無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年09月24日(水) クノイチのミノウチ/『新天地無用!魎皇鬼』5巻(奥田ひとし)/『全日本妹選手権!!』5巻(堂高しげる)ほか

 東区の一家四人連続殺人の犯人の写真、ようやくイラストから写真に切り替わる。まあ似てると言えば似てるか。モンタージュ写真が一般的だったのが似顔絵に切り替わって久しいが、効果の方はどんなものなんだろう。いや、今回の似顔絵はまあ上手い方だと思うんだけれど、たまに小学生の描いた「うちのお父さん」みたいなイラストが放送されることがあるから(^_^;)。署員に絵心のある人がいるとは限らないものねえ。
 その、中国公安当局にとっ捕まった王亮容疑者と楊寧容疑者、取り調べに対して、「殺害は誰からも頼まれていない」と供述しているとか。動機はただの物取りで、顔を見られたから殺したってんだが、金目当てなら、空き巣狙えばいいじゃん。ダンベルやら何やら予め用意しておいて、こんな言い訳が通用すると思ってんだから、ふざけた話だけど、それだけ「黒幕さん」が怖いんだろうなあ。あるいはよっぽど「信義」で結びついてるとか? なんかね、そのヘン突っ込んでくとね、まあヤバげな話になってくるので避けときますが(^_^;)、最後まで警察が追い切れるのかどうかなあ、という心配はもう募ってきてるんですよ。なんやかやと犯罪者には甘いんだもんねえ。


 休日明けの仕事、今一つ調子が出ず。
 軽い風邪だろうとは思うが、あまり発熱しないでただひたすらからだがダルくて重い、という感じになるのがいつもの症状。それでも声だけは張り上げることができるので、仕事をこなせないわけではないのだが、急に目眩がして意識が遠のきそうになるのが怖いんだなあ。傍目からは「なにフラフラしてんだコイツ」みたいに見られてるらしいのがまたツライんだけれども。うう、速く休日来い。


 ずっと前の日記に実は『SASUKE』が好きだ、なんてことを書いたことあるような気がするが、あれは比較的「ヤラセ」が少ないと思うからなんだね。有名タレントでも、失敗したらその場で脱落、さっさと消えちゃうからね。多少は事前の練習くらいさせてるかもしれないけれど、本番一発撮りなのは間違いなかろうから。
 『SASUKE2003・秋最強の女性No1決定戦"KUNOICHI"』、笑い取るためのイロモノ出演者もいるけれど、前回(未見)は第1ステージクリア者が5人だったのが、今回はぐっと増えて13人。出場者のレベルアップが競技を面白くしてるってこと、ちゃんと分かってるんである。
 まあ、根本はるみみたいに最初の舞踊石ですっ転ぶことが分かってるようなタレントも、何人かくらいなら出場させても構わないけど、だったらビキニで出場させろよ。「狙い」は「そっち」なんだろうからねえ(^_^;)。もう一人、明らかに「そっち」狙いな大原かおりがインタビューもなく、ちょっとしか映らなかったのは、芸能界の栄枯盛衰を象徴しているようで、ちょい涙。
 でも平山あやは運動神経もホントにいいみたいだから、もうちょっと頑張ってほしかったなあ。まさか風車渡で落ちるとはなあ……って前回も舞踊石で落っこってんじゃん。事務所、も少し練習させとけよ。なんかこの人、正統派アイドルだってできるのに、下手にいろんな方面への「個性」があるものだから、どう売ったらいいのかわかんなくなってて、損してる気がするねえ。そういう子には、特撮ヒロインやらせりゃいいのよ(^o^)。
 けど、今回恐れ入ったのは、C.C.ガールズの森洋子と水野裕子。森洋子は第3ステージまで、水野裕子はラストステージまで行っちゃうんだから、彼女たちの実力は本物だろう。いや、円柱渡とか、崩れたバランスを即座に戻してるとこ見ると、確かに二人ともバランス感覚がスゴイぞ、こりゃヤラセでもCGでもない(^o^)ってのがわかるから。
 特にエントリーナンバー100、しんがりを務める水野裕子の負けん気、根性、凛々しさには、つまらんテレビバラエティ嫌いの私が、一瞬、胸を突かれて見入ってしまうくらいのオーラまでが感じられた。プレッシャーに整った顔を歪めたり、大声張り上げたりするところなんかは、アイドルとして見た場合、マイナス要因とも言えるのだが、それ以上に、彼女が全身で表現している「やってやる!」というエナジーが、見る者を感動に巻きこんでいくのである。下手をしたら『SASUKE』の色物バージョンとしてしか見られかねない危険のあった『KUNOICHI』を立派な一つのスポーツショーとして見せられている功労者が水野裕子なんじゃなかろうか。
 ああ、こういう人こそ特撮ヒロインに抜擢して……って、そればっかりかい(^_^;)。そうだよなあ、日曜朝の特撮番組になかなか乗り切れないのも「なんでこの役者使ってんだ」ってコンセプトの見えない部分が大きいからなんだよなあ。


