インフルエンザを悪用しようなどと卑怯なことを企んだのが、よくなかった。
二件ほど、せっぱつまった約束を反古にするために使ったら、 本当にAが寝込んでしまった。 高熱を出して、お腹がイタイイタイと言っては、 エクトプラズムみたいな白い胃液を吐いている。
仕事は、もう四日も手が止まったままである。 早く治そうとせかせかするのは可哀想なので、 たとえ嘘でも、腰をすえた態度で看病する。
あれもこれも取り返しがつかないほど大変なことになりそうで、 もう私は社会的信用を失って路頭に迷うに違いない、という自暴自棄な心境。
Hは何ひとつ自分のペースを変えずに氷をのぼりにいったりして暮らすので、 こういう時は憎い奴、と思う。 もう一生、標高1500m以下に下りてこないでくれ、とか、心の中で悪態をつく。
ただし、私と険悪な関係で山へいくと、Hは必ず大怪我をすることになっていて、昨年は肋骨を折った。 だから不機嫌もそこそこにしておかないと病人がまた増えてしまう。
2004年02月25日(水) マルコおいで
「愛・地球博」なる名称を、あちこちで目にする。 愛知県は今、この国でも異例に景気がよいのらしい。 新しい空港も開港して、大賑わいだったそうだ。
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巧みに名前を隠しているが、愛知万博は、すねに傷をもつイベントである。 計画の段階で、海上の森の開発や跡地利用計画を巡り、 環境保護団体と激しくぶつかった。 環境影響評価(環境アセス)という言葉をかなり有名にしたのも、 この愛知万博である。
顛末は確か、県や当時の通産省との交渉でらちがあかず、 業を煮やした保護団体が博覧会国際事務局−BIEというらしい−に直訴し、 国際博覧会の開催認可を一旦取り下げられた、というものだったと記憶している。 世界中から、そんな博覧会には参加しないとも言われた。
そして計画は変更され、縮小され、今の開催にこぎつけた。
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みんなが楽しみにしていることに水をさして申し訳ないと思いつつ、 「自然との共生」という開催テーマが胡散臭くて仕方がない。 この胡散臭さは、「自然との共生」という言葉の前に、 どうせやるなら、という言葉が埋め込まれているせいなのだけれど、 きらびやかな装飾であまり気付かれていない。
もう少しいうと、 イベントのために大々的にインフラを整備するということが、 何だかもう時代遅れでセンスがなくて、ちょっと辟易するのだ。
人口だって減っている。 列島改造論でならした全国総合開発計画だって、 根拠法の名前も内容も改正され、開発から保全へ大きくシフトしようとしている。 大きくものをつくる時代は、もう終止符が打たれている。
これからの時代の集まりというのは、小さく個性的にやって、 ネットで大きく共有したほうが、ムーブメントとしては大きいものになるのだ。
そういう理屈で、自然との共生と博覧会は、無関係なのだと確信している。
2004年02月21日(土) TO PRAY
真っ白に雪がつもる外を眺めながら、部屋の窓を拭く。 来週ここを訪れてくれるSちゃんのことを考えながら、 一つひとつの窓を拭く。
少し前の、彼女が生まれて初めて遭遇したのかもしれない、とてもつらく孤独な時に、 私はまったく気付かず力になれなかったことを、実は少し悔やんでいる。 そして、来週ここへ来た時には 今度は、そういう時にあまりにこにこするんじゃないよ、と 説教のひとつでもくれてやろうと思っている。
2004年02月19日(木) ファンタジーと生きる その2
無茶をするAを親の強権をもって牽制した後に、しばしばある涙の告白の一つが、 私と同じにやってみたかった、というもの。
模倣というのは、お手軽に自己実現を可能とする方法なのである。
