無責任賛歌
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| 2005年05月26日(木) |
チェーン店も消える/映画『バタフライ・エフェクト』 |
2、3ヶ月に一回くらいの割合で食事していた「一番カルビ」の諸岡店、今月いっぱいで閉店が決まったそうで、20%割引の案内が来ていた。 街が様変わりしていくのは時代の変遷というやつで致し方がないことではある。近所を見回してみても、私が子供のころから親しんでいた店だの食堂で、今も残って営業中、なんてところは数えるほどしかない。「代替わり」というものが現代ではほぼありえないことになってしまっているので、「老舗」の店なども一代で立ち消えていくしかない。かく言う我が家も、不肖の息子が床屋を継がなかったために、曲がりなりにも髪結床の昔から続いてきていた床屋の家系(母方)がついに途絶えてしまった(親に詳しく聞いたことはないが、江戸の昔から少なくとも三代か四代かは続いていたのである)。しかし今や床屋という職業自体が法改正により絶滅してしまっているので(現代の理容師は昔の床屋とは別物で、剃刀を砥ぐ技術もない)、私が継いだところで焼け石に水、どうにもならなかったのが現実であろう。 それやこれやの「商店街」の存続が危ぶまれている原因は、一昔前ならスーパーマーケットやらショッピングモール、チェーン店といった巨大資本の進出のせいにされていたものだったが、気がついてみたら、そんな巨大資本も、一時の乱立状態から緊縮整理の方向に進んでいる。しげが以前勤めていた空港通りの「モスバーガー」、ここも最近潰れてしまっていたが、一見順調そうに見えていた焼肉業界も、実情はなかなか厳しいものがあったのだろう。「一番カルビ」が開店したのは数年前だったと思うが、撤退があまりにも早い。同じ筑紫通りに「ウエスト」もあれば「焼肉のさかい」もあるので、結局は淘汰されたということである。だいたい、福岡には焼肉屋ばかり多すぎるのである。 せっかくの割引券を無駄にするのももったいないので、仕事帰りに待ち合わせて「一番カルビ」に。「たらふくセット」とかいうのを頼むが、鶏肉とホルモンを焼いているうちに、ロースにカルビは全てしげに食われた。いつもは自分ばかり高い肉を食ってちゃ悪いかと、5枚に1枚くらいは私にも譲ってくれるのだが、今日は全くなし。よっぽど肉に飢えていたのだろう。もちろん、しげは毎日肉に飢えているので、さして不思議はないのだが、ちょっとばかり心が落ち着いていないのかもしれない。
ダイヤモンドシティ福岡ルクルで、映画『バタフライ・エフェクト』(注意・ラストのネタバレあり)。 タイトルは例の「カオス理論」による「バタフライ効果」のことで、北京だったかブラジルだったかで蝶が羽ばたくと、アメリカで嵐が起きることだってある、という「風が吹けば桶屋が儲かる」式の考え方を示したもの。 要するに「何がきっかけで運命が変わるか分からない」ということで、それを時間SFと絡めたところがミソと言えばミソである。 主人公の大学生・エヴァン(アシュトン・カッチャー)は、少年のころ、心神喪失状態に陥り、記憶をなくしてしまう癖があった。今ではごく普通の生活を送っていたエヴァンだったが、七歳のころからつけていた日記を発見して、失われた記憶を取り戻そうとかつての友人たちに会おうとする。 精神病院に隔離されていた父の死に、自分は何か関係していたのか? 初恋の相手・ケイリー(エイミー・スマート)と地下室でビデオ映画を撮ったとき、何が起こったのか? イタズラで郵便箱に仕掛けたダイナマイトは爆発したのかしなかったのか? エヴァンを眼の敵にしていたケイリーの兄・トミー(ウィリアム・リー・スコット)は、エヴァンの犬を本当に焼き殺したのか? 故郷の町を去ったエヴァンは、ケイリーに「君を迎えに来る」と約束していながら、それらの謎を放置したまま13年を過ごしてきていたのだった。 当時のことを聞き出そうと、友人のレニー(エルデン・ヘンソン)を訪ねたエヴァンだったが、彼はもうずっと心を閉ざして家に引きこもったままだった。エヴァンは思い余って、ケイリーに再会したが、それが彼女を精神的に追い詰め、自殺に追い込んでしまう。そのショックが、エヴァンに「過去を変えたい」という強い思いを抱かせることになった。日記を凝視するエヴァン。その眼に映る日記の文字がぐらぐらと揺らぎ始める……。 結局、「過去を変える」という時間SFの定番ネタなんだが、その手の作品をたくさん読んだり見たりしてきた人には「今更」感が強いだろう。それに、小説と違って映画だから詳しい説明が省かれてしまうのは仕方がないのかもしれないが、タイム・パラドックスの問題があまり深く考えられていないのが気になってしまう。 エヴァンは過去を変え損なっては再び時間軸を遡るのだが、一本目の時間軸と次の時間軸が同じものなのかそうでないのか、そこが判然としていない。