無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年05月23日(月) 人間嫌いなわけではないのですが/『新暗行御史』第十一巻(尹仁完・梁慶一)

 ハカセ(穂稀嬢)から、結婚式の案内メールが届く。
 個人情報を垂れ流すのは人としてどうか、と非難される方もいらっしゃるだろうが、別にこれでハカセの人生が狂わされてしまうようなことにはならないので、まあ、いいんじゃないか。ちゃんと「書かないでくださいね!」って言われてることはいつも書いてないからね。
 結婚式はもう何ヶ月か後のようだが、当日はほかに先約の用事があって出席できるかどうか分からないので、その旨を連絡した。返事はすぐに返ってきたが、ハカセも案内を送るかどうか、ちょっと迷ってたらしい。多分、ハカセも知ってることだと思うが、私としげは結婚式を挙げていない(写真だけは撮った)。その辺の事情まで詳しく話したことはないが、まあ、一応何やらありそうだと気遣ってくれたのかな、と思う。

 私は自分の結婚式を挙げなかったばかりか、ここ20年ほどは親戚や友人・知人の結婚式なども殆どオミットさせてもらっている。どうにも断りきれなくって出席したことは何度かあったが、気分を悪くして吐いたりした。酒に酔ったとか。そういうことではなくて、結婚式に出たこと自体が私にとっては苦痛だったのだ。条件反射のようなもので、これも一種のPTSDかな、とも思う。
 子供のころはこんなことはなかった。小学生の時分に、両親に連れられて父方の叔母の結婚式に出席した記憶がある。しかし逆にそのころから、両親も、親戚の結婚式になかなか出席しなくなった。正確に言うなら、母が、父方関連の結婚式には殆ど出なくなったのだ(母方関連でもかなり少なくなった)。「言い訳」は「仕事が忙しくて休めないから」である。確かに床屋は月曜が定休日なので(地方によっては違うのだろうが、博多はたいていそうなのだ)、土・日が定番の結婚式には出席しにくいのは分かる。しかし、それならどうして私が子供のころには家族そろって出席していたのが、パタッとやんでしまったのか。
 おかげで私はまだ小学生でありながら、一家の代表としてたった一人、あちこちの親戚の結婚式に送り出されることになったのだが、どうして母が晴れがましい席を避けるようになったのかはすぐにそれと知れた。要するに母が父なし子だったからである。
 母は生前、私に「何かあったとき、お父さんの親戚は当てにならないからね。お母さんの親戚を頼りなさい」としょっちゅう言っていた。現実には父方の親戚のほうが穏やかな人ばかりで、母方の親戚はほとんど金にだらしなくて母に借金しに来る連中ばかりだったのだが、それでも母は意地になったかのように父方と縁を結ぼうとはせずに自分の親戚の求めるままに稼いだ金を吐き出していた。
 幼心にも私は「どうしてそこまで」と思っていたものだったが、つまり母は、父方の親戚に(多分、祖母か曾祖母だろう)、「何か言われた」のである。母が父方に顔を出さなくなれば、当然、父も遠慮をせざるを得なくなる。かと言って義理を欠き過ぎるのもまずいので、両親はまだ子供の私を代理として送り出していたのだろう。とんだスケープゴートであったが、そこには、まだ小学生の子供に対してまで、親戚連中も何か言うことはなかろうという甘い判断があったと思われる。
 両親がお人好しだなあと思ったのは、世の中には、たとえ相手が世間知らずのガキであろうと、「何か言う」腐れた連中は確実にいるということをよく知らなかったことだ。そのあたりの「事情」を両親に話したことはなかったが、長じるにつれて明らかに私が「式」と名のつくものに強い不快感を示すようになったから、ある程度は察していたのではないかと思う。私が自分の結婚式を挙げるつもりがないことを「だってお金がもったいないから」と、普通なら「ふざけるな」って怒鳴られてもおかしくない理由を挙げて両親に告げたときも、全く何も言わなかった。母が死んだ後、父は「今まで不義理ばかりで悪かったね」と、親戚の結婚式に出るようになったが、私には一切「一緒に来い」とは言わない。
 親戚の結婚式じゃなければ平気か、と思って、知り合いの結婚式に出たことも何度かあるのだが、既に私には「式」そのものに拒絶反応が出てしまうようで、熱は出る、動悸は激しくなって、吐き気はする、PTSDと言ったのは別に誇張でもなんでもなくて、本当に体調が悪くなってしまうのだ。リクツで割り切れるものではないので、治療のしようがない。ひたすら「自分のようなものがこんなところにいていいのか」って強迫観念が頭の中に広がって、立っていられなくなるのである。
 今だからもう言っちゃうけど、よしひとさんのお父さんのお葬式に出た後で体調崩したのも実はそれです(笑)。焼香だけでさっさと帰ったから、たいして響かんだろうと思ってたんですが、判断が甘かった。あのときは関係各位にご心配をおかけして申し訳ありませんでした。
 もちろん結婚を祝いたい気持ちはあるので、ハカセの結婚式にも時間の余裕ができるなら出席したいし、仮に体調崩しても翌日も休日なんで静養できそうではあるから何とかなりそうな気もするのだが、それでも滞在は2時間が限度だと思うので、お色直しは一回くらいだったらありがたいなあ。ハカセはメンバーの日記もちゃんと覗いてるって言ってたから、ちょっと注文つけとこうかな(笑)。
 ……いや、ホントに回数減らされたら困るけど。

