無責任賛歌
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| 2005年10月09日(日) |
腹へりスズメ/『仮面ライダー響鬼』三十五之巻 「惑わす天使」 |
『仮面ライダー響鬼』三十五之巻 「惑わす天使」。 プロデューサー&脚本家変更の騒動も、一月半もすればかなり沈静化してくる。まだまだあちこちでくすぶってる感じはあるけれども、そろそろ半可通なオタク諸君も虚心坦懐に物語を見るくらいの心の広さを持ってもいいんじゃないかと思う。なんかもーね、30話以降否定派の人たちの文章って、内容よりもその筆致がムキになってるって言うか、ヒステリックで見てらんない。 今更、例の『エヴァンゲリオン』騒動を引き合いに出すのも何なんだけれど、ある作品にハマっちゃうと、視聴者は自分の作品に対する好悪の感情が、善悪の判断にスライドされてることに気が付かなくなるものなんだよね。何かを好きになることがいけない、なんてことを言うつもりはないけれど、感情の暴走を抑制するための「もう一人の自分」は心の中に置いとかないと、実生活を送る上で、いろいろヤバいんじゃないか。私が自分自身もオタクだと認めながらもオタク批判を往々にして口にするのは、オタクと呼ばれる人々の大半が相手との会話のフィールドを作る努力を怠っていることを経験的に知っているからである。濃い人薄い人、プロ・アマを問わずにね。いやもう、みんなただの「ワガママ」野郎ばかりだわ。
「はてな」の「井上脚本」の項目にはこう書いてある。
> 脚本家井上敏樹氏の書いた脚本。 > 特撮番組、それも平成ライダーの時の井上脚本には、カット割りから、挿入されるSE(効果音)、役者の衣装など、演出に関わる事柄が全て指定されている、と思い込んでいる人がたまにいる。そういう人たちはキャラクタやアイテムのデザインすら井上氏が決めているのだと思っていたりもする。
「井上が」「御大が」とか言ってる連中は、一般人からは「そういう見られ方」をしてるんだけど、全然気付いてないんだろうなあ。 ついでに「ウィキペディア」の井上敏樹解説にはこうある。
〉 「シナリオは映像のための設計図に過ぎない」が持論で、脚本ではそのシーンの大意を示すにとどめ、セリフの解釈(そこに込められた登場人物の感情の機微など)などの詳細は演出家や俳優・声優に委ねるという執筆スタイルをとる。
緊急招聘の途中参加であるから、今回の脚本も、監督に投げ渡しされたと思しいし、現場での変更も結構あったと思う。すぐに「井上が」と責任を脚本家にのみ押し付けようとする連中は、それだけで既に常軌を逸しているのである。
まあ、そういう周辺事情はともかく、作品自体は確かにどんどんイカレた展開になっている。29話までも話が異様に進まなくて「この物語はいったいどこに行こうとしているのか」と不安に思っていたものだったが、別の意味で今の『響鬼』はどこに行こうとしているかよく分からない。もしかしたらプロデューサーも脚本家も、「どうにでもなれ」と思いながらやってるのかもね。 最近、登場人物が次々にギャグキャラになってく大海嘯にザンキもイブキも飲みこまれてしまった。腐海に沈まずにすむやつはいないっつーか、何だか本当に『ゴレンジャー』が『ゴレンジャーごっこ』になっちまったようである。 でも、ザンキがトドロキに恋のアドバイスをして失敗するのは「おれは数々の女性を愛してきた男だ。それこそ鬼のようにな」「オレは今恋の地獄にいる」などのイカレた発言が楽しかったので、これは許す(偉そうに)。シリアスなザンキさんがお好みのファンはどうせまた「私のザンキさんを返して!」と叫ぶんだろうが、知ったことか。もともとザンキは、「こいつは何だって一人だけカッコつけてやがんだ」というギャグに転ぶギリギリの線にいるキャラクターだったから、これで立場がスッキリしたというもんである。これと、モッチーのラブレターが実は勘違いだったというのは想定内だったので、ショックはない(笑)。 けれど、イブキが、香須美がほかの男と付き合ってると勘違いするのはかなりムリがあった。遠目で見たって下條アトムはすぐに分かる(笑)。