無責任賛歌
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2004年06月13日(日) |
回想の『王立宇宙軍』 |
ここんとこ、何だか毎日のようにDVD『東京ヴォードビルショー第58回公演 その場しのぎの男たち』を見ている。ただ流しているのではなくて、オーディオコメンタリーで見たり、ダブルキャスト版を見たり(DVDの特典映像で、伊藤博文を伊東四朗さんではなく、山本龍二さんが演じている地方公演バージョンもハイライトシーンが収録されているのである)しているのだが、昨日聞いたオーディオコメンタリーで、佐藤B作さんが、「初演、再演、再々演と行って、再演の時だけ、後藤象二郎役の石井愃一が出演していないが、タイム・ランはほぼ同じ」と言っていたのが気になった。 で、今朝は以前録画しておいた1994年の再演版をテレビで流し、同時に2003年の最新版をパソコンで流し、同時に見る、ということをやってみたのだ。……いや、ホントにほぼピッタシだったわ (◎_◎;)。再演版はもちろんキャラクターが一人分、少ないわけだけれども、セリフをうまく各キャラクターに配分して、違和感がないように仕立てているのである。その腕前は確かにさすがは三谷幸喜、と感心してしまうのだが、芝居の出来自体は、やはり最新版の方が格段に面白い。伊藤博文と松方正義の間をコウモリのように右顧左眄する後藤象二郎のキャラクターが芝居に深みを与えているばかりではなく、再演版の時はわざとらしさが目立って笑いにつながらなかった各役者の「力み」の演技、これが悉く「上手く」なって、解消されているのである。 例えば、傷を負ったニコライ皇太子を見舞おうと、青木周三(市川勇)、後藤象二郎(石井愃一)、西郷従道(坂本あきら)の3人がコサックダンスを踊るのを見て、松方正義(佐渡稔)が呆然としながら、「これで戦争が回避できるじゃろうか」と呟いた途端、陸奥宗光(佐藤B作)が「私は戦争の方がいい」と嘆息する間の取り方。タイミングも最新版の方がよくなっているのだが、ただ怒鳴るだけだった再演版に比べて、落胆、憤慨、羞恥、そういった感情がないまぜになって、噛み締めるように呟く最新版の方が、その悲痛さゆえによりいっそうの笑いを誘っているのである。 芝居はコヤや、当日の観客次第で、いかようにも変わる。やっぱり一度見ただけではなかなか判断が下せるものではない。だから高いとわかっちゃいるけれども、劇場通いがやめられないのである。
今日は練習に役者さんが二人休むというので、私もちょっと休ませてもらうことにする。先週一週間が冗談じゃなくて目眩がするほど忙しかったので、ひと休憩しないことには身が持たん、と考えたからだ。黒子さん役の人たちは結構集まる、と聞いていたので、お会いしたい気はちょっとあったのだが、そういう事情なのでご勘弁頂きたい。 その間、本読んだり、日記書いたり、ひと寝入りしたり。メシは朝、昼、晩とも焼きうどん。具はたっぷりのネギと野菜コロッケで安上がり。 読んだ本、いしかわじゅん『いしかわ式』、マンガ、よしながふみ『愛すべき娘たち』、雑誌のバックナンバーのパラ読みなど。
練習を終えて、しげが下村嬢を連れてくる。こないだ下村嬢の芝居を見に行って以来だが、相変わらず楽しく遊んでいらっしゃるようだ(^o^)。明日、福岡の方に用事があるとかで、今夜はお泊り。で、ウチに泊まる、なんてことになったら、例えうら若きオトメであろうがあるまいが、当然のごとくDVD責めに会ってしまうのだが、ちょうど私がDVDで角川映画の『人間の証明』を見ていたので(夕べ『2001』を見たので、こちらも見返してみたくなったのである)、あちこち突っ込みながら解説する。 ……あれもなあ、原作のムダなところ刈り込んで(轢き逃げされた范文雀がらみのエピソードなんて要らん)、重なり過ぎる偶然と因果応報な古色蒼然とした展開を変更して、殺人の動機にもっと説得力を持たせて、深みのない観光案内みたいな絵造りをやめてちゃんと「ドラマ」を成立させるための絵を撮って、松田優作と岡田茉莉子をもちっとマシな役者と取っ換えれば、まだ見られるものになったと思うんだけどなあ。殆ど全部か(^_^;)。 いや、ワキの役者だけはムダにいい人ばかり使ってるんだよねえ。見終わった後、しげは「地井武男と峰岸徹って、どこに出てたの!?」と言ってたが、あの人たちですらその他大勢の一人だからなあ。確かに金だきゃ掛けてるんである。「音楽だけはいいんだけどねえ」としげがしみじみ言ってたが、そりゃ、公開当時から言われてたことである。 