無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年10月22日(火) 愛の賛歌(^o^)/『金色のガッシュ』7巻(雷句誠)/『焼きたて!! ジャぱん』4巻(橋口たかし)/『眠狂四郎』5巻(柳川喜弘)

 21日の日記の続き。『華麗なるロック・ホーム』映像化の歴史。

 恐らく、『バンバイヤ』以降、ロックの映像出演はしばらく途絶える。『アラバスター』、『ダスト8』、『火の鳥・未来編』、『ブルンガ一世』、『インセクター』といったロック出演作が全くと言っていいほど、映像化されなかったせいだが(暗い作品ばかりだしね)、『ジェッターマルス』や『ふしぎなメルモ』あたりにチョイ役出演してはいないだろうか。さすがにそこまでビデオを揃えていないので確認ができない。

 ロックが思わぬ姿で復活するのは、あの悪名高き24時間テレビのおかげである(^o^)。
 ここいらで私の記憶もなんとかハッキリしてくるのだが、24時間テレビ第2作『海底超特急マリンエクスプレス』(1979)でのロックが、映像における初主演作であろう。
 相変わらずただの二枚目で、ピンチになったら情けなく嘆いたりして、ロックらしさはあまりないのだが、ムー大陸の女王であるサファイヤと恋をするのは『リボンの騎士』の再現でファンには嬉しいシチュエーションであった。「放映当日まで手塚治虫が絵コンテを切っていた」というマコトシヤカな風説でも有名な作品である(^o^)。ロックの声は武岡淳一。

 映画の初出演作は『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』(1980)。
 主役のゴドーから恋人を奪い、火の鳥を捕らえて永遠の生命を得ようとする悪辣な科学者を演じて、これこそロック、という感じの名演なのだが、残念なことに名前はロックであっても、髪型が変えられてあの巻き毛が消えてしまった。ザンギリ頭のロックってロックじゃねーよ(`‐´≠)凸。
 サングラスを掛けてるところにかろうじてロックの名残りがある。声は池田秀一。個人的には一番ロックらしさを表現していたと思う。ベストワンに推すなら、映画の出来は置いといて(^o^)、この池田版ロックが一番だと思う。
 ちょうど池田さんも声優として引っ張りだこになって、ノリにノッてた頃である。

 同年、やはり24時間テレビの『フゥムーン』(名作『来るべき世界』のアニメ化なのになあ……)に出演。ちょっと細面にデザインされていて、キャラクター的にもたいして個性を発揮しないロックだったが、声が『2772』でゴドーを演じた塩沢兼人だったので、手塚さんに気に入られて起用されたのかも。

 更に同年、無謀にも『Dr.スランプ アラレちゃん』の裏番組にぶつけて半年で惨敗したカラー版『鉄腕アトム』に出演。
 第10話『白い惑星号』、これは未見なのだが、原作通りならロックがやはり星野光一役で出演しているはずである。もっともキャラデザイン変えられてる可能性は大だけれども。演じているのは『マリンエクスプレス』と同じく武岡淳一。私の調べた限りでは唯一ロックを二度演じている声優さんである。ヒゲオヤジの富田耕生(あるいは熊倉一雄)ほどのフィックスはロックの場合はないのだな。
 第27話の『ブラック・ジャックの大作戦』は原作にないオリジナルエピソードで、タイムパトロールでアトムやブラックジャックを連れて時間犯罪者を捕まえる役だったような(細かいところは忘れた)。サファイアとの三度目の共演だけれど、つまんなかったという印象しか残ってない。演じたのは水島裕で、えらく声が上ずってた記憶がある。
 ほかにもこのリメイク版ではチョイ役出演してる回があるらしい。