こういうのは実写じゃ向かないベタギャグである。 井上敏樹の実写脚本の何が腹立たしかったって、子供向けにリテイクするとかいう以前に、「アニメのギャグは実写では通用しない」ということがまだ理解できていないとこなんだよね。子供番組脚本に徹していても、お父つぁんはそんなつまんないギャグは書いてこなかったと思うぞ。 この「糞ギャグ化ハリケーン」に巻き込まれずにすんでるのは今んところあきらくらいのもんじゃないかと思うが、これはこれまでの展開を井上敏樹が見てきて、「これはイジれない」と判断したってことなのかもしれない。もちろんこれから先、どう転んでいくかは分かんないわけであるが。ああ、ヒビキさんは元からギャグキャラなので問題なし。 しかしアンチ派の細かい粗探しやツッコミは無視して構わないと思うが、テコ入れ&新展開のためにPD&脚本家交代したはずなのに、話が進んでないことの方は問題にしなきゃならないんじゃないかな。来週は「変身忍者嵐」が登場するようだが、そんなふうに遊んでる余裕はあるんかいな。こういうので喜ぶオタクだってあまりいないと思うけどねえ。 ……と思ってネット上を検索してみたら、意外に同年代の連中で喜んでるやつらが結構いたので驚いた。もう何だっていいんだな(笑)。
テレビ見たり本読んだり台本書いたりして過ごしたけど、ちょっと疲れたので今日は内容は省く。 夜になって、しげが、「ひもじいよう、豪勢な食事がしたいよう、寿司が食いたいよう」と駄々をこねるが、そんな余裕は我が家にはもうない。「父ちゃんにたかろうよ」と言うので「あほか」と一喝した。来週、一緒に旅行に行く予定なので、既にたかることは決まっているのである。2週も続けて親にたかれんわい。 ということで、今日の晩飯は私の作ったスパゲティだったのだが、食い終わった後で父から「飯は食ったか?」と電話があった。ああ、もうちょっと食事するの待てば寿司がたかれたのに。……って、やっぱり私もひもじかったんかい(笑)。
2002年10月09日(水) また騒ぎ方が違うんじゃないかって話/『青少年のための江口寿史入門』(江口寿史監修)ほか 2001年10月09日(火) 探偵小説ネタ多し。ついて来れる方、求む/『死神探偵と憂鬱温泉』(斎藤岬)ほか 2000年10月09日(月) 女って癒してもらう対象ではないよな/『鉄槌!』(いしかわじゅん)ほか
| 2005年10月08日(土) |
あれもこれも/『ウルトラマンマックス』第15話「第三番惑星の奇跡」/『BLOOD+』第一話「ファーストキス」 |
ブログ日記を書くようになって、こちらの日記とあちらの日記と、ネタが被ることもよくある。別々のことを書けばいいじゃないか、と言われそうだが、基本的にあっちとこっちとでは書いてる人格が違うので、同じ題材を扱っていても感想は微妙に違うのだ。 そのへん、両方を読んでくださっている方は、見比べて楽しんで頂ければよいと思うのだが、しげはブログ日記のほうには「オタクネタは書くな」と言う。 もちろんそれでも全然構わないのであるが、そうなるとあちらの日記には「今日も寝ているしげの鼻の穴にティッシュを詰めて遊んだ。寝ながらしげは『フン!』と力んで、途端にティッシュの栓はポーンと飛んでった」とか、そんなことばかり書くことになる。 どんどんしげのアホ晒し日記になっていくのだけれど、それでいいのだろうか。
『ウルトラマンマックス』第15話「第三番惑星の奇跡」(完全生命体イフ登場)。 サブタイトルを聞くと、どうしても『ウルトラセブン』の「第四惑星の悪夢」を想起してしまう。あれは存在しない第四惑星(火星ではない)における機械化都市を描いた「寓話」であったが、今回はちゃんと地球を舞台にした、しかしやはり一つの「譬え」を描いた「寓話」として、旧作にも劣らぬ傑作として屹立することになった。 脚本は『たどんとちくわ』『大怪獣東京に現る』『ドラゴンヘッド』のNAKA雅MURA(中村雅)、特技監督と監督を兼任するのは、『漂流街』『ゼブラーマン』『妖怪大戦争』ほかもうなんでも撮るぞの三池崇史。二人はこれまでにも『中国の鳥人』『アンドロメディア』『DEAD OR ALIVE 2 逃亡者』などでコンビを組んでいる。
