無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2007年01月05日(金) 動機は藪の中に/映画『リトル・ミス・サンシャイン』/映画『こまねこ』/ドラマ『悪魔が来りて笛を吹く』

> 不仲の兄・妹、家でも無言のにらみ合い…短大生殺害
> http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070106ic01.htm

> 妹になじられた後…自室で木刀とひも準備、冷静な犯行
> http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070106i101.htm

 東京都渋谷区の歯科医師長女短大生バラバラ殺人事件の続報である(まだどんな名称になるか分からないので、適当な呼び方をしているが、諒とせられたい)。

 昨日の日記ではこの兄妹の間柄にかなり淫靡な関係もあったのではないかと想像していたが、その可能性は薄れたようだ。妹はかなり兄を嫌っていたように思える。
 となればこの事件は、逆に兄の妹に対する満たされぬ欲情の爆発、という可能性の方が高くなってしまったわけで、身もフタもない言い方をしてしまえば、これはもう、童貞君の、しかも精神的に去勢されているがゆえの、身近な異性に対する「性的暴発」以外の何物でもない。
 妹がアイドル志望でブログまで持っていたというのならなおさらだ。妹と没交渉であったことが、かえって妹への幻想を培ってしまったのだと言える。もしかしたらこの兄、妹の一部を文字通り食ってたりしてないか。

 生物学的な本能として判断するなら、近親婚は決して異常なことでも何でもない。最も身近な異性に対して性的関心を抱くことは、ごく自然なことだからである。人間社会においてそれが回避されているのは、優生学的な問題(科学的には全く根拠のないことなのだが、なぜか未だに近親婚は奇形が生まれると盲信している人間が多数いる)や宗教的タブーがあるからというよりも、裏も表も知っている身内に対して、幻想を抱きようもないという「文化習慣的な要因」の方が大きいように思う。
 世の中に「お兄ちゃん……」とモジモジしながら甘えてくるような萌え要素満載の妹なんて実在しないのだ。

 しかしニュースはあくまでこの事件から情痴的要素を排除して報道しようと努めている。その結果、逆に矛盾だらけの表現が目立つことになる。「頭にきてやってしまった」犯行について「冷静な犯行」と強調しようとするあたりなどがそうだが、性的犯行は得てして冷静な行動となって現れるものだ。
 送検中の兄の顔がようやくテレビで流れるようになったが、あの「イッちゃってる目」を見れば、事件の本質は誰の目にも瞭然であろう。マスコミだけがなぜかオタオタしているのである。

 しかし、ネットでは「兄をバカにする妹は殺されて当然だ」みたいな発言も見受けられるようで、これには笑ってしまった。妹に幻想を持っている御仁は、結構身近におられるようなのである。


 シネリーブル博多駅で、映画『リトル・ミス・サンシャイン』。

 監督 ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス/プロデューサー デイヴィッド・T・フレンドリー、マーク・タートルトーブ、ピーター・サラフ/脚本 マイケル・アーント/音楽 マイケル・ダナ/撮影 ティム・サーステッド/美術 カリーナ・イワノフ/編集 パメラ・マーティン

 出演 グレッグ・キニア/トニ・コレット/スティーヴ・カレル/ポール・ダノ/アビゲイル・ブレスリン/アラン・アーキン

<ストーリー>
 アリゾナ州に住むフーヴァー一家は、家族それぞれに問題を抱え崩壊寸前。
父親のリチャード(グレッグ・キニア)は独自の「9段階成功法」を振りかざして、“負け組”を否定している。そんな父親に反抗する長男ドウェーン(ポール・ダノ)はニーチェの超人思想に被れて沈黙を続けている。9歳の妹オリーヴ(アビゲイル・ブレスリン)は、自分の体型では入賞はとうてい無理なミスコン優勝を夢見ている。ヘロイン常習者の祖父(アラン・アーキン)は勝手に言いたい放題。さらにはそこへゲイで彼氏に振られて自殺未遂を起こした伯父フランク(スティーヴ・カレル)まで加わる始末。ママのシェリル(トニ・コレット)の孤軍奮闘も虚しく家族はバラバラ状態だ。
 そんな時、オリーヴに念願の美少女コンテスト出場のチャンスが訪れる。そこで一家は旅費節約のため、オンボロ・ミニバスに家族全員で乗り込み、はるばる開催地のカリフォルニア目指して出発するのだが……。

 製作費はたった800万ドルのインディペンデント映画。
 マニアなキャスティングではあるけれども、一般的に客を呼べる有名スターは一人もいない。
 ところが、そんな映画が、『スーパーマン・リターンズ』『パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト』などの超大作を蹴散らして5千万ドルを売り上げる大ヒット、諸外国の映画祭でも絶賛の嵐、となれば、日本の批評家もまたこぞってこういう映画を誉め上げるのである。
 けれども、そこが「落とし穴」というもので、「地味な映画を賞賛するのが通」みたいなのは逆にスノッブなのね。映画を実際に見てみりゃ分かるけれども、駄作とまでは言わないけれども、「この程度で絶賛するか?」って程度の小品だよ、これ。

 いわゆるウェルメイドなシチュエーションコメディであると同時にロード・ムービーでもあるんだけれども、ビリー・ワイルダーほどに粋なわけじゃない。ニール・サイモンほどにイカレているわけでもない。ごくごく小粒。
ワイルダーなら設定にムリがあっても、笑わせてくれるんだけれども、そういう芸達者は、アメリカでも払底しているのかもしれない。コメディアンをあえて外して、「ナチュラルな演技」がふれこみの普通の役者を起用した(アラン・アーキンやスティーヴ・カレルなどのセカンド・シティ出身者もいるが、彼らにも普通の演技をさせている)。
 そこがあちらでは賞賛されているようだけれども、そもそも設定自体が「ありえない」のだから、ナチュラルじゃ逆効果なのではないか。だって、実際、見た印象は、「ムリのある話で、しかも爽快感がない」としか言いようがないのだ。

