無責任賛歌
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| 2003年10月06日(月) |
追加日記5/『名探偵コナン スーパーイヤー2時間スペシャル/集められた名探偵! 工藤新一vs怪盗キッド』ほか |
早く帰宅するつもりが、居残って職場のパソコンのミスの処理を頼まれる。 何とかやっつけたけれど、専門外の仕事である。頼んできたのは例によって例のあのひとなのであるが、そんなに頼りにされても困るんだって。ああ、胃が痛い。
帰宅して、『名探偵コナン スーパーイヤー2時間スペシャル/集められた名探偵! 工藤新一vs怪盗キッド』。2部構成の2時間スペシャルで、前半第1部は『まじっく快斗/ブラックスター編』だったそうだが、居残りのため見られず。 第2部は、原作でも評判が高かったらしい怪盗キッドとコナン、日本の有名探偵達が対決する「黄昏の館」編。以前やってたような気がしてたが、調べてみたらやっぱり再放送だった。本放送は2年前で私も見逃してたから、見られたこと自体は嬉しいのだけれど、一見豪華なようでいて、やっぱりそう面白いエピソードではない。名探偵をたくさん登場させているように見えて、キャラクター造形が薄っぺらいから、知的興奮もないしドラマとしてもまるで盛りあがらないのである。千間降代はミス・ジェーン・マープル(アガサ・クリスティー作)、槍田郁美はジョン・ソーンダイク博士(オースチン・フリーマン作。なんで女になっとんねん)、大上祝善はネロ・ウルフ(レックス・スタウト作)、茂木遥史はハンフリー・ボガード(って探偵じゃないじゃん。確かにサム・スペードやフィリップ・マーロウを演じてるけど)のそれぞれモジリだけれども、どいつもこいつも元ネタを知らなきゃ全然名探偵っぽい行動をしない。頭数だけ揃えてもねえ。それと声優さんで犯人がわかるようなキャスティングはどうかと思うぞ。
高橋留美子劇場、今週から『人魚』シリーズ。第1話は『人魚は笑わない』だったが、まあ、絵の調和は取れているものの、演出がどうもありきたり。原作発表から、随分時間が経っているのだから、新しいファンを掴むためにももちっと斬新な演出が必要じゃないかと思うんだけどな、深夜アニメを見ようってのはかなりなオタクじゃなきゃそうそういないと思うし。
ネットを散策してたら、しげが、人サマの掲示板で暴れているのを見付ける。全くしげときたら、いろいろとネタを提供してくれることである。 この件についてはもう触れる気もなかったが、表にこんな形で出された以上は、私たちのことを心配してくれる人たちもいるので、差し障りのない程度に事情を簡単に書いておく。ただもう具体的な名前は出さない。出さないと勝手にこれは「あの人たち」のことだろうと見当違いの憶測をされることもあるので、本当は出したほうがいいのだが、「あの人たち」にまたウラでいかがわしいことをされても迷惑なので、分かる人にだけは分かるように書いておくのである。 結論を言えば、我々夫婦はある人たちから卑劣なダマしを食らったのである。ただそれはそれでその人たちと縁を切ればそれですむ話なので、私はそれですませるつもりだったのだが、しげはどうにも業腹だったらしい。 けれど、勝負をしかけたところで何の益にもならないことは歴然としている。もともと「勝ち負け」の問題ではない。二枚舌を使いたい人間には使わせておけばいいではないか。未だにあの人たちの嘘八百に騙されている人たちもいる様であるが、だからと言って、誰が誰をどう騙しているかなど、いちいちその人たちにご注進する義理も感じてはいないのだろう。だったら構うな。それであの人たちは幸せなのであるから。
マンガ、CLAMP『ツバサ』1巻(角川書店) 絵柄がまた変わったなあ、と思っての衝動買い。『×××ホリック』とのリンクコミックであるが、異世界ものも食傷気味だし、さて、これがヒットするものかどうか。
2002年10月06日(日) 再見、東京/『ガンダムSEED』第1話ほか 2001年10月06日(土) 新番……第何弾だよ/『星のカービィ』第1回/『ヒカルの碁』(ほったゆみ・小畑健)14巻ほか 2000年10月06日(金) 詳しくはコメディフォーラムを見てね
