無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年10月22日(月) 野だいこ敬語/『源氏物語』第壱巻「桐壷」(江川達也)ほか

 オタアミ当日まであと33日! 33日しかないのだ!

 この日記へのアクセス、「加藤夏季」だの「リアルバウトハイスクール」だの、「ドラえもん エロ」だの、よくわかんないキーワードで検索して来る人も多いのだが、ふと気になったのは、どうして「オタクアミーゴス」で検索してくる人がいないのか、ということだ。
 いや、オタアミ関係のページなら、AIQに限ってもエロさんとこだって、しおやさんのとこだってあるんだし、第一オタアミのお三方のホームページにアクセスする方が早いんだから、私の日記まで覗く必要はないんだが、でも未だに「チケット買います」ってメールが一通も来ないと、この日記もあまり宣伝の役に立ってないのかなあ、と不安になってくる。

 あの、すみません。
 読者の方で、今んとこ予定が立たないから、オタアミに行くかどうか分らないけど、興味はあるって人、せめてそのことだけでも掲示板かメールでお知らせ願えませんか?
 もしかして、「オタクアミーゴス」を知らない、という方はいらっしゃいませんか?
 そういう方もどうぞご連絡下さい。資料記事をメールでドドッとお送りすることもできます。


 夏の退院以来、仕事を休んだことはなかったのだが、ついにカラダがもたなくて、仕事を休み。
 これも昨夜、しげが食料を買いに行ってくれてたなら、何も夜風に病んだカラダを晒さずにすんだんだがなあ。
 しげは絶対、私がカラダを壊すことを望んでいるのだ。そうすれば私が家にいて、その間会っていられるから。
 けどなあ、そんなことしてたらなあ、私の命自体が縮まっちゃうと思うんだが。朝三暮四だって何度も言ってるのに、目先のことにしか目が向かないヤツだからどうしようもないんである。


 『言語』11月号(大修館書店・890円)。
 今回の特集は「敬意はどこから来るか ポライトネスと敬意表現」。
 昨年末に、国語審議会が、従来の「敬語」というコトバを避けて「敬意表現」というコトバに置き換えたことをご存知の方はいらっしゃるだろうか。
 「んなマイナーな記事知らんわ」と言われてしまいそうだが、あまり侮ってもらっちゃあ困るね、「コトバが置き返られる」というのは、ヘタすりゃ「文化そのみものが破壊される」ことにつながりかねないんだから。

 かつて「トルコ風呂」が「ソープランド」に置き換えられちゃったことを思い出してごらんなさいな。
 って若い人は知らんだろうが、もう、20年も前になるかな、トルコ大使館だったかトルコ人の少年だったかが、「あんないかがわしいところに『トルコ』の名前を使わんでくれ」という要望があって、一斉に「トルコ」のコトバが日本全国から消えたのだ。
 言うまでもなく、「もともとの」トルコ風呂は、いかがわしいものでも何でもない。例のいかがわしい種類のお風呂が、いかがわしくないトルコ風呂を隠れ蓑にして営業して、いかがわしくないトルコ風呂はトルコ風呂と名乗れなくなった、という前段階がこの件にはある。
 ここがややこしいところで、建前上、トルコ風呂はあくまでトルコ風呂なんだからしてイヤラシイところでも何でもないのだ。でも、そこに行く客は、ここはイヤラシくない所だから行ってもいいのだと言いながら実際にはイヤラシイことを期待して行くのである。
 警察もここはタテマエ上、イヤラしくないところなので、踏みこんでお客さんともども「従業員」の方をふんじばるってわけにもいかない。
 ホンネとタテマエの境界線がそこにはある。
 「トルコ」が「ソープ」に変わっても、その境界線はあるんじゃないか、相変わらず警察はソープの全てを摘発出来てるわけじゃないし、と仰る方もおられるかもしれない。
 しかし違うのだ。
 ソープは、一度トルコが社会的に、公然と、「イヤらしい場所だ」と認定されたあとに名称を変えたものなのだ。ホンネとタテマエの境界はここで実は崩れてしまっている。
 警察がソープに不介入なのも、以前とは意味合いがはっきりと違っている。警察はソープの真実を「公然と」認定した上で、その存在を認めていることになっているのだ。言わば、社会全体が「共犯化した」結果が「ソープランド」というコトバの意味合いなのだ。まさに「赤信号、みんなで渡れば怖くない」である。……これ、戦前までの公娼制度より悪いんだよ、状況的には。
 「コトバ」の意図的な改変がどんな結果を生むか、の一例である。