 冒頭で「いかにフーヴァー一家がバラバラか」を紹介する描写をパンフの解説で誉めていたけれども、こんな「絵に描いたようにバラバラ」な家族を「自然な演技」で見せても、かえって不自然さが目立つ。
 自分の立案した成功法を出版したがってるオヤジってのは実在するかもしれない。
 ヘロイン中毒の爺さんも世の中にはたくさんいるだろう。
 ニーチェに被れて無言の行を続けるイカレた若者も滅多にいるとは思えないがいないとも言えない。
 ミスコン狂いの母娘なら、いくらでもいそうだ。
彼氏に振られたゲイで、しかもプルースト研究家というのは突飛だが、普通の家族の中に一人、そんなヘンなのが混じってるっていうのなら納得もする。
問題は、「こんなおかしなやつらが全て集まってる家族なんてありえない」ということだ。

 ストーリーは彼ら家族が幾多のトラブルを乗り越えてカリフォルニアにたどり着くまでを描くが、このトラブル一つ一つの乗り越え方がまた、毎回「ウソくさい」のである。

 ラストが取って付けたように家族そろって仲良しになりました、で終わるのも拍子抜けだ。
 せめて日本の『逆噴射家族』のようにハチャメチャなことをしてくれるんだったら気が抜けるまでには至らなかったと思うんだけれども。


 続けてシネリーブルで、『こま撮りえいが こまねこ』 

 原作・監督・キャラクターデザイン 合田経郎/アニメーター 峰岸裕和、大向とき子、野原三奈
 音楽 Aikamachi+nagie/Vocal いいのまさし/エンディングテーマ:solita『123』

 声の出演 瀧澤京香、若林航平、小林通孝 

<ストーリー>
 
 「こまちゃん」は、こま撮り(8ミリ撮影のアニメーション)が大好きなネコの女の子。
 彼女を主人公に、五つの物語が綴られます。

1.「こまねこ はじめのいっぽ」
 こまちゃんはこま撮りするネコなので、今日も一生懸命にこま撮りをしています。ストーリーを考えて、絵コンテを描き、お人形や背景も作って、さあ!8ミリカメラで撮影を開始するのですが・・・。ハエが飛んできてアクシデント発生!こまちゃんは無事、撮影できるのでしょうか?

2.「カメラのれんしゅう」
 お気に入りの8ミリカメラで野原の撮影をするこまちゃん。撮影に夢中なこまちゃんに、幽霊がいたずらしようと、こっそり忍び寄ってきます。

3.「こまとラジボー」
 壊れたラジオの修理にやってきた、ラジボーとラジパパ。ラジボーは機械いじりが大好きな男の子。こまちゃんに、素敵なお友達ができました。
4.「ラジボーのたたかい」
ラジボーは飛行機のラジコンで鳥とたたかいます。あの手この手を使うのですが、なかなかやっつけられません。あきらめて鳥と仲直りするラジボーですが・・・。

5.「ほんとうのともだち」

 ある日、ピクニックに出かけたこまちゃんは、雪男と遭遇してしまいます。最初はびっくりしておうちに逃げかえりますが、失くしたお人形をおうちまで届けてくれた雪男にどうしてもあいたいと思うこまちゃん。
 はたして、こまちゃんは雪男に会えるのでしょうか?そして雪男の正体とは?


 監督の合田経郎氏は、NHKの人気キャラクター「どーもくん」の生みの親。
あの人形アニメーションの「あたたかさ」をご存知の方には、その素晴らしさについて今更、何の説明も必要としないだろう。
 上映時間がわずか1時間、これであの愛らしいこまねことお別れかと思うと、それだけで胸が切なくなる。
 合田氏のアニメーション技術の素晴らしさは、人形アニメにはありがちな「動きのぎこちなさ」、これが非常に小さいことだ。人形の骨格がしっかりしていることと、ぬいぐるみ人形の質のよさ、それももちろんあるだろうが、やはりその動きの「演技指導」が細密でブレが少ないことが一番の理由だろう。
 その技術は、アードマンスタジオの『ウォレストグルミット』を越えている。はっきりと「世界第一級」と呼んでいいと思う。

 当然のことながら、その技術を支えているのは、監督以下アニメーターたちの「真心」だ。
 こまちゃんは可愛らしいだけのネコちゃんではない。こま撮りアニメを作ることにはとことん凝っている(キャラクターのももいろちゃんとはいいろくんはこまちゃんが心を込めて作ったおかげで、動けるようになってしまった。けれどもこまちゃんの気持ちを汲んで、あくまでこま撮りさせてあげるのである)。

 つまりみなさん、こまちゃんは立派な「腐女子」なんですよ(笑)。
 ラジボーはメカマニアだし、いぬ子ちゃんは……。はいそうです。アレです(笑)。

 フツーの子供とはちょっと誓ったところのある子供たち、こまちゃんを動かしているアニメーターたちは、子供時代の自分たちに――そして今のフツーと違った趣味を持っている子供たちに向けて――。
 「君は、ここにいていいんだよ」と声をかけてくれている。
 これでジンと来ないオタクはいないだろう。

ああ、しまったなあ、去年のうちにこの映画を見られていたら、「キネ旬」の読者投票ベストテンに、この映画を入れるのだったのに。
昨年の私の日本映画ベスト5は、1.『鉄コン筋クリート』、2.『時を書ける少女』、3.『こまねこ』、4.『かもめ食堂』、5.『立喰師列伝』と変更します。
5本中、4本がアニメになってしまいましたが、あと『パプリカ』を見たら、それも入ってくるかも……。

