無責任賛歌
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記




ホームページプロフィール掲示板「トーキング・ヘッド」メール
藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2005年02月07日(月) 金ならないっ!/『ルパン三世officialマガジン』VOL.3

 昨年の被害総額がン百億とか言われております「振り込め詐欺」、いっぺんウチにも来たら面白いなあとか不謹慎なことを思ってたのだけれど、いや、冗談でもそういうこと思うもんじゃないですね。
 ……と言っても、私が被害にあったってことじゃなくて、ウチの職場の同僚の話。こないだは親父んちの近所(ハカセんちの近所でもある)の公園で空港勤務の女性が殺害されたりしたし、身近に事件が起こることもあるのである。
 事件の内容はこれまで報道されてきた手口と全く同じである。ちょっとだけ違うのは、同僚の自宅に電話をかけてきた相手が、通常の「警察官」ではなくて、ウチの「支社長」を名乗ったってことだ。
 「ご主人が女性社員にセクハラをして、被害を受けた社員は『訴える』と言って困っている。何とか表沙汰にしないようにしたいから、金を振り込んでくれないか」。
 当然、その「セクハラした夫」は「泣きじゃくっていて電話口には出られない」というのである。あまりにも「典型的」なので、電話を受けた奥さんは騙されずにうまく撃退したそうなのだが、「交通事故」のほかにもこういう「セクハラ」ネタも「振り込め詐欺」の一パターンとして流行っているようである。
 社員一同の前で苦笑いしながら事件の報告をしてたのが、当の名前を騙られた支社長なんだが、笑い話ですましちゃっていいものかね。言っちゃ悪いが、こういう「何とか事件を表沙汰にしないように」と動きそうな、ちょっと気弱な感じの風貌してんだよ、ウチの支社長(^_^;)。つか、別のことでいろいろカクシゴトしてないかねえ。
 その点でささやかなリアリティはあるんで、こういう事件が連続したら、うっかり引っかかっちゃう社員のお宅もあったかもしれない。もう同じ犯人はターゲットとしてウチを狙ってくることはなかろうが、「騙せそうな人間が集まってる職場だ」と犯人にナメられたことに関しては、自省も必要ではないかと思うのである。
 でも、前にも日記に書いたと思うが、ウチの場合、この詐欺に引っかかる心配だけはない。なんたって「振りこむだけの金がない」(^_^;)。仮にしげが電話を受けたとしても、次のような会話がやり取りされるだけだ。
 犯人「お宅のご主人が、セクハラしたんで、示談金100万円を振りこんで下さい」
 しげ「そんな大金、うちにはないです」
 犯人「ご主人が困ったことになってもいいんですか?」
 しげ「はい、構いません」
 犯人「それでも奥さんですか?」
 しげ「セクハラするようなやつは旦那でも何でもないです。さっさと警察にぶちこんで下さい」
 犯人「……せめて10万円くらい払えませんか?」
 しげ「そんな大金、うちにはないです」
 犯人「5万では?」
 しげ「あなたが100万、ウチの口座に振りこんでくれるんなら、私が亭主を訴えてあげてもいいです」
 しげは金にはとてつもなくイギタナクて、逆に金をせびられる可能性もあるので、詐欺を考えてる人は気をつけましょう。もっともしげはコミュニケーション不全なので、知り合い以外の電話にはそもそも一切出ないんですが。


 残業で帰宅は7時半。『ブラック・ジャック』は見損ねたけど、『名探偵コナン』に間に合った(貶してるわりにちょこちょこ見てるのな)。チャンネルはそのまま、漫然と『世界まる見え!テレビ特捜部』『キスだけじゃイヤッ!』と続けて見る。いちいち日記に書いてないけど、実は毎週月曜日はこの流れで『サルヂエ』あたりまで見てるのである。
 しげから「なんでそんなに熱心に見てるの?」とバカにされてしまっているのが『キスイヤ』なのだが、別に熱中してるわけではないが、気がついたら毎週見てるんである。なんだかねえ、出てくるカップル、みんなバカばっかなんだが、「彼が浮気しててえ」なんて女性が涙ぐんでるのを見ると、つい画面に向かって「そんなヤツとなんか別れちまえ!」とか突っ込んでしまうのである。ああ、オヤジだ(+_+)。
 今日出ていた男がまた、女を三股、ほかにキープも十人いるというプレイボーイで、同棲してる女性にそのことをなじられても「オレ、人を好きになるってことが分かんないから」とか「オレの好きとお前の好きは多分違うんだよ」とか開き直って言ってやがるんである。そりゃ「ぼくたちラブラブで〜す」なんてベタベタしてるバカップル見てると確かに「こいつらの好きって犬と変わらんな」なんて思っちゃうし、人間心理を突き詰めて考えて行けば「好きとは何か?」に対する答えなんて簡単に出せないことは納得できるんだが、それを三股の言い訳にすることとは次元が違う。個々人の恋愛観は違っていて当然だから、そこで相手との間の「すり合わせ」が必要になってくるわけだが、それを根本的に否定しているわけで、そんなカップルがうまく行くわきゃない。
 ところがいったんはその男と「分れる」と言っていた女性、自分が妊娠していることを知ってヨリを戻しちゃうんである。「彼もほかの女と別れたから」とか言ってまた頬染めたりしてるんだが“そんなの男のウソに決まってるではないか”。
 まあ、番組の性質上、ヤラセもかなりあるんじゃないかとは思うけれども、それにしてもどうしてこう浮気して悪びれない男がこうも多いのか、そこんとこがよくわかんないのである。いや、そりゃ私だって女房が鬱陶しくなったときに偶然きれーでやさしーねーちゃんに会ったりしたら、ついグラッと心が揺れ動いたりする心理は分かんないわけでもない。でもねえ、だからと言ってそういう女性とどうこうなりたいとまでは思わないのよ。たとえ向こうから迫られたとしてもそんな気には全然なれない。いやさ、道徳がどうのこうの言う以前によ、浮気がバレたあとの修羅場とか後始末とか慰謝料とか、リスクを考えたら浮気してトクすることなんて何もないってこと、バカにも分かるリクツだから。何だかんだヘリクツこねたってよ、結局浮気する男ってただの妄想野郎で女性や世の中ナメてるだけなんじゃないのか? そう言えば、「浮気は文化だ」とか嘯いてた某タレントさんも離婚の原因になった愛人から振られちゃいましたね。まあ、自己正当化することしか考えてない男の末路なんてそんなもんでしょうよ。


