無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年07月26日(金) 親しき仲ほど礼儀なし/『風の帰る場所』(宮崎駿)/『うっちゃれ五所瓦』1・2巻(なかいま強)ほか

 『北の国から』がようやく終わるそうである。
 そのことを知ったのが、内田有紀と吉岡秀隆の熱愛発覚のニュースなんだけど、もしかして話題作りのためのガセか? でもこの二人なら何となくありそうだよなあ。
 10年ほど前のアイドル人気のピークが過ぎて、内田有紀は本気で「役者」になろうと舞台出演などを繰り返している(テレビでは未だにどーでもいー役ばかり振られてるしな)。その意欲は買うけれど、選んだのがつかこうへいの舞台って時点でなんか外してたよな。そして今回が倉本聰である。でもって、吉岡秀隆コースに流れるというのは、演技者としても「転落」っぽいんだけど。なんとなく永瀬正敏と結婚した小泉今日子のラインに乗っちゃった気がしませんか。
 これが渡部篤郎と結婚した村上里佳子(RIKACOになってるのか戻ってるのか覚えてねー)だと出世したってイメージなんだけどね。いや、あくまでだのイメージでホントに出世してるかどうかはこれも定かではない。
 それはそれとして、シリーズ最終回『北の国から 2002 遺言』である。「遺言」とはまたいかにもクラモトなハッタリかましたタイトルやなあ、と思うが、田中邦衛死ぬのか。ラストが、五郎が静かに息を引き取るシーンで終わったりしたら、倉本版『ゴッドファーザー』って雰囲気になりそうだよな。根は同じだし。
 とか言いながら、実は私は『北の国から』シリーズをまともに通して見たことがないのである。初期の作品は児童文学としても評価されてるし、チラチラと見てはいたのだけれど、世間の人ほどハマれはしなかった。まずさだまさしのテーマソングで引いたし(^^)。都会の生活に疲れたからって富良野へってのも短絡的だなあ、と思ったが、倉本さんの作品ってどれもこれも苦悩とか情念とかそんな心のマイナス要因をムリヤリ美化してるような胡散臭さを感じるんでねえ。っつーか、『前略おふくろ様』以降、どれもこれもなんか田舎臭くて。
 ああ、でもマトモに見てないのに断定しちゃいかんな。『浮遊雲』は好きでしたね、渡哲也版の。時代考証無視したり、歴史上の人物が素通りするだけのギャグとか。ギャグもっと書いてよ倉本さん。
 で、私は今度の『遺言』を見るだろうか。内田有紀の役は人妻だそうだが、全く純っつーか吉岡秀隆は不幸な恋が似合う男だ。
 