 昨年は邦画自体も活況を呈したけれども、アニメもまた、秀作を次から次へと送り出してきていたのである。


ドラマ『金曜プレステージ 悪魔が来りて笛を吹く』。

原作 横溝正史/脚本 佐藤嗣麻子/演出 星護/音楽 佐橋俊彦
出演 稲垣吾郎(金田一耕助)、国仲涼子(椿美禰子)、成宮寛貴(三島東太郎)、伊武雅刀(目賀重亮)、螢雪次朗(玉虫利彦)、銀粉蝶(河村駒子)、高橋真唯(河村小夜子)、小日向文世(横溝正史)、野波麻帆(菊江)、浜丘麻矢(お種)、浜田晃(玉虫公丸)、渡部豪太(玉虫一彦)、塩見三省(橘署長)、秋吉久美子(椿秋子)、榎木孝明(椿英輔)
 
稲垣吾郎の金田一耕助シリーズも『犬神家の一族』『八つ墓村』『女王蜂』に続いて第四弾。
 金田一役者が代わるたびに、イメージがどうこう言われるのだが、稲垣吾郎はいささか若すぎるものの、金田一のこまっしゃくれた感じはよく出していると思う。あのマントひらりはちょっとやめてほしいが。
冒頭で米兵から「Batman!」と呼ばれるのは、原作の『蝙蝠と蛞蝓』を知っている者にはクスリとくるネタだ。

さて、ドラマの内容の方になるが、原作のトリックに重大なミスがあることは、横溝正史自身が告白している有名な話。多少は触れないことには説明が続けられないので、ちょっとだけ触れると、フルートに関するトリックである。
実はこれまでの『悪魔』の映画、ドラマ化においては、このトリックにミスがあるために、一度も映像化されたことがなかった。
このミスについては、原作者自身が改稿を考えていたのだが、残念ながら横溝正史には音楽に関する知識がないために(息子の亮一さんはフルート奏者なんだから、協力してやればよかったのに)放置されたままだった。
従って、『悪魔が来りて笛を吹く』というタイトル自体が一つのトリックになっているにもかかわらず、映像は常に「メイントリック不在」のまま、つまりは「不完全版」のまま、映像化され続けていたのである。

脚本の佐藤嗣麻子は、これまでのシリーズでも、原作のエッセンスを充分に引き出した脚本を書いてきた。正直、テレビドラマという時間の枠がなくて、映画という枠であったなら、これまでの横溝映像化の中で最高傑作と言ってよいほどの出来栄えになっただろうと思われるものばかりなのである。
今回もそれを期待してみたところ、まさに横溝ファンの意を得たかのように、このトリックミスが修正されていたのである。
何人か原作の登場人物が省略されていたり、密室トリックがなくなっていたり、原作の改変はかなりあるが、それでもこのメイントリックが初めて修正されたという点で、今回のドラマ化を高く評価しないわけにはいかないだろう。
省略された密室トリックも、正直、『本陣殺人事件』に比べればチャチとしか言いようがないものである。もしあと30分、尺があれば、この密室トリックも何とかグレードアップすることができたのではないかと思うと、やはりテレビという枠の狭さが残念に思えてならないのだ。

2005年01月05日(水) 年賀状のことなど/『パディントン発4時50分』(石川森彦)ほか
2003年01月05日(日) インド人にビックリ/『膨張する事件』(とり・みき)/『バンパイヤ/ロックの巻/バンパイヤ革命の巻』(完結/手塚治虫)ほか
2002年01月05日(土) 食って寝て食って歌って/ドラマ『エスパー魔美』第1話/『ピグマリオ』7巻(和田慎二)
2001年01月05日(金) やっぱウチはカカア天下か


2007年01月04日(木) インモラルの剥奪/映画『劇場版 BLEACH MEMORIES OF NOBODY』/ドラマ『佐賀のがばいばあちゃん』

> <切断遺体>殺害された女子短大生の兄を逮捕
> http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070104-00000098-mai-soci

> 東京都渋谷区の歯科医、武藤衛(まもる)さん(62)宅で長女の短大生、亜澄(あずみ)さん(20)の切断遺体が見つかった事件で、警視庁捜査1課と代々木署は4日、兄の予備校生、勇貴(ゆうき)容疑者(21)を死体損壊容疑で逮捕した。「妹から『夢がない』となじられ、かっとなって殺した」と殺害も認めている。(後略)

 さて、久方ぶりのいかにもな猟奇事件である。

 テレビのニュースでは、殺害された妹さんの写真ばかりを流していて、犯人の兄の写真は全然写されない。これも加害者の人権に配慮して、という措置なのかどうかは知らないが、こういう報道のされ方では、勢い、「兄に殺害される要素が妹にはあったのかどうか」という関心を喚起する形にならざるを得ない。
 要するに、兄は妹に近親相姦的熱情を抱いていて、その発露として殺害に至ったのだろうか、という関心なのだが(はい、今回、かなり内容、どぎつくなりますよ。キレイゴトだけがお好きな方は読むのをご遠慮ください)、妹さんの顔を拝見する限り、まあ、私の好みではない。

 いや、私の好みじゃないからと言って、兄が妹に熱情を抱いていなかったとは言えないことは当然である。
 少なくとも「頭部、両肩、腹部、両足などを関節部分で十数個に切断」という行為を、性衝動の発露でないと見ることの方が難しかろう。
 兄は「『私には夢があるけど、勇君(勇貴容疑者)には夢がないね』となじられ、頭にきて殺した」と供述しているそうだが、それをそのまま鵜呑みにはできない。
 ここまで「丹念に」切断しているのは、遺体を隠す意図があったと言うより、切断という行為それ自体に兄の関心が向いていたと判断する方が妥当だからである。