普通に考えれば“過去が変わってしまっている”のだからそれぞれの時間軸はあくまで別のもので、たとえエヴァンが過去を変えたつもりになっていても、それは本人が枝分かれした別の時間軸に飛び込んだだけのこと、「過去を変えることができた」とエヴァンが思っているのはただの自己満足に過ぎないのである。もともとの時間軸では、ケイリーはあくまで死んだままだ。だからそんなことに気づきもしないであっちこっちの世界を行ったり来たりしているエヴァンは底抜けの馬鹿にしか見えない。主人公に感情移入ができないから、全編、不快感が続くばかりでちっとも面白く見られないのである。 パンフレットではSF作家の梶尾真治氏が本作に影響を与えたと思しい先行作品を挙げているが、殆どラストシーンの演出がそっくりそのままな、アノ時を駆けちゃう日本映画を挙げないのはどうしてなのかなあ、と思っていたのだが、どうやら梶尾さんが見た本作と、実際に公開された映画とはラストが違っているらしいのだ。 これは二者を比較しなきゃなんないからもうあえてネタバレしちゃいますけど、劇場公開版はエヴァンがケイリーと出会うこと自体を回避して運命を変えて終わるのに対して、ディレクターズ・カット版はどうも創世記にまで遡っちゃうみたいなんですね。そこまでせにゃあ、運命は変えられんものだったのかとちょっとオドロキだけれども、無難でありふれた終わり方しちゃった公開版よりも、そっちのほうがトンデモでかえって面白かったかもしれない。テレビ放送するときはぜひ、オリジナル版のほうを放送してもらいたいものである。
2004年05月26日(水) 不安なことばかり。 2003年05月26日(月) すっ飛ばし日記/宍戸錠な男 2002年05月26日(日) マクド&マクド/『濃爆おたく先生』2巻(徳光康之)/『韃靼タイフーン』4巻(安彦良和)ほか 2001年05月26日(土) 恐怖! ウワバミ女の逆襲(完全版)/『人造人間キカイダーTRIBUTE』
| 2005年05月25日(水) |
「『創氏改名』は嘘ですから」は嘘ですから/『メンタル三兄弟の恋』パート2 |
(昨日の続き) 「リフトの上の3人の詩人」 途中で停止してしまったリフトの上で、することもなく3人の詩人が詩を口ずさむ。 大竹「いつ動くんだ」 きたろう「空、どうしようもなく空」 斉木「雲ただただ雲」 大竹「いつ動くんだ」 斉木「今、我ら詩人にできることは、詩を作ることだけ」 きたろう「ここが宇宙の入り口かもしれない」(「出ちゃったね詩が!」と斉木が誉める) 斉木「このリフト 僕のタイムマシンさ」(二人、「だせえ」と嘆息する) 大竹「リフト・イズ・デッド リフトは死んだ」(「何言ってるんだ」と自分突っ込み) 斉木「ほどほどにねえー」 大竹「何してるんですか?」 斉木「溶かしているのさ、言葉を。ちっくたっくちっくたっく、ぼーんぼーん」 大竹「銀河鉄道のリフト」 きたろう「リフトは釣り針 俺たちは餌」 斉木「リフトは山の回転寿司 俺たちは寿司」 きたろう「リフトはクレーン 俺たちは景品」 大竹「いつ動くんだ!」 斉木「今、詩人にできるのは、詩を作ることだけ」 大竹「空にピン止めされた 老人コレクション まだ三体 今ほしい 永遠のように長い 一本の針金」 きたろう「針金ならば5メートルあれば アトモスフィア」 大竹「(きたろうに)おまえの背中は小作農」 斉木「俺の背中は航空母艦」 大竹「お前の肩 ショルダーバックがなぜ落ちる 背中の丸みは縄文人」 斉木「お前の背中 今すぐ見たい」 大竹「お前の背中 カナブンみたい」 斉木「カナブンよ 今すぐリフトのスイッチにぶつかるがいい」 大竹、すぐ後ろのリフトの座席が壊れるのを見て、焦って「一つおきだったらいいなあ」と歌う。もちろん、その前にいるのはきたろうさん。 斉木「一生このままだったらどうしよう」 きたろう「急にモテたらどうしよう」 斉木「今、詩人にできるのは、詩を作ることだけ」 きたろう「空、どうしようもなく空」 斉木「雲 ただただ 雲」 大竹「風」 斉木「ネピア」 きたろう「クリネックス」 大竹「スコッティー」 斉木「エルモア」 きたろう「エルエール」 大竹「バンビックス」 三人「フォクシー!」 思わず「詩」を全部紹介してしまったが、日記にポエムを載せるなら、こういう詩を作りたいものだね(笑)。 「スキル王とメンタル王」 水が吹き出ていて今にも決壊しそうな堤防を、二人の王が何とかしようとするが、どちらも帯に短したすきに長しで役に立たない。スキル王は助ける技術はあるけれど心が弱くて何もできない。メンタル王はイメージトレーニングだけで実行力がない。 虎(のハクセイ)に食い殺されかけている大竹をきたろうが救うのだが、大竹さんがいくら「助けてくれ〜!」と叫んでも、きたろうさんは「意地悪して」反応しない。おかげで大竹さんは間が持たずに「メンタル王って人はいないのか!」と叫ぶ羽目に。アドリブな意地悪だが、実際の舞台でこれをやっても嫌味にならないのはきたろうさんの芸の力というものだろう。一見、何もやってないように見えるんだけどね。
