無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年07月24日(水) ウソから出たアホウ/『追悼の達人』(嵐山光三郎)ほか

 日に日にアホ度が増してくるしげであるが、口数だけはやたら多くなっているのである。もちろん、その分、手は動かない。もはやウチは人の住める状況ではなくなりつつある。
 これはもう、しげがどれだけ口先三寸で何一つウチに寄与していないかを知らしめようと思って、野崎昭弘の『詭弁論理学』を貸す。
 「これ読んで、自分がどれだけウソついてるか自覚しろよな」
 「なん、これ読んで詭弁の使い方もっとうまくなれってこと?」
 「誰もそんなこと言っとらんだろーが! 自分の言い訳がただの詭弁だってこと、分れって言ってんの!」
 「だから、もっとうまく使えればいいわけじゃん」
 ……ダメだ。こいつの根性は根っから腐っている(-_-;)。


 晩飯は国道3号線沿いの「しーじゃっく」で安い寿司。
 しげはまたアイスクリームを食べたそうな顔をしていたけれど、値段のわりに量が少ないことがもうわかっているので頼まない。
 頼まないけれど欲しいことは欲しいのである。未練がましくアイスクリーム製造機の方をチラチラ見ているのがなんともイジマシイ。
 「『すし大臣』よりこっちのほうが種類が多いから好き」
 としげは言うが、品数で言えばそうたいして違いがあるとも思えない。むしろすし大臣の方が多いくらいだ。値段が安い分、遠慮せずに食べられるのでそんな錯覚を起こすのだろう。
 どうせウナギとアナゴと卵とエビくらいしか食べないんだから種類に拘ることなんかないと思う。

 そのあと、しげは仕事の時間が迫っているので先に帰り、私だけ天神・博多駅を回って本やDVDを買いこむ。
 一人で回るとしげと一緒の時に比べてやはり時間がかかる。ついつい目移りがして、買い忘れてる本がないかと2、3軒回ってしまうせいだが、そうするとやっぱりホントに目当ての本が見つかるものなのである。
 『ウォーターボーイズ』のDVDがないかと2、3軒回って見たのだが、初回限定版のボックス仕様のものはほぼ売り切れ。こうなると「BOOK OFF」に出回るのを待つしかないかなあ。

 
 角川文庫が夏の文庫フェアでブックカバーを配布している。
 「2002夏のリラックス 冷やし文庫、はじめました。」というやつなんだが、コンセプトは表紙にイラストやアルファベットのシールを貼って、自分だけの文庫の表紙を作れるってこと。でも、あまりいい出来ではないんだなあ。
 まず、フローネとかいうオリジナルキャラクターのデザインがなんだかバーバパパのできそこないみたいで、おもしろくない。1年経てば忘れ去られてるのが確実って感じだし、そんなもん表紙に貼ったって楽しくもないぞ。
 更に色が薄い青でいかにも安っぽい。こういうのに惹かれる客っているのかなあ。シールなんて剥がれりゃ汚くなるだけだし、素直にブックカバーのデザイン自体をもっと工夫した方がよかったんじゃないか。
 ブックカバーに凝る本屋とそうでない本屋があるが、最近出色だなあ、と思ったのは福家書店の手塚治虫カバー。文庫が鉄腕アトムCGイラストで(講談社の愛蔵版で使ったやつだな)、単行本が赤地にブラックジャックのコマをあしらったもの。世の中にはカバー嫌いの人も結構いるけれど、これなんかはちょっとコレクションしたくなるんじゃないかって感じで、いい出来だった。

 それはそれとして、角川のシールカバーだけれど、こういうのって案外しげが好きかも、と思って何部かもらってきたら、「貼る貼る!」と喜んでぺたぺた貼り始める。
 ……センスねー(-_-;)。
 レイアウトの仕方ってものが全くできてない。美術の評定、いくつだったんだ。
 それだけならまだしも、書名のスペルが間違いだらけだ。
 フィリップ・K・ディックの『マイノリティ・リポート』、しげが貼ったスペルは「MAINOLITY RIPOAT」。作者名は「P・K・DIKK」。
 もちろん本の本体にスペルはちゃんと書いてあるのにここまで間違えるのである。しげの脳の構造はいったいどうなっているのか(正確なスペルを念のために書いとくと、“The Minority Report”“Philip K.Dick”である)。