 死体をポリ袋に入れてクローゼットや物入れに隠したまま放置、予備校の合宿に参加していたというのも、死体隠匿の意志が希薄であったことを感じさせる。
 何やら臭気がすることについて、親には言い訳をしていたようだが、発覚しないと考えていたとしたら、兄の理性に信頼を置くわけにはいかない。
 死体をあとで捨てるつもりだったというよりは、帰宅してなお腐敗した妹の死体がそこにあり、「愛するものが腐っていく状態を鑑賞したい」という衝動を抑えることができなかったのではないかと見た方が、ずっと自然なのである。

 ニュースはこの典型的な猟奇事件を、なんとか穏便に報道しようとしてか、「『夢がない』となじられた」点ばかりを強調しようとしているが、兄にとって、夢のあるなしは実際にはどうでもいいことであったろう。
 妹に対して常日頃嗜虐的欲情を抱いていながら、その思いを果たせず悶々としていたところに、逆に妹の言によって被虐的立場に立たされようとしたことに対する衝動的な反発が、兄をして凶行に及ばせたと見れば、兄の一連の不可解な行動は全て納得がいくのである。
 あるいは。

 これほど明瞭な変態的猟奇事件が、ただの兄妹間の諍いのように、あるいは過剰な教育による強迫観念の爆発であるかのように「矮小化」されて報道される事態の方に、私は憂慮を覚えるものである。
 性の開放が進んでいるように見えながら、全体主義的なモラルの無意識的な強要はこの社会に蔓延している。ホモセクシャルはやはりカミングアウトすれば何らかの形で迫害を受けるし、サディストやマゾヒストはその伴侶を求めるのには特定の会員制の秘密クラブを利用するほかはないだろう。
 相手を殺してしまえば確かにそれは犯罪なのだが、性愛の究極の形が殺人に行き着くことは決して珍しいことではない。恋愛至上主義を信奉していながら、法律的にはともかく、心情的には陵辱を嫌悪し、情痴殺人を否定するというのは、とんでもない矛盾なのである。
 もっと端的に言ってしまえば、殺意を伴わない性愛は性愛として機能しているとは言えないのだ。相手を傷つけるということは、傷つける資格を自分が相手に対して有している、即ち相手がまさしく「自分のものである」と認識するための具体的な行為なのだから。
 もちろん、実際に殺害という行為に走れば、この愛は結末を迎えてしまう。殺したくとも殺せない、このアンビバレンツの中で、男女は自らの性愛を育てていくしかないのである。

 殺害された妹は果たして処女であったか否か、そのことを兄は知っていたか否か、いや、先ほどはつい書くことを控えてしまったが、この二人の間に既に近親相姦が成立していたか否か、そこがこの事件を読み解く重大な鍵となろう。
 しかし、兄がそれを告白するかどうかは分からないし、告白したとしてもそれが報道されるかどうかは分からない。
 いや、既に兄は何かの告白をしていて、全てを報道できないがために、あの「なじられた云々」という何とも腑に落ちない動機だけが強調されているのかもしれない。


 確実に言えることは、兄は妹を切断している間中ずっと、快感に打ち震えていただろうということである。
 「死体をバラバラにする」とは、どういう行為なのか。それは人体の人形化である。パーツ化である。人形とは即ち愛玩物である。そして人形に魂を吹き込むことができるのは、その人形の「主人」だけである。
 兄は妹の主人になりたかった。妹を自分の自由にしたかった。だから妹はバラバラにされなければならなかった。バラバラ殺人という行為が、兄のそういった意志を象徴しているのだ。
 “そんな行為を妹に対して行えた者は自分以外にいない”。
 この認識は処女を犯した男に共通する快感と同種のものである。即ち、このバラバラ殺人は、妹に対する兄の独占欲を満たすことになったに違いないのである。

 誤解を招くかもしれないことを承知であえて書くが、この事件は、兄にとって、「ハッピーエンド」であった可能性すらある。
 妹は果たして兄の自分に対する欲情に気付いていたかどうか。
 いや、もしも二人の間に交情があったと仮定すれば、妹の「自分には夢があるが、兄には夢がない」という問い掛けは、全く別の意味すら持ってくる。これはもしや、妹の、兄からの決別宣言ではなかったか。
 兄は、妹の別離を、まさに命を懸けて阻止したのである。
 これは私の個人的な妄想とは言えない。「死体を切断する」という行為に性的意味があることはこれまでのバラバラ殺人事件で常に分析されてきたことである。今回だけが例外であるとどうして言えるだろうか。
 人間を理解しようとする者なら、その行為の異常性がどう分析できるかは、常に意識しておかなければならないことだろう。

 あなたが真に恋人から愛されているという自覚があるなら、やはりいつかは殺されるかもしれない可能性があるのだと覚悟する必要があるだろう。
 愛とはそれくらい激烈なものなのである。

 ひと昔前なら、居酒屋などでテレビを見ながら、客同士でこの事件を話題にするとしたら、開口一番、誰かが「この兄ちゃん、妹とヤッてたんかな?」と口にしていたことであろう。
 しかし果たして現代はどうだろう。「ひどい犯罪もあったもんだねえ」で終わるか、下手をすれば「兄が妹を殺すなんて世も末だねえ、信じられない」などという「常軌を逸した」発言すら出てくるかもしれない。
 たとえそれが犯罪であったとしても、人間の性愛の可能性を簡単に否定するような社会は、決して健全には機能しない。去勢された社会だと言ってもいい。しかし、全ての性愛は基本的にインモラルなものなのである。
 即ち、インモラルな話題を口にできるということは、それだけモラルが形骸化しておらず、ちゃんと機能していることの逆証明になるのだ。表面的なモラルにすがりたい人々が多いということは、実質的にはインモラルを助長することにしかならない。
 「差別をなくそう」というスローガンが差別を増大化させるのと同じ現象が、性愛に関しても起きているのである。

