JIROの独断的日記 DiaryINDEX|past|will
◆<文化勲章>安藤忠雄氏ら7人 文化功労者には17人(毎日新聞 10月26日(火)11時41分配信) 政府は26日、10年度の文化勲章受章者7人と文化功労者17人を決定した。 ◆コメント:今回の文化勲章受賞者、文化功労者を否定するのではないが。 今回、栄誉に輝いた方々に因縁を付けるつもりは毛頭ないが、 文化勲章・文化功労者を決めている「日本政府」の担当者に言いたい。 最近では大分見劣りしてきたが、カラヤンが音楽監督だった頃の、全盛期のベルリンフィルに 最初の日本人メンバーとして入団し、定年まで40年間弾き続けたヴィオラの土屋邦雄さんや、 この、世界一のオーケストラで四半世紀、第一コンサートマスターを務めた安永徹さんは、 勲章が欲しくて音楽を続けた訳ではないだろうが、国の誉れの人なのだ。 安永さんは、ドイツ政府から勲章を授与されている。日本政府はその事実すらしらないのではないか。麻生総理の頃だ。 2009年02月27日(金) 「ベルリン・フィルの安永徹さん、独政府が勲章授与」←安永さんは勲章が欲しくて音楽家になったのではない。しかし、私は嬉しい。(ココログ) 安永さんが、コンサートマスターの試用期間を終えて、正式に就任したのは1985年だから、 今の若い人には、あの興奮は分からないだろうが、私らは、日本人がベルリン・フィルのコンサートマスターになった、 という快挙に、文字通り跳び上がるほど喜んだものである。当の安永さんはあくまで謙虚な方で、 「自分がコンサートマスターになったことよりも、日本人をコンサートマスターに選んだ、ベルリン・フィルがすごいと思う」 と仰有る。しかし、何と言っても日本人じゃなくてもいいのに、日本人でコンサートマスターになった安永さんがすごいのである。 かつて、一度載せたが、安永さんの対談集、「音楽って何だろう」で、作曲家の故・石井真木氏に、 コンサートマスター就任までにいきさつを詳しく話しているので、 もう一度その部分を抜萃引用する(32ページから40ページ2行目まで)。 私が本を見てキーボードから一文字ずつ入力したものである。 (残念ながらエンピツでは、文字数制限を超えてしまい、全文収録出来ないので、ココログをご覧頂きたい。) お読みになって分かると思うが、コンサート・マスターのオーディションを合格してもそれからの(安永さんの場合)1年半は毎回のコンサートが、 謂わば「試験」だったわけである。その後、投票があって、侃々諤々の議論の後に、正式に「合格」となる。その1年半のプレッシャーは察するにあまりあるが、 この対談が行われたのは、本の記録によると、1985年8月9日である。丁度、正式にコンサートマスターに就任した直後の対談だから、 細部まで安永さんもはっきり記憶していて、カラヤンにいきなり呼ばれて弾かされたり、会議の前に、「もし大変だから、辞退したらどうだ」と 本気で心配してくれた、ベルリン・フィルの同僚の話など、日本語で書かれた本で、安永さんのベルリン・フィルコンサート・マスター就任までの内幕が ここまで生々しく記録されている本は他に無い、と思う。安永さん自身、正式にコンマスと決まったときは、あまりの事の大きさにわなわなとしてしまった、 というぐらいの重責を、四半世紀も務めたのが、安永さんであり、敬意を表するなと言われても無理で、 他の誰が何と云おうと(誰かが何かを言っている訳ではないが)私は安永徹さんを尊敬している。 吉田都さんは、既に紫綬褒章を受勲しているし、今年の文化功労者には指揮者の大野和士の名前があり、 それはそれで、大変結構なことで、否定する気など毛頭ないけれども、不公平だ、と言っているのである。 オーケストラのメンバーは大したことない、とでも思っているのかね? 駆け出しの指揮者などより、ベテランコンサートマスターの方が、大抵のオーケストラのレパートリーは、良く知っているのですよ? それぐらいじゃないと務まらない。物凄いことですよ。先日、毎コンの話で、 コンクールというのは、「その日、その時、その場で」誰が一番上手いか、という、謂わば最大瞬間風速だ と書いたが、コンサートマスターを四半世紀続けるということは、最大瞬間風速を25年間続けたようなものだ。 ホントに日本政府、教養ねーなー。いい加減分かれよ。 【読者の皆様にお願い】 是非、エンピツの投票ボタンをクリックして下さい。皆さまの投票の多さが、次の執筆の原動力になります。画面の右下にボタンがあります。よろしく御願いいたします。
2009年10月27日(火) 「首相、被害実態の把握指示=防衛相「極めて遺憾」−護衛艦衝突」←事故の全容、原因が不明なのに陳謝する必要はない。
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