「逃げる警官」 イカレた男(中村)に襲われた二人の警官(大竹・きたろう)が逃げて逃げて熱海まで辿りつく。これも実話を元にしたスケッチだとか。 宿屋の一室でテレビを見ると、どこのチャンネルでも「恥さらし警官逃げだす!」のニュースをやっているのに、テレビ東京だけがアニメをやっているというギャグが秀逸。これは殆ど生版と変化はなし。
「定食屋のパチンコ」 店の前で、客が入るのを待っている店主の斉木。けれどちょうど「3人」が揃わないので、なかなか店の中に入ってきてくれないのである。 最後のスケッチのわりにはもう一つの出来か。
カーテンコールの舞台挨拶で、中村さんが「小倉と博多は仲が悪い。小倉は博多のことを『何をカッコ付けてるんだ』と思ってる」と紹介していたのに大爆笑&大拍手。地元の人間もよく知らない人が多いが、北九州は言語的には山口県に属しているので、実は九州ではないのである。地元を茶化されてもかえってヨロコブ難儀な性格はそっくりなんだけどね。
芝居を見終わってロビーに出てみると、なんと下村嬢の姿が。しげには見に来ることを知らせていたらしいが、私は知らされてなかったのでビックリである。「面白かったでしょう?」と感想を聞いてみたが、どうもイマイチだったらしくて、困ったような表情をされる。そういうときは正直に言えばいいんだけど、なんかみんな遠慮しちゃいがちだね。自分の好きなもの貶されて怒るほうが傲慢なんだけどな。
小倉駅でよしひと嬢と別れて、一路博多へ。 ギリギリ最終のバスに間に合って、帰宅は11時近く。 テレビを点けたら『NHKスペシャル』で、『放浪記』の森光子の特集を放映していた。「自分以外の誰に林芙美子が演じられるものか。やれるものならやってごらんなさい」という言葉は傲慢に聞こえかねないが、森さんの口から流れてくると説得力があるのでまるでイヤミに聞こえない。これが「芸の力」というものだろう。 おかげでしげが「自分なんかが芝居をやっちゃいけないのかなあ」と落ち込む。そう言いながらも芝居をやらずにはいられないのがしげの業というものなので、悩むだけ時間の無駄である。根気も記憶力もないくせに、芝居に関してだけはなぜか「継続力」があるようなのが不思議なのだが。
(これより25日の日記) しげは今日は一人で『メンタル三兄弟の恋』を見に行っている。平日の昼公演なので、当然私は付いて行けない。なんたって全公演の楽日だから、どんな舞台になっているか想像もつかない。行きたい気持ちは山々なのだが、仕事を休んでまでは行けないんだよなあ、なんて良識的な判断をしてしまっているのはオタクらしからぬところであるが、だからもうオタクなんて名乗るのは返上したっていいかもしれない。 帰ってきたしげに話を聞いてみたところによると、昨日の芝居ともかなり違ってるところがあったそうな。まずはきたろうさんがやたらコケていたとか(笑。いや、笑っちゃいかんか)。「余った時間の使い方」コントでは椅子につまずいて転んでかなり間が変わっていたそうだし、「3人のカウンセラー」でも、小山崎さん(中村有志)の留守電を聞きに行こうとして、やはり椅子に躓き、いつもは「あー、うー」としか吹き込まないのに「転んじゃった」と吹き込み、そのあとの「何にも言えなかった」の台詞が「全然別のこと言っちゃった」と変わってしまったらしい。本当は「何にも言えない」のでなければ、次のオチに繋がらないのだが、それでも会場は爆笑だったようなので、結果オーライというやつであろう。 ほかにも、「チャーハンショー」に演出の細川徹さんが飛び入り出演していたり、「武装サラリーマン」の中村有志さんが大熱演で拍手喝采だったり、一日経っただけでも相当違った印象になっていたようだ。やっぱ芝居はナマモノだからねえ。まさしく一期一会。高いカネ払って見るだけのことはあるんである。 パンフレットを買った人だけが見ることのできる(っつってもパスワードをネットでバラしてる馬鹿野郎もいるようだ)ひみつ(「ひみつ」はひらがなだっ!)サイトを覗いてみたら、小倉の町を気に入ったこと、来年も来たい旨のことが書かれていた。ぜひとも実現を。
