無責任賛歌
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| 2003年09月12日(金) |
誉められ下手な話/『ガウガウわー太』7巻(梅川和実) |
昨日の深夜、WOWOで放送されていたシティボーイズミックス『NOTA 恙無き限界ワルツ』をDVD―Rに録画しといたものを朝から見返す。 私としげが見に行ったとき、ちょうどWOWOWさんが入ってたのだけれど、どうも今回放送の分は別の日に収録されたもののようである。これ、私たちが見たときのはトチリが多くて失敗してたスケッチも多かったんで、改めて撮りなおしたんと違うかな。私たちが見たときの公演では、『首の皮一枚ショー』のところで、斉木さんが「そろそろ眠くなってるお客さーん」と呼びかけてたんだけど、放送分にはそれがない。放送されたのは北海道公演のやつかも。で、ナマで見たときより面白いんだわ(^_^;)。 いつもは収録されてる舞台挨拶もなぜか今回は放送せず。実は私たちが見たときには、大竹まことさんが五月女ケイ子さんを名指しで「誰が連れてきたこいつ!」と怒ってたのである(きたろうさんである)。もしもほかの公演でも同じことを言ってたとしたら、WOWOWさんとしては放送しにくかろう(気にするこたないと思うけどな。五月女さん、ホントに悪いわけじゃないんだから)。 放送後にきたろうさんと五月女さんとの対談があったが、そこできたろうさんが「公演中は、演技論の違いで大竹と本気でケンカしてた(あとで仲直りした)」とウラ話を披露。その衝突がだんだん舞台をコナレさせていったんじゃないか。シティボーイズの芝居は中日以降に限るのかも(^_^;)。
チャットをのぞいてみたら、ちょうどグータロウ君が入室したばかりだった。彼はほぼ朝しか書きこみをしないので、私も休日にしか会えない(と言いつつ、休日の朝は私の方が寝てることも多い)。たまにこうして会えると嬉しいのだが、せっかく事前に教えておいた『NOTA』の録画、ケロッと忘れてたそうである。テレビガイドに印くらいつけとこうよ。 私はこれ忘れるとしげから殺されるので、忘れるわけにはいかない(^_^;)。グータロウ君には「再放送無いかなあ」と聞かれたが、これが何とも言えない。WOWOWは舞台中継に関しては権利関係で問題でもあるのか、あまり再放送をしないのである。 お喋りしている最中に、しげが仕事から戻ってくる。朝の6時半なので、グータロウ君、「まさに『すれ違い』生活なんだなぁ」と呆れている。 しげ、何日か前にヘンなメールをグータロウ君に送ったらしく、「嫌われてないかなあ」と心配げ。どんな内容だったかは私は知らないが、日本語の不自由なしげのことだから、きっとデンパなメールに違いない。TPOの全く分らない文章だったろうなあ、送られたグータロウ君には全く申し訳ない(ちなみにしげは「TPO」を「Time」「People」「Object」の略だと思っていた。意味通じねーよ、それじゃ。しかも「Object」という単語は浮かばなくて「目的語」と言ってたし。正解は説明したが、多分もう忘れているだろう)。
テレビを見ても新聞読んでも、台風14号は順調に接近中、と報道されてるけど、今朝の空模様はピーカンで、風もそよとも吹いてない。これでホンマに台風来るんかいな、と、夕方ボンヤリ職場の窓から空を眺めていたら、ピュウと一迅の風が吹いてきて、押し寄せるように雲が空を覆い始めた。 台風が「やってくる」のを見たのは始めてである。外れた時の天気予報は腹立たしいから覚えているものだけれども、当たったときは殆ど印象に残らない。けど今日の台風は、「感動」(?)とともに長く記憶されることであろう。とか言ってるような出来事に限ってたいてい翌日には忘れてるんだな。 同僚が、「嘉穂劇場に中村珠緒は来れるのかな」と心配していた(先日の水害で、復興のためのチャリティーが行われて、ゲストで来福する予定なのである)。
曇り空でもすぐに大雨になるものでもなかろうと高を括って、少しだけ残業。ところがアテは見事に外れて、6時を回って職場から一歩外に出た途端に、ぶちまけるような大粒の雨に見舞われた。ちょうど帰りが一緒になった上司(例のアキレス腱を切って復帰したばかりの方である)が、傘も差さずにいたので、慌てて差し出す。 「いや、怪我してるときはこういう親切が身に染みます」と仰るが、普通、こういう状況で傘を差し出さない人間もいないと思う(^_^;)。なんだかこの方、やたら私を買い被ってくれるので、かえって恐縮してしまうのである。 乗り込んだバスの中でも、「藤原さんはすばらしいですよ、ご病気をされているのに前向きでいらっしゃって」となんだか妙に持ち上げられてしまう。こんなふうに誉められることくらい苦手なことはない。だって誉められてるのに怒ることなんてできはしないから、ひたすら恐縮し続けるしかないのだ。 「私よりずっと苦しい思いをしながら闘病されてる方はたくさん見てますから、落ちこむようなおこがましいことはとてもとても」 「いいや、できることじゃないですよ、滅多に。本当は苦しい思いをされたこともあるんでしょう?」 「いやもう、そんなのは子供のころだけです。明日死んでるかも、と思いながら今日も生きてたら、だんだん落ちこむのにも疲れちゃいますから」 実際、毎日痛みが続く、という類の病気ではないので、気持ちだけ落ちこんだって損するばかりなのだ。生来、呑気なほうなので、自分の病気や怪我のことも日頃は忘れてると言ったほうが正しいか。指が痛んで利かなくなってきてても、「まあ、そういうもんだろう」としか思わないのである。 「とりあえず定年まではからだ持たせたいなあ、と思ってるだけですから。前向きがどうのって立派なもんじゃないんですよ、すみません」 もう頭を下げて許しを乞うしかない。批判や悪口に対しては、反論もできれば身を交わすことだってできるけれど、称賛は一度捕まっちゃうと逃げられない。誉められてすぐに有頂天になれるタイプの人ならともかく、私は、自分が誉められるような類の人間でないことは重々承知しているから、誰のことを差して言ってるのかがピンと来なくて、うろたえるばかりなのである。 上司は途中でバスを降りて別れたのだが、それからあとが道が大渋滞。結局、帰宅するまで2時間もかかってしまった。もう9時近くで、晩飯を作る時間の余裕もない。しかたなく買い置きのとろろ芋をすってメシにかけて食べるだけの簡単食事。まあ晩飯は本来この程度で充分ではあるんだろうが、なんだかやっぱり口淋しいのである。