 『トリビアの泉スペシャル』、10分延長の拡大版だけれども、特にネタが増えた印象がない。
 つかねえ、今回の「種」なんか、凄い不快感感じるんだけど。
 動く歩道を一流のスプリンターが走ったら、どのくらい速くなるものなのか? という実験なんだけど、そのためにわざわざ連れて来てるのがベン・ジョンソンなんだよ。正直な話、私はこの結果が出たとして、それがどういうトリビアと認定されるのかが全く理解できないし、そもそも番組スタッフが何をしたいのかも分らない。
 「動く歩道」なんて、あんな走るのに全く適してない場所を走らせたところで、記録が出るはずがないなんてことは初めから解りきってる(トリビアの種に送ってきた投稿者もドアホウだ)。スタッフだって、仮に好記録が出たとしても、それが記録としては何の意味もないことは承知の上でやってるんだろう。わざわざ一流のスプリンターを呼んで走らせて、「ホラ、記録は出ませんでした」って笑いたいんだったら、最初から「冗談がわかる」人に依頼しないとシャレにならない。
 ベン・ジョンソンは40歳になろうとする今もなお陸上復帰を夢見てトレーニングを続けているとか。そんなの無理だよと誰もが思ってはいても、かつての彼にまつわる出来事を思い返せば、そう簡単にそのことは口に出せまい。そんな彼にこんな「冗談企画」を持ちこんだ時点で充分シツレイだとは思うのだけれど、もしも彼が「本気で」記録を出すつもりだったとしたら、スタッフは彼にとてつもなく酷い仕打ちをしたということにはならないか。それとも金メダルを剥奪されるようなやつには何をしてもいいって言いたいのか?
 結果、ベン・ジョンソンは、動く歩道の上100メートルを、10秒越えて走ったのだが(それだけでもトシを考えれば充分スゴイのだが)、記録を見たあとで「ここじゃなきゃもっと速く走れた」といかにも悔しそうに呟いていた。その様子を見る限り、やはりマジメに記録を出してやろうと思っていたんじゃないかという気がどうしてもしてしまう。会場はねえ、それ聞いて笑ってたけどさ(笑い屋さんかもしれないが)、「笑いものにしよう」という意図がミエミエのシチュエーションで、あえて笑えるものか? こういうのを、悪趣味とギャグセンスを混同してるってんだよ。
 タモリはこの「トリビアの種」に「満開」をあげていた。気休めにもならないだろうけれど、せめてそれくらいはしてあげないと、って気持ちになっちゃうよね、ホントに。

 特撮ネタ、アニメネタはマニアの突っ込みが激しいからなのか、最近はあまり目立たなくなった。「ウルトラマンと仮面ライダーは握手したことがある」ってのも今更なネタだけれども、これがトリビアとして通用するということは、オタクがいくら一般人化しつつあるとは言っても、世間知から言えば「そんなもん見てるやつはヘン」と思われてるってことでもあるのだ。つか、イタいオタクって、知識が偏ってるだけなんだけどね。「アニメや特撮のことに詳しい」人と、「アニメや特撮のことしか知らない」人とじゃ、そりゃナカミが違って当然。
 でも、『ウルトラマン』も『仮面ライダー』も、実作品を満足に見たことない人が一杯いるってこともやはり淋しいもんなのである。他になんか熱中してることがあるんならともかくも、それが例えば「野球」だけだったりすると、なんかもうこの人とは何をフックにしてコミュニケーションを取ればいいのか、と暗澹たる気持ちになるしなあ。

 今回一番面白かったトリビアは「『しばらくお待ちください』は地方局によって謝り方が違う」で、実際に全国ネットのそのテロップ映像を全部流したこと。これはもう、見ようったって見られないものばかりだから、こうしてまとめて紹介されると「圧巻」の一語に尽きる。「へぇの本」の第4弾が出た時には、これはぜひ見開きで、デザインがハッキリ判るように紹介してほしいね。フジテレビ以外の系列局のも知りたいけどそれはさすがに無理だろうな。

 こういう「地方もの」が『トリビアの泉』の中で一番面白いってのは、結局、他のトリビアが「知の切り取り方」としては下手だからなんである。やっぱ「へぇ」で終わる程度じゃ面白くないんだよね。補足トリビアがもう少し充実してくれればそのへんは大分解消されると思うんだけれども。「大相撲の力士は本場所中全員まわしを洗わない」というのも、理由は? ということのほうが気になる。補足トリビアで、インタビューを取るのならそこまで聞いてほしいんだけど、「臭くないです」で終わりだからなあ(ホントは相当臭いらしい)。
 ゲンかつぎなのかと思って調べてみたら、「絹製のマワシは洗濯するとすぐ柔らかくなってしまって使い物にならなくなるから」というのが正解のよう。もっとも力士一人一人はそんな疑問も持たずにただ「習慣として」洗わなくなっちゃってるようだけれども(^_^;)。


