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エリック・カールというと、有名な絵本『はらぺこあおむし』があるおかげで、この作品は知らないままできた。読み聞かせにも使われるそうだが、自分の楽しみのために暗誦していたいような物語である。かりに絵がなくても、イマジネーション豊か。ということは絵本としての一体感がなくても楽しめるということでもあるが。
物語を書いたマクレーランのことを、もっと知りたい。文化人類学者で、本作が初めての絵本の仕事だという。「一人類学者としての夢を描いた」と見返しに書いている。
草木一本生えない寂しい岩山が、立ち寄った一羽の小鳥と友だちになる。そして、小鳥のジョイは、そこにとどまるかわりに、代々、娘の一羽をジョイと名付け、訪れることを約束したのだった。やがて時が流れ、小鳥のおかげで、山は姿を変えてゆく。
山と小鳥の関係は、もしかしたら自然の営みのなかでも、起こりうるかも知れない。小鳥は実際に種を運び、土地を植物で豊かに変えるのだから。幼い空想のなかでも、自然に理解できるファンタジーだろう。しかし出会いと別れを知る大人は、小鳥が与えつづける「約束」や「情」や「他者のための時間」によってもたらされる深い変化に、「無償の愛」を思わすにはいられないだろう。
「わたしはジョイ」そう歌いながら帰ってくる、最初のジョイと同じ姿の小鳥。ジョイと山の関係を見ていると、C・S・ルイスが人生の半ばを過ぎて出会ったパートナー、ジョイを思い出してしまう。彼がずっと「ジョイ」(よろこび)を夢見ながら、長い孤独な日々を送っていたことを。 (マーズ)
『ことりをすきになった山』絵:エリック・カール / 文:アリス・マクレーラン / 訳:ゆあさふみえ / 出版社:偕成社1987
2003年05月23日(金) 『とびきりお茶目な英文学入門』
2002年05月23日(木) ☆いまもって、夢の本屋さん。
アイダホのものすごい奥地に、山々に囲まれた、行き止まりの村がある。 ケイト・ナイチンゲール(!)は、平和だったはずの、その名もトレイル・ストップでB&Bを営んでいた。しかしある日、村はマフィアの手先によって包囲され、銃撃が始まった。ケイトたちは巻き込まれた、生死のかかったサバイバルと、最強のロマンスに。
「アヒルのように大きい上唇」も魅力のひとつである未亡人のケイトは、双子を連れてこの村へ移り住んだ。登山が趣味で、ここには夫とも旅行で訪れたことがあった。都会よりも女性が独りで収入を得るには暮らしやすくて、4歳の元気な男の子たちにとってもいい場所だと、移住を決断したのだった。
村には便利屋の男がいた。カル・ハリス。ケイトにはほとんどものを言わないし、会えばすぐ赤くなってしまうが、双子にとってはあこがれの存在。実は元海兵隊員、しかも部隊屈指の底力をもつ戦士。出会って3年にもなるというのに、仕事と子育てに追われるケイトはカルを男性として見ていなかった。が、しかし。凶悪で無茶苦茶な事件によって、すべてが逆転し、そのなかには二人の関係も含まれていた。
マフィアの裏切り者が持ち出したデータを奪うために、橋を落として村全体を封鎖し、孤立させるという乱暴さは、リスクを考えれば確かにおかしい。が、敵にだってバカ者もいれば、裏切り者もいる。村人は村人で、町の大人しい連中とは違う強者ぞろい。そういう設定だから、情況的にはハードなんだけれど、全編、リンダはかなりの笑い爆弾を散りばめている。最後の一行も、ちょっと映画的で、よく効いた。
これまで女王リンダの描くヒーローは、長身でマッチョで、やたら目立ちまくるという外見的特性が必須だったのだが、今回はちがう。というか、実際はかなりのタフガイにもかかわらず、3年間もの間、カルがケイトの目に、やせて目立たないシャイな便利屋として映っていたというのが、いつもとちょっとちがっている。見ようとしなければ、そんなものなのかもしれない。ともかく、ケイトの世界はひっくり返った。あるとき急に間仕切りのスクリーンが上がって、隣にいる人物が好ましい男性だったと知らされるのは、ちょっとした衝撃である。
並行して進むもう一組のロマンスがある。カルのいた部隊でかつて隊長をつとめていた、村の山岳ガイド、クリードと、ケイトの友人である元修道女のニーナ。どちらのカップルもそうだけれど、相手を気づかうということさえできれば、たいていのことは大丈夫じゃないかと思わされる。言葉が必要でない場合のサインも含めて。