CSアニマックスで、今日から『ガドガード』が放映開始。 製作はゴンゾで、脚本が會川昇氏。會川さんは、設定を作るのはうまいけれど、脚本を書かせるとしばしば暴走してしまうので、面白い作品になるかどうかは1話だけを見てもまだ未知数であるとしか言えない。主人公たちの「運び屋」って設定がうまく生かされたら楽しめる作品になりそうではある。作画はもうよくぞここまで動かしてるなってくらいに動いてはいる。テレビアニメかホントにこれって感じ。こんなの毎回作ってたらそりゃ落とす回も出てくるわな(^_^;)。
マンガ、梅川和実『ガウガウわー太』7巻(新潮社/バンチコミックス・530円)。 緩やかにではあるけれど、今巻当たりから「第2部」の始まりって感じになった。太助のみさとセンパイへの告白は予想通り(と言っちゃ悪いけど)あえなく玉砕、けれどそれでも「獣医になる」決意は太助の心の中で揺るがないものとなっていた。主人公の成長がキチンと描かれるマンガってのは、やっぱり読んでて気持ちがいいね。 マジメに自分の道を進もうとしている少年には自然と女の子も慕ってくるもので、後輩の遠藤まいはもう大胆にアプローチしてくるし、委員長の尾田島淳子はかわいいくらいにジェラシるし、なんかラブコメみたいになってきました。その分、いつもの動物話は希薄になってるんだけど、まあ動物マンガのカテゴリーから大きく外れたりはしないだろう。何たって、近頃この作品くらい、作者の「描きたいもの」に真摯かつ忠実に描かれている(ように見える)マンガも珍しいのてある。多少、編集部から、「もっと女の子の出番増やして人気取りに行きましょうよ」とか言われてたとしても、梅川さんは自分の意志をきっと貫いていかれると思うのである。 新登場のシャム猫のチャム、これがどうやら犯罪に関連しているらしいワケありの猫。チャムの飼い主らしい女と、その相方の男はチャムを1日動物病院に預けている間に何やら怪しいことをしているようなのだが、今巻ではまだその犯罪の全貌が明らかになってはいない。作者は動物に関する事件についてはこれまでもキッチリと取材して描いてきているので、恐らくこの「動物のカルテを写真に撮って盗んで行く」この二人組の犯罪者についても、なにかモデルとなった事件があるのだろうと思われる。 次巻予告ではその事件の謎に迫ろうとしたまいちゃんが拉致されてしまうらしいが、その、気絶して倒れてるまいちゃんの絵がなかなかキョーアクで(^_^;)。いやまあ、ちゃんと良心的な「動物マンガ」であり続けるだろうと信じてますよ、ホント。
2001年09月12日(水) 誰かあの飛行機に「テロチルス」と仇名をつけたやつはいないか(^_^;)/『あずまんが大王』3巻(あずまきよひこ) 2000年09月12日(火) 打ち身とワンピースの続きと/『ONE PIECE』6〜15巻(尾田栄一郎)
| 2003年09月11日(木) |
アニメの世界は広いんだぞ/『Heaven?―ご苦楽レストラン』6巻(完結/佐々木倫子) |
昨日のチャットでの『トリビア』話の続き。 「波止場で船を舫う金具のことを何と言うか?(よく小林旭とかが足かけてたやつね)答えは『ボラード』」というやつだが、これは「日頃よく目にするけど意外と名前を知らないもの」ということでなかなか面白いトリビアシリーズになりそうだという話題であった。 で、私が「カレールーを入れる容器の名前を何と言うか?」ってお題を出してみたのだが、博学なみなさんばかりなのに、意外にも名前を知らない方がおられた。答えは「ソースポット」である。でも、昨日はつい説明し損なったのであるが、ホントのことを言うと、私もその名前を知ったのはつい5、6年前のことだったのである。 シティボーイズライブ『NOT FOUND』の中の『毛皮男たち』のスケッチで、中村有志が「カレールーの入れ物買いに行くんだけど、アレなんて言ったっけ?」と質問したら、大竹まことが「魔法のランプって言うんじゃないのか?」と答え、陰でいとうせいこうが「こんな人死ねばいいのに」と突っ込むというギャグがあったのである。 で、結局「魔法のランプ」を何と言うのか芝居の中では答えが語られないまま、どうにも気になって、あっちこっちネットを探して、ようやく「ソースポット」という名前に行きついたのである。 それまで私は勝手に「ルーカップ」と呼んでいた。ポットよりはカップのほうがイメージに合うよなあ、とは思うが、全くもって芸のない名付け方である。 チャットで某さんは「『アラジンつぼ』と呼んでました」、とご披露されておられたが、どうせ間違えるなら、これくらいすっ飛んだ間違いをしたいものである。 ついでだが、子供のころ、私の母方の祖母は、食器の「フォーク」のことを博多弁で「刺すと(刺すもの)」と呼んでいたので、私はてっきり「サスト」という名前の道具だと思いこんでいた。みなさん、こういう思い間違い、勘違いで覚えてたものってありませんか(^_^;)。
9月8日の大地丙太郎氏の日記に、以下のような記述があった。