 意外や意外、ハカセは毎日買い物もすれば、食事もきちんと朝晩自分で作っているそうで、しげよりよっぽど普通の主婦している。漢字や日常語を知らなくても、生活手段知ってるほうがありがたいわなあ。
 私も人並みのことしかしげには要求してないんだけど、なんとか二月近く続いていた弁当作りもそろそろ朝寝坊で時々忘れかけてきているのである。洗濯やゴミ捨てなどの家事も、まるで実行に移さない。「トイレに紙を貼って忘れないようにする」って言ってたくせに、案の定小さな紙を「貼っただけ」で安心してしまい、肝心の家事をすること自体を忘れてしまっているのだ。私から「洗濯忘れてるぞ」と言われて初めて動くのなら、結局はこれまでと変わりがない。
 なかなか人に言っても信じてもらえないのだが、しげの健忘症は、家事を始めた途端に都合よく発動するらしく、白昼夢や妄想も併発して、全て中途半端に終わってしまうのだ。例えば台所で食器を洗っていても、疲れてくると健忘症のスイッチが入って全部洗った気になってしまい、途中で作業を放棄して寝てしまうのである。目の前にまだ洗ってない食器があるだろう、と突っ込みたくなるのだが、その食器が「見えなく」なるのだ。おかげで洗い場にはまた小バエが発生し始めてしまった。
 「やれ」と言われた次の瞬間に「やった気になる」のでは、処置なしである。昼間グーグー寝ていれば、家事なんてできるはずがないのだが、どうして「やった気になれる」のか、どうにも納得ができない。根本的に心がどこか壊れているか脳に疾患があるのかもしれないと、私もしげ自身も、そこんとこを病院にもきちんと診断してほしいのだが(しげが単なる虚言症であるという可能性も含めて)、もう一年以上通院しているというのに最近はまるで進捗が見られない。面談してお話を聞いてそれで終わりってのは何なんだろう。
 最近はやっぱり医者を変えたほうがよかないかとも感じているのだが、そうするとまた薬をもらえるようになるまでに手間がかかり、診療費がかさむことにもなるらしくて、踏ん切りがつかないのである。こっちはしげが家事ができるようになればそれだけでいいんだけど。


