無責任賛歌
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| 2005年07月26日(火) |
『Zガンダム 星を継ぐ者』再論/『神様ゲーム』(麻耶雄嵩) |
エンピツのアクセスランキング、5位にまでなっちゃいました(汗)。でも、アクセスランキング表から飛んでくる人はゼロなんだねえ。エンピツに登録してる人、アクセスランキングまではチェックしてないのかな。いや、私も普段は殆ど覗いちゃいないんだけど。 今日はもう、来てくださってる方が1000人くらいに落ち着いたので、明日にはずっと順位は落ちるだろうけれど、なんかもうちょっと『Zガンダム』について補完して語っておかないといけないような気分にさせられてしまう(笑)。
ということでもうちょっとだけ付け加え。未だに『Zガンダム 星を継ぐ者』で「旧作画」を使っていることに関して「なんで全編新作画にしないんだ!」と文句を付けている人が後を絶たないけれども、もともと「再編集版」として企画されたものに「再編集はケシカラン」と文句を付けるのは、感情的な難癖にしかなってないからね。そんなことを言い出せば、「『イノセンス』のCG技術は素晴らしいのに、どうしてキャラクターも含めてCGにしなかったのか」とか(カンヌでは、海外のメディアでそれに類する質問を記者が押井監督にしたらしい)、更には「アニメは所詮ただの絵に過ぎないのだから、リアルな物語は描けない。どうしてアニメ作家たちはあんな貧弱な表現方法に拘っているのか」なんて阿呆な主張も認めなければいけなくなってくる。新作画に拘る人間は、間接的にアニメを蔑んでいるのである。 もちろん、予算と時間が許せば、『Zガンダム』を全編新作画にすることも可能であったとは思う。しかし、富野由悠季が、なぜ「再編集」に拘ったのかということについては、もう少し感情的にならずに分析する必要があるのではないかと思う。 そもそも『ガンダム』シリーズは、アニメブームを起こした作品ではあっても、数々の批判にもさらされてきた作品である。森やすじや大塚康生からは、「あんな“動かない”ものはアニメではない」とまで言い切られている。東映動画で長編フルアニメーションに携わってきた立場であれば、リミテッドと呼ぶのもおこがましい3コマ作画、バンクだらけのアニメなどアニメと呼んでほしくないという気持ちになるのは当然であろう。更に言えば、富野監督が東映動画を引っ掻き回して徹底的に対立することになった手塚治虫の「虫プロ」(当時)出身であることも批判の背景にはあると思う。「日本のアニメをダメにした」それが手塚治虫批判から富野由悠季批判にまでスライドしているのである。 しかし、日本のアニメ業界を現実に牽引して来たのはその「アニメではない」無数のテレビアニメであり、そのノウハウは手塚治虫が開発してきたものだ。その事実はアンチ・虫プロ派であっても認めなければならないことだろう。殆ど捨て売りのような価格で『鉄腕アトム』を製作してきたのは弊害ではあったが、東映動画だけに任せておいたら、日本のテレビアニメの歴史は、十年は遅れていたかもしれない(東映動画も結局は「手塚システム」を導入することになる)。 バンクシステムは、マンガが記号であることを最大限に利用した荒業であると言える。川原泉が『小人たちが騒ぐので』で、「同じ人物のコピー絵でも、背景のトーンを変えれば全部違った顔に見える」ことを実験していたが、即ち「マンガ絵」の持つ情報量は、もともとかなり少ない。どんなに緻密に描かれた絵であっても、ナマの人間ほど微妙な表情を表現することは不可能である。だからこそアニメは基本的に「情報量が少ない」ことを逆手に取り、カリカチュアされたキャラクターと動きで喜怒哀楽を強調し、「微妙な味わい」を無視してきたのだ。ディズニーのフルアニメーションはまさにそうして発展してきたのであって、しかし初期の東映動画がそれに追随し、そして追随している限り、ディズニーを越えることは適わなかった。『鉄腕アトム』の3コマ作画は、バンクシステムは、本当に「弊害」だけをもたらしたものだったのか。同じ絵がシチュエーションを変えればどうにでも見えるということは、アニメの表現を広げもしたのだと肯定的に考えることはできないのか。それを1番最初に実証して見せたのが『鉄腕アトム』だったのであって、「動きもしない」アトムのうなだれた姿に、ロボットの悲しみを見出していたのではなかったか。『エヴァンゲリオン』の止め絵の多用をただの枚数減らしだとは思わなかったのではなかったか。我々はテレビアニメの歴史の中で、「情報量の少ない絵を想像力で補完する見方」を素直に受け入れてきたのだ。 もちろん、アニメーターの技術が向上し、予算が増えればアニメはバンクや3コマ作画や止め絵は控えるようになる。しかしそれでもアニメの「絵」は最終的に実写ほどの情報量を提供することはできない。レイアウトを考えタイミングを計り、声優が声を当て効果音を付け、更に観客の「想像力」に期待して、やっとこさ作品として認めてもらえるのである。富野由悠季が「絵コンテ千本切り」を行ってきたのは、そういったテレビアニメであり、その中には「元東映動画」の宮崎駿が監督した『未来少年コナン』などもあった。その演出力に感嘆しつつも、富野由悠季は口には出さず、考えていたことだろう。日本のアニメの歴史は虫プロが作ったのだと。 なのに、今のアニメファンは見た目のよい新作画だけに騙されて、アニメがその「記号性」を駆使する表現方法であることを忘れてしまっている。アニメは「動いても動いていなくてもアニメ」である。世界最高峰と言っていいユーリー・ノルシュテインの『話の話』や『霧につつまれたハリネズミ』などは「切り絵アニメ」であるが、あれがどれほど動いていると言うのか。動かそうが動かすまいが、アニメを作品として昇華させる要素は「演出」なのである。 「再編集で、たいして動きもせず汚い旧作画で何が悪い。逆に動かず汚い作画だからこそ編集と演出でドラマを成立させることができるのだ。ディズニーと宮崎アニメの信奉者は去れ」 私には富野監督が内心、『星を継ぐ者』についてそんなことを考えているように思えてならない。まあ、本人に聞いても韜晦して絶対に正直には言わないだろうが、そうでなければ、堂々と旧作画を劇場にかける「過激さ」の理由が説明できないのである。
