無責任賛歌
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
| 2005年08月31日(水) |
がんばれサイバラさん/『8MAN infinity(エイトマン・インフィニティ)』number.1,2(七月鏡一・鷹氏隆之) |
今日も晩飯は「東那珂食堂」で。 私はすき焼き、唐揚げ、豆腐に野菜天。しげはまたサバの味噌煮を取ってきて、身が毟れずに私に余りを寄越す。余りと言っても半分も身が取れていないので、残飯処理じゃなくて半分分けにしたようなものだ。 私が骨ごと全部食べるのを見て、しげは「喉に刺さらんと?」とコワゴワ聞いてくる。 「刺さらないように食うんだよ」 「刺さるよ絶対」 「細かく噛み潰せばいいの」 「噛み潰せんよ。歯と歯の間にハサカルよ」 「お前は赤ちゃんか。噛み方も分からんか」 「だって子供のころは、身を全部取ってもらってたから」 ……箸の使い方はやっぱり子供にはきちんと教えとくべきだよなあ。
帰宅して水曜のお楽しみ『愛のエプロン』。 今日はメニューがスパゲティーミートソースにマカロニグラタンとごく普通だったので、概ねみなさん「食べられるもの」を作る。 いつも思うことだが、青木さやかが「意外に(失礼)」料理が美味いのは、結構「売り」だと思うのである。わざと「ヨゴレ」を演じてるけど、うまく使えばこの人もいい女優になれると思う。 瀬川瑛子に西村知美は順当に及第点、安めぐみと松原のぶえがどうしてスパゲティで失敗するかなってくらいに激マズであったようだが、松原のぶえ、貶されてマジ泣きするのはどうかと思うな。「小麦粉と片栗粉を間違える」という、しげ並の失敗をやらかしているのである。主婦やってたことがあるとは信じられんよ。 逆に安めぐみのように、「スパゲティを湯がかずに出す」(当然ナマである)くらい天然だと、かえって諦めがつくかもしれない。もちろん私はしげの料理はとうの昔に諦めているのである。
さてまあ、前々からウワサだけはされていた『テニスの王子様』が実写映画化である。 連載マンガやアニメは最初の何話か見ただけで飽きちゃったので、映画館まで足を運ぶかどうかは分からないのだけれども、テニスシーンとかは『ピンポン』みたいにCGで表現するんだろうなあ。ストーリーはともかく、そこんところはどんな出来にるものか、見てみたい。テレビの『エースをねらえ!』みたいに、昔ながらのカット割りでの誤魔化しで見せるだけだったら、わざわざ映画にする必要はないんである。監督が誰になるのか知らないのだけれども、その点をちゃんと「分かってる」人にやってもらいたいものだ。 ただ、不安材料はほかにいっぱいあって、『テニプリ』の場合はテニスシーンよりも、逆に日常のシーンの方が実写化は難しいんじゃないかという気もしてしまう。ともかくフツーの人間が日常で使うセリフなんて、一切出てこないもんな。ハッタリかましたセリフを生身の人間がそれらしく演じるためには、もう全編「ギャグ」になってしまうくらいの勢いが必要になるんだが、そういう仕立てにしちゃうと今度は『テニプリ』ファンが怒って一斉蜂起しちゃうだろうし。 どっちかっつーと、映画の出来よりも、その周辺のファンの狂いっぷりを見てた方が面白いかもね。でも腐女子が騒げば騒ぐほど、一般観客の足が遠のくことは『鋼の錬金術師』の興行収入の落ち込み具合でも立証されていることだ。『テニプリ』ファンのみなさん、あまりキャストがどうの監督がどうので熱くなり過ぎないようにしようね。 まあ、一昔前ならば「お笑い」にしかならなかったスポーツマンガの実写化が一応の成功を見せるようになってきたことは、映画の可能性が広がったという意味で喜ばしいことかなとは思う。案外、CGの一番のご利益ってそれかな、とか思ったりもする。