絵を描くことが大好きな少女アッコ(佐々木麻緒)。 彼女は視力を失っていたが、その逆境にもめげずに音楽家になろうとフルートを吹き鳴らしている。そんな彼女をミズキ(長谷部瞳)は暖かく見守っていた。 そんな時、宇宙から未知の物体「イフ」が飛来する。イフは、攻撃を加えるとその攻撃力を吸収、し、そのままの力を敵に反撃するという究極の生命体だった(寺沢武一の『コブラ』にそんなの出てきてたね)。「最強」の敵に対し、ダッシュは何の手も打ちようがない。 ミズキはアッコが出演するフルートの発表会場だけは守ろうと、自ら囮となって、イフを公会堂から遠ざけようとする。イフの攻撃に絶体絶命に陥ったミズキの前に、ウルトラマンマックスが現れ、窮地を救う。しかしマックスのマクシウムカノンもまた、いったんはイフを破壊したものの、復活し完全体となったイフに取り込まれた。マックスに向かって放たれるマクシウムカノン。 やむなく撤退するマックスにダッシュ。公会堂は破壊された。あれだけ健気だったアッコは、ミズキの呼び声にも反応できないくらいに心を失っていた。「ウルトラマンマックスにも何もできなかったのに、ダッシュに何ができるの?」。 イフの無差別攻撃に街は焦土と化し、その炎の中にアッコは泣きながらふらふらとさまよい出ていた……。
「イフ」は言うまでもなく「戦争」のメタファーである。『ウルトラ』シリーズにはこれまでにも戦争を題材にしたエピソードは散見していたが、それは物語上の設定であるとは言え、「軍隊の放棄」を憲法に明記している日本に常に「防衛軍」が存在している矛盾について、過去のスタッフたちが忸怩たるものを感じていたことの現れでもあったろう。ただ、子供番組という制約もあってか、直接的な形でウルトラシリーズが戦争を描いたことはまだない。過去の戦争が語られるか、背景として提示されるか、隠喩として使われるか。今回はその最後のパターンであるが、ものが「武器」であるだけに、描写としては最もリアルに戦争のイメージを喚起することに成功している。 特技監督も兼ねた三池監督は、イフに蹂躙された東京の街をまさに東京大空襲の再現として描いた。ご丁寧にも、その街をさまようアッコは防空頭巾を被っている。言葉で「兵器の過当競争は人類を滅亡に導く」と強く主張しても、それはあまりにも繰り返し語られすぎてきたために、人の心に届かせるだけの波及力を失ってしまっている。しかし、映像にはまだその力が残っているのではないか。親が子にこのエピソードについて語るとき、「昔、これと同じことがあったんだよ」と語れるだけのビジュアルが、そこには展開されていた。そのリアリティが、このドラマを基礎からしっかりと支えている。 アッコは、小休止しているイフの前で、「怪獣さんも音楽は好き?」と言ってフルートを吹き鳴らす。奏でられるのはショパンの「別れの曲」だ。アッコは別に怪獣に対して何かをなし得ると考えて笛を吹いたわけではない。それはどちらかというと自暴自棄というよりは狂気にかられての行動と言った方が妥当だ(このときのアッコ役の佐々木真緒ちゃんの演技、これがまさに何かが憑依したような名演)。しかしそれが奇跡を生む。 イフはその体内に「音楽」を取り込んだ。そして、アッコとともに「別れの曲」を合奏する。焦土に鳴り響く交響曲。全身、巨大な楽器となったイフは、ウルトラマンマックスにいざなわれて、宇宙に帰るのだ。 いくつか、今回のエピソードについての感想をネットから拾ってみたが、中には「きれいごとだ」とか「偽善的だ」と非難していた意見が見受けられた。しかし、地球がイフから守られたのは、全くの偶然からである。誰かの尽力が実ったわけでもなんでもない。「一人の少女が地球を救った」と言っても、アッコはナウシカのように信念も思想も持っていたわけではない。危難に際しては誰かが立ち上がるだろうという希望すらもこの物語にはないのだ。 だからこの結末は「夢」でしかない。戦争という現実の前では、我々は「夢」を見ることしかできないという、極めて冷徹な現実認識を前提として、この物語は成立しているのだ。