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2010年11月14日(日) |
切迫感の無い浪人中の愚息。因果は巡る、か。 |
◆私事で恐縮です。
浪人中の愚息は、あと2ヶ月で大学入試センター試験である、というのに、切迫感・悲壮感がないのが先日から気になっていたところ、
本日、予備校の保護者会に家内が行ったら、やはりその点を指摘されたそうだ。
客観的に冷静に観察すると、倅は本気になれば、相当の理解力と、時に驚異的な記憶力を発揮するが、
精神的に未熟で、自分の置かれている立場が認識出来ていない。
私は
「やれやれ、因果は巡る」か。
と思った。自らの恥を晒すことになるが、以下、その理由を記す。
息子に少し、恫喝的言辞を用いて、刺激を与えようか、と思うこともあるが、萎縮する逆効果もあり得るし、
何よりも、自分が大学に合格するまでの、あまりにもみっともない過程を思い出すと、
偉そうなことが言えなくなってしまう のである。
◆私の最終学歴は「成蹊大学法学部法律学科卒業」である。
初めて書くが、私の最終学歴は成蹊大学法学部法律学科卒、である。
はっきり言って、四半世紀前には三流、若しくは四流大学である。
私はこの学歴自体は恥ずかしくないが、受験の事を思い出すと。非常に恥ずかしい。
私は成蹊高校に通っていたので、成蹊大学ならば、普通の成績を取り、
殆ど形式的な推薦試験を受ければ、浪人などしなくても成蹊大学法学部法律学科に入学できたのである。
当時の自分の事を考えると、あまりに恥ずかしさに顔が赤らむ。
私は全然、勉強家でも秀才でもないのに、オヤジが東大(経)、兄貴が一橋(法)だったので、
自分もそれぐらいのレベルへ行けるのだろう、と、とてつもなくノーテンキに構え、
何と高校在学中には何の受験勉強もしなかったのである。
成蹊高校という学校は素晴らしい先生が揃っていたが、成蹊大学へ進学することを前提としていたので、
外部の大学を受験する生徒は、自分で入試の為の勉強をしなさいということだったのだが、
そんなことにすら気が付いていなかったほど、私はバカなのである。
私の同級生には小学校や中学校から成蹊で、「もうこの学校には飽きた」と外部の大学を目指す者や、
私と同じように高校から成蹊に入り、しかし、大学はより高いレベルを狙っていた者がいた。
彼等は、高校1年、2年から代ゼミなどに通って着々と準備を進めていたのである(そのことも後で知った)。
「何も受験勉強しないで、親・兄弟と同じような、旧・国立一期校に入学出来るだろう」と根拠もなく考えていた私は、
信じがたいほど世間知らずのバカ、以外の何物でもない。
しかし、親も暢気で、
「一回全滅(全て不合格を経験)したら、世の中そんなものではない、ということがわかるだろう」
と考えていたそうだ。何も五月蠅いことを言わなかった。
何の準備もしていない、ノーテンキでは国立は愚か、私立とて、勿論何処にもカスりもしない。
実は「滑り止め」のつもりで、外部から成蹊大学法学部を受験したが、見事に落ちた。
余りにも当たり前の結果なのに、何とその時、私は全て不合格であったことに「落ちこんだ」のである。
救いようがないほどの馬鹿さ加減で、今でも思い出すと情けない。
◆予備校時代
浪人が決定して、代々木ゼミナールに通うことにしたが、
国立コース(これは予備校といえども試験に合格しないと入れないコースである)を選択した。
1年で一橋ぐらい受かると思っていたのである。この時点でまだ分かっていなかったのだ。
予備校の授業が始まって間もなく、世の受験生が如何に必死に勉強しているか、を知った。
志望校の過去問題を入念に調べ対策を立てること。
受験とて、基礎学力が基本だが、一種のテクニックがあることなど、
普通の受験生なら高校1年から心得ている事を、私はなんと、浪人して初めて知ったのである。