 マンガ、尹仁完原作・梁慶一作画『新暗行御史』第十一巻(小学館)。
 曼陀羅華の鍼を打ち、過去の幻想の中を彷徨う文秀(ムンス)。夢の中という設定で、これまで語られた物語の間隙を補完する形で、山道(サンド)が文秀に付いて行く決心をしたエピソードなどが描かれる。しかし、ファンの最大の関心を引くのは、待ちに待ってた“聚慎滅亡”の顛末を描くことになる「快惰天戦」のエピソードだろう。
 悪獣どもの母体・快惰天を辺境の地に追い詰めた文秀率いる聚慎軍。しかし最終決戦を覚悟した悪獣どもの反撃は激しく、聚慎軍は「絶対聚慎!」を叫びつつも逆に劣勢を強いられる。歴戦の英雄たちが次々と命を落としていく中、文秀の副官・阿志泰(アジテ)は一時的な撤退を進言するが、文秀は自ら突撃部隊を編成し、先頭に立つ。対峙した快惰天は少女のように美しい本体を現し、雷撃で自ら生み出した悪獣どももろともに聚慎軍を全滅させる。果たして文秀はこの戦いに勝利することができるのか。そして、この戦いの中、暗躍する阿志泰の本心はどこにあるのか。
 梁慶一氏の緻密な作画はこの「快惰天戦」を圧倒的な迫力で描き出しており、さながらハルマゲドンを彷彿とさせる。しかしだからこそ文秀と元述(ウォンスル)しか生き残らない状況で、なぜ快惰天を倒せたのか、そこにも実は阿志泰の陰謀が働いてるのだろう、ということは予測が付くことではある。読者はこれが文秀の見る「過去の夢」であって、既に聚慎が滅亡しているという前提を知っているから、「このままではすまない」ことも分かっている。
 この『新暗行御史』のストーリーの背景には、「人間は、真実を知ることを極力嫌っている」という作者の人間認識がある。これまで登場してきた主要キャラクターたちはみな一様に「目の前の現実」を認めようとせず、自分の作り出した妄想、幻想の中に生きてきた。フィリップ・K・ディック的というか『マトリックス』的というか押井守的というか、この作品はその発想において極めてSF的である。SFは、幻想にすがらなければならない人間の弱さを切なく描いてきたが、この『新暗行御史』の第一の魅力はまさにそこにあるのだ。そして、幻想が現実に打破され、謎が明かされていく展開はミステリー的であって、そこから立ち直って現実を認めていく人間の「強さ」が爽やかな感動、第二の魅力に繋がっているのである。
 そして、これまで彼らに向かって「奇跡なんかない」と言い続け、現実を認識させようとしてきた文秀自身が今、「夢」に囚われてしまっているのである。ドラマ展開の流れから言っても、この「夢」から覚めたときが、文秀対阿志泰の最後の決戦のときとなるのだろう。
 もちろんその前には「更なる悲劇の夢」を文秀は見なければならないわけで、これから先、どれだけ物語を盛り上げていけるのか、前巻までの「活貧党編」がちょっと低調だっただけに、ぜひ読者の心を切なくかつ熱く感動させてほしいと思うのである。

2004年05月23日(日) 庵野秀明インタビュー&カンヌ映画祭閉幕!
2003年05月23日(金) すっ飛ばし日記/寝ると怒る女
2002年05月23日(木) 風邪さらに悪化/『パワーパフガールズDVD−BOX/バブルス缶』/『何が何だか』(ナンシー関)
2001年05月23日(水) できれば私への電話はご遠慮下さい/『真夜中猫王子』2巻(桑田乃梨子)ほか


2005年05月22日(日) どうしてみんなあえて狂いたがるのか/舞台『お父さんの恋 -Family Tale-』

 JR九州にも尼崎事故以後もオーバーランが何件かあったとかで、国土交通省から厳重注意があったって。でも、尼崎事故はオーバーランそのものが問題なんじゃなくて、その失敗を取り返さなければと高見運転士を精神的に追い詰めた「日勤教育」のほうに問題があったんじゃないの? なんだかこの注意の仕方って、逆にJR九州に対して「事故を起こしやすい」プレッシャーを与えてることになってるんじゃないかね。「オーバーランするな」だけなら、結局はJR西日本と同じ指導の仕方じゃん。客のことを考えてない体質は上からしてそうなんで、これじゃあJR九州にも早晩、事故が起きるかなあ(涙)。