 宮崎駿『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』(rockin'on/1680円)。
 1990年から2002年まで、渋谷陽一による宮崎駿のインタビューを集めたもの。
 ……すごいなあ、表紙。タイトルより「宮崎駿」の名前の方が大きいよ。
 宮崎さん本人がいくら「宮崎ブランドなんてものはない」と言い張っても、そりゃ通らんリクツだってことだよな。
 なんだかなあ、ナウシカ以前から「宮崎駿はいいぞ!」といくら主張しても「ふ〜ん」ですまされてた身にしてみれば隔世の感があるな。今は「『クレヨンしんちゃん』はいいぞ!」と言いまくっててて相手にされてないが。
 DVD『名探偵ホームズ』の特典解説で鈴木敏夫プロデューサーが語ってたが、ナウシカ以後でも、『アニメージュ』で宮崎駿を特集すると売り上げが落ちたそうである(←実話)。
 1980年代のアニメファンの人気は『ガンダム』『銀河鉄道999』に集中していて、宮崎駿っ誰? ってのが当時の一般常識であった。アニメファンと言っても、『カリオストロの城』の追っかけアクションに驚嘆していた連中はごく少数で、総体として『ヤマト』以降の俄かファンばかり、たいしてオタクとは言えない連中が多かったのだ。……思い返すに、私の周りの人間が濃いドオタクばかりだったというのは僥倖だったのかもしれない(不幸という説もある)。
 宮崎駿の名前が本当の意味で「ブランド」となったのは、『となりのトトロ』がキネ旬ベストテンなどで評論家からの評価を得て後のことである(『トトロ』自体の興行はコケた)。具体的には『魔女の宅急便』以降ということになろう。情けない話で、大半の日本人は未だにアニメに対して偏見を持っており、誰かおエラいさんが誉めてくれないと、それが自分の眼で本当に面白いかどうかを確かめようとはしないのである。
 そのことを一番身を持って感じているのが宮崎駿だろう。自分が売れない映画を数々作ってきたことも実感しているし、今、売れているからと言って天狗になっているわけでもない。渋谷陽一のヨイショ気味なインタビューにも、宮崎さんは自らの傲慢を(ないわけはないと思うが)戒め、注意深くかわし、それでいて言いたいことは好き放題言っている。全く食えない爺さんだ(^_^;)。
 だから、一部の言を切り取って、宮崎駿を批判することは簡単だが、「子供は毎日『トトロ』ばかり見てないで外で遊べ」等のセリフが決して自尊心の裏返しでなく、本気で言ってるんだということもインタビューを通して見えてくる。そりゃ、そんなガキがいたらフツーの親なら少しは外に出ろって言うだろうに。オタクのマイナス面までフォローしてやるのは甘やかしってものである。
 宮崎さんはただのエコジジイではない。もっと性根の腐ったクソジジイなんである(←これ、誉め言葉だからね。平凡な人間に傑作は作れないよ)。


 仕事帰りの車の中で、しげの職場の裏話を聞く。
 いやあ、面白いなあ、これはここに書いておきたいのだが、さすがに個人のプライバシーに関わりすぎるからちょっと憚られるなあ。
 と言っても、相手の身を配慮して、なんて殊勝な感覚から遠慮しているわけではないのが私の人間性が腐っているところである(^o^)。

 ネットでほかの人の日記を覗いていると、職業からプライバシーからもう曝け出し、なんてものもザラにあって、ハンドルネーム使ってりゃもう何書いてもいいと思ってるんだろうなあ、と感嘆することもしばしばである。
 その基本姿勢には大いに共感するが、不思議なもので、自分の内面を思い切り書いときながら、読者から内容について批判的な感想が寄せられたら、今度は自分の殻に閉じこもっちゃってサイトを閉じちゃう人も未だに多い。いったい何を考えてサイト開いたんだろうね。「もう日記を書くのやめようと思います」なんて簡単に書いてたりするけど、初めから何も考えてなかったんじゃないか。
 ……こういうこと書くとまた、「人がみんなあなたみたいに強いとは限らないんですよ、救いを求めてサイトを開く人もいるんですから」とか批判を受けたりもするのだが、私ゃ別に強くなんかない。だいたい「トモダチの輪」とか「憩いの場所」を求めてサイトを開くって発想自体、ネットってものの性格が全く理解できてないのではないか。
 基本的に、ネットにプライバシーはないのである。
 ネット自体が一つの大きなフォークロアの温床であり、そこに「プライバシーを暴くな」なんてキレイゴトを持ちこんだって、そりゃ逆にバカにされるだけの話だ。現実の世界だって人の口に戸は立てられないんだから、真実もデマも含めてウワサが一人歩きするのがネットの特性である。
 ネットにだってマナーは必要だろう、という反論もあろうが、「ネットマナー」と言うのは、たとえどんなウワサが流れようが、情報の受け手がそれを鵜呑みにしない姿勢を持つことなんであって、他人に「ウワサを流すな」とか発言の規制をすることではない。掲示板に「中傷の書きこみはご遠慮下さい」と書いてあるサイトは多いが、そんなん本気の荒らしにあったら屁の役にも立ちゃしないでしょ。
 要は荒らしにあったらどう対処するかって覚悟が管理人にあるかどうかってことになるんだが、どうもそのへん甘く考えてる人が相変わらず多いみたいなんだよねえ。だからすぐにサイトを閉じてしまう。サイト開くんだったら、自分と合わない意見の書きこみがあることぐらい覚悟しとかないとねえ。
 ……山本弘さんとこのSF会議室、定期便のようにトンデモさんが来てるけれど、ホントによく頑張ってるよなあ(^_^;)。