なんか、お気に入りの日記を回っていて、ちょっとウンザリしたこと。 何度も「政治的なことはあまり書きたくないなあ」とこの日記にも書いちゃいるのだが、歴史の事実というのはこうも消えていくものなのだねえ、と実感したもので。 何のことかと言うと、「戦時中の朝鮮人の創氏改名は強制されたものではなかった」という主張がされていたのだね。その根拠というのが、「創氏改名は申告制だったから」というので思わずずっこけちゃったのだけれども、この人は「申告しなかった朝鮮人がどういう目に合わせられるか」ということに想像がまるで至らないらしい。 日韓併合は双方の合意の上になされたんだから、創氏改名も施行上は当然「申告制」になるわなあ。けどそこで気が付かなきゃならないのは、そもそもなんで「創氏改名」をしなきゃならなかったのかってことで、その人の主張する「氏(ファミリーネーム)を持たない朝鮮人に氏を創らせた」ってのは、大嘘なんである。当時も朝鮮人はみんな姓(厳密に言えば「姓」と「氏」は違うんだけど、とりあえず同じものということで話を進めます)を持ってたよ。ただ、一族みんな「金」さんとか、朝鮮人の名字数は日本人に比べれば圧倒的に少なかったので(この「名字が少ない」「戸籍が整備されていない」というのが、「朝鮮人には姓がない」というデマを生んだのである)日本人の感覚からすれば区別が付かず「金田」「金本」「金山」とか名前を付けて区別しようとした。そこには「五族協和」と言いつつ、実際には「みんな日本人になっちゃえばサベツがなくていいじゃん」という意識が働いていて、日本人は“みんなに優しい”政策のつもりでいたけれども、朝鮮人の民族としてのアイデンティティーを踏みにじってることに少しも気づいていなかったのだ。 現在でも、別に「強制」されてるわけでもないのに、多くの在日朝鮮人が「日本人名」を通称として使ってることをこの人はどう考えているのかね? 「それはその朝鮮人に勇気がないからだ」で済ませるか? “日本人にならないと”どれだけの差別を受けるか、知り合いに一人でも朝鮮関係の人がいれば気づいてておかしかないんだけどねえ(本名でがんばれ、というのは理想論で、人間、みんなそんなに強いやつばっかりじゃないのだ)。過去のことは知識としてしか知らないとしても、目の前の現実も見えてないという点で、この人は情けないくらいの馬鹿なのである。 逆の立場で考えてみて、「日本人、明日から、名字を朝鮮名に変えなさい。でも強制じゃないよ。申告制よ」と言われて、「なんてありがたい申し出なんだ!」って思えるかね? 思えるんだろうなあ、その人には(その人に言わせれば、「当時朝鮮人の位置付けは中国人より下だったので、日本名改名希望者が殺到した」んだそうな。で、その「位置付け」とやらは「誰」が決めたの?) さらには「将校で朝鮮名のまま活躍した人もいた」と主張しているのだけれど、ここまで来ると、イデオロギーに凝り固まって思考力自体をなくしてしまっているとしか思えない。あのね、それはね、「将校」だからこそ、創氏改名はされなかったのだってことなんだよ。つまり、「日本に協力している朝鮮人」として「広告塔」に使われてたのよ。 その人の言によれば、「朝鮮人の誰もが日本名に改名したがっていた」ということだけれど、だったらどうして、朝鮮人の代表ともいうべき「将校」が創氏改名していなかったのかな? 自分で書いててこの人はその「矛盾」に気が付いていないのだ。「広告塔に使われてた」という理由に納得が行かないのなら、将校本人たちが「朝鮮人のアイデンテイティーを失いたくなかったのだ」と解釈してもいい。けれど、どちらの理由で解釈しても、「創氏改名」が当時から「代表的な朝鮮人には拒絶されていた」という事実がハッキリ見えてくるのだ。 史料にこだわる人は往々にしてその背景にある人間心理の機微を見落としがちなのだけれど、それにしてもこれはひどい。こんなに人の気持ちを推し量ることができない人が、政治や国家を論じようってんだから、全く情けないやら馬鹿馬鹿しいやらなのだが、困るのは、こんなにアタマが偏っちゃってる人の書いてる内容を読んでも、少しもウソを見抜けない人は世の中には結構いて、簡単に「日本は朝鮮にいいことばかりしたんだ」と思いこんでしまうことである。現在までの北朝鮮・韓国の反日政策に批判的な人だって、この「創氏改名」については「やるべきじゃなかった」って思ってる人は多いんだけど、そういうことも知らない。結果、馬鹿な言を吐き散らして、「日本人、反省しない」の印象を裏付けてしまうことになるのである。 私だって、今の北朝鮮・韓国は圧倒的におかしい、と思ってはいるが、だからと言って、「日本には過去に一点の曇りもない、日本が反省すべきことは何もない」とばかりに事実を捻じ曲げてまで自己主張したいとは思わない。つか、「平和な現代」ですら、日本国中にありとあらゆる不祥事が蔓延しているのを目の当たりにしているのだ。ましてや、戦時中、日本人が常に冷静かつ紳士的に行動していたなんて幻想、誰が信じられるもんか。 小泉首相は靖国参拝していいし、呉儀副首相の会談キャンセルには厳重抗議していいし、扶桑社の教科書を採択する自治体があっていいと思うけれど、「創氏改名」を正当化しようってのはもう相当アタマがイカレているのである。誰が何書いたっていいから別に当人に抗議する気なんかないが、どっちの言い分が正しいかは、それこそ読んだ人が自分の頭で判断してちょうだいね。