恐らく、日本初の「再編集」劇場アニメは『鉄腕アトム 宇宙の勇者』だ。テレビシリーズの中から『ロボット宇宙艇の巻』〔46話〕『地球防衛隊の巻』〔56話〕『地球最後の日の巻』〔71話〕を中心に、“新作画も加えて”再構成している。今のオタクはすぐに「新作画がどれくらいあるか」ということに注目してしまうが、この時代、当然そんなことは「売り」にはならない(どちらかというと、白黒アニメだったアトムがカラーで見られるというインパクトの方が強かった)。「新作画」は、異なるエピソードを繋ぐために必要であっただけである。 「再編集映画」になぜ新作画が必要になるのか、“新作画を一切使用しなかった”アニメをいくつか思い浮かべていただければその理由は見当がつくのではないかと思う。例えば、『宇宙戦艦ヤマト』はデスラーとの最終決戦をカットし、『未来少年コナン』はなんと「ギガント」のエピソードをまるまるカットしてしまった。そんなデタラメな事態を引き起こしたのは、新作画がシーンとシーンの間の省略された部分をうまく繋ぐ「ブリッジ」として機能せず、映画の「尺」を調整できなかったためである。即ち、日本の再編集アニメにおいては、新作画はもっぱら物語の省略と繋ぎのために使用されてきたのだ。 『星を継ぐ者』においても、「新作画」は「ブリッジ=尺の調整」としての役割を果たしてはいる。しかし、わざわざ「新訳」と名乗ったのは、単に1時間半の時間内に映画を収めるためばかりではなかった。旧作の設定や意味を組み変え、21世紀のガンダムファンに送る新作として『Z』を再生させるためには、「旧作画と新作画のコラボレーション」が絶対に必要だったのである。 例えば、幽閉され監視を付けられ不遇をかこつアムロがカツに罵倒された後、エゥーゴと行動を共にするまでの過程は一気に省略されるのだが、その間を繋ぐブリッジのシーンは、フラウがレツとキッカと共に旅立つ新作画のシーンである。ここでどうして新作画が必要になったか。 テレビシリーズではこのときフラウはレツとキッカの間にいて、二人を抱き締めている。ところが新作画ではフラウは二人の横にいて、目は彼方を見つめているのだ。この違いは何か。旧作では再び戦場へと向うアムロに対してフラウの心は既に離れてしまっている。彼女は、カツもアムロに奪われ、残されたレツとキッカもまたいずれは戦乱に巻き込まれていくのではないかという不安に襲われており、だからこそ二人を抱き締めずにはおられなかったのだ。このようなフラウの姿を見せられては、視聴者はどうしたってアムロの身勝手さ、カツの幼さを感じないではいられない。あるいは逆にフラウの方が男の陰で過剰に被害者ぶっているように受け取る人もいるかもしれない。どちらにせよ、彼らの心がバラバラになっていることは間違いないのである。 だが、新作画のフラウは、戦争に対する不安を抱きつつも、アムロを、カツを戦場に送り出す「勇気」を持っている。アムロがなぜ再び立ったのかも、カツがなぜアムロと行動を共にしたのかも理解している。彼女の目は、決して戦争の現実から逸らされてはいないのだ。 この新作画ゆえに、アムロは旧作のような単純に鬱屈したキャラとは見えなくなった。幽閉されていたときすらずっと脱出の機会を狙っていた人物として描かれ、そして彼の後ろには今でも「ちゃんとフラウがいる」ことが明示されることになったのだ。 アムロは決して孤独な存在ではない。つまり、『ファーストガンダム』で、アムロが最後に「僕には帰るところがある」と言った言葉、これがまだ生きていることを、20年の時を経て、ようやく富野監督は示してくれたのだ。ここで感動しないのなら、その人はガンダムファンを名乗ることを止めたほうがいい。 これは、「旧作画と新作画の融合」があったからこそ成立した効果である。富野監督には「新作画」だけで長編アニメを作る意図はもともとなかったし、また、「旧作画」だけで「新訳」が成立するとも考えていなかった。『星を継ぐ者』はそのことを前提として批評しなければ、適切な評価は下せない。「旧作と新作の落差がひどすぎ」とか「新作画だけで作れ」という不満が印象批評の粋を出ないものであり、映画の本質を見ていないのはそのためである。
一回しか映画を見てないでここまで言い切るのもなんだなあとは思うのだけれど、DVD買ってもう一度見直したら感想変わるかもなあ。でも、万が一、富野監督が将来予算を潤沢に与えられて「完全新作のZガンダム」を作ったとしても、現行の『星を継ぐ者』が否定されたことにはならない。与えられた条件のもとで「最善」の作品を作る。そうして完成したのがこの映画だからだ。どんなに作画が荒れようが、テレビアニメの歴史はそうやって紡ぎあげられてきた。それを忘れて文句を付けているやつらは、テレビアニメに対する愛を忘れているのである。
麻耶雄嵩『神様ゲーム』(講談社)。 これもミステリーランド第七回配本作品。箱カバーの惹句は、「まさに神わざ。」これがどういう意味を持っているかは、本書を最後まで読めば「まさに」と首肯することになるだろう。これはそれくらい激賞してもし過ぎないくらいの傑作である。
主人公は小学四年生の芳雄(江戸川乱歩の『少年探偵』シリーズの小林君と同じ名前だね)。彼の住む神降市で、残虐な猫連続殺害事件が起きる。芳雄は同級生と結成した少年探偵団の仲間と一緒に、事件の犯人を探し始めた。そんなとき、転校してきたばかりのクラスメイト・鈴木太郎君とトイレ掃除をして入る最中に、彼からとんでもない話を聞かされる。 「ぼくは神様なんだ。だから猫殺しの犯人も知っているよ」。 彼は大嘘つきなのだろうか。それともこれは「神様ゲーム」なのか。 数日後、芳雄たちは探偵団の本部として使っていた古い屋敷の古井戸の中に詰められた友人の英樹の死体を発見する。恐怖と悲しみに包まれる芳雄たち。猫殺しとこの殺人事件は何か関係があるのだろうか? 芳雄は思い余って「神様」鈴木君に「犯人に天誅を下してほしい」と頼んでしまう……。
これだけ「仕掛け」の多いミステリも珍しい。詳述すればトリックをばらすことになるので、なかなか書き方が難しいのだが、基本的にこの作品にはふた筋の「謎」がある。 1、猫殺しおよび英樹殺人事件の犯人は誰か。 2、鈴木君は本当に「神様」なのか。 しかし物語が展開されていくにつれ、この二つは複雑に絡み合い、新たな謎をも生み、感嘆には解けなくなっていく。ついには、読む人によっては恐らく「訳が分からない」と頭を抱えることになるだろう空前絶後のラストへと辿り着くのだ。 自慢ではないが、私はたいていのミステリ作品の犯人やトリックは「慣れ」で当てることができる。当てられない場合は私の想像の方がその作品の出来を上回っているときである(それだけ出来損ないのミステリが横行しているのだ)。 しかし、本作は九割九分までそのトリックと犯人を見破っていながら、作者が「あのような結末」を用意しているとは思わなかった。ここまで見事に「うっちゃり」を食らわされたのは久しぶりの経験だが、決して悔しくはない。「あのようなラスト」を「用意しなければならなかった」筆者の創作意図に深く共感するからである。 本作にはいくつもの「怒り」が表れている。それは作中人物の言葉を借りても語られることがあるが、基本的には筆者の麻耶雄嵩本人の怒りであろう。その怒りも大雑把に二つにまとめることが出来る。 1、世の中はどうしてこんなに不条理にできているのか? 2、どうしてミステリは「真実」を明かしてやらなければならないのか? 作中で、芳雄は「大事な猫を殺されたのに、それがどうしてたいした罪にもならないの?」と嘆く。もちろんこれは読者の少年少女たちに与えられた「きっかけ」に過ぎない。「世の中の不条理」はほかにもいくらでもあるからだ。犯罪が適切に裁かれていない、という思いは大人にもある。なのに、その当の大人たちが犯罪を助長するような世の中を営々と築き上げてきたことに対して何の反省もしていない。こうなったら「神様」にでも頼るしかないのではないか? しかし、世の中にゴロゴロしている「神様」もまたトラブルを解決してくれるどころか、諍いの種にしかなっていないのである……。 しかし、世の中の一番の不条理とは、そんな現実から少年少女の目を逸らそう逸らそうとしている大人の偽善ではなかろうか。そんなに大人は子供を純粋培養したいのか。 小学四年生にもなれば、大人がいかに奇麗事ばかりを言っているかには気がついてくる。