HOME*お天気猫や > 夢の図書館本館 > 夢の図書館新館
児童書の古典として親しまれている『ムギと王さま』や 『リンゴ畑のマーティン・ピピン』など、 黄金時代の香りゆたかな作品を送りだした作家、 E・ファージョンの自伝。 両親の子ども時代、出会い、そして ファージョン家の子どもたちが巣立つまでを 描いた大作である。
エリナー・ファージョンは1881年2月13日、ロンドン生まれ。 1965年没。1956年には、自選作品集『ムギと王さま』が カーネギー賞と第一回国際アンデルセン賞を受賞。 作家であり、詩人で、劇作家、音楽家でもあり、 すぐれたストーリーテリングの才能にも恵まれていた。 アンデルセンの精神を最も受け継ぐ作家といわれる。
父親のベン・ファージョンは、少年のころイギリスを出て オーストラリアの金鉱へ渡り、現地で新聞を発行したり しながら地位を築いた。金そのもので財をなしたわけではないが、 やはりゴールドラッシュの申し子であったといえる。 ベン少年は作家になるという夢を持ち続け、 作品を送ったディケンズからの丁重な断りの返事に有頂天となり、 すべてを投げ捨ててイギリスへ帰り、ついに流行作家になった 情熱的で行動的な人物。
日本人にとってはなじみがないが、ヴィクトリア朝後期の ロンドンにおいて、有名人だったことは確かである。 倹約とは両極の位置にある浪費家でもあり、次第に 家計は厳しくなってゆく。 また、父方の先祖に、東方のユダヤ人につながる神秘的な 流れがあったことを、ファージョン一家は誇りにしていた。 1903年、ファージョンが22歳のときにベンが病死したのち、 一家は家賃が払えず、何度目かの引っ越しをし、 エリナー以外の子どもたちは独立してゆく。
一方、母親のマーガレットは、アメリカ生まれ(先祖はイギリス人)で、 華やかな俳優の家系の出である。 本人は女優ではなかったが、幼いころから舞台になじみ、 家には俳優たちが出入りしていた。 リップ・ヴァン・ウィンクルを演じた国民的俳優として有名な ジョゼフ・ジェファーソンは、マーガレットの父だそうだが、 こちらも、今の日本ではほとんど知られていない。
このマーガレットの父は、オーストラリアに興業に行き、 一度、若き日のベン・ファージョンと出会っている。 やがてロンドンのベンのもとを、海を渡ってマーガレットと家族がたずねる。 15歳年上のベンを、作家としてすでに尊敬していたマーガレットは、 もっとずっと年輩の男性だと思っていたという。 ともかく、二人はついに出会い、結婚し、ファージョン家ができあがる。
最初はアメリカで暮らすつもりだったが、長男ハリーが生まれたあと、 一家はベンの故郷イギリスへ戻る。 エリナー以降の子どもたちは、ロンドン生まれである。 マーガレットはアメリカを恋しがり、故郷からの訪問者があると、 「アメリカの虹」がかかるといって喜んだ。
病身だったマーガレットは夫より30年長生きして、 晩年は苦痛と闘いながら、エリナーに看取られて亡くなる。
ベンは流行作家であったとはいえ、社交的な一家にとって、 家系は余裕のあるものではなかった。 にもかかわらず、家のなかは本であふれかえり、 ハリー、ネリー(エリナーの愛称)、ジョー、バーティの 4人の子どもたちは、幼い頃から本や芝居、音楽を 浴びるごとく飲み干して大きくなった。 本書の原題である『19世紀の子ども部屋』は、 彼ら4人が過ごした、子どもたちだけの王国を指している。
ハリーと2歳違いのネリーは正規の学校教育を受けず、 家庭教師に読み書きを習った。 二人とも強度の近視だったが、わかったのはだいぶあとに なってからだったという。 弟二人は、数年間学校に通っている。また、長男ハリーも、 才能を見いだされて、やがて音楽学校へ進む。 最後まで、学校と縁がなかったのはネリーだけである。
彼らの子ども部屋を率いていたのは長男のハリーで、 おもにハリーとネリーが一緒に遊んだ「TAR」(タア)という ごっこ遊びは、5歳から20年も続いたという。 ハリーが登場人物と役を振り当て、子どもたちはその役柄に なりきって時を過ごす。 ハリーが、「ハリーとネリーとジョンとバーティーにもどろうよ」 とかけ声をかけるまで、それは恍惚として続くのだ。
