無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年07月24日(火) 目標達成!……って何が/『腐っても「文学」!?』(大月隆寛編)ほか

 今日から、入院に向けての準備という名目で、仕事はずっと半ドンである。
 でも昼のくそ暑いさなかに帰宅するというのは、それはそれで体力を消耗することだ。
 ……でもそのおかげなのか、体重はついに……ついに!
 79.8キロ!
 切ったのだ。絶対に切れないとしげが鼻で笑っていた80キロラインを。
 わはははは。最後に笑うのは私だ。
 風よ吹け、火よ燃えろ!
 私はもう80キロの男ではないぞ!
 70キロの男なのだ!!


 80キロライン脱出記念ソング

 『もう背中で手が組めるのよ』(著作権放棄・転載可)

 
 ウソじゃないのよ〜。本当なのよ〜。
 体重が、体重が、減ってきてるわ〜。
 みんなが私のことをブ○だのウ○だの呼んでたわよね〜。
 傷ついてないふりしてたけど〜。
 ニコニコ笑っていたけれど〜。
 ホントは、ホントは、殺意の炎が燃えていたのよ〜。
 でももう誰にも私のことを池中玄太とは呼ばせないわ〜。
 あとは体脂肪率を15%以下に抑えることだけよ〜。
 今はまだ22%だから〜。
 今はまだ22%だ・か・ら〜。
 ♪


 誰か曲つけてくれんかな。(V)o\o(V)ふぉふぉふぉ(V)o\o(V)。

 ……実際、体重が80キロを切ったのは、10年振りくらいなんだよなあ。多少ははしゃぎたくなるのはご容赦頂きたい。
 本気になればダイエットはまあまあ可能なんである。確かに「自堕落な生活してるんだろう」と言われたら否定はしにくいが、かと言って「清貧」を標榜したいとも思わないのだけれど。
 何はともあれ、当初の目標(入院までに80キロを切る)は果たせたのだ。
 8/6の入院まであと2週間、ちとキツイが、次なる目標を75キロに設定しよう。


 仕事帰りにコンビニに立ち寄って買い物。
 少年ジャンプ『ヒカルの碁』を立ち読み。
 わあ、いきなり「因島編」に突入か? でもこれが「佐為の碁」から「ヒカルの碁」への橋渡しとなるインターバルだとすれば、ドラマ上必要な展開だろう。
 でもこのためにあの河合さんが用意されてたのだなあ。あとづけで考えているのかもしれないけれど、ホントにワキキャラの使い方がうまい。
 さあ、ヒカルは佐為にもう一度会えるのか。会えたとしてもそれはきっと……。
 ああ、想像が膨らむ。けどきっと、その想像を上回った展開を見せてくれるのだ。ちくしょう、次の週がこんなに待ち遠しいマンガなんて、『めぞん一刻』の初期以来だぞ!


 夕方、しげがフラつきながら近づいてくると、突然「風邪引いたみたい」と言い出す。
 「熱でもあるの」
 「ん〜、39度」
 「風邪じゃん。いつから」
 「昨日から」
 「なんで朝のうちに医者行っとかんの?」
 「だって風邪って気づいたのさっきなんだもん!」
 ……熱が出れば、その時点で普通、風邪って気づくよな。自分が具合悪いことに気づくのにすら時間がかかるのか。アホしげめ。
 アレだな、多分しげの脳は尻尾の先と頭と2箇所に分かれていて、それぞれが超ミニサイズなのであろう。
 だもんで、神経の伝達に時間がかかるのだな、きっと。
 今度から芸名を「ステゴしげ」にしたらどうだ。
 ……それでも夜になったら仕事に出かける根性は立派だが、熱でフラついてるヤツの働いてる店に、食事には行きたくないなあ。


 出会い系サイトを通じて買春を行った裁判官の裁判、ニュースでは「裁判官を裁判官が裁く」というポイントで報道してるけど、まあ事件自体については「どの世界にもイカレたヤツはいるよな」という感想しかないのだけれど、「おおっ」と思ったのは、被告の方じゃなくて裁く方の裁判官の(ああややこしい)、「ストレス解消のためだって言うけど、ただのロリコン、スケベオヤジじゃないの?」と言うセリフ。
 うーむ、「ロリコン」という言葉が別にオタクでもなんでもない一般裁判官の口から出るような時代になるとはねえ。それともこの裁判官、隠れオタクか?
 まさか、ナボコフの『ロリータ』をキッチリ読んでいるとも思えないのだけれど。

 ロリコンと言うと、一般的には「少女しか愛せぬ変態」と単純に理解されてるんじゃないだろうか。でも、原典によれば、主人公のハンバート・ハンバート、確かにロリータに偏執狂的な愛情を抱くけれど、オトナの女性と愛し合えないわけではないのですね。なにしろ、ロリータと親しくなるためにまずはその母親と関係持つんですから(将を得んと欲すれば先ず馬を射よ……違うか)。ロリータの年齢も本作では12歳から14歳。7、8歳の女の子が変質者の犠牲者になってる現実を考えると、まあ若くはあるけれどもギリギリセーフと言う気がしないでもない。