 『モンキー・パンチpresents ルパン三世officialマガジン』VOL.3。
 またまたマンガ家を交代させて続けているコミック版『ルパン三世』だけれど、今度の深山雪男版の単行本タイトルは『ルパン三世M』になっていた。これでようやく気付いたんだけれど、先代の山上正月版が『ルパン三世Y』だったのはつまりマンガ家さんのイニシャルだったんだね。今後も時々マンガ家を代えて存続して行くのなら、同じイニシャルのマンガ家さんになったらどうするんだろうとか考えちゃうけど、そういうのは余計なお世話かな。
 でも深山版のルパン、あまり長く続かないんじゃないかなあ。線固いし。
 付録に旧ルパン三世のアバンタイトルだけを集めたDVDが付いているけれども、これが「お宝アニメ」なんて表紙で紹介されてるのな。もうこの第1シリーズを見たこともない若い人もたくさんいるってことなんだろう。でも1971、1972年当時、この視聴率が一ケタだったという旧『ルパン三世』をリアルタイムで1話も見逃さずに食い入るように見ていた身にしてみれば、『ルパン』と言えばこの第1シリーズの前半、「大隅正秋演出ルパン」以外にはないのである。
 視聴率低迷で監督交代、打ち切りに至った旧ルパンにまつわるエピソードの数々は、ファンの間では有名なものも多いけれど、前号から始まった当時の文芸(シリーズ構成)担当の飯岡順一氏のインタビューには、これまで語られていなかったこともかなり含まれていてマニアなら必読である。監督変更後、「Aプロダクション演出グループ」の名称で高畑勲と宮崎駿が演出にあたったことはもはや周知の事実だが(これが宮崎駿の初監督作品である)、飯岡さんの話によれば、実際の演出の打ち合わせは殆ど高畑さんとの間で行われていたそうで、「宮崎さんは脚本の打ち合わせには参加したことがありません」ということである。名作とされるエピソード『にせ札つくりを狙え!』『7番目の橋が落ちるとき』『ジャジャ馬娘を助け出せ!』などは『カリオストロの城』の原型になったと言われているが、実は基本アイデアはあくまで脚本家であるさわき・とおる、宮田雪、松岡清治諸氏の手になるもので、宮崎さんは演出上のアイデアを付け加えたに過ぎなかったということになる。もちろんこのことで『カリオストロ』の名作としての評価が低くなるわけではないが、『カリオストロ』製作当時、宮崎さんがしきりに「アニメは数多くの人の手になるものだから監督だけがクローズアップされるのは不本意だ」と発言していたことの意味はこのあたリにも理由があったのではなかろうかとも思える。『カリオストロ』の基本アイデアに宮崎さん独自のものは意外に少ないのだ。
 飯岡さんが高く評価していたアイデアマンが小山峻一郎という人で、旧ルパンの立ち上げから飯岡さんの片腕となり、脚本も何本か担当していたのだが、路線変更のために全てお蔵入りになってしまった。せめて少しでもということで一本だけ担当したのがルパンの宿敵、ガリマール警部(脚本段階ではガニマール)三代目との対決を描いた『どっちが勝つか三代目!』。あのラストの「ニセモノ大集合」のナンセンスシーンは、高畑・宮崎路線のコミカルなルパンに対して「暴力と狂気、ナンセンスとセックスの毒が全くなくなった」と反発していたという小山さんのせめてものレジスタンスだったのかもしれない。「もうホンモノのルパンはいなくなってしまった」という意味で。

2004年02月07日(土) 入院日記6/けーかほーこく
2003年02月07日(金) ベスト?/『赤ちゃんをさがせ』(青井夏海)/『じつは、わたくしこういうものです』(クラフトエヴィング商會)/映画『白夫人の妖恋』
2002年02月07日(木) びっくりにびっくり/アニメ『七人のナナ』第5話/『なんだかコワレ丸』1巻(矢也晶久)ほか
2001年02月07日(水) ♪それ行け、不倫不倫不倫、どこまでも♪/『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』ほか


2005年02月06日(日) 特撮と絵画展と映画と美術展とアニメとドラマと/映画『ベルヴィル・ランデブー』ほか

 しげのチョコ作りが佳境。
 なのはいいけれど、台所の排水溝がチョコカスで詰まってるんだかなんだか、水が流れなくなってて汚水がたぷたぷ溜まってんだけど。いい加減、掃除しろよ(-_-;)。