しかし、去年もいろいろあったけど、今、マンガやアニメの実写化で公開を控えてるのってどれだけあるんだ? 『魁!クロマティ高校』(福岡じゃまだなのよ)に『NANA』や『頭文字D』はもうじきだし、あとは『三丁目の夕日』や『ハチミツとクローバー』と続く。『ミラーマン』もどうやらデザイン的にはマンガ版の方をベースにするみたいだから、一応、中に含むか。 こういうラインナップを見ていると、同じマンガと言っても客層が見事にバラバラであることがよく分かる。これを全部見に行ってたら、逆に「どういう趣味?」とか言われそうだ。 私を知る人などは多分『NANA』まで見に行くつもりなのか!? と驚く人もいるかもしれないが、あれはまず間違いなくヒットする。しかもそのファン層の中心になっているのは腐女子ではなく、下手をすればマンガファンですらない。「普段はマンガを読まない女の子たち」ですら『NANA』だけは読んでいるという現象があるのだ。 ドラマそのものを面白く見られるかどうかは分からないけれども、それがなぜヒットしたかって現象の原因を分析することはできる。映画の面白さは、ドラマ部分よりも映画がその時代をどう象徴しているのかってことに現れている場合もあるのね。 『NANA』はマンガファンの枠を越えてヒットしている。同時公開の『仮面ライダー響鬼』はまず立ち打ちできまい。オタク人気が異様に高い『響鬼』だけれども、『響鬼』に見向きもしない層が『NANA』を見ている。二つの映画は全く違うけれども、「どう違うのか」ということは見てみないことには語りようがないんでね。 だから間違っても「宮崎あおいが目当てで見に行きたいんだろう」なんて突っ込んじゃいけないのである(笑)。
西原理恵子さんの『毎日かあさん』を巡ってのトラブルがちっとばかし大きくなっている。『毎日かあさん2 お入学編』を御読みになった方なら、その「トラブル」の原因が何であるかは先刻ご承知であろう。 簡単に言ってしまえば、西原さんがマンガの中に自分の息子の通う小学校の様子をセキララに描いているのが、コトナカレな武蔵野市にとっては甚だ都合が悪かった。で、西原さんに「学校を作品の舞台にしないでほしい」と申し入れ、西原さんとしては当然、そんなん、表現の自由の侵害やないか、ということで、諍いが起きているのである。 何が問題になったかって言うと、父兄参観の日に「クラスの五大バカ(注・西原さんちの息子含む)は机にきちんと座る以外は何でもする」と、その傍若無人ぶりを描いてるあたり。読売新聞はエラくて、当該のコマをちゃんと紹介しているが、それを見れば一目瞭然、要するに学校側としては「学級崩壊」の様子を世間にバラされちゃったのがむちゃくちゃ都合が悪かったってわけだ。 この件について詳述し出したら、それだけで原稿用紙100枚は突破しかねないので、もうヒトコトで意見をまとめてしまうが、「この程度のことでオタつくんだったら学校経営なんてやめちまえボケ」である。非は全面的に学校の側にあり、西原さんはちっとも悪くない。苫小牧高校の件と同じでね、不祥事は隠しとこうって「隠蔽体質」が染みついているからこんな対応をするわけであってね、「描かれて困るような教育をしている方が悪い」に決まっているではないか。 もうなんかね、学校とかPTAのね、言葉だけは「子供の人権」を守るとか言ってるけどね、内実はこんなバカ学校なんだと後ろ指刺されるのがイヤだって思ってるだけなのがモロ見えでね。教育者としてそんな姑息な手段に出ることが恥ずかしくないのかって本気で思うね。 だからこの小学校の何が大バカかって、西原さんに文句つけた時点で、このマンガに描かれていることが紛れもない「事実」であることを世間様に証明しちゃった点なんである。せっかく西原さんが「あくまでフィクションです」って言ってくれてるのに。 ここで重要になるのは、西原さんの息子が「たまたま」通った学校がこういうどうしようもない対応しかできてないというその「偶然性」である。では、もしもほかの学校であったら、この程度のことをマンガに描かれたからといって、笑って鷹揚に構えるくらいの度量を見せられたであろうか。私にはそうは思えない。恐らくは、日本全国津々浦々、殆どの学校はやはり「マンガに描かないでくれ」と懇願するか恫喝するような、低レベルな対応しかできない愚劣な教師ばかりが幅を利かせているのだろう。即ち、「学級崩壊を起こしていない学校の方が少ない」ということなのである。 こんな小学校に子供を預けていたら子供がもっと馬鹿になってもおかしくない。定めし来年からは入学する生徒が激減するであろう……と予測したいところだが、学校にとってはありがたいことに、どんなに不祥事が起きても、少子化以外の要因で生徒の数が減ることはまずありえない。