 『不思議の国のアリス』の作者、ルイス・キャロルが実在のアリス・リデルにプロポーズしたのは13歳の時だが、出会ったのは5歳の時。これなんか13歳になるまでガマンしたんだからもういいだろう、っていう、キャロルの世間の常識を一顧だにしない姿勢が垣間見えていて、ここまで来れば充分「真性の変態」と呼んでも構わないと思う。
 よく読めば、『ロリータ』より『アリス』の方が深層意識にからんでる分、よっぽど変態的なのだけれど、あまりそのことに気づかず「心温まるファンタジー」だと思って『アリス』読んでるマヌケは多いわな。
 穴の中の奇妙な世界。奥へ行くほどに現れる奇妙な人々。これ、キャロルのアリスを蹂躙したいリビドーの象徴なんですよねえ。何しろ彼らはみんなイカレていてウソツキでデタラメで、少女を混乱させるためだけに存在するんですから。
 その中心にいるのはあの笑いだけの「チェシャ猫」。

 『千と千尋の神隠し』も、「アリスの末裔」と考えると、もうその世界観、スケベネタのてんこ盛りですよ。だから10歳の千尋を助けるハクの正体は、宮崎監督の……、いやいや、ちょっとヤバ過ぎてこりゃとても言えねえや(^.^;)。

 10歳だとダメ、14歳ならいいと言うわけではないのだけれど、それぞれの事情は結構複雑なのです。
 だいたい世間の人は「ロリコン」と言うと、何歳くらいの女の子を相手にすることを想定してるんだろうか。結婚が許可されてる16歳以下か? でも私がしげと結婚した時、しげは18歳だったけどやっぱりロリコンと言われたぞ。くそ。


 俳優、円谷浩氏死去。
 まだ37歳で肝不全。って、私もこれで死んでもおかしくないんだけど。
 新聞記事には「時代劇やウルトラシリーズで活躍した」としか出演作が書いてない。
 ……円谷浩がマイナーと言うより、『宇宙刑事シャイダー』自体が、大新聞サマから見ると、誇れる番組とは思われていないのだな。それどころか新聞によっては訃報すら載ってない。そんなに特撮系の俳優は差別されねばならないのか。
 確かに華のある俳優さんとは言いがたかったけれど(でも、小林亜星の息子よりゃマシだと思うぞ)、少なくともテレビシリーズの主役張ったことくらい書いておくのが礼儀じゃないのか。
 遺作は平成11年の『作家・小日向鋭介の推理日記』だとか。とすると昨年一年はずっと闘病生活だったのかなあ。そういうことも情報として伝わってはこないのである。
 なんだか淋しい。
 それにしても円谷家はどうしてこうも早死にする人が多いのだろう。円谷英二の子孫たち、まだまだ全員生きてたっておかしかないのに、長男・一、次男・皐(のぼる)氏も今はないのだ。

 ……ダメだ。あとの言葉が続かん。
 合掌。


 大月隆寛監修『別冊宝島Real017 腐っても「文学」!?』。
 前作『いまどきの「ブンガク」』で、「かつて無条件にエライものであった大文字の『文学』などはもう存在しない。あるのは麻薬のような広告資本にドーピングされた情報環境にかろうじて浮かぶ『ブンガク』だけであり、そしてそれさえも、いまどきの世間一般からすればほとんど問題にされていないようなものだったりする」と書いたのは監修者の大月隆寛だが、その主張に首肯はするものの、こういった「レッテル貼り」に大月氏の文学コンプレックスが見て取れるのがどうもねえ。
 私が大学のブンガクブに通っていた頃も、現代作家で評論に値するのは村上春樹くらいのものだとは言われてたんだが、それだって所詮は「文壇」なんて形骸化した砂の城を守るための囲い込みだなあ、と思っていたのである。
 別に趣味の世界でいいじゃん、文学なんて、と思っていた私は、そのブンガクブで、氷室冴子や谷山浩子や宮崎駿のグローバル性をアツク語っていたのだね。今思い返せば、それだって充分青い。「文学で世界が変えられるか」などという命題そのものが、ただの権威主義的言質にほかならない。
 でも未だに「文学」やってるヤツってエラそうなんだよね。大月さんたちが、たからエラそうな「文学者」たちを引き摺り下ろし、扱き下ろしたくなる気持ちは分からないでもない。