そのあと、立て続けに『金田一耕助の冒険』『キルビルvol.1』『DAICONFILM版帰ってきたウルトラマン』などを見せる。普通の神経の持ち主ならば、こんなヘンなものばかり見せられたら、当然閉口するところだろうが、下村嬢もツワモノで、「ここに来なかったら、一生見ることがなかったものばかり見せていただきました」なんて言っている。 何だかんだで、2時を回ったので就寝。と言っても既に本とビデオで寝るスペースすらなくなりかけている我が家、寝室に下村嬢、居間にしげが寝たら、私は椅子で寝るしかないのであった(^_^;)。奥の書庫、そのうち片付けなきゃなあ。
お気に入りさんの日記で、ガイナックスのデビュー作『王立宇宙軍 オネアミスの翼』について熱烈な思いを語られている方がいらっしゃった。お若い方のようなので、多分映画公開時は小学生くらいだろうと思われるのだが、そんなころからあの映画の魅力を感じてくれてる人がいるというのは、昔からのガイナファンとしては嬉しい限りである。
しかし、当時を思い返すだに哀しくなってしまうのだが、記念すべきガイナックス製作第1弾であるあの映画は、興行的にはまるでヒットしなかったのである(厳密に言うとそれなりにヒットはしたのだが、シロウトに毛が生えた程度のスタッフの力不足による哀しさ、投下資本がデカ過ぎて、製作費が回収不能になってしまっていた。そのために、『王立』1作を製作して解散する予定だったガイナックスは、仕方なく会社組織として次作を作り続けて行かざるを得なくなる。シロウト集団である点にこそ誇りを持っていた当時の庵野秀明が、ガイナックス存続に激怒したというのは有名な話)。 『DAICON FILM』で、素人ながらプロ顔負けの実力を持つと絶賛されていたスタッフ(『風の谷のナウシカ』の「巨神兵」の作画で「庵野秀明」の名は既に知られていたが)による手抜きの一切ない製作過程は、『アニメージュ』誌上に毎号のように掲載、逐一報告されていたし、宮崎駿もまたその出来映えを「バンダイを騙して作っている」と皮肉を交えながらも応援していた(宮崎駿は当時からこういうヒネクレた誉め方しかしないヒトであった)。 当然、アニメファンの間でも評価は思いきり高く、結果として第5回日本アニメ大賞最優秀作品賞、第10回アニメグランプリ、第19回星雲賞メディア部門受賞など、賞にも恵まれていたのだが、いかんせん、劇場に一般客だけは来なかったのである(-_-;)。
宮崎駿がいみじくも喝破した通り、『王立宇宙軍(『オネアミスの翼』というタイトルは、劇場公開に際して『王立宇宙軍』のまでは求心力に欠ける、と判断されて付け加えられたもので、現在は原タイトルに戻されている)』は、配給元であるバンダイをうまいことダマくらかして作られた、壮大なデッチアゲ映画である(誉めているので誤解なきよう)。「SF」の意匠を付けてはいるが、それはアナロジーに過ぎない。 主人公シロツグ・ラーダットを始めとする「宇宙軍」の正体はその名通りのそれではなく、当時のアニメ、特撮ファンであったガイナックスのスタッフたち自身、つまり「オタク」たちであった。何しろ主人公のシロツグたちは「宇宙軍」だというだけでバカにされている。なぜ「宇宙軍」だとバカにされるのか、説得力のある説明は劇中ではなされないが、これを「オタク」と置き換えるとすんなり理解できてしまうのである。 例えば、冒頭のシロツグのセリフは以下の通りである。
> いいことなのか、悪いことなのか、わからない。でも多くの人間がそうであるように、俺もまた自分の生まれた国で育った。そしてごく普通の中流家庭に生まれつくことができた。だから貴族の不幸も貧乏人の苦労も知らない。別に知りたいとも思わない。 > 子供のころは水軍のパイロットになりたかった。ジェットに乗るには水軍に入るしかないからだ。速く、高く、空を飛ぶことは何よりも素晴らしく、美しい。 > でも、学校を卒業する2ヶ月前に、そんなものにはなれないってことを成績表が教えてくれた。 > だから、宇宙軍に入ったんだ。