 マンガ、奥田ひとし『新天地無用!魎皇鬼』5巻(角川書店/角川コミックスドラゴンJr.・588円)。
 何か気がつかん間に掲載誌が「ドラゴンジュニア」から「ドラゴンエイジ」に移行してたのである。いやもう全てのマンガ雑誌のチェックなんてしてらんねーんだってば。だいたい勘違いしてる人も多いんだけども、私がこれこれこういうものを読んでますよ、ってご披露してるのは知識をひけらかしてるつもりじゃなくて、これこれこの程度しかモノを知らん人間だから、他のネタ振られても困りますよって意志表示してるだけなんである。その点で私のことを「すごいですねえ」と言って下さる人も、「知ったかぶりめ」とけなしてる人も、文意が読めてない点では同じなのだ。ちゃんと何度も書いてるのになあ。人はホントに自分の思いたいようにしかモノを思わない。
 かと言って、『天地』シリーズについて色々振られても困る点では、やっぱり同じなのである。前の第2期OVAシリーズからもう8年、第1期シリーズの内容も、既に記憶の彼方にスッとんじゃってるのよ(^_^;)。なんたって最初のOVAを、私は近辺では箱崎に1軒しかなかった「レンタルLD」で借りて見ているのである。一体いつの時代の話だ。
 だもんで、作中に「遥照」って名前が出て来ても、「それ誰だったっけ? ああ、天地の親父さんか」と、思い出すのに時間がかかるのだ。テレビシリーズに付いて行けなくなってきたのもトシのせいなんだろうなあ。『新天地』の途中まではなんとか追いついてたんだけれども、『GXP』はもう深夜枠だったこともあって見られなくなってしまった。
 それどころか、一番好きだった「鷲羽」の声優さんの名前がすぐに出てこないのである。魎呼の折笠愛も、阿重霞の高田由美も、砂沙美の横山智佐も、美星の水谷優子もスラッと出て来るのに、「小林優子」だけがブラックボックスに入り込んじゃってるのはなぜなのか。昔のイベントでも、前記の4人の露出は多かったけど、小林さんは控え目だったのが原因になってるのだろうか。
 まあ、それはそれとして、今巻の白眉は何と言っても34話「餐」の寿司グルメ合戦であろう(異論却下)。こんなとこにも「トリビア」の影響は見て取れるが、「なぜ寿司は二貫ずつ出すのか」について、「江戸時代当時、オニギリ大だったのを半分に切ったのが始まり」、とか最初はマトモなウンチク披露の話だったのが、いつの間にか「キュウリに蜂蜜をかけるとメロン味になる」とかどんどん胡乱な方向にズレて行く。
 「プリンに醤油をかけるとウニの味になる」
 「味噌汁に牛乳入れるとバター味になる」
 「バナナにマヨネーズをかけるとメロン味」
 「イカ刺しにポカリスエットをかけるとナタデココ味」
 「酢メシに生卵とコーラを混ぜると旨い」
 「ウニに納豆とアイスクリームを混ぜて……」
 誰かためしてみなさい(^o^)。
 なんかもう別に『天地無用』でやらんでもい〜ような話になっちゃってはいますが、面白ければいいのである。


 マンガ、堂高しげる『全日本妹選手権!!』5巻(講談社/アッパーズKC・540円)。
 まあこのマンガについてはもうあまり細かいことは言いたくないのであるが(いやまあ面白すぎるからなんだけどね♪)。新キャラに関しては特に「触れてはいけない」と私の背後霊が囁いてるのでパス(^o^)。
 「世間で叩かれがちなものを弁護しまくってあげる」っての、これまでの地雷踏みまくりネタを逆手に取っての堂高さんの大逆襲という感じで今巻抜群の面白さを誇っており、でもやっぱり地雷は踏みまくっているのであるが(^_^;)、やっぱり「○かほ○さと○」を嫌ってるオタクって多いんだなあと再確認。
 実際、悪口しか聞かんのに未だに需要があるというのはやはりどこかにファンがいるんだろうけれども、見るからに頭悪そうな中坊でも、やっぱり「あ○○りはねえ」とか言ってんの、よく耳にしてるんだぞ。どこにいるんだファン。
 で、あ○ほ○さんをどう誉めているかと言うと、「エンタテインメントに徹せられるのはすばらしい」。……えー、やっぱリコメントは避けます。
 更には何をどう俎上に上げているか、あとのネタをちょっと列挙してみよう。

 「○崎アニメの声優」→「自然な演技のスキルを持った人を抜擢するのは必然」
 「アイドル声優」→「人間美しいに越したことはない」
 「○原めぐみ」→「どんな役でもこなす技巧派」
 「ガンダ○シー○」→「『サイバーフォーミュラ』はよかった」
 「子安のアレ」→「女子中高生の妄想をあおる術を熟知して(以下略)」
 「声優使った特撮」→「本家の特撮の俳優も昔からあんなもん」
 「○渕裕」→「社会現象まで起こしたもんね、『エヴァンゲリオン』」
 「自分の漫画のエロ同人誌出してる漫画家」→「(省略)」