 また飲酒運転による悲しい事故が発生、しかも今度のはかなり悪質。
 宮城県多賀城市で、佐藤光容疑者が運転するレジャー用多目的車(RV車。ったって、クルマに興味関心のない私には、どんなんだかよう分からん)が、乗用車に追突した上、学校行事のウォークラリーをしていた仙台育英高校の生徒の列に突っ込んだ。ちょうど横断歩道を青信号で渡っていた生徒たちがはねられて(30メートルも吹っ飛ばされた子供もいたという)、3人が死亡、4人が重傷、16人が軽傷という悲惨な事態に。佐藤容疑者は七軒の店をハシゴしてすっかり泥酔、居眠りもしていたというから、同情の余地は全くない。
 同じことを何度も繰り返して書くのはうんざりするのだが、この日本の「酔っ払い天国」状況は何とかならないものか。佐藤容疑者、一人で飲んでいたわけではなくて、同乗者もいたのだがこいつもすっかりへべれけ、それまで居酒屋を飲み歩いてた仲間もみんなぐでんぐでんだったのである。誰一人、「お前、運転あるんだろ? 飲むなよ」と止めたやつがいない。間違いなくこいつらは「常習犯」で、全員で子供たちを殺したようなものだ。
 オタクが事件を起こせば、すぐに「ゲームが悪い」「マンガが悪い」と、すぐに有害なものは規制しろという声が上がるのが常だが、飲酒運転の事故(つか殺人)はそれこそ頻繁に起こってるのに、何で「酒のせいだから規制しろ」って声は上がらないかね? もちろん、本当は酒のせいではなくて本人のせいだから、そんな声は上がらなくっていいのだが、だったらオタクの犯罪もオタク本人のせいで、マンガやゲームのせいじゃないだろうが。なのにどうしてオタクに対しては世間の目が厳しいのに、酔っ払いには甘いかね。つまりは世の中、下戸に比べて酒飲みの数のほうが圧倒的に多いってことだね(笑)。行政も世論も腐ってるから、結局は腐れた酒飲みの味方になってんだ。
 酒飲みはすぐに「酒を飲んで何が悪い、酒は日本の文化だ」と嘯くが、日本には「酒を飲まない」文化だってあるのである。
 基本的に私は文化相対主義の考え方をしてるから、酒自体を撲滅しろとまで言うつもりはない。確かに酒は日本の文化を代表するものの一つだろう。けれど文化によってはどうしてもお互いに「相容れない」ものも存在しているわけで、例えば「首狩り文化」を持ってる部族と対等に付き合うのは到底不可能だ。嫌でも向こうがその習慣を捨ててもらわなきゃ、怖くて仕方がないのである。同様に考えれば、「下戸の存在を認めない酒飲み」には「酒は文化」なんて主張する資格はないのだ。「俺の酒が飲めないのか」なんて言ってるやつはそもそも人間として性根が腐っているんだが、そんな最低レベルのメンタリティしか持ち合わせてない輩が、この日本にどれだけ蔓延していることか。
 ハッキリ言うが、酒とタバコに関して日本人は、誇りを持って「文化」と呼べるほど成熟したものを築き上げているとは言いがたい。銘柄なんてどうでもよくて「酔えりゃいい」「吸えりゃいい」の安酒安煙草で満足してる連中がゴマンといて、何が文化か。
 事故そのものもどうにもやりきれないのだが、もっと胸糞が悪いのは、これだけの事故が起こったからといって、今現在酒かっくらってる連中がこの事故を他山の石と考えて自己反省するわけではないってことである。つまりこれから先も飲酒による被害者は少しも減りゃしないのだ。たいていの酒飲みが「自分は大丈夫」って高をくくってるんだろうが、そういうやつほど危ないってこと、これまでの事故の例を見ていて気がつかないものかね? 今度の事故の佐藤容疑者も、日頃はすごく真面目な、普通の会社員だったって言うぞ? つまり、いったん酒を飲み始めたら、「飲んだら車を運転しちゃダメだ」という判断自体、できなくなるということなのである。たとえごく普通の人間であっても「酒を飲んでる限り、事故を起こす危険性を常に持っている」のだ。そんな単純なことにも気がつかないくらい、酒飲みってやつは馬鹿で糞っ垂れなやつばかりだ。つか、もうただの既知外ね。否定できるか? そこの酒飲み。
 そこまで言わんでもいいじゃないかとこれ読んでムカついてる酒飲みの人もいると思うが、警察庁の発表によれば、「酒気帯び運転」の取り締まり件数は、毎年20万から30万の間を推移しており、車による事故およそ4千件のうち、酒酔い運転が原因の事故は常に1千件以上、死亡事故もそのうち200〜400を数えている。つまり毎日一人は酔払い運転のために人が死んでいるのだ。オタクの犯罪よりよっぽど発生率が高いだろうが。自分たちが「犯罪者予備軍」「人殺し一歩手前」なんだってこと、少しは自覚してくれよ。
 酒税で日本経済がまかなえているんだから、と反論される向きには、次のデータをお示ししたい。厚生省の発表によれば、アルコールによる社会的・経済的損失は、年間に6兆6000億円以上に上るということである。それに対して、国税庁が発表している酒税収入は、年間およそ2兆円。利益よりも損失のほうが圧倒的に多いのだ。単純計算でも、酒の値段が今の4、5倍しないと、ペイしないってことになる。もちろん、だからと言って、それで失われた人の命が戻ってくるわけではないのだ。
 そこの酒飲みさんよ。これはさ、下戸な人間がみんな等しく願ってることなんだけどさ、アンタがどんなことがあろうと酒文化を守ろうって気概の持ち主じゃないんならさ、もう無理して酒飲むのやめてくんないかね。人の趣味嗜好の問題だ、ガタガタ文句言うなって気分なんだろうけどさ、心構えや覚悟のない人間が趣味云々言うのって、一万年早いんだよ。本気で酒が好きで節度守った飲み方してる人間から見れば、アンタらみたいな存在は鬱陶しいだけだ。日頃どれだけ鬱憤やストレスが溜まってるのか知らないがな、そんなの酒で誤魔化そうとするな。酒飲んでるだけで人間としてのランクを確実に下げてんだ、これ以上恥の上塗りしてんじゃねえ。開き直って「へいへい、どうせオレは酒飲みでござんすよ」と卑下して見せるのはもっと最低。飲酒運転のせいで死んだ子供の遺族の前でも、そんな態度が取れるか? 下司めが。
 どうせ酔っ払うならさ、いつか人を殺したり女子高生襲って犯したりする前にね、側溝に落ちるか豆腐の角に頭ぶつけるか自分の臍噛むかして、早いとこ死んでほしいよ。性犯罪者には刑務所から出た後も監視がつくようになるみたいだけど、酔っ払いにも同様の処置をしてもらいたいね。中毒になったやつってのはどうせまた同じこと繰り返すんだからさ。


