無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年07月26日(土) オタクな本屋にクラシックは似合わない/『TNくんの伝記』(なだいなだ)/映画『デブラ・ウィンガーを探して』ほか

 ノンフィクション作家の鈴木明さんが、22日に、虚血性心不全のため死去していたことが判明。享年77。
 記事にはその代表作として、大宅壮一ノンフィクション賞受賞作の『「南京大虐殺」のまぼろし』や『リリー・マルレーンを聴いたことがありますか』などが紹介されているが、私が読んでたのは『リリー・マルレーン』の続編とも言うべき『わがマレーネ・ディートリッヒ伝』と『維新前夜』、ともに小学館ライブラリーの一冊である。
 ノンフィクションと言いつつ、情感溢れる筆致は小説のそれに近く、「実録」作家としてはこの書き方は評価されにくいんじゃないかなあと、やや心配した覚えがある。
 『わがマレーネ』はベルリンの壁崩壊時の本人へのインタビューの失敗と、万博の思い出から書き起こされているが、歴史に翻弄されたドイツ女性の歌声が、歴史を愚弄する万博に招聘されたというのもまた歴史の皮肉であるとと鈴木氏は捉えていたようだ。敗戦を16歳で迎えた筆者にとっても、1070年のあの狂乱はいったいどんな意味を持っているのか、簡単には掴めない出来事だったのだろう。
 明らかに「浮いていた」ディートリッヒを私も見てみたかったと今にして思うが、当時小学二年生の私には、鈴木氏が困惑した「狂乱」のほうがむしろ心地よかったのである。


 夕方4時、練習帰りのしげ&よしひと嬢と映画に行こうと、天神の福家書店で待ち合わせ。
 時間ちょうどに店に着いたが、二人の姿はまだない。携帯に連絡を入れたが、少し遅れるとのこと。仕方がないのでしばらく買う本を物色する。
 店内にはなぜかジャズが流れているが、これ、二ノ宮知子の『のだめカンタービレ』に使われてる曲なのだった。なんか聞いたことあるな、と思ったが題名がどうにも思い出せない。どうやらちょっと前にサイン会が開かれていたらしく、「二ノ宮知子」コーナーが店の一角に設置されていて、サインが飾られている。「のだめは福岡出身です。応援してね」とか書いてるけど、リップサービスじゃないのかな(^.^)。一緒に今流れている曲がズラリと書かれたパネルも置いてあったので、それで確認してみた。

 ・ベートーベン/ピアノソナタ 第8番 ハ短調Op.13「悲愴」
 ・モーツァルト/2台のピアノのためのソナタ ニ長調K.448
 ・ベートーベン/交響曲 第1番 ハ長調 op.21
 ・ベートーベン/交響曲 第1番・第3番「英雄」
 ・ベートーベン/ヴァイオリンソナタ 第5番 ヘ長調 作品24 「春」
 ・ベートーベン/交響曲 第9番 ニ短調 Op.125 「合唱」
 ・マーラー/マーラー交響曲 第8番 変ホ長調「千人の交響曲」
 ・ベートーベン/交響曲 第7番 イ長調
 ・ベートーベン/交響曲 第3番 Op.55「英雄」
 ・ラフマニノフ/ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 Op.18
 ・ドヴォルザーク/第5番
 ・ガーシュイン/ラプソディ・イン・ブルー
 ・メフィスト/ワルツ第1番S.514「村の居酒屋での踊り」
 ・エルガー/ヴァイオリン・ソナタ ホ短調op.82

 ツラツラと眺めていって、ちょうど今流れてるのがジョージ・ガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』であることに気がついた。こんな有名な曲までど忘れしてるんだから、ボケは確実に進行してるんである。
 「クラシック音楽コメディ」とオビに書いてあるが、そのわりには随分ベートーベンが多くないか。イカンというわけじゃないが、バッハとかハイドンとかヴィヴァルディが全然出てこない。けど、好きな曲も結構あるので、とりあえず1、2巻だけ買ってみることにする。
 そうこうしているうちに、二人が到着。待ちあわせ時間より30分も遅れてきたが、アクロス福岡に次回公演のチラシを置いてきたとのこと。それならそうと連絡を入れておけと言うのだ。全く気が利かないったらありゃしない。
 映画までにはまだ時間があるので、よしひと嬢も何か出物はないか、探している。押井守&大野安之の『西武新宿戦線異状なし』の完全版が出ていたので奨めると、「絵が嫌いなんだけどなあ」と言いつつシッカリ買っている。この分なら、押井守ボックスを買うのも時間の問題だろう(^o^)。
 「この本が面白いですよ」、と言ってよしひと嬢が奨めてくれたのが『のだめカンタービレ』。
 「いや、もう買ったよ」
 なんだかヘンな西手新九郎である。