 某SNSで、この事件が話題になっていたが(そこにいる人がここも読んでいることを承知の上で書くが)、やはりというか、誰も兄妹の心理までは踏み込めず、新聞報道の誘導に引っかかって「夢がないのがいけないのかどうか」みたいな暢気な話題に終始していた。
 SNSは「仲間うち」の世界であるから、“そういう視点での会話”が行われていれば、“それ以外の視点での会話”は荒らし行為にしかならない。
楽しい会話を邪魔するつもりは毛頭ないので、放置しておこうかとも思ったのだが、その暢気ぶりは前述した通り、人間の可能性を否定することに繋がる可能性すらあったので、遠回しに認識の甘さを指摘しておいた。
 遠回しすぎて、気付かれなかったかもしれないけれど。


 今日が仕事初め。
 やらなきゃならない仕事は実はたくさんあるのだが、休みボケが続いているので、適当にこなして、定時に退出。
 どうせ次に出勤する時は早起きして行くので、時間の余裕はあるだろう。多分。

 仕事と知らない父から、夕方電話がかかってくる。
 「散髪でもせんかと思って電話ばかけたとやけどな」
 父は今日まで仕事休みだが、世間はみんな働き始めているのですよ(苦笑)。
 仕事を引けてから妻と合流、父と食事をする。
 「脳梗塞からこっち、客が十分の一に減ったなあ」と嘆息する父。
 しかし、ということは倒れる前は父は私の数倍、稼いでいた計算になる。
 それだけ稼いでてその殆どを散財してたんだから、どれだけ遊んでたか、ということになろうかと思うが。


 父と分かれて、妻とダイヤモンドシティへ。
 映画『劇場版 BLEACH(ブリーチ) MEMORIES OF NOBODY』。

 原作 久保帯人/監督 阿部記之/脚本 十川誠志/キャラクターデザイン 工藤昌史/音楽 鷺巣詩郎/主題歌 Aqua Timez「千の夜をこえて 

 出演 森田成一/折笠富美子/伊藤健太郎/置鮎龍太郎/朴璐美/三木眞一郎/立木文彦/石川英郎/塚田正昭/川上とも子/大塚明夫/中尾隆聖/櫻井孝宏/西凛太朗/松谷彼哉/望月久代/檜山修之/福山潤/奥田啓人/斉木美帆/梁田清之/本田貴子/松岡由貴/安元洋貴/杉山紀彰/真殿光昭/森川智之/瀬那歩美/釘宮理恵/小阪友覇/松本大/安田大サーカス/森下千里/斎藤千和/江原正士

 ストーリー

 黒崎一護の前に死神少女・茜雫(センナ)が現れる。
 空座町(からくらちょう)を舞台に大量発生した認識不能の霊生物・欠魂(ブランク)。
 尸魂界(ソウル・ソサエティ)の空に映し出される“現世の街”。
 巌龍(ガンリュウ)率いる闇の勢力・ダークワンたちの恐るべき謀略が動き始める。
 世界の崩壊まで残り1時間。
 一護は、この世界を守りきることができるのか?
 そして明かされる茜雫との関係とは?

 ジャンプアニメはジャンプアニメというだけで貶せる欠点があるが、それにはもう今更触れても仕方がないような気もしている。
 宝塚の舞台に「なんで女が男役やってるんだよ」と突っ込むようなもので、どうしてジャンプマンガは話が全部「天下一武闘会」になるんだ、と腹を立てたところで、「それがセオリーだ」と言われれば反論のしようもない。

 しかしそれで話が面白くなっているのならばともかくも、とてもそうは思えないのだから、劇場版の時くらい、「もう何度も見たことのあるパターン」やら「聞いたことのあるセリフ」を連発するのはそろそろやめてほしいものだ。
 「俺は絶対あいつを助け出す!」と主人公が叫んで、ヒロインを助け出せなければこれはただのバカである。こんなセリフは、予定調和のドラマを説明する意味でしかない。黙って行動しろ、くらいのことは言いたくなる。

 いや、そもそも物語の骨格自体がふにゃふにゃで、人物造形もへろへろだ。
尸魂界と現世の崩壊に、茜雫の存在が関わっているのだろうということはすぐに分かる。
 しかし、この茜雫が、自分の存在の曖昧さについてさほど悩みもしていないのがそもそも不自然だ。「複数の生前」を記憶していながらアイデンティティ・クライシスも起こさずに享楽的に過ごせるというのは、ただのバカではないのか。ヒロインに感情移入させる具体的な演出が一切見られない。
 一護の茜雫への思い入れがどうしてああまで高まるのか、その描写も不十分なので、観客は完全に物語の展開に置いてけぼりになる。作画は頑張っているが、一度、置いていかれて白けてしまった心を高揚させるにまでは至らない。

 ともかく、登場人物が多すぎるのだ。劇場版ということでオールスターキャストを揃えなければならなかったのだろうが、無駄な描写を増やすばかりである。
 所詮はジャンプファンのイベント映画に過ぎない。まともなドラマとしての評価は下しようがないのである。

 それにしてもタイトルが既にネタバレになってるってのはどういうことかね。
 茜雫が登場したら、すぐに正体分かっちゃうじゃん……と思っていたけれど、ネットで調べてみたら、「サブタイトルの意味は最後に分かります」とか書いてる人、結構いるんでやんの。
 ……もうちょっと読解力持てよなー(苦笑)。


 帰宅して、ドラマ『佐賀のがばいばあちゃん』。

 泉ピン子のばあちゃんは、当然のことながら映画版の吉行和子よりも島田洋七のおばあちゃんに似ている。と言うか、吉行和子は演技がまずいわけじゃないんだけれども、ばあちゃんにしてはきれい過ぎるのだね。
 「泉ピン子もばあちゃんやるようになったんやね」としげ。が感嘆していたが、相応な年齢だろう。佐賀弁もそう不自然ではなかったし、映画よりもこちらの方が決定版、ということになるのではなかろうか。
 ラストで主人公の駆け落ち編的なエピソードが挿入されたので、続編も作られそうな気配である。

