無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年08月30日(月) 『華氏911』の真価

 台風16号が九州を縦断。今年はやたら台風が来るけど、今のところ福岡は水害には合っていない。風は吹いてるが雨量はそれほどでもないからだろう。
 外はもうビュンビュン風が吹いているのだけれど、今日は仕事を休んで(出張扱いなのでサボリではないぞ)定期検診の予約を病院に入れていたので、出かけないわけにはいかない。場所は川端町なのだけれど、直通のバスはないので、比恵までしげに車で送ってもらう。
 地下鉄に乗って、中洲川端で降りて外に出た途端、突風に吹き飛ばされそうになった。道を歩く人もマバラだが、差している傘の柄が折れてしまっている人もいる。こりゃ、傘なんか差せやしない、と、病院まで思いきって走る。雨は小振りとは言え、100メートルほどは走ったので、結構濡れた。しかもスリッパで出て来たので、病院に辿りついた時には鼻緒のあたりが緩くなってしまっていた。帰りはちょっと走れそうにもない。
 病院のドアを開けてみて、一瞬、キョトンとした。広い待合に、客の姿は誰も見えない。考えてみたらこの台風だからそれも当然なのだけれど、「待合はいつも患者でいっぱい」というイメージが刷り込まれていたので、急に異次元に放りこまれたような錯覚を覚えたのだ。
 茶髪の看護師さん(いいのか?)に案内されて検査服に着替え、尿検査だの採血だのレントゲンだの心電図だの胃透視だの、あちこち引っ張りまわされるが、いつもだとこれだけの検査を受ければ、順番待ちで軽く2、3時間はかかるものが、客がいないからスムーズに進むこと。わずか1時間で終わってしまった。問診の結果は「またちょっと糖が出てますね」。やっぱり運動量が減っているのがよくなかったのである。いや、食事の量も増えてきてるし、だんだん気持ちが緩んで来ているのだな。ちょっと黄色信号である。
 検査を終えて、外に出ようとすると、暴風はいよいよ激しくなっていて、今度は帰るに帰れないのである。しげに連絡を入れて、車で迎えに来てもらうが、これに時間がかかって、結局、昼になってしまった。
 そのあと、眼科に回るが、ここも客は少ない。けれどこちらは結構待たされた。今のところ異状はないとのことだが、次回は造影の検査もしてみようとのこと。実際、右眼と左眼とで視力に差が出てきているし、目の前がぼやっと薄白くかすんでいるので、悪化してないはずはないのである。


 帰宅してひと寝入りしたあと、夜、キャナルシティに『華氏911』を見に行く。
 カンヌ映画祭のパルム・ドール受賞で、それなりに期待はしていたのだけれど、内容は単純極まりなくて、「ぶっしゅだいとうりょうはせきゆがほしいのでせんそうをはじめました。けれどたくさんのひとがしんだのでよくないとおもいます」で終わりだった。
 いやホント、それ以上の内容が何もないのよ。それがかえって驚きだったね。マイケル・ムーアに期待したのが間違いだ、と言われるかもしれないが、もうちょっとは「深み」があるかと思っていたのだよ。政治的プロパガンダ映画だって批判もあるけど、そうだとしてもこの映画、ちょっと方法が幼稚すぎないか。これ見て初めて「ブッシュってそんな卑劣なヤツだったのか!」って憤ったヤツがいたとしたら、それこそ911以降、世界の何を見てきたのかってことになると思うけど。
 だいたい石油が云々なんてこたあよ、今更マイケル・ムーアに言われんでもみんなハナから気づいとることだなんって。それ知っててもブッシュに反対できねえから我々は腹立ててるわけで、ブッシュを本気で糾弾するつもりなら、その罪を告発するだけじゃ不充分だろうが。「ではどういう道を取ればよかったのか」まで示さなけりゃ、意味がないぞ。ブッシュは確かにバカかもしれないが、それを貶すしか能のないムーアも、バカ以下のバカってことにしかならないよ。ゴダールが「この映画はブッシュを利するだけだ」ってムーアを非難してた意見が一番当たってたんじゃないかな。
 つまりこの映画は、イラク戦争が、はっきりブッシュとアメリカと、アメリカに協力を示した国に石油を落としてくれたってことを証明しているわけで、これ、ウラ読みすれば「ブッシュの業績を称えた応援映画」として見ることも可能なのである。そこんとこにムーアは気づいてたのだろうか?
 どっちにしろ、単調で退屈で、浅薄な情に訴えてる部分も鬱陶しくて、タランティーノが言うように、「映画として面白い」ってことは全然感じられなかった。なんだか『イノセンス』や『誰も知らない』がこれに負けたかと思うと、「映画のレベルが全然違うだろう!」と叫びたくもなるのである。

