無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年10月09日(水) また騒ぎ方が違うんじゃないかって話/『青少年のための江口寿史入門』(江口寿史監修)ほか

 一昨日から続いている下痢血便のせいか、感覚が磨耗している。
 いや、仕事はしてますよ、それなりに。でもちょっと仕切り直ししないと、週末までカラダが持ちそうにないのだ。仕事中も気がついたら意識が飛んでいるのである。ここんとこ熟睡も出来ないしどうなっちゃうのか。
 エアーベッドが何日か前から空気が抜けてへにょへにょになっている。一度しげに空気を入れてもらったのだが、またすぐにへにょへにょになった。どうやらどこかに穴が空いてるらしいのだがどこかよく分らない。
 しげに「空気入れて」と頼むが、「あんたが乱暴に踏むからやん!」とまたまたニベもない。最近とみに険悪だなあ。
 しかたなくへにゃベッドに沈みこむが、すぐケツが床にぶつかる。そんでもって、カラダは両脇から押しつぶされているので、頗る寝ごこちが悪い。ふと、愛されてないんだなあ、と一人ごちる。泣きたくなる自分がつくづく馬鹿なのだよなあと思う。全く、自分で自分を落ちこませてどうするか。感覚の磨耗、と言うよりは、やはり疲れてるんだろう。


 世間の出来事についても「あ、そう」くらいの思いしかないので、たいして書くことがない。
 ノーベル化学賞を島津製作所の研究員・田中耕一氏ほか3人が受賞。昨日、小柴昌俊・東京大学名誉教授が物理学賞を受賞したのに続いて、2日連続、日本初のダブル受賞、日本人の受賞も3年連続と、いささかマスコミもはしゃいでいる様子。去年一昨年の受賞はそんなに騒がれなかったような気がするが、やっぱり「無名の技術屋さんが受賞した」と言う「物語」が日本人好みだったってことなんだろう。
 なんかこの騒ぎ、いつかどこかで見たなあ、とデジャブーを感じたのだが、毛利衛さんが宇宙飛行することになった時の熱狂ぶりに似てるのだ。田中さんのどこか「普通っぽい感じ」「庶民らしさ」がクローズアップされるあたりがそっくりだと思うんだがどうだろう。小柴氏と比較されるからなおのことその印象は強まるし、授賞発表に作業着で来たことも得点が高い(なんの特典だよ)。
 毛利さんフィーバーのころも向井千秋さんはやや置いてきぼりの印象があった。田中氏の受賞で小柴氏の受賞が霞んでしまってることを考えると、どうもこの騒ぎ、素直に喜べない。「庶民派」の標榜が、権威的なものを引き摺り下ろしたい、日本人の僻み根性の裏返しになってる点も確かだからだ。実際には田中氏の受賞理由の「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」なんて、庶民の研究とは思えないのだけれど。「新薬の開発やがんの早期発見に道を開いた」とのことだが、理系の人間でもない私には具体的なイメージはちっとも湧いて来ない。まだしも小柴氏のニュートリノの研究のほうがSFにやたら出てくるだけに身近に感じちゃうのだが(実際には無害なのに有害物質のように扱われたりしてるけどさ)、世間一般の感覚じゃ、ニュートリノのほうがわけわかんないんだろうなあ。
 今日になって、小柴氏が東大卒業した時の成績が「ビリ」だったとか(成績は悪かったらしいが、ホントはビリだと特定はできないらしい)、「庶民派」報道がヤラセっぽくされているのには苦笑する。
 人は、「常識」という物語に従って行動する。それは悪いことではないし、そうして生活するしかないのだが、他人を自分の物語のワクになんとか入れこもうという行為そのものは、たいていの場合、その対象となる人間にとっては迷惑なことこの上ない。称賛の形を取ってはいても、それは結局、緩やかな差別であり偏見なんである。言い返れば偏見と差別によってしか人は関係を持つことができないのだが(だから「差別をなくそう」という言質はかえって人間否定になっちゃうのである)、かと言って、それを露骨にやられるのはやはり醜悪だ。
 「田中さんってこんな人」なんて報道、別に私ゃ知りたいとも思わないのだが、日頃プライバシーにうるさいマスコミが、やたらと田中氏の日々の生活ぶりを提供しようとするのは、これまで「異界の住人」であった田中氏の存在を、咀嚼し「こちらの住人」にムリヤリ取りこもうとする作業でもある。今は受賞の喜びに浸っているであろう田中さんが、後々周囲の「思いこみ」や「決めつけ」でかえって研究がしにくくなるような事態にならなければいいのだが。


 外食する余裕がなくなってきたので、マルキョウでおかずを買いこんで、晩飯はおかかと高菜のお握り、いかゲソの唐揚げ。糖尿だからだいたいはこの程度の食事で充分なのである。いつもやっぱり食いすぎてるよなあ。 


