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| 2007年06月03日(日) |
「訃報 羽田健太郎さん58歳=ピアニスト」←毎コンで三位に入賞するということはものすごいことなのです。 |
◆記事:訃報 羽田健太郎さん58歳=ピアニスト
テレビ番組「題名のない音楽会21」の司会などで知られるピアニストで、
作編曲家の羽田健太郎(はねだ・けんたろう)さんが2日、肝細胞がんのため死去した。58歳。
葬儀は7日午前10時、東京都港区元麻布1の6の21の麻布山善福寺。自宅は非公表。喪主は妻幸子(さちこ)さん。
東京都出身。桐朋学園大でピアノを学び、
70年、毎日新聞社などが主催する第39回音楽コンクール(現・日本音楽コンクール)のピアノ部門で第3位に入賞した。
卒業後、スタジオミュージシャンとして、多くのレコーディングに参加。
作曲家としてはドラマ「渡る世間は鬼ばかり」(TBS)などの音楽も手がけた。
00年から始めた「題名のない音楽会21」(テレビ朝日)の司会では、ユーモアあふれる軽妙なトークが人気を集めた。
今年の4月以降、体調を崩し、入退院を繰り返していたという。
(6月4日17時3分配信 毎日新聞)
◆コメント:故人の名誉の為に書きます。羽田氏は本当に、本気で音楽を勉強した人だと思います。
羽田健太郎氏が一時期、病を得て、テレビに出ていない時期があった。
しばらくして、かなり痩せて復活した。これで、循環器系は少し安心かと思っていたが、
記事に書かれているとおり、ガンだった・・・。
正直に書くならば、私は羽田健太郎氏の演奏を生で聴いたことが無いし、羽田氏のピアノ独奏を収録したCDも聴いたことがない。
NHKなどのテレビ番組での演奏を見て聴いただけである。
だから、厳密なことを云うと、氏のピアニストとしての評価を下すことは出来ない。
ただ、羽田氏の訃報を伝える各マスコミが、「分かっていない」と思ったので、これでは氏が浮かばれまい、と思い、筆を執った。
◆羽田健太郎氏は日本で最も権威のある「毎コン」ピアノ部門3位入賞者である。
私は、強調したい。
羽田氏は、毎コン(日本本学コンクール)、3位入賞者である。
毎コンの歴代入賞者は全部公式サイトに載っている。
入賞者一覧 - 日本音楽コンクールの第39回(1970年)、ピアノ部門とい部分を見て下さい。
これだけで、羽田健太郎氏は、本当はプロのクラシックコンサートピアニスト、即ち、
オーケストラと協奏曲を演奏するソリストを本気で目指し、
心血を注いでピアノの勉強をした人だ、ということがわかる。
それを強調しないと気の毒だ。
毎コンについては、私は過去において、これだけ書いているが、
「毎コンを受ける」ということを最も必死に説明しようと試みた、音コン本選たけなわ
をお読み頂きたい。とにかく、色々コンクールはあるが、毎コンは別格である。
◆羽田氏はクラシック・コンサートプロになりたかったのだ。
羽田健太郎氏に話を戻す。
昨年の毎コンが終わった後、NHKが本選を放送する番組で、出場者の演奏の合間に、
過去の受賞者で、今はそれぞれの(音楽)分野で活躍している人々に、
コンクールを受けた当時の思い出をインタビューするコーナーがあった。
その一人に「ハネケン(羽田健太郎氏の業界での愛称)」がいた。ハネケン氏は、
「あの時、3位になったことで、吹っ切れた」
という表現を用いていた。
私はそれを聞いて「あっ」と思った。
「吹っ切れた」とはクラシックのソリストを諦めた、という意味である。
羽田健太郎氏の本当の夢は、クラシック、コンサート・ピアニストになることだったのだ。
1位ならソリストになれて、2位以下がなれない、ということは無い。
だが、多分、羽田氏にとっては一位でなければ、意味がなかったのだろう。
これ以上出来ないほど、朝から晩まで半年以上もの間、毎日々々、
寝ているときとメシを食っているとき以外は練習、というぐらいの意気込みで受けるのが「毎コン」である。
羽田氏も当然それぐらい練習したのだろう。しかし、3位だった。ご本人は不本意だったのだというのが、
インタビューに答える口ぶりで良く分かった。
だから、それ以降は、スタジオ・ミュージシャンもやる。ポップスのアレンジもやる。「渡鬼」のテーマも作曲する。
と割り切った。そのおかげで経済的には潤った。しかし、それは、氏の本当にやりたいことではなかった。
◆「ハネケンの独り言」に書いてある。サントリーホールでのコンサート。
羽田健太郎氏のウェブサイト(http://www.haneken.com/)に、「ハネケンの独り言」というコーナーがある。
2006年3月8日が、最後の更新となっている。
その前の日記は2006年1月11日付だ。引用させて頂く
2006年1月11日
「ある程度成功した音楽家に将来の夢は?」
と聞くと、2人に1人は必ずオリジナルのオペラかミュージカルを作曲してみたい!!と答える様だが、
長いこと私が胸に抱いていた夢は一晩のコンサートでオーケストラとのピアノ協奏曲と交響曲を弾き振りする事だった。
半分は叶わぬ夢と諦め、いつかチャンスに巡り会えれば…程度に考えていた。
