無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年10月24日(月) 子役が大成するには/『諸怪志異(四)燕見鬼』(諸星大二郎)

 終戦60年スペシャルドラマとして制作された日本テレビ系列の『火垂るの墓』(2005年11月1日(火)21:00〜 23:55)、正直、見るかどうか悩んでいたのだけれども、キャスト表を見て、これはぜひとも見ねばならない、と決心した。いえいえ、松嶋菜々子目当てではありません(笑)。
 野坂昭如の原作小説や、高畑勲監督のアニメ版をご覧になった方ならばお分かりいただけると思うが、この物語のキモは二人の兄妹の「子役」の演技如何にかかっていると言っていい。ただ、名子役というのもそうそういるわけではないので、学芸会的な演技でお茶を濁されるんじゃないかなあという心配が子供を主役にしたドラマでは常にあるのだ。
 ところが、節子役が先日『ウルトラマンマックス』「第三番惑星の奇跡」でそれこそ奇跡のような名演を見せてくれた佐々木麻緒ちゃんだと知って、年甲斐もなく興奮してしまった。いえ、ヘンな意味ではありません(笑)。1999年6月1日生まれというから、まだ6歳、それであれだけ感情を抑制した演技ができていたとは驚異の才能だが、もしかしたら今度の『火垂るの墓』の演技次第では、日本のダコタ・ファニングになれると踏んでもいいんじゃないかと思っているのである。
 一応はタイトルロールの松嶋菜々子、ナメてかかってふやけた演技をしようものなら、麻緒ちゃんに「食われる」んじゃないかと思うが、私としてはぜひ麻緒ちゃんに「食って」ほしいと思う。いやさ、日本の社会ってのは子役に厳しいからね。ちょっと芽のある子役だと、仕事の上でもライバルから足を引っ張られるし、私生活でも親の過保護とか学校でのイジメとかストーカー被害に遭うとかで、せっかくの才能が潰されてしまうことが往々にしてある。杉田かおるにしろ安達祐実にしろ、そんな目にあってなお、しぶとく(笑)生き残ってきたのだ。麻緒ちゃんにもたとえ大人の社会のドロドロに巻き込まれようと、それを弾き飛ばすくらいの「逆境に負けない心」を持ってほしいのだ。
 6歳の子供にそういう「図太さ」を要求するのは酷かもしれないが、そうでなければ海千山千、魑魅魍魎が跳梁跋扈する芸能界で、決して生き残れはしない。「逆境すらも己の糧とする」という姿勢は、たとえ子役であろうと、「役者」である以上は身につけなければならない必須条件なのである。
 今回のドラマ出演をきっかけに、麻緒ちゃんにはぜひ何かの映画に出てほしい。日本の子役出身者は、なぜか「映画」では今ひとつ代表作を残せない感じがあるんだが、これも「子役は大成しない」というジンクスの原因の一つになっている。だから、もう五本も十本も映画に出ている神木隆之介君の後を、ぜひ追っていってほしいのである。
 ほい、そこのロリコン中年のオタクおじさんよ、少しばかり自分の欲望を抑制して、見た目の可愛さだけではない「役者」としての女の子を見る目を養ってみたらいかがかね。


 週明けで何か新しい検査結果でも出たかと、病院に父の見舞い。
 しげとの待ち合わせはいつもどおり博多駅でだが、紀伊国屋に寄って取り置きしてもらっておいたDVD『エマ』の3巻と4巻を買うので手間取り、時間に遅れる。と言ってもせいぜい2、3分なのだが、「遅い〜!」としげは頬をふくらませる。
 こんなふうにしげの機嫌が悪いのはたいてい空腹なせいなので、見舞いの前に食事に誘う。「何が食べたい?」と聞くと、開口一番、「豚カツ」。
 「じゃあ、天神コアの上でいいか? そこなら福家書店にも寄って行けるし」
 実を言うと、「いいか」と聞いてはいるが、そこ以外に天神に豚カツ屋があるかどうかよく知らないのである。最近は博多駅より南側の方が活動テリトリーが広くなってきているので、天神方面はすっかり地理不案内になりつつあるのだ。
 福家書店に入ると、カウンター横に、あさりよしとおさんの特集コーナーができている。見ると、今度の日曜日にサイン会が開かれるとか。『るくるく』5巻の発売記念だそうで、こりゃもう『元祖宇宙家族カールビンソン』以来のファンとしては、万難を排してでも参加せざるべけんや、である。
 整理券を発行してもらうと、200名限定なのに番号はまだ52番。ちょっと「えー?」って感じである。福岡のオタクどもはいったい何をしてるんだと少しばかり憤りを感じたが、考えてみればあさり作品がオタクマンガの先陣を切って突っ走ってたころって、もう10年、いや、20年近く前なんである。今の若いオタクには『カールビンソン』がかつてはアニメ化されるくらい人気があったことや、『エヴァンゲリオン』の第三使徒サキエルほか、いくつかのキャラクターをデザインしたこととか、そういう基礎知識もないんだろう。
 まだ整理券の発行期間は5日ほど残っているので、もうちょっと数は増えると思うけれども、あさりさんのサイン会が百人足らずというのはちと寂しい。ファンの人でまだこのサイン会の存在に気付いてなかった人は、ぜひ今度の日曜に福家書店まで足を運んでいただきたいと思う。
 まだ買い損なっているマンガの新刊を数冊購入して、七階のトンカツ屋で食事、その後、病院へ向かう。