今回悪役のひとりとして登場したゴスという男、ひょっとしたらまたどこかで?と思わされる憎めないところもある。リンダは今まで悪役を使い回したことはない(死んでしまうからだろうが)と記憶しているが、新しい試みもありうるかもしれない。ある意味、ゴスは正義の人であり、二組のカップルにとって愛の天使でもあったわけだし。(マーズ)
『夜を抱きしめて』著者:リンダ・ハワード / 訳:加藤洋子 / 出版社:二見文庫2007
2004年05月19日(水) 『しゃばけ』
2003年05月19日(月) 『裏切りの刃』
傷を負った(とあえていう)女性たちの体が、モノクロームの写真となって連続する。 顔は見えない。傷そのものがモデルとなっているのだから。
「キズアトの女神」と作者は呼ぶ。かくいう私も、ときどきではあるが、傷のことを考える。左手の親指のところに、自分で付けてしまったリボンみたいな形の傷があるからである。それが左手だからなのか、左手のほうが右手にはない非日常性を秘めているように感じていた。あまりにも古い傷だけに、傷がなかったときの左手を思い出せないし、その瞬間の燃えるような痛みは覚えているが、してはいけないということをしていて負ってしまった、誰の責任でもない刃物傷なのである。
実際、体に傷のまったくない女性は少ないのかもしれない。大きな手術跡ではなくても、皆どこかしら目に見える傷も抱えている。目に見えない傷とはまたちがった意味を持つ、体の傷。しかし、大人になると、人は無遠慮に傷のことをたずねたりはしなくなる。その手はどうしたのかと聞かれなくなってもうずいぶんたつ。自分自身にとっては、それはそこにあるものであり、美しい手のモデルにはなれないけれど、隠さねばならないものではない。
前置きが長いけれど、服の下に隠れている傷は、個人的な場面でしか姿を見せない。モデルの肌の多くは、傷を負ってから数年以上の時間が過ぎたことを思わせる。その体に同化し、体とともに形を変えてゆく傷あと。好むと好まざるとにかかわらず、離れることはできないのだ。
かつてピアスを開けて知ったことは、それが「親からもらった体に傷を付ける」のではなく、自分の体をいつくしむ行為なのだということ。もちろん、自分で付ける傷と、他者によって暴力的に受けた傷とは受けとめ方が異なるが、傷を負うことで生きられる場合もある。何点か見られる心臓の手術跡も、まさに命の代償としての記憶なのだ。出産の傷もまた、命と深く関わっている。
そして多くの小さな傷は、肌のうえに残らず消えてゆく。ふと見ると、ずいぶん長いこと残っていた、かつて友人が飼っていた猫の歯型も、すでに見えない。見るたびに思い出すことができた猫の姿は、ごくたまにしか現れてこない。
写真のなかには、ほとんど傷あとの見られない手もある。あるいはこれだけが作者の手なのか、どうなのだろうと思ったりする。
作者は今、広島で原爆の遺品のなかから、心にふれた「物」を選び出して、撮っているという。時に忘れられたわけではないだろうが、資料館に展示されたりしなかった「物」から、どんな記憶が呼び覚まされるのだろう。体の傷からヒロシマの傷へと、遍歴は目的を込めた潮流となっていくかのようだ。(マーズ)
『INNOCENCE』(写真集)写真:石内 都 / 出版社:赤々舎2007
2006年05月15日(月) 『小川は川へ、川は海へ』
2002年05月15日(水) 『ゴースト・パラダイス』
週刊誌や新聞で、『ハゲタカ』ネタを時々みかけます。
先日も地元新聞の記者さんが、「ドラマにもなった小説『ハゲタカ』」
を引き合いに出して、ゴルフ場についてのコラムを書いていました。外
資の功罪が問われる中で、ゴルフ場に関しては外資に買ってもらって自
分達にとってはすごく良くなった、当地のゴルフ場もよろしく、という
ような主旨でした。外資がバブルのお荷物のゴルフ場を山のように買っ
て上手に再生させるテクニック、原作の中では小ネタで登場しますが、
なるほど人に話したくなります。
全六話のTVドラマが終わった後、もう少し金融破綻前後の話が知
りたかったなあ、と思って原作を読む事にしました。
しかし原作とドラマでは登場人物の設定と、ストーリー展開がかなり異
なります。ドラマの、元けなげな銀行員でストイックな印象の、大森南
朋さん演じる鷲津さんがあまりにはまっていたので、原作の、元ジャズ