 映画を見終わったあと、「なんでこんなのがパルム・ドール取るかなあ」とタメイキをついたら、しげが「タランティーノってバカ映画が好きだから選んだんじゃないの?」のと言ったので、ああ、そうか、私ゃまだこの映画を「マジメに」見てたのだなあと気づいた。
 だいたい日本人はみんな一人の例外もなくアメリカさんに協力することで得ている石油の恩恵を受けて、「イラク人が何人死のうとアメリカ人の貧民が何人死のうが構わない」という生活を営んでいるのだ。本気で「反戦」を訴えるのなら、「石油および石油製品を一切使わない」生活をしてからでないと、何も言えないのではないか。当然、私にもブッシュを非難する資格はないのである(キライって思うくらいは許してほしいが)。
 それはもちろん、アメリカで飢えもせずに「数々の石油製品に囲まれて」暮らしているムーア監督自身にも言えることなんで、なるほど、確かにこれは「バカが作った映画」には違いない。トンデモ映画として見た場合、『アルマゲドン』や『アンブレイカブル』もはだしで逃げ出すほどの大傑作だろう。もしかして、タランティーノはブッシュにではなくムーアに大笑いしながらこの映画を見たのか? 我々も、ムーアが「ブッシュのこんなとこが悪」と示すたびに大笑いすればいいのかもしれない。となると、小泉さんも見て笑えばよかったのにって気がしてくる。
 でも、やっぱり上映時間が長いのは勘弁してもらいたいね。政治に関心ない人には特に「はあ、そうですか。でもできればこういう話は15分くらいで短くまとめてほしいですね」で終わる映画である。コンテンツにもっと詳しく感想を書くかどうか、悩むところだ。
 ムーア監督は、ニューヨークで29日に行われた50万人規模(主催者発表)の「反ブッシュ」デモにも参加したとか。もしブッシュが来る大統領選挙で再選を果たせなかったとしても、この程度のプロパガンダ映画に乗せられて反戦を訴える国なら、またぞろ宣伝のうまい大統領の手によって、コロッと戦争しかける国に変わってしまうだろう。全く、バカには勝てんよなあ。

2003年08月30日(土) ネットではみんな「役者」だ/DVD『恋人よ帰れ!わが胸に』/映画『ゲロッパ!』
2001年08月30日(木) 性教育マンガ(* ̄∇ ̄*)/『フリクリ』2巻(GAINAX・ウエダハジメ)ほか
2000年08月30日(水) ○○につける薬がほしい……/映画『蝶々失踪事件』ほか


2004年08月29日(日) なんか居たたまれない一日でした。

 定例の劇団練習日。しげはauにも用事があるとかで、先に出発、私はあとで合流。
 練習自体は1時からだが、早めにパピオのロビーで打ち合わせもする、ということで、11時に集合したのだが、考えてみれば私は特に打ち合わせすることはないのであった。ちょっと騙されたか(~_~;)。
 今回は「時間厳守!」をしげが散々言ってたので、出欠の連絡もほぼキチンとされていたようだ。客演やご協力の方々も含めて、今日はスタッフ、キャスト全員が集合の予定であったのだが、残念なことに都合が悪くて欠席した人もいる。よしひと嬢は、もう先からずっと家庭の事情で練習に参加できないのが痛い。あと具合が悪くて中野さんが来れず。誰とは言わないが、「現役女子高生美少女」を楽しみにしているヒトもいるので、非常に残念な様子であった。でもこの二人の欠席は仕方がないことである。
 問題なのがもう一人、Kさんという方で、一応、私も旧知の女性ではあるのだが、今回も本人は必ず出席すると言っていながら、直前になって連絡がつかなくなってしまった。実は先週もそんな感じで練習に来なかったのだが、そりゃハナから参加する意志がないのと違うか。先週来られなかったのは「急に仕事が入ったから」ということだったらしいが、休日に急に仕事の入る可能性のある職種であるのなら、そもそも芝居に参加すること自体、難しいと思う。未だに劇団ホームページの方にも出演者情報として名前を載せられないでいるのだが、早いうちに意志表示をハッキリしてくれないと、員数外にカウントせざるを得なくなってしまうのである。
 それでも、ほぼ全員の出席となると、それなりのスペースのある練習場もかなり狭く感じられる。つか、今日初めてお会いした方もいて、たとえ「名前だけ代表」の私としても、忸怩たる思いを抱かずにはいられない。まだまだウチの劇団の実体を把握しちゃいないのだと思うと、全く汗顔の至りである。