| 2003年10月05日(日) |
追加日記4/『映画に毛が3本!』(黒田硫黄)ほか |
アニメ『鉄腕アトム』、いよいよ青騎士登場。それに合わせてオープニングも変わったけれど、なんかチラチラして見難い。悪役四天王がアセチレン・ランプ、ハム・エッグ、七色いんこ、スカンク草井ってのは、原作を相当改変することを予告してるみたいで、あまり嬉しくない。話変えても面白くならないってこと、これまでの流れで見えちゃったしなあ。プルグ伯爵出ないんじゃなあ。
今日の練習は、参加者が少ないので中止とのこと。 先に出かけてたしげを追っかけて、バス停までは出かけてたのだが、しげから連絡があって「来んでいいよ」と来た。なんかそれじゃせっかく出ただけの甲斐がないので、スーパーに寄って食料の買い込み。 スパゲティにウィンナーを混ぜただけで、しげはホクホク顔あるが、普通に和食を作っても、和食嫌いのしげは全然食ってはくれないから、あまりうれしかないのである。
エドワード・ゴーリー『うろんな客 ポストカード』(河出書房新社・924円)。 ポストカードだけれども、オリジナル版の絵は全て収録されている。載ってないのは柴田元幸氏の訳だけ。原文はゴーリーらしく韻を踏んだ楽しいものだけれど、それを柴田さんは「風強く 客もなきはず 冬の夜 ベルは鳴れども 人影皆無。ふと見れば 壺の上にぞ 何か立つ 珍奇な姿に 一家仰天。」てな感じの短歌形式で訳していた。なかなか面白い趣向だけれど、訳が分かり難くなってしまっているのが難点のように思える。でも、日本語訳したときに韻を踏ませることはほぼ不可能に近いことを承知の上でこういう試みをしたこと自体には敬意を表したい。他の作品の柴田さんの訳は、カッコつけが多くて意味が取りにくく、今一つな印象が強いが、これはそのカッコつけがよい方向に作用していて一番面白い。「doubtful」を「うろんな」と訳しているのも上手い。私が最初に出会ったゴーリー作品がこれだったが、他の翻訳作だったらそれほどファンにはなっていなかったかもしれない。 以下に拙訳をご紹介するが、韻はやっぱりうまく踏めなかった。
The Doubtful Guest by Edward Gorey 「うろんな客」エドワード・ゴーリー 1 When they answered the bell on that wild winter night, There was no one expected−and no one in sight. それはその年の冬のこと、激しい嵐の夜だというのに玄関の呼び鈴が鳴ったものだから、家族は表に出ていった。けれどもみんな、思いもよらなかった。――まさかそこに誰もいないとは。 2 Then they saw something standing on top of an urn, Whose peculiar appearanse gave them quite a turn. 振り返ると、ツボの上に何だか生き物っぽいものがちょこんと立っていた。そいつの見てくれがあんまり奇天烈だったものだから、家族はすっかり肝をつぶしてしまった。 3 All at once it leapt down and ran into the hall, Where it chose to remain with its nose to the wall. そいつは、やにわに飛び降りると、大広間にパタパタと駆け込んで行った。そこでそいつは、壁に鼻をぐいと押しつけたまま、てんで動かなくなっちまった。 4 It was seemingly deaf to whatever they said, So at last they stopped screaming, and went off to bed. そいつは、家族がどんなに声をかけても、うわべはまるで耳が聞こえないってフリをしていた。だもんで、とうとう家族は叫び飽きて、もう寝ちまおうってことになった。 5 It joined them at breakfast and presently ate All the syrup and toast and a part of a plate. そいつは、朝食になったらちゃっかり家族に混じって、アッという間にシロップを塗ったトーストを全部と、皿を何枚かぺろりと平らげちまった。 