「だから、オタクになったんだ」 このセリフをそう読み変えたからこそ(というか、それはもうバレバレであった)、「戦争を知らない世代」であるあのころのオタクたちは、同じオタクであるガイナックスの作ったこの映画に、すっかり感情移入してしまった。ノンシャランで無気力、好きなことをやってはいるが、それが世の中の役に立つことなのかどうか、果たして生きがいと言えるものなのかどうか、答えを出せないクセに、いっぱしの性欲だけはあるというダメ人間・シロツグは、まさに「我々」だったのである(多少、誇張表現は入っているので、みんながみんなそうだったとは思わないように)。 こんなダメなやつを相手にしてくれる女なんて、宗教にハマッてるリイクニ・ノンデライコくらいしかいない(^_^;)。……ああいう雰囲気の、澄んではいるけどちょっとアブナい目の女の子って、あの当時は結構いたのである(今もかも)。私もちょっとだけ勧誘されかけたことあったなあ……「○理」とか「○○○の○」とか(~_~;)。シロツグとリイクニの「ダメ人間」どうしの、ベクトルが違っているためにどうしてもズレてはしまうのだが、どこかシンパシーを感じないではいられない微妙な関係は、オタクたちの陥っていたコミュニケーション不全の状況そのものであった。 この「オタクである自ら」をアナロジーとして描く、という手法は、後に『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』『新世紀エヴァンゲリオン』と、ガイナックスの製作するアニメーションに悉く継承され、着実に「オタクによるオタクのためのアニメーション」路線を築き上げていくことになる。
『王立』が製作されたのは1984年のこと。実際、当時の「オタク」のイメージはと言えば、宅八郎がその代表のように言われていたことでもお分かりいただけようが、ただ自分の好きなアニメ、特撮、フィギュアに入れ込んでいるだけで、「あいつらは何の生産性もなく、コミュニケーション能力もない、引きこもり型の気持ち悪いやつだ」、という偏見と憎悪に満ちた最悪のイメージでしか受け取られてはいなかった。 今でもオタクのそのようなマイナスイメージが完全に払拭できているわけではないが(痛いオタクは実際にいくらでもいる)、少なくとも当時の、変態か犯罪者でも見るような目つきで見られ、毛嫌いされていたような状況はかなり軽減されている。……冗談ではなく、たとえ知人であっても、相手がノーマル(~_~;)な人であったら、「オレって実はオタクなんだ」とカミングアウトすることすら憚られていたのである(この状況は、1988年の宮崎勤事件を経て、1990年代半ばに至るまで続いた。「オタク」のイメージが必ずしもマイナスなものばかりではない、と世間的に認知されるようになったのは、もとガイナックス社長である岡田斗司夫さんの展開した「オタクエリート論」と、そしてガイナックス製作の『新世紀エヴァンゲリオン』の1995年から翌々年にかけての大ヒット現象によるところが大きい)。 実際、当時のオタクたちに「何かが作れる」とは、誰も考えていなかった。いや、もちろん各大学のサークル、同人活動を通じて、マンガ同人誌や自主製作映画、アニメーションを作っていた連中はたくさんいたのだが、世間的な認知は今ほど高くはなかったのである。ガイナックスの前身である「DAICON FILM」のスタッフたちも、SF大会のオープニングアニメーションや『快傑のーてんき』『愛國戦隊大日本』『帰ってきたウルトラマン』などの自主映画を製作していたが、ファンジンの外にいる一般人たちにとっては、「あいつら何をバカなことやってるんだ」という目でしか見られてはいなかった。 オタクたちには等しく、そういった世間の偏見と迫害に堪えてきたルサンチマンの歴史がある。しかし同時に、「その程度の“軽い”心の傷」しかオタクたちにはない、ということが、一つ前の全共闘世代、更に前の戦中派、といった人々に対しての劣等感のようなものまでオタクたちの心の中に形成させていた。庵野秀明の「ぼくたちにはアニメや特撮しかない」という発言の裏にある空虚感、喪失感は、自分たちが何か人間としてケツラクしているのではないかという強迫観念が生み出しているものである。オタクは、その劣等感ゆえに、偏見の目で見られているにも関わらず、それをきっぱりと撥ね返すことができない。『王立』には、そういったオタクたちの「空気」が蔓延していた。 だから、そこで負けたくはなかった。 「宇宙になんて上がれるはずがない」=「たかがオタクに何かが作れるはずがない」 宇宙船打ち上げのたびに失敗に失敗を重ね、諦めかけた同僚たちにシロツグは叫ぶ。
> ここでやめたら俺たちゃなんだ……ただのバカじゃないか。ここまで造ったものを全部捨てちまうつもりかよ。今日の今日までやってきたことだぞ。くだらないなんて悲しいこと言うなよ、立派だよ! みんな歴史の教科書に載るぐらい立派だよ! > 俺はまだやるぞ。死んでも上がってみせる!