 8時ピッタリに目が覚めたおかげで、オープニングだけ録画し損ねちまったけれど、今週もしっかりと見た『仮面ライダー響鬼』第2話。ヒーロー対怪人じゃなくて、鬼対妖怪という印象がかなり強くなっていて、多分これでまた「こんなの仮面ライダーじゃねえ」って怒りの声はチマタに溢れたことだろうが、さて本当にそうか。
 翻って、最初期の旧仮面ライダー1号を思い返して頂きたい。モデルはバッタと言うが、そのマスクやスーツのカラーは緑と言うよりは黒に近く、およそ従来の「正義のヒーロー」とは全くイメージが違っていて恐ろしげですらあった。
 仮面ライダーとは本来その「異形」さこそが原点にあるので、それは石森章太郎自身がライダーの「原作」マンガを手がけた『仮面ライダー』『仮面ライダーアマゾン』『仮面ライダーBLACK』の三作に共通するモチーフである。さらに原型となった復讐のヒーロー『スカルマン』のデザインを考えれば、ライダーが「みんなのヒーロー」でもなんでもない、ダークな存在だってことは論を待たない。その意味で、今回の響鬼はハッキリこの「原点」の系譜に連なっているのだ。
 だいたい「こんなの仮面ライダーじゃねえ」って声は、平成仮面ライダーどころか、既に2号ライダーのころから出てんだ。「変身!」って掛け声だって、ポーズだって、旧1号ライダーはやってなかったってのはムカシのファンにとってはトリビアでも何でもない「常識」。島本和彦じゃないが、「ライダーは旧1号のみ」という思いがある人間は、かえってほかの全てのライダーは「許す」しかなくなるのである。……あのね、“少年ライダー隊”やら“ライダーマン”やら、“電波人間タックル”だってかつてのファンは“許して”来たんだよ? ライダーがアタッチメント使うのはオッケーで、カード使ったりディスク使ったりしちゃダメって、そりゃスジが通らんでしょうよ。
 だからライダーが未だにバイクに乗ってないとか、敵さん(でっかい土蜘蛛)の背中にまたがって、バチで太鼓叩いてその振動で爆発させて倒したとか、そんなの別にどうってこたあねーんだって。そもそも「ライダーキック」だって充分馬鹿馬鹿しかったんだから。……第2話を見てない人は何のことだかよくわかんないでしょうけど、そういうシーンがホントにあったんですよ。信じてもらえないかもしれませんが(^_^;)。
 だから、阿部川キネコのマンガ『辣韮の皮』に出てくるライダーオタクのジャスティスなんて、旧ライダーのコスプレして「平成ライダー許せん」なんて言ってるけど、あんなのはライダーファンとして見た場合は単に自分のシュミに拘泥してるだけで、石森章太郎テイストなんて何も理解しちゃいない痛いオタクに過ぎないのである。……キミもそうなってはいないかね。
 昭和ライダーを神格化して『クウガ』以降を全否定する連中は、やっぱりその時代をナマじゃ知らない世代か、知ってても本気でライダーファンじゃなかった知ったかぶりのスノッブだろう。今度の第2話でますます日本中のライダーファンは震撼したと思われるが、もうあそこまでぶっ飛んでくれてりゃあさ、旧ライダーがどうのこうの言わないで、広い意味で石森テイストのダークヒーローものと思って見てこうかって私みたいなロートルは思うんですよ。前回のミュージカル風演出にはヘタレたけれど、今回は演出、編集のテンポもよくて、役者のヘボ演技もさほど気にならない。少なくとも出だしの時点では平成ライダーシリーズ中一番面白いと言っていいと思う。
 ……なんだか『ゴジラ』と同じような擁護の仕方をしてるが、もしかしたら『響鬼』が平成ライダーシリーズの「ファイナル・ウォーズ」になるんじゃないかという予感もしないでもない今日この頃なのでした。まる。


 続けて『ふたりはプリキュア マックスハート』第1話。オープニングが「マックスハート」って合いの手が入るだけってのはなんだかなあ。レギュラーが3人になるならタイトル変更したらどうなんだ。内容については敵さんがまた復活とかで先週までの戦いはなんだったんだって思うけど、番組改変になんてこんなもんだから怒ったって仕方ないやね。でも、ああいうロリータファッションのヒロインのブームって、まだ続いてるんかね。さすがに街中でゴスロリ少女を見かけることも福岡じゃ最近はなくなってきてるけど。


 まだ寝惚けてウワゴトを言ってるしげを叩き起こして、天神三越へ。
 あるツテから招待券をもらったので、9階ギャラリーの「池田あきこ展」を見に行く。しげは以前、ダヤンのシールを車の窓に貼っていて、てっきり池田さんのファンなのだろうと思って誘ったのである。ところが、しげはグッズコーナーばかり見ていて、展示されてる原画はろくろく見ようとしない。
 「ファンじゃなかったの?」と聞いたら、「キャラクターが好きなだけで、原画や話には興味がない」とのこと。会場をさっさと出て、グッズをいろいろ物色し始めたので、私の方はポツンと取り残されてしまった。結局たいしてほしいモノはなかったようで、わざわざ誘うほどのこともなかったようである。
 しげと一緒に出かけて一番ペースが違うのがこの手の美術展で、私は気に入った絵に出会ったらその絵の前でじっくり鑑賞するとか、そういうことも好きなのだが、堪え性がないと言うか、そもそも絵心がないと言うか、しげにはそれがまるでできないのである。買い物するときにはこちらの予定も考えずに急いでる最中でもウインドウの前で立ち止まって長っ尻するくせによう。そもそも舞台をやってて美術を鑑賞する目がないというのはどういうわけだ。こういうところがしげの努力不足なところなんである。
 結局、美術展に行った時にはじっくり見るヒマがないことが多いんで、図録を買わざるをえなくなるのだが、原画のペンタッチまでは図録じゃわかんねえし、足を運ぶ意味があまりないのである。一応、大学じゃ児童読物とかの研究を専攻してたから、絵本とかこういうのをオレはじっくり見たかったんだよ。
 作者の池田さんもサイン会のために来られていたのだが、時間の余裕があるにも関わらず、せっつくしげに追い立てられて会場をあとにした。