 いや、ソープの話がしたいわけじゃなくて(第一、この話は大学時代の某友人のウケウリである)。
 この「敬語」が「敬意表現」に変更されたのには、1987年に発表されたブラウンとレビンソンの「ポライトネス理論」(直訳すれば「丁寧理論」)が影響を与えている。
 言語社会心理学者の宇佐美まゆみさんによれば、このポライトネス理論というのは、「相手を思いやり、配慮することによって、相手とよい関係を築き、保つための言語行動の『普遍原理』を示すもの」だそうな。
 日本人は短絡的に「相手を思いやること」=「敬語を使うこと」と考えがちだが、もちろん、「思いやり」が「敬語」に限定できるものではない。だからこそ、審議会は「敬語」という表現を避けたわけだが、これがかえってポライトネス理論の「普遍性」をあいまいにしてしまっている、と宇佐美さんは主張するのである。
 結局そこには「敬語」だろうと「敬意表現」だろうと、「敬意がなければ人を思いやることはできない」という強固な思いこみが残ったままだからだ。
 当たり前の話だが、タメ口きいてたって、そこに思いやりが介在することはある。

 ポライトネス理論の肝心なところは、「何をすれば相手を思いやったことになるのかは、それぞれの文化によって異なる。しかし、それらの言語行動を引き起こす動因は普遍的だ」という点にある、と宇佐美さんは説明する。
 「ポライトネス」とか難しい言い方をするから、審議会のようなアタマのお弱い人たちにはなんのことだか解りにくくなっちゃってるのだなあ、こんな自明のことをわざわざコトバにするのはそれこそ気が引けちゃうのだが、要するに「かたちじゃないよ、心だよ」ってことではないかね。
 「敬語」が日本語から消えるんじゃないか、とかバカなことを言ってるやつが多いが、そんなもん消えたって構わない、いや「敬意」そのものが消えたって、日常生活で困ることなんかなにもないってことに気づいてないのかねえ。
 これまでにも日本語から消えた敬語は腐るほどある。
 「たまふ」「奉る」「仕る」「奏す」「のたまふ」「まかる」「おはす」……。学校のオベンキョで習ったこれら古典の敬語、こんなんはこの千年の間に、きれいサッパリ日本語から消えた。
 ……で、我々日本人は千年前より野蛮でみっともなくてくだんなくて下劣であほんだらになったのかね。
 「敬語を若い世代に教えよう」というのは実は言葉を教えようとしているのではなくて、「このコトバを使うことによって、一定の人間関係を共有するシステムを伝授しよう」としているのである。結果的に、そこに心が通っているか通っていないかを判別することは極めて困難になってるのだが、その事実にすら審議会の連中は気付いていない。

 そういうやつらには、徹底的に「敬意を尽くして」、バカ丁寧なコトバで応対してやるといいのだ。
 「課長! おはようございます。今日のお召し物は一段と素晴らしくていらっしゃいますね。色と言い、デザインと言い、とても下賎のものでは考えつかない斬新さに満ちていらっしゃいます。お側に控えておりますだけで、自分の身が恥ずかしくなるほどでございます。どちらでオーダーされたのでございますか? え? レディーメイドでいらっしゃる。それはそれは、ご趣味のよい専門店をご存知でいらっしゃいますね。え? デパート? いや、今時のデパートもなかなか流行の最先端を追求しているものですね。数あるファッションの中でもそこまで我々下々の者には思いもつかぬハイソサエティなセンスの品をお選びになるとは、さすが、課長もお目が高い」
 ……あなたの上司がとんでもない服を着てたときにこうやると、そいつは次の日から絶対その服は着てきません。保証します(やったことあるのか)。