 今日は昼間、小倉の親戚が父の見舞いに来たそうだ。
 例の借金まみれの親戚で、申し出を断ったり、ほかにも細かいことで何やかやとトラブルがあったので、少し疎遠になっていたようなのだが、どこかから父の入院を聞きつけて、駆けつけてきたものらしい。
 「親戚が病気になっても、こっちは気付かんままのことが多いとに、こっちの病気はすぐ親戚に知れ渡るんやね」
 「そうたい。仕事しよって休んどったら、すぐに『店に出とらんけど、どげんしたとね?』って言われっしまうけんなあ」
 「見舞いには何か持ってきたとね。酒?」(この親戚は父の糖尿を知っていてもあえて酒を土産に持ってくることが多いのである)
 「今度はさすがに持ってこんやった(笑)。ばってん、来る見舞いがみんなおんなじことば言うったい。『もうこれで酒ば飲めんごとなったな』げな。俺はお母さんが亡くなる前もやめるときはちゃんと酒はやめとうとに」(もちろん母が亡くなってからの父はしこたま飲んでいるのである)
 「僕は何も言わんよ。『やめろ』って言っても、こっそり隠れて飲むのはいくらでもできるっちゃけんね。お父さんが自分で『やめる』って思わな、どうもならんやん」
 「飲んでも飲まんでも、まあ、俺もあと十年やな」
 「そこまで行ってやっと平均寿命やない」 
 父が本気で断酒するつもりがあるのか、どこまで信用していいかは分からないのだけれども、病院に自分から来たということはやっぱりもちっと長生きしておきたいという気持ちはあるのだろう。自重してもらえるならありがたい。たとえこちらがいい年をした大人になっていようと、いざというときに「たかれる」親がいないというのは寂しいものであるから(笑)。


 帰りにコンビニに寄って、『週刊文春』を立ち読み。
 小林信彦の『本音を申せば』、「『下妻物語2』をなぜ作らないのだ」とか「長澤まさみはいい!」とか、昭和7年生まれとは思えないような若い発言の連打。基本的な意見としては私も賛成なのだけれど、『下妻2』を作ろうってほどの力が今の日本映画界にはないし、長澤まさみをちゃんと女優として育てられるだけの監督がどれだけいるのかってことを考えると、先行きには不安要素の方が多い。
 小林さんは金子修介に期待してるようだけれども、その金子作品に長澤まさみが出演していたことを覚えている人がどれだけいるだろう。『ガメラ』の評価が高いために錯覚されているけれども、実際には金子作品五本のうち四本半くらいは駄作か珍作だ。金子作品がきっかけでブレイクした女優さんや美少女って、そんなにはいないと思うのだが。巷間言われてるほどには金子修介が女の子を魅せるのが上手い監督だとは思えないのである。


 帰宅して、昨夜録画しておいたNHKBS2の舞台中継、劇団ダンダンブエノ公演の『礎』を見る。東京まで公演を見に行って、最前列で堪能した芝居だが、私たち夫婦が映っていたかどうかは暗くてよく確認できず。つか、見てる間に芝居に引きこまれてしまっていたので、自分が映ってたかどうかなんて気にしなくなるのである。
 円形の舞台だから、生で見た時には役者さんがこちらに背中を向けている時には当然、顔の表情は見えない。テレビだとそれをカメラが追ってくれているので、テレビの方がお得のようだが、舞台はやはり一人一人の芝居が舞台全体の空気を作っているものである。切り取られた画面だけではその空気はどうしても伝わらない。たとえ背中を向けていても、セリフを喋っていなくても、その人がそこにいる、それを見ている私たちがいる、その「空気」を味わうことこそが、舞台の醍醐味なのだ。
 でなきゃ、誰が東京まで往復の旅費だってバカにならないのに毎年毎年、芝居を見に行くのか、ということなのである。テレビは所詮、舞台の疑似体験に過ぎない。
 それなら、テレビで舞台を見ることは無意味なことなのかというと、それも断言はできない。舞台が一期一会のものであることは事実なのだが、視聴者に「テレビに映っていない部分」までも想像し好奇心を抱く心がありさえすれば、舞台の本質が奈辺にあるかを理解することはできるからである。逆に言えば、テレビの舞台中継は漫然と流し見するだけではその魅力の十分の一も伝わりはしないものである。
 テレビ中継の意味は、もっと即物的に言ってしまえば、舞台を見るのにはどうしてもかなり高額なお金がかかるから、せめてテレビででも見られればってことの方が重要であるだろう。
 若い人はね、すぐに「お金がないから舞台を見にいけない」って言い訳するけどね、テレビ中継が毎週あるのにそれすらもチェックしない人がたくさんいるからねそんなのがウソだってことはすぐにバレるの。つか芝居好きって言うんなら、そんな見え透いたウソついてんじゃねえよ。私が腹が立つのはね、本当は芝居を好きでもないやつ、芝居をやる気がないやつが、そのくせあの芝居はどうの、この芝居はどうのと、批評にもなってない独りよがりな感想を居丈高に一席ぶちやがったりするからだ。
 まあ、NHKBSもWOWOWもシアターチャンネルも、全然見られない地上波オンリーのど貧乏な環境にあるから仕方ないんですって言うやつもいるけど、そんなやつに限ってゲーセンにだけはしょっちゅう行ってムダ金ばっかり使ってやがるんだわ。まったく、簀巻きにして那珂川に叩きこんでやりたいよ、マジで。