たいていの親は交通費とかカネの関係で子供を近場の学校にしかやらない。学区制を越えて子供を名門校に入れるなんてムダなことはしないんだよね。 だから、まさしくこの学校は自分たちの「面子」を守るとか、「見栄」のためだけに西原さんを押し込めようとしていると断定して差し支えないのである。こうしてニュースになったことで、武蔵野市の教育委員会にも「教育者が言論弾圧してどうするんだアホンダラ」という苦情が殺到することと思うが、できればそこで武蔵野市も自分たちのバカさ加減に気が付いて、振り上げた剣を鞘に収めてほしいものである。まかり間違って市当局が西原さんを訴えるなんて事態になったら、私ゃ「西原さんを守る会」を発足させて全国に呼びかけるぞ。署名集めちゃうぞ。 私は政治運動ってやつはいっかな好きになれないが、こんな公権力をタテにしてマンガを弾圧しようなんて動きには本気で腹が立つんで、もし本当に「運動」することにでもなったら、お知り合いの方々、数少ない読者の皆様方、ご協力お願いいたします(もちろん強制ではありません)。
西原さん関係で思い出したけど、下村嬢が先日西原さんのサイン会に行って、ヘルメットにセッ○ス鳥の絵を描いてもらったのを写メールで頂いたのであった。御礼が遅れて申し訳ない。眼福でした。
マンガ、七月鏡一原作・鷹氏隆之漫画『8マン・インフィニティ』number.1,2(講談社)。 平井和正・桑田二郎の『8マン』の「正統な」続編。っっても、原作マンガを「ちゃんと読んでる」世代って、我々くらいのものなんだが、若い読者は付いて来れてるんだろうか。逆に読んでいる世代は、その設定のあまりの変化にちょっと付いていけないものを感じる部分もあるかもしれない。以前のアニメ版『8マンAFTER』との関係はどうなってるんだとかの問題もあるし。 何分、物語がかなり複雑になっている上に謎も多々あるので筋を紹介しにくいのだが、舞台は8マン=東八郎(あずま・はちろう)が失踪してから数十年の時を経たメガロポリス・東京。8マンはかつてのボディーを失い、電脳世界にその「魂」だけが存在している。そして彼は「∞(インフィニティ)」のボディーを受け継ぐ「新しき者」=「8マン・ネオ」となるべき人物を探していた。そして8マンの使者たるマシナリー(電脳の進化の果てに生命となった存在)の少女・アンナ・ヴァレリーを救おうとして命を落とした16歳の少年、東光一(ひがし・こういち)に、新たな命が与えられた……。 『8マン』からの継続出演キャラクターは、今のところ(回想シーンを除けば)、8マン本人、田中課長(退職して自転車屋になっている)、それに谷博士らしき「ヴァレリー」なる謎の人物。今回はこの「ヴァレリー」が組織した「ジェネシス」及び下部組織である「ハンター機関」が、8マンを追う「敵」として現れている。かつての師弟が敵味方に分かれたのか? と思わせるような設定だが、まだ真相は隠されたままだ。 与えられた力をどう扱ってよいか分からない光一をサポートするアンナが、未だ人間の感情を知らないマシナリーであるというのは、よくある設定ではあるが物語を牽引して行く要素としては充分に機能している。キャラデザインは何かありがちでホシノ・ルリっぽいけどね。 ほかに、サービスのつもりではあろうが、平井和正・桑田二郎の別作品からキャラクターや設定を持ち込んできているのは、嬉しいような安易なような、微妙な印象である。 「8マン」と「超犬リープ」がコンビを組むなんて、こんな嬉しいことはない、と言いたいところであるが、そうなるとイメージが『新造人間キャシャーン』のキャシャーン&フレンダーに近くなっちゃうのね。リープには当然言語を理解する能力があって、自分たちを改造した人間を憎んでいるという点でちょっと工夫はあるんだけど。ほかにも『エリート』『デスハンター』『幻魔大戦』などからキャラクターがちょくちょく流入。しかし林石隆は息の長いキャラクターだ。リアル林は今いったいおいくつだろうか。 「ジェネシス」が開発した「マシナリー」が、8マンも含めて9体あるというのも。今回新たに付け加えられた設定である。