 だからまあ、本来日記には何書いたっていいとは思うんだけれど、それでも日記にプライバシーを書きにくいのは、たとえそれがどんなに面白いものであっても、論争になれば、論点が「プライバシーを晒すことの是非」ってことだけに集中してしまうからである。そんなん論議したって、晒す人は晒すんだからしょうがないじゃんかよ。
 それに、書き手はどんなにプライバシーを書きたててるように見えていても、それは文章化した時点でそれが自分のものでも他人のものでも客体化してしまっている場合が多い(そうでないやつも確かにいるが、文章に一家言のある者なら、そこはキチンとしているものである)。面白いのはあくまで出来事そのものなのであって、個人の人格まで面白がってるわけではないのだ。人のドジ話を笑ったりするのはたいていそんなものであろう。「アイツもバカだよな」と口にはするが、相手を個人的に嫌っているわけではない。それは文章を読めば見当がつくことだ。
 他人のプライバシーを傷つけるべきではない、というのは確かに正論ではある。しかし、これを声高に言う人って、公的な部分までプライバシーに入れちゃう人、多いんだよねえ。『脱ゴーマニズム』の作者もそうだったけれど、小説や映画の批評や、役者の好き嫌い、時事評についてまで「悪口言うな」って文句つける人がいるのだ。自分が正論言ってるって思いこんでるから、現実的には頗る常軌を逸してることを言ってるってことに全く気がついてない。自意識過剰だから、まるで自分が責められているように錯覚してしまって、誰かが誰かを批判するという状況自体が許せなくなってるんだろう。
 だいたい外国のプライバシーの感覚と、日本人の考えるそれとでは相当にその内容に差があるのである。日本人はやっぱりウチソトの意識で個人情報を判断してるんで、同じ情報でもウチの人間が語ると許されて、ソトの人間が語ると弾劾するのだ。自分勝手っつーか、サベツなんだけどな、それって。ウチの人の情報だからと思って面白がって喋ったら「親しき仲にも礼儀ありじゃないか」と言われたことないかね。もちろんそれはソトの人間として阻害されたってことなのである。
 ま、そんなわけで、しげの職場の話はしげ自身が語らないと、私が語るとソトの人間が介入するってことになるから今回は遠慮しておく。……なんだかすっかり思わせぶりですまないねえ。


 晩飯はまた「びっくりドンキー」。
 しげのルンバルンバはもう定番である。
 「あ、ここのハンバーグ、トッピングもできるんだ」
 初めてそのことに気がついたので、目玉焼きとパイナップルを乗せてもらう。
 しげ、「ハンバーグに果物って合うと?」と胡散臭そうに言う。
 「合うも何も、たいていのソース類に果物は入ってるじゃん」
 少なくとも、昔、牛乳とレモンを混ぜて「ヨーグルト」と称して飲ませようとした味覚音痴のしげに言われたくはないな。 


 金曜ロードショー、アニメ『ルパン三世 episode:0 ファーストコンタクト』。
 毎年恒例のスペシャルだけれど、もうそろそろテレビシリーズのパート4を作ってくれないものかねえ。キャストの老齢化も激しいし、掉尾を飾る意味でも「最後の」テレビシリーズを望みたい。今回わざわざ「エピソード0」とまで銘打ったのは「仕切り直し」の意味が強いんだろう。これがテレビシリーズの布石、と考えるのは穿ち過ぎかな。
 ルパンと次元、そしてもちろん不二子や五右衛門、銭形のとっつぁんとの出会いを描くという発想そのものは悪くはない。
 なんだかルパン一味が馴れ合いのような関係になってる最近のシリーズのマンネリ化を打破するために、かつての緊張感溢れる関係を描くことは、一人一人のキャラクターにスポットを当てて掘り下げることになる。それは確かにある程度成功してはいる。
 原作や旧シリーズとの違いには目をつぶろう。あくまで旧作に固執しては「エピソード0」自体が作れない(だってこの五人が同時に出会うなんてありえないから)。
 ルパンを殺そうと狙い続ける次元、ハードなムードは一応出せている。ただ、なぜルパンに心酔するに至ったかの描写が弱い。それは不二子、五右衛門も同じで、敵がヨワっちぃせいで、彼らが結束しなければならない理由付け自体が弱くなってしまっているのだ。危機一髪を切り抜ける時の脚本、演出のアイデアが決定的に欠如している。
 何より、銭形のとっつぁんがどうしてあそこまでルパンを追い続けることに固執するのか、その理由がほとんど描けていない。毎回思うんだけれど、どうして脚本が欠点になるかなあ。いっそのこと次回作品は一般公募してみたらどうかとまで思う。