* 愛知のスーパーで、一歳の男の子が亡くなった事件。 大阪の学校で、教員が刺殺された事件。
殺人事件に関して、加害者を庇う気持ちは毛頭ない。 犯罪というのは、法に照らし合わせて罰せられなければならない。 その一方で、犯罪社会学という分野は何をやっているのだ、という不満がある。
学校での殺人も、子どもを無差別に殺すことも、もはや全く驚愕ではない。 そういう事実を客観的に捉えるべきだ。 マスコミも、もういちいち驚くふりをする必要はない。 もう少し深い報道を、市民は求めている。
*
模倣は、たやすく実行可能である。 偽札事件や、振りこめ詐欺や、個人情報流出、みんな拡大再生産されている。 犯罪だけではない。 個人の怒りや不満をぶつけるような、数々のマナー違反や嫌がらせや小さな暴力だって、所詮は全て模倣なのだ。
善い振るまいと同じ量と力をもって、悪い振るまいは伝播する。 日本の場合、これは圧倒的にインターネットの力だと私は思う。 ウエッブの世界というのは、破壊と創造が一つに宿る何かの宗教神のように、 可能性の器であるだけだから、それ自体を否定することはできない、と私は思う。 ウェッブの世界で善と悪のどちらが勢力をふるうかは、結局のところ政治や経済のありようであり、 そういう意味で、今の政治にはこれまでにないスピードで多くのことが求められる。
*
殺意や暴力や悪意がこれほどまでにたやすく模倣される社会では、 もう次世代の子ども達に、社会的であれ、と言うことはできない。 模倣犯罪者たちは、すさんだ社会を反映した、という点で、 それも、既に検証された方法で反映した、という点で、 極めて社会的な資質を備えている。決して異質な人間ではない。
だから思う。今必要なのは、社会性などではなく、力強い個性だ。 良い行いをしなさいなんて、誰だって言えるし、誰だってそう思う。 でも善意の模倣は、その母樹を失いつつある。
だから、現実的で実効性があり、未来を託すことができる言葉があるとすれば、 社会には、沢山の悪意や、策略や、それを支える金勘定なんかの誘惑が蔓延しているけれど、 どんなに異端になっても自分は自分の道をゆく、という自立した個をもちなさい、 簡単に人の真似をしてはいけないよ、と伝えることぐらいなのだ。
2004年02月18日(水) 馬鹿でもないし迷走でもない恐怖
登山学校に行っていたHが帰ってきた。
出発前夜に、家族から自由の身になってクライミングに専念したい、 というようなことを、それもご丁寧に「本心なんだ」との注釈付で言われた。
留守になって数日の間は、 自分が登頂に成功しないことを家族のせいにするとは情けない奴だな、 と思ってみたり、 そういうことなら、自由にしてあげたほうがいいのだろうか、と思ったり、 問題は別のところにあるのかもしれないと、改めて自分の態度を振り返ってみたり、 少しの間まじめに考えた。
でも、「本当はあの時雪崩で死んでいた」と思い込めば、今さらどうでもいいや、 との思いに行き着いたところで、考えるのをやめることにした。
そして、けろっとした顔をして、奴さんは帰ってきた。 まるで犬の散歩のようである。
よく分からないけれど、ある年齢か、または家族をもって数年経ったときに、 男の人の中には、−女の人もそうかもしれないが− このままでいいのだろうか、と漫然と思う場合があるのかもしれない。
2004年02月16日(月) ファンタジーと生きる
2005年02月15日(火) |
善意の文章、悪意の文章 |
穏やかな春の日。朝からそう思っていた。 午前中までは、でも私には関係ない、忙しいんだから、 などと不貞腐れていたけれど、昼下がりになって、やはり心が緩む。
ありがたいことだ。自然の恵みだ。
*
辛淑玉(シンスゴ)という人がどういう人かはよく知らないけれど、 保育の専門誌に随分と意地の悪いエッセイを載せている。 ヨン様ブームに沸く女性の心境は男にはわからんだろうなあ、という内容。