 天神コア7階グルメパークの「喜水亭和楽」で食事。照明が大人しく、落ちついた雰囲気の中、手ごろな値段で定食や海鮮丼などが食べられる。しげもよしひと嬢もこの店は気に入ったよう。
 そのときの私のいでたちが『少女革命ウテナ』のTシャツだったので、よしひと嬢から「その格好で歩き回るのはやめた方が……」と言われるが、出かけるとき、手ごろな私服が見つからなかったのである。それに時間に遅れなければ映画を見てすぐ帰るつもりだったんだしねえ。

 そろそろ映画の開演時間が近づいて来たので、KBCシネマまで歩き。同じ天神と言っても、コアからは三区画ほど離れているので10分ほどは歩くことになる。ここに来るのはよしひと嬢は初めてだ。メジャーどころは殆ど上映しないミニシアターなので、今後も滅多に来ることはないだろうが、本当のことを言うと、ここに掛かるような毛色の変わった映画もいろいろ見てほしくはあるのである。

 映画は『デブラ・ウィンガーを探して』。
 ロザンナ・アークウェットが「女優と家庭は両立できるの?」と自分の尊敬する女優たちにインタビューし続けるドキュメンタリー(?)映画。
 だもんで、キャストだけはやたら豪華。
  パトリシア・アークェット、エマニュエル・ベアール、カトリン・カートリッジ、ローラ・ダーン、ジェーン・フォンダ、テリー・ガー、ウーピー・ゴールドバーグ、メラニー・グリフィス、ダリル・ハンナ、サルマ・ハエック、ホリー・ハンター、ダイアン・レイン、ケリー・リンチ、フランシス・マクドーマンド、ジュリアナ・マルグリーズ、キアラ・マストロヤンニ、サマンサ・マシス、キャサリン・オハラ、ジュリア・オーモンド、グウィネス・パルトロウ、マーサ・プリンプトン、シャーロット・ランプリング、ヴァネッサ・レッドグレーブ、テレサ・ラッセル、メグ・ライアン、アリー・シーディ、エイドリアン・シェリー、ヒラリー・シェパード=ターナー、シャロン・ストーン、トレイシー・ウルマン、ジョベス・ウィリアムズ、デブラ・ウィンガー、アルフレ・ウッダード、ロビン・ライト・ペン、総勢34人。
 でも、みんな言ってることは同じで、「四十過ぎたら仕事がなくなる」とか愚痴ばかり。タイトルにあるデブラ・ウィンガーにしてから、引退の理由は「演技力が上がってもそれに見合う映画がハリウッドにはなくなったから」だからなあ。選り好みしてただけなんでねーの? 『愛と青春の旅立ち』などはプロデューサーにセクハラされてて、手抜きの演技しかできなかったそうであるが、それもなんだか言い訳っぽい。
 多分、女優を使い捨てしているハリウッドの現実に問題があるという彼女たちの主張には、一理も二理もあるんだろう。けれど、そればっかり延々2時間も愚痴られ続けると、見ている客は、いい加減飽きる。そのうちだんだん、「愚痴ばかり言ってねえで仕事しろよ」という気分にもなってくるのだ。これって、逆効果ではないのか。気がつくとしげは隣で寝ているのである。
 話が面白かったと言えるのは、ウーピー・ゴールドバーグくらいのもの。
 「トシ取るとチチも垂れるケツも垂れる、垂れるなっつっても垂れる、どんどん垂れる。怒鳴って言うんや、『何垂れとんねん!』、そしたら『おまえのケツや!』て怒鳴り返されたわ」(意訳)とかそんな話(^_^;)。「垂れるチチやケツ整形してどないすんねん」っての、多分デミ・ムーアのこと揶揄してんだろうな。
 「聞ける」話をしてくれたのは大御所ジェーン・フォンダ。
 「入魂の芝居はたった8本だけ。神が降りて来たと感じたのはそれだけだけと、その瞬間があるからどうしても役者を辞められなかった」と。
 よしひと嬢も、唯一感動できたのはその部分だけだったとか。しげは「テレビで見りゃ済むじゃん」とすごく不機嫌。私だってハズレだなんて見るまで気がつかないよう(T∇T)。