 オリジナルビデオアニメ、『ブラック・ジャック』第3話『サンメリーダのふくろう』(1996)にレスリー役で出演。
 巻き髪でかろうじてこれはロックだ、とわかるが、何しろキャラクターデザインが杉野昭夫である。『エースをねらえ!』風のロックって、まあお耽美がお好きな方ならともかく、古いファンにはちと気持ちが悪い。いや、確かにロックには耽美的要素もあるんだけど、あくまで大正・昭和初期の浪漫画の流れにあるんで、鋭角的な線は違うのだ。それはブラック・ジャックのキャラについても言えるんだけどさ。
 しかも声が古谷徹って、違うでしょ、熱血は(-_-;)。シャアとアムロの二人が揃ってロックを演じてるってのは面白いけどね。……あ、マ・クベもか。

 映画としてはイマイチだったけれど、原作にいないのに大抜擢されたのが2001年の『メトロポリス』。
 養父レッド公を敬愛するあまり、ティマ(原作のミッチィ)を破壊することに執念を燃やすなるほどロックに演じさせるにはピッタリのキャラではある。
 キャラデザインの名倉靖博の線は、50年代の手塚治虫の懐かしい線を再現していて好きなのだが、それは同時に『バンパイヤ』以降のロックの狂気も削ぎ取ってしまうことになっていた。ミッチィは原作では男性女性のどちらにも変身できる両性具有のロボットなのだが、アニメのティマは女性形のみでの登場である。ミッチィが持っていた狂気のうち、男性の部分をロックが代わりに演じている、というのが脚本の大友克洋のアイデアであろうから、それはなかなかの着想なのだが、やはり男でも女でもない苦しみを持ってこそのミッチィなので、原作ファンとしてこの改変は素直に喜べるものではない。痛し痒しである。
 少なくとも、ここでのロックはサングラスをかけさせるべきではなかった、と思う。こういう狂気は眼で表現させなきゃならんのだ。演出があの『幻魔大戦』の(^o^)りんたろうだからしょうがないんだけどさ。
 声は岡田浩暉だが、池田秀一によく似ていて、最初聞いたときてっきり池田さんだと思いこんでしまった。声だけならこれもなかなかいい線行ってるんじゃないかな。

 さて、あと最新作として、宇多田なんたらがピノコを演じたどうしょうもないネット配信版『ブラック・ジャック』(2001)にロックが出演しているそうだが、これは未見(どうしょうもないというのはウワサね)。多分、一生見る機会はないような。
 データによれば『第9話 刻印』に間久部緑郎として出演。でも声優の神奈延年という人は知らんなあ。だからどんな声かも想像がつかん。

 抜けは多々あると思うが、ともかくロックの映像化の軌跡をたどってみた。手塚ファンの楽しみの一助となれば幸いである。

 マンガ本編に全く触れないのもなんなので、収録作品のメダマをご紹介。
 やはり手塚作品には必ずある単行本未収録オリジナルバージョンが数編入っているのがうれしいところ。
 サボテン君、というキャラクターはその名通りの作品でデビューし、手塚作品にあっては概ね正義感溢れる少年を好演しているのだが(『ブラック・ジャック』第一話『医者はどこだ!』では、無実の罪に陥れられた主人公を弁護する少年役)、その第一話ではなんとロックがサボテン君を演じているのである。現行の単行本では改稿されて我々のよく知るサボテン君に描き変えられているが、いったいどうしてこのような変更が行われたものか。米沢氏は「ロックではカッコよすぎたのかもしれない」と類推されているが、理由は手塚治虫のみぞ知る、である。
 そして、『ロック冒険記』幻の雑誌版最終回、ロックが死なないバージョン。読んでみるとページ数に合わせたせいだろう、地球の危機がいきなり回避されてしまうご都合主義な結末だが、手塚さんの「とりあえずキャラを死なせりゃ感動的に終わる」という安易な結末のつけ方にはいささか食傷気味なので(『メトロポリス』のミッチィの死などは必然性はあるけれども、『地底国の住人』の耳男などは死なせる意味が全くない)、こちらのほうが新鮮味を感じちゃうね。
 しかし初期のロックは実に女性的なラインを持った美少年なのだよなあ。ちょっと「男装の麗人」的なムードすら漂っている。あの独特な髪の巻き毛は、もともとは少女雑誌の表紙に描かれていた中原惇一や蕗谷紅児のイラストの延長線上にあったのだということが、ロックのアップなどを見るとはっきりわかるのだ。やっぱヅカファンなんだね、手塚さんは(^o^)。
 こういう宝塚趣味は『バンパイヤ』以降はすっかりナリを潜めてしまうのだが、たまにヒョイと意外なところで顔を出してくる。『原人イシの物語』で、死に行くイシの手を握って泣くロックの横顔などは、少女以外の何者でもない。ロックというキャラクターは、やはりただの二枚目にも悪役にも閉じ込められない、幅と深さを持っているのである。