自分を息子と比べても仕方がないが、少なくとも私は、それからは、相当「青くなって」勉強した。
通学の電車の中でも参考書を読んだり、予備校の英語の先生に教わった「ただひたすら朗読する」方法も実行した。
話が少し逸れる。
私は全く怠惰な高校生だったが、何故か英語には興味を持ち、これはかなり一生懸命に勉強した。
「つまらない」という人が多い英文法すら、「面白い。」と思った。
だから、英文を読んで、構文を把握し、内容を理解すると言う点に関しては、基礎学力ができていたようである。
但し、高校時代の私は、声に出して英語(外国語)を読むことの大切さを認識していなかった。
予備校の英語の先生を通して國弘正雄先生の「只管朗読法」を知ったのは、浪人したおかげであった。
それから、英語力は更に伸びた。だが、英語だけ出来ても受験生としては、話にならぬ。
そもそも、浪人生になってから「受験勉強のやり方が分かった」などと言っているようでは論外である。
それは、ようやく「スタート地点に立った」というだけである。
余程死にものぐるいで勉強しないと、国立はおろか、早慶も到底無理だったのである。
私は分かっていなかった。
それでも、遅まきながら、あの1年間は、私としては、かなり「必死に勉強し」た部類に入るのだ。
夏休みも暮れも正月も無かった。
1月2日には、自宅にいたらテレビなどを見てしまいそうなので、代ゼミの自習室に行ったら、
既に大勢の仲間が同じことを考えたのか、脇目もふらずに勉強していて、これは大変だ、と思った。
予備校の1年間は相当一生懸命に勉強し、着実に学力が伸びて行くのが嬉しかったが、
受験相談のとき、進路指導の人に予備校生活の「楽しさ」という言葉を口にしたら、
「甘い。」という意味のことを言われた。
本気で東大なり国立一期校を狙うなら、かなりの秀才でも、やはり相当「しんどいなー」と感じるぐらい
必死に勉強しなければならない。
「楽しい」などと余裕があるようでは、到底国立など無理だ。と言われた。
ちょっとショックだったが、尤もだとも思った。
本当に勉強している仲間の姿には鬼気迫るものがあり、自分は、あれほど一生懸命ではない、
ということはうすうす感じていたのである。
◆結局、「出戻り」。
恥ずかしいので、一挙に結果を書いてしまいたい。
一年間浪人したが、その所為で、私は偶然だが、「共通1次試験元年」の受験生となった。
過去問が無い。だが、それは関係ない。要するに私の努力が足りなかった。
国立は愚か、早慶上智、それぞれいくつかの学部を受けたが、全滅であった。
そして、なんということであろう。
唯一受かったのが、本来ならば黙っていても行けた、成蹊大学法学部法律学科なのである。
ここに行かないなら2浪するしかないが、そこまでする意義は認められなかった。
所詮、努力が足りなった。
世の中、甘くない、ということもよく分かった(社会人になってからは、もっとよく分かる事になる)。
客観的に、これほどみっともない受験歴、学歴は、あまり無いだろう。
黙っていても進学出来た学校の学部への推薦を蹴って、他の大学に行くのだと志した(つもりだった)が、
結局「出戻り」である。
推薦入学で進学した高校の同級生が、「先輩」になるのだ。
しかし、それでも私は、正直に書くならば、成蹊大学法学部法律学科の合格発表当日、
自分の受験番号を見つけたとき、素直に
嬉しい。
と感じた。
その気持ちは、はっきり覚えている。
形式的には前述のとおり、何とも世間知らずのバカが、オメオメと元の学校に戻ってきたのであるが、
「恥ずかしい。」とは思わなかった。受験生としては、失敗だったかもしれないが、
私のそれまでの人生では、最も一生懸命に勉強した結果がこれなのであるから、その結果を甘受するしかない。
推薦試験でエスカレーター式に進学した同級生と、進む大学と学部が同じでも、
浪人した1年の経験は、決して無駄では無かった。
