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JIROの独断的日記
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2009年09月24日(木) 「情報源としての他人」の「使い方」。

◆何のことかといいますと・・・。

人間は、様々なメディアに目を通し、情報収集の「アンテナ」を張っているつもりでも

自分一人で接することの出来る情報量なんて、たかが知れているわけです。

そこで、軽んじてはいけないのは、情報源としての「他人」です。

人は、それぞれ別の関心を抱いているので、自分が全然見落としていた、しかも貴重な情報を

他人から教えて貰うことがあります。他人を利用するというと、人聞きが悪いけれども、

別に悪意で利用するわけではない。自分が知っている情報で彼が知らない情報もあるのです。

ギブ・アンド・テイクですね。


私は勤め先で、一日中様々な情報を追っています(おかげで視力が低下し、昨年、生まれて初めてメガネを使うハメになりました)。

そして、他の仕事をしていて、情報収集に時間を割くことが出来ない人々に、それらをまとめて、

1日に何度もメールで配信しています。


ときどき、緊急の情報が入ると、臨機応変ですが、「こういうニュースが出ています」と口頭で告げて走り回ることも

あります。

そういうとき、感謝してくれる人が多いですが、必ず、

ああ、それなら、知ってたよ。

という人がいます。本当は知らなかったことが、私にはわかります。

こういう人はバカだなあ、と思います。

彼にとって私は「情報源」です。「情報源」はおだてておけば、また張り切るのです。

そういうときには、大人の対応としては、たとえ既に知っている情報でも、
お、そうか、ありがとう。

というのです。現に私は、他の情報源に対しては必ずそうしています。
ありがとう。

と言われ、怒るバカはいません。


◆「知ってたよ」を繰り返すと、どうなるか。

前段で書いたとおり、どんな号外的情報を教えてあげても、

ああ、それなら、知ってたよ。

という人は、よく言えば(非常に無理に好意的表現を用いるならば)、「プライドが高い」のでしょう。

自分が「知らなかった」と言えない、ということです。はっきり言えば子どもです。

「教養」じゃなくて、時々刻々と変化する情報です。知らないことがあるのが当たり前です。

いつ、何を教えても、
知ってるよ。

を繰り返されると、「情報源」としての私はどういう気持になるか。

人間の心理について、すこし想像すれば、分かることです。

段々「情報源」は、次のように考え始めます。
どうせあの人に伝えても「知ってるよ」と小馬鹿にされる。言わないでおこう。

こちらが意地悪だとは思いません。人の感情の当然の結末ではないでしょうか。

このようにして、彼は肝心なとき、皆が知っている情報を自分だけ知らない、という場面に遭遇します。


今回は「情報源としての他人」の話を書きますが、情報に限りません。

日本人は概して、謝意を表するのが下手です。

イギリスに駐在していて、目が覚めた思いがしたのはこのことです。

彼らが全てにおいて日本人よりも優秀だとは全く思いませんが、

この点に関しては、上手(うわて)です。本当にちょっとしたことでも、
Excellent!

とか、
Brilliant!

とか、
Superb!

などと、我々日本人の感覚では、大袈裟な言葉で感謝してくれます。

先ほど、「『ありがとう』と言われ、怒るバカはいない」とかきましたが、

それをロンドン駐在時代に覚えました。

「情報源としての他人」ばかりではなく、一般論として、

他人と上手く付き合おうと思うのなら、また、上司や部下を上手く「使い」たかったら、

大袈裟なぐらい褒めて、感謝することが、最も簡単で素直な方法です。

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