 河出文庫の手塚治虫漫画劇場は、このあとアセチレン・ランプ編を配本するそうだが、できればそれも売れて、ハム・エッグ編、スカンク草井編、レッド公編、丸首ブーン編、金三角編とか出してくれたら嬉しい……って、私、ホントに悪役が好きだなあ。 



 推理作家・時代小説家の笹沢左保が21日、肝細胞がんのため死去。享年71歳。 骨太な作風で知られる氏であるが、そのペンネームは妻の佐保子さんから取られている。そういう繊細で抒情的な面もあったのだ。
 今でこそミステリ界の多作家、と言えば赤川次郎にトドメをさすが、それ以前は笹沢左保か梶山季之、というのが相場であった。生涯の著作が377冊だそうだが、ちょうど三百冊の出版記念が赤川次郎のデビュー時に重なっている。
 「三百冊もよく書けるな」と赤川氏は慨嘆したそうだが、まさか自分が笹沢氏を超えるスピードでその記録を凌駕するとは、当時は思ってもみなかったろう。
 さすがの笹沢氏も、それ以降は著作のペースが落ちたが、それでも77冊を数えたのである。やはり並の筆力ではない。
 高校から大学にかけての一時期、本邦のミステリ作家の作品は一通り読んでやろうと思いたって、笹沢左保も『招かれざる客』ほか何作かを読んでみたのだが、見事なくらいに記憶に残っていない(-_-;)。
 多分、「本格ミステリとは言えんな」という感想を持ったせいだろう。当時の私はミステリに関してかなり偏狭だったのである。今読み返せばまた別の感想もあるだろう。
 赤川氏もそうだが、多作家というのはともすればその評価を低く見積もられる傾向がある。確かに内○○夫とか西○○○郎とか山○○紗とか、何十冊読んでも秀作にぶち当たらないどころか、日本語も使えねえのかこいつらは、ってな感じの憤懣やる方ない思いを味わわせてくれる作家も腐るほどいる。しかし、世の中の愛飲家だって、いつもいつも吟醸酒ばかり飲んでるわけじゃない、とりあえずビールで晩酌できりゃいい、とノタマわれる朋輩も多かろう。鮎川哲也や土屋隆夫クラスの作品ばかりでは、息も詰まるというものである。リズムに乗るように読み流す笹沢氏のような作家を評価してこそ、ミステリの裾野も広がるというものだろう……とかなんとか考えてたら同じようなことを唐沢俊一さんが裏モノ日記に書いてたなあ。これだから日記は遅れちゃうと書きにくい(^_^;)。
 笹沢作品は、小説よりもやはり『木枯し紋次郎』のほうが私の好みに合ったが、中村敦夫主演のドラマのほうがやはり印象が強く、「笹沢左保」を意識したのは実は大林宣彦監督のデビュー作の『HOUSE』出演だったりする。ワンシーンだけの出演だったが、ダンディな立ち姿は結構画面で映えていた。