2004年05月25日(火) 『バナナがすきな人』&また来た首吊り。 2003年05月25日(日) すっ飛ばし日記/エロくて見せられない女 2002年05月25日(土) サヨナラを言いたくない人/『真・無責任艦長タイラー外伝 LOVE&WAR』(吉岡平・森小太郎)ほか 2001年05月25日(金) ドームにぃ、轟くピンのぉ音ぉ♪/『ウインドミル』11巻(橋口隆志)
| 2005年05月24日(火) |
死者にムチ打て/『シティボーイズミックスPRESENTS メンタル三兄弟の恋』パート1 |
葛飾北星原作・浦沢直樹作画のマンガ『MASTERキートン』が絶版状態にあるとか。 ニュースソースは『週間文春』なのだが、その理由というのを浦沢直樹氏、編集者の長崎尚志氏(現在『PLUTO』をプロデュース中)などに取材してまとめている。その内容をかいつまんで書くと、以下のような次第になるそうな。 まず、原作者の「葛飾北星」氏であるが、本名は菅伸吉、「ラデック・鯨井」や「きむらはじめ」のペンネームでも活躍していた人気原作者である(昨年12月に死去)。『キートン』に原作者として付いたのは、当時作画の浦沢直樹氏が『YAWARA!』を連載中で多忙であったため、編集部の要請があったためだという。 ところが浦沢氏は葛飾氏の提供する原作が気に入らず、長崎氏と協力して話を作っていた。従って、実質的に葛飾氏は名のみの原作者に過ぎなかった。 そういう事情なので、『キートン』の増刷に関して浦沢氏は「葛飾氏の名前を小さくしてほしい」と小学館に申し入れ、いったんはそれが了承されたのだが、葛飾氏の友人である雁屋哲氏がその話を聞いて、「葛飾氏の名前を小さくすることはまかりならん」と横槍を入れてきた。結果、増刷の話は宙ぶらりん、事実上の絶版状態に陥ってしまったというのだ。 この話がどこまで真実なのかはちょっと分からない。話をそのまま鵜呑みにするなら、雁屋哲、何考えてるんだ、ということになるのだが、「葛飾北星は『MASTERキートン』の原作を書いていなかった」というのもどこまで本当なのか、そこから既にウワサの域を出るものではないから、もしも「葛飾原作」がちゃんと存在しているのなら、雁屋氏の怒りももっともだ、ということになるのである。 細野不二彦の『ギャラリーフェイク』について細野さん自身が『ベスト版』でこう語っている。美術マンガという新境地を開拓するがゆえに、第1話こそ、編集部から原作を渡されたのだが、細野さんはその原作が気に入らずに放棄して、殆ど自分で物語を書き上げてしまったというのである。クレジットが細野さんのみになったのはそのためだろう。 「葛飾原作」が存在していないのなら、あるいは存在していても浦沢さんがそれを使わなかったのなら、どうして細野さんと同じく自分だけの名前で発表しなかったのか。そこが腑に落ちないというか、なんだか胡散臭くすら感じられるのである。「原案協力・葛飾北星」程度の表記にしてもよかったのではなかろうか。浦沢さん自身がそのあたりの事情をきちんと語ってこなかったことがそもそものトラブルの火種になってるんじゃないかという気がしてならない。 マンガ制作に関して「原作をどの程度使っているか」はケース・バイ・ケースで、クレジットだけではその実態が分からないことも多い。『あしたのジョー』では冒頭のドヤ街のシーンが梶原一騎の原作には全くなく、作画のちばてつやのオリジナルであることは、今でこそ有名な事実として知られているが、連載当時世間一般には全く知られていなかった。 こういうのはかなり特殊なケースであるが、予め「小説」の原作があった場合には、マンガ家がどのようなアレンジを施したのかが比較できるが(例えば、鳥山明の『ドラゴンボール』などは兎人参化のエピソードあたりまでの展開は、意外にも呉承恩の『西遊記』に忠実なのである)、マンガのためのオリジナル原作となると、それが読者の目に触れる機会は殆どないに等しく、これだけ「マンガ文化」が世界的に普及している現在でも、その研究が立ち遅れている原因の一つになっている。 浦沢さんが自作に自信を持っているのなら、「インタビュー」という本人のコメントを中実に再現しているのかどうか分からないもので勝手に憶測ばかりされている状況を打破して、制作の事情を公開して「自分の言葉」で堂々と雁屋氏を論破すればいいし、小学館だって「葛飾北星原作」の文字を外して増刷に踏み切ればいいのである。自分が書いてもいない原作にクレジットされている葛飾氏のほうがよっぽど草葉の陰で自らの虚名に泣いていよう。逆に浦沢さんが何のリアクションもしないでこのまま『キートン』の絶版状態が続けば、雁屋氏の主張のほうが正しいということになってしまうのだ。印税目当てで、葛飾氏の名を小さくしようとした卑劣な人間、と後ろ指を差される事態にもなりかねない。あれだけの名作がこんなくだらない事態で読めなくなるようなことになれば、たとえその作品の描き手自身であろうと、責任は重大だろう。 真実が未だ不明瞭であっても、「『葛飾北星・原作』のクレジットについて、長いことクレームも付けずに放置してきた」点において分が悪いのは浦沢さんのほうだと思うのである。それって結局、「著作権を半分放棄してた」ってことになるんだからね。今までどおりの表記で、増刷、あるいは文庫化されるようにオトナとして引いてくれてもいいんじゃないかと思うんだけどなあ。