6 It wrenched off the horn from the new gramophone, And could not be persuaded to leave it alone. そいつは、新品の蓄音機の拡声器をしゃにむにもぎ取ったかと思うと、どんなに返すように説得しようと聞き入れようとしなかった。 7 It betrayed a great liking for peering up flues, And for peeling the soles of its white canvas shoes. そいつは、煙突の中を下からじっと見上げるのが大好きだったみたいで、もう一つの趣味は、自分の履いてた白いズックの靴底を剥がすことだった。 8 At times it would tear out whole chapters from books, Or put roomfuls of pictures askew on their hooks. たまにそいつは、本のページを全部びりびり破いていた。またある時は、部屋中の絵を全部、フックに斜めに引っ掛けてたものだった。 9 Every sunday it brooded and lay on the floor, Inconveniently close to the drawing-room door. 日曜日になるとそいつは決まって落ちこんで床に寝転んだ。おかげで応接間のドアが開かなくなって、とんだ迷惑。 10 Now and then it would vanish for hours from the scene, But alas, be discovered inside a tureen. 時々そいつは、何時間も姿を消していたんだけれど、嘆かわしや、見つかったのはキャセロール鍋の中だった。 11 It was subject to fits of bewildering wrath, During which it would hide all the towels from the bath. そいつは、突発的な激情に取り憑かれてイカレちまったのか、ずっと風呂場のタオルを全部隠しちゃったこともあった。 12 In the night through the house it would aimlessly creep, In spite of the fact of its being asleep. 夜ともなるとそいつは屋敷の中をあてもなくフラフラと徘徊した。眠っているのはハッキリしてたんだけれど。 13 It would carry off objects of which it grew fond, And protect them by dropping them into the pond. そいつは、自分の気に入ったものを勝手に持ち出しては池の中に落として保管してる気になっていた。 14 It came seventeen years ago -- and to this day It has shown no intention of going away. それから17年が経った。――で、今日ただ今、そいつがどこかに出て行っちまったかというと ―― 実はまだここにいるのです。
最後はつげ義春の『李さん一家』である。まあねえ、誰でもこう訳したくなるだろうけれど、私もその衝動に逆らえませんでした(^_^;)。 「うろんな客」は「子供」のアナロジーだとか。イメージは5歳くらいか? でも17年が経てば22歳くらいになってるだろう。それでもまだスネカジリってのは、親もなかなか大変なことである。でもこういう「解釈」はあまり面白いものではない。それよりも、読者の誰もが恐らくはこういう「うろんな客」に関わっていることだろうことを想起して、微苦笑されればよろしかろうと思う。