 マンガ、影崎由那『かりん』7巻(角川書店)。
 アニメ放映直前発売の7巻だけれど、ここで一応第一部完、といった雰囲気。果林と雨水君の誤解も解けたし、雨水君の「不幸」も一応、なくなったし。アニメはここいらあたりまでを目途に映像化する予定なのかな。小説版も合間に挟めば、充分半年から1年は放送できるだろう。いいもん作ってくれると嬉しいけど、製作のJ. C. STAFF、作品によって作りにムラがあるからなあ。
 しっかしまー、あれっすねー、ついに果林が雨水君の血を吸い……じゃなかった、逆に血を送り込んじゃったわけだけど、このあたりのシーンはもう、描写としてはまんま「初体験」っすねえ(笑)。
 果林、心臓はどっくんどっくん鳴ってるし、顔は紅潮して涙流してるし、何より震えて痙攣しながら吐息を漏らしてる様子がもう、何というかひたすらエロい。いや、もともと「吸血」は性行為のアナロジーなわけだから、「増血」もまたそれっぽいのは正しいのであるが、作者がそこまで考えてこのマンガを描いているかどうかは知らない。
 でも未だにどうして果林だけが「増血鬼」という吸血鬼一族の中の「異端」であるのか、その謎はまだ解かれない。そこがハッキリしないと、へたすりゃ物語全体がアイデア倒れにもなりかねないので、次巻以降、それがちゃんとドラマに絡んだ形で説明されることを期待したい。


 マンガ、諸星大二郎『諸怪志異(四)燕見鬼』(双葉社)。
 掲載誌であった「漫画アクション」の路線変更および休刊で、連載が途切れてしまっていたシリーズが描き下ろしつきで完結……しなかったけど、続きの5巻は完全描き下ろしで出してくれるのかな? 前巻から小さかった見鬼の阿鬼ちゃんも、立派な美少年・燕青眸に成長した。タイトルの「燕見鬼」は青眸の通称である。
 予言書『推背図』を五行先生から託された見鬼。青溪県にそれを渡すべき人物がいると言われ、江南に向かう途中で、かねてから「推背図」を狙っていた仇道人、十四娘といった盗賊たちとの攻防を繰り広げる。幾度かの戦いの末、傷ついた見鬼は、ついに「推背図」を奪われてしまう……。
 初期の短編シリーズだったころの、それこそ『聊斎志異』を意識していたころの作品が好きだったので、続きものになってしまった今のシリーズは、正直いまいちであるのだが、一度完結させたものを復活させると、どうしてもかつての味わいが失われてしまうのは仕方がないことなのかもしれない。呂太公の娘・小玉の、気丈な活躍ぶりなんかはカッコイイのだけれど、日常の中に潜む「怪を志す」面白さは消えてしまつているのである。
 初期の味わいを残した短編が巻末に二作、収録されてはいるが、これも昔日の勢いはない。それでもつまらないというわけではなく、水準に達しているのはさすが諸星さんなのだが、できれば以前のような「中国版 妖怪ハンター」の路線を復活させてほしいと思うのだが。

2002年10月24日(木) 多分、心の壁を作ってるのは私の方なのだろうが/『空前絶後のオタク座談会3 メバエ』(岡田斗司夫・山本弘)ほか
2001年10月24日(水) こぉのー、むねのとぉきーめきぃー/『彼氏彼女の事情』12巻(津田雅美)ほか
2000年10月24日(火) 年取ったシワをCGで消すってのは無理?/ドラマ『ウルトラセブン・地球より永遠に』ほか