 それにしても原作が同じとは言え、映画とテレビドラマと、内容が殆ど同じであったのには驚いた。
 いや、セリフや演出、場合によっては画面の構図まで似通っているシーンがやたらあったのだ。リメイクというよりは、殆ど「キャストを変えた撮り直し」といった印象で、『犬神家の一族』を彷彿とさせたが、一応、実話なんだから、へたに変えようがなかった、ということもあるのだろう。

 けれど、英語について「私は日本人だから外国のことは知りません」、歴史について「過去のことには拘りません」という言い訳、いつの時代からあるんだろうね。この伝統だけは成績の悪い生徒の先輩後輩間で、脈々と受け継がれているような気がする。

2005年01月04日(火) 2004年度映画勝手にベストテン
2003年01月04日(土) めかなんて、こどもだからわかんないや/『眠狂四郎』6巻(柴田錬三郎・柳川喜弘)/『ああ探偵事務所』2巻(関崎俊三)
2002年01月04日(金) 消えた眼鏡と毒ガスと入浴シーンと/『テレビ「水戸黄門」のすべて』(齋藤憲彦・井筒清次)
2001年01月04日(木) ああ、つい映画見てると作業が進まん/『快傑ライオン丸』1巻(一峰大二)ほか


2007年01月03日(水) アクシデンタル・カメラマン/舞台『戸惑いの日曜日』/『もやしもん』4巻(石川雅之)/『月蝕領映画館』(中井英夫)

 今日もしげ。はパソコンと悪戦苦闘。
 こりゃ、買い物も映画も、週末までは無理だなーと、またまた今日もテレビとDVDの寝正月。


 見ている最中に眠くなるので、なかなか全部見通せなかったラーメンズBOX『椿』『鯨』『零の箱式』『雀』を見る。初期ラーメンズ、今見ると決して面白いアイデアばかりではない。演技も硬くて今ひとつ。
 けれども客はたいして面白くもないギャグに笑っている。これでよくこの二人、思い上がって潰れなかったものだ。
 昨年の『ALICE』がかなり面白かっただけに、その軌跡を後追いしてみたのだが、役者が上手くなっていく過程を辿れたという意味では、高い買い物ではなかったと思える。


 時代劇専門チャンネルで、映画『大奥』の初日舞台挨拶の再放送。
 去年の12月23日に放送されたものだ。

 絵島(江島)事件についてのウンチクでもあるかなと期待して見てみたが、話は殆ど出演者へのインタビューだった。そりゃそうか。
 絵島事件については、おおざっぱなことしか知らないので、この機会にいくつか本を漁ってみたのだが、史実はただの情痴事件で、当然、映画や舞台のような近代的な純愛話ではない。大奥内での権力争い、老中側用人も絡んだ陰謀事件のように描かれることも多いが、それにしちゃ史実の絵島の放埓ぶりがあまりにうかつ過ぎるので、どうかな、という気がするのである。

 映画が史実に依拠しないのは仕方がない。現代人の感覚からすれば、そのまんま映像化するには人間関係が奔放に過ぎる。けれどまあ、大奥に入って総支配まで勤める女が実は処女というのはいくら何でもムリがありすぎで、もしかして今時のオタク向けの萌え要素まで狙ったのかと、穿った見方もしたくなる。

 仲間由紀恵がインタビューに答えて「純粋な人としてみなさんの中に入っていけばいいんだなと思いました」と答えていたが、それをさほど違和感なく、堂々と演じられているという意味では彼女は貴重な清純派なのである。つか、ここまで来たら、もう一生、清純派で行くしかないんじゃないか。
 若手の女優さんで、こういう「一生清純派」で行きそうなのは、あとはやはり長澤まさみくらいしかいないので、マジメに注目しちゃいるのである。


 WOWOWで、舞台『アパッチ砦の攻防より「戸惑いの日曜日」』。

 作・三谷幸喜 演出・佐藤B作
 出演 佐藤B作/あめくみちこ/細川ふみえ/中澤裕子/小島慶四郎/西郷輝彦/角間進/佐渡稔/市川勇/小林十市/山本ふじこ/小林美江/市瀬理都子/斉藤レイ

 §ストーリー§
 舞台は高級マンション「フォートネス・アパッチ301号」。
 ここは4日間前まで、鏑木研四郎(佐藤B作)が住んでいたが、借金まみれのため手放していた。
 しかし、娘のちよみ(中澤裕子)から、婚約者の堤君(小林十市)を紹介したいと言われ、情けない姿みせたくない彼は、ちょっとだけ部屋を借りることにする。
 現在の持ち主、鴨田巌(西郷輝彦)の奥さん(細川ふみえ)が、たまたま電気屋(小島慶四郎)に配線を依頼しているのを見て、その電気屋になりすまして、侵入。まんまと娘のちよみをだます。あとは婚約者の堤君をだませればだいじょうぶ。
 ところが、ちよみが堤君を迎えに行っている間に、本当の住人である鴨田がやって来てしまう。さらにちよみが、鏑木の離婚した前妻(あめくみちこ)やら、堤君の両親(角間進・市瀬理都子)までマンションに呼んでしまい、大パニック。その上、本当の電気屋に、鴨田の妻の浮気相手の不動産屋(佐渡稔)、鏑木の現同棲相手のビビアン(小林美江)までやってきて、ひっちゃかめっちゃか。
 絶体絶命、どうする、鏑木研四郎!?