黒田硫黄『映画に毛が3本!』(講談社・1260円)。 タイトルは「毛が三本足りない」という意味か、はたまた『オバQ』からか(『オバQ』が絶版なのもそのせいじゃあるまいな)。マンガ家、黒田硫黄氏が『ヤングマガジンアッパーズ』に現在も連載中の映画批評マンガコラムを集めたもので、たった1ページしかないのにその映画のエッセンスを見事に伝えていて、最近の映画批評本の中では群を抜いて面白い。 私はプロの映画評ってのは基本的にあまり信頼しないのだが(しがらみだの何だので不当に誉めてるものが多いから)、黒田さんの視点は意外と言っては失礼だが、該博な知識に支えられていて、それが静かな筆致の中に結構キツイヒトコトになって表れていて、「読ませてくれる」のである。もちろん、私と見方が必ずしも一致するものばかりではないが、それは「映画に何を見るか」の視点の違いに過ぎないので、腹立たしくはならないのだ。半可通のエセ批評とはワケが違うのである。いくつか印象に残ったものをご紹介する。 『仮面の男』の20対4の乱闘シーンについて、「マキノ映画なら200対4とかだろうに」とサラリと書いてるけど、これが書ける人ってあまりいないんだよなあ。最近の若い映画オタクがウスくなってるからって、これくらいのセリフが吐けないようじゃ、ファン同士で、会話自体が成り立たないのである。ただ、「どのマキノ?」とかワザと聞いたりする人もいるけど、そういうのはイヤラシイのでご注意。硫黄氏のヒトコト批評「本作の教訓」は、「兄弟は仲良く。」で、これも笑えた。三銃士ものって印象があれだけ希薄な三銃士映画もなかったものなあ(マイケル・ヨーク主演の『三銃士』を見た後でコレを見ると、すげえ違和感覚えると思う)。 ミリタリーオタクであることを公表しながら、『プライベート・ライアン』について、「何の感想も抱けない。完全に圧倒されてるから感動」とかエラい皮肉をぶちまけてくれているのも善哉(このとき、硫黄氏が杉浦しげる手をしているところもポイントね)。オタクの映画評というのはかくありたいものである。「本作の教訓」は、「本当に本当に本当に、戦争が好きなんだなスピルバーグは。」(^o^)。 高畑勲の『ホーホケキョ となりの山田くん』を誉めてる人というのを滅多に知らないが、実は私もまた硫黄さん同様、「ケ・セラ・セラ」のシーンで泣いた口だf(^^;)(唐沢俊一さんは「高畑勲は原恵一のツメの垢を煎じて飲め」とまで言ってたなあ)。硫黄さんは本作を「これが映画だ」とまで言い切る。「これみよがしの情熱よりも、かくされた人生の秘密を見るものの心に打ちこむ」とも。それがまさしく高畑勲の描きたかったものであろう。硫黄さんの批評は正鵠を射ている。高畑勲、以って瞑すべしか。「本作の教訓」は「映画は見るまでわかんない。」見てもわかんなかった人は多いと思うけど。この映画の不幸は、「いしいひさいち原作である必要がない」という点に尽きると思う。『うる星やつら』における『ビューティフル・ドリーマー』みたいなもんか。 硫黄さんのバランス感覚がいいな、と思うのは、『アイアン・ジャイアント』評にも現れている。ホガース少年がアイアン・ジャイアントに「君はスーパーマンになれ」と語るのを「洗脳」と断定し、「ゴーマン」と批判しながら、しかしそれがアメリカの「文化」(ご承知の通り、スーパーマンは“Truth, Justice and the American Way”のために戦っているのである)であることを認めて、我々日本人がその文化を失ってしまっていることを指摘するのだ。善悪の判断は別として、そういったアメリカの「美しさ」を評価するのは、硫黄さんが「文化」の本質を理解している証拠だろう(日本人にも文化がないとは思わないけれども、殆ど無意識化してるから、それを意識化させる作業がすごく難しいのである。一歩間違うと右翼と勘違いされるしね)。「本作の教訓」は「I Love スーパーマン」。 硫黄さんが唯一苦しそうだったのは、『千と千尋の神隠し』。宮崎駿に『茄子』のオビを書いてもらったという恩義がある。一旦は「この面白さがわかる奴は本物だ」と看板を立てるのだけれど、それをすぐ片付ける(^o^)。