 前半は台本の通し。集まったみなさんに芝居のだいたいの流れを把握してもらうためなのだが、演技がまだとても人に見せられるレベルに達していないのが痛い。ウラの準備の方が忙しかったせいもあるのだが、主役3人のスキルがここんとこ全然上がっていないのである。つか、注意したとこも全然治ってないしなあ。いくら細かく演技指導したって、片っ端からそれ忘れられてたら、なんの効果もない。
 ことに、しげが一番ヘタクソなのが見ていてツライ。多少ネタバレして話してしまえば、これは「既知外に見えない人間が実は一番既知外だった」という話なので(『まぼろしの市外戦』ですな)、しげは多少抜けてはいても一見マトモに見えなければいけないのである。ところが、セリフは上ずる、動きに落ちつきはない、芝居の「要」として全く作用していないのである。まだ公演まで時間がありはするが、こういう役の勘所を抑えるのは、殆ど才能に起因するところなので、ちゃんと修正が効くかどうか、甚だ疑問である。正直な話、キャスト変更も考慮しなければならないくらいヒドイのだが、如何せん、代替の役者なんてウチにはいない。演出“補”の立場としては強権発動もできないが、このまま上達のきざしが見られないようなら、早い段階で客演を誰かに頼んだ方がよかないか。ってその決断もしげ自身がしなけりゃならないのだけれども。
 それが無理なようなら、脚本、今の半分くらいに削らないといけなくなるか。でもそうするとまた話の辻褄が合わなくって「意味わからん」とか言い出すヤツが出てくるんだよな。えいくそ、説得力持たせる発声もできねえ、自分でホン書く実力もねえくせに、注文ばかりつけてんじゃねえよな、全く。

 練習の後半は「劇団改FREE’ズ+」の冨田文子さんにご協力を頂いて、ラストシーンのダンスの指導をしてもらう。事前に動きを知っていたのは客演の草野さんだけで、他のメンバーは全員これが初練習。冨田さん、3時間の練習時間を貰って、初めは「時間が余るかも」とか言ってらしたのだが、冗談ではない。ダンサーズ諸君、こうまで音感の悪いヤツを揃えたか、と言いたいくらいに覚えが悪い。……いやまあ、それは最初からわかってたことだから、台本段階ではどの曲についもデタラメに踊ったって話が成り立つように作っといたんだが、練習を重ねるうちになんだかどんどんマトモなダンスを踊りたがるようになっていったのである。自分で自分のクビ、絞めてってるんだよなあ。
 3時間経って、何とかマトモに踊れるようになったのが4、5人。あとはもう、殆どワヤクチャである。各自、練習がない日もちゃんとダンスの復習とかしててくれてたら問題はないのだけれど、なんかサボリそうなやつもいるしなあ。

 まあ、前途多難ではあるが、スムーズに行った公演なんて一度もないし、ある意味ウチの劇団が強いのは、「才能もなきゃ努力もしないのにそれでも芝居を続けてられる度胸」である。誉めてないか。
 いや実際、不思議で仕方がないのは、自覚がないならともかく、自分たちが努力してない事実を知っていながら、それでも芝居を続けようとする意志だけはある、というその矛盾なのだね。
 しげにはこれまで何度となく、「おまえは何をしたいんだ?」と聞いたことがあったが、はかばかしい返事が返って来た例がない。別に難しい答えを期待しているわけではなく、「面白い芝居を作りたい」とか、それだけでも構わないのだが、それもない。多分「面白い」という要素は、しげの考えている「芝居」の中心には存在していないのだ。じゃあどういう芝居が作りたいのか、と問い詰めると、黙りこんでしまう。そりゃそうだろう、しげには「作りたいもの」なんて何もないのだから。たまに苦し紛れに「宇宙の謎を解き明かしたい」とか言うこともあるが、解き明かしてどうするのか、それを芝居でどう表現するのか、やっぱり何にも考えていないのである。
 しかし芝居に限らず、映画も、小説も、音楽も、いや人生そのものだって、結局は「無」から「有」を生み出す作業なのである。誕生は無意味だが人生は無意味ではない。というか、意味あるものにする自由を我々は与えられているのだ。私の書く芝居は、結局はそのことだけしか語ってはいない。それに共感できないのなら、私に脚本依頼するのはたいがいでやめてもらいたいんだけどねえ。