 ……という基本ストーリーは、初演時から変わらず。
 初演はナマで見ているので、当時のパンフレットも持っているのだけれども、もともとこの芝居、『みんなのいえ』の原型脚本だったのである。
 それがうまくまとまらずに、わずか一週間で全面書きなおし、公演三日前にようやく脚本が完成したという曰くつきの「やっつけ芝居」なのだ。
 にもかかわらずここまでの完成度、と誉めることもできなくはないが、やはり他の三谷作品に比べると、無理が生じていたり納得が行かない部分も多々あったのが初演版だった。

 それが、このタイトルも変えた再々演版、それらの不満がかなり改善されているのである。
 鏑木がマンションに居残ろうとするムリはどうしようもない。それがなければこのコメディ自体が成立しないから。
 けれども、鏑木=の佐藤B作のいい加減さがキャラクターとしてより強調されることで、「それくらいあほなことをこいつなら仕出かしそうだ」というリアリティが増している。
 そして、初演版では娘たちは鏑木に騙されっぱなしだったのが、最後に全ての真相を鏑木が告白する形に変更されている。ここが私も初演版で一番引っかかっていたことで、「いずれバレることじゃん、始末が付いてない」と腑に落ちない点であった。
 カタルシスの点で言っても、今回の結末の方が順当で、三谷さんも昔に比べて「大人になった」ということなのだろう。
 新登場のビビアンのキャラクターも、出るべくしてようやく出た、という印象だ。オチはこうなるだろうなと見えてしまうけれども、そこはご愛敬。鴨田の役も、これまでの石井愃一、伊東四朗両氏には申し訳ないが、若妻にかまってやらない傲慢さでは、西郷輝彦が一番似合っている。

 正直、三谷幸喜は最近、レベルが落ちてきていたので、新作にあまり期待はしなくなっていたのだが、こういう「改作の上手さ」を見る限り、まだまだやるな、と認識を改める必要があると思えるのである。
 ああ、また買わなきゃならないDVDが増えちまった。


 夜になって、またまた志免炭鉱竪坑櫓まで出向く。
と言っても今度はただの見物ではなくて、イッセー尾形ワークショップ仲間と一緒に製作中の自主映画の撮影のためだ。
 私は探偵の役で、あちこちを徘徊するという設定。もっとも撮影するのは私の後ろ姿とか手元とかシルエットだけで、顔は映さない。探偵には顔がないのである(笑)。

 で、ライトアップされたここ志免炭鉱にもやってきているのだが、なんでやってきているのかは演じている私にも分からない(笑)。
 脚本なし、イメージ優先のかなり適当な作りの自主映画なので、どんなものになるのかは監督の私にも予測はつかないのである。
 てゆーか、先読みのできる映画はつまんないなー、と思ってつくっているので、これでいいのである。

 予測不可能というのは実際に予測不可能が起きることで、櫓の回りを歩いているところをしげ。に撮影させている最中にアクシデントは起きた。

 櫓のわきに7、8メートルほどの高さのボタ山がある。その上に登って、櫓を見上げているカットを撮ってもらおうと思って、私は先に駆け登った。勾配は急なところだと40度ほどはある。勾配というよりは崖に近い。
 中年とは言え、私も体力がなくなっているわけではないから、助走をつけてそこを一気に駆け登った。その後、下にいるしげ。に向かって、もっと緩い勾配の方を指差して、そちらから回ってくるように言った。

 ところがしげ。は、何を勘違いしたのか、私のあとを、カメラを持ったまま走って追ってきたのだ。
 私より若くても、しげ。の持続力は私以下である。それでも数メートル程度の高さの山なら、しげ。の脚力でも充分に登り切れたろう。脚力がなくても足場がよければ何とかなったかもしれない。
 しかし、敵はボタ山である。雨が降ってなくても足場は何となくぬるい。しげ。はあと数メートルというところで崖に足を取られて腹ばいになった。そしてそのままズルズルと落ち、山の途中で引っかかってしまった。

 「助けてー」
 情けない声が聞こえる。
 「あっちへ回れって言ったのに、なんで言うこと聞かないんだよ」
 「だって見えなかったんだもん」
 かと言って、今見えてる目の前の崖が登れそうかどうか、判断くらいしてほしいものだが。
 まるでマンガかCMのように、私が手を伸ばして引き上げてやったのだが、撮った映像はあとで見ると、テレビのドッキリ映像のように、目算を失ったカメラがあえなく夜空を写していたのだった。
 さてこのカット、状況によっては使えるだろうか。

 ボタ山の上に登りきったところで、いざ撮影再開、と思ったところに、向こうから子供が登ってきた。
 こんな夜に近所の子供だろうかと声をかけてみると、「パトロールにお父さんと来ています」と言う。
 さてはさっきのしげ。の「助けてー」の声を聞き付けてきたらしい。
 とんだゲスト出演者が現れてしまったが、ことによるとこの子との会話も映画のブリッジにそのまま使えるだろうかと考える。
 探偵は一人、というつもりだったが、カメラマンが随伴、という設定にしてもいいかもしれない。


 晩飯は「庄屋」でマクロビ膳。
 私はよく知らなかったのだが、マクロビってのはマクロビオテックの略で、穀類や野菜を中心とした食事のことを指すらしい。中身は玄米ご飯にけんちん汁、湯葉に山菜といったもの。以前も同じメニューがあったけれど、そのときは確か「湯葉御膳」とか何とか言う単純な名称だったと思う。
 要するに日本の伝統料理なのだが、こんなふうに新しい言葉で紹介されるとなんだか新発見っぽく聞こえるっていうんで、メニューを一新したのだろう。
 味は悪くないが、980円という値段はちょっと高い。流行ものは高く売ろうって腹か。でもおかずの量もたいしたことないし、せめて780円くらいで商売してほしいものだと真剣に思う。