でもそのあと「名前を奪われるイミがわからない」「千尋が両親についてどう思ってるのか知りたかった」「千尋がどんな子かわからないのでいまいち好きになれない」「仕事についてもっとやってほしかった」「千尋は他人の善意によっかかってるだけにも見える」と、批判が連発。結論は「イミわかんないけど面白そうに見せる」というどっちつかずなもので、硫黄さん自身も現在のコメントで「揚げ足取りでまずかった」と反省している。イミわかればつまんなくなると思うけどな(^o^)。だから批評に私情は禁物なんである。 しげもいつの間にかこの本を読んでいたが、数ある映画批評本の中で(と言っても大して読んじゃいないだろうが)、これが一番読みやすくて納得が行くと言う。『ボウリング・フォー・コロンバイン』評で、「マイケル・ムーアがヘストンの家に銃撃被害者の写真を置いていくのは単なるいやがらせ」と書いてるのにえらく共感していた。硫黄さんもいかにも「偽善」嫌いな感じだから、そこがビビッと来るのかもしれん(^o^)。
2002年10月05日(土) 東京曼陀羅/「ミステリー文学資料館」ほか 2001年10月05日(金) 新番第4弾/『クレヨンしんちゃんスペシャル』/『化粧した男の冒険』(麻耶雄嵩・風祭壮太)ほか 2000年10月05日(木) ちょっと浮気(?!)とSFJAPANと/『荒野のコーマス屋敷』(シルヴィア・ウォー)ほか
| 2003年10月04日(土) |
追加日記3/『少年名探偵 虹北恭助の冒険 高校編』(はやみねかおる・やまさきもへじ) |
漏れ聞いたところによれば、東京都特別区給与広報の発表で、公務員の平均年収が約700万円(平均年齢 40歳)なんだそうな。 この不況の中、まだそんなに貰っているのかと正直オドロキである。下世話な話はあまりしたくないが(今更)、私の年収より○百万も多いんだよ(○は「2」以上(T∇T))。ウチんとこ、もう実質5年も昇給してないんだよなあ(私の業績が悪いからということではなく、全社員がそうなのである。ボーナスも今年からまたまた削減。これを「ジリ貧」と言わずして何と言おう)。 一般サラリーマンの平均年収は、年々下がり続けている。厚労省の調査によれば、1997年のサラリーマンの平均年収は613万円だったのが、昨年は576万円になっている。一年あたり、およそ八万円ずつ落ちこんでいった計算になる。その調子で今年も下降線を辿るなら、景気は回復していると言われつつも実際には周囲でそんな兆候のまるで見られぬ今年は、恐らく560万とちょっとの額にまで下がってしまうことだろう。ここまで公務員との給与の差が開いていると、絶対アイツら、ウラで何かやってるよな、と邪推したくはなる。 バブルのころは一般サラリーマンにとっても700万なんて、屁でもない額だったと思う。40代で年収1千万、2千万なんてのは普通に聞いていたし、私もいつかはそんな風に余裕のある生活ができるかと何となく夢見てもいた。酒もタバコもやらないし、ちょっとばかし本やDVDにゼニ注ぎこんでも(ちょっとか?)、まとまった貯金がある程度は作れようと計算していたのである。結果は全く、とんだ取らぬタヌキであった。 安月給を嘆いたところで、実際客が減ってんだから仕方がないし、私は上見て暮らすのも下見て暮らすのも性に合わない。楽じゃないって言ってもローンに追われたり夜逃げするほどではなし、誰かを羨んだりするのはただのヒガミで、不遜というものだ。 ……とりあえず今度の冬のボーナスはあまり使わずに取っておくことにしよう(^_^;)。
今日から始まった“実写版”『美少女戦士セーラームーン』。ちゃんと早起きして見る(^o^)。 昔、アニメが始まった時にはもうそのぶっ飛んだセンスにのけぞっちゃったものだが(と言うより、最初は『スケバン刑事』ファンタジー版にしか見えなかった)、こいつがギャグではなく大マジメであることにまたビックラこいて、更には慣れた(^_^;)。で、今回の実写版であるが、アニメが終了した後も、ミュージカル版が定期的に公演され続けていてCMなどを何度となく目にしていたこともあって、金髪だの青髪だのってカツラにも、あんなコスチュームじゃかえって動きにくいんじゃないかって点にも、今や全く違和感を感じなくなっている自分がテレビの前にいたのである。 脚本は、平成『サイボーグ009』ヨミ編の小林靖子。原作の味を損なわない程度の適度なアレンジは『セーラー』についても如何なく発揮されていて、ルナが猫のヌイグルミ、という設定などは実写とアニメの架け橋としてはなかなかうまい発想である。もっともこれが小林さんの発案なのかどうかはわからないが。