> 先日「アニ丼」でも言ったんだけど、機会があってアメリカで始ったばかりのシリーズアニメ「3Dスパーダーマン」を観た。 > すごい! > 物凄い表現力と技。 > センス溢れる構成、音楽。 > ある意味映画「スパイダーマン」より面白い。すごい。(中略) > 世界には俺たちシリーズアニメ作ってる者には想像もつかない個性あるテレビアニメーションは数多くあるのだ。 > 日本はアニメ大国だとか言って浮かれてる場合ではないぜ。 > 海外のコンベンションでちやほやされて浮かれている場合ではないない(俺じゃん)。 > アメリカを始めとした海外に市場が広がり「こいつぁいい商売になってきたぜ」などと言って闇雲におんなじようなモンばっかり作っている場合じゃないよもうホントに。完全に負けてるって。 > 落ち込むよ〜。アニメ雑誌見てみ。ま、きれいでかわいいかもしれんが個性ないぜ〜。元気もないぜ〜。どれもこれもみんな同じに見えるしさあ。 > ああ、こういうものやってるんだなあ、俺たち。
> 日本のアニメは確実に明日辺り突然本数が激減して不況が来るのだから、今のうちにもう一度自分の仕事を見つめ直しておかないと。 > 自分が作っているものは本当に面白いのかどうか。 > 自分が楽しみにしているアニメが本当に面白いのかどうか。 > という話をすると「いや、日本のアニメは素晴らしいよ……良いのもあるよ」と言われちゃうんだけど、それでももう一度見直してみない? 自分らの発想の貧困さ。
はるか昔に宮崎駿が「セーラー服の美少女がマシンガン持って撃ちまくるようなアニメばかり作ってちゃダメなんです」とみんなが嫌がるような発言をしてたけれども、10年、20年経っても、日本のテレビアニメの状況は少しも変わっていない。未だに美少女とメカが横行している。それがイカンというわけじゃないが、そればかりと言うのはやっぱり異常なんじゃないか。「いい作品もあるよ」というのはつまり「ダメなやつのほうが圧倒的に多い」ってことだからね。 でもこんな直截的なことを仰って、大地さん、大丈夫なんだろうか。以前にも類似の発言されてたことがあったが、アニメ業界の人から煙たがられてはいないだろうか。「忠言耳に逆らう」と言うが、言ってることがズバリ当たっているだけに、反発の大きさも想像されて、本気で心配なのである。 誰とは言わんが、アノ原作者とか、アノ脚本家とか、アノアニメーターとか、アノ監督とか、「発想が貧困」な人って、いくらでも思いつくからねえ。そういう三文作家の中に、被害者意識の特に強い人がいたりしたら、この発言を見て、「こ、こ、これは、お、お、俺のことを言っているのだ、だ、だ、大地のやつめ、こんなに堂々と俺のことを揶揄しやがって馬鹿にしやがって、どうしてくれよう、このままですむと思うなよ、呪ってやる恨んでやる復讐してやる」とか思ってしまう可能性は充分あると思う。いや、多分、これは杞憂じゃない。 なぜって、こういう僻み根性が身に染み付いてる人間は、決まって自分のことは棚に上げて、「そういうお前はどうなんだ、そんなにご立派な作品作ってるのか」と見当違いも甚だしい雑言を投げつけてくるものだからである。大地さんがどんなに凄い作品を作っていても関係はない。そんなの無視して「エラソウなヤツは叩く」という感情だけで動くのである。そのせいで、これまでも黒澤明や宮崎駿などは散々叩かれてきたのだ。中には真摯な批判もあったかもしれないが、殆どは前述した通りただの僻み。それが証拠に、クロサワもミヤザキも、現状に警鐘を発した途端に叩かれ出したのである。 ……説教されるのが嫌いな気持ちが解らないわけじゃないが、ちょっと人としてみっともなくはないか。
ちょっと落ちついて、大地さんが言ってることが間違っているのかどうかってことを考えてみればいい。それでもまだ「余計なお世話だ」としか思えないような作家や、嬉々として美少女恋愛シミュレーションばかり作り続けていられるような浅薄なアニメーターしかアニメ業界にはいないのなら、そりゃ自然に客は離れていくさ。 創世記のテレビアニメが、メカと美少女だけで成り立ってたか? 『鉄腕アトム』が、『鉄人28号』が、『エイトマン』が、『狼少年ケン』が、『少年忍者風のフジ丸』が、『ハッスルパンチ』が、『宇宙少年ソラン』が、『遊星少年パピィ』が、『宇宙エース』が、『レインボー戦隊ロビン』が、『サイボーグ009』が、『ハリスの旋風』が、『おそ松くん』が、『オバケのQ太郎』が、アニメ技術は今に比べてはるかに稚拙だったとしても、今のアニメより何倍も、何十倍も、子供たちに未来への夢と情熱と希望を与えられるだけのエネルギーを持っていたのではないか? まあ長々と書いちまったが、要は、「もっと面白いアニメ作ってくれ」というだけのことである。これだけのことがなぜかできないんだよね。
台風が接近しているせいで、急遽、今度の土曜日が休業になってしまった。 その代わり、日曜に出勤しなければならない……って、その日は劇団の公演日ではありませんか。 ……いきなりそんなこと決められてもなあ、ビデオ撮影頼まれてたんだけどな、と愚痴を言っても仕方がない。なんとか仕事をほかの人に頼めないものか、思案する。その結果はまた明日。
晩メシは、韮とえのきだけと小ネギをこき混ぜて卵でとじたもの。途中までは調理もうまくいっていたのだが、ふと、醤油と間違えてメロンシロップを入れてしまったた(瓶の形が似ていたのである)。慌てて醤油を入れたが、果たしてうまく中和されたものか。 そのまま食わないで捨てるわけにもいかなかったので、とりあえず一口。……うーん、甘いような辛いような、まあなんというか世にも不思議な味(^_^;)。二口、三口。……なんか甘ったるくて胸焼けがしてきました。 結局半分くらい食べて捨てました。ああ、もったいない。
夜のチャット、今日も盛況。鍋屋さんにヨナさん、昨日に引き続き、あぐにさんも来られる。昼間、グータロウくんが破李拳竜や『レ○ンピープ○』の話題を振っていたので、最初は鍋屋さんが随分ノリノリで『○モ○ピー○ル』について語っていらっしゃったのだが、あぐにさんが来られた途端に「この話題はやめましょう」と打ち切ったのには笑った。露悪的になるのは好きではないが、まだたいそうなことをお喋りしてたってわけではないので、変わり身、と言っては失礼だが、反応の早さが面白かったからである。