 休日だけれど、午前中は出張。六時にゃ起きないとバス、電車に間に合わないのだが、目覚ましが鳴る前に5時に目覚めてしまう。不眠症(つか、深く眠れないのね)も役に立ってる面はある。
 かなり田舎のほうに出かけたので、空気だけはいい。多少小雨は降っていたが、涼しいくらいのものである。間近の山も少し霞んで見えるのがいい風情。仕事は予想外にきつかったけどね。
 午後までかかるかと思っていたのが、意外に早く片付いて、帰宅は午後3時。おかげ出昼寝ができて、昨日の寝不足をちょっと回復。やっぱり休日はできるだけ睡眠時間を確保しておきたいものだ。


 出張のため、『エウレカ7』は今日も見られず。評判いいんで、来週こそは何とか。
 録画しておいた『仮面ライダー響鬼』十七之巻 「狙われる街」。
 ついに魔化魍が街中に……つか、こないだから続いているレギュラー陣の「私服編」ですな。イブキ(渋江譲二)のショッピングはどうでもいいが、香須実(蒲生麻由)の薄黄色一色のファッションセンスってのはどうなんかね。あまりチャラチャラしてるのもよくないだろうが、ヒロインなんだから、もう少し華やかさがあってもよかろうとは思う。
華やかといえば、ひとみ(森絵梨佳)とあきら(秋山奈々)に挟まれた明日夢(栩原楽人)君、両手に花ですごく幸せそうだったなあ(笑)。でもこれで明日夢君、全国のロリ系オタクは敵に回してしまったね。どうせスタッフもオタクだろうから、ファン心理というものは先刻ご承知だと思うのである。これからは視聴者の溜飲を下げるためにも、明日夢君を何かと苦しめる展開になるんじゃないかと予測するがどうか。盲腸とか万引き犯に狙われるとか、そんな生ぬるいことじゃまだまだだね。
 関係ないけど、「天美あきら」の「天美」って、ずっと「てんみ」って読んでました。今日初めてこれが「あまみ」であることに気がついた(ボケボケである)。というとやっぱりこの子もイニシャルが「姓・名」ともに同じ。やっぱり「鬼」になる運命なんだねえ。けど、明日夢と同じイニシャルってことは、二人で「逢引鬼」(アイビキ)とか……。すみません、座布団一枚返上します。