 帰り道、博多駅前で知り合いの女の子二人に偶然出会う。いきなり若い子から呼びとめられたんで、てっきり逆ナンかと思った(嘘)。
 「何してるんですか?」と聞かれたので、「映画の帰りだよ」と二言三言会話。ところが、振り返ってしげとよしひと嬢を紹介しようとしたら、二人とも姿が見えない。さっさとバスセンターに向かっていたのだ。そのままはぐれるわけにもいかないので、女の子たちには早々に挨拶をして、しげたちを追いかける。タイミングよくバスが来ていたので飛び乗ることができた。女の子たちに引っかかっていたら、30分は待たねばならないところだったので、置いてきぼりにされたのがかえってラッキーだったということになるのだろうか。
 でもなんかちょっと納得いかないよねえ。


 今日もよしひと嬢はお泊まりなので、DVD『オーバーマン キングゲイナー』1巻をお見せする。オープニングのモンキーダンスは予想通りウケて頂いたが、本編は「何がなんだか」である。
 設定資料を見なきゃ物語はおろか人物も世界観もつかめない作り方ってのは、若いころはともかくトシヨリにはちとキツイ。とは言えこの人に「もっとわかりやすい作り方を」と要求するのはねえ。ヘンな人にマトモなものを作れと要求するっていうのは、八百屋に向かって肉を売れというようなものである。
 トミノさんは基本的に変人なんだから、決して巨匠扱いしちゃいけないのだ。巨匠扱いされたら妙に思想的なもの作りかねないからねえ、この人の場合は。


 帰宅が遅くなったので、チャットを覗くのが遅れる。
 あぐにさんがお久しぶりの書きこみ。けれど、しばらく実家に帰省されるとのご報告であった(^_^;)。ああ、学生さんには夏休みがあるんだなあ。サラリーマンには遥かに懐かしい過去である。
 あぐにさんにもお話できたら何か原稿をお願いしようかと悪企みをしていたのだが、見事にかわされてしまった(^o^)。まあ、ヒトの褌ばかり当てこんでないで、自分でちゃっちゃと更新しなきゃってことだわな。

 
 なだいなだ『TNくんの伝記』(福音館文庫・840円)。
 昨年8月から創刊されていた児童文学の新レーベル。私ゃ大学の専門がこっちなんだから、本当はこういうのをもっと読まなきゃなんないんだよなあ。でないと同窓会に出ても話が合わないんである。
 「創刊」と言っても、絶版になっていた単行本の新装版(「文庫」と銘打ってはいるが、サイズは17×13センチの新書版よりやや横長)が殆ど、ローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原の小さな家』シリーズやヨハンナ・シュピーリの『ハイジ』、マイケル・ボンドの『くまのパディントン』シリーズなどが再刊されている。
 なだいなだ(どんなだ <c.筒井康隆>)の本作も、初刊は1976年だが、ようやくこうして廉価版が出た。多分、昔は図書館とかにも結構置かれてたと思うんだけど、私は眼にしたことがなかった。こういう名著にはもっと早く、学生のころにでも触れておきたかったと今更だけど残念。

 タイトルに「伝記」とある通り、これは幕末から明治にかけて生きたある人物の実録小説である。
 彼、TN君は、1847年に生まれ、1901年に死んだ。土佐の足軽の子に生まれ、長じて渡仏し、ジャン・ジャック・ルソーを学び、帰国して新聞活動を通じて自由民権運動を繰り広げた。「東洋のルソー」と称せられ、著書にルソーの訳書『民約訳解』や、『三酔人経綸問答』『一年有半』『続一年有半』などがある。大逆事件の幸徳秋水は彼の弟子である。
 こう書けば、「TN君」が誰なのか見当がつく人もいるだろうが、作者のなださんは、「ぼくの知ってもらいたいのは、彼の名前ではなくて、彼がどんなふうに生きたか、ということだからだ。そのためには、名前なんてじゃまになる」「名前と顔を知れば、なんとなく、その人間をよく知っていると思ってしまう」と書く。確かに、歴史の勉強を通り一遍に流しただけの学校の授業などでは、「坂本竜馬は薩長同盟のお膳立てをした」「勝海舟は江戸城を無血開城させた」「西郷隆盛は征韓論に破れたあと西南戦争を起こした」とか、そんな「出来事の知識」しか得られないだろう。名前はまさしく「知ってるだけ」なのである。こういうのこそ「ムダ知識」だと思うが、どうだろうか。
 私も、なださんに倣って、ここでは、あえて「TN君」の名前を明かさないが、まだ全然見当がつかない人は、あえて調べるのはやめて、本書を読んだあとで確認してほしい。TNはイニシャルだが、本名のそれである。