マンガ、佐々木倫子『Heaven?―ご苦楽レストラン』6巻(完結/小学館/ビッグスピリッツコミックススペシャル・950円)。 はあ、なるほど、こういう落ちになりましたか。 「ロワン・ディシー」がああなっちゃって、それから伊賀君はああなっちゃうのね(どうなるかは現物を参照のこと)。 ちょっと心にジンと来る終わり方と言えば言えるけれども、あまり「上手く」は感じられない。どこか「唐突」(伏線は張ってあったのだけれども)で、不自然な印象がしてしまう。いや、つまらないわけじゃない。充分面白いんだけれども、読者の大半は、別段このマンガに「時間経過」を求めていたわけではないんじゃないかな。 傍若無人、自画自讃、直情径行、猪突猛進、私利私欲、唯我独尊、無軌道、無節操、無理無体、思いつくままにその困ったちゃんな性格を挙げてみても、黒須オーナーに腹を立てていた読者はただの一人もいないだろう。あのワガママ勝手ぶりに、胸の透くような一つの理想像すら見出していた人もいるんじゃなかろうか。 そんな彼女だからこそ、『サザエさん』や『うる星やつら』のキャラクターたちと同様に、「永遠に続く理想郷」の住人であるほうがふさわしかったと思う。姿をはっきり見せていないとは言え、誰がおばあちゃんになったオーナーを見たいと思うだろうか?(おばあちゃんになっても、きっと凛々しいであろうとは思うが) 『おたんこナース』のときには、全てをギャグで落とすことは、物語の舞台となる場所が場所なだけに難しかろうとは思ったが、今回はレストランである。悲しい終わり方をさせる必要がどこにあったのだろう。どうにも違和感を感じてしまうのはその点である。
もしかしたら、佐々木さんは「反省」していたのかもしれない。最大のヒット作である『動物のお医者さん』は、極力動物の「死」を描かなかった。それは動物を題材にした作品としてはあまりに不自然ではあったが、「理想」を描くマンガとしては、必ずしも間違いとは言い切れない選択であったと思う。 でも、あの作品がヒットしたために、とんだ大迷惑を被ったのがシベリアンハスキー犬である。チョビのかわいらしさ(?)に魅せられたファンで、ハスキー犬を飼う人が増えたのだ。けれど、飼育の難しいハスキー犬は、結局飼い主たちに持て余され、捨てられるという悲しい結末を迎えた。 マンガと現実の区別がつかない人間は明らかにいるのである。その事実に佐々木さんは涙したのではなかろうか。 現実には、全てのものに「終わり」は来る。終わらないものなどない。その「終わり」をちゃんと示さなければ、「永遠」の存在を信じ、誤った行為に走る人間が出てくることもあるのだ。佐々木さんはそう感じたのではないか。だからあのような乱暴な手段を使ってでも物語を終わらせてしまった。もしそうだとすると、あの終わり方はもっと悲しい。まるで『エヴァ』ではないか。
もちろんこれはただの想像で、なにか根拠があるわけではないのだけれど、最近の連載、どこか佐々木さん「らしくない」部分があちこちに見受けられので、勝手な憶測をしてみたものである。できれば次の連載は「最後まで」楽しいお話にしてほしいと願っているのだけれども。
2001年09月11日(火) 地球が静止した夜/『ななか6/17』3巻(八神健) 2000年09月11日(月) ミステリとワンピースと/『ONE PIECE』1〜5巻(尾田栄一郎)
| 2003年09月10日(水) |
祭りの終わり/『ヒカルの碁』23巻(完結/ほったゆみ・小畑健) |
「糖尿にはトロロがいいですよ」とヨナさんから教えて頂いてたので、コンビニで買ったトロロそばをいくつか、冷蔵庫の中に入れていたのだが、昨日冷蔵庫を覗いてみたら影も形もなくなっていた。 小人さんが食べたりしない限り、犯人はしげに決まっているので、今朝送りの車の中で問い詰めてみたら、簡単に白状した。 「なんで人の勝手に食うんだよ!」 「二つあったから一つはオレのかと思って」 「買い物にしょっちゅう行けないから朝と夜の分、両方買ってるんだよ。おかげで昨日は朝メシ抜きだったんだぞ。あれだけ勝手に食うなって言っただろうが」 「だって腹減ってたもん」 「腹減ってたならなんで自分で買って食わないんだよ」 「お金ないもん」 「一銭もないのか? 銀行には?」 「銀行にはあるよ」 「だったらなんで卸さない!」 「卸したら減るやん!」 ……世の中に「人でなし」なんて存在が本当にいるのかとお疑いの方、ここにいます。
巡回していた某日記が突然閉鎖。 前にも「しげとよしひと嬢がハマッている」と書いた、ちょっとキテる感じの日記だったけれど、最後の日記で「今まで書いてた内容は全部ウソでした」と告白。 30代の独身の女性で、某アイドルにそっくりのかわいい系、床上手でゆきずりの男とのナニもとってもよかったわ〜んとか、同僚の馬鹿女ばかりが男にモテてどうして私には幸せが来ないのよ恨んでやる憎んでやる呪ってやるとか、ネットの読者に呼びかけてパートナーを募集したりとか、超アクロバットなことを書きまくっていたので、楽しみに読んでいたのだが、オチは随分あっさりしたものであった。 しげが「これ、本物かなあ?」とか言ってたのを「いやあれは絶対本物だよ、本物以外のナニモノでもない、本物でなくてどうする」と面白がって断言していたので(もちろんホントは半信半疑であったのだが)、正体をバラシて消え去られてしまったのは、ちょっと残念である。もっと長く続けるか、消えるにしても何も言わないままのほうがユメを持ててよかったのになあ(^o^)。