 昨日WOWOWで録画しといた、パルコ+サードステージPresentsの舞台『お父さんの恋 -Family Tale-』を見る。
 これも福岡公演があって、私はすごく見に行きたかったのだが、しげは全くと言っていいほど興味を示さなかった。主演、前田吟だぞ、オイッて言っても全然伝わんないのがちょっと寂しい(タイトルロールは境雅人が筆頭だが、実質的な主役は前田吟である)。
 前田さんはこないだ『キネ旬』でも、1968年の初主演映画『ドレイ工場』に出演したときの思い出を語っていらっしゃったが、俳優座養成所出身だからやはりもともとは舞台の人なのである。『男はつらいよ』で長く博役を演じてこられたから、どうしても実直で融通が利かない、けれど下町の人情味に溢れた労働者、というイメージが付いて回るが、そこから「解放」された現在、どんな演技を披露してくれるのか、それが楽しみであった。
 タイトルだけだと確かに地味で興味を惹かれないのも無理からぬことだけれど、これはかなり意欲的な脚本、演出の舞台である。開幕当初、上手のベッドに前田吟扮する“お父さん”杉本正樹が寝ていて、そこへ派遣ホームヘルパーの深谷さおり(星野真里。『三年B組金八先生』の金八の娘・坂本乙女役の美人さん)が入ってくる。二人の会話が“噛み合っている”ので、いっときは“気が付かない”のだが、杉本家の次女・美樹(菊池麻衣子)が登場してきたあたりから、なんだか“雰囲気がおかしい”ことに観客も気付き始める。父親が娘に声をかけても、何の反応もしないのだ。娘には父親の姿が見えていないのか? と一瞬訝るが、どうもそうではないらしい。美樹は正樹がちゃんとベッドにいるものとして、様子を窺っている。正樹は当然、美樹に声をかけるのだが、その声は“美樹には届いていない”のだ。長女の武藤正子(七瀬なつみ)、医者の藪一平(池田成志)が登場するに至って、正樹は実は「寝たきり」の植物人間で、喋っているのは正樹の「心の声」に過ぎないことが分かる。冒頭、さおりとの会話が成り立っているように見えたのは、さおりが「正樹さんには意識がある」、と信じて声をかけていたからなのだ。
 全編、お父さんは植物人間のままで通し、その声が他の家族に届くことはない。ある意味、これは「幽霊もの」の変形であって、映画『ゴースト ニューヨークの幻』のように、現世の人間との交流は可能か、という興味で物語を引っ張っていく。ところが、お父さんはちゃんと「生きていて意識もある」のに、ほんの少しも家族との会話が成立する様子を見せないのだ。植物人間は植物人間、決して目を覚ますことはない。だからいかに前田吟が熱弁を振るおうと、これは極めて現実的な物語であって、「幽霊もの」のようなファンタジーではないのだ。
 長女の正子は家庭が崩壊し、現在不倫中である。次女の美樹は会社の金を騙し取られていて、父親の財産を狙っている。長男の大樹(堺雅人)は今流行りのニート(要するにプー太郎だよな)だ。そんな家族のテイタラクを目の当たりにしても、正樹には何もできない。しかし、そんな彼らを見ていて、さおりが突然、思いもよらないことを言い出す。「あなたたちには正樹さんを任せておけません。私は正樹さんを愛しています。正樹さんと結婚させてください」。
 もちろん、“意識のある”正樹は、もうずっと先からさおりのことが好きだった。妻をなくし、孤独に耐え切れなくなった正樹は、家を新築すれば子供たちが戻ってきてくれると信じて、この家を建て替えた。子供たちが好きだと言っていたシャンデリアに暖炉……。めちゃくちゃなインテリアだったが、それで家族の絆がつなぎとめられると思っていた。ところが、子供たちは父親を見捨てた。正樹は自殺を決意したが、その直前に脳溢血で倒れる。自分には死ぬことすらかなわない。悔し涙を流すこともできず、絶望のどん底に陥れられていたちょうどそのときに、さおりが現れ、実の子供たち以上にかいがいしく自分に尽くしてくれるようになったのだ。正樹は恋をした。そして、生きる気力を取り戻したのだが、情熱を傾けたいと熱望するその人とは、会話することすらかなわなくなっていたのだ……。
 正樹は確かにさおりに恋心を抱いている。けれど、自分の娘たちよりも若い、この美しい娘が、寝たきりの老人に恋をしたなんて、本当だろうか? 物語は、家族一人一人の隠し事を少しずつ暴きながら、その心の奥底を覗いて行く……。
 イマドキの演劇の常として、むりやりギャグでつないでいく展開があるのはちょっと気に入らないが(もっぱらギャグは成志君が担当してるんだが、正直な話、物語の展開上は殆ど必要ないキャラである)、前田吟の演技、自分の意志が伝わらないもどかしさが、話が進むにつれて切実感を増してくる。見ているこちらは、「いつか何らかの形で意志が伝わるようになるのではないか」と期待しているから、それが外されるたびに、悲しみが弥増していくのである。いや、前田吟自身は決して悲痛な演技はしていない。その演技はあくまで軽い。しかし、軽いからこそ、寂しいのだ。『男はつらいよ』シリーズのファンなら、すぐに気づくだろう、これは、渥美清の演技である。
 物語の冒頭、さおりが家族みんなに向かって「正樹さんを愛しています」と啖呵を切り、正樹に「行きましょう、正樹さん」と声をかけるシーンがある。そのときの正樹の返事が、一拍置いて、上ずった声で短く「はい」である。ああ、この「間」と「発声」は「寅さん」だ。自分がモテるなんて露とも考えていなかったのに、急に告白されてドギマギしてしまったときの寅さんだ、まさしくそうなのである。
 フーテンで、家族に迷惑ばかりかけている「お兄ちゃんの恋」と、寝たきりで、家族の絆を結べない「お父さんの恋」。どうにもならない恋をしている図式も同じなら、その悲惨さを悲惨と見せない喜劇としての作劇の仕方も、実は全く同じなのだ。前田吟は明らかに渥美清を念頭において演技プランを立てている。脚本の中谷まゆみが前田吟を主役に据えたのは、渥美清を20年以上にわたって見てきて、その「芸」を盗んでいるに違いないと確信しての起用であったのだろう。前田吟はまさにそういう役者であった。だから、観客が正樹に感じる切なさは、寅さんに感じるものと同質なのである。
 前田吟の前では、形式上の主役(失礼)、NHK大河ドラマ『新選組!』で山南敬助を好演した堺雅人もいささか影が薄くなってしまうのが残念だが、共演した役者さんたちも、何らかの形で前田さんの「芸を盗」んでくれればいいと思うのである。ああ、やっぱりこの芝居、ナマで見たかったなあ。