 でもだ。
 小田嶋隆が、田中康夫について、「不品行も、性的放縦も、傲慢なもの言いも、すべては『作家さんだから』ということで許されてきた」とかいうヒガミ丸出しの貶し方はチトみっともないぞ。
 あの人の場合、許されてたわけじゃなくて、コモノ過ぎて歯牙にもかけられなかっただけだと思うけどなあ。長野県知事戦で、田中氏に投票した連中で、『なんとなくクリスタル』を読んでたやつがどれだけいるってんだ。こういうコモノに対してまで僻まねばならないほど文学にコンプレックス抱かねばならんのかと思うと、おいちゃん、情けないよ。
 小谷野敦が、柳美里の『命』『魂』や、飯島愛の『プラトニック・セックス』を取り上げて、「『布団』『新生』『黒髪』に感じるような魅力を感じない」というのもただのコンプレックスでないの。明治の文学者の教養ある文章に幻惑されてるけど、教養と文学的価値は別だって事実は、それこそ文学研究の基礎知識ではないのかな?
 文章のうまさを除けば、田山花袋と飯島愛は同レベルと言っていい。いや、女々しい分だけ花袋のほうが低いかもしれない。
 日本の場合、私小説は、社会に立ち向かう勇気のない作家の糊口をしのぐ逃げ道としてあったものだからね、結局、私小説は私小説ってだけの価値しかないのよ。
 ほかにも、栗原裕一郎が『ブギーポップは笑わない』を取り上げてブンガク的に貶したりとか、何考えてんだ、この編集は、と言った感じの記事が多すぎる。
 総じて言えることは、「だから誰も『文学』だなんて思っちゃいないものまで取り上げて、『これも文学だ!』と誉めるならまだしも、貶してどうすんのよ」ってことかな。
 あの、どうせ権威に対抗したいような革命的な文学論やりたいんならさ、未だに教科書に載り続けてるような作品を取り上げてさ、「夏目漱石は『夢十夜』を除けば後はすべて駄作だ」とか、「島崎藤村と志賀直哉は一生読まなくていい」くらいのこと言いなさいよ(あ、私はそうは思ってませんからね。『暗夜行路』は楽しいですよ〜、夏場のガマン大会以上に汗流せまっせ)。
 どうせ文壇から無視されてるヒョーロンカのみなさんばかりなんでしょ? 失うものは今更ないでないの。
 あ、太宰と三島は貶しやすいからアウトね。

 志が低い。 

 
 DVD『遊撃戦』2〜4話。
 岡本喜八が脚本を担当したのは1話のみで、2話以降はオープニングに名前こそあるものの、プロットを提供しただけで、脚本は胡桃哲、中みね子(岡本みね子)、長野洋の諸氏が執筆したもののよう。
 監督も岡本組の助監督、武林進と山本迪夫の二人が当たっており、にもかかわらず、まるで岡本監督自身が監督しているかのような面白さ。
 第二話『砂の英雄』、後の『血を吸う』シリーズの山本監督、西村晃に藤原釜足という芸達者を迎えて、砂漠での頭脳戦をサスペンスフルに描く。砂漠をコマネズミのように走る西村晃が最高にカッコイイぞ!
 だいたい、主人公の遊撃隊の面々自体が、軍隊からのハミダシ者、アウトローたちだから、これはアウトロー対アウトローの戦いであって、善対悪なんて単純なものではない。「国のため」などと言う美辞麗句に踊らされることを拒否しながら、それでも戦わねばならなかった者たちのペシミズムが日本側にも中国側にもあったことをしっかり描いているのだ。
 それでいて、ちゃんとエンタテインメントになってるのだよなあ。第三話『日の丸婆さん』での意外な展開。まさにこれは岡本版『七人の侍』だ。しかも、この潔さは『七人』以上に岡本監督が「戦争」に対してシビアな視点を持っていることを示唆している。
 春太太(チュンタイタイ)を演じる浪花千栄子さんがまた「戦うおばあちゃん」をキリリと演じていて、むちゃくちゃカッコイイ。どこかで見たことある人だなあと思っていたら、その昔(ホントに昔だけど)オロナイン軟膏のCMに出てたおばあちゃんだった。渋谷天外の奥さんだったということは、松竹新喜劇にも出てたんだろうなあ。
 というか、浪花さんの出てる映画も数多く見てるのに、しっかり認識してなかった。全くこれで映画ファンだなんて笑わせるよな。
 第四話『見えざる敵』、敵の正体、まあAだろうというところまでは予測できても、Bってことにするかなあ、したらおもしろいなあ、と思っていたら予測通り。ホントに最後の最後で見せる演出がうまい。
 でも、これについては、キャストをラストにもってきた方が良かったよなあ。映画に詳しい人なら、俳優の名前で「見えざる敵」の正体を知っちゃうからである。
 もし今後、読者のみなさまが「ファミリー劇場」なんかで『遊撃戦』を見る機会がありましたら、この第四話だけタイトルロールの時は目をつぶっておきましょう(^^)。



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