連日テレビや新聞で報道されている事件の数々を子供が何も知らないと思っているのだろうか? いや、実際に家の近所で殺人事件があったり包丁男が学校に乱入したり、親父が浮気してたりするなんてことを子供たちは経験しているのだ。なのにそんなことは「なかったこと」のように大人は振舞う。そうすれば子供には何も分からないとでも思っているのか? 何という傲慢か! 「汚いものは見えないように」いくら大人が腐心しようと、殆ど徒労であるのに、そんなことにも気がつかない大人たちは、子供の目からは馬鹿か卑劣漢にしか思われまい。 作者は本作を通じて少年少女たちに訴えている。「君たちの生きている世界はこんなに汚い世界なんだよ。救いなんてない世界なんだよ。でも君たちもいずれそんな世界の中で大人になって生きていくことになるんだ。だからと言って、君たちはそこで『神様』に頼るかい?」と。そして大人たちにも怒りをぶつける。「いつまで奇麗事だけの物語を子供に与え続けるつもりだ?」と。 ミステリブームの中心をマンガが担っていることは誰も否定できないことだろうが、さらにその中心にある『名探偵コナン』がどれだけ下らないか、指摘する向きが少ないのはなぜか。もちろん、残酷な殺人事件ばかり描いて教育上よくない、と批判する大人もいないではない。しかし、『コナン』が下らないのは、残酷だからではない。そんな批判は的外れもいいところで、あのマンガの一番下らないところは、どんな事件も全て奇麗事で落ちをつけ、解けない謎はない、真実はいつも一つと能天気に主張しているところである。こんな欺瞞がどこにある? 読者の中にはこの『神様ゲーム』のあのラストを、「そんな馬鹿な」とか「意味不明」とか言うやつもいるだろうが、それはミステリが「全ての謎が論理的に解決されるもの」だと錯覚しているからである。 現実の社会を考えた場合、全ての「謎」が解明されることなどはありえない。ミステリもまた文芸の一つである限り、その法則から逃れることはできないはずであるし、無理に「たった一つの真実」などがあるように主張すれば、ただの一人よがりで自己満足な駄作にしかならないのだ。『コナン』のおかげでどれだけミステリの読み方を間違える馬鹿が増えたか、あれくらい罪悪なマンガもない。 ここでハッキリと断言しておくが、ミステリの本質は、「いったん全ての謎が解かれたように思った後にもなお残る人間の謎を提示すること」にあるのだ。「論理的に全ての謎が解かれること」なんて概念はもう百年前の古い定義で、糞でしかない。横溝正史の『獄門島』がしばしば日本ミステリの最高傑作と評価されるのは、事件の謎が全て解明された後、犯人の「動機」そのものが崩壊してしまう「運命の不条理」が描かれているからである。それに対して金田一耕助の「孫」を僭称するバカマンガがくだらないのも、横溝ミステリの本質を理解していないからだ。 作者は読者に対して子供だから大人だからと言って一切容赦はしていない。作中には、残酷な犯罪者も変質者も堂々と登場する。さりげなく「ジェノサイド」とか「ネクロフィリア」なんて言葉も全く意味が説明されないままで使われている。再度繰り返すが、そんな現実だって身近にあるというのに、大人は子供に対して情報を抑制しているのだ。この本を読んだ年少の読者が、自分の親に「この言葉どういう意味?」と質問してきたときに、どれだけの親がきちんと「現実」も含めて説明してやれるだろうか。コトナカレな親が増えている現在、それは全く心許ない状況だと思うのである(これは一つの事例に過ぎないんで、作者が言いたいことは、大きく「現実をきちんと子供に理解させ立ち向かわせる勇気と覚悟を親は持っているのか?」ということであることに注意すべきだろう)。 本作のラストが意味不明だとかアンフェアだとかほざく人は、メールでなら全部解説してあげられるから、質問してきなさい。ミステリはネタバレ厳禁だから、公開日記じゃこの程度の抽象的なことしか書けないんだよなあ。結局、何が言いたいのかわかんねえよという文句もあるだろうが、こっちだって隔靴掻痒なのである。
中島らもさん一周忌のDVD『超老伝』がG2プロデュースから届く。 私はちょうど仕事中で、代金はしげが一時的に払ったので、文句を付けることと言ったら。 先日、雑誌『笑芸人』のバックナンバーで、中島らもさんとモロ師岡さんの最後の対談を収録したDVDも入手していたので、ここんとこずっとらもさん三昧である。 対談でらもさんは「泣き笑いは好きじゃない」と明言している。一周忌だからと言って、泣いてばかりじゃらもさんファンとしては不適格だろう。 みんな笑おう。泣くほどの価値もこの世にはありゃしない。
2004年07月26日(月) 何が決まったと言うのよ〜(T∇T) 2003年07月26日(土) オタクな本屋にクラシックは似合わない/『TNくんの伝記』(なだいなだ)/映画『デブラ・ウィンガーを探して』ほか 2002年07月26日(金) 親しき仲ほど礼儀なし/『風の帰る場所』(宮崎駿)/『うっちゃれ五所瓦』1・2巻(なかいま強)ほか 2001年07月26日(木) 全ての知識はマンガから/ドラマ『美少女仮面ポワトリン』第一話ほか
| 2005年07月25日(月) |
杉浦日向子さん死去/『ラインの虜囚』(田中芳樹) |
夕べ、グータロウ君に『鋼の錬金術師』の酷評をメールで送っといたら、今朝になって「今日、見に行くんだよ」との返事。また「しまったあ、やっちゃったあ」である。映画にしろ本にしろ、事前に先入観を与えないようにしようと気をつけているつもりではいたのだが、腐女子風味満載のあの映画までグータロウ君が見に行くとは予想もしていなかったのである。メールの返事は「ウチには腐女史もオタク小僧もいるから」とのことだった。 何となくお子さん方の将来が心配な発言ではあるが、最初からつまんないだろうと予測していやいやながら見に行くのもよくなかろうと、「『ゴジラ ファイナルウォーズ』を見に行くつもりで行きなよ。キャラだけは一杯出てくるから」と再メール。実際、昨日の日記ではああだこうだと文句をつけはしたが、映画『デビルマン』に比べたら全然許せてしまうレベルなのである(まだ『デビルマン』ショックを引きずってるな、オレ)。 夜、映画を見たグータロウ君から、「『Zガンダム』より100倍も面白いじゃないか!」と返事が来た。そこまで言うとはさすがは『ゴジラ ファイナルウォーズ』を絶賛しただけのことはある。いつもは「映画は完成度で見よ」とか言ってるくせに、なんで一部の映画に関しては自分の中の基準も取っ払っちまうのかなあ(笑)。エドとアルを見ろよ。あいつら、自分たちのことしか考えてなくて、ノーアもウィンリィもほっぽらかしだぞ? あんな「男のエゴイズム」がプンプン匂う映画を褒めちぎってると、「男性優位主義者」と勘違いされちゃうぞ(笑)。全く、彼のご家庭の平和が心配なことである(あえて表現を「変えて」いるので、気がつかない人は気がつかないと思うが、そういう「要素」に「腐女子」は惹かれているのだね。さぞや同人誌は萌えることであろう)。