 マンガ、倉田真由美『どっちが委員会!? 世の中の小問題を考える毒舌バトル▽』(講談社・KCデラックス・900円)。
 今がチャンスだ、稼げよくらたまって感じで新刊出しまくってるなあ。
 でも、マンガとして面白いかどうかってことになると、普通の常識を持ってる人なら、これはちょっとねえ、と、ためらうところだろう。しげは「これまでの倉田さんのマンガの中で一番つまらない」と言い切ったが、そこまで言わんでもとは思うが、納得はする。
 というのもねえ、「世の中の小問題を考える」とあるけどねえ、扱ってるネタがねえ、ど〜いうんかっちゅ〜とねえ。
 「彼にするなら、年上の彼と年下の彼、どちら?」
 「女友達にするなら、美人? 不美人?」
 「水着を着るなら、ビキニ? ワンピース?」
 「長くてかっこいい足と放漫な色っぽい胸、どっちがほしい?」
 「ダイエットするなら、食事制限? それともスポーツ?」
 「ブランド派? ノーブランド派?」
 「フォーリンラブするなら、渋い中年? さわやか美少年?」
 あ、そこの一般常識持ち合わせてる男性諸君、脱力しない(^_^;)。私もあまりにもバカバカしくって、とても目次の全項目、引用する気になれんのよ。
 「世の中にくだらないものなんてない」が私のモットーではあるが、これは本気でくだらない。女から見た価値基準、という点を割り引いても、目次の項目の価値基準で、なるほどと首肯できるものがただの一つとしてないのだ。っつーかよ、男でよ、「年上の彼女と年下の彼女のどっちがいい?」なんて話題するやつって、まずいないし、そんなん気にしてるやつがいたら、まず確実にバカ扱いされるよ。
 こんなどーでもいいことにだけ拘れるくらたまさんという人は何者なのか。
 もちろんバカなのである。
 でもしげから見てもバカに見えるみたいだから、これはもう本気で究極のバカなのではあるまいか。
 私も世の中のバカに対しては比較的寛大な方ではないかと思うが、ここまでバカの烙印押して構わないと思えるような女性って、そうはいないよなあ。
 男から見たら、こういうことに拘るバカ女は、どう扱っても痛痒を一切感じないのである。弄んで捨てても全然平気なのである。くらたまさんがだめんずうぉ〜か〜になるのも自業自得だなあ、という気がしてくる。
 しげが一番ハラを立てていたのは、くらたまさんが何本かの原稿を収録しなかったことだ。後書きで「この頃描いた新婚ネタ、痛くてよう載せませんでした……作家としてはどうかと思いますが、カンベンしてください」とか言ってるけどさ、そりゃプライバシー切り売りをウリにしてる作家としては間違いなく失格でしょう。カンベンしません。
 でもここまでバカだと、かえって同情して仕事くれる人も現れるんではなかろうか。現われてるから仕事が続いてるんじゃないかね。私もくらたまさんってバカだなあとは思うが、やっぱりどこか憎めない。バカでもひがみっぽくて性格歪んでて根性なしでも、それが必ずしも本人のせいじゃなくて、この日本に生まれたせい、つまり男に甘えてればいいだけの女として生まれてきたせいだということを思うと、同情を禁じ得ないのである。……まあ、同情も女に対するサベツだからさ、素直にバカにするほうが一番妥当な判断かもね。