その4体目・林芳蘭はもちろん美少女キャラであるわけだが、「4th」に変身したときのスタイルがまたプラグスーツっぽいのは「萌えてください」ということなんだろうか。まあ、人間体のときよりこっちの方がずっと魅力的なんだけれどもね。 個人的には『8マン』にはあまり萌え要素を持ち込んでほしくはないんだけど、まあオリジナル版でもサチ子さんにセクシャルなものを感じてた手合いはいたようだし、現代に『8マン』を蘇らせようとしたら、どうしてもこうなっちゃうのかね。 作画が今ひとつデッサン不足な上に垢抜けてないのが魅力を減殺してしまっているが(ある意味、『8マン』としては致命的なのだが)、デーモン博士はまだ生きているのかとか、オリジナル版を愛していた身としては、どうしても「続編」は気になってしまうのである。「映画版」のようにあっという間にポシャるようなことにならないでほしいものだと、これは切に願うものなのである。潰れるなよ『マガジンZ』。
2004年08月31日(火) 夢語りは現実語り 2003年08月31日(日) 充実の休日。シャレかい/映画『乱れからくり』/『チキンパーティー』1巻(金田一蓮十郎)/『よつばと!』1巻(あずまきよひこ)ほか 2001年08月31日(金) おたくはセールス電話、おおくありませんか?/DVD『スペースカウボーイ 特別編』ほか 2000年08月31日(木) 耳掻きしてたら血が出た……/『心理試験』(江戸川乱歩)ほか
| 2005年08月30日(火) |
帰りなん、いざふるさとへ/映画『地球の危機』 |
こないだから父と相談していたことなのだが、今度の正月、家族三人で台湾に旅行しないかという話がまとまりかけていた。台湾は母の故郷である。 最近、父から聞いた話なのだが、母は生前、台湾人のお客さんを案内人に、私たちと台湾旅行を計画していたそうなのである。 まあ「台湾に行こう」という話はことあるごとにしょっちゅう出ていたので(たいていはスケジュールが合わずに頓挫する)、そういうこともあったんだろうなあと思いはするが、最近になって父が熱心に話を進め始めたのは、寄る年波で今決行しないと、そろそろ体が動かなくなるんじゃないかという不安が生じ始めているからだろう。 そういうわけで、先日から頻繁に「パスポートを取れ」とせっつかれていた。全くせっかちなジイサンだと少しばかり閉口していたのだが、今日、いきなり電話がかかってきて、何だか消沈した声で「もう取らんでいいぞ」といきなり正反対のことを言い出した。 「どうしたん?」 こないだまであれだけ熱心だったのだから、私が疑問を抱いて思わずそう口にしたのも当然のことだと思っていただきたい。それに対する父の答えはこうである。 「正月は運賃が高い」 何か脱力しちゃったけど、それなら時期をずらせばいいだけのこっちゃないのかな。二月、三月なら安くなるだろうに。
もののついでのように「メシまだならどこかで食べんや?」と誘われる。何だか父も元気がないようなので、誘いに乗ってダイヤモンドシティの居酒屋で焼き鳥など。 しげと私、二人揃って『シベ超』のTシャツを着て行ったので、「何やそれ」と笑われる。『シベ超5』の映画を見に行って水野晴郎さんからサインを貰ったことや、「万里の長城ジェットコースター」の話をすると、またまた笑われてしまう。別に笑わなくてもいいと思うが。 「なんでそんな映画作るんかなあ」 「まあ、ちょっとヘンなひとだからね」 「お前、水野さんと何か話ばしたとや」 「本人を前に『ヘンな映画でした』なんて言えんよ。『もっと映画作ってください』って言ったよ」 本当はもうかなりなお年であるし、ちょっとボケちゃってるところもあると思うのだが、それを言い出すと父もたいして年は違わないので気を悪くするかもなあと思って控えた。
そのあと、父もダイヤモンドシティに来るのは久しぶりだと言うので、しばらく中を見て歩く。「新しい靴がほしい」と言うので、靴屋を覗いているとき、尿意を催した。 「三分で戻ってくるからちょっと待ってて」と言って、父も「おう」と返事をしてくれたので、安心して戻ってきてみると、件の靴屋には父としげの影も形もない。 慌てて携帯で連絡を取ると、「ジャスコにいるよ」。 せっかちが二人揃っていると、三分も待っていてくれないのである。 父の靴を買って、「フタバ図書」で映画『リンダリンダリンダ』のサントラCDを買って帰る。