2003年08月29日(金) 戦慄の3時間/舞台『放浪記』/『新暗行御史』第六巻(尹仁完原作・梁慶一)
2001年08月29日(水) 腹立ち日記/映画『お笑い三人組』ほか
2000年08月29日(火) 後始末は大変そうだな/『ルパン三世総集編』第6集ほか


2004年08月28日(土) 夏の終わりの小さな花火

 こないだ満杯の女性客で見損ねていた『誰も知らない』、今日こそは見ようと、鴉丸嬢を誘って、朝の第1回目を狙って、開場の30分前にシネリーブル博多駅の前に並ぶ。でも既にシャッターの前には、学生らしき3人組、何人かの女性客などが陣取っていたのであった。徹夜組まではいなかったと思うけれど、それにしてもみんな熱心なことである。いくらカンヌで有名になったからと言って、それがヒットに直結するものでもないから、これはやはり作品の持っている力、役者たちの魅力に負うところが大きいのだろうな、と想像する。
 開場と同時に客が雪崩れこんでいき、開演10分前には満席、パイプ椅子が出されるほどの盛況。しげ、「この映画館がこんなに満杯になったの初めて見た」と感嘆。確かに小さな映画館で、収容人数は150人ほどだろうが、それにしても平日休日を問わずいつ来ても満杯というのはやはり大ヒットである。シネ・リーブルのように、いかにもオタク御用達といった感じのミニシアターはぜひ存続していってほしいので、こういうヒットが時々はあってくれないと困る。多少の混雑はガマンしようというもの。
 映画はリアルな描写を重ねながらも全体としては一篇のファンタジー。親に見捨てられた子供が自活していた、という現実の事件を元にしてはいるけれども、それを理想的に見えるほどに描いている。なんだこれ、「ユートピアだな」と思って、後でパンフを見てみら、監督自身、そう書いていた。なんだか川原泉の『夢だっていいじゃない』を連想したことである。
 しげと鴉丸嬢は、見終わって二人で「もうちょっと波瀾があったほうがなあ」とか言ってたが、つまりそれは「もう、一人二人死んでたら」ということである。なかなか派手好みなことであるが(そう表現していいものかどうか疑問はあるが)、これはタイトル通り「誰も知らない」物語だから、事件そのものは殆ど必要としていない話なのだ。逆にもっとドラマ的な要素は排除してもいいくらいのもので、こういう「静かな映画」もたまにはいいものだと思う。でも、そういうことを言うと、しげから「アンタ、ホントにお坊ちゃんだね」と言われてしまうのである(~_~;)。
 「やっぱ、ガスの集金人が来たら声を潜めるのは基本だよね」とか二人で頷きあってるけど、子供のころ、どういう生活してきたのかね、君たちは。

 映画のあと、「ダイソー」で芝居の小道具を買い込む。これのためにここ何ヶ月か、メンバーでチビチビと貯金をしてきていたのだが、まあまあおカネが溜まっていたので、かなりな数の小道具が買えた。うちの劇団、一応、毎月劇団費を回収することになってはいるのだけれど、実際には殆ど支払われたためしがない。練習に参加したときに、「ジュース一杯飲んだつもりになって」貯金箱に百円入れる、という形式に変えたら、ちゃんとおカネが溜まるようになったのである。払った金額に個人差はあったと思うが、こちらの方が劇団運営としてはスムーズにいった結果になったわけで、つくづく「強制」ということがキライな連中が集まっているのだな、と感心するやら苦笑するやら。