 シネテリエ天神でアニメ映画『ベルヴィル・ランデブー』。
 昨年、広島国際アニメーションフェスティバルで見たシルヴァン・ショメ監督の大傑作だけれど、福岡での公開はようやく今週から。東京では昨年末に公開されているが、地方では年越し、これでは『キネ旬』とかの投票にも間に合わない。ロードショー公開は数ヶ月に渡ることも多いので、アンケートのシメキリを1月そうそうに設定するのはやめてほしいんだよなあ。偶然広島で見てなきゃ、とても「これはいいぞ!」と昨年のうちにお勧めなんかできないのである。まあいくらお勧めしても、誰も見てくれないけどな(~_~メ)。
 こういうアート系の映画はなかなかTVでも流さないしDVDにもなりにくい。なっても初回売り切りですぐ絶版、小さなレンタル屋だと置きもしない。すぐに「幻の映画」扱いになっちゃうんで、公開中に足を運ぶしかないんだけれど、テレビアニメしかアニメとして認識してない似非アニメファンや、日本のアニメが世界一だなんて錯覚してるアニメナショナリストは、ホントに全然興味示さないのな。自分たちがどれだけゴーマンな見方しかしてないか自覚してないんである。
 あのね、本気で面白い作品を見たいって気があるんだったらさ、部屋に閉じこもってないでもっとカラタを動かせよと言いたいのよ。なんで毎週毎週、キャラ萌えだけで中身はスカスカのたるい某テレビアニメばかり見てられるのか疑問なんだよ、オジサンはさ。
 しげは『ベルヴィル』を見て、「セリフないけど、ちゃんと表情で何考えてるのか分かるね」と言っていた。そういう「表現力」がそもそも某アニメ(具体例はたくさんあるので特にどれ一つとは挙げない)にはないのである。まあ比較すること自体が『ベルヴィル』に対して失礼なのだが。


 それから大濠まで足を伸ばして、福岡市美術館へ。今日一日は予定があれこれあって大忙しである。
 目当ては、前回、ウチの劇団公演の美術を担当してくれた細川嬢の大学卒展。さっき書いたようにしげが美術に興味示してくれないから、なかなかこういう展覧会にも来れない。ここの美術館に来たのも10年ぶりくらいじゃないか。前来たのは確か「手塚治虫展」の時だ。
 美術系の大学で有名どころと言えば、福岡では数えるほどしかないので、逆に言えば福岡で本気で美術関係に進もうという人間は1ヶ所に集中することになる。市民ギャラリー室二つ、特別展示室二つを借り切り、絵画、写真、ポスター、絵本、装飾、調度、陶芸、建築モデル、アニメなどなど、何百人もの作品がひしめき合っているのだが、これが見ていて実に面白い。中にはもちろん「なんだかなあ」って感じの凡庸なもの、一人よがりなものもあるが、総じて若さのエネルギーで魅せているのである。才能の息吹が感じられる作品も実に多く、この中から頭ひとつ抜き出て世に羽ばたいて行こうとするには並々ならない根気と努力が必要だろうというのがヒシヒシと感じる。言っちゃなんだが、同人オタクの腐女子のレベルは全体としてはかなり低いよ。技術の面だけでなく、「人に魅せる」ことに関して、志に差がありすぎるんである。自己充足に陥っていて、他人との間に壁を作っといて、それでいてモノを売ろうってのはベクトル歪んでないか。
 ……まあ、それはそれとして、この何百点の作品の中から細川嬢の作品を探さねばならないわけだが、これがまたひと苦労でした。こういうときの常として、探しモノは必ず最後に見つかるものであるが、会場を四つ回って、細川嬢の作品が展示してあったのは、最後に回った特別展示室でした。もっとも、そのおかげでほかの人の作品もじっくり見られたのだが。
 細川嬢の作品は土管を模した鉄製の椅子が二つ。色は黒っぽいのと茶色っぽいの(色弱の言うことなのでアテにしないように)、シックでいい感じで、インテリアとしては洋間ならばどういう部屋でも汎用が効きそうである。肌触りもよくて頑丈、黒い方には両端に互い違いに取っ手が付いている。機能とデザインのバランスを取ることはなかなか難しいと思うが、部屋にこの椅子を置くことを考えたとき、取っ手が互い違いになっているということはつまり、これはどちらからも座れて足を取っ手のない方に伸ばせる仕組みになっているわけだ。ちょっとした工夫だけれども、よく考えられている。作品のタイトルを見てみると、「のびやかであること」。なるほどその通り(^o^)。管の中は物置にもなるかな。
 私は職人の家系に生まれているので、道具や調度というものは「使えなけりゃあ意味がない」と思っている。使うのがもったいなくて飾る場合もあろうが、初めからデザインだけが先行していて、床の間に飾ることが目的になっているようなモノは好まない。細川さんの作品、ウチじゃあ狭くて置けないが、広いリビングのある家なら、充分「使えて」しっくり来るのではなかろうか。
 写真集も隣に置いてあったのだが、こちらは舞台美術を撮影したもの。布を切り取って空間を演出し、照明に工夫を凝らし、幻想的なイメージを作り出しているものが多い。写真だけではよく分からないが、実際にそこに人を立たせたとき、布の隙間から光が当たって、役者の表情が能舞台のように揺らめく効果も出せるのではないかと思わせる。そこ間で計算しているとすればたいしたものである。浅倉摂さんの舞台にこういうのがあったので、影響もあるのだろうかと想像する。

 細川嬢に会えることは期待していなかったのだが、ちょうど作品を見ている最中に細川嬢が見える。食事か何かで外出していて、今し方帰ってきたところだとか。しげが「ボイんちゃ〜ん!」と仇名で呼びかけるが、場所柄をわきまえてないのが痛い(~_~;)。細川嬢があまり気にしてないから有り難いのだが。……だから人に勝手に仇名付けまくる癖、直せって。
 「お世辞は好きじゃないから」と前置きをして、しげと二人で作品を誉める。細川嬢、「嬉い」を連発する。私もしげもつまらないと感じたら知り合いのものでも遠慮なく貶してしまうので(でないと「批評」として信用されないでしょう)、素直に受け取ってもらえるのがこちらこそ有り難い。摂さんの名前を出したら、案の定、「大好きなんです」と仰る。
 細川嬢、初めはインテリアデザインの方に進むつもりだったのだが、今は舞台美術の方に目が向いているとか。来年は上京して大学院を受験したいと考えているとのこと。根気と貧乏に耐える(^_^;)努力は必要だが、才能はあるし、細川嬢ならやれるんじゃなかろうか。ほかの人の作品の影響を受けても、そこからオリジナルなものを積み重ねていければ、決してモノにならないことはないと思う。つか、なってほしい。
 「上京する前に一つ舞台公演打って、美術を頼もうか」なんて話まで飛び出てきて、細川嬢も「喜んで」と言ってくださる。それはそれであり難いのだが、いささか先走りの感すらある。だって、そうなると私ゃ、あと半年以内にまた一本脚本を上げなきゃならないわけなんだわな。全くどこが「劇団休眠中」なのか。