父をマンションまで送った別れ際に、「セブンイレブン」でシールを集めて手に入れた「スヌーピーの絵皿」&「スープ皿」を渡す。 父のマンションの前にもセブンイレブンはあるので、このキャンペーンのことは知っていて、「よく集めたなあ」と感心していたが、しげが自分では全然料理を作らずにコンビニ弁当ばかり食っているので、よく集めたどころかウチには絵皿、スープ皿それぞれ六枚ずつあることはさすがに言えなかったのである。 こんなんでしげがダイエットできるわきゃないんだよな。 しげ、帰りの車の中で、「今日の父ちゃんどうしちゃったのかな」と、元気のない父を随分心配する。 「意地っ張りなとこがなくなってきたなあ。けどそれはオレたちにであって、姉ちゃんに対してはまだかなり頑固だと思うよ」 今日も、今の店を潰して事務所に貸そうかとか言っているのである。 姉の仕事ぶりにも不満があるようで、しきりと「いい加減な仕事ばかりしようけんなあ」とため息をついているのだが、父の目から見ればどんな仕事だって手抜きに見えるだろう。姉が「お客さんに声をかけられても挨拶もしない」と言っているのはどこまで本当なのか。 でも、「叱っても誉めはしない」というのが昔の職人というものなのだから、姉にも父の愚痴にもちっとだけ堪えてほしいとは思う。これ以上、姉が床屋としての腕を上げることが至難であることは承知の上でそう思う。私は姉から店を取り上げるつもりがないことを伝えているのだから。
帰宅したらちょうど「24時間テレビ」で丸山弁護士の100キロマラソンの特番が放映されていた。24時間テレビを見るたびに「結局、日本人てのはこういう『ハレ』の舞台を用意してやらなきゃ他人のことなんて考えられない民族なんだなあ」と悲しくなってしまうので、あまり熱心には見ない。 けれどもさすがに今回の丸山さんの走りにはいやでも注目させられてしまった。なんでこの人が、60も間近になって走らなければならないのか、理由が見えない。理由が分からないのだけれども、やはり満身創痍の丸山さんが完走して武道館のテープを切ったとき、私は涙ぐんでしまっていたのである。この涙は何の涙か。私は何に感動してしまっていると言うのか。 間寛平に始まって、もう十年以上続いているこの100キロマラソンであるが、実のところこれがどうして募金に繋がるのか、意味は不明である。毎回のランナーはただ苦しい思いをして走っているだけである。それが感動を呼ぶのは、やっぱり「走る」という行為そのものに、「意味はなくとも感動してしまう何か」があると判断するしかないのではなかろうか。 『うる星やつら4 ラム・ザ・フォーエバー』で、あたるは世界を変えるために「意味もなく」走った。『オトナ帝国の野望』で、しんちゃんは町を救えるのかどうか分からないままにタワーを駆け上った。全て、「意味なんてない」のである。 「無償の愛」ってのはつまりは「理屈なんてどうだっていい、ともかくオレは(私は)こいつを助けたいんだ」という気にさせたくなるということなんだろう。 亡母が昔言っていた台詞も思い出した。 「辛いことがあったら走れ」 意味なく走ることが、意味なく生まれた人間の生き方としては一番正しいのかもしれない。
WOWOWで録画した映画『地球の危機』。 タイトルはありふれているけれども、パニック映画で知られたアーウィン・アレン製作の往年の特撮テレビシリーズ『原子力潜水艦シービュー号』の元になったのがこの映画。映画版もテレビ版も、原タイトルは『Voyage to the Bottom of the Sea』。直訳すれば「海の底への航海」となるところだけれど、これはぜひ「深海探検」と訳してほしかったものだ。『海底二万哩』のジュール・ヴェルヌへのオマージュがこれだけ明白な映画なんだから(映画中にもヴェルヌへの言及がある)。まあ、一昔前のSF映画なんて、こんな安っぽい味方しかされちゃいなかったんだよな。 テレビシリーズは四十以上の特撮オタクには有名な番組だけれども、これももう再放送すら見てない若い人の方が圧倒的に多くなっちゃったから、一応の説明が必要になってしまっている。海洋調査研究所のネルソン提督が建設した原潜シービュー号とそのクルーが、世界の危機を聞きつけると公海であろうとなかろうとどこへでも出向いて行って事件を無理やり解決してしまうという、海版『サンダーバード』みたいな番組。さすがに40年前となると、私もディテールは覚えてない。映画版も確かテレビで見たはずだが、もう全然忘れちまってた。