 誉めてるなあ(^o^)。いやもう、オモテで語れるネタとしてはこれがギリギリの線なのだろうなあ。
 でも、「宮○アニメの声優」についてはちょっと異論がある。確かに『もののけ姫』のアレとアレとかがひどすぎたんで、どうしてもマイナスで見られる傾向があるのは納得するんだけれども、みんながみんなハズレってワケでもないでしょ。『もののけ』で言えば、西村雅彦や美輪明宏はちゃんと評価しないとイカンと思うんだがねえ。アニメ出身だろうが、実写出身だろうが、要するに役者としてその映画にハマッてるかどうかってのを判断しないと結局はただの印象批評にしかならんのである。例えば、『となりのトトロ』のメイちゃんは坂本千夏でいいけれども、『火垂るの墓』の節子は“当時の”白石綾乃ちゃんでないといけないってのは、そもそも作品の「質」が違うから、ってことなんだよ。
 前にも書いたことあると思うが、「結局有名俳優を使うのは、客寄せのためじゃないか」って批判を一蹴できるのは、『カリオストロの城』の頃から、宮崎さんだけじゃなくて大塚康生さんも含めて、「演出家としては」、アニメ声優の誇張されすぎた演技がイヤでレギュラー声優を変えたがっていたことを指摘しとけば事足りるのだ。クラリスやカリオストロ伯爵に、当時は声優専門ではなかった島本須美や石田太郎を起用したことまで否定するかねえ?
 も一つ言えばよ、ただ客寄せのためなら、サンやアシタカにあの人たちを使わんでもジャニーズ系の人選んだ方が得策でしょうに。アレで客寄せになると判断する感覚がもう、オタクの平常感覚が偏ってることを逆証明してるんである。それで言うなら、小宮悦子やらイザムやらをゲストに呼んだ『クレヨンしんちゃん』のほうがよっぽど「客寄せ」に熱心じゃん。批判と難癖の違いくらいはハッキリさせてよね。
 オタクがさあ、林○めぐみの小器用さがイヤだって言うなら、○崎さんの声優起用の仕方には賛成してもよさそうなんだが、なぜか批判の声が大きいのは、「苦楽を共にしてきた仲間が有名になったことへのやっかみ」に近い感覚があるようで、なんかちょっとウジウジし過ぎてんじゃないかって思うんである。

2002年09月24日(火) チチに弱い男ばかりじゃねーぞ/『アフター0 著者再編集版』3・4巻(岡崎二郎)ほか
2001年09月24日(月) 荒らしを起こして♪/DVD『マジンカイザー』1巻/『KUNIE』1巻(ゆうきまさみ)ほか
2000年09月24日(日) ○○と○○はどちらが臭いか…汚ねえな/『いつも美空』1巻(あだち充)ほか


2003年09月23日(火) お盛んな大阪/映画『總篇 佐々木小次郎』/『Q.E.D. 証明終了』16巻(加藤元浩)/『魁!! クロマティ高校』7巻(野中英次)ほか

 昨22日に行われた大阪府の緊急アンケートで、道頓堀川への飛び込みに、大阪人の83%が否定的、との結果が出たそうな。
 なんだ、結構大阪人も良識ある人って多いんじゃん、とウッカリ思ってしまいそうな数字であるが、果たして残り17%の中に「賛成」者がどの程度いるものなのか。仮に10%だとすれば、それはいったい「何人」くらいになるのか。
 9月1日現在の大阪府の人口は、8,831,220人。ということはその10%は、883,122人ということになる。これ、全然少ない人数とは言えないと思うんですけど(^_^;)。そりゃ六千人くらいは飛び込むわなあ。
 街中で石を投げれば、10人に一人の確率で「そういう人」に当たっちゃう可能性が高いのである。やっぱり今の時期の大阪には行きたくねえなあ、という判断は当たってんじゃないかと思うが。


 休日だけれど、終日無為。
 昨日から体調を崩しているので、午前中はずっと爆睡。CS時代劇チャンネルで阪東妻三郎特集をやっていたので見るつもりだったのだが果たせず。
 11児にようやく起きて、カレーライスを作る。「こくまろカレー」に焼肉のタレを混ぜて炒める。これがコクの上にコクが出ていいんだって。具は鶏肉のほかに、タマネギ、人参、ジャガイモのセット売りをそのまま使用。でも人参がちょっと古くなってへにゃっとしてたのは失敗(^_^;)。
 まあ、ルーの出来は悪くなかったので食えないことはない。しげにもまあまあ好評であった。