2005年10月23日(日) 父との遭遇/『D.Gray-man(ディー・グレイマン)』6巻(星野桂)

 椎名高志の『絶対可憐チルドレン』を読み返していて、ふと、キャラクターのネーミングには何か意味があるのかなあ、と考えていて、急に脳内に電撃が走った。
何だこれ、『源氏物語』じゃん!
 そう、二日間、全く気がつかなかったのだが、あのマンガのキャラクター、『源氏物語』の登場人物の名前をモジって付けられていたのである。

 明石  薫(あかし・かおる) → 明石君(あかしのきみ)+薫大将(かおるのたいしょう)
 野上  葵(のがみ・あおい) → 葵上(あおいのうえ)
 三宮紫穂(さんのみや・しほ) → 女三宮(おんなさんのみや)+紫上(むらさきのうえ)
 皆本光一(みなもと・こういち) → 光源氏(ひかるげんじ)
 柏木  朧(かしわぎ・おぼろ) → 柏木(かしわぎ)+朧月夜(おぼろづきよ)
 桐壺帝三(きりつぼ・たいぞう) → 桐壺帝(きりつぼのみかど)
 明石秋江(あかし・あきえ)&好美(よしみ) → 明石君+秋好中宮(あきごのむのちゅうぐう)
 花井ちさと(はない・ちさと) → 花散里(はなちるさと)
 東野  将(とうの・まさる) → 頭中将(とうのちゅうじょう)
 あと、1・2巻には登場していないが、兵部京介(ひょうぶ・きょうすけ) → 兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)。

 ネットを見ても全員の符合がよく分かってない人も多いみたいなので、一応書き出してみた。つか、ここまであからさまなのにどうして私は二日間、この事実に気がつかなかったのだ。本気でボケてきたのか。可能性を否定できない年になってきたことがコワイ。
 『源氏』は「元祖恋愛育成もの」と言えなくもないから、それで「チルドレン」の育成係が皆本さんということになるわけだなあ、とその符合のさせ方に感心。でもそうなると三人娘の中で終の相手となるのは紫穂ってことになりそうだけれど。薫の性格がオヤジなのは、薫大将がオトコなせいなのか?(笑)
 けれどこれで、敵対組織の名前が「普通の人々」な理由が分かった。こいつらみんな貴族だもんな。ちなみに、『源氏物語』には「磯野」や「幸楽」なんてキャラクターは出てきません(笑)。となると、これからは、六条やすみさんとか宇津瀬美子さんとか浮舟匂さんとか出てきそうだなあ。いや、楽しみだ。


 『仮面ライダー響鬼』三十七之巻「甦る雷」。
 殆どギャグらしいギャグもなく、シリアスに「朱鬼編」が完結。もしかしたら脚本段階ではギャグが一つや二つ、あったのかもしれないが、現場でカットされたってことも考えられなくもない。
 とは言え、しょーもないギャグがなくなったからと言って、「凄く面白くなった」わけではない。つか、結局今回のエピソードはあきらの心の葛藤を描いた程度の「番外編」だったわけで、あと十何回かしか話数が残ってないってのに、何をモタモタやってやがるんだともどかしくなる。朱鬼とあきらを絡めるんだったら、朱鬼は生かしておいて、猛士の分裂を描いていく伏線にしなきゃ意味がないだろう。
 でもそこまでの知恵がこのスタッフにあるとも思えないので、「平成ライダーは所詮はこの程度のレベル」と割り切って、お気楽に見るのがよかろうと思う。文句を付けようと思えば、ありきたりのストーリーだのなんだの、そりゃ、腐るほど出てくるから。
 朱鬼の死に顔を見せてなお斬鬼に「美しい」と言わせるだけの現実を厳粛に受け止めさせようって度量がスタッフにあったなら「面白い」と言ってあげてもいいんだけどね。
 役者さんの熱演があればこそまだ見続けているのではあるが、スタッフの首を挿げ替えてもまだこんなにストーリー展開がもたついてるのはどういうわけなのかね。


 昼から父の見舞い。
 休日で、特に検査もないし、主治医の先生もいらっしゃらないので、本当は見舞いを予定してはなかったのだが、朝方、父から電話がかかってきて、「今日は出かける予定はあるとや?」と聞かれたのである。
 「いや、別にないけど?」
 「出かける予定があるとやったら、読む本ばまた持ってきてもらおうかと思いよったとばってん……」
そんな寂しい言い方をされては、行かないと罪なような気持ちになるのである。
しょうがないので、昼メシを食いに出るついでに病院にも回ることにする(笑)。