流星雨の影響で、突如燃え始めたヴァン・アレン帯。地球は一日に1.1度ずつ上昇を始める。79度を越えた時、地球は灼熱の星と化してしまうのだ。急遽招集された国際会議で、ズッコ博士は自然消火するから放置すべきだと主張する。 ネルソン提督は、核ミサイルでヴァン・アレン帯自体を破壊しないと、この現象は収まらないと反論し、大統領の承認も得ないまま、作戦を決行するために、シービュー号をマイアミに向かわせる。 しかし、肝心のシービュー号のクルーも決して一枚岩でなく、世界の滅亡が刻一刻と近づく中、ついに反乱分子がシービュー号の破壊工作を始めるのだった……。
とまあ、粗筋だけを書くと何だか凄くシリアスな映画っぽいけれども、ムカシのSFは(今も一部はそうだが)ともかく演出過剰で、深海に機雷原はあるわ大イカは出てくるわ大ダコは出てくるわのサービスサービスで、あっという間にB級SFの匂いがプンプンと漂ってくるのであった。 そもそも、流星雨なんてしょっちゅう地球に降り注いでいるものだが、その程度のことで地球が滅亡の危機に立たされるんじゃあ、地球も溜まったものじゃない。 しかも、この灼熱のせいで、北極の氷が割れて海に落ちるのだが、その氷が海の底に沈んでいくのである! ……SFじゃねえよ、こんなもん。この映画のノベライズはシオドア・スタージョンが担当しているのだが、こんなシーンがあったんだろうか? ほかにもなんじゃこりゃってなシーンはいくらでもあるのだが、まあSFがマトモな映画ファンに相手にされるようになるには、ほんのもう少しあと、『ミクロの決死圏』やら『猿の惑星』やら『2001年宇宙の旅』が出るのを待たねばならないのである。
2004年08月30日(月) 『華氏911』の真価 2003年08月30日(土) ネットではみんな「役者」だ/DVD『恋人よ帰れ!わが胸に』/映画『ゲロッパ!』 2001年08月30日(木) 性教育マンガ(* ̄∇ ̄*)/『フリクリ』2巻(GAINAX・ウエダハジメ)ほか 2000年08月30日(水) ○○につける薬がほしい……/映画『蝶々失踪事件』ほか
| 2005年08月29日(月) |
これが多分最後の高峰秀子インタビュー/『COMIC新現実』vol.6(大塚英志プロデュース) |
綾辻行人原作・佐々木倫子作画『月館の殺人』にすっかりハマッてしまったしげ、第2部が掲載されている『月刊IKKI』10月号を買いたいと言うので、博多駅の「GAMERS」で待ち合わせ。 マンガ雑誌は買い始めたらキリがないので、できるだけ買わないようにしている。週刊誌なんか、すぐに山と溜まっちゃうし。それでもちょっと珍しい雑誌が創刊されるとつい手に取って衝動買いしてしまうのだが、これがもう実に簡単に潰れるのだね。文字通りの「三号雑誌」。ここ何年かでも、『スパロボ大戦コミック』とか『ドラゴンHG』とか『トラマガ』とか『伝説マガジン』とか『手塚治虫マガジン』とか、タイトル聞いただけで(笑)が出るよねえ。もちろん、最初から続きそうにないと覚悟して買ってはいるんだけれど、本当に続かないのはやっぱり悲しい。連載が尻切れトンボのまま、どこかに行っちゃうのは特にね。伊藤伸平『楽勝!ハイパードール』、もう私が生きているうちに続きは読めないかもしれない(涙)。 『IKKI』も連載のラインナップを見るとすごく厳しそうなのである。『月館』が看板で、それに吉崎せいむ『金魚屋古書店』や鬼頭莫宏『ぼくらの』あたりが二番手というのはそりゃあもうオタクしか読まねえよというラインナップだ。私もしげも大好きなマンガなんだが、一般受けはしないやなあ。せめて、『月館』が完結するまでは続いてほしいものなんだけれど、ギリギリって感じかなあ。