ある日、中学2年生の月野うさぎ(沢井美優)は、登校中に、額に三日月マークのある猫のヌイグルミがどこからともなく落ちてきたのを見つける。うさぎは不思議に思うが、その場はそのまま通り過ぎてしまう。しかしその夜、そのヌイグルミはうさぎの枕元に現れて「ルナ(声・藩恵子)」と名乗った。ルナは、うさぎが実は月のプリンセスを守る戦士「セーラームーン」で、悪の組織「ダーク・キングダム」と戦う使命があるのだと伝える。 そしてダークキングダムの女王、クイン・ベリル(杉本彩)は、配下の一人・ジェダイト(増尾遵)を地上に送りこみ、新作ジュエリー発表会の会場に集まる人々からエナジーを奪い取ろうとしていた。ジェダイトが操る妖魔は、その発表会の主宰者で、うさぎの親友・大阪なる(河辺千恵子)の母親(渡辺典子)に取り憑き、体を乗っ取った。凶暴化し、なるに襲いかかるお母さん。 月の戦士であることに目覚めたうさぎは、会場へ向かい、ルナから渡された携帯アイテムでセーラームーンにメイクアップ(変身)。見事に妖魔を倒し、なるとお母さんを救う。ところが油断したうさぎにジェダイトが襲いかかる。そこに突然颯爽と現れて彼女を助けたのは、謎の人物、タキシード仮面(渋江譲二)だった……。
原作の方でもアニメの方でも、セーラー戦士中、一番人気は亜美ちゃんだったから、月野うさぎを演じることは、役者としてはちょっと損なのである。役柄を考えてみても、ドジだしワガママだしそのくせ実はヒロインで守ってもらえるし、憧れるファンもいる反面、「何であの程度の子が?」なんて反感持つファンも多い。更に、実体を持ってると、もともと「月野うさぎ」というキャラクターのファンですら「うさぎちゃんのイメージと違う!」なんて、気持ちはわからんでもないが、明らかに自我肥大かつ成長不全な文句をつけるヤツも出てくる可能性がある。下手すりゃ一昔前の悠木奈江みたく、「四面楚歌」って感じにもなりかねないので、あまりひど過ぎる演技になってなきゃいいけど、とか勝手に心配していた。 実際に見たところ、演技経験はあまりないようだが(まだ15歳だし、グラビアアイドルから始めてるみたいだから当然か)、ともかく元気なのがいい。さほど臭みがないので、これならあまり嫌われずにすむのではないか。 ゲストが渡辺典子だったり(ついにお母さん役を演じるようになったんだなあ)、桜田春菜先生役が大寶智子だったり、脇をベテランでしっかり固めてるあたり、ちゃんと若いヒロインたちを育てていこうという姿勢は基本的にありはすると思うのである。つーか、東映、今までが自分とこのヒロインを大事にしなさ過ぎてるからなあ。もう少しヒロインが引き立つ脚本家だったらとか、もちっと魅力的に撮れよ監督とか、スタッフの力不足によるところが大きいんだけど、最近は随分改善されてきてるから期待したいんだけどね。弱肉強食の世界ったって、ちゃんとエサやりゃ共食いする必要もないんだから、ハタチ過ぎるころまでに「演技のできる」女優さんたちに育てなさいよ、ぜひ。
CS日本映画専門チャンネルで、『A』を見る。 監督は『放送禁止歌』の著者でもある森達也。 例のオウム真理教事件のドキュメンタリーだけれど、事件関係者が殆ど逮捕されたあとなものだから、危険な雰囲気が殆どない。むしろオウムを糾弾しようとする市井の人々の方がヒステリックで狂気じみて見える。 実際、オウムの「狂気」などは人間なら誰にでも介在するもので、躍起になって否定するのはおかしいのである。事件当時、やたら「理解不能」を口走る識者は数多かったが、シンパシーを少しでも感じたら糾弾の矛先がすかさず自分に向くことを恐れて保身を図ったとしか思えない。山崎哲みたいに犯罪自体を擁護するように聞こえる言質を弄するつもりはないが、私は事件の真相が一枚一枚剥がされるたびに、「この程度の犯罪だったのか」という印象が強くなっていて、世間が騒然とするほどの大事件とは思えなくなってしまっている。 