで、いしかわじゅんに「酷評」を受けたというので、激烈な反論を展開しているのである。 その「酷評」を安彦さんが“まとめた”ままに引用すればこうだ。
)「俺(=いしかわ)は、興味ないんだよネ。(中略)何が言いたいのか判らない。川島芳子と李香蘭が描けていない。旧い世代に属する安彦良和には、大友克洋以降の描き手達のようなリアルが描けず、動きも描けない。従ってその表現は、単なる記号論でしかない」……。
これだけのことを言われれば、安彦さんが激怒するのは至極当然のように思われる。
)「対象に対して興味を持たない者は、普通その評価作業からは降りるべきだろう」 )「『虹色…』は川島芳子や李香蘭の物語ではない」 )「漫画は、古いものであれ新しいものであれ、本質的に『記号』の集積なのだ」 )「(動きが描けないという批判に対して)いしかわ氏の前で指パラのアニメを描いてみせてやりたい気になった」
極めて長い反論なので、とても抜粋しただけでは安彦さんの反論の骨子は伝えきれないのだが、それでも『虹色』を読まれている方ならば、安彦さんの怒りも尤もだと思われよう。実際、ネット上の感想で、「安彦さんバンザイ」を唱えている人も多い(アンチいしかわじゅんな人なのだろうが)。 私も、“これだけを読めば”安彦さんの主張は至極妥当に思える。 アニメーター出身である安彦さんの絵の躍動感、これは『アリオン』のころから私たちファンが魅了されてきたことでもあるし、批判というのは「興味があるからこそ」行うものである(これも何度となく書いてることだが、私が『名探偵コナン』をこき下ろすのは「好き」だからなのだ)。いしかわじゅんの言は、明らかに批評家としての基本に欠けている。 いしかわさんがが“本当にそんなことを言っていれば”の話だが。 問題は実はそこにあるのであって、曲がりなりにも初回(大友克洋の『童夢』)から飛ばし飛ばしであっても『BSマンガ夜話』を見続けてきた者としては、いしかわじゅんが(その言動に問題が多々あるにしても)、“これまでの主張とまったく逆の”モノイイをするとはとても思えなかったのである。 いしかわじゅんがやたらマンガの絵を「上手い下手」で批評するのは、「マンガとしての絵」であり、「動き」という言葉も「マンガとして」のそれである。だから西原理恵子の絵については「上手い」と評し、藤田和日郎については「下手」と言ってのける。「マンガ読み」に慣れてない若い読者にとっては、これは納得いかない批評であろうが、少なくとも40代以上でそれこそマンガ漬けの生活を送ってきた人間にとっては、この「区別」については納得がいくものだろう。西原理恵子の絵は一見汚らしくて下手に見えるが、「マンガとして何を表現したいか」と言えばまさしくその「汚らしさ」であって、時代とともに変遷してきたあの自画像は、西原さんの内面描写として最適なのである。『ちくろ幼稚園』の初期のころはまだまだ荒削りだった表現が、『ぼくんち』のころには西原オリジナルと言っていい「洗練されたへたくそ」の域にまで達している。それに対して『うしおととら』のころの藤田和日郎は、まだまだ自分の表現を身につけていない、どこかで見たマンガの模倣的な絵も多かった。そりゃ、「マンガとして」どっちが上か、と言われれば、西原さんに軍配を上げるのは当然なのである(さらに言えばいしかわさんは藤田和日郎についても「マンガ好きなために模倣から始まるのは当然」と決してけなす文脈の中では語っていない)。 いしかわじゅんが「誤解」を受けやすいのは、彼が「マンガ好きにしか通じない」テクニカルタームでのみ語っているからで、どうもいしかわさんはテレビの前の視聴者をみんな自分並みの「マンガ好き」だと思い込んでいる節がある。んなこた絶対にないんで、マンガをたくさん読んでると嘯いてる連中だって、「歴史と伝統と文化」の文脈で読み解いてるヤカラなんて、数えるほどしかいない。現代のたいていの「読者」は、たとえば「ジャンプマンガしか読まない」「ガンガンしか読まない」「四コママンガ雑誌しか読まない」などというように細分化されていて相互交流がない。そんな人間にそもそもいしかわさんの「専門用語」が通じるはずはないのだ。 これだけマンガが文化として定着している現代では、かえってその全貌を語れる人間などいなくなっている。『マンガ夜話』の出演者にしたところで、いしかわじゅんと岡田斗司夫両氏の世代間にはいかんともしがたい溝が横たわっているのである。 悲しいことに本職のマンガ家であってもそういう「マンガ批評の言葉」に通じていない人は多い(マンガしか描いてないでコミュニケーションも薄いし活字を読まないからである)。言っちゃ何だが、安彦さんも「批評の人」ではない。そこに読み取りの間違いがあったのではないかと推測されるのである。 あいにく私は、『BSマンガ夜話』の『虹色のトロツキー』の回を見ていない。つまりこれらの推測は確たる根拠を持たないものであるので、実際に番組を見ていた人で、安彦さんのあとがきも読んでいる人の感想がどこかにないものかとネットを探してみたら、これがあった。ほかならぬ『BSマンガ夜話』出演者である夏目房之介氏の日記である。 実際にあの番組を視聴していたファンからの「別にいしかわ氏は『記号論』についてなど語ってなどいないのではないか」という質問に対する返答として、まだきちんとビデオを見返していないとりあえずの印象だが、と前置きした上で、いしかわ氏に代わっての「再反論」をしているのである。