で、その『月館の殺人』の第7回なのだけれど、上巻で謎だった部分がかなり解明されてはいるが、やっぱり佐々木さんの絵柄だとまだまだ裏があるように思えて、なかなか納得ができないのである。 何が凄いって、殺人事件が起きたにもかかわらず鉄道アイテムに狂喜するテッちゃん連中が少しもエゴイストに見えないのだ。ヒロインの空海が避難しても、その非難の方がおとぼけに見えてしまうのである。 いや、そもそも起きている殺人事件自体かウソっぽくて仕方がない。今回、またまた殺人事件が起きるのだが、多分、読者の大半が「こいつら、絶対死んでないよな」と思っているのではなかろうか。だから逆に、「本当に被害者が死んでいた(ヘンな日本語だが仕方がない)」という結末になったとしたら、そちらの方が凄い逆転どんでん返しの意外なトリックになるかもしれない。 でもそんなミステリー的な面白さなんかどうでもいい気分にさせてしまうのが、佐々木マンガの真骨頂なので、今回も「どのへんに龍を感じたんだろう」とかの描き文字セリフに笑っていればいいと思うのである。
近所に「東那珂食堂」という店が新しくオープンしていたので、夕食はそこで。 例の馬鹿高値な開店寿司屋の「大河ずし」のチェーン店なのだが、こちらはおかずを安く提供するセルフサービスの店。 ご飯、とろろ、豚肉の卵とじ、サーモンの刺身、イカ天、コロッケ、これだけ取ってきてちょうど千円。まあ、良心的な値段である。 しげは、できたての玉子焼きに、やっぱりサーモンの刺身、サバの味噌煮を取ってきたが、身をうまく毟れずに、殆ど半分以上を残してしまっていた。「あとあげる」と言うので遠慮なく貰う。本当は私に毟って食べさせてもらいたかったのかもしれないが、そういうコスイ策略には乗ってやらないのである。 以前、3号バイパス沿いに「めしや」という店があったのだが、ここはそこと同じセルフサービスでおかずを選べる方式だった。客は好きなだけおかずが取れるから便利なように見えるが、人気のないメニューはかなり残飯になってしまう。コストの面ではちょっと厳しいのがシロウト目にも分かり、案の定、「めしや」も数年で潰れた。こういう形式は私は好きなので、潰れないでほしいんだけどねえ。
帰宅して、『ブラック・ジャック』『名探偵コナン』の流れで『キスイヤ!』まで見ていたら、しげが突然「マクドナルド行きたい!」と叫んだ。 もう晩飯は食っているので、またハンバーガーを押し込むのは食いすぎではあるのだが、こういう「いきなり」はいつものしげの情緒不安定である。食わなきゃ心が落ち着かないのである。 自分で自分を落ち着かせる力がないのだから、これは食わせてやるしか仕方がないのだ。閉店まであと一時間しかなかったので、すっ飛んで近所のマクドナルドへ。 しげはお目当ての目玉焼き入りの何とかいうバーガーをチーズ抜きにしてもらって食べた。これで満足かと思ったら、まだ幾分心が満たされていない様子である。私が無口で相手をしてやらないでいるせいだろうが、こっちも丈夫なカラダじゃないんだから、平日からそうそう体力は使ってられないのである。夜中に一緒に外に出かけるだけで付き合いとしては充分なのだと思ってもらいたい。思ってもらわなければ困る。
大塚英志プロデュース『COMIC新現実』vol.6(角川書店)。 吾妻ひでおの現在を追いかけるのが半分以上の目的で買い続けてたのが、予定通り全六感で完結。最後の特集はあすなひろしだ。初期作品に加え、なんと未発表の遺稿『山頭火』の絵コンテを紹介している。一部ペンすら入っているその絵は、流麗さで知られたあすな氏のまさに円熟した美しさをた漂わせており、マンガ界は本当に屈指の逸材をなくしてしまったのだと痛感してしまう。 『新現実』は、忘れ去られようとしているマンガ家、忘れ去られかけているマンガの歴史を積極的に取り上げた。口では「マンガファン」を名乗りながら、かがみ♫あきらやあすなひろしの名も絵も知らぬような馬鹿が(若いやつらならばともかく、四十代でもそうだ!)蔓延している現在、『新現実』はよく頑張ったと思う。また、すぐに歴史の彼方に消えてしまうだろうが。 吾妻ひでおの『うつうつひでお日記』は次回以降、『コンプエース』に移籍するそうである。多分、そっちまでは買わないだろうな。相変わらずSFやマンガの批評は寸鉄人を刺す鋭さで舌を巻く。失踪したり自殺未遂したりしないでマンガ描いてほしい。切に。 『デスノート』について吾妻さんが、「心理劇として面白い。小畑の絵はうまいが一ノ関圭のような自在さはない」と語っている。かなりマンガを読みこんでいる人でないと、このセリフはとても理解できないだろう。一見、小畑健を貶しているように見えるが、少なくとも「天才・一ノ関圭と比較しうるマンガ家」と評価しているのである。小畑さんは吾妻さんのこの批評を真剣に受け止めて、マンガ家として精進すべきだ。しなければならない。これはそれくらい貴重な言葉なのである。