ピアニストで見かけによらずワイルドな鷲津さんには違和感があるか
も、と思って読み始めたのですが、思いがけないところに関心してしま
うはめになりました。
小説やコミックスを原作として映像化する際、出来るだけ原作に「忠実
に」作るというやり方がありますね。
程度はいろいろですが、なるべく原作のイメージを崩さずに映像を作
り、セリフやストーリーもそのまま再現する。
一方で、原作を土台にして、そのうえで映像化の際に作り手の創造性を
発揮させるやり方があります。
どちらのやり方でも、作り手の力量が足りなかったがために、原作と全
く別ものになってしまう、というのも多々ある事ですが。
『ハゲタカ』TVドラマスタッフのアプローチはかなり意外な形でした。
自動的に話が進展するTVドラマと違って、小説は読者が主体になって読んでくれないと話が進まないので、通常、小説は登場人物の視点で語られます。小説『ハゲタカ』もごく一般的な主人公(複数)視点で、彼らが何を感じて、どういった過程を経て、何をするか、という事が述べられます。原作の鷲津さん視点で言えば、仕事に容赦はないけれど、仲間と雑談したり、食事をしたり、と割合普通の生活をしている場面が多く出て来るので、読者は親近感を持って読み進む訳ですね。
これを、ドラマ版では、全キャラクターの内輪の話とプライベートの部
分を完全カット。特に鷲津さんの場合、原作の「俺」モードを全て無くし、ドラマでは全編「私」のお仕事モード。同じ行動をとったとしても、本人の視点ではなく第三者の視点になるので、印象が全く異なります。
その結果どうなったか、といいますと。
「相手は一体何をする気だ!」と身構える、現実のビジネスの現場に近
い臨場感が生まれました。確かに、現実の世界では、人は目の前にいる人が本当は何を考えているかさっきまで何をしていたのか、などという事を知らないまま外面だけを見せ合いながら対峙している。
何を思っているのか、という内面を現わすのに、言葉に頼らず俳優の演技と演出で見せられるのは、映像作品の特権です。
それにしても不思議な事に、ドラマと小説では設定もストーリーも違うのだから、登場人物達も全然違う人物になりそうなものなのに、全てのキャラクターが、脇役のアランや中延さんに至るまで、本質的には「同じ人」の感じがするのです。ドラマでは存在感の割に出番の少なかった飯島常務なんて、小説ではまさに演じる中尾彬ぴったりの奥座敷のヌシ。なるほど、ドラマでは使わない部分も含めた原作イメージから、全員キャスティングされたんですね。
細部は徹底的に原作にこだわりつつ、小説とは見せ方を変えつつ、しか
もストーリーは日本の再生をイメージしたドラマオリジナル。
公共放送TVドラマスタッフ、良い仕事をしています。
そんな訳で、通常は映像を見てそのイメージに塗りつぶされる前に原作 を先に読んで世界を作っておく派の私ですが、『ハゲタカ』に関してはドラマを先に見てインパクトを受け、著者の膨大な取材の成果である情報量の多い小説を後でゆっくり読む方をおすすめします。小説を読むと一文字違いでモデルが歴然としている金融機関や企業の動向がよく理解できるようになりますし、なんで飯島さんはいつも料亭で仕事しているんだ、とか、鷲津さんだけ毎回無地の白いシャツなのはなぜか、といったドラマの裏設定としても楽しめます。
ただ、エンターテイメントの宿命として、小説もドラマも最後にどんでん返しをもってこないといけない、というのが逆に惜しいように思えます。日に日に変化する社会情勢の中で毎回手がける案件は違ってくるのですから、次々と業務をこなすだけで充分興味深い物語になるのに。
と、思ったら、やっぱり小説の最後は「完」ではなくて「to be continued」。
(ナルシア)
NHK土曜ドラマ『ハゲタカ』 出演:大森南朋
柴田恭兵 松田龍平 栗山千明/六月にBShiで再放送、七月にDVD発売
『ハゲタカ』上・下 『ハゲタカII』上・下(『バイアウト』改
題)著者:真山仁 / 出版社:講談社文庫
2003年05月01日(木) 『アルド・わたしだけのひみつのともだち』
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管理者:お天気猫や
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