この『MASTERキートン』に関する「ウワサ」については、もうネット上のあちこちで批判の記事が書かれているが、特に「死人に口なし」「欠席裁判」な浦沢・長崎両氏の言に対する不快感がかなり大きいようである。なんか宮崎駿が手塚治虫死去直後に「手塚治虫のやってきたことは全て間違いだ」発言をやらかして手塚ファンの猛反発を呼んだときと状況が似てるよなあ。やっぱり誰かへの批判は「その人が生きてるうちにしとかないと卑怯」ってことじゃないのかね。「その人と一緒に仕事をしているときは悪口は言わない」なんてのは「キレイゴト」の「コトナカレ」でしかないのである。それで仕事が滞ったりトラブル巻き起こしたりしてる自覚がない馬鹿が世間に蔓延してるから、尼ヶ崎事故起こしたJR西日本みたいな体質をあっちこっちで作ってるんだからね。
仕事を一時間早引けして、L特急に乗り込む。 座席には、頬を紅潮させ、潤んだ目で私を待っていた女がいた。 っつってもこいつはしげなんで、別に浮気旅行に出かけようとしてるわけではありません。誰もそんなこと私がしてるとは思わんだろうが。 今日は『シティボーイズ・ミックス メンタル三兄弟の恋』の北九州公演の当日なのである。昨年まではゴールデンウィークの飛行機代が糞馬鹿高い時期に上京していたのだが、今年はついについに北九州公演があるということで、感無量である。もうアンケートにどれだけ「福岡に来てください!」と書いてきたことか。たとえ北九州公演でなくても長崎だろうが鹿児島だろうが、飛んでいったことは間違いない。私もしげもここ何日かはいささか興奮気味でなかなか眠れない日が続いていたのだ。 会場のリバーウォークまでは、特急を使っても小一時間くらいはかかるので、一度帰宅してから出かけていたのでは開演に間に合わない。それでしげには予め博多駅からの4枚切符を買って乗り込んでもらって、途中合流、という形を取ったのである。しげは、予定通りに会えてホッとしたのか、「おなかすいたろう」と声をかけたら、車内中に響き渡りそうな声で「腹減った!」と吼えた。残念ながらこちらも急いでいたので、弁当を買う余裕はなかった。会場ではよしひと嬢と落ち合う予定でもあるし、そのとき食事を一緒にすればいいだろう、と提案して我慢させる。
小倉駅に到着したのは5時をやや過ぎたころ。会場のリバーウォークまでの距離はバスで一駅ほどだが、歩いても10分ほどで辿りつける。開演は六時半だから、時間的には十分余裕がある。 けれどしげは眉間にシワを寄せた仏頂面で、いかにも機嫌が悪そうである。腹が減ってるときのしげはいつもこんな顔だ。気遣って声をかけたら、これがまたトンチンカンなやり取りになってしまった。 「食事は着いてからでよかろ? 指定席だから慌てなくていいし」 「指定じゃないよ、自由席だよ」 「え? ウソ!?」 「本当だよ! 何言ってんの!」 「じゃあ、急いで並ばないと。食事はどうする? ハンバーガーでも買って、並んで食べるしかないか?」 「なんで並ばないといかんの! 指定席なのに!」 「はあ? 今、自由席だって言ったじゃん!」 「それは電車の話!」 「誰が電車の話してたよ?! 『着いたら食事』って言ってんだから、会場の話に決まってるじゃん!」 「いや、だからオレもなんでアンタが今更電車の話をするのか、馬鹿になったのかコイツって思って……」 「勝手に脳内で話を変えてるのお前だ!」 しげの妄想は普段でもいつ何どき発動するか分からないから怖い。相手の言葉の脈絡を掴む術に劣ってる分、妄想でそれを補っているのだが、もちろん妄想だから補ったことには全然ならないのだ。意志の疎通ができなくて困ることも多いのだが、これが単純にコトバを間違って覚えてるだけならたいした問題ではないと言えなくもない。コトバの誤用は時代を経れば市民権を得ることもあるからだ(『情けは人のためならず』も誤用のほうが多かったりするからねえ)。でもしげのような先走った妄想や思い込みで会話が成立することは永遠にない。しげのもうそうはこういう「空腹時」にやたら発動するので、しげにマトモな会話をさせようと思ったら、四六時中食わせとくしかないのである。 おかげでしげの体重は年々増加の一途にある。そろそろ「逆転」が近いかな。
「リバーウォーク」内の「福家書店」で、よしひと嬢と待ち合わせ。ここで福岡じゃ売り切れてて買えなかった吾妻ひでおの『ななこSOS』3巻(ハヤカワ文庫)を入手。ちょうどそこによしひと嬢が現れて「何か新刊出てましたか?」と聞かれたのだが、「いや『ななこ』がね」と言っても伝わらないだろうなあと思ったので、「あまりないねえ」と答えてしまう。多分『不条理日記』あたりだったらよしひとさんも面白がるだろうと思うのだが、『ななこ』はなんたって『ななこ』だからなあ(笑)。 3人で何とかという名前の“肉の店”に入ってハンバーグセットを一律注文。ハカセ(穂稀嬢)の結婚式の話などでひとしきり喋る。ラクーンドッグさんの公演と期日が重なっているので、PPのメンバーで分担して行くか、何とか掛け持ちできないかなどの相談。ハカセ、“本当に”祝福されてるんだなあと実感する(笑)。