 昼からCS時代激専門チャンネルで『總篇 佐々木小次郎』(1951=東宝)。
 大谷友右衛門(後の中村雀右衛門)の映画出演第1作で、時代劇の名匠・稲垣弘が監督に当たっている。武蔵ではなく小次郎にスポットを当てた原作は村上元三で、脚本にも一枚噛んでいる。もっとも武蔵以上に素性の分からぬ小次郎のことだから、実在人物とは言ってもその物語は殆ど創作である。巌流島対決で小次郎が死ぬことは観客には分かっているのだから、どうしても小次郎の言動に悲壮感が漂ってしまい、モノクロ映像も相俟ってか、映画のトーンが暗く沈んだ感じになってしまうのは否めない。しかも、6時間弱の三部作を一本にまとめてるものだから、どうしてもダイジェスト的な印象が強く、三船敏郎の武蔵がチョイ役にしか見えないのも残念である。

 続けて、本作の同監督によるカラー版リメイク『佐々木小次郎 前編・風雲大阪城/後編・決闘巌流島』(1967=東宝)。
 これも四代目尾上菊之助(現・菊五郎)の映画デビュー作。稲垣監督、歌舞伎役者の若手を小次郎に起用するという伝統でも作りたかったんだろうか。話は前のと同じなんだけれども、尾上菊之助の方が大谷友右衛門より「やんちゃ」な印象を受ける。こっちの武蔵は仲代達矢だけれども、影が薄いのは前作同様。小次郎の履歴を描写しようとするあまり、ライバルを軽んじちゃった印象がある。まあこのへんが吉川英治と村上元三の腕前の差ってことになろうか。


 夕方、起き出して、ちょっとだけ日記を更新。休日こそ一気に一週間分くらい更新したいんだけれどそれがどうにもままならないのは、やっぱりこれも書いとこう、あれも書いとこうと欲が出るからである。
 もっとサラッといかんものかと自分でも思っちゃいるのだが。


 夜は民放で映画『ピンポン』をやってたのを見る。未だに原作マンガの方は完読してないのだが(買うこた買った)、松本大洋のコマ運びにはまだちょっと馴れないでいる。ひとコマひとコマが独立した静止画のような印象を受けてるもので、物語の「流れ」を掴みにくい。
 映画にそういう「静止画」を持ちこむことはかえって困難なので(持ちこんでる部分はかえって失敗している)、私には映画の方がずっと「流れ」を感じることができた。批判喧しい窪塚洋介についても、演技がどうのより、役者本人に対する嫌悪感のほうが先に立ってるような感想も多いし、そういう偏見抜きにして、これはやっぱり「面白い」映画の一本だと思うんである。


 マンガ、加藤元浩『Q.E.D. 証明終了』16巻(講談社/月刊少年マガジンコミックス・410円)。
 『サクラ サクラ』と『死者の涙』の2本を収録。
 シリーズも巻数を重ねてきてるからなのか、「異色」なエピソードが増えてきてる印象。
 『サクラ サクラ』は殺人もなければ誘拐もない。事件らしい事件もない。佐藤春夫の『家常茶飯』のような、基本的にはただの「失せもの探し」の話である。こういうのを他愛ないと切って捨てる読者もいるだろうが、「日常の謎」を描けることこそが、その作家に本当に実力が備わっている証拠なのである。「闇の中でも文字が読める」ネタに、「はは〜ん」と気づく人も多いと思うけど、この話の眼目は更に「そのあと」にあるのだから、そこで即断してこの話を侮ってはならないのである。それにただの物探しの話じゃなくて、今回は燈馬想が完全に「安楽椅子探偵」に徹してる点にも注目しておくべきだろう。
 ちょっとラブコメ要素が入ってるのはまあ、ご愛嬌ということで(^o^)。
 『死者の涙』には、ちょい怪奇ミステリの要素あり。タイトルは比喩でもなんでもなく、“本当に”死者が涙を流す話なのである。別にそこに「トリック」はありません(このへんはネタバレの範囲外だし、この手のミステリに不慣れな人は予め知っといたほうがいいだろうと思うんで書いときます)。これもカーの『火刑法廷』ほか、「そういうミステリの系譜がある」ことを知ってないと、多分「んなことあるワケないじゃん」と突っ込んでしまう読者もいるだろうね。
 つまり今回は二作ともすげえ「マニア受け」な話なんで(いつもそうだけど)、こんなん描いてお客さん付いて来れるんかいな、という心配が少しばかりしないでもない。けれどそのマニア性をそれと感じさせることなく、エンタテインメントなマンガとして成立させている点に加藤さんの非凡さがあると言えるのである。何度も書いてるけど、『探偵学園Q』とか『名探偵コナン』とか読んで感心してるようじゃ、ミステリの奥深さは全然味わえないってことなんですよ。


 マンガ、野中英次『魁!! クロマティ高校』7巻(講談社/少年マガジンコミックス・410円)。
 今度は「悲願熱涙編」(by『空手バカ一代』)です。この「〜編」ってのもいくらでもネタありそうなワリにもう随分マイナーなの選んできてるねえ。内容とはほぼ全く全然というほど関係ないのが常だけど、表紙のキャラが北斗武士だと、何となく意味ありげには見えるからフシギ(^o^)。
 中身は相変わらずで、いったいこれは面白いんだかつまらないんだか分らないセンスでぶっ飛ばしてますねえ。もうゴリラの絵がヘタでヘタで。これじゃイエティだよ(^_^;)。いやそんなことが言いたいわけじゃなくて。
 関係ないけど「ジェットコースターでは両手を上げる」なんてお約束、あったの?