 一旦、帰宅、荷物を部屋に運びこむ。夜、其ノ他君の仕事が終わるのを待って、「夏の思い出(^o^)」に花火をする予定なので、それまでは時間潰し。私は疲れて仮眠を取るが(つか、買ったばかりのDVD『ケロロ軍曹』第1巻見てたら落ちた)、しげと鴉丸嬢はパソコン使ってなにかパコパコやってたようだ。
 夕方から其ノ他君を誘いにご自宅へ。ちょうどお食事と風呂の最中だったので、しばらく本屋などを回って時間潰し。それでもまだ時間が余っていたので、しげに「どうする? コンビニにでも行くか?」と聞くと、「玄関で待ってた方がいい!」と怒って反駁される。なにも怒らんでもいいじゃないか、と口喧嘩になるのを見て、鴉丸嬢が喜ぶこと。「藤原夫婦って、どんな小さなことでも決着つけないと気がすまないのね。私なんかすぐ流すけど」と言われてしまったが、私だって、ほかの人間相手でこんなに口論になることは滅多にないのである。今回も私は単に「どうやって待つ?」と聞いただけなのに、しげが「自分が待つのがイヤで退屈なものだから、あっちこっち引きずりまわしたいのだろう」と勝手に思いこんだのである。「他人は自分のことを思いやってはくれない」という被害妄想でしか人を見られないというのは根本的に性格が歪んでいるからで、そういう心の病気をこそ、治してほしいんだけどねえ。


 10時を回って、其ノ他君と合流。最初は皿山公園で花火をする予定だったのだが、実際にそこに行ってみると、車がワンサカ並んでいて、中ではカップルがただ今ナニの真っ最中(私の視力では全然見えないのだが、みんな「ホラホラあそこ、サカッてるサカッてる」と指を差すので、どうやらそうだったらしい)。さすがにその側でドンパチやらかす勇気はないので、仕方なくもっと山上の、人気のないところまで行く。以前、しげと二人で星を見に来た小さな公園である。
 しげの花火の好みはスモークとかヘビ花火とか地味なもの、鴉丸嬢は線香花火がメイン、ということで、ムチャクチャ地味である。私と其ノ他君は専ら飛行機とかドラゴンとかを飛ばしているので、花火にも男女で好みの違いと言うか、二極分化があるのだと理解する。しかし、夜中にスモーク焚いたり光らないヘビ花火をやったりして、しげは何が面白いのだろうか、その思考回路がよく分からないのである。実際、煙いだけで、鴉丸嬢はノド痛めちゃったし、もうちょっとTPOを考えてほしいのである。
 けれど、満月とまでは行かないが、十三夜(くらい)の月で、足元が見えないほどではなく、以前来た時のように真っ暗でもなく、ほどよい明るさの中で花火ができたのはよかった。
 帰宅したのが12時を過ぎていたので、日記もさほど書けず。最近は休日になってもなんだかんだでコンテンツを書く時間もなかなか取れないのだが、そのうちドカッと書くつもりなので、数少ない読者のみなさまがたにはご容赦頂きたい。