アニメや特撮を消費するだけではない、「創造者」としての「オタク」の姿がここにはある。 これで泣けないオタクはオタクではない(T.T)。 もちろん、映画として見た場合、打ち上げまでに出た犠牲者の扱いが軽い、戦争アニメとして見た場合、人間の「死」の重さがリアルに表現されていない、という欠点はある。しかしそれこそがこの映画が「戦争」を扱った「SFアニメ」ではない証拠なので、戦争やってるおエライさんたちはオタクを理解しない「オトナたち」の謂いであるし、途中でリタイアしていった人々は、よくある「オタクどうしの内輪モメ」で消えていった人々なのである。それらをオブラートに包むように「死」という記号に転換させてしまったのは、仲間うちの人間関係のドロドロをそこまでリアルに描くことが、さすがに当時のオタクたちには心の傷が深すぎて、できることではなかったからだろう。その点を突っ込めば、『王立』は「まだまだ甘い」「所詮はオタクの癒されたい系アニメ」と批判されても仕方がないところはある。 それでも当時のファンの読者投稿などを読めば、『王立』から「オタクからオタクへの強いエール」を感じていた者がどれだけいたかが見て取れる。私もまたその中の一人だった。自分たちの好きなもの、やってることは、決してムダなのではない。決して取るにたらないことではない。後指を差されようが、決して恥じる必要はない。勇気を出して、前を向いていいのだ。……そういう「エール」である。「オタクが楽しめる娯楽としてのアニメ」なら、それまでにも数多く存在した。しかし、「オタクを応援してくれるアニメ」、そんなものは、これまでにただの一本だってなかったのだ。『王立』がまさにその「最初の一本」だったのである。ガイナックスがどうして『王立宇宙軍』というタイトルに拘り、『オネアミスの翼』というタイトルを捨て去ったか。それはまさに「宇宙軍」=「オタク」であるからにほかならない。 ガイナックスは現在までに、良かれ悪しかれ、「オタクの代表」としてのアニメを作り続けて来た。だからある意味「オタク否定」とも取れる『エヴァ』については、「裏切られた」と感じたオタクたちから、感情的過ぎる反発、非難、罵倒もあった。しかし、今でもガイナックスは、「オタク」の看板を降ろしているわけではないと思うのである。かつて、庵野秀明は『トップをねらえ!』について、「オカエリナサイBOX」のライナーノートで、はっきり「オタクのためのアニメ」と明言した。だとすれば、新作『トップをねらえ2!』もまたそうであるに違いない。 「その人」が本当の「友人」ならば、彼は自分とともに笑い、ともに怒り、ともに泣き、時には落ちこんでいる自分を叱咤し、時には苦言を呈して忠告したりもしてくれるものだ。もちろん、「その人」自身がヤサグレてしまって、こちらが怒る場合だってある。ガイナックスのアニメは、どの作品もまさにそういう「インタラクティブなアニメ」であり続けた。 だからまあ、この10年以上、未だに「製作継続中」である『蒼きウル』も、いつか必ず作られるものと期待し続けているし、『トップ2』だって、「どんな出来になろうが付き合おう」と思いこめるのである。『フリクリ』や『アベノ橋』あたりからガイナックスアニメに付き合い始めた若いファンの人にはちょっとわかりにくい心理かもしれないが、「思い」には必ず「歴史」が伴っているものなのである。 『王立』のラストシーン、宇宙で一人漂うシロツグの脳裏に浮かんだのだろうか、エンディングのタイトルバックとして、それまでの「この国の歴史」の1ページ、また1ページが、紐解かれるように流れる。それは全てこの作品のために創造された架空の歴史、現実世界から見ればただのファンタジーであるのだが、そのファンタジーにこれだけの労力をかけたという証明でもあるのである。それは既に現実をも凌駕しえる、強いエネルギーを孕んでいた。よく、アニメのエポックメーキングは「ヤマト」「ガンダム」「エヴァ」であるとは言われる。しかし、『エヴァ』の先駆的作品として、この『王立』が存在していること、『王立』が存在していなければ『エヴァ』だってありえなかったこと、それは紛れもない事実なのである。
2003年06月13日(金) ある正義の死/『日本庭園の秘密』(エラリィ・クイーン) 2002年06月13日(木) 暗い木曜日/『名探偵コナン』37巻(青山剛昌)ほか 2001年06月13日(水) とんでもございません(←これも誤用)/『少女鮫』6〜9巻(和田慎二)ほか
2004年06月12日(土) |
夫婦の写真をお見せできないのが残念です。 |
