もう随分前になるが、 英国の教会を見物しようとしたら入口で遮られたことがある。 どうも、「お祈り目的の人だけお入りください」ということらしい。 嘘だ。もはやそこは世界的な観光地だというのに。
黒い服をきた男性に、「to pray?」と聞かれ、 私は両手を合わせて「to pray」と応え入れてもらった。 聞く方の男性と自分のうそ臭さに薄笑いが出そうだった。
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在宅ホスピス医である甲府のN先生に手紙を出したら、 ありがたいことに、わざわざ会いに来てくださった。 「命を医療から取り返すことがホスピス運動の始まり」とのこと。
どこから生まれてどうやって死ぬのか、 人生を俯瞰できずに生きるのはつらい。 「何のために生きているのかわからない」とは若者の戯言や甘えではなく、 真実の喪失感だと思う。
このN先生を駅まで迎えにいく途中寄った本屋で、 藤原新也「なにも願わない手を合わせる」を衝動買いする。
その権威主義的な面や形式主義的な面などから、 これまで寺院などでのあらゆる祈りを拒否してきた著者が、 母や兄の死をきっかけに、四国の地で、祈りを考え始める。
今日の日本人は純粋な祈りの姿を失ったのだな、と語る。 自己救済を願うばかりで、ただ祈ることができない、と。
ああこれは、生と死を日常から遠ざけられたせいだな、と 私は直感的に思う。
様々な考察を経たあと、彼は 自然と人間の合作のような、風化した野辺の地蔵にむかって、 「荒れ果てた人間の世紀の中で、 海のように揺るがない自分になりたい」と祈るのだそうだ。
生と死を奪われて、 満載の喪失感と空っぽの自己肯定感を抱えて生きる 現代の少年少女たちは、 まるで藤原が祈りをささげる野辺のお地蔵様のようで、 わたしも祈らずにはいられない。
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