 家にある本を引っ張り出すには山をまた一つ二つ崩さなきゃならないし、私の持ってる本は昔のものが多くて、概して活字が小さい。父が希望する捕物帳の有名どころはたいてい持ってはいるのだが、大きい活字版で買い直してもよかろうかと、博多駅の紀伊国屋に寄る。それに嶋中文庫から出ている『銭形平次捕物控』シリーズは、私が以前買っていた「富士見時代文庫」版とは作品のセレクトの仕方が違うのである。富士見版には何と平次第一作の『金色の処女』が収録されていない。これは多分、第一作のころは平次とお静も結婚してないし(タイトルの「金色の処女」はお静のことである!)、ガラッ八も出てこなくて、後期の平次とイメージが違い過ぎるという理由もあったのだとは思うが。
 『銭形平次』の11,12巻と、同じ嶋中文庫の『人形佐七捕物帳』1巻、光文社文庫の『半七捕物帳』1巻、新潮文庫の『再会 慶次郎縁側日記』の五冊を購入、病院に向かう。

 病室では父は前に貸した『銭形平次』を読みふけっていた。熱中していて、私たちの訪問に気がつかなかつたくらいである。
 「あともうちょっとで読み終わるぜ」と得意げである。テレビは全く見ていないらしい。「今度は本ば読もうと思ってな」と楽しそうである。持ってきた本を見せて、「前の『桃太郎侍』とかはどうだった?」と感想を聞いてみる。「テレビと全然、違うとったろ?」
 「ああ、テレビばどうしても思い出すもんやけん、何か違うとるなあって感じしかせんやった」
 「『一つ人の世生き血をすすり』とかも言わんしね」
 「そうたい。ドラマにする時に変えたとやろうな」
 「映画は高橋英樹やなくて市川雷蔵がやっとるんよ。こっちの方が原作に近いんやね」
 母の生前は、父とこんなふうに時代劇の話をすることは殆どなかった。本や映画を見ているのはいつも母だったし、私の昔の映画の知識は、殆ど母や祖母から(それこそ「目玉の松ちゃん」の昔から!)聞かされるうちに自然と身についたものである。
 しかし、父もまた戦前生まれであって、父の青春時代と「映画の黄金時代」とはぴったり重なっている。父と昔の映画の話をあまりしてこなかったのは今更ながら痛恨のことで、「時代の財産」を聞き損なってきた、という忸怩たる思いに駆られてしまう。
 父とこれから先、こんな他愛無い話がどれだけできるかは分からないが、本をきっかけに昔のことが聞けたらいいなと思う。もっとも父が記憶を辿ることができればの話であるが(笑)。
 


 唐沢俊一・おぐりゆか『唐沢先生の雑学授業』(二見文庫)。
 コンビニでも「〜の雑学」みたいなタイトルの雑学本が何種類も出回っていると、何かもう一つ「読ませる」コンセプトがないとなかなか手に取ってみようという気にならないものだが、これは唐沢センセイに対して「うわの空・藤志郎一座」の女優、おぐりゆかさんを生徒に仕立てるという趣向が見事に生きていて、これまでの唐沢さんの雑学本の中でも一番読みやすく楽しい一作になっている。
 唐沢さんがお一人で書かれた本については「生徒」はどうしても読者になってしまうわけで、先生に対して「それ、ホントですか?」とか「○○が○○だとすると××は××なんですか?」とか聞き返すことができずに、「お説ゴモットモ」と受け入れるしかなかったわけである。雑学本というのは、専門的な知識書じゃないんだから、読者はどうしてもそういうツッコミを入れたくなるものなので、そこが弱点になってしまうが、これはおぐりさんが生徒の役目を見事に果たしていらっしゃる。この場合、生徒がバ……いやいや、素朴で基本的な疑問を発してくれればくれるほど、一問一答の面白さは弥増す。あまりに素朴すぎて虚を突かれて、唐沢センセイが咳払いで誤魔化したりケツまくって逃げたり、そのあたりのやり取りも楽しい。インテリな先生というものは、インテリだってだけで権威的で横柄で、ヒゲなんかピンと立ててるけれども、それが生徒の疑問にまるで答えられなくて返事に窮して四苦八苦する、その様子を笑って見るのが面白いのである。
 雑学はその信憑性においては眉唾的なものをかなりなパーセンテージで含んでいるものだから、それを前提として、知識としての真実性よりも「話のネタ」になる程度のもので構わない。唐沢さん自身も「雑学ブーム」については自分が仕掛け人の一人であるにもかかわらず「日本人にも知に対する好奇心がちゃんとある」とか「トリビアは真実である必要はない」とか、意見が揺れまくっていて、何が言いたいのかよく分からないくらい混乱しまくっていたのだが、おぐりゆかさんを「生徒」に選んだということは、ご自身の混乱自体もネタとしてエンタテインメントを仕掛けるだけの余裕が生まれてきたということなのだろう。それらのトリビアに関する発言の変遷も含めて読んでいくと、この本、めっぽう面白いのである。
 だもんで、「青写真は冬の季語である」というトリビアについて、本文に書かれている通り、「変なもの」も多いので、そういうものは「実際には使われることが少ない」し、「入試にも出したら文句が出るので出されない」とか、「『馬鹿』という格言が中国発祥であるにも関わらず、現代の中国で通用しなくなっているのはなぜか」という疑問に対して「漢民族が一回滅亡してるから」というフォローはしなくてもいいことかもしれない。聞かれたら答えるけど、私の言ってることも眉唾だからね(笑)。