実際にこれだけネットが広大なら、ウソ日記の数は無数に存在しているだろう。というより、公開を前提としているWeb日記は、全て何らかのウソが含まれていると考えたほうが妥当だ。つか、虚実皮膜の境にあるというべきか。私のこの日記だって、しげに言わせれば「私の妄想の産物」ということになるのである(^_^;)。 まあそんな空中楼閣のような日記の群れを巡回して見て回る行為も、かなり不健康なことだとは言えるが、地に足をつけた実生活ばかりに価値があるというものでもない。ウソをウソと知りつつ許容する、あるいはあえて自分を妄想の虜とする行為も、我々は意外に日常で行っている。結構みんな、自分が「裸の王様」であっても構わないと思ってるんですな。 ただ、世の中には「あの王様、裸じゃんか」と無粋なことを言ってのけるガキンチョもいるわけで、自分が裸であったことに気づけば、王様だとて、恥ずかしがるくらいのことはする。間違っても、「裸だ」と指摘したガキンチョを糾弾したりはしない。王様のほうにだって王様としての矜持は無きゃマズイんだけれども、どうも最近の王様は自分が王様だってこと自体、忘れちゃってるような気がしてならんのですがねえ。 なんか婉曲なこと言っとりますが、何のことを書いてんだかよくわかんない人は、もう気にせず無視しちゃってくださいませ。
晩飯はコンビニで買ったなすの味噌あえに、買い置きのヒジキ。 カロリーも高くなく、健康的ではあるが、腹がすぐに空いてしまうのが難点。 ちびちびつまみながら『トリビアの泉』第30回放送分を見る。 「新幹線で290円で乗れる区間がある」というの、「あれ? もしかしたら……」と思ったら、やっぱり「博多〜博多南」のことだった。地元では誰でも知ってることだけれど、やはり他地方の人にとってはトリビアになるのだなあ。タモリが嬉しそうに「これにはいい話があるんだよ」と語っていたのが印象的だった(地元の那珂川町の人のために、回送線を一般利用させてあげてるのである)。 トリビアの種、今回はもの凄く役に立つ(^o^)トリビア。 カップラーメンの長さを計ってグランプリを競うのである。結果、エースコックの丸鶏白湯ラーメンが73メートルで1位。同じ値段なら、これを買うのが一番量的にお得ってことか。 でもこういうの、重さを計った方が早いし正確なんだが、種については誰も本気でトリビアになるとは思ってないからいいんだろうな(^o^)。
夜のチャット盛況。あぐにさん、あやめさん、鍋屋さんに私。たった4人で盛況というのも何なんだが、ログの流れるスピードを考えると、話に付いて行くのにはこのあたりの人数が限界だ。 久しぶりにあぐにさんが顔を出されたおかげか、話題も豊富。『座頭市』をあぐにさんもご覧になったそうで、「楽しんだ」と仰っていたのでホッとする。日記にも書いたが、あれは結構好き嫌いがハッキリ分かれると思うので、「キライ」と言われてしまったら、彼我の違いが何に起因するものか説明するのに骨が折れるのである(もちろん「キライ」という意見を否定するつもりはない)。 『トリビア』の日はもうこれだけで話題が転がる。やっぱりみなさん、「なんでこんなものがトリビアになるんだ」と納得のいかないものが多いようだ。常識だとばかり思っていたものの「へぇ」度が高いと、自分が拠って立つところが揺らぐばかりでなく、他者との距離まで開くように感じてしまうのである。 実際、「太宰治が芥川賞をほしがった」なんてのをトリビアにされてしまうと、「ああ、太宰について何か語ったって、そんなの大半の人には何のことやら分からないんだなあ」とそぞろ孤独感、寂寥感に襲われてしまうのである。
「エッ、そんなことも知らないの?」という驚きを、こいつは無知な人間を馬鹿にしている、自分が優位に立とうとしているのだと決めつけて腹を立てる人がいるが、驚いてるほうにしてみれば、ただただ唖然としているばかりなのだ。別に優越感を持ってるわけじゃない。 いいオトナが「1+1=2」が分からなかったら驚かれるでしょう。馬鹿にするどころか、なぜそんなことが有り得るのか、ひたすら謎に思うだけです。 自分が馬鹿にされてるとすぐに僻む人間は、本心では自分が他人に対して優位に立ちたいと思っていて、それができなくてムカツクからこそ怒るのである。「馬鹿にされたからって簡単に怒るな」なんてリクツは「躾」の基本みたいなものだったんだがなあ。「躾」そのものがトリビアになってんですかね、もしかして。
話は派生して、「イマドキの若いもんは『ナウシカ』だって見ていない」ってことから、「好きな宮崎駿作品は?」という話題に。最近は毀誉褒貶甚だしい宮崎さんだが、かつてはオタク界のエースであった。いや、今だって、全国の老若男女が勘違いして『千と千尋』を誉めちぎっていても、オタクは「別のところ」を見ているはずなのである。 みなさんに聞いてみると、やはり『ルパン三世カリオストロの城』『名探偵ホームズ』『天空の城ラピュタ』など、冒険活劇的な作品に人気が集中している。エンタテインメントの本質がヒロイズムであることをかつて明確に打ち出していたのが宮崎さんであったのだ。 また思いつきで恐縮だが、私の思う宮崎作品のベストテンを挙げてみる。もっとも、アニメーターとしての時期と、演出家としての時期と、その活躍は2種類に分かれているので、ベストテンも二通り示した。ジブリ作品しか知らない若いファンには、ぜひアニメーターとしての宮崎駿の実力も知ってほしい。
宮崎駿監督作品 1『名探偵ホームズ 青い紅玉の巻』 2『ルパン三世(旧)11・13〜23話(TV)』(高畑勲と共同演出) 3『ルパン三世(新)145話/死の翼アルバトロス(TV)』 4『ジブリ実験劇場 On Your Mark』 5『そらいろのたね』 6『くじらとり』 7『ルパン三世 カリオストロの城』 8『未来少年コナン』 9『紅の豚』 10『魔女の宅急便』