 あちこちハシゴしたのでいささか疲労。
 夕方4時ごろに帰宅して、7時までは遅目の昼寝。
 7時半からNHKでアニメ『アガサ・クリスティーの名探偵ポワロとマープル』第25話「プリマス行き急行列車 前編」。
 パディントン駅を出発したプリマス行き列車の一等客室の座席の下から、女性の刺殺体が発見される。その女性、フロッシー・キャリントンは、アメリカの鉄鋼王ハリデイの娘だった。ポワロと旧交のあったハリデイは、彼を屋敷に呼び、事件の調査を依頼する。ヘイスティングスとメイベルは、犯人はフロッシーの夫、キャリントン卿ではないかと推理するが……
 この短編は原作もドラマも未見。だもんで、どんなオハナシかいなと思って見てみたんだが、「クリスティーは短編はヘタ」の評判通り、前編見ただけで話も犯人もトリックもバレバレ。いや、ホントに当たってるかと思って、ドラマ版の方も見てみたら想像していた通りだった。なんかもう、『名探偵コナン』レベルのつまんなさだねえ。ただ、これは原作がチャチだって、それだけの罪じゃないんだわ。そりゃ罪はもう監督以下スタッフにあるのは間違いない。
 これはもう、声を大にして言いたいんだが、ミステリーのノウハウを知らないスタッフにミステリーアニメを作らせるんじゃない。「キャラデザインを見ただけで犯人の見当がつく」作品がミステリーと言えるかって〜の。
 まあ、これでも第1回のころに比べればそうとうマシな出来になったということであるが、五十歩百歩ではなかろうかね。……でも映画『デビルマン』見たあとだと、もうなんだって許しちゃう気分だからこれもまーいっか(^o^)。いいよもうなんだって。メイベル萌え〜のひとも世の中にはたくさんいるんだろうし、みんなどんどん萌えちゃってくだしゃんせ。「ポワロ×ヘイスティングス」もオッケーだ。


 続けて大河ドラマ『義経』第五回「五条大橋」。
 オープニングが前半のクライマックスになんなきゃいけないはずの義経(遮那王)と弁慶の出会い。三百行くらい悪態つきたくなるのを抑えてヒトコトで言えば、「月だの桜だの、そんな演出で殺陣ができねえのゴマカシてんじゃねえ」。
 タッキーとマツケンに殺陣を期待しちゃいけないのは分かってるけど、それにしても、もう少し何とかならなかったものか。弁慶の攻めを義経がヒョイヒョイ跳んでよけるのをデジタル合成で見せるのは仕方ないとしても、それがワイヤーワークよりしょぼいってのはどういうことよ。欄干に上ってるときふらついてんだぞ、合成なのに。
 そもそも義経と弁慶、二人のキャラクターが軟弱なので迫力も緊迫感も生じないのだ。義経はもっと涼やかな魅力があってこそだし、弁慶はもっと豪放磊落じゃないとコントラストは生まれない。チャンバラ“ゴッコ”が見たい視聴者はあまりいないと思うけどねえ。それとも軟弱なキャラに設定したほうが腐女子は「弁慶×義経」が想像できて楽しいのか。
 総じて今回の大河、女優陣が弱い。上戸彩と石原さとみの初々しい魅力に、松坂慶子以下の臭い演技が全然太刀打ちできていない。いや、石原さとみだって静御前がまだまだ板に付いてないんだけど、松坂慶子、無意味なタメが多すぎて鬱陶しいんである。時子なんて重要な役になんでこんな大根使うかなあ。
 今回、一番見られたシーンがやつぱり渡哲也清盛と、丹波哲郎源三位頼政の髭切りの太刀を巡るやり取りだったというのは、これから先のドラマの出来を暗示してるようで苦笑せざるをえないのである。この二人、史実では源平合戦の前に早々と「退場」しちゃうものねえ。見所がどんどん減っていくぞ。

2004年02月06日(金) 入院日記5/こわれた女
2003年02月06日(木) 新聞がみんな同じに見えるのは気のせいですか(~_~;)/DVD『明智小五郎対怪人二十面相』/『D坂の殺人事件』(江戸川乱歩)
2002年02月06日(水) なんかもー、下血とともに生きる毎日ね/『幻竜苑事件』(太田忠司・大塚あきら)/『よみきり▽もの』1巻(竹本泉)ほか
2001年02月06日(火) 文化はやはり相対的なもの/『NOVEL21 少年の時間』ほか


2005年02月05日(土) 『九州発言者塾 第一回シンポジウム 日本国に自立・自尊は可能か』/ドラマ『古都』

 だーかーらー、「眞野裕子」「ヌード」で検索して来ても、何の情報もないっつーてんの!(+_+) ……やっぱさー、これだけパソコンが普及してネット人口が増えたのって、そりゃ、ビジネス上の理由とかもあるんだろうけれど、アダルト系が目当てってのも相当高い率であるんだろうねえ。小学生のパソコン普及率も高くなってるけど、「とりあえずパソコンさせときゃ時間潰してくれるから」なんて放任するんじゃなくて、「親が必ず一緒に使う」ってのを最低条件にしないとイカンと思うよ、古臭い道徳観かもしれないけどさ。