ファージョンはその影響から抜けるのに40歳ぐらいまでかかった、 と述懐している。 TARとは、最初のごっこ遊びのもととなった『ザ・ベイブ』という お芝居の主人公、テッシー・アンド・ラルフの頭文字で、 秘密にしておくための暗号だった。
(その2へ続く) (マーズ)
『ファージョン自伝』著者:エリナ・ファージョン / 監訳:中野節子、訳:広岡弓子・原山美樹子 / 出版社:西村書店2000
傷ついた美しい銀色のシギを隠し味に、 王様や乳母、粉ひきのおかみさん、 そしてあの悪魔が繰り広げるのは、 楽しくもハラハラさせられるコメディ、 二人の姉妹、ポルとドルの物語。
ドルは、金髪に青い目、美しい怠け者。 ポルは、黒髪(たぶん)で、いつまでも知りたがりやの 賢くて勇気のある、男の子みたいな女の子。
ファージョンのなかで、この対照的なふたりは、 ふたりでひとりの女でもあるのだろう。 これはオリジナルではなく、もとのお話は、 『イギリスとアイルランドの昔話』(福音館)にも収録されている 昔話の再話『トム・ティット・トット』。 この愉快な物語には、本来、娘はひとりしか出てこない。 たったひとりの貧しい娘のロマンスと危機脱出を、 ファージョンは、 ピンクとブルーほども違うふたりの娘、ポルとドルに 分け与えたのだった。 ドルは女王に、ポルは女王の妹になる。 後半のポルの活躍には胸がすくが、 母になったドルの姿にも、やはり惹かれる。
そして、原作には出てこない銀のシギと、 不思議な男チャーリー。 脇役でありながら、重要な意味をもたらす登場人物たちが いっそうの奥行きを与えている。
この長編は劇の脚本として書かれたもので、 初演は1948年だという。 ロンドンのどこかの、あの19世紀の香り漂う劇場の空気。 ほんの幼い頃から劇場漬けだった女の子ネリー(エリナーの幼名)は、 作家としては遅咲きだったが、詩人・劇作家としても 活躍していたのだ。 コメディ!なんと多くのコメディを、ファージョン家の 4人の子どもたちは体験するように見てきたことだろう。
困り果てたとき、もしも醜い糸つむぎ小鬼がやってきて、 取引を申し出たら、あなたはどうするだろうか? やっぱり、ドルのように、うかうかと乗ってしまって 1年後に後悔するだろうか。 あなたに、助けてくれるポルがいるのなら別だが。 おなかがすいたとしても、 意味をとりちがえたにしても、 家族のご飯を全部食べてしまっては、やっぱり危ない。 かんしゃく持ちの夫も、やっぱり危ない。 (マーズ)
『銀のシギ』著者:エリナー・ファージョン / 訳:石井桃子 / 出版社:岩波書店1975
忘れ川、とはいったいどんな川なのか。 タイトルを目にしたとたん、本の中の渦に引きこまれてゆく。 「なげきの村」と「願いの町」の間に流れているという、その川。 川の流れは、見る間にひざまで寄せてくる。
貧しいガラス職人のアルベルトと妻ソフィア、 そしてクララとクラースの、まだ幼い姉弟。 仕事に打ち込むアルベルトと、憂鬱に沈むソフィア。 どこにでもいるような若い一家を、あるとき、 不幸がおそう。
クララとクラースが、占い女フラクサの予言通り、 行方知れずになってしまったのだ。 ふたりは、忘れ川をわたって、さらわれた。
さらったのは、子どものいない町の領主。 子どもとしてかわいがるためではなく、 美しい妻に「ありがとう」と言わせるために。 このねじれた関係の金持ち夫婦と、 貧しいアルベルトとソフィアが、ともに 夫婦間の問題に悩み、幸せを求める姿は作中にモチーフとして 登場する「鏡」を通した像のようでもある。
子どもたちの救出には、魔女のような超自然的女性、 フラクサが大きな役割を果たす。 人の言葉を話す大ガラスのクローケと暮らしている、 無口でつかみどころのないフラクサ。
彼女と子守女の対決は、善悪のものさしだけでは測れない 運命的な予感に満ちた戦いである。 フラクサこそ、この物語の芯なのだ。 彼女の望みは、静かに機を織ることだけだというのに。