休日出勤でしかも残業。でも今日はあまりトンガリさんと関わることはなかったので、少しはラクであった。向こうから寄ってきて、昨日提出した書類にやっぱり文句は付けてきたが、それはこちらのミスではなく、トンガリさんが渡してくれた元資料自体にミスがあったので、こちらに文句を言ってくる筋合いのものではないのである。 今日は、用事があって、しげがちらっと職場に来たのだが、何人かしげの顔を見た同僚が、後で同じように口をそろえて「お嬢さんですか?」「お嬢さんですか?」「お嬢さんですか?」と聞いて来る。「いえ、妻です」「いえ、妻です」「いえ、妻です」とまた、私も同じように答えるのだが、そしたらまたみんな慌てて「お顔がソックリなんで、てっきりお嬢さんかと」「お顔がソックリなんで、てっきりお嬢さんかと」「お顔がソックリなんで、てっきりお嬢さんかと」と言い訳するのだ(^_^;)。 しげと私が似た者夫婦(性格ではなく顔立ちが)であることは知人はつとに有名なのだが、初対面の人間に一様に感心されてしまうというのは、やっぱり前世の因縁とかそんなのがあるのだろうか。
帰宅して、晩飯は瓦そば。私はネギをたっぷり使うので、あまり油臭くはならない。 CSチャンネルNECOで『人間の証明2001』を見る。 テレビ東京製作の『女と愛とミステリー』第1回放送、主演の棟居弘一良刑事を渡辺謙が演じたやつで、これは本放送時には見損なっていた。 渡辺謙の相手役が、原作のケン・シュフタン刑事から、高島礼子演じる下田美里刑事に変更されているのが最大の違いだが、進駐軍の米兵が沖縄の駐留兵に変更されてたんで、なんだ、今度の連ドラがそうなるんじゃないかと勝手に想像してたが、既に使われてた手だったのかと拍子抜けした。となると今度のやつは、いったいどういう形でジョニー・ヘイワードをハーフに仕立てるんだろうか。同じ手を使うか、時代設定を原作通りにするか、くらいしか思いつかないんだが。
そのあと、DVD『その場しのぎの男たち』を、今度はオーディオコメンタリー付きで見る。お喋りは佐藤B作、佐渡稔、あめくみちこの3人。伊東四朗さんに関する話に一番耳を傾ける。佐藤B作が、伊藤さんと組むまで、「お笑いの人じゃないか」と内心馬鹿にしていた、と正直に告白していたが、ちょっと驚いてしまった。役者をお笑いの人と演劇の人とに分ける感覚が私にはないからだが、一般的には「お笑いは格下」って感覚があるのかなあ。
読んだ本、長谷川法生『こりゃたまがった!』、マンガ、ゴツボ×リュウジ『ササメケ』1巻、秋月りす『OL進化論』21巻、『さべあのま全集6 ライトブルーペイジ』。
レイ・チャールズが10日、肝臓病による合併症のため死去。享年73。 ただの錯覚に過ぎないのだが、『ブルース・ブラザース』に出演していた俳優やミュージシャンたち、全く死にそうに見えない。みんな、死んでも生きていそうな、そんなムードがあの映画にはあった。でも実際には、ジョン・ベルーシはもちろん、キャブ・キャロウェイも、ジョン・キャンディも、この世の人ではない。 私は特にR&B、ソウル・ミュージックのファンというわけではないので、『ブルース・ブラザーズ』でのレイ・チャールズしか知らないが、あののけぞったように歌う独特のフリを、『サタデー・ナイト・ライブ』でジョン・ベルーシがマネしているのを見て、「なんて面白いおっちゃんやろう」と、すっかりファンになってしまった(そっちでかい)。 今もしげは、車のBGMに『ブルース・ブラザース』と『ブルース・ブラザース2000』のサントラをミックスして流している。レイ・チャールズの『シェイク・ユア・テイルフェザー』を私はほぼ毎日聞いているのだ。それはもう母親のお休みの子守唄なみに「日常」になっている。センチメンタルな意味合いでなく、だからレイ・チャールズは今も私にとっては生き続けているのである。
SF作家のレイ・ブラッドベリが、スウェーデンの「ダーゲンス・ニュヘテル」紙のインタビューに答えて、映画監督マイケル・ムーアの新作『華氏911』について、「私の『華氏451度』の題名を断りなくまねている」と言って憤慨しているとか。 インタビュー記事なんて煽情的に大袈裟に書かれるのが普通だし、ホントのところはブラッドベリがどの程度怒ってるのかは分らないけれども、もし本気だとしたら、ブラッドベリもケツの穴の小さいことである。 もちろんマイケル・ムーアがブラッドベリの『華氏451度』を知らなかったはずはないし、そのタイトルに“掛けて”、映画のタイトルとしたことは間違いないだろうが、こんなのは、盗作とかパクリとかいう類のものでは全くない。本歌取りほどにもならないただのモジリで、これを問題にしていたら、世の中の小説、映画、モロモロの芸術作品のタイトルの大半は「パクリ」ってことになってしまう。「華氏」という言葉は普通名詞でブラッドベリのオリジナルでも何でもないし、数字に至っては言わずもがなだ。だいたいそれを言い出したら、ブラッドベリ自身の『火星年代記』は先行する数多の『〜年代記』のパクリってことになってしまうではないか。 この手のモジリの宝庫はもちろんAV業界で、小説、映画、マンガ、アニメ、ありとあらゆる作品がただひたすら「エロ」のキーワードのもとに変換されてしまっている。そちら方面に私はあまり詳しくないので、とっさに思い出せるタイトルは、『ちびまる子ちゃん』が、『ちちまる子ちゃん』って、なってたのがあったなあ、くらいのものなのだが、確かに作家の立場からすれば、あまり気持ちのいいものではなかろう、とは思う。