 マンガ『もやしもん』4巻(石川雅之)。

 限定版は悩んだ末、買わず。フィギュア付き買うと小うるさいやつが近くにいるもんで。
 でもどこの店でも完売なようで、好きなマンガが人気呼んでるのを見ると嬉しい。『のだめ』人気もいささか作用してるかもしれないが(二ノ宮さんがホントに作画協力してるよ)。

 主人公が影薄いとか言われているけれども、キャラクターはちゃんと立ってるからいいの。
 あの、「菌が見える」能力について、誇るでもなく嫌がりすぎもしないところが、イヤミじゃなくていいんだからさ。
 特に今巻は、魔女っ子ものにはつきものの「魔法が使えなくなっちゃった!どうしよう!」という展開で(いや、『もやしもん』は魔女っ子ものじゃないけどな)、しかもそれがやはり『もやしもん』らしく、意外な原因と、恋愛ドラマになりそうなならないような微妙で絶妙なバランスのなだらかな盛り上がりとで、まったりと魅せてくれるのだ。

 ……まあ、こう遠回しに書いてても何のことやら未読の方にはよく分からないだろうけれど、ネットとかで内容を調べる前にやっぱりゲンブツを手に取って読んでもらいたいのである。
 農学的なウンチクが好きな方には、樹教授のお話をどうぞ。今回の題目は「ウンコから火薬を作る話」。『もやしもん』は教養マンガでもあるのです(笑)。


『中井英夫全集12「月蝕領映画館」』(創元ライブラリ)。

 『虚無への供物』はミステリファンにとっては「これを読まずしてミステリファンを名乗るな」的なバイブルであるが、その人が大の映画ファンであったということは非常に嬉しいことである。
 と同時に、中井氏の映画エッセイが、この一冊しか残されていないことに無念もまた覚える。どうしようもない駄文で各種雑誌の紙面を汚しているプロもどきは腐るほどいるからだ。

 鈴木清順の『陽炎座』を評するのに、原作となった泉鏡花の短編が、公表されている『陽炎座』『春昼』『春昼後刻』のほかに『酸漿(ほおずき)』も含まれているだろう、と指摘しているのはまさに慧眼で、ただの感想ならばいざ知らず、映画「批評」にはこのような教養が絶対に必要になるのである。
 清順監督からは、中井氏に「何かシナリオ書いてよ」との依頼があったそうで、これが実現していたらどんなに心を躍らされたことか、中井脚本による『カポネ大いに泣く』や『ピストルオペラ』が、いや、清順版『虚無への供物』が見られたかもしれないと思うと、氏の早世を悔やむばかりである。

 横溝正史原作の『悪霊島』『蔵の中』についての批評などは辛辣で(まあ、あの二作を誉める人間はどうかしているのだが)、前者が清水邦夫脚本・篠田正浩監督という中井氏の知人の作品であるにもかかわらず「どうにもならない」と切って捨てているのが、映画に対する氏の愛情を感じさせて読者としては嬉しいのである。

 知人が作ってるからと言って、批評に手加減を加えるエセ批評家はいくらでもいる。こういう文章を読めば、ああ、この人は批評家として信頼できるなあと思える。友達をなくそうが、親類縁者に縁を切られようが、批評家は孤高を貫かなければいけない義務があるのだ。その代わり、いざ自分が映画制作者の立場になろうとすると、スタッフが揃わないということにもなるんだけどね。
 映画制作者と批評家とは、二速のわらじが履けない最たるものだと言える。

 中井氏の批評は、1982年当時のものであるが、現在読み返してみても決して古びてはいない。それどころか、その先見の明、慧眼に舌を巻くこともしばしばである。
 ウォルフガング・ペーターゼン監督の出世作『Uボート』であるが、私は10代のころに見たこの映画をかなり高く評価していたのだが、中井氏は「型どおりの展開で呆れた」「ご都合主義」「筋立てが安直すぎる」とコテンパンである。
 当時、私が中井氏のこの批評を読んでいたら、中井氏も映画を見る目がないなどと思い上がったことを考えたかもしれないが、この後のペーターゼン監督の諸作、『ネバーエンディング・ストーリー』から『エアフォース・ワン』や『ポセイドン』に至るまで、ハリウッド規格の安直な映画を量産している状況を鑑みれば、不明だったのは私の方だったと痛感することになっただろう。

 意見を同じくする映画については、嬉しくもなる。
 ポール・グリモーの『やぶにらみの暴君』を「主人公をただの暴君には描いていない」と賞賛しながら、「後半がつまらない」とダメ出しする。
 私が見ているのは改作された『王と鳥』の方だが、実際、私が好きなのも前半なのである。ちょうど先日の日記でこの映画について「後半、主人公が変わる意味が分からない」と書いたばかりだったので、この符合には小躍りしたくなった。

 紹介されている映画についていちいちまた私の感想を付け加えていてはキリがない。
 印象批評に過ぎると思われる文もないではないが、連載エッセイで紙数が限られている性質上、致し方のない面もあるだろう。
 少なくとも、読むに値しない映画評ではない。
 惜しむらくは当時の氏が既に病弱であったために、見損なった映画も多々あることである。『エレファントマン』などをどうこきおろしてくれるか、読んでみたかった。

2005年01月03日(月) 相変わらずの正月/映画『0011ナポレオン・ソロ/罠を張れ』ほか
2003年01月03日(金) 日記書いたことしか記憶にないな/『ヘウレーカ』(岩明均)ほか
2002年01月03日(木) 貧乳の夢と鬱と別れのシミュレーションと/『ドラマ愛の詩スペシャル キテレツ』/『本気のしるし』4巻(星里もちる)
2001年01月03日(水) 初夢。……初夢だってば/『雲竜奔馬』5巻(みなもとたろう)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)