作品評価は、その作品の持っている要素の何に注目するかによって全く変わってしまうものだから、意見に相違が生じたからと言って、それで即、ケンカになったりするものではない。ところが、ネットを散策してると、すぐにトサカに来て罵詈雑言を垂れ流す御仁が目に付く。たいていは人の意見を咀嚼する能力に欠けていて、ちょっとでも自分の好きな作品を批判されると、作品のみならずそれを好きな自分の全人格まで否定されたかのように激怒するのだ。誰もそんなことは言ってないのに。 『劇場版 鋼の錬金術師』についても、総体としてはちょっとなとは思うけれども、全否定をしているわけではない。演出の見事なシーンはいくらでも挙げることができる。エドとノーアが出会って、お互いの気持ちが通い合うあたりまでの流れなど、なかなかのものだなあと感心していたのだ。ジプシーの歌や踊りのシーンなども、作画と音楽のタイミングが実に見事だった。 でもだからこそ、せっかくの設定が生かせていない、キャラクターの始末がきちんと付けられていない、人気キャラをともかく出さなきゃならないから人物ばかり右往左往して物語がゴタゴタしてくるなど、「テレビアニメを映画化した場合の弊害」がやたら目立って、総合的に見た場合は「つまんない」としか言いようがないのである。あの本筋の話の流れなら、マスタングとか出てくる必然性ないんだよね(なのに「マスタングの出番がすくなーい!」とか文句付けてる馬鹿がやたらいる)。出さないわけにはいかない「オトナの事情」は分かるんだけど。 「ジプシーじゃない、ロマよ。人間って意味」とか、そんなセリフまでノーアに言わせておいて、それがドラマを盛り上げることもなく、せいぜいキャラクターにちょっとだけ彩りを加える程度の演出にしかなってない点に気がつけば、原作とかテレビシリーズとかよく見てなくても、「こりゃダメ映画だ」という判断ができると思う。ノーアはもっと物語に絡むべきだった。差別と迫害の中で、仲間からすら裏切られて、異世界へ逃げ出したいという思いが強いなら、もっと自分の能力を「悪用」してでも、エドやアルを犠牲にしてでも扉の向こうに行きたい、そういうドラマを用意するべきだった。テレビシリーズの初期のロゼとキャラがかぶっちゃうけど、劇場版は所詮テレビシリーズの「なぞり」なんだから、そこまで徹底しちゃってもよかったと思うんである。 「Yahoo」の掲示板とかでは賛否のうち賛の方が多いようではあるけれど、内容を見ると賛も否もほとんど「キャラ萌え」を基調としたもので、一般客の反応はこんなものかと思う。「『ハガレン』ファンのどこが『一般客』?」と言われそうだが、ポルノグラフィティやアジアンカンフージェネレーションやラルク・アン・シェルの主題歌を平然と何の違和感もなく受け入れられている時点で、私には彼ら彼女らが同じオタクだとは思えないのだ。 いやさ、我々オールドタイプはその昔、『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』の劇場版の主題歌を沢田研次とかゴダイゴとかメアリー・マッグレガーとかが歌ってたときにも「心はささきいさお」だったからね。『鋼の錬金術師』はもう、テレビシリーズのころからアニソン歌手の入り込む余地はなくなっていたわけで、コムロが台頭して来た十数年くらい前から一気に露骨になっていた「アニソン歌手撲滅キャンペーン」は、ほぼ完了してしまったのだなあと実感して悲しかったのだ(もうヤケだ。頑張れ影山ヒロノブ&桃井はるこ!) もうちょっと「我々の側」のプロの人が『鋼の錬金術師』について語ってくれたらいいのにと思うのだが、原作もアニメもちゃんとチェックしてるって人、あまり見かけないのだよねえ。夏目房之介さんも原作は読んでてもアニメは見てないらしいし。『エヴァ』のころは履いて捨てるくらいいたオタクな批評家が、それ以降、激減してるのである(あるいは発言を控えている)。ミーハーがいけないなんて言うつもりはないけれども、文化的な背景をも分析した上で、もっと突っ込んだ作品論、作家論がなされていかないと、作品が本当に評価され残っていくことにはならないだろう。妄想爆発で騒ぐだけじゃ、『ハガレン』は10年後には忘れられてしまうアニメになってしまうかもしれない。それでいいのか、腐女子の諸君。
1991年から1992年にかけて、テレビ東京系列で天野祐吉が案内を務める『夜中の学校』という番組があった。杉浦日向子さんはそこで「杉浦日向子の江戸学」と題して4回に渡って講義をされている(一度『ぶらり江戸学』と題して講義録が単行本化されたが絶版。しかしつい先日、小学館文庫から『お江戸風流さんぽ道』と解題され、入手可能になった)。 「江戸前概論」「江戸前の食文化」「江戸前ファッション考」「江戸前の恋愛学」の四つで、短期間の集中講義形式ではあったが、実に面白くかつ身のある内容の番組だった。私の江戸に関する知識は、実はこの番組で学んだことでほぼ尽きている(笑)。 しかし、番組を見て、タメイキをついて感心していたのは、その深い内容ばかりでなく、講師の杉浦さんの美しさにであった。 『夜中の学校』だから、後の『お江戸でござる』のときの無難な話ばかりではない。際どい話も結構出てくるのだが、「親指が反ってる女は床上手って本当ですか?」という質問に対して、「幕末頃に出てきた説ですね」と屈託なく答えてしまう様子が、何とも爽やかで少しもいやらしくない。いやらしくはないが、人間の魅力に溢れている。 ちょっとだけ眉間に皺が寄るとそこに清楚な色気がふっと生まれる。そういう無意識の色気が杉浦さんの仕草の一つ一つに表れている。「小股の切れ上がった」という慣用句を説明するときに、普通それは「女性の足の美しく伸びた姿」として語られることが多いのだが、「うなじのあたりを指すって説もあるんですよ」と、いきなりご自分の髪を上げてうなじを見せてしまう。まさしく少女のような無防備さ無邪気さであるが、スタジオで真正面にいたお客さんなんかは、一瞬、ドキドキしてしまったのではなかろうか。江戸時代のベルダンディーと例えた方がオタク少年たちには理解が早いかもしれない。エロ話を嬉々として語る下品なコムスメタレントとかとは次元が違うのである。 「匂うような」という表現が比喩ではないほどで、微笑みながら、あの訥々というわけでもないのだが静かで、しかし軽やかさを感じさせる涼やかな声の、何とも表現のしようのない独特の口調で江戸話を語られる姿は、江戸時代人がそのまま現代にタイムスリップして来たかのような風情すら漂わせていた。 当時は32、3歳かくらいだったろうか。荒俣宏と結婚して離婚したちょうどそのころだったように思う。離婚の原因が特に公表されることはなかったが、自分の趣味に忙しいあの二人が共同生活するというのはまず無理だろうと納得して、特に詮索する気も起こらなかった。 「女性のマンガ家に美人は少ない」という偏見を最初にぶち破った世代の代表も、杉浦さんである。