けれどだからといって、さくらももこがこれを知ったからと言って、「困ったな」くらいは感じるかもしれないが、憤慨するとはとても思えない。 インタビューでブラッドベリは、「『華氏911』の内容は自分の政治的な見解とはまったく相いれない」、と語ったそうで、タイトルそのものよりも、映画やマイケル・ムーア本人への不快感からの発言のようだ。案外、インタビューした記者のほうも“政治的に”マイケル・ムーアに対して反感を持っており、誘導してブラッドベリに言わせた、という可能性もあるように思う。できればそうあってほしいと願いたくなるのは、好きだった作家さんの「衰え」を認めたくはないからだ。しかしブラッドベリももう御年83歳で、ボケが進んでる可能性だって否定できない。だとしたらそちらの方がよっぽど悲しい。 私が理想とする一番のボケ方は水木しげる御大(もう半分は妖怪でいらっしゃるそうな)なのだが、誰でもが年を取ってああなれるとは限らない。自らの運命を受け容れる覚悟くらいはしておきたいのだが、私なんかきっとボケたら、今以上にトンチンカンなことばかりやらかしてしまうのだろうなあ。どこぞでノタレ死んでいたら、線香の1本でも手向けてやってください。
それにしてもアチラではタイトルに関するトラブルが多いことと言ったらない。いつぞやの日記にも書いたことだが、ティム・アレン、ジェミー・リー・カーティス、ダン・エイクロイド出演のコメディー、『スキッピング・クリスマス』が、そのタイトルがベン・アフレック主演の『Surviving Christmas』と似ているという理由で、『Christmas with the Kranks(クランク一家とクリスマス)』という味も素っ気もないものに変更させられてしまっている。『スキッピング』の場合、ジョン・グリシャムの原作が同タイトルで既にちゃんとあったというのにこの始末である。日本公開の際にはぜひ、原タイトルのままで公開していただきたいものなのだが。 それに引き換え、ある意味「パクリ天国」な日本の出版、映画、音楽業界は、逆にタガがゆるみすぎてるような(野島伸司の『人間失格』はさすがに太宰治の遺族からクレームがついて、『人間・失格』と間にクロマルが付いたが、この程度で済んじゃうのである)。『トップをねらえ!』とか、製作当時からタイトルだけはみんなトホホだなあ、と思っていたものなのだが、今度はそれのまた『2』が作られるってんだから、恥も外聞もないのである。もちろん、タイトルだけでなく、「おねえさま」とか「鉄ゲタ」とか「宇宙怪獣」とか「ユング・フロイト」とか、そういうダサさ、センスの無さすら「武器」にする「開き直り」が、オタクたちの支持を得た理由の一つなのだが。考えてみりゃ、「ガンダム」とか「ニュータイプ」なんてネーミングだって、初めて聞いたときはSFファンはこぞって「やめてくれよ」と思ったものである。ダサかろうがなんだろうが、いっぺん「認知」させちまえば、生んだもん勝ちなのだな、この世界。 ……で、その『トップをねらえ2』の公式ホームページが開設されたのだが、またまたガイナックス、「やらかしてくれている」。なんたってねえ、主人公たち超能力者たちの総称がねえ、「トップレス」だもんな(^o^)。でも、主人公たちのコスチュームはどっちかっつーと流行り(?)のメイド風なのであった。
http://www.top2.jp/
2003年06月12日(木) 正義に勝たれても/『少年名探偵 虹北恭助の新冒険』(はやみねかおる) 2002年06月12日(水) 悲しい日/『B型平次捕物控』(いしいひさいち)/舞台『笑の大学』ほか 2001年06月12日(火) マンガの画力って?/『新しい歴史教科書 市販本』(西尾幹二ほか)
2004年06月11日(金) |
一日顔面ケイレン(-_-;)。 |
昨日に引き続いて、今日も仕事に合間がない。 何が腹立つって、またトンガリさんの話になってしまうのだが、いつもいつもこちらが仕事を頼むと「いきなり言われても困ります」というのが口癖で(ひと月先がシメキリでも、この人にとっては「いきなり」である)、会議にも出ないせいで連絡は二度手間三度手間になるわ、実際に仕事に取りかかっても出来あがりは遅いわ、散々苦労させられているのだが、病休中の同僚の代理の仕事もいろいろ頼まれてる最中に、突然、「今週中に、この仕事やってください」と頼んで来たのだ。もちろん、本来は私がしなければならない仕事ではなくて、トンガリさんがやらなきゃならない仕事である。 「今週中って……、今日で今週、終わりですけど」 「はい」 ……「はい」じゃねえだろ(-_-;)。けど何度も書いてる通り、実質的にこの職場での「トンガリさん担当」は私になっているのである(特別勤務手当てがほしいくらいだ)。四の五の文句をつけてたら、仕事そのものが滞ってしまう。 ええ、ええ、引きうけましたとも。何とか時間を都合つけて、トンガリさんは定時通りに帰るから、それまでに何とか仕上げて、持って行きましたよ。そしたら、「ともかく私に連絡が来ないことが多いですから、ちゃんと連絡してくださいね」と来たもんだ。 ……だからそんなのはアンタが会議に出ればすむことだし、第一、「連絡が来てない」ってこと自体、ちゃんとしてるのに本人が忘れてるだけだろうがよ。 あああ、顔のケイレンが止まらないよう……(TロT)。