 いわゆる「慇懃無礼」というやつだが、言われた方は敬語を使われてるわけだから文句は言えないよな(^^)。


 しげに買い物を頼む。
 冷たいものがほしい、と頼んだら、ようやくアイスモナカとゼリーを買ってきてくれた。
 まあ、嬉しいことは嬉しいんだが、頼んだ洗濯物はやっぱりテキトーな干し方で、全く乾かない。私が干しなおしたので、明日には乾いてくれるだろう。
 

 炭疽菌騒ぎで、アメリカではもう9人の発症者が出ているとか。
 死者ももう二人だそうだが、イスラム原理主義者の報復テロかどうかはまだ定かではない。便乗者の可能性も高かろう。
 ニュースでは識者とか最近の専門家とかいうのが、「国が背景にいなければ作れるものではない」とか言ってるが、オウムがサリン作ってたときもおんなじこと言ってたぞ。
 誰かをかばって、どこぞの国に責任を押しつけたくて、そんなデマ流してるのか? そりゃ、培養するのにある程度の施設は必要だろうが、ノウハウさえあれば、何も「国」ほどのバックがなくても大量に作れるからこそ、ばら撒いてるんだろうが。
 テロ、と言うのは「誰にでもいつでも狙われる危険性がある」という恐怖に相手を落とし入れることが目的なのだから、そんな専門的な知識がないと作れんようなものは、利用価値がない。
 で、その専門家、更に続けて「日本で作るのは不可能でしょうね」だと。
 ……おい、この無知無教養なバカ、研究所から追放しろ。例の戦時中の731部隊の細菌研究施設で、炭疽菌はとうの昔に培養されとるわ。旧日本軍の研究成果は、様々な形で全世界に流出したとおぼしい。どこの国で、どの程度の規模の施設が炭疽菌を作り出してるかは、見当のつけようがない、というのが本当のところなのである。


 CSファミリー劇場でなつかしの竜雷太主演『これが青春だ!』を放送しているのをしげと何となく見る。まだ2回目か3回目くらいらしく、話は新任の竜雷太の大岩先生が、落ちこぼれクラスを持たされるようになるまで。
 今見返すとむちゃくちゃ豪華キャストだなあ。大岩先生に理解のある校長が西村晃で、腰巾着の教頭が藤木悠、反校長の理事長が山茶花究。女生徒の中には岡田可愛に柏木由紀子がいるがね。……柏木由紀子がセーラー服着てた時期もあるんだよなあ、当たり前だけど。
 PTAのおばさん連が菅井きん、賀原夏子、南美江ってのは濃い濃い。三遊亭金馬や名古屋章が劣等生の親父たちってのはもうハマリ役ではないか。
 テーマソングをしっかり覚えてるってことは見てたはずなんだが、ストーリーなんてケロッと忘れてるがな。でも、大岩先生が「寝たいやつは寝ていいぞ!」と言って、自分も眠り込んでしまい、生徒にボイコットされるってシーン、記憶があるなあ。それとも似たような話が他の学園ドラマにもあったのかなあ。

 それはともかく、モノクロ時代のドラマだから、どうしても風俗が古色蒼然としている。
 校舎なんか全部木造だ。
 「うわあ、木造校舎だ」と言ったら、しげが「え? アンタの子供のころって、全部木造じゃなかったの?」と驚かれる。
 「何言ってんだよ、小学校も中学校も鉄筋コンクリートだよ。博多の都会なんだから」
 「博多が都会?」
 「そうだよ、広島のど田舎とは違うんだから」
 「ははーん。博多に言われたかないね」
 「広島のどこが博多より勝ってるってんだよ。カープとお好み焼きと○○ド○○しかねーじゃねーか。しかもお好み焼きなんて甘ったるいソースぶっ掛けただけのシロモノだし」
 「じゃあ、博多にうまいもんあるのかよ。トンコツラーメン?」
 「ありゃ博多の食いもんじゃねーよ」
 「ホラ見てん、何もないじゃん」
 「おきゅうと食え! おきゅうと!」
 広島妻対博多夫のいつもの不毛な口ゲンカであった。