杉浦さんの江戸学の知識は、時代考証家の稲垣史生氏仕込みである(稲垣氏がどれほどのビッグネームであるかは今更もう説明もしたくない)。いや、「仕込み」と言っては失礼かもしれない。杉浦さんが稲垣氏に弟子入りしたときのエピソードであるが、「時代考証家になるには時間がかかる。三年勉強して、そしてまだ情熱が冷めなかったら、弟子入りを許す」と言われて、本当に三年修行して再び門を叩いたというのだから、もともと「江戸」に対する思いは半端じゃなく強かったのだ。「江戸の伝道師」と呼ばれたのも、むべなるかなである。 その情熱は、杉浦さんの書かれるマンガ、エッセイの隅々に至るまで横溢していた。葛飾北斎をマンガ、あるいは映像化した作品は多いが、私にとって唯一無二の北斎は杉浦さんの『百日紅』に登場する愛すべきガンコジジイである(そしてもちろん娘のお栄のけだるい美しさも!) 私と同世代の人間なら、杉浦さんの作品にはデビュー当時からずっと魅せられてきているだろう。『合葬』も『とんでもねえ野郎』も『百物語』も『風流江戸雀』も、みな初版で買った。江戸を舞台にしたマンガは数多いが、それはみな江戸の風俗を借りて現代を語っているだけである。江戸人の気質を体現して、しかもなおそれを現代に生きる我々の物語として、歴史と伝統と文化のつながりを描いてみせたのは、杉浦さんをおいて他になく、杉浦さんの登場自体が古今未曾有空前絶後の「事件」だったと言っても過言ではないと思う。 少女マンガ(あるいは女流マンガ)の歴史を作ったマンガ家を五人挙げろと言われれば、私は、岡田史子、萩尾望都、大島弓子、高野文子と並んで、杉浦さんの名前を挙げるに躊躇しない。
杉浦さんはもう長い間、闘病生活が続いていたそうである。今、思い返せば、杉浦さんがマンガ家を引退して江戸文化の研究に専念しようとしたのは、自らの命の短さも予感していたからではなかったろうか。失礼な話ではあるが、『お江戸でござる』に出演している杉浦さんを見ていて一番感じていたのは、日を追うごとに顕著になる容色の衰えであった。これは確実に体を悪くしている、と、はっきりと分かったし、番組を降板したのも病気のせいだろうと想像がついた。 お元気になることを心の底から願っていたのだ。杉浦さんの死は一人のマンガ家の死、江戸の研究家の死に留まらない。ある一つの文化を継承し伝えようとする大きな歴史の流れがここで途絶えてしまった、それほどの事件なのである。
仕事帰りに「しーじゃく」で寿司、そのあとゲーセンでUFOキャッチャーなど。 私はゲームでは「取れるものしか取らない」ので、まあ、そんなに損することはないのだけれども、しげはバクチウチの血が騒ぐのか、いつも大物狙いばかりしている。 今日も「DVDプレイヤーがほしい」と、なんか番号合わせするようなゲーム機にカネをつぎ込んでいるのだが、たかか百円や二百円でひょいひょいとDVDプレイヤーをゲットされちゃ、ゲーセンの方としても困るだろう。こういうのは「目が出ない」ようになっているものなのである。 私の方は堅実にムシキングのビーチセットをゲット。これでしげがいついきなり「海に行きたい!」と言い出しても大丈夫である。いや、そこまでして海に行きたいわけではないのだが。
ついこの間、13万ヒットを達成したばかりだと言うのに、ふとカウンターを見ると、14万ヒットにいきなり迫っている。どういうわけだか一日で4000人くらいがアクセスして来ているのだ。アクセスランキングも、これまでは100位から150位くらいをウロチョロしていたのが、いきなり10位である。普段は一日トータルで100人くらいしか覗きに来ない零細サイトだというのに、いったい何が起こったのかと目を白黒。 これまでにも2チャンネルとかにリンク張られたりして、アクセスが一時的に増えたことはあるけれども、ここまでのことはない。佐世保の小学六年女児殺人事件のときにも何を勘違いしたのかアクセスが増えたことはあったけれども、最近はあまり事件関係とか政治関係の話題について書いた覚えがないので、何に引っかかってお客さんが増えたのか、思い当たることがない。ともかくアクセス解析を調べてみたところ、「電脳遊星D」さんのサイトで、5月28日の日記の『機動戦士Zガンダム A New Translation 星を継ぐ者』の紹介がされていたのだった。一日に軽く20000ヒットを数えるサイトさんなので、そりゃ四千や五千のアクセスがあるのも当然と言えば当然か。 そこから更に枝葉分かれをして、あちらのサイト、こちらのサイトでも私の文章が引用されたりリンクされたりしていたので、こういう事態になっていたのだった。しかも、どのサイトも好意的に読んでくださっていて、かなり適当に文章を書き殴った身としては、赤面ものである。 自分で書いといて弁解するのも何なのだが、映画を一回見ただけで書き殴った文章なので、論旨はかなり乱雑である。「動線」のことについて偉そうに述べてはいるが、実際、これを具体的にきちんと説明しようと思ったら、文章では不可能で、絵に書いて示すしかないのだ。毎日更新しなきゃなんない(してないけど)日記でそこまではできません(泣)。なのに、「わが意を得たり」とか「お勧めです」とか書かれたりすると、なんかもー、どこかへ逃げ出したくなります。 一応、「批評の基本」くらいのことは知ってるつもりでいるので、ただ単に「好き嫌い」「いい悪い」だけを書いて根拠を示さないようないい加減なマネはしたくないと思ってるんだけど、それも適当になってることも多いかも。だって、書く端から忘れてるしねえ。まあ、二、三日すればアクセス量もまた元通り落ち着くと思うけれども、今回初めてお越し頂いた方が、ヘタにほかのページとか覗かれて、気分悪くするような文章に出会わないかどうか、それが一番心配と言えば心配(汗)。
田中芳樹『ラインの虜囚』(講談社)。 「ミステリーランド」シリーズの第七回配本。田中芳樹の「ミステリー」というのがちょっと気にかかったのだが(薬師寺涼子シリーズは狭義のミステリーには当てはまらないし)、少年向けとは言え、堂々たる歴史ミステリーに仕上がっている。 1830年、フランス。父と死別し、はるばるカナダから祖父を訪ねてパリにやってきた少女・コリンヌ。しかし祖父のブリクール伯爵はコリンヌを孫とは認めないばかりか、ライン河の東岸ある「双角獣(ツヴァイホルン)の塔」に幽閉されている人物の正体を探って来いと命令する。父の名誉のために旅立つコリンヌ。そしてひょんなことから彼女をサポートすることになる男たち。 女たらしでお調子者の若き人気劇作家・自称天才のアレクサンドル・デュマ。弱きを助け強気をくじく悪党の美学を貫くカリブ海の海賊紳士・ジョン・ラフィット。そして豪腕巨漢のよいどれ剣士“モントラシェ”。右耳の半分欠けた彼の正体は、物語の後半で明かされるが、ちょっと歴史に詳しい人ならば「ああ、あの!」と頷く有名人物である。 しかしコリンヌの旅を快く思わない何者かが、殺し屋集団「暁の四人組(パトロン・ミネット)」を雇ってその行く手を妨害しようとする。果たしてコリンヌたちは無事目的地に辿り着くことができるのか。そしてラインの虜囚・仮面の男“ナポレオン・ボナパルト”の正体は……? 少年向けというワクに捉われずに良質なミステリーを提供することを目的としてきたこのシリーズだから、田中芳樹もそれに倣ったのだろう、決しておざなりな謎解きに終わっていない点は評価できると思う。もちろん、コアなミステリファンならば、「要するにこれはあの○○○○○と同じ話だよね」と似たような先行作を挙げることができるだろう。物足りないと言われればその通りかもしれないが、そもそもこの物語は冒険小説としての要素の方が高いのである。謎解きの部分はこの程度で押さえておくのがバランスとしてはよいと思う。 それよりも何よりも、コリンヌを守る“三銃士”たちの、男としての魅力、冒険小説の主人公はかくあるべしと言いたくなるような知謀、勇気、正義感、豪胆さにこそ、この小説の魅力を見るべきであろう。 