 昼から天神・アクロス福岡へ。
 『九州発言者塾第一回シンポジウム 日本国に自立・自尊は可能か“防衛・外交そして教育”―講演と討論―』を聞きに行く。しげも誘ったんだけれど、「他人のお喋りずっと聞かされ続けるのはイヤだ」と断わられた。いや、それが「講演」なんだけど(^_^;)。
 出席者は九州大学教授の清水昭比古氏、月刊『発言者』主幹の西部邁氏、漫画家の小林よしのり氏、作家の佐藤洋二郎氏。
 いろいろ物議を醸しまくっていらっしゃる方々ばかりですが(^o^)。こういう講演を聞きに行ったとなると、すわ「こいつ信者か」とか「コヴァか」とか白い目で見られてしまうのだけれど、別に私ゃ右でも左でもござんせん。つかもう、今の時代、右か左かって区分け事態があまり意味なくなってきてるなあと実感するんで。いるのはもう、キチガイかそうでないか、その違いだけだ。でも実体験としてメイワクかけられてきたのは圧倒的にヒダリの方々ばかりだわね。人の話ってまるで聞かないんだ、あいつら。
 庶民の力など微々たるもんで、歴史だの政治だのは個人の思いがいくらあったって変わるこっちゃないし、また変わっちゃマズイ面もあるだろうと思ってるもんで、政治的なことをこの日記で書くことは控えるようにしてはいるのだけれども、世の中見ているとなんだかなあ、シロウト考えでもこれはヘンだよなあ、と思うことはいろいろあるんである。だから、こりゃさすがに無視はできないなあって大事件が起こったときに、「これはオカシイ」と書くことはあるんだけれど、そうするとこれが西部さんや小林さんの言ってることと一致することもちょくちょくあって、アイタタとなっちまうのである(もちろん違う部分もたくさんありますよ)。
 そうすると、自分が漠然と考えているモノの考え方の基盤に何があるのか、自分が何に拠って立ってモノを言っているのか、自分と意見の違う人たちは何に拠って立ってあんなにヒステリックになれるのか(^o^)、そういうことが気になりだしてしまうので、本を読んでるだけでは飽きたらなくなって、直接その人たちの話を聞いてみたいという衝動にも駈られてくるのである。そういうわけなんで、会場でやたらウンウン頷いたり拍手したりするヤカラと意識は違うので、あまり誤解されないようにお願いします(^_^;)。このシンポジウムには、某協会も背後で絡んでるとかいう話もありますが、そっち方面との繋がりも私は全くありませんので。

 講演のタイトルは以下の通り。
 1「福岡から日本国の自立・自尊を問う」清水昭比古
 2「米中のはざまで日本国の自立をめざす」西部邁
 3「戦後外交史と国家戦略」小林よしのり
 4「教育、自立への道」佐藤洋二郎
 でも殆どタイトルに縛られないざっくばらんな話ばかり。つかみんな「自分史」を語るんだね。全部の内容を細かく書いてるととても書ききれないのですごく乱暴に纏めてしまうと、以下のようになろうか。
 清水氏 「城山三郎の『落日燃ゆ』を読んでください」
 西部氏 「東大辞めたあと好き勝手したけど、そういうことも大事」
 小林氏 「庶民感覚だとやっぱ『反米』のポーズ取るしかないじゃない」
 佐藤氏 「歴史は言葉でしか遡れない」
 あまりポイント突いてないかなあとは思うが、日頃ぼんやりした生き方しかしてない人間が他人の言葉を捉えるときはこんなもんである。
 実のところ、みなさんのお話はこれまで著書に書かれていたことを繰り返しているのが多くて新味はあまりなかったのね。けれどやはりナマで話を聞くと、ああ、この人のこういうところに「共感」してるんだなあ、ということは感じるから、一応、聞きにきて損したとは思わないようにしよう(^o^)。
 小林さんの「庶民感覚」という言葉に納得するのは結局は私も自分が庶民でしかありえないことを自覚しているからだ。政治的にはアメリカ・ブッシュに追随しなければならないことは理解していても、原爆落として人道上の罪を犯したとは思っていないアメ公に対して感情的に信頼を寄せる気にはどうしてもなれない。イラクへの自衛隊派遣だって喜んじゃいない。そこで石油がどうとか北朝鮮がどうとか言い出すヤツがいるのだが、そういう「現実主義」の「正論」聞かされたって、納得できないのが「庶民感情」というものなのである。日頃「人間は感情の動物ですから」とか言ってるヤツに限ってそういうときだけ道学者みたく「理性」を持ち出して来るのはちと卑怯に感じるんだけどね、私は。
 もちろん、小林さんの意見にだって諸手をあげて賛成というわけにはいかない場合もある。「北朝鮮がミサイル撃ちこんでくるんだったら、こっちも報復できるようにしなきゃだめでしょ」という意見には「それが口実にされて本気でミサイル撃ちこんできたらどうすんの」と思わないでもない。でもあの国のデタラメさを思えば、「経済制裁は慎重に」という姿勢だけじゃ何も進展しはしないのも事実なのである。結局はどこかで何かを「覚悟」しなければならなくなるのだ。小林さんはそこで「核武装」まで考えているらしく、それは確かに一つの答えではあるのだけれども、私はそこまで踏み切っていいかどうかということになると「やめたがいい」ということにどうしてもなってしまうのである。なぜかって、私は基本的に日本人を、人間を信用していないからなのだ。つか、“全ての人間を信用できる”楽天家でないと、「核武装が戦争抑止に繋がる」とは言えないのではないか。
 人間は弱い動物である。それは肉体的にも精神的にもそうだ。プロメテウスが火をもたらしたことは、人間に「知恵」を与えもしたが、同時に「戦争」をも与えた。どんなに平和を望もうと、いったん与えられた「技術」を冷静にコントロールできるメンタリティを人間は持ちえない。諸刃の剣が使われなかった例がどれだけあるか。「専守防衛」は既に拡大解釈されて「イラク派兵」という形で行使されている。「イラク派兵反対」を唱えるなら、「核武装」も否定しなければならないんじゃないか。小林さんだって、「武器を持ってるだけで使わずにすむ」と思っちゃいないと思うんだけれどもねえ。

