浅間日記

2004年02月21日(土) TO PRAY

もう随分前になるが、
英国の教会を見物しようとしたら入口で遮られたことがある。
どうも、「お祈り目的の人だけお入りください」ということらしい。
嘘だ。もはやそこは世界的な観光地だというのに。

黒い服をきた男性に、「to pray?」と聞かれ、
私は両手を合わせて「to pray」と応え入れてもらった。
聞く方の男性と自分のうそ臭さに薄笑いが出そうだった。

 ☆

在宅ホスピス医である甲府のN先生に手紙を出したら、
ありがたいことに、わざわざ会いに来てくださった。
「命を医療から取り返すことがホスピス運動の始まり」とのこと。


どこから生まれてどうやって死ぬのか、
人生を俯瞰できずに生きるのはつらい。
「何のために生きているのかわからない」とは若者の戯言や甘えではなく、
真実の喪失感だと思う。


このN先生を駅まで迎えにいく途中寄った本屋で、
藤原新也「なにも願わない手を合わせる」を衝動買いする。

その権威主義的な面や形式主義的な面などから、
これまで寺院などでのあらゆる祈りを拒否してきた著者が、
母や兄の死をきっかけに、四国の地で、祈りを考え始める。

今日の日本人は純粋な祈りの姿を失ったのだな、と語る。
自己救済を願うばかりで、ただ祈ることができない、と。

ああこれは、生と死を日常から遠ざけられたせいだな、と
私は直感的に思う。

様々な考察を経たあと、彼は
自然と人間の合作のような、風化した野辺の地蔵にむかって、
「荒れ果てた人間の世紀の中で、
海のように揺るがない自分になりたい」と祈るのだそうだ。

生と死を奪われて、
満載の喪失感と空っぽの自己肯定感を抱えて生きる
現代の少年少女たちは、
まるで藤原が祈りをささげる野辺のお地蔵様のようで、
わたしも祈らずにはいられない。


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