しげと待ち合わせをして、父の店まで、昨日買ったスポーツシューズを届けに行く。 父の日にはちと早いのだが、すぐ使えるものだから、早めに渡しといた方がよかろう。ついでに散髪をしてもらったが、しげは芝居の公演のために髪を伸ばしている最中なので私だけである。姉と二人で私の頭を見て、「つみがいのない頭やなあ」と嘆息しているが、そう作ったのはアンタだろ(~_~;)。生え方がマバラなので、短くつんでもなんとなく冴えない感じになるのである。かといって伸ばすともう、髪が薄くなっているのでペタンとしてしまう。このあたり、亡くなった母はうまいことつんでくれていて、ひと月くらいは軽く持っていたのだが、父は言っちゃなんだが母よりは腕が落ちるので、本当なら2週間に1回くらいは通わないといけない。まああんまり不義理をするなということなんだろうが、でもやっぱり不義理をしているのである。 しげが私に、「とうちゃん、いくつかね?」と聞くので、「来年70だよ」と答えると、「もうそんなに!?」と驚く。帽子でハゲを隠すことが多いので、トシより若く見られているが、もう、そんなである。母が死んだトシも、去年越した。けれど、糖尿でガタが来ていると言ってるわりには仕事を続けられているのだから、まあ、もちっと頑張って、酒を控えてくれると助かるのであるが。
帰宅して、食事は焼きチャンポンを自分で作る。女房が作った料理(モドキ)より、男の手料理の方が美味いというのは悲しいことだが、受け入れるしかない事実である。 DVD『その場しのぎの男たち』、こないだ見かけて後半眠ってしまったので、最後まで見る。読んだ本は、井沢元彦『逆説の日本史8中世混沌編』、マンガ、奥田ひとし『新天地無用!魎皇鬼』6巻、城平京原作・水野英多作画『スパイラル 推理の絆』11巻。 『スパイラル』、ついに「ブレード・チルドレン」の正体が判明。……引いた読者、多いだろうなあ。何しろまたぞろ「○」と「×」の戦いだもんなあ。でも、実はそれはフェイクでって可能性もちゃんと示唆されているから、ギリギリのラインでミステリーとして成立はしてるのである。設定そのものが破綻しまくりの『名探偵コナン』よりははるかに評価したい。いや、それくらい私は「ミステリー」の定義を広く考えているのである。
先日、しげが劇団のホームページの方で「引退」を表明して、それが波紋を呼んでいるのだが、曲がりなりにも7年間劇団を続けて来たわけだから、ここいらでひと区切り付けて、という気持ちは分らないでもない。気力と体力だけで芝居をやって行けるのは20代から30代の半ばくらいまでで、さらに次のステップに進もうというのならば、何か+αになるものが必要になってくる。しげもそのあたりを感じ始めた、ということなのだろう。「もう自分の好きな芝居を、自分の好きな役者、スタッフとだけ作りたい。コヤを使うのに神経を回してなんかいられない、照明とかも殆どないところでやってみたい」と言っている。 私も自分で演技をしたい、というエネルギー自体、かなり以前からなくなっていて、芝居に対する情熱はひたすら「面白い役者と出会えるか」という点にかかっている。つまり、「ああ、この役者さんをこう使ったら、こういう芝居が作れるなあ」ということで、自分がこういう芝居を作りたいから、それに合わせるように役者を演出する、というのはあまり考えていないのである(もちろん、「演出不在」の演劇などはありえないから、これは役者の地をそのまま舞台に反映させればよいという単純なことではないのだが、その話をし始めると長くなるので省く)。 しげが今イメージしているのは、「音楽や踊りだけで成り立つような、セリフの極力少ない芝居」ということで、出演者は3、4人、男性が中心で、場合によっては自分が役者として出なくてもいいと言う。「私は踊っても映えないし」というのだが、もともと日本人の体形自体がダンス系の芝居には不向きである。だからこそ逆に、「日本人の体形によるダンス」というものも考案できるんじゃないかと思う。つか、すでに「盆踊り」やら「阿波踊り」とかは、実際「日本人の踊り」なんだよね。あれを手足の長い外人さんがやっちゃったら、かえって映えないだろうよ。まあ、「盆踊り」で全編通す、というのも無理はあるが、世界各国の民俗ダンスを盛りこんで行くとか(ものマネで充分である)、そのラインで考えて行けば、面白い芝居が作れるんじゃないか。しげは「今度の芝居が終わったら、どこかのダンス教室に通いたい」と言っているが、そういう方向におカネを使うのならば、私は出し惜しみをするものではない。もちろん際限はあるが(^_^;)。 で、その脚本を書いてくれないかと早速頼まれてしまったのだが、一応、「好きなスタッフ」として、私はしげの眼鏡には叶ったということであるらしい。またまたプレッシャーをかけてくれることであるが、「セリフに頼らない芝居」というものも書いてみたいとは思っていたので、渡りに船ではある。ただまあ、そのためには私もまた勉強をしなければいけないわけで、年々衰えつつある自分の脳との戦いをすることになるのはいささかツライ。全く、少しも私を休ませてくれない妻ではあることだ(←イヤがってるわけではないので誤解なきよう)。