 
 マンガ、田中圭一『鬼堂龍太郎・その生き様』2巻(集英社)。
 1巻の感想を書きそびれてるうちに、2巻が出ました。いや、感想書いたからと言って、「ほう、面白そうだな、いっちょ買って読んだろか」と思う人がたくさん出てきそうなマンガじゃないんですが。ともかく、下品なギャグ、シモネタ、オヤジギャグ、ともかく下らなくてしょーもなくて、そのしょーもなさがかえって快感、なんて感じることのできるバカなアタマの持ち主でないと、これは楽しめません。田中圭一ですから。
 社内抗争で平社員に格下げされた元役員の鬼堂龍太郎が、再び役員に返り咲くまでの闘争を描く……というのが基本コンセプトだというタテマエになっているけれども、実際はどんどん出てくる異常なシモネタキャラたちによって、鬼堂が翻弄されるのを笑って見る、という展開になっている……つか、それが最初からの狙い。原作者としてクレジットされている、実際に自分の降格をネタにビジネスジャンプにマンガ企画を売り込んできたという「古賀たけひこ」なんて人物は実在しないに違いない。
 最近の田中圭一マンガについてはもう知ってる人は知ってると思うが、絵柄を手塚治虫、本宮ひろ志、永井豪、藤子・F・不二雄といった巨匠から拝借して、元ネタのネツレツなファンであれば激怒しかねない紙一重のギャグを展開してくれている。
 こういうことを言うと、私の人格まで疑われそうだから本当は言いたくないのだが、手塚女性キャラどうしの「Hスポーツ」シリーズ、特に「ハメハメ川下り」が私は大好きだ。あと今巻新登場の鬼堂のムスメの萩菜(別名バギナ)が発明する危ないクスリの数々も。
 それでも一応、これだけは言っとこう。
 おいこら、そこの「ハメハメ川下り」でグーグル検索かけてきた通りすがりさんよ、俺は別にお前の同志なんかじゃねえから、間違っても「あなたもハメハメ川下り、いっぺんやってみたいとか思ってたんですね!」なんてメール、寄越してくるなよ。おりゃー、「くだらないギャグほどギャグの基本」と思ってるだけだ。
 あと気に入ったギャグは、「執務室に閉じこもって『自叙伝アニメ』を製作している小泉首相」。アサハラショーコーか、おまいは。って、それをイメージしてるんだろうなあ。しそうだよ、あの人は。いやねー、小泉首相って中曽根さん以来、マンガにしやすいキャラって気がするよね。いしいひさいちのマンガでも一番生き生きしてるもの。


 星野桂『D.Gray-man(ディー・グレイマン)』6巻(集英社)。
 「ジャンプマンガは6巻越したら(連載1年を越したら)つまんなくなる」というのは実際にいくらでも例を挙げることができるジンクスだけれども、つまりは「1年以上連載が続くとは作者も思っていなかった」「だもんで、慌ててテコ入れの設定を考え出した」ってのが理由だったりする。
 前巻で、クロス元帥を追っかけてたアレンとリナリーの前にいきなりアクマの大群が押し寄せて、実はそいつらは「咎落ち」したエクソシスト、スーマン・ダークを狙っていたのだった……って展開、まるでこれまでと繋がりがないんだけれども、その「慌てっぷり」が実に分かりやすくて、「現象」としては面白い。これが最初から計画されていた構成だとするなら、この作者、ストーリー構成力はまるでないと言い切るしかないんだが、もっともジャンプマンガの「人気がなければ即打ち切り」システム自体が、マンガ家さんから等しく「構成力」を奪ってるんで、作者を責めにくいところもある。
 慌てたおかげで、これまで一面識もないアレンが、スーマンにいきなり感情移入するのが不自然極まりないなど、欠陥だらけの物語になっちゃってるんだけれど、絵がキレイでキャラだけは魅力的だから腐女子のファンはストーリーがワヤでも全然いいんだろう。この「絵とキャラだけ」の伝統も萩原一至『BASTERD!』以来のジャンプマンガの悪癖なんだが、かえってその方が腐女子には妄想を逞しくする余地が生まれるから、人気は出るということになる。
 でもなー、フツーのマンガファンが読みたいのは「マンガ」なんであって、「イラスト」じゃないのよ。マンガが腐女子に支えられるような現状は、正直、いつかはマンガを滅ぼすわな。
 それでも『D.Gray₋man』は今みたいな「引き伸ばし」などの迷走が収まれば千年伯爵との決戦まで物語を引っ張って行ける要素は充分持ってると思うのである。思いっきり「パクリ要素」丸出しだった一巻のころに比べれば、キャラクターがだんだん「生きて」きた。
 特に千年伯爵とノアの一族、ロード・キャメロットにティキ・ミックといった「敵方」は、黒の教団のエクソシスト全員をひっくるめてもかなわないくらい、ダークな魅力に溢れている。これも言うまでもないことだけれども、主人公を「成長」させるものは魅力的な敵が主人公の心を揺さぶってこそなんでね。単純に「私は神だ」なんてほざくだけのバカを配置しちゃいかんのよ。
 今巻のティキ・ミックのセリフ、「勇敢な奴は死ぬまでにほんのちょっぴり時間を与えてやった方がいい。心臓から血が溢れ出し体内を侵す恐怖に悶えて死ねる」、悪の魅力はこれくらいでないとね。
 つまりはこのマンガ、決して「子供向け」なんかじゃないので、今回の「咎落ち」エピソードみたいなありきたりで余計な回り道なんかしないでいいのである。ティキ・ミックにスーマンを殺させる結末があるから、何とかキレイゴトのハッピーエンドにならずに済んだ点は評価したいが。「スーマンは助からなきゃいけなかったんじゃないか」なんてキャラのみに偏ったファンの独りよがりで腑抜けた意見なんかは無視してよい。