「自分で自分の身を守りたい」と、モントラシェに剣を学ぼうとするコリンヌ。しかしモントラシェは、いったんはコリンヌに剣を持たせながら厳然とこう言い放つ。「よし、それでマドモアゼルは、自分を殺す権利を相手に与えたわけだ」と。モントラシェは剣士である。だから武器を取った戦いそのものを否定しているわけではない。しかし、武器を取る必要のない者、自らの立場も実力も弁えぬ者が武器を持つ愚を、「匹夫の勇」の危険さを、静かにコリンヌに諭す。なんかもー、「現実の戦争を見たい」とか言ってイラクに行きたがるあほどもに聞かせてやりたい台詞だ。「戦場に行く」ってこともつまりは「殺されても構わない」といってるのと同じなんだからな。 少年少女向けだからと言って、いや、少年少女向けだからこそ、ただの奇麗事ではなく「戦うこととは何か」を手を抜かずに語る作者の姿勢は好感が持てる。必ずしもその理屈が「現実の戦い」の全てに援用できるとは言えないが、基本的な概念としては決して間違ってはいないだろう。 まあ、浅薄なアニメやファンタジーが、やたらヒロインに「私も戦いたい!」と叫ばせて突然超能力を発動させたり、たいした訓練もしてないはずなのに剣を振るわせたりするのに比べたら、本作の底に流れている思潮はずっとずっと気高く美しいのである。
2004年07月25日(日) キャナルシティの「ブルース・ブラザース・ショー」2……3もいつかありそうだ(^_^;)。 2003年07月25日(金) ムダじゃムダじゃ/『フラッシュ! 奇面組』2巻(新沢基栄)/『ぼくんち 全』(西原理恵子)/『ねらわれた学園』(眉村卓) 2002年07月25日(木) 本当にあった怖くない話/『くっすん大黒』(町田康)/DVD『ミニパト』ほか 2001年07月25日(水) 福岡腰痛クラブ/『庵野秀明のフタリシバイ』ほか
| 2005年07月24日(日) |
いつものことだけど/映画『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』 |
何とかこれだけは見逃さずにいるぞの『仮面ライダー響鬼』第二十五之巻 「走る紺碧」。 今回はともかく「夏だから水着」。一番目立ってたのはやっぱり香須実(蒲生麻由)で、朝っぱらから黒のビキニかよってなもんだが、ヒロイン陣の中じゃセクシー系はどうしても彼女なんだね。反作用的に日菜佳(神戸みゆき)は可愛い系ってことになるんだけれども、それはひとみ(森絵梨佳)に任しといてもよかったんじゃないかなあ。でも、視聴者の多くが一斉に突っ込み入れてたと思われるのは、多分「あきら(秋山奈々)はなぜ水着にならないんだ!」ということだったと思う(笑)。本筋はどうでもいいや。
午前中、次回公演の下見に、天神の福岡市文学館(赤煉瓦文化館)へ。 もともと明治40年代に日本生命保険株式会社の九州支店として建てられたもので、ほんの20年ほど前まで「現役」だったのだが、外観だけでなく、内装もアール・ヌーボー式の姿を復元して、文学資料館として再生されている。ここの会議室、30人ほどが入れるので、その内装を利用して「舞台」にしてしまおうという発想なのである。とは言え、本当に使えるものかどうか、ゲンブツを見てみないことには判断が下せない。細川嬢と待ち合わせをして、実際に中を覗いてみることにしたのである。 まあ、公演前はある程度情報は秘匿しとかなきゃならないので、詳述は避けるが、いやもう、こんなに「使えそう」だとは思わなかった。アレとかアレとか、まんま使えるし、問題はアレとかアレをどう処理するかってことなのだが、そこんとこはもう細川嬢のセンスにお任せしたい。細川嬢もイメージが沸々と涌いてきたようで、どんなものができあがるか、楽しみである。
細川嬢、最近はビートたけしに関心があるそうで、出演、監督作を全て見たいとか。テレビ出演作だとソフト化されてないものも多いからなかなか大変だとは思うが、とりあえず私が持っているDVDをお貸しする。もっとも、私もたけしは好きではあるのだが、何しろ作品数が多いから、ビデオテープでエアチェックしてるものが殆どである。探してみたらDVDは『戦場のメリークリスマス』『御法度』『バトルロワイヤル』『座頭市』『明智小五郎VS怪人二十面相』しかなかった。代表作を微妙に外しているところが自分でも笑える。たけしファンでも最後のはカネ出してまであまり買わないよな。
「博多リバレイン」の「柳川屋」で、三人で昼食。ここに来ると必ず「博多櫃まぶし」を勧めるのは恒例(笑)。ただ、お櫃一杯で二人前ちょっとの量があるので、食の細い人にとっては多少、胃にこたえる。私やしげはペロリなのだが、まあ普通は二人で食べてちょうどよいくらいだろう。 念のため、細川嬢に「たくさん食べるほうですか?」と尋ねてみたら、「全然大丈夫です!」と元気に返事される。本当かなといささか疑問だったのだが、本当だった(笑)。人は見かけによらないものである。
そのあと、博多座の「紀伊国屋」で本など物色。藤原竜也&鈴木杏主演・蜷川幸雄演出版の舞台DVD『ロミオとジュリエット』を購入。既にWOWOWで録画しているのだが、特典映像のインタビューが目当てね。写真集まで一緒に買ってしまったが、写真をぱらぱら見返してみても、蜷川さんのような重鎮が未だに先鋭的なのに改めて嘆息。 若い人と会話しても小劇場系の人の話題が出るばかりで、なかなか蜷川さんの名前が出てくることは少ないが、あまり舞台とか見てないんだろうか。もっとも若い人は演劇関係者ですら「舞台」をあまり見なかったりするのだけれど。こないだの鐘下辰男さんとの懇親会のときも、そういう会話をその場に来てた劇団の人と話した。もうしつこいくらい繰り返してて若い人に悪いんだけど、もっといろんなもの見ようよ。
予定は全て終わったので、そのまま帰る予定だったのだが、突然しげが「海に行きたい!」と言い出す。厳密に言えば、私はそのとき、車の後部座席で居眠りこいていたので、詳しい経緯は分からない。でも多分、詳しい経緯なんてなかったのだろう。 「着いたよ!」という声に、てっきり車は自宅に着いたものだと思って、目を開けると潮風が頬を撫でて、目に真っ青な海が飛び込んできた。 しげは興奮してドーパミン出まくりである。水着とか何も持って来てなかったのに、無理やり私を波打ち際まで連れて行く。たかが海水浴だってのに、何でこいつ、こんなに嬉しいんだ。仕方なくズボンの裾をまくり上げて、足を入れる。水は適度に冷たく、砂は足をさらさらと撫でて、確かに気持ちよくはあった。けれど波は意外に勢いがあって、まくり上げてもあまり意味はなかった。しっかり膝のあたりまで濡れてしまって、えらい目に遭う。細川嬢は打ち寄せる海草が足に当たって、気持ち悪がっている。 「これ、わかめですか?」 「そうだよ」 「これは?」 「それはミル」 「えっ! 怖い!」 「いや、『ミル』って名前の海草」 「あっ、なーんだ」 なんかどーぶつの死骸か何かと勘違いしたらしい。海草だと分かってからは安心したのか、ミルの塊をつまんでぶら下げて遊んでいる。 ふとしげを見ると、足を入れるどころか、全身、ずぶ濡れになっていた。 「下着じゃん、お前!」 キャミソールみたいな感じの下着だから、一見、水着に見えなくもないのだが、濡れれば当然、透けてしまうのを防げない。 細川嬢も「透けてますよ!」と狼狽する。本当にまあ、あれがああなっているのだ。なのにそんなことを気にもせず、しげは「あはは、あはは」と笑っている。もう脳のネジが捻じ切れているのだ。 海水浴場は結構な人ごみだ。あまり長居はできないと、まだ名残惜しげなしげを追い立てて、車に戻る。 しげ、下着はもう着ていられないので、全部脱いで上着だけを羽織る。なんかもう、人の目なんてどうでもいいとばかりに、しげ、更衣室にも行かずに、車の陰で下着を脱ぎ始めるのだ。慌てて細川嬢、前に立ちはだかって、タオルをかざして隠そうとするが、どうしたってはみ出て見えるのである。気がついた客もいたんじゃないかなあ。何とか着替えたが、上着を羽織るといっても薄いカーディガンみたいなやつなので、前で結んでムネを隠すのが精一杯だ。半裸と言ったほうが正しいような格好である。下は当然、スカートをはいただけでノーパン。 細川嬢を送って、そのあと帰宅するまで、しげはずっとそのままの格好だった。全く、職質でもされたらどうするつもりだったのか。イカレたやつは何をし始めるか予測がつかないのである。 ふっくたびれて夜まで爆睡。