『キネマ旬報』9月上旬号。 表紙の「高峰秀子独占インタビュー」の文字に驚いた。 マジで心臓がバクバク音を立てて、気が遠くなるかと思った。映画界から完全に引退したあの高峰秀子である。成瀬巳喜男、木下恵介など日本映画を代表する名匠と組んで数々の名作を残してきたにもかかわらず、両監督亡きあと、あっさりと引退してしまった、あの高峰秀子である。 日本映画は高峰秀子に見切りを付けられてしまった。今は全ての取材を一切断って隠棲しているはずの彼女がどうして取材に応じたのか。 「仕掛人」は、『高峰秀子の捨てられない荷物』の著者で、高峰秀子を唯一「かあちゃん」と呼ぶことのできる「家族」の斎藤明美さんであった。彼女もまた、初めは世間の取材構成から高峰秀子を守る立場にいた。しかし、成瀬巳喜男の生誕百年に際して、あまりにも高峰秀子の存在が軽んじられていることに憤った。そして嫌がる高峰秀子をくどきかつ恫喝して、恐らくはこれが本当に最後になるだろう、インタビューの約束を取り付けたのである。 高峰秀子の口調は簡潔で一切の無駄がない。短い言葉は時として冷徹にすら聞こえ、誤解を生むこともあろう。しかしそんな誤解を少しも彼女は恐れていないのだ。どうでもいいと思っているのだ。 「ああ、成瀬さん死んだか。じゃ、私もこれで女優おしまい」 聞きようによっては、成瀬監督が亡くなったおかげで嫌だった女優をやめられると喜んでいるようにすら取れる言葉である。もちろんそんなことはなくて、成瀬監督がいたからこそ、高峰秀子は女優を続けてきたのだ。 病床の成瀬監督が、高峰秀子に「あれも撮らなくちゃね」と言い残して死んだ。「あれ」とは、成瀬監督が撮りたがっていた、「白バックの映画」である。役者の演技だけを見せるための映画だ。その主演に高峰秀子を使いたがっていたのだ。 こういう監督と出会っていて、それでその監督ともう二度と出会えなくなれば、「女優おしまい」にもなるだろう。それ以上、高峯秀子の心理を詮索する必要はない。 高峰秀子は森雅之が映画界から離れて行った理由についても語る。『浮雲』は高峰秀子の代表作として、日本(いや、世界でも)映画史上に残る名作の一つとしても高い評価を受けた。しかし、森雅之には殆ど何の賞ももたらさなかったのだ。成瀬監督も高峰秀子も、森雅之がいたからこそ『浮雲』は成功していたと確信していたのに。 森雅之は映画出演を減らして行き、舞台に移って行く。そういう役者が多いことが、日本映画界の役者に対する扱い方のいい加減さを証明していると思う。
斎藤さんが、「高峰秀子に語らせたい」と思った気持ち、悔しさは、切ないくらいに伝わってくる。しかし、斎藤さんの悔しさを受け止められる人間がこの現代にどれだけいるだろうか。 現代人はかつて日本を築き上げてきた人々に対する敬意も愛情も全て失ってしまっている。そんな現代に高峰秀子が自ら関わっていくことなどありえないではないか。高峰秀子に「(日本映画史に)興味ない」などと言わせるようにしてしまったのはどこの誰か。 「映画ファン」と名乗りながら、日に一本の映画も見ない、「あなたたち」である。
2004年08月29日(日) なんか居たたまれない一日でした。 2003年08月29日(金) 戦慄の3時間/舞台『放浪記』/『新暗行御史』第六巻(尹仁完原作・梁慶一) 2001年08月29日(水) 腹立ち日記/映画『お笑い三人組』ほか 2000年08月29日(火) 後始末は大変そうだな/『ルパン三世総集編』第6集ほか
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
☆劇団メンバー日記リンク☆
藤原敬之(ふじわら・けいし)
|