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2003年11月14日(金) |
人間には、どんなに頑張っても出来ないことがある。 |
今日の毎日新聞の読者欄を読んだら、46歳、教員という男性が良いことを書いていた。
知人の結婚式で、仲間が集まってハンドベルの演奏をすることになった。1人ずつ一つか二つの音程のベルを手にして、メロディーで自分の音のところになったら、タイミングを外さないでベルを鳴らす、あれである。
そして、この先生は、他の人がどんどん上達していくのに、自分だけはどうしてもうまく、ベルを鳴らすことが出来ず、「努力しても出来ないこと」の辛さを骨の髄まで味わったという。
裏返して推察すれば、この先生はたぶん子どもの頃から、優等生で勉強もスポーツも努力して、大抵のことは順調にこなしてきたのだろう。そして、40代の半ばを過ぎて、初めて「世の中にはどんなに努力しても出来ないことがある」という現実、そして、出来ない人間の辛さ、悲しみを知ったのであろう。
この人は、今まで、勉強が出来ない子供に「どうして、努力しないの?」「どうしてできないの?」と安易に批判して子供たちを傷つけた事を反省し、これからは、「出来ない子の目線に立って、接していきたい」、と結んでいる。
私が新聞の投書欄を読んで、非常に共感を覚えたり、感心することは、それほど頻繁にあることではないが、今日は共感して、感心した。
共感したのはいうまでもなく、人には得手不得手があるし、時の運という要素があって、どんなに頑張っても出来ないことがある、という事実である。これは寂しいと感じる人がいるかもしれないが、厳然たる事実である。この事実を認識していれば、そういう場面に出会っても、諦めることができる。人間、時には諦めが肝心である。
感心したのは、自らの「挫折体験」を実名で新聞に投稿した46歳の先生の率直さと「正直さ」である。美辞麗句を並べても、正直な言葉でなければ、それは単なる音響乃至は文字の羅列でしかない。正直な気持ちを素直に綴った文章は人の心に触れる。
ただし、良識があるのが前提である。幾ら正直だといっても、性的な体験やその他あまりにも赤裸々な欲望を、無神経に文字にしたものは、下品でしかない。
2002年11月14日(木) 高齢者は免許更新時に実技試験をしたほうが良いかもしれない。だが・・・