「ミヤマクワガタの花のような青い目」と、 何度も描かれているフラクサのまなざしを 受けとめられる人は、人生に満足していられる人なのだろう。
忘れること、それは私たち人間の本能なのか。 大事なことほど、大きく忘れてしまうのは、無意識の作用か。 あんなに大事なヒントに、なぜ気付かなかったのか、 そんなことが、私たちの生活のあちこちにも、 散らばっていることを思えば。
グリーペの作品を読むのは初めてだが、 北欧の神話や伝説にからめた現代の家庭問題をほうふつと させる物語が、胸深くを刺す。 ネガティブな主旋律にからんでゆく 木漏れ日のような光が、私たちとともにある深い流れを 想わせる。 (マーズ)
『忘れ川をこえた子どもたち』著者:マリア・グリーペ / 訳:大久保貞子 / 出版社:冨山房1979
2003年08月19日(火) 『タイタス・グローン』〜ゴーメンガースト三部作(その1)
2002年08月19日(月) 『イングランド─ティーハウスをめぐる旅』
それから近道を探そうとしないこと。 価値のある良いことはみんな、時間も手間も かかるものです。(引用)
銀色の髪の、ほっそりしたターシャ・テューダーが、 彼女の大好きな庭から語りかけてくる。 長いスカートに、エプロン。手には花を持って。 迷いながら、あせりながら、 自分を信じることに疲れた私たちに。
同性の先輩からの励ましは、 お茶のぬくもりのように、 身にしみて安心するメッセージである。
わたしは、売るために絵を描いているの。 生活のため、食べていくため、 そしてもっと球根を買うためにね。(引用)
私もこうして続けていれば、ターシャのようにとは いかないまでも、どこかでふっと生活が楽になるかな、 などと思ったり。ターシャの言ではないけれど、 生活を支えてもらえる夫がいたら、 書いていなかったような気がする。 努力することが苦手だし、期日が来ないと何もしない。 もっとも、ターシャはいずれにしても 描いていただろうし、画家になっただろうけれど。
この本は、去年から書店で見かけるたび 手に取っていて、今日ついに衝動買い。 2001年にバーモント州のコギー・コテージにターシャを 訪ねた著者(訳者)による、日本のファンのために 生まれた美しい本。 姉妹編として『楽しみは創り出せるものよ』がある。
解説を読んでいて知ったのだが、 ターシャの才能あふれる両親は彼女が幼いころ離婚していて、 ターシャ自身も離婚していたのだった。 両親の離婚後、父の友人夫妻に育てられたターシャは、 そこで愛情と教育を受け取り花開くのだが、 それでも、すばらしかった当時に帰りたいのではなく、 歳を重ねることを楽しんでいるのだという。
親が子どもにしてやれることで、 とくに大切なのは、 子ども時代に楽しい思い出をたくさん 作ってやることです。(引用)
これを姪のために実践している友人を思い出す。
ここに引用された文章は、かつてターシャが どこかに書いたり話したりしたことば。 そして、この本が出るにあたって、本人の目を通して 確認も得ているというのが、とてもきちんとしている。 ターシャのたたずまいのように、ほっとする事実だ。
あんまりがんばらなくてもいいような気もするし、 やりたいことをやるためにはがんばることができる 気もする。まだまだ。 (マーズ)
『思うとおりに歩めばいいのよ』著者:ターシャ・テューダー / 写真:リチャード・W・ブラウン / 訳:食野雅子 / 出版社:メディアファクトリー2002
子どもと子どもの本が大好きだった、 児童図書館員第一号、英国在住(この本が訳された当時)の アイリーン・コルウェル女史によるファージョン論。
彼女とファージョンの交友関係は、 お互いに真摯な友情を基本にしており、 見も知らぬ著者を評論するのとはトーンが異なる。 『ムギと王さま』『リンゴ畑のマーティン・ピピン』 『銀のシギ』といった代表作をはじめ、 初期の作品『ロンドンの町のわらべうた』や詩集・戯曲なども あますところなくとりあげて批評しながら、 そこには、いきいきとしてひらめきに満ちた世界が広がる。 深い理解に裏打ちされた考察は、私たち読者の前に ファージョンが生身の友となってあらわれてくるようだ。