何だか自分の日記が汚されそうでいやだけれど、毒もここまで強烈だと記録したくなる。 一般男性を称して「こいつら」と表現するこの人の、その一文を以下抜粋。
「…愛嬌もかわいげもない、ただ威張っているだけの男でも、経済力があったから女は頭を下げていたのよ。尊敬に値しない男であっても、金を持ってきてくれるから多くの女が頭を下げているという、女の世界ではあたりまえの事実すら共有されていない。…愛の言葉もささやけず、女性に対するマナーもなく、ただ威張っているだけで、とうとう金もなくなった日本の男に愛想をつかした結果のヨン様ブームなのにね。ちょっとは可愛い男を演じてみろよ、と言いたくもなるわ…」
抜粋終わり。 言葉や文章という素晴らしい道具を、なんと粗末に使う人だろうと思う。 どんなに立派でいい人なのかも知れないが、もう私はこの人の書いたものを読まないだろう。
個人に由来する怒りや不満や悲しみを、自分の中で一旦やり過ごす「ろ過装置」をもった人でなければ、 そして人に対する信頼感と愛情がなければ、人の目に触れるものを執筆などする資格はない。 これは、対価あるなしの問題ではないと、私は少し厳し目に思う。
*
日経トレンディで「日記で自分を定点観測する」という記事があり、買って読む。 日記を付ける人が増えている、という、数ページの記事。 書くことの意味や内容は人それぞれだけれど、 みな忙しい毎日の中で自分をつなぎ止めるために書いている。ここが大事だ。 ブログやWEB日記は、自分を内省しつつ、外部への客観性を、 丁度いい具合に維持できるのだと思う。
やはり、日記現象は面白い。
2005年02月10日(木) |
out of order |
春先の山を眺めつつ、仕事。 遠くで木を伐採している作業の、音がする。 チェンソーの音が止むとまもなく、 バリバリともゴリゴリともボコボコとも違う、深いきしんだ音が聞こえる。 木が傾いでいるのだろう。しばらくすると、地響きが伝わる。
一年で一番仕事がきつい時期とはいえ、今年は格別だ。 自分の顔面に、「故障中」とか張り紙して 利害関係者の皆様にはすっとぼけていたい心境である。
2004年02月10日(火) プライベートライアン登山隊
2005年02月09日(水) |
ゲームオーバーなのではない |
終日PCの前。不健康である。
在宅ホスピス医のN先生が、教育委員長に就任されたという知らせ。 小学校などで命の教育をなさっていた業績ゆえか。
学業の前に命の大切さを学ぶことが大事、との県行政の采配で、 N先生を抜擢したことは、センスあることと嬉しく思う。
でもその一方で、くじけている場合ではないが、改めてショックに思う。 人はいつか死ぬ、とか、命には限りがある、などという当たり前のことを 学校で教わらなければ分からない子ども達がいて、 生命教育は学校教育のプライオリティにおいて 最上位にもっていかなければならない、とは、一体どういうことか。
*
死んでもリセットすれば生き返ると、本当に、真剣に信じている子ども達が少なくないのだそうだ。 天動説を信じているどころの話ではない。 科学は一体どこへ行ってしまったのだ。 五感は何をセンシングしているのだ。
いったい、どういうイメージのもとに、「死なない」というか、 「生き返る」と信じているのか、ぜひ説明を聞いてみたいところだ。
子ども達が、こんな時代に子どもでいることについて、 大人の私は想像力を働かせて共感し、どうすればよいのか考える義務がある。 このことは確かだと思う。 子ども達をこんなにしてしまったのは、何か、ということについても。
次世代をいじめたり、意地悪をするような態度は、 やるのは簡単だけれど、しないように気をつけなければいけないと思う。
帰宅。
雛人形を飾る。 子犬のようにせわしなく早く早くとせかすAへ、きれいに手を洗うよう命じ、 私はわざともったいぶって、仰々しく箱を取り出し、 重々しい仕草で蓋をあける。