 なんかまあ、また三面記事からのマヌケなニュース。
 今朝、松山市安城寺町で、家の車庫に止めた乗用車から出火、木造2階建て150平方メートルが全焼した。これだけなら別によくある火事なのだけれど、出火原因というのがおおマヌケなのである。
 車内にいたのは、その家の二男で22歳の無色のAさん(まあ凶悪犯罪者ってわけでもないから仮名にしとこう)。Aさんは車内で仮眠していたのだけれど、目が覚めてみると、ブンブンと蚊が飛んでいる。寝惚けた頭で殺虫剤をまいたAさん、その直後にあろうことか煙草を吸おうとライターに火を付けた。
 結果は当然、大爆発である。本人は軽い火傷ですんだそうだけれど、引火した火が、家まで燃やしつくしちゃったというわけ。
 ……あ〜、科学的知識がないと言うか、「火のあるところで殺虫剤は撒いちゃいけない(手順は逆になってるけど、同じことだね)」って常識自体、この人、持ってなかったのかねえ。火の回りが早かったせいもあるのかもしれないけれど、このマヌケぶりだと、何が起こったのかも理解できずに、消火活動もロクにできなかったんじゃなかろうか。
 この人にだって、「ガスは引火するものだ」という知識がなかったわけじゃないだろう。ただ、「知識」ってのは、往々にして「知識」のレベルに留まって、現実への応用が効かないことがしばしばである。アタマのよさってのは知識の多寡じゃなくて、その個々の知識の関連性を見抜き、現実に応用できるかどうかって点にかかってるんだけど、それができる人って案外少ないんだよねえ。日本ってクニは、下手に知識があるとかガクレキがあるとか、そんなのがステイタスとして成り立っちゃってる社会だから、世の中「馬鹿ばっか」であることに気づきにくくなってるんだよねえ。
 思うんだけど、それって、やっぱり学校での「理科の授業のつまらなさ」にも大きな原因があるんじゃなかろうか。いや、理科の授業自体は教師がよっぽどヘタクソでない限り、基本的にとても楽しいものなのである。けれどその楽しさを感じられない人がやたら増えてきてはしないか。科学の楽しさというのは、この世の一見でたらめでてんでんばらばらに見える現象に、ある一定の法則が存在していることを発見する興奮にあるんじゃないかと思う。つまりまさしく「ユリイカ!」って感得する瞬間なんだけど、そういうものを「感じられない」人って、会話しててわかるんだよねえ。で、気が付くと周囲の人間がみんな「そんな人たち」になっているのである。悲しいことに、「自分には知識がある」と思ってる人にかえってそんな人が多い。だから知識があるだけじゃ全然アタマがいいことにはならないんだってば。トリビアで言えば、3へぇくらいの知識ばかりやたら持ってる人なんだね(^o^)。
 「知識」が「好奇心」を喚起するためには、やはりそこに我々の魂に訴えかける「何か」が介在しなければならないのである。我々は今や、雷がただの放電現象であることを知っている。これを昔は雲の上に鬼や雷獣がいるのだと説明していた。もちろんそれは正しくはないのだけれど、雲の上にいる「あるもの」への思いを馳せ、雷がなればヘソを隠すような「生活習慣」まで作りあげていた。知識が我々の人生に密着していたのだ。それに対して、雷を放電現象、と説明することは確かに科学的には正しいし、それを教えることも当然のことではあるのだけれど、実はその「雲の上」への我々の「思い」まで消してしまっているのだ。正しいことを教える、だけでは実は知識の伝授は叶わない。陳腐な言い方になって恐縮だが、心を忘れた科学には幸せ求める「夢」がない。神秘を排除した科学は、実は至極つまらないものなのである。
 空はどうして青いのか、雪はどうして白いのか、月はどうして満ち欠けするのか、星はどうして瞬いているのか、虹はどうして七色なのか、リンゴはなぜ落ちるのか……。親が子に、それを「科学的に」説明することは可能だろう。でもそれで終わってしまっては、知識は決して我々の生きる糧とはならない。何ならそこで正しい知識を教えなくったって構わない。お空があんなに青いの、にペンキ屋さんがいるとウソついたっていいのだ。ちょっと理科の知識かじってる小学生なら、「空が青く見えるのは、波長の短い光が大気中で屈折して拡散しているからでしょ?」くらいのことはサラッと言う。でもそこで、「じゃあたかがその散乱現象でどうしてあそこまで澄んだ色が出せるの?」と問い返したとき、その子どもが本当に「アタマのいい」子なら、自然がどれほど“科学的な奇跡”を生んでいるのか、過去の人々もまた、その「美しさ」を説明するための“科学的精神”を持っていたのだということに気づくのである。
 ……火事の話がなんか教育の話にシフトしてしまったが、「親や教師の教育が悪い」ってとこの何がどう「悪い」のか、ヒトコトで言っちゃえば、「夢」を説得力を持って語ってないとこなのよ。パチンコやって、子供を車中に置き去りにする馬鹿親と、この殺虫剤引火男と、根底で共通してるとこがあると思うんだけどね。


 イギリスの新聞「ガーディアン」紙が、国内外の著名な科学者56人に対してインタビューを行い、「SF映画TOP10」を発表した。以下はそのリスト。

1.『ブレードランナー』("Blade Runner",1982年)
2.『2001年宇宙の旅』("2001: A Space Odyssey",1968年)
3.『スター・ウォーズ』("Star Wars",1977年)、『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』("Star Wars: Episode V - The Empire Strikes Back",1980年)
4.『エイリアン』("Alien",1979年)
5.『惑星ソラリス』("Solaris",1972年)
6.『ターミネーター』("Terminator",1984年)、「ターミネーター2」("Terminator 2: Judgment Day",1991年)
7.『地球の静止する日』("The Day the Earth Stood Still",1951年)
8.『宇宙戦争』("War of the Worlds",1953年)
9.『マトリックス』("The Matrix",1999年)
10.『未知との遭遇』("Close Encounters of the Third Kind",1977年)