書き忘れたが、代ゼミは意外と教養を重んじて、受験には直接何の関係も無い先生方の特別講義を実施する。
平山郁夫先生、桑原武夫先生の講義に接することができたのは、浪人したおかげである。平山先生に関しては、別に書いた。
平山郁夫画伯、ご逝去。30年前に予備校で「特別講座」を拝聴しました。
親も何も言わずに喜んでくれた。
親父は東大を戦前と戦後、2回出ているし、お袋は東京女子大国史科(現・現代教養学部(2009年度新設) 、人文学科、史学専攻)で
兄貴は秀才だが、私に関しては、「鷹がトンビを産ん」でしまったのであるが、
不思議な事にこの両親は私に、「東大に行け」とか「せめて慶応に行け」とかそういうことは一切要求したことがないのである。
それは、ありがたかった。とんでもない親不孝を、黙認してくれたのである。
これで、親から、自分の出来の悪さを責められていたら、そうとう歪んだ人格になっていただろう(そうでなくても歪んでいるが)。
◆大学入学後。
かつての同級生が2年生だったが、私が見栄でもなんでもなく、普通にしていたので、別にイヤミも言われなかった。
もともとお坊ちゃん学校で育ちが良い奴が多い。育ちの良い奴は、そういうことは、言わないのである。
それはありがたかったが、私の大学受験を総括すると、本来望んでいた結果とは、かなり違う。
親に無駄なカネを使わせてもいる。
だから大学に入ってからはかなり一生懸命に勉強した。
他の学生、特に地方から出て来て下宿している連中の中には、
親の目が届かないのをいいことに、講義をさぼり、試験の直前だけ
講義に出ている私にノートを見せてくれというので、見せてやったが、
自分にしか分からない記号などを多用していたので、参考にならなかったと思うのだが、
それでも、しつこく四年まで「ノートをコピーさせてくれ」があまりに多い。
これは、理不尽である。
私は吝嗇(りんしょく。ケチのこと)ではないが、こちらが講義を聴き一生懸命ノートを取り、
更にそれをまとめた「情報」を、学校に来ないで遊んでいた奴に無料で見せるのが悔しくなり、
最後は一冊500円を徴収したのを覚えている。
成蹊大学法学部には、優秀な先生が多かった。
私は法曹界に進むのは無理だと思ったが、あの時習ったことや、ものの考え方が、今でも役に立っている。
死にものぐるい、とまでは行かないが、真面目に勉強したから、
法学部法律学科単体では、卒業時に首席だった
(成蹊大学法学部には政治学科と法律学科がある。事実はどうか分からないし、比較は本来不可能だが、
法律学科の方が良い成績をとるのが困難だと言われていたが、
学部内での順位は政治学科と法律学科両方を併せて決まるので、卒業式では法学部総代になれなかった。
総代は政治学科の学生だった)。
世間の私の年代の方には、すっかりバカにされたかも知れない。
「何だJIROは成蹊だったのか。バカ大学じゃねえか」と思われたことであろう。
何しろ、世間ではお坊ちゃん学校と呼ばれ、名前が似ている世田谷の成城学園大とよく間違われるし、
図らずも私は、安倍晋三、元・内閣総理大臣の後輩(彼は政治学科だ)ということになる。忸怩たるものがある。
安倍政権当時、同窓であるとか何とか関係なく彼の改憲論や好戦的な思想を批判した。
あの頃、読者の方から、
所詮、成蹊大学のお坊ちゃんの根性無しのバカには何もできないってことですよね。
というコメントを頂戴したが、答えに窮した為、ボツにさせて頂いた。
先日、
気軽に他人に訊いてはいけないこと。言ってはいけないこと。
という記事を書いたのは、自分の経験によるものである。
愚息が受験が迫っているにもかかわらず、切迫感がないのは、
私の怠惰な遺伝子を持っているためではないか、という気がして、長々と自分のことを書いてしまった。
とんだお目汚しで、失礼しました。
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