巻末には詳しい年譜があり、英語の出版リストも掲載されている。 ここで、ファージョンが1881年2月13日生まれの水瓶座だったことを あらためて知った。 なる、ほど(あれやこれや思いあぐねる)。
本書が25年前(翻訳出版の)に英国で出版された当時、 ファージョンのことを書いた本は他になく、 ファージョン本人も非常に喜んでくれたという。
思い知ったのは、 ファージョンが散文だけでなく、詩才に突き動かされた 人生を送った人であったこと。
いついかなるときでも、 生まれてから死ぬまでのどんな瞬間にでも、 ことばのひらめきが、韻を踏み踏み、意識の表に 立ち現れる人生、とでも言おうか。
しかも、劇作家でもあり、作曲もこなしていた。
ファージョンの家庭環境は独特である。 本であふれかえった家、文化度の高い両親のもと、 正規の学校教育を受けずに育ったファージョンにとって、 「書くこと」は生活の一部分だったという。 それは他の兄弟にとっても同じで、 4人の子どもたちは皆、なにがしか芸術方面で活躍している。
その環境で培われた遊び、「TAR」のことが本書でふれられている。 ファージョンが兄のハリーと二人で秘密ごっこのようにとりつかれ、 25歳になるまでその影響から抜けられなかったという 空想のシミュレーションである。 (TARの意味は、他愛ない暗号めいたもので、二人が当時見た 芝居の登場人物たちの頭文字)
ハリーが立てた筋と登場人物に沿って、 ファージョンとハリーが際限なく続けた「ごっこ遊び」。 現実から離れ、ときには離れすぎ、 ファージョンは、人生でこれほど影響を受けたものは 他にないとまで言っている、というのだ。
けれど、夢のキャラクターを想い、演じることにはまりこんだ 子どもたちは、無駄な時間を過ごしたのではなく、 将来紡ぎ出す作品のための原料を蓄えていた、 と考えたい。
多かれ少なかれ、そうした遊びにうつつを抜かした、 というより、とりわけ子ども時代に、 そういう癖にとりつかれていた子どもの一人として。 (マーズ)
『エリナー・ファージョン−その人と作品−』著者:アイリーン・コルウェル / 訳:むろの会 / 出版社:新読書社1996
2003年08月12日(火) 『パリの子供部屋』
2002年08月12日(月) ☆コールデコットの絵本展
『木馬のぼうけん旅行』でおなじみの、A・ウィリアムズが描く、 もうひとつの、冒険する一匹のお話。
魔女の猫になるべく、魔女猫から生まれたゴブリーノ(男の子)は、 どうも、生まれたときから、魔女猫というのがしっくり来ない。 どうしても、彼が願うのは、安らかな家庭におさまる「台所ねこ」なのだ。 どだい、悪いことをするのが嫌いなので、悪への向上心もない。
だいたい、容姿だってちがう。 黒というより微妙な縞柄だし、足は一本だけ先が白、 瞳はきれいなブルー。魔女の猫はまっくろけのはずなのに。
素質のなさを見限られて置いてけぼりにされたゴブリーノが、 つぎつぎといろんな人たちの世界に飛び込んで、 嫌われたり好かれたり、魔女猫の素性がバレて受け入れられなく なったりしながら、夢のわが家を求めてさまよう。
木馬と同じく、最後にはちゃんとハッピーエンドが待っているが、 小さなこねこが体験する気苦労や失望は大きく、 それでも前向きなゴブリーノと、その可愛らしさに 「それからどうなったの?」とページが進む。
道中には、イギリスの伝統的な夫婦人形喜劇、 パンチとジュディ一座も登場するし、 ゴブリーノは塔の中のお姫様と親しくなったり、 船の上で雄々しく戦ったりもする。
ああ、どこかに猫のいない、猫を探している家は ありませんか?と心配しながら、 ゴブリーノの座るはずの台所を思い描く。 猫のためのちょっとした場所と、ミルクのお皿。 ああ、うちだってもう、二匹の先住猫がいるから。 ゴブリーノの場所をあげる権利は、私にはないのだ。
夕ごはんの時間です。 ねこが、家のまんなかに、ぬくぬくとおさまる時間、 ねこのいない家が、さびしくかんじられる時間です。 でも、家のないねこは、もっと、さびしいおもいをしているのです。 (引用)