2004年05月22日(土) 関係者にしか意味が分らない文章ですみません。
2003年05月22日(木) すっ飛ばし日記/本な男
2002年05月22日(水) 風邪引き第一日目/『クレヨンしんちゃん映画大全』(品川四郎編)/『ビートのディシプリン SIDE1』(上遠野浩平)ほか
2001年05月22日(火) 我々は夢と同じものでできている/『MY SWEET ANIME 私のお気に入りアニメ』


2005年05月21日(土) 今度はいつまで/映画『交渉人 真下正義』

 またちょっと疲れ気味なので、短く書く。

しげのアルバイトが決まる。
 「家事をちゃんとするから」と言いつつ、またやっぱりちゃんとしなかったので、「芝居したいならその分くらい働け」と言ったら、なんか急に思い立ったらしくて、面接に言っちゃったようである。「返事が来ないなあ、きっと落ちてる」とか愚図愚図とうるさかったので、「連絡取れよ」と言って電話をかけさせたら受かっていたのである。今度も接客業だけど、食料関係ではありません。
 心配なのは今度はどれくらい長く勤められるかどうかなのだが、職種よりも人間関係によるので、数週間とも数年とも言いがたいのである。

 昼まではのんべんだらりとテレビを見る。
 CSキッズステーションで劇場版『MARCO 母をたずねて三千里』など。日本アニメーションの劇場版シリーズが『フランダースの犬』とこれの2本だけで終わってしまったのは未だに残念に思う。テレビシリーズ至上主義の方にはいまいち受けが悪かったようだが、一年間のシリーズにし立てるために不要な「引き伸ばし」も多かったテレビ版に比べ、原作に近い形で凝縮された作品に両作とも仕上がっていたのに。次は絶対『赤毛のアン』だろうと期待していたのである。