 講演後はパネル討論。
 清水氏がまず口火を切ってこう語る。
 「今、学校では弁論大会をやらなくなった。その代わりにディベート大会なるものをやる。『原発についてどう思うか』というテーマで、賛成か反対かを討論させるのだが、自分の意見を言わせるのではなくて、予め賛成か反対かの立場をクジで決めて、ネットで情報・根拠を集めて討論させるだけだ。しかも、トーナメントで勝ち進んで行くと、さっき賛成だった生徒が反対の立場で意見を言わされることもある。こんなアメリカ追随の、定見を持たせない教育があっていいのか」
 西部氏が補足して説明する。
 「アメリカは徹底した個人主義の国だから、ともかく自分の意見を押しつけようとする。だから『他人の立場に立ってみる』という形のディベートもそれはそれで意味があった。しかし、日本がそれをそのまま導入しても意味はない。なぜそんな無意味なことが行われるかというと、結局は日本人からコモンセンス(常識)が失われているからだ。しかしそのことで学校教育に期待しても限界がある。教育は『知育』と『徳育』に分かれるが、今失われているのは『徳育』の方で、それは家庭において、地域においてなされるべきで、その復活が必要だ」
 そこで小林氏が場を盛り上げようと極論を言う。
 「知識はマンガ読んでれば手に入る。わしは学校で習う前に『影』の字が書けたけど、『伊賀の影丸』のおかげだ」
 最後に佐藤氏が「何事にも中庸が必要で」とまとめる。
 つか、まとまったのかどうかはよく分からないけれども、要するに「伝統の基盤は家庭にある」という論調はみなさん共通していることなのだ。

 しかしそこでやはり疑問に思うのは、これから先、どれだけ「家庭」とか「地域」に期待ができるか、ということなのである。
 ちょうどパネル討論のときに学校のセンセイとやらが、「ゆとり教育に反対している親をどう思うか」と質問していたが、そりゃあもう、バカ親だとしか言いようがあるまい。小林さんがこの質問に答えて、「知識をムリヤリ詰めこむことも大事で、学校は必要だと思う。けれど、仕事が忙しいからとかいう理由で、朝の飯も味噌汁も作ってやらないような親をわしは許さん」と仰っていた。まさしくその通りだと思う。その通りだとは思うが、小林さんがいくら「許さん」と仰ろうと、そんなバカ親ばかりがどんどん増えているのである。
 子供の「学力低下」をどうするのか、文科省が押し進めてきた「ゆとり教育」に文句をつけ、路線変更を求める声は多いが、これがつまりは「学校以外の教育機関がこの日本には存在していない」ということ、「家庭には教育能力が殆どなくなっている」ことの逆証明だってことに気付いてる親がどれだけいるのだろう。知育も徳育も、今の親は子供に対してできなくなっているのだ。その最悪な状況が、果たして一朝一夕に改善できるものだろうか。
 西部さんは、「詰めこみ教育が効果を挙げた例はギリシャの昔以来、歴史上一度もない」と断言されたが、家庭は、「ゆとり」と「詰めこみ」のどちらの教育も、知育と徳育のできない、ただの「他人どうし」がなぜか一緒にいるだけの空間に成り果てているのである。
 ウソだというのなら、子供をお持ちのご家庭の親御さん、自分に対してこう問いかけてみて頂きたい。あなたは自分の子供の勉強を何年生まで見ていられるのか。「そんなのは学校の仕事だ」と言い訳した時点であなたは負けである。昔の親は、いろはも漢字も算数も、学校があってもみんな「家庭で」教えていたのだ。教科書を読む力があれば、家庭教師を雇わなくても親が子供を教えられるはずである。
 また、子供に「ウソをついてはいけない」といつまで本気で教えていられるか。「大人はみんなウソをついているのに、どうして子供だけついちゃいけないの?」と子供から問われたときに、「うるさい」とかなんとか適当なことを言って突き放してはいないか。たとえ世の中がウソだらけでも、そんなに簡単にウソをついていいわけではないと、なぜ自信をもって言えないか。それはアナタがウソまみれの人生を送っているからではないのか。
 その程度のことにも答えられない「親」と称するただの「他人」が、「ゆとり教育」に異を唱えて人口の7割を占めているのが現状なのである。そんな国家のどこに未来があると言えよう。
 その流れを止めようというのが「ゆとり教育」の本来の目的だった。「学力低下」も当初からの予測通りで、落ちこぼれていくやつにムリヤリ勉強させて表面的な学力だけを底上げしてみせても社会で通用する「実力」のある人間は育たなかったという「現実」を踏まえて、「余裕の時間を本当に有効に使える人間を育てよう」というのが目的だったのである。だから、今「学力低下」だの何だのと騒いでるバカ親どもは、「自分の子供が余暇を有効に利用できなかった」連中ばかりで、そんなバカ親の子供は、たとえ「詰めこみ」されたって、やっぱりバカな人間にしか育たないのである。それはまさに「詰めこみ教育」されてきた今の親たちの姿そのものではないか。
 文科省も腰砕けというか、やっぱり中にいるのは「自分の子供だけは違うだろう」と楽観していたバカ親ばかりだったので、路線変更をやり出しているのである。これで、せっかく余暇を利用して自分の勉強ができるようになった子供たちの足が引っ張られることになる。この国はいったいいつまでこんな「悪平等」を続けていけば気がすむのだろうか。