 TN君の印象は、一言で言ってしまえば「活動家たらんとして動けなかった学者」である。ヒドイ言い方だが、本文中にも「行動力のない、口だけの民権家」と非難されていたことが書かれている。実際に政治家として議員になって最初の国会に参加したこともあるのだが、仲間の裏切りに合い、わずか三ヶ月で辞職している。
 西南戦争のさなか、TN君は西郷軍に合流し共に死なんとする若者を目の当たりにしながら止めることをしなかった。若者は、西郷に共感しながらも共に立って政府を妥当しようとしないTN君をなじったが、一切、口を開かなかった。ただ、熊本に向かった若者に付いて行っただけだった。いったい、TN君は何を考えていたのか。熊本まで同行しながら、結局は反政府のために戦わなかったのはなぜか。 
 けれどなださんは、そんなTN君のことをこう擁護する。
 「西郷は死ぬために立ち上がった。自分の死を利用させるために。だからこそ、自分たちは生き残らねばならぬのだ。そして、西郷の死を利用しなければならない。死を利用する。それはいやなことだが、それをやらねばならないのだと。しかし、TN君には、とうとういえなかった」
 「TN君は、学者として、ただ正しいと思う意見を口にし、自分の思うことをいい、信じるままに行動しただけなのだ」
 知行合一の陽明学的思考で考えるなら、TN君の哲学は机上の空論でしかあるまい。しかし「実行」は本当に「思想」や「理論」よりも上回るものなのだろうか。純粋理性は実践理性に劣るものだろうか。
 もしそうなら、戦時中の軍部の暴走は、全て正当化されねばならないだろう。戦争は常に肯定されなければならないだろう。
 TN君は常に座して動かなかったわけではない。自らが語る場所、語るための立場を確立するための手段は常に模索し続けていた。藩閥政府が民権運動を敵視し、自由のための言論をありとあらゆる権謀術数を用いて封殺しようとしていたことを熟知していたからだ。
 新聞が続々と政府によって発禁処分に合う様子を見て、社主に西園寺公望を担ぎ出して圧力を避けた。それでも西園寺が節を屈して社主を退いたあとは拠点を関西に移して新聞発行を続けた。「言論を守るための戦い」はTN君の一生を通して続いていたのである。
 「力」を持たない普通の人間であっても、自分の信じる道に従って、語り続けることができる。なださんはTN君の一生を通じて、「言論人のあり方」を若い人たちに伝えようとしている、そのように思える。

 TN君は聖人君子ではない。
 活動資金調達のためとはいえ、汚れた事業に手を出した。売春宿を経営しようとしたこともある。なださんはそれを「TN君は呼びかける相手がどこにいるか、見失うべきではなかった」と痛烈に批判する。仲間に裏切られ続けたTN君は、少しずつ政治の、歴史の表舞台から消えていきつつあった。
 TN君をもう一度「思想家」として復活させたのは、皮肉にも彼の死ゆえである。ガンに罹り、余命一年半と宣告されたとき、TN君は自らの全てを『一年有半』『続一年有半』の二冊の著作に纏めた。
 TN君は、日本人が未だ合理的な理論を持たず、転変する様々な思想に振り回され続ける様子を見ていた。明治末期に至って、TN君の目に最後の敵として映ったのは、今やその姿を徐々に表しかけていた「愛国心」「軍国主義」「帝国主義」という名の幽霊であった。TN君はその敵に向かって、「無神論の哲学がないところでは、理は感情に常にうちのめされてしまう」と、最後の闘いを挑んだのだ。TN君は力尽き、一年有半どころかガン宣告の後9ヶ月で死んだ。
 TN君の「無神無霊魂」の思想は多くの人々の心を打った。しかし、歴史はそんな人々の思いをも飲み込んで、幽霊の支配する時代へと突入していった。
 現代、未だ様々な亡霊の呪縛に捕われている人々の姿を見るにつけても、TN君の無神論が語っていたことの意味を、再検証してみる必要はあるのではなかろうか。

 まあちょっと固っ苦しい書き方をしてしまったけれども、奇人としても知られたTN君のこぼれ話も本書には満載である。
 「TN君は若いころ坂本竜馬のパシリだった」とか、「フランスに留学するために一面識もない大久保利通に道端で頼みこんだ」とか「外見で人を判断する連中を嫌って元老院に浮浪者のような汚い格好で通っていた」とか「芸者に向かってキ○○マ袋を広げて酒を飲ませたら、熱燗を注がれてヤケドした」とか、そんなんである。衒いのない生き方を標榜する人間は多いが、実践できる人間は少ない。果たしてTN君はただの奇人にすぎなかったのであろうか。それとも。

2002年07月26日(金) 親しき仲ほど礼儀なし/『風の帰る場所』(宮崎駿)/『うっちゃれ五所瓦』1・2巻(なかいま強)ほか
2001年07月26日(木) 全ての知識はマンガから/ドラマ『美少女仮面ポワトリン』第一話ほか



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