いや、大事件は大事件なのだが、犯人たちが自分たちのやってることの重大さに気づいてない、ひどく発育不全なメンタリティしか持ってないってことに対して、「幼稚な犯罪」と呼びたいのである。事件当時も空気清浄機に「コスモクリーナー」って名付けてた時点で、「こいつらただのバカだ」としか思えなくなっちゃったからなあ。 つまり、世間がオウムを叩いてしまうのは、自分の中から消えることのない「幼児性」を刺激されてしまうからで、理性のタガが外れりゃ、普通の人だって規模は小さいにしてもオウム的な犯罪はやってしまうものなのだ。それを認めたくないから叩く。みんなで叩けばそれは「正義」となる。どんなにヒステリックに叫ぼうと、誰もそれを止めなくなる。これって、まんまイジメが横行する心理構造の一つ(イジメてる方はそれが「正義」と信じこんでいる)に当てはまってるのだけれど、どう思いますかね。言っとくが、この「イジメ」の心理は事実として相手が罪を犯しているかいないかってこととは関係ないのだよ。関東大震災の時の朝鮮人虐殺の心理もこれと同じなんだから。 だいたい識者も何か事件が起こるたびに「前代未聞」「理解不能」「空想と現実の区別がつかない」と常套句を繰り返すが、これだけ事件が頻発していて、未だに犯罪者の心理についてそんな浅いことしか言えないのなら、オウムなみにただのバカとなじられても仕方なかろう。想像力が欠如してる人間に評論家とか心理学者なんかやらせとくなよ。 このドキュメンタリーは、オウムに密着取材していながら、その周辺の「普通の人々」の内包する狂気をも反作用的に描出することに成功している。それはつまり「私たち」もまた「狂っている」という「事実」の指摘だ。狂気から脱却してコミュニケーションを行うためにはまずその事実を認めたところから始めるしかないんだけれど、世の中みんな「狂気」の中に閉じこもっていたい人ばかりだからねえ。これからも何か事件が起きるたびに、人は「信じられない」とか「あんな残虐なヤツと自分は違う」とか、「自分だけ」の妄想の中に「みんなで」入りこんで安心するのだろう。そうして「共同幻想」はあたかも事実である歌のように培われ、流布していく。でもそれって「幼稚な犯罪」を擁護し、育てていることと同じなんだけどね。
マンガ、はやみねかおる原作・やまさきもへじ漫画『少年名探偵 虹北恭助の冒険 高校編』(講談社/マガジンZKC DX・500円)。 はやみねさんの『虹北商店街』シリーズのマンガ化だけれど、既に発表されている原作をそのままマンガにしたのではなく、ちゃんと小説版の続きになっていて、しかも今のところこれがシリーズの「完結編」的な趣きになっている(今後も新作長編が発表される予定だが、それはこの『高校編』よりも時間的には前に起こった出来事という設定)。 小説は読むけどマンガは読まない、という人も(世の中にはそういう奇特な方もいるのである)、これだけは読まねばなるまい(もっともこのマンガもノベライゼーションされてるそうだが)。 作画を担当したのは、当然、講談社ノベルス版のイラストも描いてるやまさきさん。挿絵の方ではさほど気にならなかったけれど、この人の絵、時々ことぶきつかさなみに歪むねえ(^_^;)。でもそのせいもあるのか、キャラクターがみんな小説版の三倍増しで色っぽくなってるね。小説版のときは小学生・中学生だからマンガ版より色っぽくても困ろうが。 『虹北ミステリー商店街』『幽霊ストーカー』『江戸川乱歩賞と暗号』『人消し城伝説』『Good Night, And Have A Nice Dream』の6話を収録。 どれもミステリとしてよりも、恭助の飄々としたキャラクターで読ませるエピソードが多い。彼は天才過ぎて(^o^)、ポアロや金田一耕助みたいにしょっちゅう推理を間違って読者を右往左往させてはくれないのである。だもんで、あまり「動き」がない。そこでヒロインの野村響子ちゃんがやたら事件に巻きこまれるというカワイソウな目に遭うのだけれど、今巻ではそれに加えて、自称・恭助のライバル(サーペントのナーガかい)沢田京太郎が程よく事件を香ばしくしてくれている。大金持ちで尊大、自意識過剰ってキャラはちょっとベタ過ぎって気はするけれども。 