 嵐山光三郎『追悼の達人』(新潮文庫・860円)。
 作家の追悼文、弔辞から、生前の作家の実態を浮き彫りにしようという試み。前作の『文人悪食』も面白かったけれど、これはそれを更に上回る名著だろう。 『お葬式』という映画がある。故・伊丹十三の監督デビュー作だが、伊丹氏が「葬式」を題材に選んだのは、それが死者を悼むために行われるのではなく、生者同士がお互いの人間関係を再確認するための場であるからだと喝破したからだということである。まさしく「死」はその人自身のみならず、残された人々の生き方まで確定するのだ。その意味で、「追悼文」に着目した嵐山氏の慧眼は称賛に値する。
 人が死んで、その人を悪く書くことは普通はできることではない。けれど死んだのはただの人ではなく作家、画家、編集者といった著名人だ。残された人間にしてみれば「惜しい人を亡くしました」程度の通り一遍のコメントではすまされない。
 ある者は自らの作家技術の粋を集めて褒め称え、またある者は全く逆に全身全霊を込めて扱き下ろす。必然、それは作家論となり、かつ残された人々のもう一つの私小説となる。
 いやもう、彼を語りつつ、つい自らを曝け出してしまっている追悼の多いことったら。考えてみれば、この日記でも私は「誰それが死んだ〜」とやたら喚いているが、やっぱりこれも自分語りなんだよね。太宰治萌え〜のノールス女子大生を笑えんわ。

 追悼文を調べていく過程での新発見も多々ある。
 田山花袋の死に際に、島崎藤村が「死ぬ時の気分はどんなものかね」と聞いたというのは俗説で、実際には藤村が何も聞かないうちから花袋自らどんどん喋ったというのである。藤村は逆に「そんなに話したら疲れてしようがないだろう」と押し留めたくらいであったそうだ。
 この俗説も、家族を省みず、愛欲のままに自分の姪に手をつけた藤村の汚れたイメージが作り上げたものだろう。事実、藤村は人非人であり、周囲からは蛇蝎の如く嫌われまくっていた。人間としての底の浅さが(『破戒』だって部落差別を告発した小説としてはキレイゴトで終わっている)実は藤村の人間らしさであったことが、嵐山さんの筆によって微細に分析されていく。
 この過程を読み辿ることの心地よさをどう表現すればいいものか。

 この本で紹介されている作家の中で、私がその著書を読んだことのない人が三人いた。
 川上眉山、内田魯庵、岡本かの子である。
 ……そりゃイマドキは全集をあたらないとこの人たちの作品、とても読めないものなあ。
 岡本かの子はもちろんあの「芸術は爆発だ」の岡本太郎の母親であり、漫画家岡本一平の妻である。小説よりも本人がなかなか奇異な人だったことは唐沢俊一氏の『すごいけどヘンな人』にも詳しい。夫と二人の愛人と暮らす生活は、本人は無邪気なつもりでも世間からはただの不道徳、異常生活としか映らない。それをかの子の死後、一平と太郎は神秘化し美化した。そのおかげだろうか、確かに、唐沢氏や嵐山氏の著書を読む以前は岡本家についての私のイメージも「芸術一家」の域を一歩も出るものではなかった。
 さて、ではかの子女史はいったいどんな小説を書いていたのかと思って、ちくま日本文学全集の『岡本かの子集』中の『鯉魚』という短編を読んでみたが、これがもう、芥川龍之介の露骨なエピゴーネンである。
 平家の落武者の娘を匿った寺の侍童の恋物語なのだが、彼はその事実が寺にバレてもあくまで「私は鯉を飼っているのです」と言い張る。住職の仏法問答に対して「鯉魚」とのみ答える少年の描写は静謐でひたすら美しいが、そこにあるのは純愛に対する盲目的な賛美のみで、芥川ほどの冷徹な視点はなく、やはりセンチメンタリズムに流されている。少女マンガにしたら、すごく美しい絵になりそうだが、私のような中年のオヤジには読んでてちと面映い。
 その芥川との交流を描いた『鶴は病みき』も読んでみたいものだが、今は残念ながら入手し難い。批評等を読むとやはり独善的な作品らしいのだが、客観的で冷静な小説が面白いとは限らない。かえって事実をもとにしていても、作者の思いこみと妄想が事実を捻じ曲げていた方が断然面白くなっているものなのである。モデルにされた人間にはえらい迷惑であろうが。

 岡本かの子の、いや、藤村も、花袋も、そして戦後の太宰も、その作品が巷間読み継がれる原因となっているのはそのスキャンダル性にある。その意味で、日本文学の正当な後継者は山田詠美だったり柳美里だったりするのかもしれない。
 さて、彼女たちが死んだ時には誰がどんな追悼を寄せるだろうか。

2001年07月24日(火) 目標達成!……って何が/『腐っても「文学」!?』(大月隆寛編)ほか



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