さまよう猫に家を、与えたまえ。 (マーズ)
『魔女のこねこゴブリーノ』著者:アーシュラ・ウィリアムズ / 訳:中川千尋 / 絵:平出衛 / 出版社:福音館書店2004
私たち日本人の一般的な常識と井形さんの見たイギリスの常識は こんなにも違う。 目から鱗、とまではいかなくても、なるほどとときおり頷く。
最近、私自身がよく思うのは、年を経ることの豊かさ。 私にとっても、老いは衰えであり、どうしても悲しいイメージを払拭できない。 頭の中では、若さにこだわることの愚かさがわかってきているのだが、 なかなか、自分のこととして、老いの豊かさを見いだすことができない。 最近、故白州正子さんのエッセイを読んだ。 白州さんの本からは、老いることの豊かさが自然に伝わってくる。 年を経ることで、やっと得ることのできる人としての実りを はっきりと感じることができる。 他人事としてなら、わかっているのに、 日々の私は、少しでも若く見られたいと思っている愚か者である。
仕事に追われ、年齢という障壁を日々感じる毎日を送っていると、 井形さんが本の中で紹介しているイギリスの人々の仕事へのスタンス、 年齢にとらわれない人間関係がもたらすものの豊かさに、 憧れを感じる。 家や土地に縛られず、ましてや仕事に縛られることもなく、 リタイアの時期を自分で決め、 自分の住みたい場所で、リタイア後のまた新たな人生を始めるイギリス人。 その自由を享受できる社会の仕組み、国のあり方をしみじみうらやましく思う。
井形さんの本に描かれたイギリスはパーフェクトであり、 文章もとても明快で、とてもおもしろい。 おもしろいのだけれど、しかし、イギリスはそこまで成熟した 完璧な国なのだろうかと、疑問が残る。
私にとってもイギリスは憧れの国で、たとえばそこに暮らすことができれば、今までの悩みも解決して、のびのびと晴れやかに生きていけるのではという、幻想がある。 でも、もちろんそれは、幻想に過ぎず、実際に根を下ろして暮らし始めれば、しあわせを感じることもたくさんあるだろうけれど、 そこには現実の厳しさが待っていることもわかっている。
井形さんの本を読みながら、イギリスの豊かさに触れ、 人生へのいろいろな示唆を与えられつつも、 なんだか、井形さんの憧れのサイズで切り抜かれたイギリスが、 まるでイギリスの全貌のように語られているところに違和感を感じてしまった。
ルポではなくエッセイだから、軽く読み流すべきで、 とりあげられたイギリス人のライフスタイルやものの考え方などの 真偽を気にかけるのは野暮かもしれない。 最初から最後まで、イギリスの典型として紹介される事例や 井形さんの考えを裏付けるのが、 井形さんの身近の誰かや、たまたま井形さんが知り合った誰かであり、 あるいは匿名化された市井の人々の話したことであったりと、 いつも誰か一人の話を引用することで片づけられているところを シンプルでわかりやすいととるのか、 あまりにも強引なことだと受け止めるのか、 そこで、この本への評価が分かれるのかもしれない。 誰か一人のつぶやきを、まるでイギリス全体のオピニオンのように扱う 引用の仕方は、違和感だけでなく、大げさかもしれないが危険を感じる。 そう、木だけを見て、森全体を判断するような危険。
おもしろい本であっただけに、もう少し、客観性があれば バランスもよかったのではないだろうか。 イギリスの現実を踏まえた上でも、イギリスの豊かさ、 生活大国ぶりは語れたのではないだろうか。 共感できるところも多かっただけに、この違和感は大きく、 珍しく、読後に残念な気持ちが残ってしまった。 (シィアル)
『仕事と年齢にとらわれないイギリスの豊かな常識』著者:井形慶子 / 出版社:大和書房2002
2002年08月09日(金) 『クリストファーの魔法の旅』
2001年08月09日(木) 『影との戦い─ゲド戦記(1)』
>> 前の本 | 蔵書一覧 (TOP Page) | 次の本 <<
管理者:お天気猫や
夢図書[ブックトーク] メルマガ[Tea Rose Cafe] 季節[ハロウィーン] [クリスマス]