夜、AMCキャナルシティ13で、映画『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』。 なんとAMCで一番大きな劇場での公開である。前売り券がいかに売れていたかが分かるね。公開二日目のレイトショーだが、客席はまあ五十人程度の入り。劇場が広い分、随分閑散とした印象である。一人か二人で来て入る男のオタクは見かけるが、結構「普通っぽい」カップルの方が目立つ。腐女子っぽい女の子たちもそんなにはいない。 一見、予想外のようであるけれども、前売り券買ってるオタクや腐女子が1000円興行のレイトショーなんか利用するはずがないのだ(リピーターとして来るとしても来週当たりからだろう)。実際には腐女子さんたちは昨日と今日の昼間に大挙して押し寄せていたのだろう。それがどれくらいであったかは、売店でパンフレットはおろか関連グッズが殆ど完売していたことでも見当がつく(エドのコートまで売れてたよ)。パワーあるよな、若い連中は。 パンフだけは必ず買うようにしているので、カウンターのねーちゃんに「追加はいつごろ入荷しますか」と聞くと、ニベもなく「分かりません」と返事される。多分、同じ質問を嫌になるほどされてるんだろう。ジュース(Lサイズ)を頼むと、いつもは「ストローは2本差しますか?」と聞かれるのが、無言で1本だけ差されて渡された。Lサイズを頼んどきながらストローを「1本でいいです」とサビシク答えてたやつらが多かったのかな(笑)。『電車男』のヒットにも関わらず、オタクのシングル率は未だに高いのかもしれない(推測に留めておきます)。 私はそういうオタクオタクした客の中でもみくちゃにされながら映画を見るのも大好きなのだが、しげはそうではないので今回は混雑を避けることにした。前売り券を買うのも嫌そうな気配だったので、特典グッズも諦めた。でも座席はど真中に悠々と座れた。パンフは後日、頃合を見計らってまた買いに来よう。
テレビアニメシリーズは賛否両論喧しくはあったが、私は「うまいところにオチをつけたな」という印象であった。原作との単純比較は何度も繰り返している通り不毛で無意味である。 ファンタジーが最終的にパラレルワールドSFに強引に捻じ曲げられたという批判もあったようだが、「錬金術」を「等価交換」を基本法則としたありうべき科学の一つとして設定していたことで、この物語は当初から「パラレルワールドSF」として成立していた。それは原作とアニメが共通して持っている基本設定でもあった。 「SF」というテクニカルタームが、既に物語の魅力を語るものとして機能していない現在、『鋼の錬金術師』が「SF」であることに気付いていなかったファンも多かったのではないかと思う。もしかしたら原作者すら「SF」と意識せずに描いていたのかもしれないが、少なくとも脚本家の會川昇と監督の水島精二の二人はSFであることを強く意識してテレビシリーズを制作していたと思いたい。若いファンには「SF」なんて「死語」に拘る必要ないじゃないかと言われそうだが、「SF」とは既成概念・固定観念に囚われることから脱却するための「手法」である。常識的な展開をひっくり返したり可能性の未来を提示したりすることで、我々の精神がいかに思い込みに支配されているかを鋭くえぐってくれるからこそ、そこに限りない魅力を感じるのだ。 『鋼の錬金術師』のアニメスタッフは、最終回に至る流れの中で、「等価交換」という原作の根幹をなす設定すら反転させて、人間の生き方に「絶対」はない、という形を示してくれた。だから、たとえエドとアルが二つの世界に分断されようとも、ウィンリィの元にエドが帰らずとも、彼らは空に手を伸ばし、自分の足で歩いていくことをやめはしないから、あれは紛れもなく「ハッピー・エンド」なのである。
テレビシリーズの最終回には、脚本の會川昇の「思想」が色濃く表れていると思う。 表面的なハッピー・エンドを好まないのはこれまでの脚本作品からも判読できるし、無理にひねって尻切れトンボに終わることもままあるが、『鋼の錬金術師』の場合は原作の展開から離れてもうまくオチが付けられたな、と思っていたのだ。 アルは体を取り戻した。しかし、兄との旅の記憶をなくし、兄もまた別の世界にはじきとばされた。何かを得、何かを失う。聖書の昔から人間が宿命的に追わされている「犠牲(サクリファイス)」の物語。それでも人は生きていく。その決して諦めることのない「希望」の道は、既にテレビシリーズで充分に語り尽くされたのではなかったか。 即ち、あれから先、どんな展開を考えようとも、全てはこれまでの物語の拡大再生産にしかならないということである。「続編」を作ってどうするのだ、それともこちらの浅薄な想像を吹き飛ばすほどの新奇な展開をアニメスタッフは考えついたというのか、というのが、私の映画を見る前の期待と不安であったのだ。
こういう場合、「期待」はまず叶えられることはなく、「不安」はたいてい当たる。前情報でテレビアニメシリーズの「続編」と謳ってはいたが、「完結編」とはヒトコトも言っていなかったことも不安を弥増していたが、劇場版はあからさまなほどにテレビシリーズの拡大再生産になっており、その精神において新しいものは何一つ加えられてはいなかった。これは明かに「更なる続編」を狙っている。 細かい設定のミスや矛盾を指摘する声は大きいだろうが、これは“一度完結したものを無理やりシリーズ化した”『宇宙戦艦ヤマト』と同じパターンである(あるいは「人気があるから連載をやめさせてもらえない『ジャンプマンガ』の法則」といった方が分かりやすいか)。ヤマトは、地球が危機に陥るたびに人類唯一の希望を担って「特攻」していった。ディテールは違えども、どのエピソードも基本的には同じ構造である。そして、今回の『鋼の錬金術師』劇場版も、まるでデジャ・ブを見ているかのようにテレビシリーズをなぞるだけの物語がだらだらと続くのだ。 テレビシリーズは、まず「鋼の錬金術師」として活躍するエドとアルの「水戸黄門漫遊記」を描く「現在」から始まって、途中から彼らの「原点」たる旅の始まりの「過去」に遡った。そしてその過去が現在に辿りつき、二人はホムンクルスたちとの戦いを経て人体錬成の謎を解き明かし、最後の「別れ」に至るという展開を辿っている。 