2002年09月23日(月) なんだかいろいろ/『一番湯のカナタ』1巻(椎名高志)/DVD『ハレのちグゥ デラックス』第2巻/舞台『天神薪能』ほか
2001年09月23日(日) 行間を読んでね/映画『ラッシュアワー2』&『ファイナルファンタジー』
2000年09月23日(土) 昼寝とDVD三昧の一日/映画『スリーピー・ホロウ』ほか


2003年09月22日(月) 記録の魅力/『ロケットマン』6巻(加藤元浩)


 森光子さん主演の舞台、『放浪記』が、昨21日に昭和36年の初演以来、通算1600回の上演記録を達成した様子が朝のニュースで流れている。
 こないだ初日に見に行ったときには、最後の舞台挨拶は森さん一人が正座して手を広げるだけだったのだけれども、昨日は博多座に東山紀之、堂本光一、滝沢秀明も駆けつけて、森さんの偉業達成を祝福した模様。
 舞台の様子も中継されてたけれども、やっぱりカフェで森さんが踊ったりするシーンや、木賃宿ででんぐり返るシーンだったりする。「83歳とは思えない」と視聴者に思わせる演出だということはわかるんだけれども、森さんの演技力が発揮されるのはどっちかというと静かなシーンの方に多い。情念が全身から沸き立って来るような、それでいて決して下品ではない「林芙美子」としての仕草や表情をしっかり捉えてくれなきゃ、あの舞台の本質を紹介したことにはならんと思う。ニュース番組のディレクターも質がどんどん落ちてきてるんである。

 私は林芙美子の小説は『放浪記』しか読んでいない(『浮雲』は映画の方しか見ていない)。つか、今は本屋の文庫の棚に並んでるのがそれだけだから、図書館とかで全集などを探さない限りは読みようもないのである。流行作家の運命というものを考えると、そぞろ寂しい限りだが、林芙美子自身、自分が忘れられることを痛感していたのではなかったか。
 「『放浪記』だけは残ると思う」というのは本人の述懐だが、言い返れば他の作品は全て忘れられてしまうかもと感じていたのだろう。別に他の作品がつまらないということではない。小説や映画は、どうしたってその時代と「寝る」運命にある。風俗習慣の違いを越えて読み継がれ語り継がれる作品など、厳密にはありえない。『源氏物語』ですら、本居宣長が「再発見」するまでは「封印」に近い状態にあったことを想起して頂きたい。
 森さんの林芙美子は、最後に「書かなきゃ、林芙美子は結局『放浪記』だけの作家だったって言われるのよ」と吐き捨てるように呟く。それだけでも充分じゃないか、というのは、抗い難い人間の業からあえて眼を背けている者のタワゴトであろう。

 福田清人編・遠藤充彦著『人と作品15 林芙美子』(清水書院/センチュリーブックス・714円)」は、現在比較的入手しやすい彼女の評伝だが、シリーズものの一冊で紙数に縛りがあるために、その懊悩の人生の全てを描ききっているとは言い難い。しかしそれでも、舞台『放浪記』と比較しながら読めば、舞台の作者である菊田一夫が「虚構」を通じていかに林芙美子の心の「実像」を浮かびあがらせようとしたかが見えてくる。
 舞台では、実在の人物そのままの名前で登場するのは林芙美子と菊田一夫の二人しかいない。芙美子の母親キクですら舞台版では「きし」となっており、養父沢井喜三郎も「謙作」とその名を改められている。しかし物語自体は原作の『放浪記』をほぼそのままになぞっており、例えば、愛の遍歴に疲れて初恋の人にすがりに尾道に逃避するエピソードもまた、『放浪記』第二部の冒頭で語られている実話である(ただし、史実の芙美子が帰郷したのは大正十三年のことだが、舞台では昭和二年に“ズラシ”ている)。
 だが、この舞台のクライマックスである、芙美子が自分の『放浪記』の原稿を雑誌に掲載させるために、親友兼ライバル・日夏京子の小説を一時隠匿した、という話は、『放浪記』にも評伝本にも書かれてはいない。史実においては、『放浪記』は長く芙美子の篋底に埋もれてはいたが、三上於菟吉、長谷川時雨夫妻によって『女人芸術』に連載され、それが改造社の記者の眼に止まり、出版を果たしている。芙美子の栄光への執着心を誇張して描いたようなこのエピソードは、恐らくは菊田一夫の創作で、事実ではないと思われる。あるいはそれに近い出来事が少しくらいはあったのかもしれないが、菊田一夫は、林芙美子が「そういう人であった」ことをあえて描きながら、決してそれを否定的に見るのではなく、運命に抗おうとする彼女の「生」を半ば称えるようにして暖かく見つめている。
 だから、舞台の林芙美子は、意固地で、自己本意で、恨みがましく、韜晦ばかりしていながら、決して醜くはない。ラストで老醜(と言っても亡くなったのは47歳なのだが)を演じながらもかわいらしく、哀れなのである。
 史実の林芙美子は、執筆による過労が持病の心臓弁膜症を悪化させ、夏のある日、雑誌の取材で銀座でうなぎを食べた直後、心臓発作を起こして亡くなっている。舞台の林芙美子は直接その死は描かれていないが、誰もいなくなった自室で文机に持たれかかるようにして眠る。終生、孤独の影から逃れられなかった彼女の人生を思う時、やるせなさは募るばかりである。
 「虚によって実を語る」菊田一夫の面目躍如と言ったところだろう。