)「たしかに安彦さんの論旨はズレていると思います。多分、ふだんから夜話をみておられず、また番組も(書いておられるように)半分しか見ておられない。おそらくビデオで確認もされてないのではないか、と思います」 )「安彦さんは、いくつもの情報をいしかわさんの発言ととり、さらにその解釈でも誤差を生んでいるように見えました(中略)」 )「僕の理解の一つは、『虹色』の回の流れで、いおうとしていえなかったんですが『歴史(モノ)好き』の読み方(リテラシー)では、物語と直接の関係がなくても歴史上の人物が出ただけで『あ、こいつはこれからもっと苦労するんだよな〜』『こいつは、この前にこんな事件をおこした奴だな』とか、勝手に補助線を引いて楽しむところにあります。そういうことに興味のない人には、司馬遼太郎も『余談や無駄ばかりで物語になってない』みたいな読み方になってしまいますが、歴史好きは、まさにそこが読みどころなんですね」 )「レギュラーのうち、いしかわ、岡田は、そういう意味では歴史(モノ)好きじゃないのかな、と思います。その感度の差が、あの番組では高千穂さんといしかわさんのズレになってるように見えますね」
つまり、いしかわじゅんが「興味がない」と言ったのは、作品に対してではなく、「歴史上の人物が登場した時の歴史物好き独特の読み方」についてであって、作品批評の問題とは何のかかわりもなかった、ということだ。 しかも、どうやら安彦さんが見ていない番組の前半では、いしかわさんは安彦良和を褒めちぎっていたらしいのである。一見「批判」のように聞こえるいしかわさんの言動も、本論から枝分かれした細論の部分での批評ではなかったか。安彦さんの怒りは初めから的外れであったのである。 となると、安彦さんが一番拘った「動き」に関する反論もかなりズレがあるのではないかという気がしてならなくなる。マンガの絵の「動き」について語り始めたら、こりゃまた何十枚原稿を書けばいいか判らなくなるのでやめておくが、アニメーター出身の安彦さんの絵が、通常のマンガの「動き」の描写と違っていることは事実だ。そこのところの説明が批評者の舌足らずなどの関係で誤解を生んだ可能性もある。 何にせよ、「表現」は原則的に「誤読」を排除できないものであるが、活字という形を取らない『マンガ夜話』のような「雑談」形式では(編集を経た『アニメ夜話』でも所詮は同様)、どうしたって誤解の振幅は激しくなる。正直な話、私はマンガ家としてはいしかわじゅんよりも安彦良和のほうが圧倒的に好きなのだが、愛着のある作品を「貶された」と思い込んだゆえのやむにやまれぬ怒りであったという心情に同情はするけれども、そもそも「ちゃんと相手の文脈を捉えて批判する」という批評の基本中の基本を弁えていないと揶揄されても仕方がない安彦さんの今回の「暴走」を、いささか悲しく思うのである。 つかさー、「安彦さんバンザイ」を唱えてる「アンチいしかわ」と思しい批評家気取りの半可通、おまえらが安彦さん持ち上げるとさあ、かえって安彦さんの株を落とすことになりかねないんだよ。マトモな批評をしたいんなら、ちゃんと双方の意見を事実として確認した上で言えよってな。……再度私も念のため言っておくが、いしかわじゅんの批評にもこれまでの流れから判断するに、安彦さんが指摘したこと以外でかなりトンチンカンな言い回しや論理的な破綻がやたらあると思うんだけど、それは番組を確認していないから、断言することは控えておきます。今回の文、決して「いしかわじゅん擁護」のために書いたんじゃないからね。
「あとがき」の感想で、マンガの感想になってないけど、本編はもう、まさしく「歴史物好き」には大興奮の傑作です。陸奥宗光の権謀術数ぶりがいいなあ(あくまでマンガとしてですよ)。
2004年04月02日(金) 初めての……。 2003年04月02日(水) ハカセ暴走!/『漫画アクション増刊 9人の宮本武蔵』/『手塚治虫マガジン』5月創刊号 2002年04月02日(火) だから仮病じゃないってば/DVD『京極夏彦・怪 隠神だぬき』ほか 2001年04月02日(月) 桜の森の満開の下/『イギリス人はおかしい』(高尾慶子)ほか
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
☆劇団メンバー日記リンク☆
藤原敬之(ふじわら・けいし)
|