 別に「科学者」という枠を設けなくても、至極妥当な結果が出てる印象があるねえ。文系の人に聞いたって似たような結果になるだろうし、私がベストテン作っても、多少順位が入れ変わって、2、3の作品が入れ替わるだけで、同様のものになっちゃうと思う。8、9、10位を落として、『決死圏SOS宇宙船』『博士の異常な愛情』『ゴジラ』あたりを入れるかな。次点は『猿の惑星』か『スター・トレック』ってとこか。でもこれも「絶対」じゃない。
 SF映画と言っても幅は広いし、ファンタジーとの境界線も曖昧である。『2001年』のようなハードSFと、『スター・ウォーズ』のような限りなくファンタジーに近いものとを同列に論じることは、そもそもムチャなことである(『ガンダム』はSFか否かで論争が起こることはしばしばでも、『スター・ウォーズ』でそれが起こりにくいのは、監督本人が「SFじゃない」発言をしているせいもあるんだろう)。「SFコメディ」とジャンルを区切ったら、M.ナイト・シャマラン監督作品やジェリー・ブラッカイマー製作作品も上位にランキングされるかもしれない。
 それに、「ベストテン」について言えることは、調査人数が増えれば増えるほど最大公約数的な(極端な話、見ている映画が10本しかなくて、しかも有名どころしか知らない人間は、それしか選べない)結果にしかならないから、対象者を絞ったところで、明確な差異はでないことが多いのである。いろんな意味で「ベストテン」と「作品評価」とはあまり直結させない方がいいと思うのだが、今回の場合も「科学者が勧めているから素晴らしいSF映画なんだ」というようには考えない方がいいのではないか。
 いや、もちろん『ブレードランナー』にSF映画としての価値がないと言いたいわけじゃないので、勘違いはなさらないよう。あれを1位に推すことには反対は一切ございません。


 映画監督の山本迪夫(やまもと・みちお)氏が、23日に肝臓がんのため死去、享年71。
 言わずと知れた『血を吸う』シリーズの監督さんであるが、怪獣もの以外で私が最初に劇場で見た映画が山本監督の『血を吸う』シリーズだった。
 いやもう、不気味に佇む洋館、そこに誘いこまれる少女の幻想的な映像、なにより故・岸田森のクリストファー・リーに比肩する凶悪な吸血鬼像、全く、小学生の私に強烈なトラウマを与えてくれた映画であった。西洋基盤の、本来日本映画に移植することは不可能に近い吸血鬼映画を、怪談映画のフォーマットも利用しつつ見事に換骨奪胎してみせた山本監督の力量は、もっと評価されてしかるべきだったと思う。「B級映画」の監督というレッテルを貼られて久しいが、そういう区分けが結果的に監督を単純にランク分けしてしまい、個々の演出の妙をキチンと評価できなくなってしまっている弊害は結構ある。トンデモ演出を「B級」と呼称するなら、キューブリックにもクロサワにも結構B級なとこあるんだから、あまり短絡的なジャンル分けはしてほしくないんだよなあ。
 確かに、今の若い観客が『血を吸う』シリーズを見て、「怖がる」かどうかは保証の限りではない。かえって「笑われてしまう」面もあるとは思うのだが、『血を吸う』シリーズは、一見、日本的な土着の怨念といったものを排除しているように見えて、実は根底にそういうものはしっかり内包されており、それをより普遍的な西洋風の意匠で映像化してみせた、画期的なシリーズだったと思うのである。
 監督の死をきっかけに再評価を、というのは悲しいことではあるのだが、岸田森がらみでのみ語られることの多かった『血を吸う』シリーズは、もっと多方面からの再評価がされていい映画であったと思うし(例えば近年の和製ホラーとの関連についてとか)、またされなければいけないと思う。

2003年08月28日(木) 謎の暗号?(^_^;)/DVD『アパートの鍵貸します』/映画『英雄 HERO』
2001年08月28日(火) クリエイターの条件/映画『ハムナプトラ2 黄金のピラミッド』ほか
2000年08月28日(月) 完治には1週間以上かかりそうです/ドラマ『百年の物語』ほか



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