 ついでだけれど、菊田さんの手によって名前は変えられているが、登場人物が実在の誰に当たるかを次に記しておく。
 香取恭助→岡野軍一
 日夏京子→友谷静栄
 伊達春彦→田辺若男
 白坂五郎→上田 保
 福地 貢→野村吉哉
 藤山武士→手塚緑敏
 村野やす子は、平林たい子、壺井栄などのイメージが重ねられているようである。
 女給仲間の悠起、浅子、君、とも子、あけみらは、『放浪起』中に名前の散見する、初、秋、八重、由、俊、計、君、みき、といった女性たちをモデルにしていると思われるが、誰が誰に比定できるものでもなく、また、これらの名前自体が本名かどうかも、定かでない。まあ、文芸研究かならずば、モデルが誰かということは、舞台を楽しむ上においてそんなに気にすることではないのであるが。

 1600回の舞台を終えた森さんの挨拶は、「1600回という節目でございます。嘘は言いたくない。すごく不安だったんです」というもの。自分がそこまで一定のレベルの芝居を維持できるのだろうか、という不安もあったと思う。一回一回のお客さんの評価に晒されているプレッシャー ――というよりは「恐怖」―― に堪え続けた気力、体力はいかばかりか。
 森光子、今もなお旬か。驚嘆すべし。


 飛び石連休の狭間だったせいか、昼ごろからからだがすごくダルくなってくる。昼間クスリの副作用で眠くなるのはいつものことなのだが、立っているだけでふらついてくるのはちょっと辛い。
 それでもなんとか仕事こなしてるから、自分でもよく頑張ってるなあと思うんだが、見た目は単にくたびれて青息吐息なだけだから、ダラけてるようにしか見えないのである。
 やっぱりこれは痩せなければならない。デブだと、どんなに努力しても、この世の中ではマトモに評価してもらえないのである。20キロ体重を落とすだけで、世間のまなざしは変わるのだ。
 外見で人を判断するなったってなあ、判断する阿呆の方が世の中の大半を占めてるんじゃ、文句つけても詮無いだけなんだもんねえ。


 夜、グータロウ君から電話。
 何か急用かと思ったら、「いや、しばらく書きこみとかしてなかったから」とお詫びを兼ねての連絡とのこと。
 全く律儀だなあ、と思ってたら、「で、今、『ガドガード』見たんだよ」。
 いきなりその話題かい(^_^;)。
 動きは確かにいいんだけれども、キャラクターの整理はできてないし、なんか『ビッグ・オー』の二番煎じみたいな感じだし、あの運送屋って設定をうまく生かせるならモノになるかもしれないけれども、今のところはまだまだ未知数、といった評価。これはまあ私もだいたい同意。ヒロインの女の子がかわいいからとりあえずは見てやろうとは思うけれども、DVDまで買うのはちょっと控えたいところである。
 あとはもう、グータロウくん、『座頭市』の感想を怒涛のごとく語る(^_^;)。ヤレ、画面に空気が流れてないの、殺陣にタメがないの、おハナシが浅草軽演劇の構成そのまんまだの、大楠道代の使い方間違ってるのと、貶しまくることったらない。「一度オーソドックスな映画作ってみろよ、それがたけしのためだよ」と、おまえたけしの親戚かなんかか、みたいな言い方までしてたが、聞く人によっては、彼のこの言い分に異義をとなえる人もいるだろう。確かに「知らない人間」には誤解を招く表現ではある。
 なんかホントに野暮な解説になっちゃって、彼には申し訳ないのだが、これはグータロウくんが傲慢になってるわけでもなければ、知識をひけらかしてるわけでもない。これは、たけしもグータロウくんも、同じ「下町」の空気を吸って育ってきた人間からこそ言える、「共感」としての述懐なのである。
 かつて、「芸人」と「客」とが一体となっていた寄席や芝居小屋での感覚、芸が受ければ客は喝采するし、つまらなければさっさと帰る、その中で芸人たちの「芸」が自然に磨かれていく、その関係のままにグータロウくんは発言しているのだ。
 別に客だって芸人を育てようなんて滅多なことは考えちゃいない、ただ素直に面白いものは面白い、つまらないものはつまらない、そう思ってるだけのことなんだが、だからこそ芸人は受けるためには闇雲に精進をしていた。つまんない芸を披露すれば「田舎へ帰れ」と罵倒されるのが普通なのだから当たり前である(まあたけしはもともと下町生まれだけど)。
 グータロウくんには、たけしが映画においてはなぜ「空気」を扱えないのか(舞台での「空気」の感覚に馴れていると、映画においてそれを表現するのは空気を「作る」ことになり、すごく「照れくさくなる」のである)、「殺陣」に「タメ」を作れないか(これも照れくさいからである)、それが感覚的にわかる。分かるからこそ「ダメ」だと言える。それは同じ土地の空気を吸い、文化を共有して来ているからこそ言えることなのである。
 私はだからこそあえてあの映画を「かわいい」と表現したのだが、この言葉もグータロウくんから見れば「照れくさい」、いや、「しゃらくさい」表現ということになるかもしれない。どっちにしろ、グータロウくんのような立場での批評は貴重である。やっぱりねえ、「外国人が日本を舞台にして作った映画」みたいにさあ、共通の文化基盤を持たないで何かを語ってもねえ、どうしてもどこかトンチンカンなものになっちゃうのよ。