そこんとこを見抜けないと、この話の結末がどこか「ヌルく」感じられてしまうだろう。 あるいは絶対平和主義的サヨク思想に基づいて描かれていると勘違いして見えてしまうようである。でもそれって、脊髄反射でありきたりかつシニカルっぽい言質を弄してるだけじゃないかって思うんだけどね。通ぶってるだけのキモオタの意見によくあるタイプよ。 子供向け番組だからということで三池監督は決して手を抜いちゃいないのだよ。 これは一つの寓話であり、「理想」を描いた物語ではあるが、決してキレイゴトでもなければ絵空事でもない。戦争という現実が回避されるとしたら、それは「奇跡」でしかないのではないか、という悲しい問い掛けなのである。 事前に情報チェックはしてなかったので、「素」で見て(オープニングのクレジットを見損なっていた)「何だ、この出来の良さは!」と驚いて慌てて公式サイトを見てみたら三池監督の作品だったと知った次第。だから「名前や経歴」の先入観で誉めているわけではない。来週の『わたしはだあれ?』でも三池監督は続投するらしいが、次はナンセンス・ギャグ編になりそうである。今週の感動編を期待して見ると当てが外れるだろうから、気持ちを切り替えて「これもウルトラ」という気分で見ることにしましょうかね。
アニメの新番、福岡には殆ど来ないので(『アカギ』も『蟲師』もやらねえぞ。くそ)、多分にふてくされているのであるが、もうケーブルで再放送を見るか、自分でDVDを買うかしかないのである。 そんな悲惨な状況の中で、『BLOOD+』だけは夕方六時台をゲットできたのは、まあ次の『ガンダム』までの場つなぎだとしても(苦笑)、ありがたいことである。 映画版『BLOOD THE LAST VAMPIRE』は、押井塾の企画作品として、劇場公開されているが、そんなにヒットしたようにも思えなかったので、こうしてテレビシリーズが作られることになったのは正直驚きである。 『イノセンス』のProductionI.G制作ということで、つい過剰に期待してしまいたくなるが、映画版がそもそも「日本刀を振り回すセーラー服美少女」というビジュアルがウリになっているくらいで、あとの設定やストーリーは従来のアニメをそんなに一歩も二歩も出たものではない。寺田克也のキャラクターデザインがどれほどアニメに寄与していたかは疑問があるし(頑張ってはいたけど、結局は作画監督のクセがデザインを凌駕している)、横田の米軍基地を舞台にしている設定は目新しいけれども、短い上映時間の中では、その設定を充分に生かして物語が展開したとは言いがたい。 テレビシリーズになっても、キャラクターデザインの一新、舞台も沖縄に移す、などの変更点はあるが、物語のコンセプト自体は映画版とさほど違いはなさそうである。主人公の音無小夜(おとなし・さや/声・喜多村英梨)が記憶喪失で自分の宿命を知らないとか、「翼手」に襲われ、謎の男・ハジ(声・小西克幸)の導きで「覚醒」する(キスで目覚めるって、イマドキ『白雪姫』の王子様かよ)ってのも、なんだか既視感を覚えてしまう。つか、これってまんま『サルでも書けるマンガ教室』の「イヤッ・ボーンの法則」なんだけど。 セリフも声優の演技もアニメアニメしてい大仰で、ちょっと辛いものがある。若手はもう人材不足だから仕方がないとしても、小夜を娘として育てている宮城ジョージの声優が大塚芳忠ってのはミスキャストじゃないのか。これなんか、もっと重厚でリアルな雰囲気を出せる声質の人で、津嘉山正種とか屋良勇作とかの役どころじゃないかって思うけれど。 そんな風にありきたりというか古くさくはあっても、つまんないというほどではなく、結構、「見られてしまう」のは、やはりI.Gならではの作画の美しさに寄与している面が大きいと思う(中身はないけど、「絵」でってアニメは最近多い。『エウレカセブン』とかもね)。しかし絵の面で言っても、オープニングの戦闘シーンこそ、ざらついた画面のデジタル処理と短いカット割りが効果的で、血まみれな小夜の冷ややかな立ち姿が彼女の暗い運命を象徴しているようでゾクゾクするような魅力に溢れていたのだが、本編に入った途端に、目立つほどの絵もなくなって、話がただ流れているだけの印象になってしまう。もっと構図に凝ってみればいいのに、どうしてそれをしないのかなあ。 それでも背景組織との関連を掘り下げて描いて行くとか、面白くできる要素もないわけではないので、これから先の展開に期待したい。本当に面白くなるかどうかは、まだまだ未知数だろう。