北九州芸術劇場大ホールで『シティボーイズミックスPRESENTS メンタル三兄弟の恋』。 会場に入る前に、ダイレクトメール用のチケット半券に住所と名前を書いていたら、しげとよしひと嬢に数歩遅れた。と思っていたら、二人の姿があっという間に見えなくなる。脱兎の如く走って行く二人の姿がチラッと眼の端に見えたので、指定席なのに何をそんなに焦っているのか、と思って追いかけると、しげは公演パンフを買って、「先着サイン付きだよ!」と叫んでいた(お三方+中村有志さん。まぬけ会のサインはなし)。 これまでの東京公演でも、シティボーイズのみなさんのサイン付きパンフが“抽選で”当たることはあったが、先着順とはなかなかの大盤振る舞いである。今日、明日が楽日だから、これで売りきっちゃおう、ということだろうか。私のように映画や芝居を見たときには必ずパンフを買う人間はどうやら世間には少ないらしいのである。よく「類友」だとからかわれるのだが、どうしたことか知り合いの「オタク」と呼ばれる人たちで、パンフを必ず買うって人はただの一人もいない。パンフは必ずしもオタク属性と関わらないと見るべきか、単に金をケチってるだけなのか。 よしひと嬢も、普段、パンフは買ったり買わなかったりなのだが、今日はしげと一緒になって嬌声を上げている。一冊一冊、パンフのサインは別々で、しげは中村有志さんの、よしひと嬢は大竹まことさんのサインパンフをゲットして、飛び跳ねているのだ(最初に買ったのは逆だったのだが、交換したのである)。しけがまた目を潤ませていたので、結局、大竹さん、きたろうさん、斉木しげるさんのサインパンフも買った(別に慌てなくても係りの人に言えば希望の役者さんのサインパンフがもらえたのである)。というわけで実は私のウチには『メンタル三兄弟』のパンフレットが4冊あるのです(笑)。
会場は三階席までほぼ満席で、これなら来年以降の九州公演も期待できるんじゃないかという感じ。大ホールではあるけれども、客席の勾配がよく計算されていて、後ろの席でも舞台が間近に見える。しげとよしひと嬢は下手のほうの席に、私は上手の席に分散する。座席についてはプレ抽選に私としげと二人で応募して、両方当たっちゃったので、チケットは計4枚あった。一枚はよしひと嬢に渡したが、もう一枚は希望者を募ったところ、早い者勝ちで草野(加藤)さんのお友達がゲットした。私の隣に座った人が確実にその人なのだが、面識がないので声はかけられない。あちらはあちらで隣に座っている変なオジサンがチケット提供者であるとは夢にも思わなかったであろう。芝居の間、よく笑っていらっしゃったので、楽しんでもらえてよかったなあと独り合点でホッとする。
オープニングはメンタル三兄弟の紹介。 きたろうさんが大竹さんにポットのお茶を注いであげるのだが、いきなりポットにお湯が入っていないというミス。大竹さんが「いきなりかよ!」と突っ込んで、きたろうさんも困った顔。これがホントにハプニングだということは生中継ライブを見ていればこそである。 長男・斉木しげるは「自分がホログラムではないか」という妄想に囚われている。 次男・きたろうは「この家が縁の下に住んでいるサラリーマンの吉田さん(中村有志)に支えられている」という妄想。 三男・大竹まことは「誰かにダンスの振り付けをしたくてたまらない」という妄想。 だから「メンタル三兄弟」というわけなのだが、パンフにも書いてあったが、このネタ、実際にそういう兄弟が知り合いにいて、モデルになってるんだそうな。こないだ『犬神の悪霊』を見たばかりだから、「家族そろってイカレてるっての、現実にもあるよなあ」と不謹慎なことを思う。 斉木さんときたろうさんが妄想の中でニコール・キッドマンを譲り合って、「ニコールからは手を引くよ」「オレこそ手を引くよ」と言ってるのを聞いてた大竹さんが、「いつ手を出したよ!」と突っ込むギャグがよい。WOWOWでの生中継(以下、「生版」と略す)よりも大竹さんの声に張りがあるのも分かる。まさに舞台は生き物だ。 この三兄弟、そろって独身で同居しているという設定。だからギャグはもちろんおかしいのだが、もう初老の域に入ろうとしているお三方が演じると、笑いの向こうに寂しさ、切なさが漂う。ラストにまたこの三兄弟は再登場するのだが、きたろうさんは、家族ができて妻の実家に帰ることになる吉田さんと、悲しい別れを迎えることになる。妄想の友からも去られてしまう寂しさとは、かなり深刻なのだが、それをさらりと流すように演じるのはきたろうさんならではの持ち味だろう。シティボーイズのお三方は、昔のようなアナーキーでラジカルな芝居よりも、孤独と、今や死を身近に思うほどに研ぎ澄まされた感覚を描くほうに、芝居の興味がシフトしてきているのかもしれない。 便宜上、タイトルを勝手に付けて各スケッチの内容を紹介すれば以下の通り。