「迷惑メールフォルダー」を使うようになって、9割方のスパムメールは予め削除できるようになった。相変わらず大半は外人さんからのもので、ヘタすりゃ、日に100通近く来ることもある。よくもまあこうも、極東の黄色いサル(と内心思っているであろう)相手に、しょーもないエロサイト(だと思う)ばかり紹介してくれるものだと、その親切心には感激してしまうが、できれば腐れたジャップなんぞ相手にしてないで、猫肉ハンバーガーと砂糖たっぷりのコーンフレークと農薬オレンジのおかげで、きっと脳ミソのシワもすっかり伸びてツルンペタになってるだろうおリコウさんな同国人に、もうこれ以上は脳ミソを使わなくていいようなリビドー全開の娯楽を提供していただきたいものである。 それでもたまに、うまいことニフティのガードをくぐり抜けてくる「ツワモノ」もいらっしゃる。こないだから、何度もアドレスを変えてはアクセスしてくるのが、自称「熟女」さんで、文面はいつも同じ。
> どんな相手に癒されたい?彼女?まま? ママ的存在の人に癒されてみませんか?相手の方も癒すだけで自分も癒される。 そういった方がいます。何で癒されたい?心?体?¥?何がいいか指定して下さい。 完全無料・架空請求一切なし!
いつもいつもやっぱりどうしても分からなくて困ってしまうのだが、こんなもんに引っかかるヤツっているのだろうか。いや、リクツではもう、ある一定の割合で、どんなに見え透いた手段であっても引っかかる阿呆がいるのだということは分かる。しかし分かるだけで感情的に納得できてはいないのだ。幸か不幸か、私が今まで知り合ってきた知人友人、通りすがりの方々で、こんなしょーもないお誘いに引っかかった人はいない。もしかして実は引っかかったことがあるけれども、隠してるだけかもしれないが、まあ一見してそこまでの馬鹿はいそうにない。常識というものは時代と文化によって大きな振幅のあるものだということも理解しているつもりではあるのだが、少なくとも、私の常識では、こんなものに引っかかるヤツはよほどの田舎者か脳ミソをどこぞに落としてきたタリラリランで、まあ、実際にはいるわきゃない、としか思えないのだが。いやホントに、小学生だって引っかからないと思うんだけどなあ。 エセ宗教に引っかかる人間、というのは感情的にも分からないでもないのだ。医者に見放された病人が宗教に入った、なんて話を聞くと、そりゃ止めようったって止まらないよなあ、と思う。「オレオレ詐欺」だって、現代人の孤独につけこんでいる。「身内の声もわからないのか」という憤りは、騙された人間に対してというよりも、そういう「時代」の方に向けられて然るべきるものだ。 けれど、この手のエッチメールに引っかかるというのは、どうヒイキ目にみても脳ミソ膿んでるとしか思えないのだ。もちろん人間もケダモノであるから、その性欲を否定するものではないが、かといってそれのみで生きているわけでもない。本気で性欲を解消するための相手が欲しいのなら、実生活でそれなりの「努力」をしなきゃ相手は得られるものではないし、興味本意で覗いてみたくなるとしても、そのリスクを考えればちょっとアブナイかも、という判断が浮かんできてもよさそうなものである。それが浮かばないんだったら根っからの馬鹿だし、浮かんでも「やっちゃった」んだったら、こりゃもう性欲が脳内犯しきってて、実際に性犯罪犯してもおかしくない域にまでイッちゃってるんじゃないか、という気がしてならない。 もしかしたらこういうメールって、世間に埋没してる性犯罪者予備軍をピックアップしようとするケーサツの一大プロジェクトなんじゃないか(^o^)。こういうメールに返事をした人間だけをチェックして、こっそりリストなんか作ってるんじゃないか、とかね。 もちろん、これは妄想なんだけれど、実際にやったら「効果」は上がりそうな気はするなあ。
2003年06月11日(水) 夢の中のもどかしさ/『ガゥガゥわー太』5・6巻(梅川和実) 2002年06月11日(火) 有久家の崩壊……直前?/『パタリロ西遊記』4巻(魔夜峰央)/『くらたまのお蔵だし』(倉田真由美)ほか 2001年06月11日(月) 誰だってどこか変なんだし/『ぶたぶた』(矢崎存美)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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