 夜、上戸彩主演のドラマ『古都』を見る。
 川端康成がラリってるときに書いた内容が何もない小説なんだけれども、なぜか映像化が繰り返されている。岩下志麻、山口百恵に次いで二役の少女を演じる上戸彩だけれども、これはどうもミスキャストっぽい。そっくりな双子が登場するからといって、『ふたりのロッテ』みたいに入れ替わりをモチーフにしたわけではなく、自分とそっくりな人間がいることで現実の実感が揺らいで行く、『ウィリアム・ウィルソン』的な幻想小説としての面白さが『古都』の主眼なのである。それを普通のドラマに仕立ててもねえ。
 原作読む力のない脚本家と演出家じゃ、それも仕方ないんだけれど、渡部篤郎のストーカー的演技はドラマの中で唯一狂気を感じさせていてよかった。原作のエッセンスをつかめてたの、渡部さんだけだったんじゃないか。


 夜、久しぶりのチャット。直前に告知したにも関わらず、宇津見さん、鍋屋さん、あやめさんが参加。ありがたいことである。私としげの二人だけで向かい合わせでチャットするハメになるんじゃないかと心配していたのである。体力的にそうしょっちゅうはチャットは開けないが、またたまに掲示板の方で告知しますので、よろしければちょくちょく覗いて頂けるとありがたいのである。


 見逃しかけてた映画関係のニュース。
 かなり以前から何度もウワサをされていたのだけれども、OO7シリーズの最新21作目が『カジノ・ロワイヤル』に決定したそうな。
 御承知の方も多かろうが、この『カジノ・ロワイヤル』こそが原作者イアン・フレミングが1953年に発表したOO7ジェームズ・ボンドシリーズの第1作で、早くもその翌年、最初に映像化された作品でもある。もっともそれはアメリカのCBSテレビによる"Climax!"という単発テレビシリーズの一編としての映像化で、ボンドを演じたのはバリー・ネルソン(『大空港』『シャイニング』)、敵役ル・シッフルは名優ピーター・ローレ(『M』『カサブランカ』)という布陣だった。アチラではDVDも出ているそうだけれど、残念ながら日本では依然、未公開。当然私も未見だが、バリー・ネルソンの風貌はキザったらしいアメリカンってな雰囲気なので、さて、女にだらしなくても決してニヤケてるわけじゃないイギリス紳士のボンドのイメージに合っていたかどうか。
 アルバート・ブロッコリ率いるイオン・プロとMGMによる“本家”OO7シリーズが『ドクター・ノオ(OO7は殺しの番号)』を皮切りにスタートしたのが1962年、当然『カジノ』も映像化候補に挙がっていたのだが、このフレミングの処女作に関してだけはその映像化権をチャールズ・K・フェルドマンが握っていた。てなわけで、彼が1967年にコロンビア映画でジョン・ヒューストン、ケン・ヒューズ、ロバート・パリッシュ、ジョセフ・マクグラス、ヴァル・ゲストと五人の共同監督というムチャクチャな体制で、本家とは全く関係なく作りあげたのがコメディ映画ファンに語り継がれることになる『OO7/カジノロワイヤル』(DVDタイトルからは「OO7」が省かれちゃってるけどね)。この大怪作については語り出したらキリがないから省略するけど、そういった事情で、フレミングの原作が15作で尽きてしまって、オリジナル映画を作らざるを得なくなっても、イオン・プロは『カジノ・ロワイヤル』の映画化だけは断念してきたのだ。
 そのあたりの事情に変化が生じて来たのが昨年あたりからクエンティン・タランティーノが『カジノ』をリメイクしたがっているとのウワサ。どうやら今回、MGMとバーバラ・ブロッコリ(アルバートの娘)は、タランティーノの機先を制する意図で、ついに「ジェームズボンド21」として『カジノ』の映像化に着手したと見てよいようだ。……コロンビアから権利買い取るの、高くついたろうなあ。
 まあ、タランティーノが作れば映画はまたトンデモナイものになることは分かりきっているので、何としてもそれは阻止しようってバーバラさんは考えたんだろうね。気持ちは分からないでもないが、フェルドマン版『カジノ』のデタラメさを愛する人々にとっては、タランティーノ版が見られないことはちょっと残念に思っているんじゃないかと思う。私もそうだし。
 ただ、製作発表はあっても、主演のピアース・ブロスナンはボンド役を降りることを表明しているし、現在決まっているのは監督のマーティン・キャンベル(『ゴールデンアイ』以来の再登板)、脚本のニール・パーヴィスとロバート・ウェイドほか一部のスタッフ、役者ではジョン・クリーズのQとジュディ・デンチのMだけだ。この程度の状況で製作発表(しかも公開予定は来年である)というのはいささか早過ぎる気がするのだけれども、これはもしかすると、ウワサとして流れていた次のボンド役、コリン・ファレルやエリック・バナ、ジュード・ロウ、ユアン・マクレガー、オーランド・ブルームといった人々の誰かが色よい返事をしたんじゃないかというカングリもしたくなる。でもこの中の誰一人として「ボンド」と言われてピンと来る人がいないんだがなあ。ブロスナンのイチオシはファレルだそうだけれども、まだ20代じゃ若過ぎないか。
 けれどこれで残念がっているのは日本の香川県だろう。レイモンド・ベンソン作で、タイガー田中(『OO7は二度死ぬ』では丹波哲郎が演じた)の娘も登場するシリーズ最新作『赤い刺青の男』の映画化の希望と撮影の誘致の署名を活発に行ってたんだけれども、これがみんなパアになっちゃった。仕方ないとは思うけれど、せっかくだから
一部分だけでも日本ロケしてくれないものかね。

2004年02月05日(木) 入院日記4/気持ちのいい検査(* ̄∇ ̄*)
2003年02月05日(水) タクシー慕情……演歌だね/DVD『銀座カンカン娘』/『総特集 江口寿史』
2002年02月05日(火) ゴーマンかましちゃ、いけまっしぇん/『コンセント』(田口ランディ)ほか
2001年02月05日(月) 恐怖のブラック・メール/『真・無責任艦長タイラー1 入隊編』(吉岡平)



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)