 マンガ、武村勇治(取材・原案協力/石井信)『風娘(かぜっこ) 高橋尚子世界記録への挑戦』(小学館・620円)。
 別に高橋尚子のファンってわけじゃないが、実録マンガの陥りやすい事実の誇張は比較的少ないような印象……というより、どうしてこれ買ったかっていうと、この手のマンガにはありがちな「最初の意図と違った展開になった」って結果にならなかった珍しい例だからなんだね。
 つまり、「世界一の○○を目指す少女」とかいうのを“同時進行”で追いかけるドキュメンタリーってよくあるけど、世の中そううまく行くもんじゃない、プレッシャーに負けたりして、「がんばったけどダメでした」で、なんともあと味の悪いオチをつける場合が多いのだ。それまで、「この子はきっと世界の頂点を極める!」なんてぶち上げてたのがへなへなへなと萎んじゃうのね。
 映画で倉本聰の『時計』ってのがあったけど、あれなんか悲惨なもので、主演の中島朋子にプロスケーター目指させたけど、ダメだったんで挫折の映画にしてしまっていた。かと言って観客はそんなんに感動はできんがね。
 あと、随分昔『風吹ジュン物語』ってマンガがあったが、あれなんか掲載された直後に本人のスキャンダルがバレて、マンガの中で「清純派」と書かれてたのが空々しくなっちゃったことがある。
 ことほどさように、実録モノってのはドラマにしにくいのだ。というか、殆どの実録モノが数年経つとヘタレてしまう。
 ……しかし、高橋尚子はやっちゃったのだよ。
 ご承知の通り、ベルリンマラソンで本当に世界記録を塗り替えてしまった。
 つまりこのマンガ、“たとえフィクションが混じっていたとしても”結果的に、本当に実録として認められるマンガになっちゃったのである。
 マンガだから主役の尚子、実物よりもかわいく描いてあるんだが、そういうカリカチュアも含めて。
 ベルリンマラソンで一人取り残される夢を見る、なんて、いかにもツクリっぽいんだけどなあ。もしかしたら、このマンガ、史上初めての「色褪せない実録漫画」になっちゃうかもしれないのである。


 マンガ、紫式部原作・江川達也漫画『源氏物語』第壱巻「桐壷」(集英社・980円)。
 意外なことに、これまでの『源氏』マンガ化の中では、圧倒的に原作に「忠実」である。とゆーか、これまでのマンガが大和和紀も長谷川法世もヘタレとしか言いようがなかった出来だったんだが。
 あとがき対談で大塚ひかりとも話しているが、これまでのマンガだけでなく、数々の訳本、谷崎も与謝野も円地も、当時の風俗・文化で、「紫式部が、当時としてはあまりに常識的なことなので、あえて書く必要がなかった」ことについては一切触れられていないのである(ちょっと注をつける程度)。
 それがまあ、エッチやシモの方面に傾いてはいるものの、帝の寵愛を受けることがまさしく当時の女にとっては「天上の喜び」であったことや、清涼殿での営みが、他の女御・更衣たちに筒抜けであったろうこともちゃんと明記してある。
 ……学校の教師って、こんなことは教えないもんなあ。もっとも、原作に忠実過ぎるあまり、くどいとこまでしっかり訳してしまっていて、現代の我々にとってはどうにも感興を殺ぐ描写まで延々と描いてしまっている。
 もひとつ言えば、当時の女性の衣装の構造から判断して、男女の交合は既に正常位が主体であったと思われる(十二単は着物としてだけでなく簡易ベッドとしても機能していた。当然前開きで、そのまま後ろに倒れるのである)。
 だから源氏と葵上のSEXを、葵上の騎乗位で描いたり、ましてやフェラチオまでさせてしまうのは考証的にどんなもんだろう。男女の道を葵上がリードして源氏に教えたという考証は多分正しいが、これはやり過ぎというものだ。この手のマンガについて言えば、一つウソが混じると、ほかのところまでデタラメに思われかねないものなのである。考証は慎重に行わなければならない。

 げれどやっぱり江川さんて「教師」だったんだなあ。これ、本気で読者に「真の古典」を教えなければ、という使命感に燃えて描かれているのである。その押しつけがましさを「トンデモ」と捉えることができれば、この『源氏』、滅法面白い。少なくとも橋本治の『桃尻語訳 枕草子』以来の“マットウな”古典の現代語訳であることは明記しておいていいと思う。

2000年10月22日(日) 時代劇なのにカップルが多いとは珍しい/映画『五条霊戦記』ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)