相変わらずアテにならないオタク分析をやらかしている野村総合研究所(NRI)であるが、以前の分析が一面的に過ぎると思い直したのだろう、再び同オタク市場予測チームが、オタクの特性を分析して再定義して、10月6日に発表した。 けれどこれがまた細かくなったわりにはやはりピンと来ないのである。 「オタクはいわゆる「アキバ系」だけではないとし、行動や消費の特性を抽出。アニメやコミックに加えて旅行、自動車マニアなどもオタクに含め、主要12分野のオタク人口を172万人、市場規模を4110億円と推計した」と言うのだが、分野を増やしていけば、規模だって拡大するのは当たり前である。 昨年の「アニメ」「アイドル」「コミック」「ゲーム」「自作PC」オタクのほかに、新たに「AV機器」「携帯型IT機器」「クルマ」「旅行」「ファッション」「カメラ」「鉄道」(「アイドル」は「芸能人」に変更)を加えた12分野というのだが、ここまで来ると、日本人でオタクでないやつはいないってことになりゃしないか。 つか、「オタク」って概念はもう一般化しちゃってるので、市場調査のためのキーワードとしては機能してないと判断した方がいいように思うけどね。 「オタクの定義は時代とともに変化してきた」という同社の指摘は、一応、納得できはするのである。しかしそこで「オタクはすべての趣味分野に存在する」と言ったんじゃあ、まさしくこの分析が無意味だということを自分たちで肯定しているようなものだ。結局、「何が当たるか分からない」不安定な市場である点ではどの分野も変わりはしない。 更に、同社の解説する「オタクの再定義」も、当たっているようで微妙にズレがあるように思えてならない。 (1)こだわりの対象に対して、所得や余暇時間のほとんどを費やす「消費性オタク」 (2)「自分の趣味を周りに広めたい」「創造活動をしたい」と考える「心理性オタク」 この2種類の特性を兼ね持つ人をオタクと定義する、というのだが、ガンダムが好きだと言ってるくせに、ファーストシリーズは見たことなくて、レンタルして見るのも面倒くさいなんて言ってたやつを私は何人も知っている。いや、総体的に、好きなものに対してすら金を出し渋るオタクは腐るほどいるのだ。同人活動やってるくせに、「自分の趣味を人に知られたくない」「オリジナルは描けない、パロだけ」なんてオタクはオタクの一典型だと思うが、これも野村総研の定義からは外れてしまう。 アンケート調査の結果を分析して得られたオタク層に共通する行動特性というのも部分的な指摘でしかないと思う。 (1)他人に良さを理解してほしいと思う「共感欲求」 (2)何でもそろえたいと感じる「収集欲求」 (3)自分の意見を広めたいという「顕示欲求」 (4)自分なりの考えを持ちたいという「自律欲求」 (5)オリジナル作品を作ったり、改造したりする「創作欲求」 (6)気の合った仲間にだけ分かってもらえばいいと考える「帰属欲求」 孤独なヒキコモリオタクはこのどれにも当てはまらなかったりするな(笑)。 ちなみに、私の場合も(1)〜(6)のいずれも希薄だ。こんな日記を書いているから、よく誤解されるのだが、私は自分の意見を他人に強制したいがために日記を書いているわけではない。私は自分の「仮説」を元に、内的シミュレーションを試みているに過ぎないのである。 (1)については論外である。視点を変えれば作品のよさなんてものはどうにでも変わる。世評に対して異議を唱えることを私はよくやるが、理解してほしいと思ってやってるのではない。 (2)はほとんど「作品」のみに限られ。グッズ類は殆ど買わない。マグカップやTシャツを買うのは、それが「使える」からである。 (3)なんて面倒くさくてやりたくない。それをやりたいなら、私はもっとあっちこっちのサイトや掲示板に顔を出して益体もないことを喋っていたろう。 (4)は人なら誰でも持ってる程度のものである。それに、闇雲に他人と差別化を図ろうと思っているわけではない。「常識」はこういうもんだろう、と私としてはフツーの意見をいってるつもりなのである。 (5)は戯曲や小説を書いたり、たまにマンガも描いたりするので確かにあるのだが、さてこれは「欲求」なのかどうか。想像力と創造力は生きる力に等しい。これがない人間はそもそも人間として生きていくこと自体が苦しいと思うが。これをオタクの定義とするなら、私は幼稚園児のころからオタクだったことになる。 (6)も何だか寂しい定義である。誰かに分かってもらいたいと思った時点で、自分の意見は価値がなくなると思っているので、これも私には当てはまらない。 ここまで来ると、これはオタク分析というよりはあてずっぽうの占いみたいなもんだと言うしかなくなる。欲求の度合いによって、結果的にオタクは次の5パターンに分類できると言うのだが、さてそこの自分が「オタク」だと思っているみなさん、あなたはどのタイプだと思いますかね。私はどれにも当てはまりませんから、オタクではないのでしょう(笑)。まあ、人からどう見られてるかは分からないけどね。
(1)「家庭持ち仮面オタク」 組立PCやAV機器などを中心に幅広く分布し、小遣いをやりくりしながら家庭内でこっそりと趣味に没頭。オタク趣味をカミングアウトしない傾向にある。旅行分野にも多く、趣味を兼ねて子どもをあちことに連れ回すお父さんが典型例。 (2)「我が道を行くレガシーオタク」 独自の価値観を持ち、情報収集と批評を展開。20〜30代の男性に多く、PCやAV機器、ITガジェット、クルマ、カメラなどメカ系と、芸能人分野を中心に分布している。 (3)「情報高感度マルチオタク」 自分のこだわりに対して屈託がなく、カミングアウト率も高い。流行に流されやすく、他人を気にする傾向にある。女性が多く、複数の分野にまたがっているのが特徴。コミュニティーサイトやネットオークションが大好きで、2ちゃんねるのライトユーザーという人物像があてはまる。 (4)「社交派強がりオタク」 独自の価値観を強く持ち、それをみんなに知ってもらいたいと考えて他人を巻き込もうとするタイプ。ガンダムやドラクエの世界観を引きずり、それに気づかずに30代になってしまった大人が典型例。 (5)「同人女子系オタク」 コミックやアニメに登場するキャラクターへの愛着が強く、同人誌など創作活動への参加率が高い層。友達に隠れてひそかに持っていた趣味を大人になっても続けている同人誌フリークの女性が典型例。男性でも「アキバ系」「萌え系」がこの層に含まれる。
しかし、どれにも当てはまらないとなると、私ってただの「研究者」なんだろうか。
2002年10月08日(火) 妬み絡みがせからしか/『キャラ者2』(江口寿史)ほか 2001年10月08日(月) これは戦争ではない。……まだ。/映画『クイーンコング』/『カムナガラ』3巻(やまむらはじめ)ほか 2000年10月08日(日) V2余燼/映画『X‐MEN』ほか
| 2005年10月07日(金) |
だから女にモテねえんだ/ドラマ『慶次郎縁側日記2』第1回「雪の夜のあと」 |
正直、触れるのも面倒くさいことだが、まあ、こないだから引き続いている件なので、「結末」は書かないわけにはいくまい。 劇団メンバーのカトウ君が、ブログ日記を削除したようである。 それはもちろん当人の自由なのだが、リンクを貼っていた私や劇団ホームページに対しては「日記辞めます」など一切の連絡がない。口も利きたくないということなのかもしれないが、日ごろ偉そうに人の道を説くような発言を繰り返しておきながら、ケジメの付け方も知らないというのは平仄が合わない話である。 他人の粗探しはしても、自分は傲慢な態度を取っていいって言うの? それとも単にヘタレだから何も言わずにこっそり逃げることしかできないってわけ? 他人には厳しいのに自分のこととなるとこういう根性なしと言うか、ヘタレな態度しか取れないというのは、言行不一致とというか、卑怯者の烙印を押されたって仕方がなかろうと思うがね。 