 そう言えば、言語学の専門雑誌『言語』11月号に、ついに「腐女子」が載ったぞ(笑)。
 「アニメやコミックス、コスプレなどに熱中しているオタクの女性たちが自虐的に称しているもの。(中略)男性のオタクに比べて『女性オタク』たちはファッショナブルで、コミュニケーションが上手で、美しいものに憧れているという特徴があるとされている」んだそうな。
 あー、そうなんスか? ボーイズラブ系同人誌って、男の目から見るととても「美しいものに憧れている」とはとても思えないんスけど。
 まあ、男のオタクがたいていキモ過ぎだから、反作用的にはそう見えるというのもあるかもしれないねえ。実際、ブログや日記開設してるオタクって、女子の方が圧倒的にハバ利かせてるもんな。
 けれど、だからと言って「コミュニケーションが上手」って意見に対して首を傾げざるを得ないのは、彼女たちの見ている世界と視点が異常に狭いからなんだけどね。四十を越してるんじゃないかという女性オタクであっても、世間知や分別が感じられない人がやたらいるのだ。
 やっぱさー、「自分が生まれる前にあった、小説、ドラマ、映画、マンガ、アニメなどに対しても、今あるものと同等かそれ以上の愛情と見識を持っている」人でないと、オタクとは言えないし、いつまでも「腐ってる」と自虐的な態度しか取れないんじゃないかね。

2002年10月23日(水) 『ハリポタ』ホントに面白いか?/『呪いのB級マンガ 〜[好美のぼる]の世界〜』(唐沢俊一&ソルボンヌK子監修)
2001年10月23日(火) 凡人礼賛/DVD『エイリアン9』2巻/『魔獣狩り』(夢枕獏・木戸嘉実)ほか
2000年10月23日(月) 浮かれたホークスファンは情けない/アニメ『犬夜叉』『人造人間キカイダー』第2話ほか


2005年10月22日(土) いそがし日記4/DVD『香港国際警察 NEW POLICE STORY』。

 父の入院はひと足先にブログ日記の方に書いていたので、お読みになった方の何人かから、激励の優しい言葉をいただきました。謹んでお礼を申し上げます。

 『ウルトラマンマックス』第17話「氷の美女」(宇宙古代怪獣エラーガ登場)。
三池監督の後を受けたのでは、どうしても見方が厳しくなってしまうのだが、気になる点はありつつもまあまあの水準作は仕上げて来ている。
 30分番組なんだから、「どうしてニーナは氷の中に閉じ込められていたのか」とか「なんでコバ隊員はひと目見ただけで得体の知れないニーナにそこまで惚れたか」とか「怪獣一匹で世界が破壊しつくせるのか」とか「人間が失敗作って、殺戮してるお前の方がよっぽど性格破綻者じゃないのかニーナ」とか「ニーナがどうしてコバ隊員には自分を撃てないと思ったのか、そんなことまで彼のDNAを見れば分かるのか」とか「マックスであるカイトに『人間は失敗作じゃない』と言わせるなんてずるくないか」とか、そこまで突っ込まなくてもいいと思う(笑)。
 一目惚れってことだってあるし、人間はやっぱり失敗作かなって人間である自分だって思うし、氷の中に何万年もいたのだって、30分では語りきれない何か深いわけがあったのだろう(笑)。多少、説明不足のところがあったって、説明過多でつまんなくなるよりはマシである。語んなきゃいけない部分以外の省略の仕方はまあまあ悪くはなかったと思う。
 エラーガの活動を止める手段が定番過ぎるのにはもうちょっと工夫がほしかったかなとは思うけれども、これも間違ってるわけではない。でも、ニーナの発見者がどうして彼女に「ニーナ」と名づけたのかは本筋に関係ないけど気にはなるね。細かい点では、そのニーナが面と向かってニーナと呼ばれたり、自称したり、というシーンがなかったのはよかった。
 ニーナ役の上良早紀(かみりょう・さき)のクール・ビューティーぶりはなかなかのもの。