劇場版はまずエドの口から「錬金術世界」にいたころの「過去」が語られ、「現実世界」で生活する「現在」が描かれ、「錬金術世界」を「シャンバラ」と見なすトゥーレ協会によって、二つの世界がシンクロする。そして協会との戦いを経て、また新たな「別れ」が描かれる。個々の要素は違えど、テレビシリーズと劇場版は、その物語構成が全く同じなのだ。これでは「手抜き」と非難されても仕方がないのではないか? いや、物語構造が同じだからと言って、それだけが原因でこの映画がつまらなくなっているわけではない。積み重ねられるディテールがことごとく安易で、かつ連関性がなく、少しもドラマを盛り上げていかないのである。 冒頭、エドはノーアという接触テレパス(懐かしの筒井康隆『七瀬ふたたび』を連想された方もいらっしゃるか)を助ける。彼女はその特殊能力ゆえにトゥーレ協会に追われていたのだ。となればこの少女が本作のヒロインとして、後半、さぞや重要な役割を果たしてくれるだろうと、普通は考える。ところがこいつが全然活躍しやがらねえんだな。錬金術世界に行きたがっていたのをエドに置いてきぼりを食らうという役回りは演じるが、物語の本筋ではない。いったい何のために登場させたのかわからないのだ。まさか沢井美優に声をアテさせるためだけに出したのか。 「キング・ブラッドレイ」を発見したエドは、血相を変えて彼を追跡する。しかしパラレルワールドという世界観においては、同じ人物であっても別の役回りを演じることはよくあることである。彼は実は映画監督の「フリッツ・ラング」であった。その正体には驚くが、こいつがまだ出てきただけで、物語にやっぱりたいして絡んでこないのである。まあ、この事件をきっかけに映画『メトロポリス』を作ったのだと暗示したいのかもしれないが、粋な描き方だとは言いがたい。 粋でないと言えば、マース・ヒューズの復活もそうだ。錬金術世界では死んでいても、現実世界で生きているというのはありえることだが、だからと言って、それはあのヒューズ准将とは全くの別人なのである。こういう形でヒューズが蘇ったからと言って、喜ぶファンがいると思っているのだろうか(いるかもしれないから情けないのだが)。 もともと「パラレルワールド」という設定は、制作者が節操をなくして援用すれば、どんな展開だって可能になるものだ。『ヤマト』が沖田艦長を蘇えらせるのには言い訳にかなり苦労したが、「パラレルワールド」という設定は実に便利なタームである。マース・ヒューズも、キング・ブラッドレイも、実に簡単に蘇った。いや、映画を最後まで見てみると、スカーもラストもちゃんといるのである。更に言えばパラレルワールドは一つとは限らないから、続編、続々編と作って行く段階で、ラースもエンヴィーもホーエンハイムも簡単に蘇らせることができる。既に、トゥーレ協会の陰謀の挫折を描いていることで、この「現実世界」も、実は我々のこの「現実世界」とは別のパラレルワールドであることが明示されているのだ。となればこれから先、『鋼の錬金術師 中つ国編』とか『鋼の錬金術師 日本編』とか『鋼の錬金術師 地下帝国ヨミ編』とか『鋼の錬金術師 宇宙編』とか『鋼の錬金術師 プロ野球編』とかいくらでも作れるぞ。本当に作るんじゃないのか。 これが冗談ではすまないんじゃないかと危惧するのは、ラストで、ウィンリィが取り残されてしまったからである。「待たせてくれないんだね」と呟くウィンリィの目には涙一つ浮かんではいない。運命を運命として受け入れたゆえに気丈にも涙を流すことをしなかったのか、それともこれは「まだ先がある」という暗示なのか。 どちらにしろ、テレビシリーズの最終回も今回の劇場版の終わり方も、あっちの世界からこっちの世界へ、「コマを適当に動かす」ことで締められた。「エド/アル+ウィンリィ」と来て「エド+アル/ウィンリィ」と来たから、次は「エド+ウィンリィ/アル」なんことになるんじゃないのか。いや、會川昇はウィンリィ苛めることに快感を感じてるかもしれないから、「エド+アル+マスタング+アームストロング+リザ+シェスカ/ウィンリィ」くらいなことをしやしないか。 「アルが自分の力で鎧に魂を定着させることができるようになった」という設定も実に便利である。これでアルは、エドとアルがどのパラレルワールドに飛ばされようとも、自分が今いる世界との「連絡」が取れるようになった。あっちのパラレルワールドで事件解決、次はこっちのパラレルワールドで事件解決、もう、続編がいくらでも作れるぞって設定である。そうなればテレビシリーズであれほど「元の体に戻りたい」と苦悩していたアルとは別人になってしまうと言っていいだろう。いや、既にこの劇場版でアルはアルでなくなってしまっている。だからラストでアルが記憶を取り戻し、ついにエドと生身で再会することになっても、少しも感動できないのである。 こんな適当な設定を思いついてもいいのなら、そのうちアルは鎧以外のモノにも魂を定着できるようになって、「動物アル」とか「建造物アル」とか「家電製品アル」とか「メカ沢一郎アル」とか、いろんなものになっちゃうんじゃないのか。その可能性も絶対にないとは言えないぞ。「パラレルワールド」は基本的に「ハックルベリーの無限大=何でもあり」なんだから。でも『鋼の錬金術師』を「ギャグもの」として見ている人には、そうなってくれたほうが面白いかもしれない。そこまでつん抜けてくれれば私も逆に「面白い」と拍手する気になるかもな。 制作スタッフには、語り尽くされた物語を更に続けなきゃなんない「お家の事情」があったのかもしれない。どっちかと言うと、同工異曲でマンネリな話が繰り返されても「キャラ萌え」だけで嬌声を上げる痛いオタクの責任の方が重いかもしれない。けれど『鋼の錬金術師』は、『ドラゴンボール』とか『キン肉マン』とか『美少女戦士セーラームーン』とかよりはもちっと「深い」作品じゃないかと思っていたのである。スカーにニーナが殺された後、滂沱の涙を流したエドの姿を私たちは忘れてはいない。アニメスタッフも、あのときのエドに出会ったからアニメ化を決意したはずだ。正義の名の元に殺戮が繰り返される現実に対して打ちのめされた無力な子供たちが、自分を取り戻して行く。そんな物語になっていくことを期待していたファンは多いと思う。 なのにアニメ版『鋼の錬金術師』はどこに行こうとしているのか。
映画を見た後、あまりに憤慨してしまったので、思わず東京のグータロウ君に「蛇足だぞアレ」とメールを送る。ところが外出していたので気がつかなかったのだが、東京では震度5弱の地震が起きていたのである。大変なときに能天気なメール送っちゃって、全く何ともはやである。
2004年07月24日(土) キャナルシティの「ブルース・ブラザース・ショー」 2003年07月24日(木) 他に売れてるものがあるからいいじゃないか/『コータローまかりとおる!L』6巻(蛭田達也)/『灰色の乙女たち』1巻(加藤理絵)ほか 2002年07月24日(水) ウソから出たアホウ/『追悼の達人』(嵐山光三郎)ほか 2001年07月24日(火) 目標達成!……って何が/『腐っても「文学」!?』(大月隆寛編)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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