 マンガ、なかいま強『うっちゃれ五所瓦』1・2巻(小学館文庫・各670円)。
 連載当時は全く注目してなかったんだけれども、何年か経って近所のラーメン屋で通読したら、滅法面白かった。けれど現物は既に店頭には見当たらず、文庫化されるのを待っていたのである。
 もともと私はスポーツマンガはあまり読まず(っつーか梶原一騎嫌いだったのだが)、例外的に『野球狂の詩』とか、『1、2の三四郎』、『すすめ、パイレーツ!』などを、これ、スポーツマンガじゃないよな、とか思いながら読んでたのである。『五所瓦』は完璧な相撲マンガだった(と思っていた)ので、まるで興味を抱かなかった。不明と言えばこれほど不明なこともない。
 あちこち、ちばてつや・ちばあきおの諸作や『1・2の三四郎』の影響を受けているのはわかるけれども(ちばさんとこでアシストしてたんだから当然だろうが)、ギャグで間を繋ぎながらシリアスな展開に持ちこんで感動を作り出す技術は『わたるがぴゅん!』で経験を積んで、本作で結実した印象だ。
 廃部寸前の武蔵山高校相撲部に残った、たった一人の部員、五所瓦角は、実は全国でも有数の実力の持ち主。運悪く高校チャンピオンの黒島高校の田門に毎回初戦でぶち当たって敗退しているために、世間的には未だにその実力を評価されてはいない。
 高校最後の大会、ぜひとも「団体戦優勝」を目指す五所瓦は、柔道部主将の清川薫を部員にと勧誘するがケンもホロロに断られる(当たり前である)。しかし、五所瓦の男気に打たれた清川は、五所瓦に柔道対相撲の勝負を挑む。自分が敗れれば、相撲部に入ることを条件として。勝負は五所瓦のぶちかましに押されながらも起死回生の一本背負いを仕掛けた清川の勝利で決まるが、清川はその前にこれが土俵の上でなら自分が押し出しで負けていたことを認め、部員となることを決意する。
 五所瓦と清川の熱意に打たれて、次々と部員が集まるが、使えるのはレスリング部のハミダシ者、関内孝之のみ。あとはノリだけはいいもののただのヒキョー者の難野一平とただのデブの雷電五郎。五人のうち三人が勝てば勝利できるとはいうものの、無敗を誇る黒島高校相手に果たして勝機はあるのか?
 展開がいやに映画『シコふんじゃった』に似ているが、アレは1992年、本作は1988年。パクったな周防正行(^^)。
 五所瓦は実直過ぎるほど実直、しかもドモリで、少年マンガの主人公として考えるとあまりにも華がない。今だったらサベツ問題にも引っかかるし、こういう主人公は編集者からボツを食らわせられるかもしれない。しかし、スルメが噛めば噛むほど味があるように(^o^)、この地味なキャラが巻を追うに連れ、なぜか見栄えがしてくるのである。
 もちろん、脇を締めるキャラクターがいてこそ主役は映える。ギャグメーカーとして、挑発、けたぐり、塩で相手の足を滑らせるなど、ズル手を駆使する難野のキャラは、ルーツは『おれは鉄兵』あたりにあるとしても、個性的なキャラ揃いの本作の中でも特に光っている。もちろんそれで勝てるわけもなくメンバーの足を引っ張りまくっているのだが、それでも次にどんなワザを披露してくれるかと読んでるほうは期待してしまうのだ。普通、物語がシリアスに展開していくと、こういうキャラは後ろに回されていくのだが、難野は最後の最後までドラマに絡んでくる。そこがなかいまさんがキャラを大事にしていることの証明だろう。
 少年マンガの「王道」ってのは、こういう作品を指して言ってもらいたいものだ。

2001年07月26日(木) 全ての知識はマンガから/ドラマ『美少女仮面ポワトリン』第一話ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)