フタコト目には「自分の気持ちを分かってもらえない」なんて泣き言を連ねるのだが、他人に甘えたりすがったりするくせに虚勢だけは張るような態度を取っていれば、誰もその気持ちを忖度してやろうなんて気にはならなくなるものである。まず自分が他人の気持ちを思いやれたことがあったのかどうか、少しは考えてみたらいいと思うのに、自分の中の規律が常に一番だから、自分では「思いやれてる気になっている」だけなのである。相手にしてみればただの「余計な御世話」でしかない。 ズレた発言を繰り返してみんなを当惑させていながら自分だけがその現実に気付いていないということもどれだけあったか。こちらからの問い掛けにはマトモに返事を返さないくせに、自分が相手にされないと拗ねるという自己矛盾をやらかしていながらそれに気が付かないと言うのは、根が「駄々っ子」だからである。 何が情けないって、終わってしまったことをいつまでもウジウジと根に持ち続けるあのネクラぶりなんだよね。以前、カトウ君の具合が悪かった時に、しげや下村嬢がカラオケに誘ったことを未だに「自分の気持ちを分かってくれなかった」と恨みに思っているらしい。しげたちだって、来れると思っちゃいないが、寂しそうな返事をカトウ君が返してくるからあえて誘いのメールを送っていたのだ。そんな人の心の機微も分からんやつが逆恨みするとは、人間の器が小さいと言うか、幼稚と言うか、結局はただの馬鹿である。 自分の馬鹿っぷりににいい加減で気が付けよと指摘もしてきたのだが、最後まで何も理解できないままにケツを割ってしまったようだ。仲間だと思えばこそキツイことも言ってきたのだが、これはもう処置なしだと判断するしかあるまい。 なあおい、カトウ君よ、もう読んでないかもしれないが、メール送ってもマトモな返事が返らないからここで言っとく。そんな負け犬根性しか持てねえから、ろくでもない女に振り回されてばかりいるんだよ。女見る目もねえやつが人を語ってんじゃねえや、おこがましい。でもどうせ馬鹿晒すことしかできないんだろうから、勝手にやってなさい、わしゃもう知らん。
劇団「改・FREE’ズ+」の冨田さんがお引越し。 テレビがまだないと言うので、うちの使わなくなったテレビをご進呈することにしたのだが、それを仕事帰りに冨田さんのアパートまで運び込むことになった。何しろかなりデカくて重いので、さすがにしげと冨田さんの二人では運びきれないという話だったのである。 「エレベーターがないんだって、引っ越し先のマンション」 「今どき? バリアフリーはどうなってんだよ」 「知らないの? 三階建て以下ならエレベーター付ける義務ないんだよ」 「そこ、三階建てなのかよ」 「さあ、知らん。五階だったら死ぬね」 実際に行ってみたら、六階建てで、冨田さんの部屋は五階だった。言っちゃなんだが、築二十年を越していて、耐震建築も怪しい感じなので、バリアフリーも糞もないのである。 腰がちょっと死んだが、とりあえずテレビは点くようだった。しげが車に運ぶ時、一度落としたとかで、壊れていないかどうかちょっと心配だったのである。
そのあと、階下のカレー屋で食事。 富田さんが客演する劇団ぎゃ。の公演『裏庭』の話などを伺う。 前回の公演を見た時に、「不具者、奇形、片輪者ばかりの娼館」という、度胸のある舞台設定が面白かったので、どこから発想したのか聞いてみると、やはりトッド・ブラウニングの映画『フリークス(怪物団)』を原作者の野田和佳菜さんがごらんになっていたということである。映画やテレビではとてもできない題材なので、うまく仕上がればこれはなかなか面白い舞台になるだろう。しげの分と二枚チケットを購入する。 11月13日(日)、若松市民会館で、北九州演劇祭に関連しての公演である。ご興味のある方はぜひどうぞ。
楽しい会話のあとは、「カトウ君は何やってんだろうねえ」という暗い会話(笑)。「芝居やりたい気持ちはあるみたいなんだけどねえ、『自分には芝居をやる資格はない』とか言い出すし」「芝居って資格でやるもんかね」「そういうことを言い出すやつは芝居に向いてないよ」とか散々である。 結局、カトウ君は「自分で自分の首を締めているだけ」という寂しい結論を出して冨田さんとお別れ。