 いつものことだが、しげの機嫌が悪い。
 毎日、車で迎えに来てくれるのはありがたいのだが、必ずたいしたことでもないことで難癖をつけてくるのだ。
 要するにまたも「オレのことキライやろ」と絡んできたのである。別に何も言ってないのにである(「何も言わない」から勝手にそう思いこむのだろうが、私はただ単に疲れているだけである)。そんな愚痴を口にしたら、私が怒ると分ってるのになぜか何度も聞く。だもんで「しつこい!」と私が怒鳴ることになるのである。
 しげの肩を持つ人は、「女って、自分が愛されてるとわかってても確かめたくなるものですよ」と言うが、それは「わかっていない」から聞いてるのである。「わかろうともしない」とも言う。以心伝心とまでは言わないが、自分で「夫婦は一心同体」とか主張すならこちらが喋ってなくてもそのときの気持ちくらい、ちったあ想像しろと言いたい。「黙ってる=嫌ってる」なんて小学生の発想じゃないんだからなあ。
 「あのさ、国に文化の違いがあるようにさ、個人にもそれぞれ文化の違いがあるんだよ。それを受け入れなきゃ会話はできないの」
 「何がどう違うと?」
 「例えばオレがオマエに最大級の愛の賛辞を贈るとしよう」
 「……うん(〃∇〃) 」
 「そのときオレはこう言う。『何も言わんでもオレの気持ちはわかろうもん』」
 「何それ(`Δ´)。全然愛のコトバじゃないやん!」
 「と、オマエがそう思ってるだけな。じゃあ聞くけど、オマエがオレにめいっぱい愛のコトバを囁くとしたら何て言う?」
 「……上目遣いで睨んで、『嫌いじゃないよ』って言う」
 「それを求愛のコトバと受け取るやつは多分この世にゃいないと思うぞ。だから結局、コトバなんてのは相手には伝わらないんだから、『これがこの人の愛のコトバなんだ』って受け入れるしかないんだよ」
 「……なんか騙されてる気がする〜」
 「騙してねーよ。じゃあ、オレが『オマエの好きなもん奢るぞ』って言ったら、それは信じるか?」
 「うん!」
 「……やっぱり自分の都合でコトバを勝手に解釈してるだけじゃん」
 で、「すし大臣」でたらふく寿司を奢らされるハメになったのだった。
 愛より食い気じゃんかよ、結局。


 マンガ、雷句誠『金色のガッシュ』7巻(小学館/サンデーコミックス・410円)。
 ガッシュたちと出会って戦い、それでも倒されずに生き残っていく魔物たちが少しずつ増えてきているが、必ずしも「強い」魔物ばかりが再登場するとは限らないところがこのマンガの面白いところだろう。
 今巻もまた、「生き残った」魔物として、テントウムシみたいなロップスが登場。魔界の本の主であるアポロは、財閥の御曹司で、ただ自由な旅を楽しみたいだけで、戦いを好まない。その点では清麿やガッシュとも共通しているのだが、「戦い自体を終わらせたい」清麿たちとはやはり根本的に生き方が違う。結局彼らは戦うことになり、それ自体は痛み分けに終わる。
 「魔界の王を決める争い」とヒトコトで言っちゃうといかにも陳腐な設定のように聞こえるのだが、その戦うキャラクターたちの中に、こういう物語の構造そのものを俯瞰する人物を配置することは、うまく行けば作品世界を大きく広げることに繋がってくる。ジャンプマンガだとこれに失敗すること多いんだよね。『封神演義』じゃ申公豹がそうなるべきだったのに、扱いがどんどん軽くなって物語に飲みこまれて、ザコキャラに落ちぶれてっちゃった。
 アポロとロップルがキャラとしてちゃんと転がっていくかどうかは未知数なのだけれど、サンデーの新人さん、最近うまく育ってないみたいだから、雷句さんにはちょっと頑張ってほしいとこなんである。
 ……でも、ウマゴンやキャンチョメ(全く、どこから考えつくんだってネーミングだよな)が勝ち残って魔界の王になっちゃったら、魔界はいったいどうなるんだと心配になるな(^o^)。「メルメルメ〜」しか言えないぞ、ウマゴン。