箱の中から奉書紙に包まれて姿を現したお内裏様とお雛様の二体の人形。 小さい頃は怖いばかりで少しも可愛いと思わなかったけれど、 大人になってその顔をよく見ると、 幼さのあるふっくらとした顔に微笑をたたえていて、愛らしいものだ。 創り手の子どもに対する思いが伝わってくる。
緋色の毛氈の上に台を置いて、お人形を並べて、 背後に屏風を立てたら、できあがり。簡素なのである。
Aは小躍りで雛祭りの歌をうたいだす。狂喜乱舞といった感じである。 季節ごとの行事というのは、いつでも子どもをハイテンションにする。 声をそろえて一緒に歌う。
この歌の歌詞で
「金の屏風に映る陽を かすかにゆする春の風」、
という部分が、私の一番気に入っているところだ。
住んだこともない日本家屋の、庭先の温い春の空気や、 そこから縁側や障子で隔てられ、ひな壇がしつらえられた 和室の情景などが、この短い詞からくっきりと浮かんでくる。
春の日本家屋の、畳と木の匂いがするんである。
2004年02月06日(金) 能動ラッシュを浴びる
また眠れていない。全く無意味に働いている。
寝るべき時間にとれなかった睡眠時間は、 きっとどこかに貯金されていて、高金利で運用されているのだろう。
沢山の利子がついて、いつかきっと、惰眠をむさぼれる時がくるのだろう。 平日の昼間、人々がスーツを着て、 オフィスで電話に出たり会議をしたり 移動の途中、交差点で信号待ちなんかをしている時間に、 正々堂々とレム睡眠に入っていられる日が、きっと来るんだろう。 来るに違いない。
2004年02月04日(水) 【備忘録メモの日】
昨夜より東京にて仕事。
追い立てるように、寒さが身体を締め付ける。 東京湾の湿気のせいで、信州と違う、独特のえぐられるような寒さがある。 少し懐かしい感じで、嫌いではない。 忙しくなければ、もっと寒さを味わう余裕だってあるだろう。 でも、今はいやだ。
2004年02月03日(火) 河川敷の贅沢
上京しようという日だが、これから雪になるのらしい。 列車の運行状況が心配だ。
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アエラという週刊誌で、福沢諭吉の記事を読んだ。 福沢諭吉全集に、他人の言説が混入しているという内容で、 「偽札だけではない福沢諭吉の受難」とタイトルがうってある。 しかしこれはどちらかというと人寄せパンダ的な仮のフォーカスであり、 ちょっとした「諭吉論」がみっちり書かれているので感心した。 どちらかというと、女性の日常を扱った軽目の記事が多いこの週刊誌で、 近代化を俯瞰するような、論文調の記事を掲載するとは、 その編集判断に、やるではないかと思ったのである。
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ニューヨークタイムス紙が「ブラジル人の肥満」という記事を掲載したところ、 地元紙から、掲載されている写真の女性はブラジル人ではない、と 激しく抗議された、というニュース。 写っていたのはチェコ出身のイタリア人観光客だったらしい。 もちろんその女性本人も、私は太ってなどいないと、ぷんぷん怒っている。
だいたい、「イパネマ海岸」の「ビキニ姿の女性」を、 肥満などと結びつけて、地元が怒らないわけがない。 地球の裏側に住む私だって、その無神経にひとこと言いたくなる。
イパネマの娘が、肥満などであるはずがない。失礼千万だ。 トム・ジョビンだって、きっと天国でそう言っている。 彼の歌を通して、この場所を心象風景にしている人が世界中にいるのだから、 ここでのそういう調査自体が、巧妙な意地悪かマナー違反をされている感じだ。
ニューヨークタイムスは、件の女性がアメリカ人でなかったことに むしろ胸をなでおろすべきだ。
2004年02月01日(日) 春と氷
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