アニメーター作品 1『長靴をはいた猫』原画 2『空飛ぶゆうれい船』原画 3『太陽の王子ホルスの大冒険』場面設計・原画 4『赤毛のアン(TV)』レイアウト・画面構成(15話まで) 5『パンダコパンダ』原案・脚本・画面設定・原画 6『パンダコパンダ 雨降りサーカスの巻』脚本・美術設定・画面構成・原画 7『どうぶつ宝島』アイデア構成・原画 8『アルプスの少女ハイジ(TV)』場面設定・画面構成 9『ハッスルパンチ(TV)』原画 10『ガリバーの宇宙旅行』原画・動画
マンガ、ほったゆみ原作・小畑健漫画『ヒカルの碁』23巻(完結/集英社/ジャンプコミックス・410円)。 これで完結にするくらいなら、「佐為編」で終わっておけばキレイだったろうになあ、という思いは多くの人にあるだろうが、恐らくそれを読者以上に痛感されているのは作者のお二人だろう。そのことについては正直な話、余り突っ込みたくはない。「人気がある限りは続ける」というジャンプシステムに悲しいものを覚えるばかりだ。 「雑誌だって営利事業なんだし、ファンの思いに答えてもいるんだから、連載を続けたっていいじゃないか」という意見もあろうが、現実にはファンはついてこなかったわけだから、こりゃ編集部に言い訳のできることではない。 『ヒカルの碁』は『ドラゴンボール』とは違う。同じことを反復していても、途中から新しい客がつく類のマンガではない。「北斗杯編」だけ読んだってつまらない、1巻から通して読まなければ面白さが伝わらない種類のマンガだと、どうしてジャンプ編集部は気がつかなかったのだろうか。 なんでも続けりゃいいってもんじゃないし、続けるのならば続けるだけのコンセプトがなきゃならない。中国、韓国勢という、新ライバルたちも出して、そういうものが生まれそうになった矢先に打ち切ってるんだから、ならどうしてあの時にキッパリと終わらせられなかったのか、と、どうしても思ってしまうのだ。 こうなったら私は本気で続編を望む。決着のついていない勝負はいくらでも残っているのだ。アキラにだって最後、「これで終わりじゃない、終わりなどない」と言わせたのだ。何年後になろうと、必ず続編を書いてほしい。10年後のヒカルの成長ぶりを見ないで、どうしてこの物語を終われようか。 佐為も誰かにとっ憑かせてでも、絶対に復活させなさい。ラストのコマは佐為の声じゃないか。あれをかつてヒカルが聞いた声、なんてことにしなくて、改めて「誰かが聞いた声」にしてでも続けてほしい。パラレルワールドでもいい。リメイクでもいい。『ヒカルの碁ZZ』でも『ヒカルの碁リローデッド』でもいい。こんなに悔しい終わり方をしたマンガもそうはないのだ。
2001年09月10日(月) 憎まれっ子世に……/『RED SHADOW 赤影』(加倉井ミサイル)ほか 2000年09月10日(日) 睡魔と戦いつつこれを書いてます/『星降り山荘の殺人』(倉知淳)
| 2003年09月09日(火) |
で、『CASSHERN』に樋口可南子はホログラフィーで出るのか?/『鉄腕バーディ』2巻(ゆうきまさみ) |
相変わらず「宇多田ヒカル夫」という呼び方のほうが通りがいい紀里谷和明監督(離婚しても「宇多田ヒカル元夫」と言われちゃうんだろうな)の実写版『CASSHERN』のキャストが発表された。 主演は『金髪の草原』の伊勢谷友介(東鉄也/キャシャーン)。タッパはあるし、演技力もある人ではあるが、その演技力がかえってこういうコートームケイな話のジャマになりはすまいか。 他のキャストも、意外と、と言っては失礼だが、まあまあの有名どころを揃えてはいる。 麻生久美子(ルナ)は、もう特撮モノのヒロインの中心の一人と言っていいだろう。『赤影』も『魔界転生』も、この人のおかげで持ってる部分が多々ある。あのコスチュームが(デザインは変わると思うが)似合うかどうかはちょっと疑問だが。 寺尾聰(東博士)、 樋口可南子(東ミドリ)、小日向文世(上月博士)の三人は特別出演という感じですかね。このあたりにベテランを揃えてるあたり、一応ちゃんとしたものを作ろうとしてるのかなという雰囲気は伺える。 それに比べて不安要素が大きいのがライバル陣。 宮迫博之(アクボーン)、 佐田真由美(サグレー)、要 潤(バラシン)、及川光博(内藤)、唐沢寿明(ブライ)。 まあ、タツノコプロ作品はリアル路線の作品でもどこかセンスがダサくてお笑いの要素が強いのだが、実写でもそれ持ちこんだら相当ヘンテコなものになりゃしないだろうか。いやまあ、なったらなったで楽しめそうではあるんだが。 前にも書いたが、私はもうなにが実写化されたって、文句付ける気はないのである。ただ、日本映画の企画の貧困さに嘆息するだけだ。
ここんとこ外回りが多くなってるので、日焼けがだんだん濃くなっている。できるだけ日陰を歩くようにしているのだが、そうもいかない。いや、日焼け自体、キライなわけではないのだが、眼鏡をハメているものだからそのあとがクッキリ顔に出来るのだ。眼鏡取って顔洗う時がもうこれが大マヌケ。 コンタクトにしたら? とはよく言われるが、それで視力が上がる訳でもなし、手入れがタイヘンになるだけなんだよねえ。
くたびれながらも博多駅を回って、コミックスなど買い込み。 マクドナルドで半熟卵バーガーを食べながら読む。
マンガ、ゆうきまさみ『鉄腕バーディ』2巻(小学館/ヤングサンデーコミックス・530円)。 つとむのとーちゃんがうっかり風呂をのぞいてバーディのヌードを見ちゃうネタ、しっかりリメイク版でもやっちゃってるなー。リメイクの難しさというのは、どうしたって昔の作品と比べられてしまうことであって、作者本人は技術的に向上しているつもりであっても、既に読者の中にもイメージが出来あがっているものを破壊したとしか思われない場合が往々にしてある。 『バーディ』の場合は、失礼ながら固まったたイメージが出来あがる前に連載が終わってしまったから、さほど「昔と違う!」と怒り出すファンもいないとは思うが、気のせいか青年誌になったってぇのに、昔の方がずっとヌードとかセクシーだったような。線がスッキリしちゃうと失われるものもあるってことだね。 細かく見ていくと、バチルスが人間の記憶を取りこむたびにその人間の意識のせいで自分自身のアイデンティティを失っていく、とか、設定の変更があるのだけれど、余りストーリーに絡んできてはいない。前より着飾ってみたのはいいけれど、ちょっとムダが多いかなって印象。 「スピリッツ計画」を追っているらしいジャーナリストの室戸圭介は、ちょっと『パトレイバー』の後藤隊長を彷彿とさせて面白くなりそうな気配ではあるけれど、ともかくゆうきさんはせっかく出したキャラを生かしきれずに終わることが多いから、少し心配になるのである。