ある時所属事務所より今から1年半後の2005はプロのピアニスト・デビューから数えて35周年になるが
節目の記念コンサートをやってみないか?という話があり、それならば!!と、かねてからの自分の夢が首を持ち上げて来た。
そこで事務所の担当者と演奏会の曲目選び(ピアノ協奏曲と交響曲を弾き振り)に入ったが、
この時点で2005年の何月何日にどのオーケストラで何処のホールでやるか!?等、未定事項の方が多かったのを記憶している。
その時はただもうステージでオーケストラとピアノを前にして、指揮しては弾き、
弾いては振る自分の姿を想像して、あの曲この曲と演目探しに胸ときめかせていたのである。
それから数ヵ月が経過し演奏会は05/10.10 サントリーホール 共演は神奈川フィルと段々具体的な事も決まり、
チラシを作る為に曲目を決定しなくては…
と詳細事項等の段階に入り、何種類もの候補曲の中から自分が今1番やりたい20世紀の名曲に絞り
�仝抗擇琉戮離▲澄璽献�(バーバー)
�▲團▲龍�奏曲ヘ調(ガーシュウィン)
�8魘繕並�5番(ショスタコーヴィチ)
と決まり、秋の本番の為に夏休み充電も済ませ、地方でのソロコンサートなどでも演奏しまくり、
10/10の音楽家生活35周年記念サントリー・ホール・コンサート迄2週間という時に、
私に大変な事が起こったのです! この続きは次回の独り言で…
このとおり、やはり、羽田氏の音楽の根底にはクラシックがあった。それはそうだろう。
子どもの頃から、ずっとピアノの修業をしてきた人だ。
どうもこの頃から肝臓が悪かったようだ。羽田氏は念願のコンサートの二週間前に高熱を発して倒れるのだ。
再び、長くなるが引用する。
2006年3月7日(引用者注:コンサートの翌年、書いた日記)
10月10日にサントリーホールで行う[音楽家生活35周年コンサート]迄あと12日と迫った、
9月29日の朝、39,3゜と突然の高熱を出し、直ぐ係り付けの新宿区にある大学病院で診察の結果、
即入院!となり訳も解らない(高熱と慌ただしさと直前まで迫ったコンサートの事、等)まま病床生活に突入となった。
この突然の高熱の原因は、予てから弱い肝臓系統が悲鳴を上げた為で点滴と安静以外には特効薬はない。
別に差し迫った予定が無ければ、静かな個室で治療を受け回復を待っていれば良いが、私の場合2週間後に大切な本番を控えている。
それも一生に何度も出来ない記念の演奏会だ。
例え本番当日迄病状が改善されなくても今更公演キャンセルなど絶対不可能!
クラシックの殿堂サントリー・ホールを借りて尚、100人近い編成の神奈川フィルハーモニー管弦楽団を押さえてある上、
チケットの売れ行きも好調と聞いている。
そこで主治医の先生に実情を話し何とか数日後に迫った本番を無事終了できる様にお願いします!と頼んだ処、
「出来る限りの努力はしましょう!」と仰って力付けてくれました。
それからは病室で練習を再開するのですが、指揮はCDを聴きながらオーケストラ総譜を見て棒の練習が出来るのだが、
ピアノの練習は絶対不可能×…だって入院中なんだから…半ば諦めていた私に、
ある日「お父さん、今日からこれでピアノの練習出来るよ♪」と長女が家電量販店で買ったという電子ピアノを私の病室に運び込み、
セッティングをしてくれたのだった。その時の驚きと喜びは文章には出来ない。
かくてヘッドフォンを付けて弾くガーシュウィンのピアノ協奏曲ヘ調は病室から見える新宿の高層ビル風景を、
マンハッタンの夜景にすら転調してくれたのだった。
「ようし、この分なら何とか行けそうだ!」
絶望に閉ざされていた心の中に一筋の光が灯ったのはこの一瞬だったと思う。
そしていよいよ10月10日を迎えた。病院からは万が一に備え医師が一人同行、
楽屋で点滴の準備をして待機してくれ、精神的にも大いに支えられた。
コンサートは皆さんご存じの通り大成功!前夜のムーティ=ウィーン・フィルよりも、長く鳴り止まぬ拍手だったそうだ。
そして私はアンコール曲ベルリオーズのローマの謝肉祭序曲を振る為に指揮台に駆け上がった。
その日、朝病院での起床時38,5゜も熱があった事も忘れて…‥
確認のため記すと、日記は2006年に書かれているが、
羽田健太郎氏が、高熱をおして、サントリーホールでコンチェルトを弾き、
オーケストラを指揮したのは、2005年10月10日である。
今日亡くなるまで1年8か月も経過している。
サントリーホールでのコンサートが死期を早めたとは言えないだろう。
だから、それは問題ではない。
私が読者諸氏にお伝えしたかったのは、羽田氏が2005年10月10日のコンサートへ注いだ情熱である。
羽田健太郎氏は、生涯クラシック・ソロ・ピアニストを夢見ていたことが良く分かる。寿命が縮んでも良いから、
弾いて、振りたかった(振る=指揮する)のだろう。
享年58歳はあまりにも若いが、サントリーホールでのコンサートが成功してさぞや嬉しかったであろう。
それが、せめてもの救いである。
ご冥福を祈る。
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