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JIROの独断的日記
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2012年01月05日(木) 「松平康隆氏死去=男子バレー金メダル監督―81歳」「ミュンヘンへの道」に皆、感激したのです。

◆記事:松平康隆氏死去=男子バレー金メダル監督―81歳(時事通信 1月5日(木)12時42分配信)

1972年ミュンヘン五輪バレーボール男子で日本の監督として金メダルを獲得し、日本バレーボール協会会長、

国際バレーボール連盟副会長としても多大な功績を残した松平康隆(まつだいら・やすたか)氏が

昨年12月31日午後0時21分に肺気腫のため東京都の病院で死去した。81歳だった。

東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。

慶応大、日本鋼管で9人制のバックセンターとして活躍。日本鋼管では選手兼任監督も務めた。

61年、ソ連へバレー留学。帰国して指導者の道を歩んだ。

64年東京五輪で日本男子のコーチとして銅メダルを獲得し、その後監督に就任。

「世界制覇8年計画」を公言し、ミュンヘン五輪金メダルを目指した。

68年メキシコ五輪で銀。目標のミュンヘンではエース大古誠司、セッター猫田勝敏をはじめ

森田淳悟、横田忠義、嶋岡健治らを擁して公約を果たした。

ユニークな練習方法や時間差攻撃、1人時間差など画期的な戦法を編み出し、

バレーの戦法に大革命をもたらした。

団体スポーツでは、日本男子の五輪金メダルはほかに84年の野球(公開競技)しかない。

「人気が実力を高める」を信念とし、男子バレーのブームを巻き起こすことにも腐心。

厳格なアマチュアリズムが存在した70年代にあっては批判を浴び、第一線から離れた時期もあったが、

復帰後は日本協会の専務理事、会長として手腕を発揮した。

国内ではテレビを巻き込んでブームを演出

。国際舞台では日本が世界各国へのバレー普及に貢献した実績とジャパンマネーを背景に

発言力を強め、ワールドカップ日本恒久開催などに尽力した。

FIVB副会長、アジア・バレー連盟会長、日本オリンピック委員会の要職も歴任した。

2001年から日本協会名誉会長。著書に「負けてたまるか」など。


◆コメント:「松平監督」ミュンヘンの感動をありがとうございました。

日本のバレーボールで最初に脚光を浴びたのは、女子である。

日本で初めて開催された、1964年の東京オリンピックで優勝した

前日本女子バレーボールチームは、畏敬の念を込め、

「東洋の魔女」と呼ばれた。


この騒ぎがあまりにも大きかったので、目立たなくなってしまったが、

同じ東京オリンピックで、日本の男子バレーボールは銅メダルを獲得している。

東京オリンピック当時、コーチだった、松平康隆氏がその後監督に就任し、

「8年後のミュンヘンで金メダルを獲る」と宣言し、正にその通りになった。


有言実行の見本である。


話が逸れるが当時の日本人の指導者には優れた人が多かったのだろうか。

池田内閣の池田首相は自ら「経済は池田にお任せ下さい」といい、

「所得倍増政策」というとてつもない、公約を掲げて実現している。


さて、男子バレーボールは東京の4年後のメキシコ五輪では銀。

4年後、遂に金メダルを狙う正念場が訪れた。


◆準決勝、ブルガリア戦での大逆転。

私の世代以上の日本人のかなりの多くは、決勝戦もさることながら、

セットカウント0-2から奇跡の逆転勝利を実現した、準決勝のブルガリア戦を、

鮮明に記憶している人が多いであろう。


ブルガリアが2つのセットを連取した段階で、

多くの日本人は「もう、ダメだ」と思ってしまった。私もである。

しかし、松平監督と選手は、冷静さを失わなかった。


第3セットも、ブルガリアがリードして始まったのである。

漸く、日本が同点に追いつくかというところで、ブルガリアのアタックが、

ラインオーバーでアウト、の筈だった。主審の判定も「アウト」であった。

ところが、その時にブロックに跳んだ、東京→メキシコ→ミュンヘン全てに出場した

ベテラン、南将之(みなみ まさゆき)選手は、

「自分が(ブロックの際に)ワンタッチした」

と、申告した。


スポーツ大会の宣誓は
「スポーツマンシップに則り(のっとり)正々堂々と・・・」

だが、嘘っぱちだ。野球で実は一回、地面に触れた打球を、野手が

巧みな「演技」でダイレクト・キャッチに見せかけるのは、日常的風景だ。

だから私は普通は、スポーツマンというのは信用しない。


だが、このミュンヘンオリンピック全日本男子バレーボールチームは立派だった。

文字通り「スポーツマンシップに則り、正々堂々と」闘い、準決勝を制して、

ついに金メダルを獲得した。


松平監督の8年計画は見事に大輪の花を咲かせた。

私は、松平監督と、あの時の全ての選手を尊敬している。


余談である。

この頃、オリンピックの冬季大会と夏の大会は同じ年に開催されていた。

男子バレーボールチームが金メダルを獲得する7ヶ月前、札幌オリンピックでは、

笠谷選手率いる「日の丸飛行隊」がジャンプ競技で金・銀・胴メダルを独占した。

1年に2回も、日本中があれほど狂喜乱舞したのは、あの年が最後だった。


それでも松平監督は淡々としておられた。後に紹介するミュンヘンへの道という

TBSの同時進行番組で、監督と各選手のプロフィールを紹介していた。

そこで明らかにされていたので、書いても構わないだろう。

松平康隆監督は、実はご令息(一人息子)を亡くしている。

ご令息は、小学校5年生だった1966年、遠足中に滑落死している。

無論、松平康隆氏は悲嘆に暮れたが、その悲しみを勝利へ執念に昇華させた。

今頃、天国でご令息にミュンヘンの自慢話をなさっているのではないだろうか?。


◆【為参考】「ミュンヘンへの道」主題歌。ミュンヘンの映像。

ミュンヘンオリンピックの前4月20日からミュンヘンオリンピックの最中、終わった後まで放送された、

TBSのアニメドキュメント ミュンヘンへの道を

毎週、夢中で見た人が多いであろう。主題歌がYouTubeにアップされていた。

阿久悠作詞とは知らなかった。


ミュンヘンへの道 〜アニメドキュメント主題歌:ハニー・ナイツ







懐かしい。

あまりの懐かしさとあの準決勝、決勝の感動が渾然一体となって、ウルウルしてしまった。


次は、南選手とご令息。何と親子で全日本バレーの選手になっている。

ブルガリア戦や、決勝のドイツ戦の映像が含まれている。


すばらしき仲間�供〜監�本男子バレーの星たちVol.2







当時、日本人に元気と決して諦めないことの大切さを教えて下さった、松平康隆監督。

それでいながら、全く押しつけがましいところがないお人柄が印象的な、松平監督。

あの誇らしい気持を我々日本人が感じることができたのは、

ひとえに、松平監督のご尽力の賜です。

ありがとうございました。

ご冥福を心よりお祈り申しあげます。

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