2001年09月09日(日) 見え透いたウソにすがるココロは/DVD『ウルトラマンティガ THE FINAL ODESSEY』 2000年09月09日(土) なんでこんなにバカなのか
| 2003年09月08日(月) |
ボンちゃんって呼び名も懐かしい/ドラマ『血脈』/『×××HOLIC』1巻(CLAMP) |
鬱病で芸能活動を休止していた高島忠夫さんが元気に復帰宣言。 お年がお年だけに自殺の危険もあったと思われる。以前、知り合いが実際に鬱病に罹っちゃったことがあるが、親や恋人がいかに説得しても、自室の隅に引きこもって、顔を上げようともしなかった。こちらができたことと言えば、医者に連れていくように奨めることだけ。それとても本人にとっては厄介者のように扱われていると思いこまれるのではないかと心配になった。激励の言葉がかえって本人を追いつめてしまうくらいに、心は繊細になってしまっているのだ。 高島さんが人前に出られるようになるまで約5年。この間のご家族の苦悩は想像するに余りある。自分たちの方が鬱病になってしまう危険な状況だってあったのではないか。それを堪えた。今の政伸さんの笑顔は、心からの笑顔だろう。 願わくは、この5年間の出来事を「ドラマにしよう」なんて安易なテレビ屋が現れませんように。
『キネマ旬報』9月下旬号、タイムリーに『座頭市』特集である。 監督インタビューで北野武が「市は何の愛情にも絡んでいない」と発言しているのを読んで、これも北野監督の「照れ」かな、と苦笑した。ともかく今回の座頭市は寡黙である。「感情を言葉にすることの恥ずかしさ」というのは感情表現の過多な人にはなかなか理解してもらえないのだが、市が殆ど口を利かずに過ごすのは、感情がないからではない。それを口にすればウソになってしまうからだ。 「本当は市はとても優しい心の持ち主なんだよ」。 ほら、ウソっぽいでしょう(^o^)。 言葉が意志や感情を伝達できる最良の手段だなどと思いあがってはいけない。言葉は本人の意志の十分の一、ヘタをしたら殆ど伝えられないと言っても間違いではないのだ。何かを伝えようとすればするほど、言葉が上滑りになっていくという経験をした人は多いだろう。結局は言葉もひっくるめて、「その人」を許容する覚悟があるかどうかでしか心と心の絆は生まれないのである。 じゃあ、ビートたけしが日頃あんなに饒舌なのはなぜなんだと文句をつけるワカランチンもいるだろうが、だから「照れ屋さん」は「韜晦」するんですよ。 こういう説明も野暮の極みだし、仮にたけしさんがこの文を読んだとしたら苦笑するだけだろうが、言葉を丸のままストレートにしか受けとめられない連中が世の中に横行してるから。だもんでそういう連中にはまさしくストレートに「馬鹿」って言ってやるんですがね。もちろんこれとて意味は伝わらない(^_^;)。
同じ号では『踊る大捜査線2』の評論家&読者を交えての批評も特集されているのだけれど、絶賛から完全否定まで、実に幅広い。 こうも意見がかけ離れてしまうと、「その映画って面白いのかつまらないのかどっちなの?」と未見の方は迷われると思うが、見る人によって感想が違ってくるのは当然なので、「自分の目で確かめてごらんなさい」としか言えませんねえ。 よく「主観の相違」と言ってこの意見の説明をしたがる人は多いが、じゃあその「主観」ってのは何? ってことが余り考えられていないから、説明のための言葉でなく、相手を拒絶する言葉にしか作用していないのはよろしくないと思う。 もう少し具体的に言えば、「主観」ってのは一人一人の背負っている「文化」の違いなんであって、それが映画の「何に注目するか」という違いにまで発展するのである。その結果、感想が変わるのは当たり前の話。 単純な例を挙げて説明するなら、日本人が洋画を見るとき、もしも吹き替えや字幕がなかったら、内容が掴めずにつまらなく感じるでしょう。でもそれは映画の出来が悪いからじゃないことは自明の理。じゃあ、外国語が分らない方が悪いのかって言うとそうでもなくて、そういう「文化」を持たないで生きてきたのだから、これは仕方がないことなのです。つまり一人一人の持っている「知識」や「教養」は常に偏在しているので、議論をする場合にはそれを確認した上でなければできないことなのである。 議論で意見が衝突している状態というのは、お互いに自分の「見ているもの」を相手が「見ていず」、自分の「見ているもの」を相手に「見ろ」と強要している形になってるのだから、そりゃケンカになるのもムベなるかな。 うちのしげは「ダン・エイクロイドが出演していればそれだけで傑作」と主張してますが、これはしげの中では絶対的な真理ですから、何をどう言ったってムダ(^_^;)。もちろん、世間一般に通用する意見でないってことは本人も百も承知。文句言ったって仕方ないんだけど、相手の見てるものが「ダン・エイクロイド」だけだったら、やっぱり「お前、そこだけ見るのはやめろよ」と言いたくはなりましょう。言ってはいないけど。 『踊る2』を本気で面白いと思ってる人は、映画をこれまでたいして見たことがないか、見ていても漫然と眺めていただけの人である(評論家の佐藤忠男も誉めちぎっているが、あの人もそうなのか、と聞かれたら「そうだ」と答えよう)。