フランス人、ミリリットル真衛門と妹の美恵留、どうやら次に上梓される「フランス編」で先に登場しているらしいけれど、真衛門はまんま『一休さん』の蜷川新右衛門的キャラクターである。ロリコンには激萌えであろう(^o^)美絵留も、響子と恋の鞘当てを演じるのは定番で、意外性がない。けれど、定番だからこそ、もっとじっくりといくつものエピソードを重ねて、ドラマに深みを持たせてほしかったと思う。たった1巻ではやっぱり物足りないのである。 毎回、恭助と響子の淡い恋心がすれ違うようなってな展開はちょっと気恥ずかしいし、トリックはミステリとしても初歩的で、読み応えはあまりないけれど、動機不在、無意味な暗号、無理な殺人事件が毎回起こるような某ミステリマンガに比べりゃはるかにマシである。小学生に読ませるならこっちのほうがずっといいと思うが、はやみねさん、週刊誌連載用の原作までは書いてくれないだろうなあ。
マンガ、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』6巻(講談社/講談社コミックスキス・410円)。 もう6巻まで読んでると思ってて、読み返そうとふと手に取ってみたらまだ読んでなかった。最近こういうことが増えている。昔読んだ本を読み返したり映画を見たり、こうして日記をつけたりするのも、ある意味ボケとの戦いみたいなものだが、ムリに戦わずに自然にボケに任せるのもいいかとも思い、でもあまりボケすぎて老後あちこちに迷惑掛けるよりはその前にポックリいきたいとも思い、なんか複雑である。どっちにしろ人は望むとおりの死を迎えることはできないと誰ぞが言うとったがその通りであろう。
6巻まで来て、のだめももう4年生。のほほんと続いているだけに見える(失礼)このマンガも、ちゃんと時間が経っていたのだねえ。 物語展開自体は実は結構ハードなのである。その才能が少しずつ世間に知られ始め、注目されるようになる千秋真一。指揮者への夢は捨て切れず、しかし進学するのはピアノ科。海外留学も飛行機恐怖症のために不可能。千秋の実家の複雑な人間関係も明かされる。 けれどやっぱり印象に残るのは登場するヘンな人々の群像。何と言っても新登場の音楽評論家、ポエム喋りの佐久間学の存在感が圧倒的だ。 「この大海原のはるかポセイドンが司る黄金の島に眠った高貴なる芸術の至宝がきみに微笑みかけている ああなぜきみは漕ぎ出さんとしない? 今まさに神に愛された楽聖の航海は始まらんとしているのに……!」 ……まあ、実際こういう文章を衒いもなく書ける人はいるわけである。もちろんそういう人には世間の偏見と立派に戦ってマイ・ウェイを突き進んで頂きたいのだが、頼むから私の近くには寄って来ないでほしいのである。「この詩、どう思いますか?」とか言って。 いやまあ私の個人的な事情はどうでもいいのであるが、この詩を考えたの、作者の二ノ宮さんではなくて担当の編集さんだそうな。いい編集さんだなあ(^o^)。 千秋とのだめが演奏するエドワード・エルガーの“sonata for Violin and Piano in E minor, Op82”、どんな曲か知らなかったので(と言ってもエルガーの曲って『威風堂々』くらいしか知らないが)、CD版『のだめカンタービレ』に収録されているかと思ってアマゾンコムで調べてみたが、残念ながら未収録とのこと。このCD、レビューでは「寄せ集め」とか貶されているけど、シロウトには寄せ集めの方がありがたいのである。なんたって何から聞きゃいいかわからないからね。
2002年10月04日(金) 前日の嵐/DVD『あずまんが大王【1年生】』/『HUNTER×HUNTER』15巻(冨樫義博) 2001年10月04日(木) 新番第3弾……いつまで続くのよ/『おとぎストーリー 天使のしっぽ』第1話ほか 2000年10月04日(水) 止まる息とふらつく自転車とドロドロと/『本気のしるし』1巻(星里もちる)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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