 マンガ、加藤元浩『ロケットマン』6巻(講談社/月刊少年マガジンコミックス・410円)。
 主人公の水無葉が情報組織「トゥルー・アイズ」のエージェントになって以来、加藤さんのもう一つの傑作シリーズ『Q.E.D.』との差別化が難しくなってるけれども、面白いからいいんである。
 Episode19『賢者の石』と20『たった一兆』の前後編、今回のテーマは「投資」。
 80年代に設立された投資会社フェイソン・トレーディング。その創立者である金融工学の天才、ロジャー・フェイソンの確立した「フェイソン理論」に基づいた投資は、何十億ドルもの利益を生み出していた。しかし世界的な不況がフェイソン・トレーディングを急激な破綻へと追いこんだ。一社の破綻が連鎖反応を起こし、世界市場は恐慌、引いては市場停止にすらなりかねない状況にあった。
 その最中に、事態を収集する可能性を持っていたロジャー・フェイソンが謎の「自殺」を遂げる。けれどそれが自殺だとどうしても信じることのできない少女がいた……。
 「レバレッジを利用した巨額なお金の応酬、そして情報戦!! それはネットワークを流れるただの数字だけのやりとりを通じてなされる。自分の思惑通りに市場を動かそうとお互いが圧力をかけ合う。もはや経済ではない。世界のお金はゲームで動いてる」……このセリフを口にするのは、経済学者でもなければ資本家でもない。主人公の葉でもない。今回のゲスト、弱冠14歳の少女、エミリー・フェイソンのセリフなのである。タイトルの「たった一兆」は、そのわずか一兆円の儲けのために人間の命が奪われる理不尽を告発したものだ。
 これはフィクションである。マンガである。けれど現在の「経済」がただのゲームに成り下がっていること、それは紛れもない事実だ。世の中にはバブルの崩壊で「儲けた」やつだっているのだ。
 私ゃ拝金主義とまではいかないけど、やっぱお金はないよりあったほうがいいと素直に考えてる人間だけどさ、例えば一兆円積まれたって親兄弟や女房を売ったりゃしない程度の「良識」は持ってるつもりなのよ。だからまさに「たった一兆のために……なあ」と思うんだが、ポーズかなんだか知らないけど、「一兆もらえるなら親だって売りますよ」と平然と嘯くやつ、現実に結構な人数いるんだよね。ジョークのつもりかどうかしらんが、こういうセンスもねえ冗談こかれたって、ただの厚顔無恥にしか見えないってこと、気付かねえのか(-_-;)。
 大金持ちを夢見ることは悪いこっちゃないし、目の前に現実に「儲ける」手段があるならそれに乗っかったって全然構わないだろう。
 でも現実のものごとには、ほぼ100%、リスクが伴う。分不相応な欲をかいたところでロクな結果にはならない。投資が「経済」だった時代には、そういう「経験則」も「カン」も働いてたと思うんだが、今はもう、お金がどう動こうが、結局庶民は損するしかないシステムになっちゃってるんである。なんか憶だの兆だのってレベルでカネ動かしてる連中がもし側にいたら、横っ面を張り倒したくなるんだけど、そういう感覚持ってるってのも、もう少数派になっちゃってるのかなあ。

2002年09月22日(日) 変なビデオは買いません/映画『仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』ほか
2001年09月22日(土) 気がついたら食ってばかり/映画『カウボーイビバップ 天国の扉』
2000年09月22日(金) 徳間ラッパ逝く……/ドラマ『ケイゾクFANTOM 特別編』ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)