NHK金曜時代劇『慶次郎縁側日記2』第1回「雪の夜のあと」。 北原亞以子原作の時代小説シリーズのドラマ化第2弾。 前シリーズはチェックし損なってたんだけれど、この第2シリーズ第1話を見てみると、なかなか骨太で見応えのある佳作だったので、見損なってたのは残念だった。高橋英樹は、時代劇役者としては、私の中では『桃太郎侍』よりも『ぶらり新兵衛道場破り』や『おらんだ左近事件帳』の人だったんだけれども、森口慶次郎のような、これだけ深みのあるキャラクターを演じきれる人だとは思っていなかった。文句なしに高橋英樹の代表作と言っていいと思う。 前シリーズで、登場人物たちの背景は既に描かれているわけだけれども、「おさらい」的な語りや回想シーンが挿入されているので、この第2シリーズから見始めてもさほど支障はない作りになっている。おかげで多少説明的になっている欠点はあるのだけれど、今回初めて見た私のような視聴者にはありがたい心配りである。
元南町奉行所同心の森口慶次郎(高橋英樹)は、家督を養子の晃之助(比留間由哲)に譲って、江戸・根岸の里で商家の寮番(別荘の管理人)を務める隠居暮らし。晃之助の妻の皐月(安達祐実)は出産を間近に控えて、森口家は至極平穏無事に見えていた。 ところがそんな慶次郎の前に、かつて彼の娘・八千代(岡本綾)を乱暴し、自害に追いやった男・常蔵(若松武史)が現れる。彼と娘のおぶん(邑野みあ)は、手先の辰吉(遠藤賢一)の手によって、慶次郎から身を匿われていたのだ。しかし、常蔵の女出入りは変わらず、大工見習いの母親(工藤時子)と大店の娘(稲田みづ紀)が常蔵を奪い合っていた。慶次郎の心の中に、常蔵への憎しみが再び沸々と湧きあがってくる……。
「仏の慶次郎」も、相手が自分の娘を死に追いやった張本人ともなれば、自らの心をどうにも律しきれない。そんな慶次郎の心を弄ぶように、常蔵は何一つ反省の色を見せずに女を犠牲にして行く。しかしそんな常蔵を「悪党」として断罪するのならこれまでの「勧善懲悪」ものと何の変わりもない。 常蔵は自らの過去に縛られたまま、そこから抜け切れない業を背負った存在として描かれる。常蔵は慶次郎から憎まれることでしか自分の罪を責められなくなってしまっている。だから慶次郎に向かってせせら笑い、「殺してやると言ってみろ」と挑発する。そして慶次郎が「殺してやる」と言えば「生きてやる」と言い返すのだ。常蔵はだらしない男だ。人の情けを食いものにするダメな男だ。人間のクズだと言ってもいい。けれど、そのようにしか生きられない不器用な男でもある。そしてそんな彼にもまた、人間としての矜持がある。だからこそ、慶次郎に憎まれようとするのである。 慶次郎もまた、そんな常蔵を憎もうとして憎みきれない。そして自分もまた「仏の慶次郎」などと呼ばれるほどの人間ではないことを自覚し、当惑する。常蔵と慶次郎との間に、人間的な差異などない事実を認識してしまうがゆえに、困惑するのだ。 若松武史と高橋英樹。この二人の役者が、その複雑カツ深い心理の応酬を見事な演技で魅せる。いやホント、前シリーズから見ていなかったのがつくづく惜しまれる。スタッフは時代劇であることよりも現代劇を意識してこのドラマを作ったということであるが、これ即ち普遍的な人間ドラマを作ろうとしたということでもある。 慶次郎の傷つき憎しみに苛まれた心を慰めようと、皐月が生まれた子に「八千代」と名づけるラストシーンも清々しい。あの年も、この年も、雪が降っていた。しかしその雪は、陽射しとともに溶ける雪なのである。
2004年10月07日(木) がんばったけどこの程度しか書けなかった日記 2002年10月07日(月) ○まみれ観音様(^_^;)/『ヒカルの碁』19巻(ほったゆみ・小畑健) 2001年10月07日(日) 新番紹介お休み・有朋自遠方来/映画『陰陽師』ほか 2000年10月07日(土) V2/ムック『本多猪四郎全仕事』ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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