もちろんそれが悪いことだと言うつもりはない。誰にだって「初心者」の時期はあるのだ。江戸川乱歩の通俗ものと同じで、最初の一冊は面白いが、何冊も読んで行くと「なんだ、全部同じじゃん」と思って飽きる(もっとも微妙な差異が面白くて全作読んじゃってますが)。私は『踊る2』については「これまでに見たことのある絵、展開」しか見えなかったので、「陳腐」としか言えなかったのだが、ドラマのセオリーを外してるわけではないから、「面白い」と感じる人もいて当然でしょう。私にとって「寄せ集めのガラクタ」にすぎないものが「大切な宝物」に見えたからと言って、それを間違いだというつもりはないし、言ったとしたらこんなに僭越なことはない。 ただ、「もっと面白い映画はいくらでもあるのに、知識や教養がないとわかんないんだな」とは思う。これはただの事実の指摘なんで(まさか『踊る2』が世界映画史上ベストワンだと言う人はいますまい)、バカにしてものを言ってるわけじゃないんだから、『踊る2』のファンの人、怒っちゃいけません。と言ってもムダかもしれないが。 山根貞男氏などは「どうしようもないシロモノで、無視するのが真っ当な対応」「「カビの生えた古い感性の安っぽいセンチメンタリズムと劣悪なご都合主義」「ひたすら観客への迎合でのみ成り立っている」と容赦がない。ここまで断言してくれると実に小気味よい限り。『踊る2』肯定派の人も、この程度の言葉を受け流せる余裕がなきゃ、それこそマトモな意見吐いても相手にされなくなるから、ご注意を。
夜、TVQで佐藤愛子原作、中島丈博脚本、久世光彦演出『ドラマスペシャル 血脈 大正〜昭和大震災と戦争の時代・妻として、母として、家族を激しく愛し、憎んだある女優の一生』見る。 原作の方はいつか読んでやろうと思いつつ、文庫化を待ってる最中。でもそれは作家研究の興味からなんで、ここに登場する人たちのことを殆ど知らないだろう若い人がこの物語にどんな興味を抱くんだろう、といささか気になる。佐藤紅緑なんか、ただの無軌道親父にしか見えないんじゃないか。「あの『ああ玉杯に花うけて』の佐藤紅緑が」と思うからそのイメージのギャップに驚いちゃうんだけどねえ。 実は久世さんの演出は昔からわざとらしくてそう好きではない。今回も時代の変遷を表すのに回り舞台に佐藤家の家屋を乗せて回すというのをやってるけど、それは舞台の演出で、テレビでやってもつまんないよな、と思ってしまう。昔『真夜中のヒーロー』って番組でも裸の岸本加世子を檻に入れてぐるぐる回し、「ああ、落ちる」とか歌わせてたけど。なんでも回せばいいというものではないのである。 キャストは佐藤シナに宮沢りえ、佐藤愛子に石田ゆり子、サトウハチローに勝村政信、佐藤紅緑に緒形拳という布陣。宮沢りえは若くしてもう痛々しげだから役柄に合ってると言えなくはないけれども、なんだかやっぱり芝居が軽い。歴史の点景をかいつまんで描くような手法も、ドラマが薄くなる危険を考えなかったのかと不満が残る。 筒井康隆が島村抱月役で出てたけど、いくらなんでも太り過ぎてるんじゃないかな。
マンガ、CLAMP『×××HOLIC 〜×××ホリック〜』1巻(講談社/ヤングマガジンコミックスデラックス・560円)。 私の周囲にはCLAMP嫌いの人も多くて、この人(たち)の本はちょっと買いにくいのであるが、グループでマンガ描くというスタンスも面白いし、同じ名前のブランドでいろんな絵柄のマンガが楽しめるというのもいい売り方だと思うのである。今度の絵柄は『夢幻紳士』っぽくて好きだ。トーンを殆ど使わない黒と白のコントラストが美しく、ピアズリーの絵画を見ているようでもある。なにより侑子様のいかにもマダム〜なお美しさがもうたまりませんがな(^o^)。
ここはどこか。店である。それも、ネガイがかなう、ミセ。女主人の名は壱原侑子(イチハラユウコ)。彼女に出来ることなら、なんでも願いはかなう。けれど、対価は払わなければならない。願いに見合っただけのもの、その人にとってタイセツなモノ、例えばそれが魂であっても。 客は迷いこむようにこの店に現れる。しかしそれは「必然」。この世に偶然はなく、あるのは必然だけ。四月一日君尋(ワタヌキキミヒロ)がこの店に「呼ばれた」のも、それは必然であり、「縁」だったのだ。 一人目のお客は小指が動かなくなってしまった女性。それはその人の持つ「クセ」のせい。自分で気付いて、自分で直そうと思えば治るもの。けれど彼女は最後まで……。 二人目のお客はネットをやめたがっている女性。これも、自分でやめたいと思わなければやめられるものではない。きっかけは侑子が与えた。けれど彼女は……。 そして彼女はこう呼ばれる。「次元の魔女」と。
ホントに願いをかなえてやってるのかこの女、と毒づきたくなるキライもないではないが、考えてみれば、自分を見返ることなしに「願い」だけをかなえてもらいたがるというのも勝手なリクツではあるのだ。侑子さまはいかにも冷酷かつ悪辣な魔女風だし、マンガ表現としては新しいのだけれど、案外古風な信賞必罰の倫理観に基づいて描かれてるのだね。 そして物語はCLAMPさんのもう一つの連載、『ツバサ』とリンクしていく。『レイアース』のもこなも出る(^o^)。なんか大盤振る舞いだけれど、『バイオレンスジャック』みたいになりゃしないかと若干心配(^_^;)。
2001年09月08日(土) 半年分の食い散らし/『あなたの身近な「困った人たち」の精神分析』(小此木啓吾)ほか 2000年09月08日(金) 這えば立て、立てば歩めの夫心/『ビーストテイル』(坂田靖子)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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