 マンガ、北崎拓『なんてっ探偵アイドル』10巻(小学館/ヤングサンデーコミックス・530円)。
 表紙がアキラのウェディングドレスだったからてっきりこれで完結かと思ったらただのコスプレでした(^_^;)。10巻って、『たとえばこんなラブソング』に並んじゃったよ。人気あるのかこれ(買ってんじゃん、おまえ)。
 ああ、けど10巻記念サービスのつもりか、いつも以上に巨乳度高いぞ。担当は主に莉奈とゆかり。やたらとこの二人のチチに室戸警部や清春が顔を埋めるシーンが多いが、嬉しがる読者いるのか。ヤング誌のくせにオールヌードにならないし(そういう問題か?)。
 トリックもなあ、既にトリックと言えないくらいチャチっつーか、警察がそんなこと気がつかないわけないやん、てなレベルのものばかりだしなあ。
 「お見合いトラブル編」も「お料理対決編」もそうだが、あんな自分が犯人だとバレるような状況でわざわざ事件を起こす不自然さが全く説明されてない。通りすがりに見せかけるとか、相手が一人のときに殺して逃げるとか、そっちのほうが足がつかない可能性が高かろうに。
 だから、ミステリの本道はどうしたってアリバイ崩しになるんだけど、みんな密室とかそんな何パターンしか解決の仕方がないものに拘るからねえ。はっきり言っちゃえば、密室ネタは全てポーの『モルグ街の殺人事件』とルルゥの『黄色い部屋の謎』の変形でしかないのである。よっぽどブラフのうまい人じゃないと、密室モノに手を出しちゃいかんよ。横溝正史だって、『本陣殺人事件』以外の密室モノは『悪魔が来りて笛を吹く』はやっぱり『モルグ街』だし、『悪魔の降誕祭』は『黄色い部屋』だ。
 ヘボミステリーはたいていここがダメなので、「館」ものや「島」もの(限定された場所に人が呼び寄せられるパターンね)の大半が失敗作になっちゃうのはこの点に原因がある。クリスティーの『そして誰もいなくなった』が傑作なのは、犯人も××××××からで、それ考えると、ミステリの秀作を書くことがどれだけ難しいかはわかろうと言うものだ。
 館モノの一番合理的な解決は、実は一番安易な「隠し部屋の中に犯人が潜んでる」ってことになっちゃうので、ミステリをよく知らない人間はあまり手を出さないほうがいいのだ。
 まあ、『なん探』読んで感心したり、トリックや犯人の見当がつかない人は(トリックがへボすぎてかえってわからなかったという人を除く)、間違っても自分のことをミステリファンだなどと呼称しないほうがよろしい。
 ……だったら買うなよ、オレ。やっぱりチチに惹かれてるのか?(でも好みはアキラなんだけどなあ)


 マンガ、江口寿史監修『青少年のための江口寿史入門』(角川書店・1050円)。
 二日続けてえぐちを読む。また楽しからずや(^o^)。って、彼の新作が同時に読めるなんて、20世紀、21世紀を通じて初めてじゃないか。
 と言っても実は中身は再録が殆どで初単行本化はちょっとだけなんだけどね。
 やっぱり『怪獣王国』は何度読んでも面白く、我々の世代にビンビンと来る。「放射能怪獣コチラは、鉛怪獣アチラに弱い!」別に敵が鉛だからって勝てるとは限らんと思うが、このヘンのいい加減さが既に怪獣ものの秀逸なパロディになってるのである。もちろん、コチラのデザインはゴジラもどきでアチラはアンギラスなのだが、これがまたアチラが勝っちゃうんだよな。やっぱりゴジラよりアンギラスファンって、結構多いんじゃないか。全く、どうして『GMK』は(以下略)。
 新作の『岡本綾』は、映画『飛ぶ夢をしばらく見ない』に取材しているが、短いページの中で、若返って行く老女を見つめる家族の温かいまなざしを切なくさりげなく描き出した佳作。婆ちゃんがトシ取ってる時も若返った時も、ずっとボケたまま、というのが秀逸だ。我々は世界の変化をただ静かに見つめて行くしかない。その孤独が、しかし孤独ゆえにそこに「繋がり」を見出す冷たくかつ優しい視線がリアルなのである。
 江口作品のギャグとシリアスの両極を見ることができる点で、これはまさに入門書だ。でも、出口はどこなんだろね(^o^)。

 江口寿史の「弱さ」というのはやはりコマ割りが70年代でストップしちゃってるからではないかと思う。と言っても、あれだけ尊敬を表明してる手塚治虫の影響は少なく、ちばてつやの『あしたのジョー』の初期あたりか。ともかく斬新さを全く狙わず、四角四面でコマ間も広く、単調なのである。作品によってはそのコマ割りを崩した方が効果が上がると思われるのに、あえてそれをしない。
 シリアスものになるとこれは特に顕著で、『くさいはなし』も『岡本綾』も、秀作ではあるのだけれど、あと数ページあれば、もっと味わいが出たろうになあ、と惜しく思う。
 でも、おそらく江口寿史は、「コマの進化」ということをあまり信じてはいないのだ。戦前の田河水泡の『のらくろ』のような舞台の書割り的なコマ割りが、宍戸左行の『スピード太郎』を経て、手塚治虫の『新宝島』に結実していく過程を、一般的にはコマの複雑化と、映画化ととらえるのだけれど、更なる進化を試みた石森章太郎をおそらく江口寿史は「流行に乗ったモノ」としか見ていないのではないか(ファンであるとは思うけど)。それは比較的コマに工夫のある『恋はガッツで』をあとがきで「今見ると古い」と自分で言っていることからもわかる。
 流行の追随はヘタな模倣にしかならない。それはわかるのだが、江口寿史の停滞はは、結局、彼の作品を古くしていっているように思う。結果が同じなら、もっと「実験」してみてもいいのではないか。……とかなんとか言ってると江口さん描かなくなるんだよなあ。ホントに、こういう人はそっとしておいてあげるしかないんだろうか。

2001年10月09日(火) 探偵小説ネタ多し。ついて来れる方、求む/『死神探偵と憂鬱温泉』(斎藤岬)ほか
2000年10月09日(月) 女って癒してもらう対象ではないよな/『鉄槌!』(いしかわじゅん)ほか



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