「パッション・ショー」 寿司屋の店員たちが、「この店にないものは客とパッションだ」と、パッションショーを催すことを企画する。みんなで義太夫を唸ったり、暗闇の中で駆けまわったり。地元に来て張りきっているのか、中村さんがシーツを「パッション!」と叫んで“はたく”のが生版よりも激しい。ラストは斉木さんが不動明王に扮して登場。でも台詞は「悪い子はいねが〜」と、なまはげ。
「予期せず余った時間の使い方会議と謎の編物集団」 調整課の社員3人が会議室に行くたびに謎の編物集団が現れるというシュールなスケッチ。 生版にあった中村さんが万年筆のインクを吸うギャグがカットされ、、中村さんが指にボールペンを刺してエイリアンのパフォーマンスをするギャグも短縮されている。そのかわり、生版でタイミングが合わずに幾多郎さんが言い損ねていた「キャサリン・セタ・ジョーンズと言おうと思ったけど、やめたよ」の台詞が復活。これは生版だけを見た視聴者には一生わかんない「真実の台詞」だ。 生版のときにはなかった、逃げ回る編物集団の中にいる斉木さんを見て、大竹さんが「中にロシアの人が混じってませんでしたか?」と突っ込むギャグが追加。
「武装サラリーマン川柳」 激しくトレーニングする中村さんの前で、斉木さんが「何かと危険に出会うことの多いサラリーマンが“武装”する川柳」のコンクールをアナウンス。 佳作「職場でも 書類丸めて 武器にする」 「会議中 挙手 する右手も こぶしを握る」 「ホッチキス 武器にならないか考える 会議中」 紫賞「無意識に まず急所みる 初対面」 ゴールデン・ジョンイル賞「サージャンニン サージャンニン サーランヘーヨ トンカジオライ」 選外の斉木個人賞「武器だらけ スーツの重さ50キロ 海外出張できんぞなもし」 部長賞「どんなにえばる部長も 急所は延髄」 最優秀作品賞 宮本武蔵賞「ボーナスで まとめて払う 武器ローン」 アンコール賞「定年だ 自分にプレゼント 仕込み杖」 字幕でも川柳は紹介されるので、生版と殆ど内容は変わらないが、明らかに中村さんの動きははじけていた。
「3人のカウンセラー」 何をやっても元気が出ない小山崎さん(中村)が紹介されて訪ねた神経科のカウンセラーはなぜか3人協議制だった。精神科医の胡散臭さを象徴したようなギャグで、今回のお気に入りスケッチの一つ。他人の受け売りばかりのきたろう、やたら激烈な薬を飲ませたがる斉木、本人がメンタルな大竹と、キャラクターの描き分けも上手い。 きたろうさんが、「バルビタールを飲ませても死ななかった報告もある!」と不平を言う斉木さんを壁にぶつけて黙らせるのだが、生版より激しくぶつけるのでセットが思いきり揺れていた。きたろうさんは中村さんの名前を最初「山崎さん」と言い間違えるのだが、言い直したときに「オ・山崎さん」と強調するのが生版にはなかった演出。大竹さんが中村さんを「どうしてこんなにハゲちゃったの?」と言った途端に中村さんが床で転げまわるのも今回新たに加わったアドリブらしい(カーテンコールのときに、大竹さんか「いつもはあんなに転げないんですよ」と説明していた)。ともかく中村さんは全編に渡ってサービスサービスである。
「ニコール・キッドマン・ショー」 中村のMC、そして斉木、きたろう、大竹がそれぞれのニコール・キッドマンになりきる。 斉木は『アイズ・ワイド・シャット』のニコール。 きたろうは『陽のあたる街角』からのお色直しで『ムーラン・ルージュ』のニコール。 大竹は「死んでもやだって言っただろ!」とカツラを投げ捨てながら『ドッグヴィル』のニコールを演じる。続けて4人は「チャーハン・ショー」でフライパンを持って「それそれそれそれ!」とチャーハンを炒める。多分チャーハンに見えたのはそれらしい「塊」で、フライパンからこぼれない仕掛けになっていたと思うのだが、きたろうさんはしっかりこぼしていた(笑)。
長くなったので明日の日記に続く。
2004年05月24日(月) 徒労の木馬。なんつて。……イヤ、つい思いついちゃったので(^_^;)。 2003年05月24日(土) すっ飛ばし日記/穴子に拘る女 2002年05月24日(金) カニの味がわからない/『かしましハウス』7巻(秋月りす)/『焼きたて!! ジャぱん』2巻(橋口たかし) 2001年05月24日(木) 幻想の帝国(改)/『作画汗まみれ』(大塚康生)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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