 マンガ、橋口たかし『焼きたて!! ジャぱん』4巻(小学館/少年サンデーコミックス・410円)。
 巻頭に特別読切『松代DX(デラックス)』と超特盛オマケ『炊きたて!! ゴはん』付き。普通、番外編とかは巻末に付けるもんじゃないかって思ったら、これ、巻末をカラーページにするための措置なんであった。
 でもホントに緑色の「ミドリガメパン」なんて誰が食べたがるってんだ。緑色ってあまり食欲をそそる色じゃないと思うが(野菜が美味しくないのはそのせいもあるかも)。
 パン造りマンガとしてマジメに評価するのはもう無理なんじゃないかって域に入ってきてるけど、あれだねえ、やっぱりマンガで料理物扱うときのノウハウを、『ミスター味っ子』が作ってしまった(アニメ版のほうが特に)ってのは功罪相半ばするところがあるんじゃないかなあ。
 橋口さんの画力は相当なものだけれど、にもかかわらず、焼きそばパンもお好み焼きサンドも、全然食欲をそそらない。その制作過程を細かくリアルに見せることが、かえって食欲を削ぐ結果になっているのだ。これが『美味しんぼ』だと画力がないせいで(^o^)、できあがったものがうまく見えるんだけどね。
 言っちゃなんだが、前作の『ウィンドミル』にしろ、橋口さんは自分の画力に合ったストーリーを作れてないように思うなあ。こういう料理ガチンコ勝負みたいなマンガじゃ繊細な表情なんて描く必要ないからねえ。まだラブコメのほうが絵に合ってるように思うけれど、無難なマンガ描くよりは素っ頓狂なマンガ描いて勝負した方がいいと考えたのかもね。
 でも、一応は料理マンガなんだから、読者が自分で「作りたくなる」ものを描いてほしいよ。マンガにはもともとそれだけの表現力があるんである。私ゃ未だに自分の作るカレーのベースは『包丁人味平』の味平カレーなんだから。


 マンガ、柴田錬三郎原作・柳川喜弘画『眠狂四郎』5巻(新潮社/バンチコミックス・530円)。
 一気につまんなくなった、というよりどうしょうもないバカマンガになっちゃったんですけど、どうしたんですかあ?(^_^;)
 いや、風魔と戦うあたりまではまだいいんだけどね、戸田隼人との戦いなんて、最後はただのドツキ合いだぞ。でもってあの眠狂四郎がねえ、「愛する者、守るべき者のために……闘うっ!!」て言うんだよ。……それ、誰よ(-_-;)。
 柳川さん、原作ちゃんと読んでるのかねえ? これが「眠狂四郎」じゃなくて、たとえば全く原作のない「起笑一郎」とか「食泣次郎」とかなら私も別に文句もないんだけどさ、眠狂四郎って言えば「無明の剣士」であり「ニヒリスト」の代表だよ? 腐っても「愛」なんて幻想は信じないし、「剣」を捨ててのタイマンなんて絶対にしないって。ヤンキーじゃねえんだからさあ。
 なんだかシバレンを本宮ひろしで和えてみましたって印象だけど、それじゃ『真田十勇士』じゃん(^_^;)。別に原作を高尚だというつもりはないけどさ、エンタテインメントにはエンタテインメントとしての「格」がやっぱりあるんだよ。それをまたなんでこんなに意識の「低い」ところにまで持ってきたもんなんだか。
 最初のころはそれほどひどくはなかったし、若い人に読んでもらうにはある程度現代的なアレンジは必要だろうとは思ってたけど、原作の根幹にある「思潮」まで変えちゃ話にならんよ。これじゃ柴田錬三郎を借りてくる意味がないじゃん。柳川さん、自分で何を描いてるか認識してないんじゃないかね。
 原作知らない人にはこれでも面白いんだろうが、その読者が万が一、原作にも興味を持って読んでみたりして、「マンガと違うじゃん」とか文句言い出したら腹立つよな。勝手に設定変えてるのはマンガの方だって。
 焚書せよとまでは言わないけど(おいおい)、少なくとも「柴田錬三郎原作」ってのは看板に偽りアリだからね。

2001年10月22日(月) 野だいこ敬語/『源氏物語』第壱巻「桐壷」(江川達也)ほか
2000年10月22日(日) 時代劇なのにカップルが多いとは珍しい/映画『五条霊戦記』ほか



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