 昨日からしげを叱ってばかりいる。
 いつものことで家事をサボってばかりいることは遠因としてあるが、腹が立つのは、父の見舞いに行くのに、「天神は車を停めにくいから」とかほざいて、往復を面倒くさがっていることである。おかげで父からも「無理して来んでいいぞ」と言われるし、姉も「お父さんの着替えは私が持っていくから」とか、気遣われてしまっている。見舞い客が病人の方に気遣われてどうするか。
 天神の交通状態が悪いのはそりゃ分かる。だったら、バスと地下鉄を乗り継いで行けばいいのである。そう言われても出渋るのだから、ただ単にワガママを言っているだけだ。ワガママを言っていい時とまずい時のTPOが未だに分からないというのはどういうわけかねえ。
 父の手が自炊しにくい状況になっているのは事実なのである。父は「レトルト買えばいいんだから」と言うが、糖尿病のことを考えれば、ちゃんとした食事を作った方がいいに決まっている。モヤシと鶏肉を茹でただけの晩飯を半年も続けるような今の手抜き料理じゃ困るので、「何か別のもの買って、練習しとけよ」と言ったのに、今日もまた同じ食材で同じ料理を作ってきたのだ。
 「どうして注意したこと無視するんだよ」と叱ったら、「言われたことと、料理のことと、繋がってない」と答えるのだ。つまり、私に言われたことは理解しているのだが、いざ買い物をして、料理を作ろうとすると、たとえ直前にインプットされた情報であっても、それは忘れ去られてしまって、今までと同じ料理を機械的に作り続けることになってしまうと言うのである。しげには、こういう、「時計を見ようと思って時計を出したら、時計を出したという行為が終了して安心したので時計を見ないまま仕舞ってしまう」というクセが頻繁に、それこそ毎日何十回も起こるのだが、しげの通院している神経科の先生は、しげのこういう病状を理解しているのだろうか。

 今日はしげ一人が父を見舞い、下着などを取り替えに行く。
 父から「HCUから一般病棟に移るぞ」との連絡あり。回復に向かっていると判断してもいいのかも。


 DVD『香港国際警察 NEW POLICE STORY』。
 初回限定生産で、DVD二枚組みの特典仕様。ジャッキー・チェンの最高傑作との呼び声も高い本作で、50の坂を越えてもなおアクション映画を撮り続けるジャッキーの真摯な姿勢を見ていると、こりゃ通常版は買えないというのがファンとしての心意気だろう。
 でもメイキングを見ていたら、さすがのジャッキーも「もう年だよ」と呟いて、共演のニコラス・ツェーから「それを言っちゃ……」と言われてしまう一幕もあった。最近は「韓流の悪口を言った」とかデマも流されてしまったジャッキーであるが、インタビューでも答えていた通り、ハリウッドで10本以上の映画に出演することを契約し、もちろん『香港国際警察』シリーズの続行や他の企画、日本との合作などの計画もあるジャッキーには、韓流がどうのこうのなんて、そんな小さなことに拘ってるヒマはないのである。
 実は本編の映画を劇場に見に行った時には、糖尿がひどくなってた時期で頻尿で、途中、二分ほどトイレに行ってて見てないシーンがあったのだが、なんと警察本部内での爆弾騒ぎの真っ只中、チャン警部(ジャッキー)が、恋人のホーイー(チャーリー・ヤン)に愛を語るところを見逃していた。ああっ、くそ、こんないいシーンの時に俺の膀胱、我慢できなかったのか。今まで私のこの映画の評価は80点くらいだったのだが、このシーンを見たら90点くらいにアップした。これこそジャッキー映画、エンタテインメントの王道だよねえ。

2002年10月22日(火) 愛の賛歌(^o^)/『金色のガッシュ』7巻(雷句誠)/『焼きたて!! ジャぱん』4巻(橋口たかし)/『眠狂四郎』5巻(柳川喜弘)
2001年10月22日(月) 野だいこ敬語/『源氏物語』第壱巻「桐壷」(江川達也)ほか
2000年10月22日(日) 時代劇なのにカップルが多いとは珍しい/映画『五条霊戦記』ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)