 夕方から、キャナルシティのぽんプラザホールで、劇団ぎゃ。第8回公演『裏庭(野田和佳菜「ガーデン」より)』。
 ストーリーの紹介は自分でまとめるのがつらいのでまんま引用。

> レアモノと呼ばれる奇形の女たちが働く女郎屋、ガーデンに幽閉されている美しい遊廓、胡蝶は、大好きな人形遊びに没頭するあまり、すっかり人形に乗り移ることが出来るようになっていた。
> 人形になって初めて部屋から脱出した胡蝶の不思議な物語。

 「美しい遊郭」って、「美しい遊女」の誤植じゃないかな(笑)。
 役者さんたち、一応熱演はしてるんだけれど、フリークスの悲しみみたいなものがもちっと出せたら面白くなったと思う。
 こういう「演劇をミセモノとしてとらえる」劇作家は、寺山修司という偉大過ぎる先人がいるので(海外だとフェデリコ・フェリーニかな)、どうしても比較して見てしまう。脚本家さんは寺山さんやトッド・ブラウニングの『フリークス』やフランケンシュタインとかにも影響を受けているように見えるが、どうしても「若書き」で深みのなさが目立つ。若くしてドロッとした情念をピュアに演じられる人たちでないと面白くなんないのよ、こういうのは。


 続けてAMCで映画『交渉人 真下正義』。
 公開2週を経て、興行収入一位を爆走中だが、ヒットしてるからと言って面白いとは限らない。実のところそんなに期待してたわけじゃないんだが、青島が出ないだけで、『踊る大捜査線』シリーズがこんなに面白くなるとは思わなかった(笑)。こういうのも「嬉しい誤算」と言っていいものかどうか。
 映画第1作も第2作も、青島が叫ぶたびにドラマが停滞していた。主役も馬鹿、敵対する犯人も馬鹿では、知的エンタテインメントとしてのミステリーなんぞ成立するわきゃない。ミステリーはやっぱり知性と知性のぶつかりあい、騙すか騙されるか、裏をかけるかかけないかの権謀術数がなきゃ面白くはなんない。ユースケ・サンタマリア演ずる真下正義を「知性派」と呼べるのかっていうと、ちょっとどころかかなり厳しいのだが、あまり知性派過ぎても観客はついて来れないから、恋人の尻に敷かれてる程度でちょうどよいのだろう。
 脚本家が君塚良一から十川誠志に変わったのも今回の成功に繋がっている。横枝が多くて幹がシャンとしてなかった前作までと違って、交渉人の真下と、地下鉄を暴走させている犯人との対決だけにストーリーが絞られているから、否が応にもサスペンスは盛り上がるのだ。
 ただその「面白さ」というのが全て過去の映画の「引用」、悪く言えば「パクリ」で成り立っている点が道義的にどうか、と思わざるを得ない。映画中でも『ジャガーノート』や『オデッサ・ファイル』などにインスパイアされていることが示唆されるのだが、それだけに留まらない。地下鉄の××だの鴉だの犯人は××だの、これって全部『劇場版 ××××××××××』だし、ラヴェルのボレロでクライマックスって映画はもう何本見たかわかんないくらいだ(十川さんがアニメ畑から来た人だってこと考えると映画『デジタルモンスター』の影響が強いかな)。でもって「××××」はヒッチコックの『××××××××』だもんねえ。名作の「いいとこ取り」なら、一見「面白く見える」のは当然なんである。
 でもそういった「寄せ集め感」がしてしまう以上は、面白いって言っても、オリジナルな魅力と言うには程遠い。それに、「前作までが酷すぎたから総体的に面白くなった」ってこともあるんで、未見の方はあまり期待して見に行くのはどうかとは思う。
 役者陣ではもう何と言っても出ずっぱり國村隼さんの演技が最高である。こちらはお母さんの八千草薫の尻に敷かれているのだね(笑)。

2004年05月21日(金) 『イノセンス』カンヌ上映。
2003年05月21日(水) すっ飛ばし日記/モンティ・パイソンな女
2002年05月21日(火) ハコの中の失楽/『KATSU!』3巻(あだち充)/『アリソン』(時雨沢恵一)ほか
2001年05月21日(月) アニメな『ヒカ碁』/『臨機応答・変問自在』(森博嗣)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)